冬になれば夏の暑さを忘れるし、夏になれば冬の寒さを忘れてしまう。はるか昔に経験した砂漠の熱というものを思い出したのは、やはりこうして実際に砂漠に来てからのことで、幾度となく書物で目にした、うだるような暑さなどというお決まりの表現で納得のできるものでは到底なかった。暑さの質というものが、そもそも違う。どちらかというと、焼けるような……とか、そういった、より激しい言葉の方が適当な気はしていた。
日本は湿度が高くて、いわゆる砂漠と言われる地帯にはそれがない分、実はましなのだ、などと書かれていた本もあった。湿度というものに関しては間違っているわけではないけれど、そもそも両者はあまり比べるべきではないのだと思っていた。暑さを感じる器官がそもそも違うのではないか……なんて、根拠も何もないことを、熱に浮かされた頭は考えてしまう。
暑いものは暑い。
熱いものは熱い。
……もはや考えてるとすら言えない、気怠げな思考の回転。
「アリス?」
頬を伝った汗が顎から落ちていくのと同時に、テントへと魔理沙が戻ってきて、掠れた声で私の名前を呼んだ。ここに来る前までは毎日綺麗に整えられていた艶やかな髪も、今では遠目に見てもわかるほどに水分を失って、荒れてしまっている。私がそっとその頬に手を伸ばすと、彼女は抵抗することなく、小首を傾げながらそれを受け入れた。指先が乾いた肌に触れる。
「また、何か考えてる?」
「……考えるほど、頭が回転しないから大丈夫よ」
嘘ではなかった。
麻痺した、と言っても良い。
それこそ数日前の私は、やはり魔理沙を連れてくるべきではなかったかもしれない、と悩んだり後悔したりを繰り返していたというのに、今ではすっかりそういうことすら考えられなくなった。
熱に奪われる思考。
けれどそんな状況すら彼女は楽しんでいるかのように見えてしまって、私にはそれが羨ましくもあり、腹立たしくもあった。
とはいえ……そう、ここは魔理沙の生きてきた「安全」の中ではない。守ってくれる人が影に隠れている訳でもない。今はこうして生きているけれど、下手をすれば……そう、下手をすれば死にかねない。そういう環境で、そういう空間だ。
魔理沙は聡明だ。
もしかしたら、私以上にその気配を敏感に感じ取れるかもしれない、というくらいには。
「……魔理沙はどうして、一緒に来ようと思ったの?」
「あ、やっと訊くんだ、それ」
三週間前、何も事前に告げずに突然とばかりに魔界に行くことを私が告げたとき、間髪入れずに「わたしも一緒に行きたい」などと彼女が言い出したのには確かに驚いた。けれど魔理沙の言うとおり、そのときの私は何も訊かなかったのだ。驚いたのは事実だったけれど、別に不思議に思ったわけでも、知りたいと思ったわけでもなかった。もっと言えば、理由とか、そういう部分には興味がなかったのだ。行きたいと言ったのが魔理沙だったから、じゃあ、ついてくれば、というくらいにしか考えなかった。
もちろん、幻想郷と比べて過ごしやすい環境でないことはその場にいた誰よりも知っていたから、「いつでも帰って良いからね」と突き放すような台詞を口にしたことも覚えている。
普段の私は、そんな言い方はしない。
……そもそも、私はどうして……?
