姉の美点は人間を不幸にするところ、欠点はそれ以外のすべて。言い切ってしまうのは可哀想な気もするが、本当なので仕方がない。万事すべてにやる気がなく甲斐性がなく運も金も生活能力もない、ないないづくしのこの紫苑という姉を曲がりなりにも女苑が養っているのは、これはもう、優しさだ。それ以外に何もありはしない。自分はとてもとても優しい妹なので姉に尽くしている、そういう自分の姿はとてもあわれで、鏡に映してみると儚くも可憐な双子の片割れ、という感じがしてなかなか悪くない。これはと見込んだ男に苦労話を語るにも、いちいち嘘を言う必要がないので便利だ。貧乏姉妹の絆なんてものはこれは芝居の中だけの話で、いやまったくないなんてことは言わないが、実際のところ姉は無気力に日々を送るばかりだし、愚直にこれと向き合ってみてもさっぱりやり甲斐が感じられない。そうして女苑がどうするかと言えば、普段は奉公先の寺に出かけて日銭を稼ぎ、鬱憤がたまると里のお大尽の家にするりと滑りこんであれこれおべっかを使いながら小遣いをせしめる。あまり深く取り入ると目をつけられるので貰う金はささやかなものだが、紫苑はこの分け前にあずかって、どうにかこうにか日々の飯を食い繋いでいるというわけだった。
さてこの紫苑であるが、自分から飯を食うということをしない。きっちり腹は減るくせに放っておくといつまでも飢えたままじっとしている。そして妹の姿を見かけるとかすれた声でご飯ご飯とねだる。女苑がいかに貧しい時でもふたり分の飯を用意するのは、どんなものであれ口の中に押しこめば静かになるという姉の習性に尽きる。ある時はそこらでむしってきた桑の葉をまとめて五枚ほど押しつけたことがあったが、こうした仕打ちをさえ姉は一種の喜びをもって迎える。さすがの女苑もその横でひとりまともな飯を食う気にはなれなくて、以降は姉と同じものをふたりでいただくようになった。これもひとつの根負けの形と言えるかもしれない。
今日の飯は籠いっぱいの芋だった。寺の近所に住む独り身の老婆が持ってきたもので、雑用の女苑もまた相伴にあずかり、すでに蒸してあったそれをたっぷりと持ち帰ってきたのだった。本音を言えばもっと豪勢なものを食べたいという欲が女苑にはあったが、それがいかに遠い望みであるかも幻想郷に来てからは十分理解していたし、近ごろでは質よりも量を重視する骨太な食事にも結構慣れてきた。これは相対的に見れば十分豪華な飯と言える。贅沢にも言うべき時というものがあって、絶えずそれを口にしていれば身が持たない。だがあまり貧乏性に落ちてしまうのもいけない。そのもっとも身近な例が畳の向かいに座る姉だった。芋の山をきらきらした瞳で見つめる紫苑はちらりと顔を上げ、「こんなものを私が食べてもいいのか」とでも言いたげな表情で女苑を見た。妹は深いため息をつき、「いいに決まってるでしょ」とはっきり口に出して言った。そうしないとこの姉は骨の底まで染みとおった卑屈さから抜け出すことができないのだ。細い紫苑の指がおそるおそる芋のひとつをつまむのを見届けると、女苑は狭いあばら家の畳を横切って、部屋の隅にある小さな戸棚を開けた。買いこんだ日用品だの化粧道具だのをしまいこむ振りをして、女苑は薄暗いその棚の奥の、蓋の閉まった小さな素焼きの徳利を見つめた。
紫苑には頭痛に効く薬と言ってある。だがそんなものは建前に過ぎない。姉は女苑の言葉を頭から信じているらしく、徳利は今日も無事な姿でそこにあった。中身が軽くなっていることもない。姉にひとりで飲まれては意味がないのだ。さていつ開けよう……と思案していると背後から「あ」と小さな悲鳴があがった。姉の声だった。
振り返ると半分ほどの大きさになった芋を手に持った紫苑が悲しそうな目でこちらを見つめていた。見れば、食いかけの芋に何か黒く小さいものがへばりついている。
「虫ぃ」
