その真夏の日の朝は、軽い身震いと共に目を覚ました。
図書館でテーブルに突っ伏して、固い革表紙の本を枕に眠っていた。夏の暑さを言い訳にした不規則な生活を送る身ながら、あくびではなく、「くしゅんっ」と、くしゃみが飛び出す。肩に掛かっていた薄手のブランケットを纏って、重い瞼を擦る。
石造りの古城の一角、古書の臭いに満ちた図書館には、柔らかな早朝の日が差し込んでいる。太陽は嫌いだし、ジリジリと照り付ける夏のそれには憎悪すら抱いてしまうけれど、今この時ばかりは、なんだか好ましいように思えた。
広々とした吹き抜けの空間に、天窓から一直線に差す光が、宙に舞う埃をキラキラと輝かして、光の階を渡している。書架の隙間の陰からそっと顔を覗かせて様子を窺うと、時間の止まった世界を盗み見ているような感動があった。いや、本当に止まった世界を見せてもらったこともあるけれど、それはそれ。
働き者のメイド長も、流石にまだ休んでいるだろうか。昨晩はお姉様が夜遅くまで起きて、夜半過ぎ頃まで騒がしくしていた。今は、静かなものだ。静謐にして、清浄。まるで、命の絶滅した星みたい。ひょっとしたら、この世界で、とは大袈裟にしても、この館で起きている者は、私だけなのでは、なんて思ってしまう。そして少し、特別なような、得したような、特に理由も無いのだけれど優しくなれたような不思議な気分だった。
図書館は広い、と言うより、巨大だ。一棟が全部図書館で、現実の裏側の閉架書架の方まで含めれば、ほぼ無限と言える広さがあるのではないか、とさえ。そんな図書館の地上部分も、蔵書が増えるに従って次から次へ無計画に書架を乱立した成れの果ての姿なのか、迷路のように入り組んでいる。普通の街の図書館に見られるような、整然と秩序立った空間設計の真逆を行くのだ。書架の並んだ角度が斜めになっている通路を進んで行けば、案の定、先が窄まって行き止まりになっていたり、その逆に、思わぬ所へ開けていたりする。
見晴らしの良い場所でも、その傾向は変わらない。地上一階から、半二階やら何やらの中途半端なスペースがあるので具体的に何階までとは言えないのだけれど、一応は最上階まで、これまた入り組んだ階段が張り巡らされている。なので図書館を利用する者の多くが、吹き抜けの空間を飛んで行き来している。すると、あっちへ行ったりこっちへ来たりしなければ昇ることの出来ない階段の様子を見下ろすことになるのだ。例えば二階へ昇った後、三階に向かう階段は、部屋の反対側にまで回って行かないと見当たらないだとか、建物として利便性の欠片も無い。
ただ、今朝の私は気まぐれに、その使い辛い階段をゆっくりと昇っていく。手すりの上に指先を滑らせながら、吹き抜けに目をやると、寝ぼけ眼でのみ見ることが許されたと思っていた天使の梯子は、今もまだキラキラと輝いていた。私は捻くれ者だから、無意識にあちらの階段を嫌がったのだろう。
探すともなしに寒い空気の出処を探していたら、意外と簡単に見付けた。吐き出した息が、白く染まる。
その場所の窓辺だけ様子が違う。東に面した分厚く古いガラスの窓一面が、目を見張る程の白に覆われていた。真夏なのに、雪国の冬のように、窓に霜が降っているのだ。
頭の中まで白くなったように、その白い窓に目を奪われた。
雪の結晶に似て幾何学的なような、それでいて、繁茂した植物を思わせるような。ギザギザの葉のシダ植物が這ったような紋様と、密集して咲いた小振りの花のような。この不思議を、どう言い表せば良いのだろう。冷たい空から降り注いだ氷の花が、そのままガラスに張り付いた、そんなお伽話を空想するよりも、もっと率直に、本当に窓ガラスに根を張って、無機質なはずの『氷』という植物が命を持って成長し、花を咲かせたと見て取った方が、自然な受け取り方かも知れない。
手を伸ばすと、冷たい。氷なのだから当たり前だ。もちろん摘み取ることもできない。見た目こそ美しいが、これが雪国では厄介者だそうだ。
