「あーおばあちゃん。そんな荷物じゃ重いでしょう。私が持ちますよ。どこまでですか?」
「やー小傘ちゃん。まただめだったみたいだね。でもそんなに落ち込む事はないよ。わたしは君のオドロケの四文字が無意味なんかじゃないと、ほんとに思ってるんだ。いつか報われるだなんて無責任な事は言えないけど、私なら、いつだって力になるからね」
「神妙丸。今日はバイトのお給料が出たから、プレゼントを買ってきたよ。まぁお前なら花なんてもらったって、嬉しくはないと思うけど。花瓶に水を差してさ、かわいがってやってくれよ。二人でさ、それを毎日、愛でようじゃないか。ちなみにこの花は、紫君子蘭っていうんだよ」
鬼人正邪はよく働いた。よく人の助けになった。そして、誰からも愛された。言うなれば鬼人正邪は光の中にいた。太陽の下にいた。陽光に照らされた里、格子状の町並みの目抜き通りのど真ん中に、鬼人正邪は照らされていた。
一方で正邪はそれとは正反対の、里の薄暗い影の中、黴て、ぬらぬらと湿った路地にうずくまっていた。
「あらありがとうねえ。八百屋さんがあんまりにおまけしてくれるものだから、困ってたのよ」
「ありがとうございます! 正邪さんにそんなこと言われると、なんだかまだやれそうだって思えますよ。わちき、もうすこし頑張ってみますから」
「プ、プレゼントなんて、そんな。しかも、アガパンサスとか、そんなの……。と、とりあえず、そのぅ……あ、ありがとな」
みんなに愛される鬼人正邪を思って、正邪はただひたすらに、鬼人正邪に対する殺意に近い嫌悪感を膨張させていった。雨が降っていたかもしれない。そんな水垢のような路地で、眼前の鬼人正邪に、正邪は言う。
「いい加減にしろよ。お前のやること成すこと、全部嘘っぱちだ。私は知ってるぞ。お前が道で困っている老婆を死んだらいいと考えていることも、どうしたって救われない唐傘のことをたかだか木っ端の妖怪風情だと思っていることも。もはや利用価値もない矮小って言葉だけが似合う背の低い小人族にしたって、いつまで騙し続けるつもりなんだ。お前がそうやって私の知らないところでやつらにいい顔をし続けるって言うんだったら、これ以上それを続けるって言うんなら、私は絶対にお前を許さない。お前を、お前を絶対に絶対に殺してやるからな」
雨が降っていたかもしれない。鬼人正邪は曖昧に笑って消えていた。路地の軒先、画材屋の看板は時化て乾いていた。
能天気な里の白昼。例の老婆は正邪に会った。老婆は穏和な表情でもって正邪に件の礼を述べたが、正邪は二、三の悪辣な言葉を吐いて老婆に背を向け去っていった。また、多々良小傘は普段よりも上々の成果を正邪に報告した。しかし小傘が正邪によって告げられたのは、殆ど自殺教唆とも取れるあまりにもな一言のみだった。正午を過ぎ、針妙丸の自宅である長屋の二階でもってがスパゲッティを茹でている最中、正邪が帰ってきた。針妙丸は帰宅した正邪の顔を見るが早いか、出て行けの一言でもって、正邪を長屋から追い出した。
「ええ、あなた、妖怪なの。天邪鬼? へえ、そうだったの。わたし、妖怪ってもっと、恐ろしいものかとばかり思っていたわ。あなたみたいな妖怪さんだったら、みんなこの里で、平和に暮らせるのかもしれないわね」
「正邪さん! わちき、こないだ大成功したよ。やっぱり蒟蒻ひとつでもっても使い方次第だって、正邪さんの言う通りだなあ!」
「なあ、この頃貯金も随分貯まってきたし、そろそろなんか、引っ越したりしようよ。綺麗な家に住んでさあ。いや、そういうのじゃなくてもいいんだよ。結局、そのぅ。お前とならなんでも……なんて。えへへ……」
それからしばらくが経ったが正邪は未だ、薄暗い、かびた湿った路地の中でうずくまり、鬼人正邪の麗句と、それに対する、みなの感謝と好意の声を聞いていた。正邪はいよいよ泣きそうになって、立ち上がるか早いか路地を駆け出した。
「針妙丸! お前があいつに言って欲しい言葉だったら私にだっていくらでも言えるよ!」
長屋の錆びた階段を駆け上がり、202号を開け放つが早いか、正邪は針妙丸に向かって叫んだ。針妙丸は樹脂タイルのキッチンでスパゲッティを茹でながら、白けた目で正邪を横目にする。
「いいか針妙丸。わたしはお前を騙した、利用した! でも今は利害でなんかみちゃいない! 同居人でもない、それ以上だと思ってる! 髪の色だって、背の低さだって、わたしに対する冷たさだって、わたしは全部認めてる! お前のこと、認めてるんだよ、わたしは! わたしとあいつの、なにが違うってんだよ!」
