二童子の朝は早い。
後戸の国には太陽がない。無限に続く空間に、無数の扉が漂っているだけの国家だった。
そんな場所でも、二童子の体内時計は摩多羅隠岐奈によって調整されている。
今日も丁礼田舞と爾子田里乃は、同時に目を開け上体を起こすのだった。
四畳半の畳に敷かれた布団の上。周りに壁はない。代わりにあるのは四方を埋め尽くす扉。
舞が右に、里乃が左に首をひねる。お互いの相方を視界に入れる。
「おはよう、里乃」
「おはよう、舞」
挨拶を交わすと、いち早く舞が布団から這い出した。
続いて里乃がのっそりと出て、舞の脱ぎ捨てた寝間着を拾い上げる。
「今日も隠岐奈様はきちんと寝ていないのかな?」
「寝ていないかもねえ。きっと昨日も夜通しゲームをやっていたに違いないわ」
童子の装束に袖を通す。里乃は櫛を取ると、舞に手招きをした。
長い舞の髪に櫛を通し、後ろにまとめる。
「いつも僕達をポンコツ呼ばわりしているくせに、自分は不摂政なんだから困ったものだよ。ねえ里乃、いい加減隠岐奈様にビシッと言ってやるべきだと思うんだ」
「そうねえ、昨日も一昨日も同じことを言っていたような気がするわ」
髪をまとめるついでに、腰帯の結び目のいい加減なのを直してやる。
「だけど隠岐奈様が、私達の話を聞いてくれるかしら。どうせ、わかったわかった目の前にいる連中がドジばかり踏むからストレスが溜まって大変だなんて、嫌味を言われて終わるのよ」
「そんなこと言ってたっけ? 里乃は物覚えがいいよね」
「舞の物覚えが悪過ぎるだけだわ。今日はきちんと隠岐奈様のお話を聞いていなさいな」
二人肩を並べて、布団を畳む。
舞は畳の傍に駆け寄り、刀掛けに掛けられた刀ではないものを取り上げた。
里乃に茗荷の茎を手渡す。自身は槍じみた青竹を持つ。
「それじゃあ、行こうか里乃。隠岐奈様のご機嫌うかがいに」
「そうね、舞。だけど隠岐奈様の部屋へ行く扉はそっちじゃないわ」
里乃が舞の手を引いた。彼女が導いたのは、扉の中でも一際白くて大きなものだった。
扉の先には、雑多な光景が広がっている。
無秩序に重なった、厚さも年代も様々な書類。
重ねに重なり、そのどれもが書類ではち切れそうなタスクトレイ。
なぜか廃棄されず、放置されるがままになっているゴミ袋の山。
それらの中心に、隠岐奈がいた。一枚の扉と向き合って軽くうつむき、動く様子がない。
里乃はその様子を見て、大きなため息をついた。
「ほら、言った通りだったわ。隠岐奈様、朝ですよ。起きてください」
里乃が手を叩きながら近づいていく。
すると隠岐奈は、ゆっくりと首をもたげた。傍らの置き時計に目をやる。
「ふむ、こんな時間か。さすが、うちの目覚ましは優秀だ」
「たまには目覚まし以外も褒めてください。昨日は何で遊んでたんですか?」
隠岐奈は里乃を見て、人差し指を口元に当てた。
「内緒だ」
すかさず舞が、隠岐奈に詰め寄った。
「あー、ずっるいなー。僕たちだって遊びたいよ」
隠岐奈は左の手のひらを返すと、人差し指をちょいと動かした。
扉がするりと、動き出す。流れるように無数の扉の、彼方へと消える。
「お前達にはまだ早いコンテンツだよ」
「えー、もしかしてアダルトですかぁ?」
「そろそろ慎みなさい、舞」
隠岐奈はもめる二童子を差し置いて、ゆっくりと立ち上がった。
背をそらすと、メキメキと音が立つ。首を傾げたまま顔をしかめた。
「体を動かすがてら、着替えてくる。里乃はゴミの処分を、舞は朝食の準備を頼む」
「今日こそはちゃんと分別していただいてますよねー?」
「ああ、大丈夫だ、多分大丈夫だ」
「隠岐奈様ー、昨日と同じ味噌汁と納豆でいいですかー?」
「構わん。変なアレンジはなしで頼むぞ。ジャム入り納豆はさすがに個性的過ぎた」
「いけると思ったんだけどなぁ」
里乃がゴミ袋を抱える。舞が台所行きの扉を探す。
隠岐奈は扉の一つを開ける。扉の向こうは巨大な姿見だった。
鏡に映った自身の姿を見る。目の下に深々と刻まれた隈取を。
「絶対秘神の威厳のかけらもありゃしない。ついでに一風呂浴びて来るかな」