冬の朝に窓が結露して、更に寒い時には霜となって凍る仕組みを、気温の変化のため、と説明することはできるだろう。でも、そこにどんな神秘が介在すれば、この絵が生まれると言うのだろう。私には、妖精のイタズラとしか思えなかった。
そんな神秘を眺めながら、私は全く別のことを考える。
昨晩もまた紅魔館ではパーティーだか宴会だかがあった。手持ち花火を振り回して、少女達の歓声は私の耳にも届いていた。
みんなで遊ぶとか、私は、そういうものに興味が無いのに。お姉様は、実は私も羨ましがっているだとか、つまらない勘違いをしている。だから昨晩も誘われた。無視をして図書館に閉じ籠った。更にしつこく誘われた。たまに渋々付き合うせいで、お姉様は味を覚えてしまった。怒鳴り返したら、ようやく諦めてもらえた。
お姉様には私が理解できないようだけれど、私には、お姉様の頭が“おめでたさ”の方が理解できない。
と言っても、嫌っているわけではない。
とは言え、嫌っていると思われているだろうな、とは思う。
「──放っておいて」
その言葉の意味が、私と違って真っ直ぐで真っ当なお姉様には伝わっていない。
自分の性格の歪みくらい分かっている。ただ、そんな自分のことが嫌いかと言えば、もちろん嫌いに決まっているけれど、自分のことが嫌いな自分は、決して大嫌いなわけではないのだ。自嘲と自傷を繰り返す痛みさえ、慣れ切ってしまえば自分自身と同じ意味。この歪んだ傷跡の形はそのまま私自身なのだから、変わりたいなんて思えない。傷を治したら自分が自分でなくなるという妄想を抱えている。
明るく元気に可愛らしく? それが、この私ですって?
もしもお姉様が、私に分かり易い溌溂さを求めているのだとしたら、それは今の私を殺して否定するということに他ならない。凍死体のような心を温めて生き返らせようとしている、それは間違いなく献身的な愛情だ。私の心は凍っている。温められて溶かされて、何か別のものに変えられようとしている。
もちろん、そうでないことくらい分かっている。おためごかしを差し引いても、お姉様は私を愛しているだろう。私もお姉様を愛している。だから苦しい。自分で自分のことが嫌いではないと、その戯言も嘘になる。愛情に対して捻くれた答えしか返せない私なんて、大嫌いに決まっている。
だから、お姉様は何も分かってないと言うのだ。わざわざ手を差し伸べてもらうことで生まれる気持ちは、振り払ったせいで相手を傷付けてしまったことへの自己嫌悪だけだ。昨晩だって、完全なる好意からの気持ちを、私は苛立ちに任せて踏み躙ったのだ。
胸の中心に指を突き立てたことがある。脈拍も無く心音が聴こえないのは知っていたが、本当に心臓が動いていないのだなと他人事のように感心した。真っ赤に染まったベッドのシーツに、お姉様は、自分の胸にナイフでも突き刺さったみたいに泣きそうな顔をした。死ぬほど後悔した。その表情をさせたくてやったことではないのに。
哀れな程うろたえる家族を前に、私は、私という奴は、静かに醒めた目をしていた。そんな自分が嫌になる。
つまる所、最初から独りにしてくれれば、私は自分のことを嫌わずにいられる。
放っておいて欲しい。この言葉の真意の大部分は、そんな理由。
……と、筋道立てて説明してやれば分かるのだろうか。
私はその考えを鼻で笑った。無理に決まっている。その程度で事が済むならとうの昔に和解しているし、いざその時に冷静に話せる自信も無い。会話なんてしたところで、伝えられる気持ちはいつだって一割未満。言葉って不都合だ。後になってから、また自己嫌悪の嵐になる。本当に放って置かれたところで壊れるくせに、だったら、具体的にどうして欲しいのかも分からないくせに。今の私なんか死んでしまって、愛される資格のある子に生まれ変われば良いのだと知っているくせに。自分の心から聴こえる自分を責める声には終わりが無い。
「…………痛っ」
陽の光が目に染みた。長時間、光を見つめ過ぎたせいだ。早朝、目が覚めたのが四時か五時くらいなら、何時間呆けていたのだろう。日はそれなりに高く昇っていた。そろそろいい加減に寝苦しくなって、お寝坊さんも起きてくる頃合いだ。
霜の花は溶けて消えた。