針妙丸は茹でかけのスパゲッティの火を落として、結局正邪は路地に戻らされた。正邪の頬を伝うのは正体のみえない感情で、するとやはり、雨が降っていたのかもしれない。正邪は雑駁とした路地に忘れ傘を探したが、どこにも見つけられなかった。温い雨が冷えた頃、正邪はまた、鬼人正邪に与えられた温かい声を聞いた。重い荷物を持った老婆、どうしたって至らない虹彩異色症、もはや生活と化した利害の対象、自分ではない忌むべき他人に向けて発せられる温かい言葉を思い出した。正邪は汚れた左腕で目元を拭って、平穏な世界を睨みつけるために、また顔を上げた。そこにあるのは当然、いつも通りの、路地の薄汚れた光景のみだったが、不思議なことに眼前、鬼人正邪が立っていた。鬼人正邪は困ったように眉を潜ませ、曖昧な笑顔でもって蹲る正邪を見下ろしていた。その際に行われた正邪と鬼人正邪のやり取りは、きっと世界中の誰にも判らないものだった。長い対話が終わると、正邪はゆっくりと立ち上がり、諦めたように路地を去った。正邪の去った路地には例の、いつも通りの風景があるのみで、人影の一つ残ることはなかった。画材屋の看板にしても、もちろん乾いていた。
長屋の錆びた階段を登って、正邪は202号の扉を静かに開けた。
「針妙丸。わたし、お前のことが好きだよ。嘘なんかじゃない、大好きだよ」
針妙丸は樹脂タイルのキッチンでもって茹でたスパゲッティを、こぢんまりとしたリビングの、どこにでもある四つ足の、木製のテーブルに二つ並べては、どうやって手に入れたかも思い出せない食器でもって、二人、それを食べた。正邪は皿の横に添えられた紙パックの牛乳を、とりわけて大きなガラス製のコップで三杯も飲んだが、針妙丸は珍しくそれを咎めることもせず、未定の引越し先について、ぼんやりと、思案を巡らせていた。
蛇足にはなるが、二人が穏やかな食事を摂る二階建ての窓の外、ねずみ色の白昼には雨が降っていた。季節柄、それはとても温かい雨だった。ともすれば、僅かに開いた窓からは、柔らかくて、懐かしい雨の匂いがしたかもしれない。
「やー小傘ちゃん。まただめだったみたいだね。でもそんなに落ち込む事はないよ。わたしは君のオドロケの四文字が無意味なんかじゃないと、ほんとに思ってるんだ。いつか報われるだなんて無責任な事は言えないけど、私なら、いつだって力になるからね」
「神妙丸。今日はバイトのお給料が出たから、プレゼントを買ってきたよ。まぁお前なら花なんてもらったって、嬉しくはないと思うけど。花瓶に水を差してさ、かわいがってやってくれよ。二人でさ、それを毎日、愛でようじゃないか。ちなみにこの花は、紫君子蘭っていうんだよ」
鬼人正邪はよく働いた。よく人の助けになった。そして、誰からも愛された。言うなれば鬼人正邪は光の中にいた。太陽の下にいた。陽光に照らされた里、格子状の町並みの目抜き通りのど真ん中に、鬼人正邪は照らされていた。
一方で正邪はそれとは正反対の、里の薄暗い影の中、黴て、ぬらぬらと湿った路地にうずくまっていた。
「あらありがとうねえ。八百屋さんがあんまりにおまけしてくれるものだから、困ってたのよ」
「ありがとうございます! 正邪さんにそんなこと言われると、なんだかまだやれそうだって思えますよ。わちき、もうすこし頑張ってみますから」
「プ、プレゼントなんて、そんな。しかも、アガパンサスとか、そんなの……。と、とりあえず、そのぅ……あ、ありがとな」
みんなに愛される鬼人正邪を思って、正邪はただひたすらに、鬼人正邪に対する殺意に近い嫌悪感を膨張させていった。雨が降っていたかもしれない。そんな水垢のような路地で、眼前の鬼人正邪に、正邪は言う。
「いい加減にしろよ。お前のやること成すこと、全部嘘っぱちだ。私は知ってるぞ。お前が道で困っている老婆を死んだらいいと考えていることも、どうしたって救われない唐傘のことをたかだか木っ端の妖怪風情だと思っていることも。もはや利用価値もない矮小って言葉だけが似合う背の低い小人族にしたって、いつまで騙し続けるつもりなんだ。お前がそうやって私の知らないところでやつらにいい顔をし続けるって言うんだったら、これ以上それを続けるって言うんなら、私は絶対にお前を許さない。お前を、お前を絶対に絶対に殺してやるからな」