姉はその一言ですべてを表現した。芋が虫に食われていたのだ。それだけなら大したことではないが、女苑は長年の勘でおおよその事情を察していた。あたりにはどれも中途半端に欠けた芋が転がっている。よくよく見ればそのどれもに虫の死骸が埋まっているのだ。ありえない話だろうか。否、けしてそのようなことはない。ここまで人為的な「不幸」を実現させられる者が女苑の知る中にひとりだけいる。
「ごめんね、女苑」
姉はそうつぶやいて、申しわけなさそうにうつむくのだった。女苑はひとつ息をつくと、戸棚を離れて部屋の真ん中に歩き、うなだれる紫苑の向かいにどかりと胡坐をかいて座った。
「あーあ、姉さんのせいでお芋が台なし」
そう言って、転がっている芋のひとつを拾うと、埋まっている虫を丁寧に引っぱり出して残った芋をがつがつと食べ始めた。
「女苑……?」
困惑する紫苑をきりと睨みつけ、食べる合間に女苑は言う。
「ほら、姉さんは手を動かす。駄目なお芋を全部綺麗に戻すの。普段働かないんだからそのくらいやって」
数秒して、ようやく妹の言うことを飲みこんだらしい紫苑は、不器用な手つきでいそいそと芋から虫を取り除き始めた。やがてぽつりと姉は、
「……ごめんね」
「いいから手を動かす」
やや沈黙があって、
「……ありがとう、女苑」
これには妹は、聞こえないふりを貫くことにした。
――お金ほしいな、と何となく思った。
それから数日と経たないある日に、紫苑は妹のもとを去った。
物乞いにでも出かけたのだと思っていた。しかしそうではなかった。普段はどんなに遅くとも数日で帰るはずの姉が、この時ばかりはいつまでも小屋の戸をくぐることがなかった。かと言って探しに出るのも格好がつかない気がして女苑は知らぬふりをしていたが、ある時とうとう我慢が利かなくなって奉公先の寺の妖怪にそれとなく愚痴をこぼしてみた。姉さんは最近外で遊んでばっかり、あたしだってこうやって真面目に働いてるのに――、
何か意味のある答えが返るとは思っていなかった。しかしてその妖怪は、やっぱりその話が出たか、とばかりの訳知り顔でこう言ったのだった。
ああ、あの天人様はね――、
さしたる興味もない様子で話を聞いていた女苑は、明くる日、誰にも言わずに寺の奉公を休んだ。
朝早くから里の方々を探し回って姉の影を追った。馬鹿馬鹿しいな、と心の中の自分は言う。たった今この瞬間の、消えた姉を探し回っている自分の姿ほど滑稽なものはないだろう。普段はつんとして仲よくしようともしないくせに、いざ会えなくなるとこれか。そう思う自分がいるからなるべく買いものをするふりをして目立たないように紫苑を探した。しかしそれでも探すのをやめる気にはなれなかった。なぜ自分はこんなに焦っているのだろう。なぜここまで姉の不在が気にかかるのだろう。そうした迷いがあったせいかもしれない、見つけだすまでには随分と時間がかかり、朝方から探し始めて、ようやく姉にたどり着いたのが日の中天に差しかかるころだった。
見つけさえすれば、何ということもなく連れ戻せると思っていた。後になって考えれば、どうしてそんなに能天気に構えることができていたのかわからない。
姉と天人は、桃の木の下でともに酒杯を傾けていた。何の気なしに近づこうとして、そのはるか手前で愕然と女苑は立ちすくんだ。
その時に受けた冷たい衝撃を、女苑は今でも忘れることができない。
笑っていた。
久しぶりに見た姉の顔には、輝かんばかりの笑みがあった。
姉のあんな顔は見たことがなかった。本気で笑った姉さんはあんなに綺麗な顔をするのだ――それを女苑が知った時、姉の目に自分の姿は映ってはいなかった。見てはいけないものを見たような罪悪感が胸にきざし、気丈に踏み出したはずの足がすくんで、それ以上前に進むことができなくなった。後ろめたいことなど何もないはずなのに、自分はあの場に立ってはいけないのだという強い確信があった。
唐突に、かつて外の世界で姉と暮らした頃のことを女苑は思い出した。人間から巻き上げた金を派手にばらまいて遊び歩いた日々。贅の限りを尽くした食事を姉と分け合った。紫苑の顔には笑みがあった。喜びの言葉も聞いた。あの時の姉の姿と今目の前にある光景とが重なり、そしてその笑顔の形だけが、どうしようもなくかつてのそれと違っていることに女苑は気づく。