記憶の奥の方に沈んでしまったそれに、この熱の中では指先が届くことはない。思い出せないもどかしさも、砂に埋もれて消えてしまったかのようだった。
どうして、私はかつての故郷に。
破り捨てられた型紙と、布切れの散乱した自室が、脳裏に一瞬だけ蘇って、消える。
「だって、アリスが何も言わないから」
「訊かれなかったから」
「そういう、意地悪言うんだ」
「……わたしはね、アリス」くすりと笑って、魔理沙が顔を半分覆っていたスカーフを外した。「そういうことをアリスがちっとも訊こうとしないから、ついてきたんだよ」
「ふぅん……?」
意味はよくわからなかった。考えようとしてもうまく頭が働かなくて、私は水筒に口を付けて中を空にする。あとどれくらい残っていたか、と少しだけ記憶の棚を開けてみて、すぐにやめる。
私は話題を変えようとして、魔理沙が外に顔を出していた理由を思い返した。
「それで、どうだった?」
「外? だめだめ、やっぱり砂嵐がすごくて……ラクダもじっとしたまま動かないし、まだかなあ」
「そう」
いずれにせよ、そうだ。
この酷い嵐が止まないことには、私たちに希望はないのだろう。無理に動いても、どこにもたどり着けない。視界だけでもはっきりさせないと、無力なわたしたちには何をすることもできやしない。
こんな砂の中で、じっとしている。
「なぁアリス、わたしたち、このままだったらどうなる?」
「干からびて、死ぬかもね」
「死んだらどうしようか」
「どうしようね……」
乾いた唇で笑う魔理沙は、強がっているようではなかった。別に、本当に死ぬなんてこれっぽっちも思っていないような顔。光を失わないその瞳は、言外に「アリスがなんとかしてくれるんじゃないか」なんて無責任なことを言っているようにも思えた。
「死んだって……ここではないどこかに行くわけじゃないのよ、魔理沙」
だから、あなたの期待しているような新しい体験はできない。
そう口の中で付け加えて 私は豪奢な刺繍の絨毯に身体を横たえた。地面を通じて、ごう、という砂嵐の振動が身体に伝わる。
「大丈夫、アリス?」
「暑いのが、つらいわね」
「そうだな」
「なんか、イメージ、浮かぶかも……」
無意識に口にした言葉が、私を縛る。
そう、思い出した。
そうだった……私は、それが怖くて……逃げ出したのだ。
あの湿度の高い森から、乾いた国へ。
生きて帰るために、逃げ出したのだ。
期待とプライドと、あらゆる何もかもに押しつぶされそうになる、それでいて明るくて心地よい世界に、私は帰りたくて。
「……でも、」
私は瞳を閉じた。
静かだった。
何も聞こえない。
頬に、魔理沙の指先が触れる。いつも感じていた、柔らかい肌ではなかった。硬くなった指先で、私の乾いた頬を数回、面白そうに突っつく。うふふ、と少し掠れた声でころころと笑って、魔理沙は心から愉快だとでも言いたげにそんなことを続けた。
静かだ。
魔理沙の声しか。
……静か?
「魔理沙、魔理沙、ねぇ、」
「どうした?」
「静かになった。止んだかも」
「本当だ。見てくる」
「お願い」
私は両腕を広げて、大の字になって寝ころんだ。嵐が身体に響かない。魔理沙の嬉しそうな声が聞こえるよりも早く、私は確信していた。自由が、やっと戻ってきた。これで帰れる。いや、それよりも先に本来の目的地へ行かなくてはならないけれど、これで、いつもの、文明の中へと戻っていける。
「やったな、アリス」
「私たちは何もしていないけれどね」
「まぁ、そうだけど。ほら、アリス、早く行こう?」
「……うん、」
私は起きあがって、嬉しそうに荷物をまとめながらはしゃぐ魔理沙の姿をじっと見つめた。衣服からぱらぱらと砂がこぼれ落ちる。私も同じような状況だろう。すっかり汗で滲んだ額にも、なんだか気持ち悪い湿った砂の感覚がこびりついている。