§
その日の朝食には、なぜか味噌汁にラー油が浮いていた。
隠岐奈は食器の後片付けを舞と里乃に任せると、椅子に歩み寄った。
タスクトレイから適当に、書類を一枚引っ張り出す。
「何々、太陽の畑の花の育ちが悪いから適当に生命力を撒いとけって? くっそあの魔神め、後戸の神を庭師か何かみたいに扱いやがって」
さらにもう一枚。
「魔法の森に異常拡張の兆しあり? あの森はしょっちゅうだな。それともこの前、思いっきり真冬にしてしまった反動か。まあいい、対応しよう」
何枚かの扉が、滑るように現れる。それらは隠岐奈の前で止まると、ひとりでに開いた。
それは誰かの背中を通して垣間見える、幻想郷の様々な光景。
ただし隠岐奈が見るのは、景色そのものではない。
後戸を持つ者の動きを通して、その場に宿る生命力精神力を測る。
「太陽の畑横ばい、魔法の森上げ基調と。んまぁ適当にやっときゃ良かろう。来たれ二童子」
「はーい」
舞と里乃が、隠岐奈の傍に肩を並べる。
「今日のダンススケジュールを申し渡す。太陽の畑で奮起の舞を一度、魔法の森で鎮静の舞を三度。午後の予定は追って伝える」
風切り音。里乃がまっすぐ右手を挙げている。
「激しくですか? じっくりですか?」
「そうだなあ、全部じっくりで頼む」
続いて舞が手を挙げた。
「隠岐奈様、次の休みはいつですか?」
「それ、ここで聞くとこかね? 悪いが今年いっぱいは休む予定など作れんぞ。我々の仕事の消化率よか、タスクが積まれるスピードのが早い」
「人材不足だよねー。童子の数を増やすべきじゃない? あの白黒魔法使いとか、こっち側に引き入れとけば良かったのに」
「私は嫌ーよ。舞の面倒見るだけでも手一杯だもの」
隠岐奈はぱんぱんと手を叩いた。脱線が始まると収拾がつかなくなる。
「人材確保は追い追いやるさ。今は目の前の仕事に集中。ささ、出ませい二童子」
「はーい」
新たな扉が飛んできて、二童子の前に降り立つ。二人は手を繋いで、揃って扉をくぐった。
「さて、と」
隠岐奈は姿勢を崩すと、新たな書類を引き抜いた。
そこに一尺ほどの小扉が飛んで来る。開いた扉の向こうには、一杯の湯飲みが置かれていた。
隠岐奈が湯飲みを取って茶を一口飲むと、新たな扉が次々現れ、隠岐奈の前に並んだ。
扉の一つ一つが、別々の景色を映す。隠岐奈はその様子を、順繰りに見る。
摩多羅神の仕事はひたすら地味で単調で、そしてブラックだ。
各地から上がってくる報告を基に、不具合の起こりそうな場所へ丁禮多や爾子多を派遣する。
言葉で説明するなら、それだけの話だ。
しかし、数が尋常ではない。この一世紀、タスクトレイは積まれる一方だ。
加えて幻想郷の調整には、ピアノの調律に似た繊細さを要する。
各地に散在する妖精の数。その生命力、精神力。
それら全てを勘案して、二童子にどの程度踊らすかを決める。
舞の言葉にも一理はある。しかし童子を増やすだけでは隠岐奈の負担がなかなか減らない。百童子にしたところで、隠岐奈の仕事を肩代わりするには至らないだろう。
一つの扉が、とある集落を映している。隠岐奈はそれを見て、薄く笑みを浮かべた。
後戸の景色は目まぐるしく左右に流れ、ときに三百六十度を一巡りする。
加えて、時折扉を掠める長い木枝。ともに聞こえてくる歌うような声。
景色を時々横切る、集落の住人の姿。後戸の持ち主を気に止める様子はない。
よく学んでいる。摩多羅神の魔力を与えれば、集落との軋轢もなくよき童子となろう。
しかしただ一点において、その者は童子の素質を致命的に欠いていた。
「やはり、二人舞でなくてはな。童子の力を与えるにしても、息の合った者同士でないと」
「隠岐奈はこだわりが強すぎるのよ。先の異変では無節操に候補者を集めたくせに」
「そりゃ、二童子の選び方が雑過ぎたからね。それから無闇に私の国 に入ってくれるな」
隠岐奈は後ろを振り向くことすらなく、二童子ではない者に向けて答えた。
「律儀に問合せメールを寄越していたら、対応に何年かかるかもわかりませんもの。どういう意味かはおわかりかしら?」
