「料理を、しようと思うの」
私がそう言うと、こいしはきょとんとした表情で首を傾げた。
「フランちゃん、咲夜さんの料理に不満でもあるの?」
「そんなことはないわ」私は応える。
咲夜は本当によくできたメイドだ。料理は上手いし掃除は早いし、なにより傍から見ていて面白い。スターゲイザーパイとかいうものを出されたときは正直どうしようかと思ったが、それもまた一種の愛嬌だ。実際のところ、咲夜がここに現れてから、紅魔館は一段と華やいでいるように思う。
だから、不満だなんてとんでもない。むしろ、だからこそ、だ。
「咲夜にね、普段のお礼でもしようかと思ったのよ」
私の言葉に、わおとこいしは大げさな身振りで驚いてみせた。
「……からかってるわけ?」
「やー、そんなことはないよ。ただ本当に驚いたの」
じろりと軽く睨みつけてみたけど、こいしはまるでいつもの態度を崩さなかった。こいしはからからと楽しげに笑みを浮かべていて、けれど一瞬、そこに寂しげな表情が混ざったように私には見えた。
「なんだかさ。フランちゃんも、成長したなって」
けれど、それは本当に一瞬だけのことだった。ぱんと手を叩いて「そういえば昨日はあの子たちね、」と口を開いたこいしには、既に先程の面影などは、欠片も見つけられなかった。
古明地こいしについて、私はあまり知らない。
まずもって、出会ったときの記憶そのものが曖昧で、気付いたら話し込んでいて、いつの間にやら意気投合していたのだから、全くもってどうしようもない。(まあ、そこがこいしのこいしたる所以であるような気はするけれど。けれどそれは、別の話だ。)それから既に数年来の付き合いはあるけれど、それでとみにして感じたことは、こいしは自分のことについては、滅多に語ろうとしない、ということだ。
だから、私がこいしについて分かることといえば、多くてせいぜいが三つほどである。
まず、子供が好きで、いつも一緒に遊んでいること。少ない時でも、三日に一度は、里に遊びに行くらしい。
そして、姉がいること。こいし自身とは対照的に、滅多に家から出ない性質の姉らしい。
最後に、これは妖怪にはあまり見られないことなのだけど、複数の側面を持っていること。(無意識の妖怪、イマジナリーフレンド、それにメリーさんの電話。)その根幹は無意識の妖怪であるらしいのだけど、一方こいしの行動原理はイマジナリーフレンドの側面が強く見える。
私と同じだ――私の根幹は吸血鬼で、けれど思考回路は魔法少女のそれである。
「おはぎなんてどうかしら。ここ最近は子供たちの一番人気よ」
「和ものはちょっと厳しいのよね。特に餅とか餡子なんかは、うちの食料庫には置いていないもの」
私の答えに、難しいなあと文句を漏らして、こいしは視線を辞典に戻した。
全くだと頷きながら、私も辞典を再び開いた。咲夜に作って贈る料理を、何にするかを決めるために。
「和もので考えるなら、……わらび餅、の偽物ぐらいは作れるかもしれないけれど」
「わらび餅かあ。あれ、子供舌にはちょっぴり物足りないのよね。他にあるなら、そっちの方がいいと思うわ」
「まあ、そうよね」
今度は私が難しいわとこぼす番だった。せめて私が甘党であったら、ここまで悩む必要もないのだけど、と。
「あ、ねえフランちゃん。このスターゲイザーパイっていうのがいいわ。こんな名前を好きにならないひとなんていないもの」
「論外」
「えー」
長々と悩み続けて、しばし。「甘党は濃味も喜ぶ」というこいしの助言を聞き入れて、結局、カルボナーラのパスタをつくることにした。
吸血鬼の味覚というのは、人間のそれとはかなり異なる。そのことを初めて知ったのは、咲夜に会った時だったか。
塩味、鉄味と、それに旨味。吸血鬼の舌は血を味わうのに特化していて、だからそういった味覚が特に鋭敏で、そしてそういう味わいを殊に好むようにできている。
咲夜は違う。咲夜の好みは、甘みの強くて、濃いめの味。私やお姉様にとっては、いまいち分からない類の味付け。
だから私は、咲夜と食事の話ができない。話せてせいぜい、今日のお昼は美味しかったとか、そのくらいだから。
そういうとき、私はこいしが、少しばかり羨ましい。きっとこいしは食事の話で、咲夜と盛り上がることができるだろうから。