しとどに流れ落ちる水を涙のようだと思うのは、感傷が過ぎる。
私が素直に泣かないから、代わりに窓が泣いている。なんて、感傷が過ぎるどころの話ではない。そんな発想が浮かぶ頭が恥ずかしい。そもそも、少なくとも昨晩も今朝も、泣きたいほど派手な自己嫌悪には陥っていない。
何故だかいたく感動していたような気もするけれど、もう、氷の魔法は解けたのだ。
大方、館の前の湖に棲む氷の妖精がしばらくその近くにいただとか、そんなオチだから。昨晩のパーティーに紛れていたのだろう。妖精のイタズラとしか思えない神秘は、その実、その通りのことであったらしい。
◇
妖精の姿を探して館の外周を歩いていると、美鈴が朝顔の花に水をやっていた。忍び足のつもりだったのに気配で気付かれたのか、太平楽な顔がこちらを振り向いた。
「何か良いことでもあったんですか?」
一言目に、それだ。
「……美鈴さぁ。どこをどうしたら、そう見えるかな」
言っておくが、私は軽い炎症を起こした赤い目を擦っている。泣いていたと誤解されてもおかしくない有様だ。
美鈴はいかにも朴念仁でございます、みたいな表情で首を傾げて、
「だって、笑ってますよ?」
などと言い放ってくれやがる。
「何か良いことでもあったんですか?」
「別に」
再びの問い掛けにも、にべもなく返した。
「氷のお隣さんは、まだその辺にいる?」
「さあ、慌ただしい子達ですからね」
「あ、そう。いないなら、別に良いの。でも今度会ったら、良い物を見させてもらったわ、とだけ言伝てをお願い」
「それだけでは、何のことか分からないのでは?」
「分からなくて良い。大したことじゃないもの。それに、ただの自然現象よ。何の意図も無いわ」
「はぁ……もう少しくらい、分かるように言った方が良いと思いますけど。いつも、唐突なんですから」
「それには及ばないわ。大したことじゃないと、何度言わせるの」
「ご自分で伝えてみては、いかがです?」
その提案には完全に無視を決め込む。美鈴は不承不承といった様子ながら、頷いてくれた。となれば、もう用は無い。読書の続きに戻ろうとする私に、美鈴は三度、繰り返す。
「それで、何か良いことでもあったんですか?」
瞼の上から目を押さえると、窓辺に咲いた霜の花畑を鮮明に思い出した。胸の痛みを紛らわせてくれた氷は、この夏の間くらい、忘れることは無いだろう。別に、涙の雫が目に刺さった鏡の欠片を洗い流した、アンデルセンの童話のような話ではないけれど。
少し迷ってから、振り返らずに答える。何か良いことあったのか、ね。
「あったのよ。たまには、早起きもしてみるものね」
図書館でテーブルに突っ伏して、固い革表紙の本を枕に眠っていた。夏の暑さを言い訳にした不規則な生活を送る身ながら、あくびではなく、「くしゅんっ」と、くしゃみが飛び出す。肩に掛かっていた薄手のブランケットを纏って、重い瞼を擦る。
石造りの古城の一角、古書の臭いに満ちた図書館には、柔らかな早朝の日が差し込んでいる。太陽は嫌いだし、ジリジリと照り付ける夏のそれには憎悪すら抱いてしまうけれど、今この時ばかりは、なんだか好ましいように思えた。
広々とした吹き抜けの空間に、天窓から一直線に差す光が、宙に舞う埃をキラキラと輝かして、光の階を渡している。書架の隙間の陰からそっと顔を覗かせて様子を窺うと、時間の止まった世界を盗み見ているような感動があった。いや、本当に止まった世界を見せてもらったこともあるけれど、それはそれ。
働き者のメイド長も、流石にまだ休んでいるだろうか。昨晩はお姉様が夜遅くまで起きて、夜半過ぎ頃まで騒がしくしていた。今は、静かなものだ。静謐にして、清浄。まるで、命の絶滅した星みたい。ひょっとしたら、この世界で、とは大袈裟にしても、この館で起きている者は、私だけなのでは、なんて思ってしまう。そして少し、特別なような、得したような、特に理由も無いのだけれど優しくなれたような不思議な気分だった。