「ああ、わかってるつもりだよ。今度はどいつが障碍を起こしたんだい?」
「NST-06が応答を寄越さなくなったそうよ。藍からの報告」
「ふーむ」
隠岐奈の前に新たな扉が現れる。全部で十三枚。その一枚一枚を、開けたり閉めたりする。
そのうち一枚の開け閉めに、微妙な抵抗があった。隠岐奈の眉が歪む。
「プロセスの異常ではないね。しかし占有率が妙に上がってる。悪いものでも食べてしまったかもしれない。早めに対応した方が良さそうだな」
「KILLなさるの? いささか早くないかしら」
「そうならないことを祈りたいがね。直接様子を見る必要があると思う。丁禮多と爾子多に新しい仕事を振るから、即時というわけにはいかないが」
「なるべくお急ぎ下さいましね」
それを最後に声は途絶えた。隠岐奈は開きにくい扉をさらに開け閉めする。
「紫もよくよく、心配性だ」
左手を掲げる。手の上が淡く光り、一挺の鼓が姿を現した。
肩に担ぎ、打ち鳴らす。甲高い音が響き渡った。そこに里乃の声だけが聞こえてくる。
『どうしました?』
「現在の進捗は?」
『太陽の畑で一舞終わったところです。これから魔法の森に向かおうかと』
「うん、そのまま進めて。悪いが少し席を外す。昼食は二人で適当に済ましておいてくれ」
『いいですけど、午後は?』
「人間の里で奮起を二舞、霧の湖で鎮静を一舞。ああ、両方ともじっくりでな」
『わかりました。あ、舞がお昼は人里でうどんが食べたいと』
「あまり目立ち過ぎるなよ?」
通信を終える。隠岐奈は茶の残りを飲み干した。
「さて」
椅子を立つと、新たな扉の一つが隠岐奈の前に現れた。後戸の向こうは、血のように赤い。
ざくり、という感触が足を満たした。枯葉の山に、木靴が埋もれて沈む。
いずこかの山の中である。周囲には人の姿はおろか、妖精一匹も見当たらない。
「意外と、近くに居るな。いったい誰の後戸を通った?」
「私です、隠岐奈様」
後ろを向く。九尾の狐が隠岐奈に向けて頭を下げていた。
「おや、紫んとこの。わざわざ探しに来ていたのか、ご苦労なことだね」
「エラーの発生箇所を特定できておれば楽だろうと紫様が申しましたので、勝手ながら」
八雲藍が顔を上げる。
「NST-06はこの先で休憩を取っているようです。お急ぎください」
「休憩ねえ」
藍と二人して、道無き道を登っていくと、小さな棚地に行き当たった。
岩場に何かが、座り込んでいる。
人間にも見えないことはない。童子に似た赤い服を着ている。手には茗荷の枝を持っていた。
しかし体の周囲には時折靄のような何かが蠢き、時折左右に走っては姿を歪ませる。
加えて顔にあたる場所には、一枚の札が貼ってあった。道士の使う僵尸 にも似ている。
札には複雑な幾何学模様の列が描かれていた。細かい上に靄が時々それらを歪ませる。
隠岐奈はそれの様子を見ると、藍を手で制して前に出た。
「お前はこれ以上近づかない方がいいよ。式神がバグるから」
「人払いをいたしましょうか」
「要らんよ。そんなに時間もかからん」
隠岐奈は散歩でもするような感じで、それに歩み寄った。
近づくにつれ、蜂が飛ぶような音が隠岐奈の耳に届くようになった。
ぶぶぶ、ぶぶぶぶ、と、断続的に、呟くように。
隠岐奈は腰に手を当て、声高にそれへ声をかけた。
「こら。こんなところで何をしているんだ、爾子多」
ぶぶ、と呟きが途切れた。壊れたからくり人形のような動きで立ち上がり、姿勢を正す。
札の向こう側にある顔が、歪んだように見えた。
「%$おき☆な#さま?」
「ああ、私だよ。こんなところで油を売っていないで、早く持ち場へ戻りなさい」
爾子多と呼ばれたそれは、動揺するように左右へしきりと向きを変えた。
「おき€なさま※さっ*きから■■のすがた〆がみえないの〒です÷あのこ@はいったいどこ」
「丁禮多は少し遠い場所で働いているよ。心配は要らない」
隠岐奈は手を差し伸べる。爾子多の顔を覆う札から歪みが消えていった。
「お\おきなさ;〜ぶ・ぶぶぶぶ」