何故ならこいしは甘党で、濃い味が好きで、子供舌で。
つまるところは、咲夜と同じであるのだから。
「……うん、美味しい。ばっちりだと思うわ」
こいしの言葉に、大きく私は息を吐いた。ごちそうさまでした、と丁寧に手を合わせるこいしに、助かったわ、と声をかけると、問題ないわと手を振られた。
「私が好きでやっていることだもの」
「そうだとしても、よ」
私は応える。こいしの力添えがなければ、咲夜に出せる味付けなんて作ることができなかっただろうから。
最初は妖精に食べてもらおうと思っていた。普段から館の中で何人も遊んでいるのだし、味覚もほどほどに人間に近い。とはいえそれも程度問題で、彼女らに認められたからとて咲夜が楽しめるようなできになっているかは不透明だった。勿論他に取れる手段はなかったし、もしもこいしがいなかったら、実際そうしていただろうけど。
だからこいしには感謝をしきれない。咲夜とおなじ甘党で、味覚構造も人間そっくりのこいしになら、安心して味の確認を頼めるから。
……それにしても、とふと思う。
「私が言うべきじゃないんだけど、一週間も、毎日同じ食事を出されて、よくこいしは飽きなかったわね」
私はこいしにそう問いかけて、あれ、とそこで微かな違和感に首を傾げた。「いやまあだって、朝と夜には家で普通に食べてたもん」と笑ってこいしが言ったのも、ほとんど意識の外にあった。
すぐに違和感のもとは見つかった。というより、有難さにかまけて目を逸らしていたものごとを、思い出したのが正確なところだ。私が反応を返さないからか「どうしたの?」と問うこいしに向かって、私はひとつ問いかけた。
「里の方には、遊びに行かなくていいわけ?」
こいしの表情が凍り付いた、と私は一瞬錯覚した。正しくは、しばしの間凍り付いたのは、こいしの身体の全てだった。
「あー……うん。しばらくは、もう里の方には、行く用事がなくなっちゃってさ」
こいしはぎこちなく微笑んだ。
「あの子たちはね、私のこと、もう忘れちゃったから」
今度は私が凍り付く番だった。どんな表情になっていたかは、こいしの慌てたような反応を見てすぐに知れた。
「いいのよ。フランちゃんの気にすることじゃないわ。こんなのよくあることだもの。ええ、本当によくある、いつものこと。むしろ祝うべきことなのよ? あの子たちは平穏無事に、大人の仲間入りできたんだってことなんだもの。妖怪に喰われることもなく、病に倒れることもなく、それに社会から弾かれることもなく、ね。だからフランちゃん、そんな申し訳なさそうにしなくていいのよ。いいの、大丈夫だから」
繕わなくてはという思いだけが先走り、結局まるで思い通りに動いてくれない私の貌を恨みながら、私はこいしの続けた言葉を聞いていた。
「――ああ、でも、ねえフランちゃん。これは本当に、どうしようもない私のエゴなんだけどね」
そう言って、こいしは苦笑したようだった。そう気付いたのは後のことだ。冷静でいられなかったそのときの私には、それは泣き笑いにしか見えなかった。
「フランちゃんだけはさ、私のこと、ずっと覚えててくれないかな」
そのこいしの言葉に、私は咄嗟に頷くことができなかった。
分かっていたことだった。
こいしのことを覚えているのは、基本的には不可能である。私はただ、私自身の持っている幼さの一面によって、そして彼女の有する空想少女の側面によって、運良くこいしを覚えているのに過ぎないのだ。そして、幼さを失ったかつての少年少女たちは、もう決してこいしを思い出すことはない。こいしの能力というものは、つまりそういうものなのだ。
分かっていたことだ。私が少女心を忘れた瞬間、こいしは私の中から失われるということは。
私にはそれが悲しかった。……否。
私はそれが悔しかったのだ。まるで、運命に負けているようで。
だから、私はこいしのエゴを受け止めたい。先は狼狽えてしまったけれど、次こそは。
策はある。今思いついた。あとは導線がなにかあれば。
「やほ」
次にこいしが私の部屋を訪れたのは、次の日のことで、丁度私が魔術式の最後の行を描き始めたときだった。
「いらっしゃい。悪いわねこいし、ちょっと今手が離せないの」
「大丈夫だよー、気にしてくれなくてもいいわ」
