夜半、赤蛮奇は最悪だった。内面のあらしとでもいおうか、無意義と有意義の網の目を縫うように虚無が這い回っていた。どうやら、すげ替えた頭に問題があるらしかった。畳の上を転がりまわり、冷蔵庫を開けたり、また閉めたり、また、開けたりした。側頭部を軽く叩くと左耳からなにか抜け落ちていくような感覚をみつけ、しばしそれに戯れた。例えばそれは、幼年期における人間によくみられる、回転し、目を回した際の酩酊感を楽しむ遊びとなんら変わりのないものだった。不意に正体不明の癇癪でもって蹲り、そのまま転がり、頭皮をかきむしってみたりしているうちに、夜は着々と白んでいった。
「やーおにいさん。あんた、あれだね。いやいや、私は知ってるよ。見えてるんだ。あんたの中身って言うものが。そんな突飛な話じゃないよ。わかるだろう、言われなくても。あんた、あれだね。あんた蟻だ。黒い蟻だよ。あんたの中身は黒い蟻だ。無数の黒い蟻がひしめいている。何をキョトンとしているんだよ、わかるだろう。あんた蟻だよ。ほら、蟻、蟻、蟻……。ひ、ひ、ひ……」
「やーおねえさん。あんたは、あれだね。そうだねえ、極彩色のぉ、ともすれば、それは、蛾かもしれないね。でも大きな蝶や蛾の極彩色の翅が、あんたの中にはある。ひしめいている。でもそんなふうにギチギチに動き回っているのを見ると、そんな風に細かくうごめいているのを見ると、お姉さんの中のその翅は、死にかけの、蝉が地を這うような、そんな風にも、私には見えるなぁ……ほら! 蝉! また動くんだ! は、は、は……」
頭。時に上下、時に表裏を反転させながら、里の白昼に、赤蛮奇は通行人を呼び止めるが、そんなことばかり宣った。どうやら、すげ替えた頭に問題があるらしい。どうも、瞳は虹色だった。里人たちはみな恐れ、その場を急ぎ離れよう、逃げようと努めたが、みな一様に肩を掴まれた。掴まれた肩のまま、わけのわからぬ言葉を聞かされた。恐怖よりも苛立ちが先に立つ者もあったが、やはり瞳孔の開きっぱなしの虹色の目は、なにか神秘的な煌めきを称えているから、ともすれば、それはどうしても恐怖だった。
今泉影狼が里に出没する恐ろしい妖怪の噂を聞きつけたのは、それから間もないことだった。影狼は山に暮らしていたが、今回は里だ。部屋の中で過剰なほどに身を繕った。タンスを開いたり、閉じたり、鏡を覗いたり、幾度となく、した。そわそわと、そわそわと、いつまでも繰り返しているうちに日が暮れた。暗闇に芒揺れ、やっと戸締りを終えた。ぬるい風に柳のそよぐ夜半、ようやく例の木造・平屋建てに着いた。
「あ、あア? 影狼じゃないか。あれぇ? あんた、影狼かい? どうしまったんだよ。蛆が湧いちまってるじゃないか。なにって、体にだよ。お前の体全部、中身が、蛆になっちゃって、パンパンになって、一つ一つが、生きてうごめいちまってる。どうして、そんな風になっちまったんだい? この間までは、あんなに、健やかだったじゃないかよぅ。影狼お前はそんなんじゃだめだよ私の友達じゃないかお前は。そんなんじゃだめだよなぁそうだ! 私が、お前をきれいにしてやろうじゃないかどうするって簡単だよぉ、私がいつもやってることを、お前にやってやろうってんだ。なぁ、影狼」