「さあ、行きなさい。丁禮多に遅れを取るようなら解任してしまうぞ?」
爾子多は手に茗荷を携え、歩き出した。隠岐奈と藍に目もくれず、山中に消える。
しばらくして、隠岐奈が振り返った。
「処置は完了した。結界巡回プログラムが破損したらしい。原因は不明だけどね」
「承知いたしました。紫様にもそのように」
「ねえ、藍」
藍は無言で、隠岐奈を見上げた。
「お前は紫の式神になって、何年になる」
「七百年か、八百年か。彼方の出来事なので、記憶に残っておりませんが」
「そうか。きやつのプログラミングが優秀なのか、ベースのお前が大妖怪であるからか」
隠岐奈は肩をすくめる。
「難儀なもんだよ、障碍の神ってやつは。障碍の者に力を与えることはできても、障碍そのものを癒すことができない。できちまったら信仰する理由がなくなるからだろうかね」
「紫様は、隠岐奈様を高く評価していらっしゃいます」
藍を見た。彼女は無感情な顔を隠岐奈に向けている。
「暴走を起こした童子も都度修復し、幻想郷を保守するエージェントとして役立てておられる。彼女らがいなければ、幻想郷はままなりません」
「対症療法がたまたま上手くいっているというだけさ。あいつらには私も紫にも説明できない呪 いを幾つも仕込んである」
隠岐奈は右目を細め、左の唇を持ち上げると左右非対称の笑みを浮かべた。
「元はちょっとした小間使いのつもりだったんだがね。いつからこうなっちまったんだろう。そのまま生きて、賎民達の中でろくでもない一生を終えるか。長年童子を続けて心を病んで、果ては単純作業をこなすばかりの幻想郷の歯車となるか。あいつらにとっては、どちらの方が幸せなのだろうかな」
藍は無言で、隠岐奈の顔を見上げている。しばらく、森の間をそよぐ風の音だけが聞こえた。
「そろそろ戻る。背中、貸してくれ」
「承知しました」
藍は隠岐奈に背を向けた。隠岐奈は藍の、九本の尻尾が埋め尽くす背中に後戸を作る。
その最中、隠岐奈はぼそりと藍に言った。
「さっきの話な。人ならざるお前には詮無い話だ。忘れてくれ」
「元より承知しております」
§
後戸の国に戻り、携帯食品で簡素な昼食を終える。
隠岐奈は他の扉の様子を見るのもほどほどに、一つの扉から紙束を引っ張り出した。
全てのページに、複雑怪奇な幾何学式が描かれている。
その形は、あの爾子多に貼られた札のものとよく似ていた。
隠岐奈は新しい紙に新たな幾何学を描き、前のものと見比べ、時に破り捨てた。
結界によって生じる磁場の歪み。地球の自転。月の公転。水金地火木土天冥海の位置関係。果ては、遥か遠方の星座の位置に至るまで調べ尽くした。
しかし、障碍神二千年の知識を用いても童子の暴走に至るメカニズムは捉えきれていない。
十年後か、一年後か、もしかすると明日か。舞と里乃にも破局が訪れよう。
回避する方法は二つ。
一つは舞と里乃に代わる誰かに丁禮多と爾子多を継承させ、古い童子を削除すること。
童子の代わりはまだ見つかっていないし、単なる問題の先延ばしでしかない。
しかしそれなら、舞と里乃は普通の人間として一生を終えられよう。
必ずしも、幸せなものになるとは限らないけれども。
もう一つは、絶対に障碍を起こさない童子を構築すること。
隠岐奈のみならず、賎民の誰もが思い描く理想の解決策だ。絶対不可能な点を除けば。
童子が優秀でも、人間は老朽化陳腐化を避けられないのだから。
隠岐奈はそうして、一時間ほどに亘りわき目もふらず式の構築に勤しんだ。
「はー、だる」
不意に腕を持ち上げ、ごきごきと鳴らす。少しの間天を見上げた。
視線を散らかった紙束に戻す。薄目で凝視すること、さらに数分。
「後にしよう。さすがに、疲れた」
紙束を集めて元の後戸へ片付ける。しばらくして、扉の一つが開いた。
「隠岐奈様、ただ今戻りました」
「あれー、隠岐奈様何やってんの? またゲームですかぁ?」
扉を閉め、彼方へと飛ばす。
「違うったら。お前達にはまだ早いコンテンツ」
「またそればっかり。たまには私達に丸投げしないで、ご自分でなさったら如何ですか?」