中空に指を走らせながら私がそう言うと、こいしはひらひらと手を振った、のだろう。見えないけれど、なんとなくそういう雰囲気がした。
「私が気にするの」
「あー」
私の言葉に呆れ半分、笑い半分で声を返してきたこいしは、いつも通りの軽快さで、昨日の寂しそうな声音などは想像もできないような様子だった。私はそれに幾許ほどか安心していた。
「そうそう、咲夜の件はありがとね。無事喜んでもらえたわ」
「ほんと? それならよかった」
「食べてる間に10回ぐらい時止めてたわね」
「それ喜んでるの?」
「喜びのあまりタップダンスでも踊ってたのだと睨んでいるんだけど」
「うーん紅魔式」
そこまで言って、こいしはあれ?と声を上げた。
「じゃあ、今書いてるのは?」
「これは別件よ、……と。待たせたわね」
私はそう言って、魔術式にピリオド(終了処理)を打った。傍に置いていた材料のボウルを引き寄せて、指から一滴血を垂らして、そして魔術式を起動させる。
水が小麦を捏ね、その生地で風がホイップを包み、その球体を火が焼き上げ、その完成品を土の磁器に乗せる。
そうしてできたその作品を、私はこいしに差し出した。
「だから、はい。これは、咲夜の件のお礼よ」
こいしはお皿を受け取って、ぽかんとした顔でまじまじと見つめていて、それを眺めてみていることは、私にはなかなか面白かった。
「シュークリーム……」
知ってたの?と首を傾げたこいしに、調べたのよ、と私は胸を張った。
――こいしの側面の一つ、メリーさんの電話。
少女心の象徴、とある人形を捨てた女に、不幸が舞い降りる都市伝説。
背を壁につける、メリーさんより早く移動する、などの有名な対策のその一つ。
それが、メリーさんにシュークリームを渡すこと。
「こいしのことを忘れても、これで一回は見逃してくれるんでしょ?」
「ずるいなあ」
こいしは私の言葉に苦笑いして、「まあ、別にいいんだけどさ」と呟いて。そして「いただきます」と手を合わせてから、シュークリームに齧り付いた。
「どう?」
「うーん、ちょっとさ、塩味利かせすぎかなこれ。しょっぱさは甘さを引き立てるとは言うけどね、これは流石にやりすぎだって」
「そうね、次は気を付けるわ」
こいしはべーと舌を突き出して文句を言って、けれどすぐに全て食べ切ってご馳走様と手を合わせたので、私はふふと笑ってしまった。意地悪と文句を言うこいしに悪かったわと手を振って、それから私は指を一本立ててみせた。
「それともう一つ、これは昨日の返事」
「あー……」
こいしは少しばかり思い返すような仕草を見せて、それから「気にしなくても良かったのに」と困ったように笑いかけた。
別にこいしが気にする必要はない。これは私のエゴでもあるから。とは言わないけど。
「さっきのシュークリームには、私の血が一滴落としてあるの」
代わりに、話を先へ進める。指をくるくると回しながら、私は言う。
「吸血鬼にして、悪魔にして、魔法少女の私の血。隷属のしるしにして、契約のしるべの血よ」
小指を立てて目を凝らすと、僅かばかりに、こいしに繋がった赤い線が見えた。成功だ。私は笑ってこいしに言った。
「どっちをするにも足りないけれど、こいしのことを忘れないよう、心に繋ぎ留めておく分には、一滴あれば十分でしょう?」
こいしはぱちくりと目を瞬かせた。暫く考え込むように押し黙って、けれどその表情はゆっくり緩んでいるようだった。そうして幾らか経ったところで、耐え切れなくなったようにこいしは笑った。
「もう、吃驚したわ。フランちゃんたら案外メルヘンが好きなのね」
「こいしは失礼なことを言うのね」口を尖らせて私は言った。「こういうときは、少女心を忘れない、って言うべきでしょうに」
「そうねえ」
こいしはけらけらと笑い続けて、なんだか私は拍子抜けしたような気分だった。そうして、は、とそっと溜息を洩らしたところで、唐突にこいしが抱き着いてきた。
「ありがとねフランちゃん。いま私、とっても嬉しいの」
こいしは安心したような声音で、そっと私に囁いた。
滅多に見せないこいしの珍しい反応に、私はひどく驚いた。けれど、私のとるべき答えはすぐに分かった。
「どういたしまして」
私はこいしの背中を撫ぜて、そんな言葉を呟いた。
私がそう言うと、こいしはきょとんとした表情で首を傾げた。