この世の幸せの総量は、同じだけの金で贖えるものだと思っていた。
天人は、その愚かしい哲学が拾いきれなかったものを、いともたやすく姉に与えたのだ。あの天人が持っていて、ついぞ自分には手に入らなかったもの。あの喜びも、あの解放も、すべては紫苑ひとりだけのものだ。金銭の多寡がすべてを決めると信じていた自分には、財布の厚さで姉の幸不幸を量ってきた自分には、あの世界に加わることは絶対に許されない。
うつむき、女苑は小さな拳を握りしめた。いくつもの指輪に包まれた手から、きりきりと金属のこすれあう音が響いた。あんなに好きで集めていた宝石が、今はただ邪魔な石ころの集まりでしかなかった。
桃の木に背を向け、足早にその場を去った。その時だった。
「女苑」
見つかってしまった、と思う。背中の声を振り切って逃げ出したい衝動に女苑は駆られたが、続く姉の言葉がかろうじて彼女をその場に縫いとめた。
帰らなくてごめんね、と紫苑は言った。振り返らないままに女苑はそれを聞き、そんな心配しなくていい、と言おうとして言葉にならずに黙りこむ。かつての紫苑ならば、誰かへの心配をそこまではっきり口にすることはなかった。姉は変わっている。そして、変わっていくのだ。今までとは違う何かに。
「……友達ができたのね」
ぽつりと、空に吐き捨てるように女苑はつぶやいた。
友達とはちょっと違うかも、と姉は答えた。そして、女苑のもとを離れたこの数日のいきさつをたどたどしく語った。
今までずっと不幸続きだったけれど、天人様と一緒に過ごすようになって、やっといいことが起きるようになった。もう誰も不幸にしないで済むかもしれない。女苑にも迷惑かけずに生きられるかもしれない。そのことが今は嬉しい。天人様に出会えてよかった。だから、もうちょっとだけ私、帰らない。
紫苑が語り終えたその時、ゆっくりと女苑は振り返った。
姉の瞳と目が合う。光をたたえた目。かつての影が、どことなく薄らいだような印象。
その瞬間に、ああ、もうあたしはいらないな――と思ってしまった。
震えそうになる声をこらえて、女苑は笑った。
笑えた、と思う。
「……おめでとう、姉さん」
姉の美点は天人のもとで幸せを手にしたこと。
欠点は、ようやく手にしたその幸せを、苦しみの目で見つめる妹の存在だった。
戸棚の奥にしまっておいた酒を持って、ひとり小屋を出た。おぼつかない足取りで、何かに引きずられるような焦燥とともに女苑は歩いた。姉さんが、ずっと不幸だった姉さんがやっと小さな幸せに出会った。自分のようなゆがみきった「帰るべき場所」に、もう固執する必要はなくなった。だからもう、これはいらない――逍遥の果てにたどり着いた里の外れの川岸で、女苑は徳利の蓋を外し、たっぷりと酒の入ったそれを逆さまにあけた。
けして安い酒ではなかった。けれどたまにはこういう贅沢もあっていいと思って、姉につまらない嘘までついて買ったものだった。いつか訪れるささやかな幸福を、たったひとりの家族と静かに分かちあうために。しかし、間違いだった。似合わぬことなどするものではなかった。そもそもあってはならないものだったのだ。そんなものは川にでも飲ませてしまう方が、よほどいい。
月光を照り返してきらきらと輝くしずくが、より合わせた糸の束のように川面へと吸い込まれていく。徳利の底の色のない未来が、少しづつ流れ出ては冷たい空虚に置き換わっていく。
これでよかったのだと思う。あたしには無理だった。でも、他の誰かにそれができて、よかった。お金で買える何かをあてにした馬鹿な妹がいた――この話はそれで終わりだ。
それでいい。
この世界に、こんなに痛い幸せがあることを女苑は知らなかった。拭っても拭っても止まらない涙をみなもにこぼして、女苑は笑った。