ゆらゆらと立ち上がって、魔理沙の隣に立って、荷物の整理を手伝う。
「帰ろうか」
「幻想郷に?」魔理沙が首を傾げる。
「いえ……どうかしら」
そもそも。
そもそもの話、だ。
誰も、一緒に来るとは言わなかった。誰だって、そういう言葉はかけなかった。けれど、たぶん、誰が一緒に来ると言ったって、私は拒んでいたのではないだろうか。いや、それは確信だった。
霧雨魔理沙が一緒に来るなんてことを言い出すものだから、私は今日、一人ではなかった。
「とりあえず、行きましょう、魔理沙」
「ん? うん」
一瞬頭に浮かんだイメージを捨てて、私は魔理沙ににっこりと微笑んでみせる。そういうことは、また明日考えればいいことだろう。
少なくとも、私たちがこの砂を浴びて、乾いてしまっているうちは。
日本は湿度が高くて、いわゆる砂漠と言われる地帯にはそれがない分、実はましなのだ、などと書かれていた本もあった。湿度というものに関しては間違っているわけではないけれど、そもそも両者はあまり比べるべきではないのだと思っていた。暑さを感じる器官がそもそも違うのではないか……なんて、根拠も何もないことを、熱に浮かされた頭は考えてしまう。
暑いものは暑い。
熱いものは熱い。
……もはや考えてるとすら言えない、気怠げな思考の回転。
「アリス?」
頬を伝った汗が顎から落ちていくのと同時に、テントへと魔理沙が戻ってきて、掠れた声で私の名前を呼んだ。ここに来る前までは毎日綺麗に整えられていた艶やかな髪も、今では遠目に見てもわかるほどに水分を失って、荒れてしまっている。私がそっとその頬に手を伸ばすと、彼女は抵抗することなく、小首を傾げながらそれを受け入れた。指先が乾いた肌に触れる。
「また、何か考えてる?」
「……考えるほど、頭が回転しないから大丈夫よ」
嘘ではなかった。
麻痺した、と言っても良い。
それこそ数日前の私は、やはり魔理沙を連れてくるべきではなかったかもしれない、と悩んだり後悔したりを繰り返していたというのに、今ではすっかりそういうことすら考えられなくなった。
熱に奪われる思考。
けれどそんな状況すら彼女は楽しんでいるかのように見えてしまって、私にはそれが羨ましくもあり、腹立たしくもあった。
とはいえ……そう、ここは魔理沙の生きてきた「安全」の中ではない。守ってくれる人が影に隠れている訳でもない。今はこうして生きているけれど、下手をすれば……そう、下手をすれば死にかねない。そういう環境で、そういう空間だ。
魔理沙は聡明だ。
もしかしたら、私以上にその気配を敏感に感じ取れるかもしれない、というくらいには。
「……魔理沙はどうして、一緒に来ようと思ったの?」
「あ、やっと訊くんだ、それ」
三週間前、何も事前に告げずに突然とばかりに魔界に行くことを私が告げたとき、間髪入れずに「わたしも一緒に行きたい」などと彼女が言い出したのには確かに驚いた。けれど魔理沙の言うとおり、そのときの私は何も訊かなかったのだ。驚いたのは事実だったけれど、別に不思議に思ったわけでも、知りたいと思ったわけでもなかった。もっと言えば、理由とか、そういう部分には興味がなかったのだ。行きたいと言ったのが魔理沙だったから、じゃあ、ついてくれば、というくらいにしか考えなかった。
もちろん、幻想郷と比べて過ごしやすい環境でないことはその場にいた誰よりも知っていたから、「いつでも帰って良いからね」と突き放すような台詞を口にしたことも覚えている。
普段の私は、そんな言い方はしない。
……そもそも、私はどうして……?