ぎこちない三畳間に影狼は正座のままたじろいだ。友人を心配して来てやれば、逆に心配され、ましてや自分の中に蛆が湧いているなどといわれる。こんなに微妙な心持ちというのもない、ゆっくり、ゆっくりと近付いてくる友人の手を影狼は暫しみつめた。しかし、その手指が自身の瞳に、まるで抉り出さんとする勢いで触れようものなら、すわ、影狼は友人を突き飛ばした。勢いで、友人は頭をどこかぶつけてしまったらしかった。赤い髪が液状化して溶け出すように、出血してしまっていた。そのまま畳にじんわりと、赤、限りなく、黒へと近付いていく。しびれによろめく覚束なさで、うろうろしたのち、ようやく、影狼は友人が心配になった。影狼の、わざわざ白くしてきた手腕が、おずおずと友人へと伸びる。しかしそのときに、友人がパッと、子供じみた、おかしな快活さで体を起こすから、影狼は驚く。見ると、首がなかった。首のない体はひとりでに、ひょこひょこと動いて、クローゼットを開けせしめた。訪れた三分間の静寂は、体が、そこになにもないことを確認するために必要な時間だったに、違いない。体がまた、ひょこひょこと動く。どうやら、手洗に向かうらしかった。らしかったので、影狼はおとなしく友人を待った。極めて乙女然とした、動機だった。待つあいだ、畳にどろどろと溶けていく血液色の頭部の中に、大量の蛆と、それから、綺麗な、本当に綺麗な、目玉を見つけた。眼球はふたつあるからして、ひとつを、影狼は懐に収めた。極めて乙女然とした、動機だった。床に転がるもひとつを、影狼は、見つめる。瞳以外が透けて、淀みないガラス球。瞳は極彩色に、万華鏡のようだった。指をくわえている間に、友人が頭をすげ替えて、戻ってきた。
「いやあ、悪かったね影狼。たまにあるんだよ、ハズレの頭ってやつがさあ。たぶんあれだろ? おまえの頭を引っこ抜こうと、したりしたんじゃないかなあ。いやいや、本当に悪かったよ。でも、今はもう平気だから、心配しないでおくれよ。いや、本当に悪かった、心配だってかけただろう? まあ、里では上手くやるからさ、うん。心配しないで、もう大丈夫、平気だから。そーだ、ラムネ、飲む? とかいって!」
影狼はじっと、先程くすねたふたつめ越しに、友人を見つめていた。ガラス球の透明に目を寄せて、虹色の万華鏡越しに、友人を、見つめていた。友人の身体は透けて、身体を縁取る線のみが見えた。友人どころか、世界のすべてが線のみに見えた。しかし、影狼は広大な世界に頓着することもなく、友人のみを、虹色越しに見つめた。首から下、友人の身体を縁取る線のなかは、蛆でいっぱいだった。蛆と蛆が食い合って、ぷちぷちと、音を立てるのすら聞こえた。影狼は友人に、おかしいのは頭ではなく、首から下だということを伝えた。伝えたが、瞬間、首の下で蠢いていた蛆が素早く、首から上、頭部を縁取る線をも満たした。短く悲鳴を切って、虹色を手のひらに握り込み、自身の目で、友人を見た。見ると友人はなにやら目をつむっていて、やおら、その目を開いてみせた。思うよりも長い睫毛だと、影狼はそんなことを考えたが、考えるうちに、その長い睫毛がパチリと離れ、瞼はいよいよ開かれていた。友人はまた、なにか神秘的な、虹色の瞳を持っていた。
それからは、おかしくなってしまった友人を憂慮する日々が、影狼を支配した。影狼は、ラムネばかりを飲んだ。飲み干しては買いに行き、買えば家まで我慢をし、着けば飲み干し、幾度となく、繰り返した。瓶は空やなんかに透かすと、とても綺麗なので、集めた。極めて乙女然とした、動機だった。そんなある日、影狼は唐突に、例の、とても綺麗な目玉を思い出した。覗き込むと、世界が透けて綺麗なことに気付いたら、またしばらくのあいだ、虹色越しの日々が続いた。どうやら、友人の談は本当で、生物を見ると、生物を縁取る線のなか、本当にいろんな虫たちがひしめいていた。ある者は蟻、黒い蟻。ある者は蝶、極彩色の、蛾。それは本当に様々だったが、やはり気持ちが悪いので、影狼は、そろそろ目玉に飽き始めた。