「それも、そうだな。運動も悪くない。どれ、忙しい童子達のためにも、今日は私が晩飯を作るとするかな」
「あー、レトルトで済ますのはなしですよー?」
三人は扉の一つを選び、その場を去る。
雑多なる後戸の国に、しばしの静寂が訪れた。
後戸の国には太陽がない。無限に続く空間に、無数の扉が漂っているだけの国家だった。
そんな場所でも、二童子の体内時計は摩多羅隠岐奈によって調整されている。
今日も丁礼田舞と爾子田里乃は、同時に目を開け上体を起こすのだった。
四畳半の畳に敷かれた布団の上。周りに壁はない。代わりにあるのは四方を埋め尽くす扉。
舞が右に、里乃が左に首をひねる。お互いの相方を視界に入れる。
「おはよう、里乃」
「おはよう、舞」
挨拶を交わすと、いち早く舞が布団から這い出した。
続いて里乃がのっそりと出て、舞の脱ぎ捨てた寝間着を拾い上げる。
「今日も隠岐奈様はきちんと寝ていないのかな?」
「寝ていないかもねえ。きっと昨日も夜通しゲームをやっていたに違いないわ」
童子の装束に袖を通す。里乃は櫛を取ると、舞に手招きをした。
長い舞の髪に櫛を通し、後ろにまとめる。
「いつも僕達をポンコツ呼ばわりしているくせに、自分は不摂政なんだから困ったものだよ。ねえ里乃、いい加減隠岐奈様にビシッと言ってやるべきだと思うんだ」
「そうねえ、昨日も一昨日も同じことを言っていたような気がするわ」
髪をまとめるついでに、腰帯の結び目のいい加減なのを直してやる。
「だけど隠岐奈様が、私達の話を聞いてくれるかしら。どうせ、わかったわかった目の前にいる連中がドジばかり踏むからストレスが溜まって大変だなんて、嫌味を言われて終わるのよ」
「そんなこと言ってたっけ? 里乃は物覚えがいいよね」
「舞の物覚えが悪過ぎるだけだわ。今日はきちんと隠岐奈様のお話を聞いていなさいな」
二人肩を並べて、布団を畳む。
舞は畳の傍に駆け寄り、刀掛けに掛けられた刀ではないものを取り上げた。
里乃に茗荷の茎を手渡す。自身は槍じみた青竹を持つ。
「それじゃあ、行こうか里乃。隠岐奈様のご機嫌うかがいに」
「そうね、舞。だけど隠岐奈様の部屋へ行く扉はそっちじゃないわ」
里乃が舞の手を引いた。彼女が導いたのは、扉の中でも一際白くて大きなものだった。
扉の先には、雑多な光景が広がっている。
無秩序に重なった、厚さも年代も様々な書類。
重ねに重なり、そのどれもが書類ではち切れそうなタスクトレイ。
なぜか廃棄されず、放置されるがままになっているゴミ袋の山。
それらの中心に、隠岐奈がいた。一枚の扉と向き合って軽くうつむき、動く様子がない。
里乃はその様子を見て、大きなため息をついた。
「ほら、言った通りだったわ。隠岐奈様、朝ですよ。起きてください」
里乃が手を叩きながら近づいていく。
すると隠岐奈は、ゆっくりと首をもたげた。傍らの置き時計に目をやる。
「ふむ、こんな時間か。さすが、うちの目覚ましは優秀だ」
「たまには目覚まし以外も褒めてください。昨日は何で遊んでたんですか?」
隠岐奈は里乃を見て、人差し指を口元に当てた。
「内緒だ」
すかさず舞が、隠岐奈に詰め寄った。
「あー、ずっるいなー。僕たちだって遊びたいよ」
隠岐奈は左の手のひらを返すと、人差し指をちょいと動かした。
扉がするりと、動き出す。流れるように無数の扉の、彼方へと消える。
「お前達にはまだ早いコンテンツだよ」
「えー、もしかしてアダルトですかぁ?」
「そろそろ慎みなさい、舞」
隠岐奈はもめる二童子を差し置いて、ゆっくりと立ち上がった。
背をそらすと、メキメキと音が立つ。首を傾げたまま顔をしかめた。
「体を動かすがてら、着替えてくる。里乃はゴミの処分を、舞は朝食の準備を頼む」
「今日こそはちゃんと分別していただいてますよねー?」
「ああ、大丈夫だ、多分大丈夫だ」
「隠岐奈様ー、昨日と同じ味噌汁と納豆でいいですかー?」
「構わん。変なアレンジはなしで頼むぞ。ジャム入り納豆はさすがに個性的過ぎた」
「いけると思ったんだけどなぁ」