記憶の奥の方に沈んでしまったそれに、この熱の中では指先が届くことはない。思い出せないもどかしさも、砂に埋もれて消えてしまったかのようだった。
どうして、私はかつての故郷に。
破り捨てられた型紙と、布切れの散乱した自室が、脳裏に一瞬だけ蘇って、消える。
「だって、アリスが何も言わないから」
「訊かれなかったから」
「そういう、意地悪言うんだ」
「……わたしはね、アリス」くすりと笑って、魔理沙が顔を半分覆っていたスカーフを外した。「そういうことをアリスがちっとも訊こうとしないから、ついてきたんだよ」
「ふぅん……?」
意味はよくわからなかった。考えようとしてもうまく頭が働かなくて、私は水筒に口を付けて中を空にする。あとどれくらい残っていたか、と少しだけ記憶の棚を開けてみて、すぐにやめる。
私は話題を変えようとして、魔理沙が外に顔を出していた理由を思い返した。
「それで、どうだった?」
「外? だめだめ、やっぱり砂嵐がすごくて……ラクダもじっとしたまま動かないし、まだかなあ」
「そう」
いずれにせよ、そうだ。
この酷い嵐が止まないことには、私たちに希望はないのだろう。無理に動いても、どこにもたどり着けない。視界だけでもはっきりさせないと、無力なわたしたちには何をすることもできやしない。
こんな砂の中で、じっとしている。
「なぁアリス、わたしたち、このままだったらどうなる?」
「干からびて、死ぬかもね」
「死んだらどうしようか」
「どうしようね……」
乾いた唇で笑う魔理沙は、強がっているようではなかった。別に、本当に死ぬなんてこれっぽっちも思っていないような顔。光を失わないその瞳は、言外に「アリスがなんとかしてくれるんじゃないか」なんて無責任なことを言っているようにも思えた。
「死んだって……ここではないどこかに行くわけじゃないのよ、魔理沙」
だから、あなたの期待しているような新しい体験はできない。
そう口の中で付け加えて 私は豪奢な刺繍の絨毯に身体を横たえた。地面を通じて、ごう、という砂嵐の振動が身体に伝わる。
「大丈夫、アリス?」
「暑いのが、つらいわね」
「そうだな」
「なんか、イメージ、浮かぶかも……」
無意識に口にした言葉が、私を縛る。
そう、思い出した。
そうだった……私は、それが怖くて……逃げ出したのだ。
あの湿度の高い森から、乾いた国へ。
生きて帰るために、逃げ出したのだ。
期待とプライドと、あらゆる何もかもに押しつぶされそうになる、それでいて明るくて心地よい世界に、私は帰りたくて。
「……でも、」
私は瞳を閉じた。
静かだった。
何も聞こえない。
頬に、魔理沙の指先が触れる。いつも感じていた、柔らかい肌ではなかった。硬くなった指先で、私の乾いた頬を数回、面白そうに突っつく。うふふ、と少し掠れた声でころころと笑って、魔理沙は心から愉快だとでも言いたげにそんなことを続けた。
静かだ。
魔理沙の声しか。
……静か?
「魔理沙、魔理沙、ねぇ、」
「どうした?」
「静かになった。止んだかも」
「本当だ。見てくる」
「お願い」
私は両腕を広げて、大の字になって寝ころんだ。嵐が身体に響かない。魔理沙の嬉しそうな声が聞こえるよりも早く、私は確信していた。自由が、やっと戻ってきた。これで帰れる。いや、それよりも先に本来の目的地へ行かなくてはならないけれど、これで、いつもの、文明の中へと戻っていける。
「やったな、アリス」
「私たちは何もしていないけれどね」
「まぁ、そうだけど。ほら、アリス、早く行こう?」
「……うん、」
私は起きあがって、嬉しそうに荷物をまとめながらはしゃぐ魔理沙の姿をじっと見つめた。衣服からぱらぱらと砂がこぼれ落ちる。私も同じような状況だろう。すっかり汗で滲んだ額にも、なんだか気持ち悪い湿った砂の感覚がこびりついている。
ゆらゆらと立ち上がって、魔理沙の隣に立って、荷物の整理を手伝う。
「帰ろうか」
「幻想郷に?」魔理沙が首を傾げる。
「いえ……どうかしら」
そもそも。
そもそもの話、だ。
誰も、一緒に来るとは言わなかった。誰だって、そういう言葉はかけなかった。けれど、たぶん、誰が一緒に来ると言ったって、私は拒んでいたのではないだろうか。いや、それは確信だった。
霧雨魔理沙が一緒に来るなんてことを言い出すものだから、私は今日、一人ではなかった。
「とりあえず、行きましょう、魔理沙」
「ん? うん」
一瞬頭に浮かんだイメージを捨てて、私は魔理沙ににっこりと微笑んでみせる。そういうことは、また明日考えればいいことだろう。
少なくとも、私たちがこの砂を浴びて、乾いてしまっているうちは。
どこか諦めているのかと。
砂が乾いて落ちていく感じが素敵です。内容というより景色、雰囲気を楽しむものですね