「フランちゃん、咲夜さんの料理に不満でもあるの?」
「そんなことはないわ」私は応える。
咲夜は本当によくできたメイドだ。料理は上手いし掃除は早いし、なにより傍から見ていて面白い。スターゲイザーパイとかいうものを出されたときは正直どうしようかと思ったが、それもまた一種の愛嬌だ。実際のところ、咲夜がここに現れてから、紅魔館は一段と華やいでいるように思う。
だから、不満だなんてとんでもない。むしろ、だからこそ、だ。
「咲夜にね、普段のお礼でもしようかと思ったのよ」
私の言葉に、わおとこいしは大げさな身振りで驚いてみせた。
「……からかってるわけ?」
「やー、そんなことはないよ。ただ本当に驚いたの」
じろりと軽く睨みつけてみたけど、こいしはまるでいつもの態度を崩さなかった。こいしはからからと楽しげに笑みを浮かべていて、けれど一瞬、そこに寂しげな表情が混ざったように私には見えた。
「なんだかさ。フランちゃんも、成長したなって」
けれど、それは本当に一瞬だけのことだった。ぱんと手を叩いて「そういえば昨日はあの子たちね、」と口を開いたこいしには、既に先程の面影などは、欠片も見つけられなかった。
古明地こいしについて、私はあまり知らない。
まずもって、出会ったときの記憶そのものが曖昧で、気付いたら話し込んでいて、いつの間にやら意気投合していたのだから、全くもってどうしようもない。(まあ、そこがこいしのこいしたる所以であるような気はするけれど。けれどそれは、別の話だ。)それから既に数年来の付き合いはあるけれど、それでとみにして感じたことは、こいしは自分のことについては、滅多に語ろうとしない、ということだ。
だから、私がこいしについて分かることといえば、多くてせいぜいが三つほどである。
まず、子供が好きで、いつも一緒に遊んでいること。少ない時でも、三日に一度は、里に遊びに行くらしい。
そして、姉がいること。こいし自身とは対照的に、滅多に家から出ない性質の姉らしい。
最後に、これは妖怪にはあまり見られないことなのだけど、複数の側面を持っていること。(無意識の妖怪、イマジナリーフレンド、それにメリーさんの電話。)その根幹は無意識の妖怪であるらしいのだけど、一方こいしの行動原理はイマジナリーフレンドの側面が強く見える。
私と同じだ――私の根幹は吸血鬼で、けれど思考回路は魔法少女のそれである。
「おはぎなんてどうかしら。ここ最近は子供たちの一番人気よ」
「和ものはちょっと厳しいのよね。特に餅とか餡子なんかは、うちの食料庫には置いていないもの」
私の答えに、難しいなあと文句を漏らして、こいしは視線を辞典に戻した。
全くだと頷きながら、私も辞典を再び開いた。咲夜に作って贈る料理を、何にするかを決めるために。
「和もので考えるなら、……わらび餅、の偽物ぐらいは作れるかもしれないけれど」
「わらび餅かあ。あれ、子供舌にはちょっぴり物足りないのよね。他にあるなら、そっちの方がいいと思うわ」
「まあ、そうよね」
今度は私が難しいわとこぼす番だった。せめて私が甘党であったら、ここまで悩む必要もないのだけど、と。
「あ、ねえフランちゃん。このスターゲイザーパイっていうのがいいわ。こんな名前を好きにならないひとなんていないもの」
「論外」
「えー」
長々と悩み続けて、しばし。「甘党は濃味も喜ぶ」というこいしの助言を聞き入れて、結局、カルボナーラのパスタをつくることにした。
吸血鬼の味覚というのは、人間のそれとはかなり異なる。そのことを初めて知ったのは、咲夜に会った時だったか。
塩味、鉄味と、それに旨味。吸血鬼の舌は血を味わうのに特化していて、だからそういった味覚が特に鋭敏で、そしてそういう味わいを殊に好むようにできている。
咲夜は違う。咲夜の好みは、甘みの強くて、濃いめの味。私やお姉様にとっては、いまいち分からない類の味付け。
だから私は、咲夜と食事の話ができない。話せてせいぜい、今日のお昼は美味しかったとか、そのくらいだから。
そういうとき、私はこいしが、少しばかり羨ましい。きっとこいしは食事の話で、咲夜と盛り上がることができるだろうから。
何故ならこいしは甘党で、濃い味が好きで、子供舌で。
つまるところは、咲夜と同じであるのだから。