里乃がゴミ袋を抱える。舞が台所行きの扉を探す。
隠岐奈は扉の一つを開ける。扉の向こうは巨大な姿見だった。
鏡に映った自身の姿を見る。目の下に深々と刻まれた隈取を。
「絶対秘神の威厳のかけらもありゃしない。ついでに一風呂浴びて来るかな」
§
その日の朝食には、なぜか味噌汁にラー油が浮いていた。
隠岐奈は食器の後片付けを舞と里乃に任せると、椅子に歩み寄った。
タスクトレイから適当に、書類を一枚引っ張り出す。
「何々、太陽の畑の花の育ちが悪いから適当に生命力を撒いとけって? くっそあの魔神め、後戸の神を庭師か何かみたいに扱いやがって」
さらにもう一枚。
「魔法の森に異常拡張の兆しあり? あの森はしょっちゅうだな。それともこの前、思いっきり真冬にしてしまった反動か。まあいい、対応しよう」
何枚かの扉が、滑るように現れる。それらは隠岐奈の前で止まると、ひとりでに開いた。
それは誰かの背中を通して垣間見える、幻想郷の様々な光景。
ただし隠岐奈が見るのは、景色そのものではない。
後戸を持つ者の動きを通して、その場に宿る生命力精神力を測る。
「太陽の畑横ばい、魔法の森上げ基調と。んまぁ適当にやっときゃ良かろう。来たれ二童子」
「はーい」
舞と里乃が、隠岐奈の傍に肩を並べる。
「今日のダンススケジュールを申し渡す。太陽の畑で奮起の舞を一度、魔法の森で鎮静の舞を三度。午後の予定は追って伝える」
風切り音。里乃がまっすぐ右手を挙げている。
「激しくですか? じっくりですか?」
「そうだなあ、全部じっくりで頼む」
続いて舞が手を挙げた。
「隠岐奈様、次の休みはいつですか?」
「それ、ここで聞くとこかね? 悪いが今年いっぱいは休む予定など作れんぞ。我々の仕事の消化率よか、タスクが積まれるスピードのが早い」
「人材不足だよねー。童子の数を増やすべきじゃない? あの白黒魔法使いとか、こっち側に引き入れとけば良かったのに」
「私は嫌ーよ。舞の面倒見るだけでも手一杯だもの」
隠岐奈はぱんぱんと手を叩いた。脱線が始まると収拾がつかなくなる。
「人材確保は追い追いやるさ。今は目の前の仕事に集中。ささ、出ませい二童子」
「はーい」
新たな扉が飛んできて、二童子の前に降り立つ。二人は手を繋いで、揃って扉をくぐった。
「さて、と」
隠岐奈は姿勢を崩すと、新たな書類を引き抜いた。
そこに一尺ほどの小扉が飛んで来る。開いた扉の向こうには、一杯の湯飲みが置かれていた。
隠岐奈が湯飲みを取って茶を一口飲むと、新たな扉が次々現れ、隠岐奈の前に並んだ。
扉の一つ一つが、別々の景色を映す。隠岐奈はその様子を、順繰りに見る。
摩多羅神の仕事はひたすら地味で単調で、そしてブラックだ。
各地から上がってくる報告を基に、不具合の起こりそうな場所へ丁禮多や爾子多を派遣する。
言葉で説明するなら、それだけの話だ。
しかし、数が尋常ではない。この一世紀、タスクトレイは積まれる一方だ。
加えて幻想郷の調整には、ピアノの調律に似た繊細さを要する。
各地に散在する妖精の数。その生命力、精神力。
それら全てを勘案して、二童子にどの程度踊らすかを決める。
舞の言葉にも一理はある。しかし童子を増やすだけでは隠岐奈の負担がなかなか減らない。百童子にしたところで、隠岐奈の仕事を肩代わりするには至らないだろう。
一つの扉が、とある集落を映している。隠岐奈はそれを見て、薄く笑みを浮かべた。
後戸の景色は目まぐるしく左右に流れ、ときに三百六十度を一巡りする。
加えて、時折扉を掠める長い木枝。ともに聞こえてくる歌うような声。
景色を時々横切る、集落の住人の姿。後戸の持ち主を気に止める様子はない。
よく学んでいる。摩多羅神の魔力を与えれば、集落との軋轢もなくよき童子となろう。
しかしただ一点において、その者は童子の素質を致命的に欠いていた。
「やはり、二人舞でなくてはな。童子の力を与えるにしても、息の合った者同士でないと」
「隠岐奈はこだわりが強すぎるのよ。先の異変では無節操に候補者を集めたくせに」