澄んだ酒を飲みこんだ川の水は、あわれな少女の涙をも引き受けて、ここではないどこかにすべてを流し去っていく。
多くを願うつもりはない。あの幸せがいつまでも続けばいいと思う。
そして、この痛みが、いつまでもこの胸にとどまり続けてくれることを、月光のふちの川岸でひとり、女苑は願う。
さてこの紫苑であるが、自分から飯を食うということをしない。きっちり腹は減るくせに放っておくといつまでも飢えたままじっとしている。そして妹の姿を見かけるとかすれた声でご飯ご飯とねだる。女苑がいかに貧しい時でもふたり分の飯を用意するのは、どんなものであれ口の中に押しこめば静かになるという姉の習性に尽きる。ある時はそこらでむしってきた桑の葉をまとめて五枚ほど押しつけたことがあったが、こうした仕打ちをさえ姉は一種の喜びをもって迎える。さすがの女苑もその横でひとりまともな飯を食う気にはなれなくて、以降は姉と同じものをふたりでいただくようになった。これもひとつの根負けの形と言えるかもしれない。
今日の飯は籠いっぱいの芋だった。寺の近所に住む独り身の老婆が持ってきたもので、雑用の女苑もまた相伴にあずかり、すでに蒸してあったそれをたっぷりと持ち帰ってきたのだった。本音を言えばもっと豪勢なものを食べたいという欲が女苑にはあったが、それがいかに遠い望みであるかも幻想郷に来てからは十分理解していたし、近ごろでは質よりも量を重視する骨太な食事にも結構慣れてきた。これは相対的に見れば十分豪華な飯と言える。贅沢にも言うべき時というものがあって、絶えずそれを口にしていれば身が持たない。だがあまり貧乏性に落ちてしまうのもいけない。そのもっとも身近な例が畳の向かいに座る姉だった。芋の山をきらきらした瞳で見つめる紫苑はちらりと顔を上げ、「こんなものを私が食べてもいいのか」とでも言いたげな表情で女苑を見た。妹は深いため息をつき、「いいに決まってるでしょ」とはっきり口に出して言った。そうしないとこの姉は骨の底まで染みとおった卑屈さから抜け出すことができないのだ。細い紫苑の指がおそるおそる芋のひとつをつまむのを見届けると、女苑は狭いあばら家の畳を横切って、部屋の隅にある小さな戸棚を開けた。買いこんだ日用品だの化粧道具だのをしまいこむ振りをして、女苑は薄暗いその棚の奥の、蓋の閉まった小さな素焼きの徳利を見つめた。
紫苑には頭痛に効く薬と言ってある。だがそんなものは建前に過ぎない。姉は女苑の言葉を頭から信じているらしく、徳利は今日も無事な姿でそこにあった。中身が軽くなっていることもない。姉にひとりで飲まれては意味がないのだ。さていつ開けよう……と思案していると背後から「あ」と小さな悲鳴があがった。姉の声だった。
振り返ると半分ほどの大きさになった芋を手に持った紫苑が悲しそうな目でこちらを見つめていた。見れば、食いかけの芋に何か黒く小さいものがへばりついている。
「虫ぃ」
姉はその一言ですべてを表現した。芋が虫に食われていたのだ。それだけなら大したことではないが、女苑は長年の勘でおおよその事情を察していた。あたりにはどれも中途半端に欠けた芋が転がっている。よくよく見ればそのどれもに虫の死骸が埋まっているのだ。ありえない話だろうか。否、けしてそのようなことはない。ここまで人為的な「不幸」を実現させられる者が女苑の知る中にひとりだけいる。
「ごめんね、女苑」
姉はそうつぶやいて、申しわけなさそうにうつむくのだった。女苑はひとつ息をつくと、戸棚を離れて部屋の真ん中に歩き、うなだれる紫苑の向かいにどかりと胡坐をかいて座った。
「あーあ、姉さんのせいでお芋が台なし」
そう言って、転がっている芋のひとつを拾うと、埋まっている虫を丁寧に引っぱり出して残った芋をがつがつと食べ始めた。
「女苑……?」
困惑する紫苑をきりと睨みつけ、食べる合間に女苑は言う。
「ほら、姉さんは手を動かす。駄目なお芋を全部綺麗に戻すの。普段働かないんだからそのくらいやって」