「……うん、美味しい。ばっちりだと思うわ」
こいしの言葉に、大きく私は息を吐いた。ごちそうさまでした、と丁寧に手を合わせるこいしに、助かったわ、と声をかけると、問題ないわと手を振られた。
「私が好きでやっていることだもの」
「そうだとしても、よ」
私は応える。こいしの力添えがなければ、咲夜に出せる味付けなんて作ることができなかっただろうから。
最初は妖精に食べてもらおうと思っていた。普段から館の中で何人も遊んでいるのだし、味覚もほどほどに人間に近い。とはいえそれも程度問題で、彼女らに認められたからとて咲夜が楽しめるようなできになっているかは不透明だった。勿論他に取れる手段はなかったし、もしもこいしがいなかったら、実際そうしていただろうけど。
だからこいしには感謝をしきれない。咲夜とおなじ甘党で、味覚構造も人間そっくりのこいしになら、安心して味の確認を頼めるから。
……それにしても、とふと思う。
「私が言うべきじゃないんだけど、一週間も、毎日同じ食事を出されて、よくこいしは飽きなかったわね」
私はこいしにそう問いかけて、あれ、とそこで微かな違和感に首を傾げた。「いやまあだって、朝と夜には家で普通に食べてたもん」と笑ってこいしが言ったのも、ほとんど意識の外にあった。
すぐに違和感のもとは見つかった。というより、有難さにかまけて目を逸らしていたものごとを、思い出したのが正確なところだ。私が反応を返さないからか「どうしたの?」と問うこいしに向かって、私はひとつ問いかけた。
「里の方には、遊びに行かなくていいわけ?」
こいしの表情が凍り付いた、と私は一瞬錯覚した。正しくは、しばしの間凍り付いたのは、こいしの身体の全てだった。
「あー……うん。しばらくは、もう里の方には、行く用事がなくなっちゃってさ」
こいしはぎこちなく微笑んだ。
「あの子たちはね、私のこと、もう忘れちゃったから」
今度は私が凍り付く番だった。どんな表情になっていたかは、こいしの慌てたような反応を見てすぐに知れた。
「いいのよ。フランちゃんの気にすることじゃないわ。こんなのよくあることだもの。ええ、本当によくある、いつものこと。むしろ祝うべきことなのよ? あの子たちは平穏無事に、大人の仲間入りできたんだってことなんだもの。妖怪に喰われることもなく、病に倒れることもなく、それに社会から弾かれることもなく、ね。だからフランちゃん、そんな申し訳なさそうにしなくていいのよ。いいの、大丈夫だから」
繕わなくてはという思いだけが先走り、結局まるで思い通りに動いてくれない私の貌を恨みながら、私はこいしの続けた言葉を聞いていた。
「――ああ、でも、ねえフランちゃん。これは本当に、どうしようもない私のエゴなんだけどね」
そう言って、こいしは苦笑したようだった。そう気付いたのは後のことだ。冷静でいられなかったそのときの私には、それは泣き笑いにしか見えなかった。
「フランちゃんだけはさ、私のこと、ずっと覚えててくれないかな」
そのこいしの言葉に、私は咄嗟に頷くことができなかった。
分かっていたことだった。
こいしのことを覚えているのは、基本的には不可能である。私はただ、私自身の持っている幼さの一面によって、そして彼女の有する空想少女の側面によって、運良くこいしを覚えているのに過ぎないのだ。そして、幼さを失ったかつての少年少女たちは、もう決してこいしを思い出すことはない。こいしの能力というものは、つまりそういうものなのだ。
分かっていたことだ。私が少女心を忘れた瞬間、こいしは私の中から失われるということは。
私にはそれが悲しかった。……否。
私はそれが悔しかったのだ。まるで、運命に負けているようで。
だから、私はこいしのエゴを受け止めたい。先は狼狽えてしまったけれど、次こそは。
策はある。今思いついた。あとは導線がなにかあれば。
「やほ」
次にこいしが私の部屋を訪れたのは、次の日のことで、丁度私が魔術式の最後の行を描き始めたときだった。
「いらっしゃい。悪いわねこいし、ちょっと今手が離せないの」
「大丈夫だよー、気にしてくれなくてもいいわ」
中空に指を走らせながら私がそう言うと、こいしはひらひらと手を振った、のだろう。見えないけれど、なんとなくそういう雰囲気がした。
「私が気にするの」