雨が降っていたかもしれない。鬼人正邪は曖昧に笑って消えていた。路地の軒先、画材屋の看板は時化て乾いていた。
能天気な里の白昼。例の老婆は正邪に会った。老婆は穏和な表情でもって正邪に件の礼を述べたが、正邪は二、三の悪辣な言葉を吐いて老婆に背を向け去っていった。また、多々良小傘は普段よりも上々の成果を正邪に報告した。しかし小傘が正邪によって告げられたのは、殆ど自殺教唆とも取れるあまりにもな一言のみだった。正午を過ぎ、針妙丸の自宅である長屋の二階でもってがスパゲッティを茹でている最中、正邪が帰ってきた。針妙丸は帰宅した正邪の顔を見るが早いか、出て行けの一言でもって、正邪を長屋から追い出した。
「ええ、あなた、妖怪なの。天邪鬼? へえ、そうだったの。わたし、妖怪ってもっと、恐ろしいものかとばかり思っていたわ。あなたみたいな妖怪さんだったら、みんなこの里で、平和に暮らせるのかもしれないわね」
「正邪さん! わちき、こないだ大成功したよ。やっぱり蒟蒻ひとつでもっても使い方次第だって、正邪さんの言う通りだなあ!」
「なあ、この頃貯金も随分貯まってきたし、そろそろなんか、引っ越したりしようよ。綺麗な家に住んでさあ。いや、そういうのじゃなくてもいいんだよ。結局、そのぅ。お前とならなんでも……なんて。えへへ……」
それからしばらくが経ったが正邪は未だ、薄暗い、かびた湿った路地の中でうずくまり、鬼人正邪の麗句と、それに対する、みなの感謝と好意の声を聞いていた。正邪はいよいよ泣きそうになって、立ち上がるか早いか路地を駆け出した。
「針妙丸! お前があいつに言って欲しい言葉だったら私にだっていくらでも言えるよ!」
長屋の錆びた階段を駆け上がり、202号を開け放つが早いか、正邪は針妙丸に向かって叫んだ。針妙丸は樹脂タイルのキッチンでスパゲッティを茹でながら、白けた目で正邪を横目にする。
「いいか針妙丸。わたしはお前を騙した、利用した! でも今は利害でなんかみちゃいない! 同居人でもない、それ以上だと思ってる! 髪の色だって、背の低さだって、わたしに対する冷たさだって、わたしは全部認めてる! お前のこと、認めてるんだよ、わたしは! わたしとあいつの、なにが違うってんだよ!」
針妙丸は茹でかけのスパゲッティの火を落として、結局正邪は路地に戻らされた。正邪の頬を伝うのは正体のみえない感情で、するとやはり、雨が降っていたのかもしれない。正邪は雑駁とした路地に忘れ傘を探したが、どこにも見つけられなかった。温い雨が冷えた頃、正邪はまた、鬼人正邪に与えられた温かい声を聞いた。重い荷物を持った老婆、どうしたって至らない虹彩異色症、もはや生活と化した利害の対象、自分ではない忌むべき他人に向けて発せられる温かい言葉を思い出した。正邪は汚れた左腕で目元を拭って、平穏な世界を睨みつけるために、また顔を上げた。そこにあるのは当然、いつも通りの、路地の薄汚れた光景のみだったが、不思議なことに眼前、鬼人正邪が立っていた。鬼人正邪は困ったように眉を潜ませ、曖昧な笑顔でもって蹲る正邪を見下ろしていた。その際に行われた正邪と鬼人正邪のやり取りは、きっと世界中の誰にも判らないものだった。長い対話が終わると、正邪はゆっくりと立ち上がり、諦めたように路地を去った。正邪の去った路地には例の、いつも通りの風景があるのみで、人影の一つ残ることはなかった。画材屋の看板にしても、もちろん乾いていた。
長屋の錆びた階段を登って、正邪は202号の扉を静かに開けた。
「針妙丸。わたし、お前のことが好きだよ。嘘なんかじゃない、大好きだよ」
針妙丸は樹脂タイルのキッチンでもって茹でたスパゲッティを、こぢんまりとしたリビングの、どこにでもある四つ足の、木製のテーブルに二つ並べては、どうやって手に入れたかも思い出せない食器でもって、二人、それを食べた。正邪は皿の横に添えられた紙パックの牛乳を、とりわけて大きなガラス製のコップで三杯も飲んだが、針妙丸は珍しくそれを咎めることもせず、未定の引越し先について、ぼんやりと、思案を巡らせていた。
蛇足にはなるが、二人が穏やかな食事を摂る二階建ての窓の外、ねずみ色の白昼には雨が降っていた。季節柄、それはとても温かい雨だった。ともすれば、僅かに開いた窓からは、柔らかくて、懐かしい雨の匂いがしたかもしれない。
正邪がとぼとぼ路地を去っていくシーンがとても印象的です