数秒して、ようやく妹の言うことを飲みこんだらしい紫苑は、不器用な手つきでいそいそと芋から虫を取り除き始めた。やがてぽつりと姉は、
「……ごめんね」
「いいから手を動かす」
やや沈黙があって、
「……ありがとう、女苑」
これには妹は、聞こえないふりを貫くことにした。
――お金ほしいな、と何となく思った。
それから数日と経たないある日に、紫苑は妹のもとを去った。
物乞いにでも出かけたのだと思っていた。しかしそうではなかった。普段はどんなに遅くとも数日で帰るはずの姉が、この時ばかりはいつまでも小屋の戸をくぐることがなかった。かと言って探しに出るのも格好がつかない気がして女苑は知らぬふりをしていたが、ある時とうとう我慢が利かなくなって奉公先の寺の妖怪にそれとなく愚痴をこぼしてみた。姉さんは最近外で遊んでばっかり、あたしだってこうやって真面目に働いてるのに――、
何か意味のある答えが返るとは思っていなかった。しかしてその妖怪は、やっぱりその話が出たか、とばかりの訳知り顔でこう言ったのだった。
ああ、あの天人様はね――、
さしたる興味もない様子で話を聞いていた女苑は、明くる日、誰にも言わずに寺の奉公を休んだ。
朝早くから里の方々を探し回って姉の影を追った。馬鹿馬鹿しいな、と心の中の自分は言う。たった今この瞬間の、消えた姉を探し回っている自分の姿ほど滑稽なものはないだろう。普段はつんとして仲よくしようともしないくせに、いざ会えなくなるとこれか。そう思う自分がいるからなるべく買いものをするふりをして目立たないように紫苑を探した。しかしそれでも探すのをやめる気にはなれなかった。なぜ自分はこんなに焦っているのだろう。なぜここまで姉の不在が気にかかるのだろう。そうした迷いがあったせいかもしれない、見つけだすまでには随分と時間がかかり、朝方から探し始めて、ようやく姉にたどり着いたのが日の中天に差しかかるころだった。
見つけさえすれば、何ということもなく連れ戻せると思っていた。後になって考えれば、どうしてそんなに能天気に構えることができていたのかわからない。
姉と天人は、桃の木の下でともに酒杯を傾けていた。何の気なしに近づこうとして、そのはるか手前で愕然と女苑は立ちすくんだ。
その時に受けた冷たい衝撃を、女苑は今でも忘れることができない。
笑っていた。
久しぶりに見た姉の顔には、輝かんばかりの笑みがあった。
姉のあんな顔は見たことがなかった。本気で笑った姉さんはあんなに綺麗な顔をするのだ――それを女苑が知った時、姉の目に自分の姿は映ってはいなかった。見てはいけないものを見たような罪悪感が胸にきざし、気丈に踏み出したはずの足がすくんで、それ以上前に進むことができなくなった。後ろめたいことなど何もないはずなのに、自分はあの場に立ってはいけないのだという強い確信があった。
唐突に、かつて外の世界で姉と暮らした頃のことを女苑は思い出した。人間から巻き上げた金を派手にばらまいて遊び歩いた日々。贅の限りを尽くした食事を姉と分け合った。紫苑の顔には笑みがあった。喜びの言葉も聞いた。あの時の姉の姿と今目の前にある光景とが重なり、そしてその笑顔の形だけが、どうしようもなくかつてのそれと違っていることに女苑は気づく。
この世の幸せの総量は、同じだけの金で贖えるものだと思っていた。
天人は、その愚かしい哲学が拾いきれなかったものを、いともたやすく姉に与えたのだ。あの天人が持っていて、ついぞ自分には手に入らなかったもの。あの喜びも、あの解放も、すべては紫苑ひとりだけのものだ。金銭の多寡がすべてを決めると信じていた自分には、財布の厚さで姉の幸不幸を量ってきた自分には、あの世界に加わることは絶対に許されない。
うつむき、女苑は小さな拳を握りしめた。いくつもの指輪に包まれた手から、きりきりと金属のこすれあう音が響いた。あんなに好きで集めていた宝石が、今はただ邪魔な石ころの集まりでしかなかった。
桃の木に背を向け、足早にその場を去った。その時だった。
「女苑」