そんな夜半、洗濯物を干してるときに、影狼は、これでさいごと、子供じみた好奇心に終止符を打つべく、懐から目玉を取り出した。ちょうど、満月だった。影狼はガラス球を覗き込み、虹色の、万華鏡越しに世界を見た。丸く縁取られるは月の線、線のなかには、ひとつ、おおきな蛆がいた。蛆はどくんとひとつ脈打ち、赤く、赤い波動を、放った。月を縁取る線は、水面の月のように、輪郭を無くし、影狼は、自分を縁取る線のなか、ぷち、と音の、なるのを聞いた。
「やーおにいさん。あんた、あれだね。いやいや、私は知ってるよ。見えてるんだ。あんたの中身って言うものが。そんな突飛な話じゃないよ。わかるだろう、言われなくても。あんた、あれだね。あんた蟻だ。黒い蟻だよ。あんたの中身は黒い蟻だ。無数の黒い蟻がひしめいている。何をキョトンとしているんだよ、わかるだろう。あんた蟻だよ。ほら、蟻、蟻、蟻……。ひ、ひ、ひ……」
「やーおねえさん。あんたは、あれだね。そうだねえ、極彩色のぉ、ともすれば、それは、蛾かもしれないね。でも大きな蝶や蛾の極彩色の翅が、あんたの中にはある。ひしめいている。でもそんなふうにギチギチに動き回っているのを見ると、そんな風に細かくうごめいているのを見ると、お姉さんの中のその翅は、死にかけの、蝉が地を這うような、そんな風にも、私には見えるなぁ……ほら! 蝉! また動くんだ! は、は、は……」
頭。時に上下、時に表裏を反転させながら、里の白昼に、赤蛮奇は通行人を呼び止めるが、そんなことばかり宣った。どうやら、すげ替えた頭に問題があるらしい。どうも、瞳は虹色だった。里人たちはみな恐れ、その場を急ぎ離れよう、逃げようと努めたが、みな一様に肩を掴まれた。掴まれた肩のまま、わけのわからぬ言葉を聞かされた。恐怖よりも苛立ちが先に立つ者もあったが、やはり瞳孔の開きっぱなしの虹色の目は、なにか神秘的な煌めきを称えているから、ともすれば、それはどうしても恐怖だった。
今泉影狼が里に出没する恐ろしい妖怪の噂を聞きつけたのは、それから間もないことだった。影狼は山に暮らしていたが、今回は里だ。部屋の中で過剰なほどに身を繕った。タンスを開いたり、閉じたり、鏡を覗いたり、幾度となく、した。そわそわと、そわそわと、いつまでも繰り返しているうちに日が暮れた。暗闇に芒揺れ、やっと戸締りを終えた。ぬるい風に柳のそよぐ夜半、ようやく例の木造・平屋建てに着いた。
「あ、あア? 影狼じゃないか。あれぇ? あんた、影狼かい? どうしまったんだよ。蛆が湧いちまってるじゃないか。なにって、体にだよ。お前の体全部、中身が、蛆になっちゃって、パンパンになって、一つ一つが、生きてうごめいちまってる。どうして、そんな風になっちまったんだい? この間までは、あんなに、健やかだったじゃないかよぅ。影狼お前はそんなんじゃだめだよ私の友達じゃないかお前は。そんなんじゃだめだよなぁそうだ! 私が、お前をきれいにしてやろうじゃないかどうするって簡単だよぉ、私がいつもやってることを、お前にやってやろうってんだ。なぁ、影狼」
ぎこちない三畳間に影狼は正座のままたじろいだ。友人を心配して来てやれば、逆に心配され、ましてや自分の中に蛆が湧いているなどといわれる。こんなに微妙な心持ちというのもない、ゆっくり、ゆっくりと近付いてくる友人の手を影狼は暫しみつめた。しかし、その手指が自身の瞳に、まるで抉り出さんとする勢いで触れようものなら、すわ、影狼は友人を突き飛ばした。勢いで、友人は頭をどこかぶつけてしまったらしかった。赤い髪が液状化して溶け出すように、出血してしまっていた。そのまま畳にじんわりと、赤、限りなく、黒へと近付いていく。しびれによろめく覚束なさで、うろうろしたのち、ようやく、影狼は友人が心配になった。影狼の、わざわざ白くしてきた手腕が、おずおずと友人へと伸びる。しかしそのときに、友人がパッと、子供じみた、おかしな快活さで体を起こすから、影狼は驚く。見ると、首がなかった。