「そりゃ、二童子の選び方が雑過ぎたからね。それから無闇に私の
隠岐奈は後ろを振り向くことすらなく、二童子ではない者に向けて答えた。
「律儀に問合せメールを寄越していたら、対応に何年かかるかもわかりませんもの。どういう意味かはおわかりかしら?」
「ああ、わかってるつもりだよ。今度はどいつが障碍を起こしたんだい?」
「NST-06が応答を寄越さなくなったそうよ。藍からの報告」
「ふーむ」
隠岐奈の前に新たな扉が現れる。全部で十三枚。その一枚一枚を、開けたり閉めたりする。
そのうち一枚の開け閉めに、微妙な抵抗があった。隠岐奈の眉が歪む。
「プロセスの異常ではないね。しかし占有率が妙に上がってる。悪いものでも食べてしまったかもしれない。早めに対応した方が良さそうだな」
「KILLなさるの? いささか早くないかしら」
「そうならないことを祈りたいがね。直接様子を見る必要があると思う。丁禮多と爾子多に新しい仕事を振るから、即時というわけにはいかないが」
「なるべくお急ぎ下さいましね」
それを最後に声は途絶えた。隠岐奈は開きにくい扉をさらに開け閉めする。
「紫もよくよく、心配性だ」
左手を掲げる。手の上が淡く光り、一挺の鼓が姿を現した。
肩に担ぎ、打ち鳴らす。甲高い音が響き渡った。そこに里乃の声だけが聞こえてくる。
『どうしました?』
「現在の進捗は?」
『太陽の畑で一舞終わったところです。これから魔法の森に向かおうかと』
「うん、そのまま進めて。悪いが少し席を外す。昼食は二人で適当に済ましておいてくれ」
『いいですけど、午後は?』
「人間の里で奮起を二舞、霧の湖で鎮静を一舞。ああ、両方ともじっくりでな」
『わかりました。あ、舞がお昼は人里でうどんが食べたいと』
「あまり目立ち過ぎるなよ?」
通信を終える。隠岐奈は茶の残りを飲み干した。
「さて」
椅子を立つと、新たな扉の一つが隠岐奈の前に現れた。後戸の向こうは、血のように赤い。
ざくり、という感触が足を満たした。枯葉の山に、木靴が埋もれて沈む。
いずこかの山の中である。周囲には人の姿はおろか、妖精一匹も見当たらない。
「意外と、近くに居るな。いったい誰の後戸を通った?」
「私です、隠岐奈様」
後ろを向く。九尾の狐が隠岐奈に向けて頭を下げていた。
「おや、紫んとこの。わざわざ探しに来ていたのか、ご苦労なことだね」
「エラーの発生箇所を特定できておれば楽だろうと紫様が申しましたので、勝手ながら」
八雲藍が顔を上げる。
「NST-06はこの先で休憩を取っているようです。お急ぎください」
「休憩ねえ」
藍と二人して、道無き道を登っていくと、小さな棚地に行き当たった。
岩場に何かが、座り込んでいる。
人間にも見えないことはない。童子に似た赤い服を着ている。手には茗荷の枝を持っていた。
しかし体の周囲には時折靄のような何かが蠢き、時折左右に走っては姿を歪ませる。
加えて顔にあたる場所には、一枚の札が貼ってあった。道士の使う
札には複雑な幾何学模様の列が描かれていた。細かい上に靄が時々それらを歪ませる。
隠岐奈はそれの様子を見ると、藍を手で制して前に出た。
「お前はこれ以上近づかない方がいいよ。式神がバグるから」
「人払いをいたしましょうか」
「要らんよ。そんなに時間もかからん」
隠岐奈は散歩でもするような感じで、それに歩み寄った。
近づくにつれ、蜂が飛ぶような音が隠岐奈の耳に届くようになった。
ぶぶぶ、ぶぶぶぶ、と、断続的に、呟くように。
隠岐奈は腰に手を当て、声高にそれへ声をかけた。
「こら。こんなところで何をしているんだ、爾子多」
ぶぶ、と呟きが途切れた。壊れたからくり人形のような動きで立ち上がり、姿勢を正す。
札の向こう側にある顔が、歪んだように見えた。
「%$おき☆な#さま?」
「ああ、私だよ。こんなところで油を売っていないで、早く持ち場へ戻りなさい」
爾子多と呼ばれたそれは、動揺するように左右へしきりと向きを変えた。
「おき€なさま※さっ*きから■■のすがた〆がみえないの〒です÷あのこ@はいったいどこ」