図書館は広い、と言うより、巨大だ。一棟が全部図書館で、現実の裏側の閉架書架の方まで含めれば、ほぼ無限と言える広さがあるのではないか、とさえ。そんな図書館の地上部分も、蔵書が増えるに従って次から次へ無計画に書架を乱立した成れの果ての姿なのか、迷路のように入り組んでいる。普通の街の図書館に見られるような、整然と秩序立った空間設計の真逆を行くのだ。書架の並んだ角度が斜めになっている通路を進んで行けば、案の定、先が窄まって行き止まりになっていたり、その逆に、思わぬ所へ開けていたりする。
見晴らしの良い場所でも、その傾向は変わらない。地上一階から、半二階やら何やらの中途半端なスペースがあるので具体的に何階までとは言えないのだけれど、一応は最上階まで、これまた入り組んだ階段が張り巡らされている。なので図書館を利用する者の多くが、吹き抜けの空間を飛んで行き来している。すると、あっちへ行ったりこっちへ来たりしなければ昇ることの出来ない階段の様子を見下ろすことになるのだ。例えば二階へ昇った後、三階に向かう階段は、部屋の反対側にまで回って行かないと見当たらないだとか、建物として利便性の欠片も無い。
ただ、今朝の私は気まぐれに、その使い辛い階段をゆっくりと昇っていく。手すりの上に指先を滑らせながら、吹き抜けに目をやると、寝ぼけ眼でのみ見ることが許されたと思っていた天使の梯子は、今もまだキラキラと輝いていた。私は捻くれ者だから、無意識にあちらの階段を嫌がったのだろう。
探すともなしに寒い空気の出処を探していたら、意外と簡単に見付けた。吐き出した息が、白く染まる。
その場所の窓辺だけ様子が違う。東に面した分厚く古いガラスの窓一面が、目を見張る程の白に覆われていた。真夏なのに、雪国の冬のように、窓に霜が降っているのだ。
頭の中まで白くなったように、その白い窓に目を奪われた。
雪の結晶に似て幾何学的なような、それでいて、繁茂した植物を思わせるような。ギザギザの葉のシダ植物が這ったような紋様と、密集して咲いた小振りの花のような。この不思議を、どう言い表せば良いのだろう。冷たい空から降り注いだ氷の花が、そのままガラスに張り付いた、そんなお伽話を空想するよりも、もっと率直に、本当に窓ガラスに根を張って、無機質なはずの『氷』という植物が命を持って成長し、花を咲かせたと見て取った方が、自然な受け取り方かも知れない。
手を伸ばすと、冷たい。氷なのだから当たり前だ。もちろん摘み取ることもできない。見た目こそ美しいが、これが雪国では厄介者だそうだ。
冬の朝に窓が結露して、更に寒い時には霜となって凍る仕組みを、気温の変化のため、と説明することはできるだろう。でも、そこにどんな神秘が介在すれば、この絵が生まれると言うのだろう。私には、妖精のイタズラとしか思えなかった。
そんな神秘を眺めながら、私は全く別のことを考える。
昨晩もまた紅魔館ではパーティーだか宴会だかがあった。手持ち花火を振り回して、少女達の歓声は私の耳にも届いていた。
みんなで遊ぶとか、私は、そういうものに興味が無いのに。お姉様は、実は私も羨ましがっているだとか、つまらない勘違いをしている。だから昨晩も誘われた。無視をして図書館に閉じ籠った。更にしつこく誘われた。たまに渋々付き合うせいで、お姉様は味を覚えてしまった。怒鳴り返したら、ようやく諦めてもらえた。
お姉様には私が理解できないようだけれど、私には、お姉様の頭が“おめでたさ”の方が理解できない。
と言っても、嫌っているわけではない。
とは言え、嫌っていると思われているだろうな、とは思う。
「──放っておいて」
その言葉の意味が、私と違って真っ直ぐで真っ当なお姉様には伝わっていない。
自分の性格の歪みくらい分かっている。ただ、そんな自分のことが嫌いかと言えば、もちろん嫌いに決まっているけれど、自分のことが嫌いな自分は、決して大嫌いなわけではないのだ。自嘲と自傷を繰り返す痛みさえ、慣れ切ってしまえば自分自身と同じ意味。この歪んだ傷跡の形はそのまま私自身なのだから、変わりたいなんて思えない。傷を治したら自分が自分でなくなるという妄想を抱えている。
明るく元気に可愛らしく? それが、この私ですって?