首のない体はひとりでに、ひょこひょこと動いて、クローゼットを開けせしめた。訪れた三分間の静寂は、体が、そこになにもないことを確認するために必要な時間だったに、違いない。体がまた、ひょこひょこと動く。どうやら、手洗に向かうらしかった。らしかったので、影狼はおとなしく友人を待った。極めて乙女然とした、動機だった。待つあいだ、畳にどろどろと溶けていく血液色の頭部の中に、大量の蛆と、それから、綺麗な、本当に綺麗な、目玉を見つけた。眼球はふたつあるからして、ひとつを、影狼は懐に収めた。極めて乙女然とした、動機だった。床に転がるもひとつを、影狼は、見つめる。瞳以外が透けて、淀みないガラス球。瞳は極彩色に、万華鏡のようだった。指をくわえている間に、友人が頭をすげ替えて、戻ってきた。
「いやあ、悪かったね影狼。たまにあるんだよ、ハズレの頭ってやつがさあ。たぶんあれだろ? おまえの頭を引っこ抜こうと、したりしたんじゃないかなあ。いやいや、本当に悪かったよ。でも、今はもう平気だから、心配しないでおくれよ。いや、本当に悪かった、心配だってかけただろう? まあ、里では上手くやるからさ、うん。心配しないで、もう大丈夫、平気だから。そーだ、ラムネ、飲む? とかいって!」
影狼はじっと、先程くすねたふたつめ越しに、友人を見つめていた。ガラス球の透明に目を寄せて、虹色の万華鏡越しに、友人を、見つめていた。友人の身体は透けて、身体を縁取る線のみが見えた。友人どころか、世界のすべてが線のみに見えた。しかし、影狼は広大な世界に頓着することもなく、友人のみを、虹色越しに見つめた。首から下、友人の身体を縁取る線のなかは、蛆でいっぱいだった。蛆と蛆が食い合って、ぷちぷちと、音を立てるのすら聞こえた。影狼は友人に、おかしいのは頭ではなく、首から下だということを伝えた。伝えたが、瞬間、首の下で蠢いていた蛆が素早く、首から上、頭部を縁取る線をも満たした。短く悲鳴を切って、虹色を手のひらに握り込み、自身の目で、友人を見た。見ると友人はなにやら目をつむっていて、やおら、その目を開いてみせた。思うよりも長い睫毛だと、影狼はそんなことを考えたが、考えるうちに、その長い睫毛がパチリと離れ、瞼はいよいよ開かれていた。友人はまた、なにか神秘的な、虹色の瞳を持っていた。
それからは、おかしくなってしまった友人を憂慮する日々が、影狼を支配した。影狼は、ラムネばかりを飲んだ。飲み干しては買いに行き、買えば家まで我慢をし、着けば飲み干し、幾度となく、繰り返した。瓶は空やなんかに透かすと、とても綺麗なので、集めた。極めて乙女然とした、動機だった。そんなある日、影狼は唐突に、例の、とても綺麗な目玉を思い出した。覗き込むと、世界が透けて綺麗なことに気付いたら、またしばらくのあいだ、虹色越しの日々が続いた。どうやら、友人の談は本当で、生物を見ると、生物を縁取る線のなか、本当にいろんな虫たちがひしめいていた。ある者は蟻、黒い蟻。ある者は蝶、極彩色の、蛾。それは本当に様々だったが、やはり気持ちが悪いので、影狼は、そろそろ目玉に飽き始めた。
そんな夜半、洗濯物を干してるときに、影狼は、これでさいごと、子供じみた好奇心に終止符を打つべく、懐から目玉を取り出した。ちょうど、満月だった。影狼はガラス球を覗き込み、虹色の、万華鏡越しに世界を見た。丸く縁取られるは月の線、線のなかには、ひとつ、おおきな蛆がいた。蛆はどくんとひとつ脈打ち、赤く、赤い波動を、放った。月を縁取る線は、水面の月のように、輪郭を無くし、影狼は、自分を縁取る線のなか、ぷち、と音の、なるのを聞いた。
感染していく狂気という点が非常におぞましく、短いですが、恐怖小説としてはよかったと思います