見つかってしまった、と思う。背中の声を振り切って逃げ出したい衝動に女苑は駆られたが、続く姉の言葉がかろうじて彼女をその場に縫いとめた。
帰らなくてごめんね、と紫苑は言った。振り返らないままに女苑はそれを聞き、そんな心配しなくていい、と言おうとして言葉にならずに黙りこむ。かつての紫苑ならば、誰かへの心配をそこまではっきり口にすることはなかった。姉は変わっている。そして、変わっていくのだ。今までとは違う何かに。
「……友達ができたのね」
ぽつりと、空に吐き捨てるように女苑はつぶやいた。
友達とはちょっと違うかも、と姉は答えた。そして、女苑のもとを離れたこの数日のいきさつをたどたどしく語った。
今までずっと不幸続きだったけれど、天人様と一緒に過ごすようになって、やっといいことが起きるようになった。もう誰も不幸にしないで済むかもしれない。女苑にも迷惑かけずに生きられるかもしれない。そのことが今は嬉しい。天人様に出会えてよかった。だから、もうちょっとだけ私、帰らない。
紫苑が語り終えたその時、ゆっくりと女苑は振り返った。
姉の瞳と目が合う。光をたたえた目。かつての影が、どことなく薄らいだような印象。
その瞬間に、ああ、もうあたしはいらないな――と思ってしまった。
震えそうになる声をこらえて、女苑は笑った。
笑えた、と思う。
「……おめでとう、姉さん」
姉の美点は天人のもとで幸せを手にしたこと。
欠点は、ようやく手にしたその幸せを、苦しみの目で見つめる妹の存在だった。
戸棚の奥にしまっておいた酒を持って、ひとり小屋を出た。おぼつかない足取りで、何かに引きずられるような焦燥とともに女苑は歩いた。姉さんが、ずっと不幸だった姉さんがやっと小さな幸せに出会った。自分のようなゆがみきった「帰るべき場所」に、もう固執する必要はなくなった。だからもう、これはいらない――逍遥の果てにたどり着いた里の外れの川岸で、女苑は徳利の蓋を外し、たっぷりと酒の入ったそれを逆さまにあけた。
けして安い酒ではなかった。けれどたまにはこういう贅沢もあっていいと思って、姉につまらない嘘までついて買ったものだった。いつか訪れるささやかな幸福を、たったひとりの家族と静かに分かちあうために。しかし、間違いだった。似合わぬことなどするものではなかった。そもそもあってはならないものだったのだ。そんなものは川にでも飲ませてしまう方が、よほどいい。
月光を照り返してきらきらと輝くしずくが、より合わせた糸の束のように川面へと吸い込まれていく。徳利の底の色のない未来が、少しづつ流れ出ては冷たい空虚に置き換わっていく。
これでよかったのだと思う。あたしには無理だった。でも、他の誰かにそれができて、よかった。お金で買える何かをあてにした馬鹿な妹がいた――この話はそれで終わりだ。
それでいい。
この世界に、こんなに痛い幸せがあることを女苑は知らなかった。拭っても拭っても止まらない涙をみなもにこぼして、女苑は笑った。
澄んだ酒を飲みこんだ川の水は、あわれな少女の涙をも引き受けて、ここではないどこかにすべてを流し去っていく。
多くを願うつもりはない。あの幸せがいつまでも続けばいいと思う。
そして、この痛みが、いつまでもこの胸にとどまり続けてくれることを、月光のふちの川岸でひとり、女苑は願う。
女苑にももっと色々な幸せがきっとあると思いたい。
とても良かったです
なんだかんだ言いつつ姉の幸せを願っているところもよかったです
この作品を見ることができてよかったと思います
女苑が酒を隠しているところを見て、姉思いなのか自分思いなのか分からないなぁと思っていただけにラストシーンはすごく響いた
紫苑にとって必要な存在が自分ではないと気づいて自分から身を引いてしまうのは、愛ゆえかもしれませんがとても悲しい展開ですね
この依神姉妹三作は順に読んだ方が絶対いいですね。
とても良かったです応援しています。
そんなものは川にでも飲ませてしまう方が、よほどいい
という表現が目立っていて好きですね。