「あー」
私の言葉に呆れ半分、笑い半分で声を返してきたこいしは、いつも通りの軽快さで、昨日の寂しそうな声音などは想像もできないような様子だった。私はそれに幾許ほどか安心していた。
「そうそう、咲夜の件はありがとね。無事喜んでもらえたわ」
「ほんと? それならよかった」
「食べてる間に10回ぐらい時止めてたわね」
「それ喜んでるの?」
「喜びのあまりタップダンスでも踊ってたのだと睨んでいるんだけど」
「うーん紅魔式」
そこまで言って、こいしはあれ?と声を上げた。
「じゃあ、今書いてるのは?」
「これは別件よ、……と。待たせたわね」
私はそう言って、魔術式にピリオド(終了処理)を打った。傍に置いていた材料のボウルを引き寄せて、指から一滴血を垂らして、そして魔術式を起動させる。
水が小麦を捏ね、その生地で風がホイップを包み、その球体を火が焼き上げ、その完成品を土の磁器に乗せる。
そうしてできたその作品を、私はこいしに差し出した。
「だから、はい。これは、咲夜の件のお礼よ」
こいしはお皿を受け取って、ぽかんとした顔でまじまじと見つめていて、それを眺めてみていることは、私にはなかなか面白かった。
「シュークリーム……」
知ってたの?と首を傾げたこいしに、調べたのよ、と私は胸を張った。
――こいしの側面の一つ、メリーさんの電話。
少女心の象徴、とある人形を捨てた女に、不幸が舞い降りる都市伝説。
背を壁につける、メリーさんより早く移動する、などの有名な対策のその一つ。
それが、メリーさんにシュークリームを渡すこと。
「こいしのことを忘れても、これで一回は見逃してくれるんでしょ?」
「ずるいなあ」
こいしは私の言葉に苦笑いして、「まあ、別にいいんだけどさ」と呟いて。そして「いただきます」と手を合わせてから、シュークリームに齧り付いた。
「どう?」
「うーん、ちょっとさ、塩味利かせすぎかなこれ。しょっぱさは甘さを引き立てるとは言うけどね、これは流石にやりすぎだって」
「そうね、次は気を付けるわ」
こいしはべーと舌を突き出して文句を言って、けれどすぐに全て食べ切ってご馳走様と手を合わせたので、私はふふと笑ってしまった。意地悪と文句を言うこいしに悪かったわと手を振って、それから私は指を一本立ててみせた。
「それともう一つ、これは昨日の返事」
「あー……」
こいしは少しばかり思い返すような仕草を見せて、それから「気にしなくても良かったのに」と困ったように笑いかけた。
別にこいしが気にする必要はない。これは私のエゴでもあるから。とは言わないけど。
「さっきのシュークリームには、私の血が一滴落としてあるの」
代わりに、話を先へ進める。指をくるくると回しながら、私は言う。
「吸血鬼にして、悪魔にして、魔法少女の私の血。隷属のしるしにして、契約のしるべの血よ」
小指を立てて目を凝らすと、僅かばかりに、こいしに繋がった赤い線が見えた。成功だ。私は笑ってこいしに言った。
「どっちをするにも足りないけれど、こいしのことを忘れないよう、心に繋ぎ留めておく分には、一滴あれば十分でしょう?」
こいしはぱちくりと目を瞬かせた。暫く考え込むように押し黙って、けれどその表情はゆっくり緩んでいるようだった。そうして幾らか経ったところで、耐え切れなくなったようにこいしは笑った。
「もう、吃驚したわ。フランちゃんたら案外メルヘンが好きなのね」
「こいしは失礼なことを言うのね」口を尖らせて私は言った。「こういうときは、少女心を忘れない、って言うべきでしょうに」
「そうねえ」
こいしはけらけらと笑い続けて、なんだか私は拍子抜けしたような気分だった。そうして、は、とそっと溜息を洩らしたところで、唐突にこいしが抱き着いてきた。
「ありがとねフランちゃん。いま私、とっても嬉しいの」
こいしは安心したような声音で、そっと私に囁いた。
滅多に見せないこいしの珍しい反応に、私はひどく驚いた。けれど、私のとるべき答えはすぐに分かった。
「どういたしまして」
私はこいしの背中を撫ぜて、そんな言葉を呟いた。
良いこいフラでした。こいしを忘れないために、フランの出した答え。素敵だと思います。
その答えに対するこいしの反応も可愛かったです。可愛い二人に癒されました。
ブクマしました!