もしもお姉様が、私に分かり易い溌溂さを求めているのだとしたら、それは今の私を殺して否定するということに他ならない。凍死体のような心を温めて生き返らせようとしている、それは間違いなく献身的な愛情だ。私の心は凍っている。温められて溶かされて、何か別のものに変えられようとしている。
もちろん、そうでないことくらい分かっている。おためごかしを差し引いても、お姉様は私を愛しているだろう。私もお姉様を愛している。だから苦しい。自分で自分のことが嫌いではないと、その戯言も嘘になる。愛情に対して捻くれた答えしか返せない私なんて、大嫌いに決まっている。
だから、お姉様は何も分かってないと言うのだ。わざわざ手を差し伸べてもらうことで生まれる気持ちは、振り払ったせいで相手を傷付けてしまったことへの自己嫌悪だけだ。昨晩だって、完全なる好意からの気持ちを、私は苛立ちに任せて踏み躙ったのだ。
胸の中心に指を突き立てたことがある。脈拍も無く心音が聴こえないのは知っていたが、本当に心臓が動いていないのだなと他人事のように感心した。真っ赤に染まったベッドのシーツに、お姉様は、自分の胸にナイフでも突き刺さったみたいに泣きそうな顔をした。死ぬほど後悔した。その表情をさせたくてやったことではないのに。
哀れな程うろたえる家族を前に、私は、私という奴は、静かに醒めた目をしていた。そんな自分が嫌になる。
つまる所、最初から独りにしてくれれば、私は自分のことを嫌わずにいられる。
放っておいて欲しい。この言葉の真意の大部分は、そんな理由。
……と、筋道立てて説明してやれば分かるのだろうか。
私はその考えを鼻で笑った。無理に決まっている。その程度で事が済むならとうの昔に和解しているし、いざその時に冷静に話せる自信も無い。会話なんてしたところで、伝えられる気持ちはいつだって一割未満。言葉って不都合だ。後になってから、また自己嫌悪の嵐になる。本当に放って置かれたところで壊れるくせに、だったら、具体的にどうして欲しいのかも分からないくせに。今の私なんか死んでしまって、愛される資格のある子に生まれ変われば良いのだと知っているくせに。自分の心から聴こえる自分を責める声には終わりが無い。
「…………痛っ」
陽の光が目に染みた。長時間、光を見つめ過ぎたせいだ。早朝、目が覚めたのが四時か五時くらいなら、何時間呆けていたのだろう。日はそれなりに高く昇っていた。そろそろいい加減に寝苦しくなって、お寝坊さんも起きてくる頃合いだ。
霜の花は溶けて消えた。
しとどに流れ落ちる水を涙のようだと思うのは、感傷が過ぎる。
私が素直に泣かないから、代わりに窓が泣いている。なんて、感傷が過ぎるどころの話ではない。そんな発想が浮かぶ頭が恥ずかしい。そもそも、少なくとも昨晩も今朝も、泣きたいほど派手な自己嫌悪には陥っていない。
何故だかいたく感動していたような気もするけれど、もう、氷の魔法は解けたのだ。
大方、館の前の湖に棲む氷の妖精がしばらくその近くにいただとか、そんなオチだから。昨晩のパーティーに紛れていたのだろう。妖精のイタズラとしか思えない神秘は、その実、その通りのことであったらしい。
◇
妖精の姿を探して館の外周を歩いていると、美鈴が朝顔の花に水をやっていた。忍び足のつもりだったのに気配で気付かれたのか、太平楽な顔がこちらを振り向いた。
「何か良いことでもあったんですか?」
一言目に、それだ。
「……美鈴さぁ。どこをどうしたら、そう見えるかな」
言っておくが、私は軽い炎症を起こした赤い目を擦っている。泣いていたと誤解されてもおかしくない有様だ。
美鈴はいかにも朴念仁でございます、みたいな表情で首を傾げて、
「だって、笑ってますよ?」
などと言い放ってくれやがる。
「何か良いことでもあったんですか?」
「別に」
再びの問い掛けにも、にべもなく返した。
「氷のお隣さんは、まだその辺にいる?」
「さあ、慌ただしい子達ですからね」
「あ、そう。いないなら、別に良いの。でも今度会ったら、良い物を見させてもらったわ、とだけ言伝てをお願い」
「それだけでは、何のことか分からないのでは?」
「分からなくて良い。大したことじゃないもの。それに、ただの自然現象よ。何の意図も無いわ」
「はぁ……もう少しくらい、分かるように言った方が良いと思いますけど。いつも、唐突なんですから」
「それには及ばないわ。大したことじゃないと、何度言わせるの」
「ご自分で伝えてみては、いかがです?」
その提案には完全に無視を決め込む。美鈴は不承不承といった様子ながら、頷いてくれた。となれば、もう用は無い。読書の続きに戻ろうとする私に、美鈴は三度、繰り返す。
「それで、何か良いことでもあったんですか?」
瞼の上から目を押さえると、窓辺に咲いた霜の花畑を鮮明に思い出した。胸の痛みを紛らわせてくれた氷は、この夏の間くらい、忘れることは無いだろう。別に、涙の雫が目に刺さった鏡の欠片を洗い流した、アンデルセンの童話のような話ではないけれど。
少し迷ってから、振り返らずに答える。何か良いことあったのか、ね。
「あったのよ。たまには、早起きもしてみるものね」
氷の花、とても良かったです!
フランの感傷がすごくよかったです
美しい話でした