「丁禮多は少し遠い場所で働いているよ。心配は要らない」
隠岐奈は手を差し伸べる。爾子多の顔を覆う札から歪みが消えていった。
「お\おきなさ;〜ぶ・ぶぶぶぶ」
「さあ、行きなさい。丁禮多に遅れを取るようなら解任してしまうぞ?」
爾子多は手に茗荷を携え、歩き出した。隠岐奈と藍に目もくれず、山中に消える。
しばらくして、隠岐奈が振り返った。
「処置は完了した。結界巡回プログラムが破損したらしい。原因は不明だけどね」
「承知いたしました。紫様にもそのように」
「ねえ、藍」
藍は無言で、隠岐奈を見上げた。
「お前は紫の式神になって、何年になる」
「七百年か、八百年か。彼方の出来事なので、記憶に残っておりませんが」
「そうか。きやつのプログラミングが優秀なのか、ベースのお前が大妖怪であるからか」
隠岐奈は肩をすくめる。
「難儀なもんだよ、障碍の神ってやつは。障碍の者に力を与えることはできても、障碍そのものを癒すことができない。できちまったら信仰する理由がなくなるからだろうかね」
「紫様は、隠岐奈様を高く評価していらっしゃいます」
藍を見た。彼女は無感情な顔を隠岐奈に向けている。
「暴走を起こした童子も都度修復し、幻想郷を保守するエージェントとして役立てておられる。彼女らがいなければ、幻想郷はままなりません」
「対症療法がたまたま上手くいっているというだけさ。あいつらには私も紫にも説明できない
隠岐奈は右目を細め、左の唇を持ち上げると左右非対称の笑みを浮かべた。
「元はちょっとした小間使いのつもりだったんだがね。いつからこうなっちまったんだろう。そのまま生きて、賎民達の中でろくでもない一生を終えるか。長年童子を続けて心を病んで、果ては単純作業をこなすばかりの幻想郷の歯車となるか。あいつらにとっては、どちらの方が幸せなのだろうかな」
藍は無言で、隠岐奈の顔を見上げている。しばらく、森の間をそよぐ風の音だけが聞こえた。
「そろそろ戻る。背中、貸してくれ」
「承知しました」
藍は隠岐奈に背を向けた。隠岐奈は藍の、九本の尻尾が埋め尽くす背中に後戸を作る。
その最中、隠岐奈はぼそりと藍に言った。
「さっきの話な。人ならざるお前には詮無い話だ。忘れてくれ」
「元より承知しております」
§
後戸の国に戻り、携帯食品で簡素な昼食を終える。
隠岐奈は他の扉の様子を見るのもほどほどに、一つの扉から紙束を引っ張り出した。
全てのページに、複雑怪奇な幾何学式が描かれている。
その形は、あの爾子多に貼られた札のものとよく似ていた。
隠岐奈は新しい紙に新たな幾何学を描き、前のものと見比べ、時に破り捨てた。
結界によって生じる磁場の歪み。地球の自転。月の公転。水金地火木土天冥海の位置関係。果ては、遥か遠方の星座の位置に至るまで調べ尽くした。
しかし、障碍神二千年の知識を用いても童子の暴走に至るメカニズムは捉えきれていない。
十年後か、一年後か、もしかすると明日か。舞と里乃にも破局が訪れよう。
回避する方法は二つ。
一つは舞と里乃に代わる誰かに丁禮多と爾子多を継承させ、古い童子を削除すること。
童子の代わりはまだ見つかっていないし、単なる問題の先延ばしでしかない。
しかしそれなら、舞と里乃は普通の人間として一生を終えられよう。
必ずしも、幸せなものになるとは限らないけれども。
もう一つは、絶対に障碍を起こさない童子を構築すること。
隠岐奈のみならず、賎民の誰もが思い描く理想の解決策だ。絶対不可能な点を除けば。
童子が優秀でも、人間は老朽化陳腐化を避けられないのだから。
隠岐奈はそうして、一時間ほどに亘りわき目もふらず式の構築に勤しんだ。
「はー、だる」
不意に腕を持ち上げ、ごきごきと鳴らす。少しの間天を見上げた。
視線を散らかった紙束に戻す。薄目で凝視すること、さらに数分。
「後にしよう。さすがに、疲れた」
紙束を集めて元の後戸へ片付ける。しばらくして、扉の一つが開いた。
「隠岐奈様、ただ今戻りました」
「あれー、隠岐奈様何やってんの? またゲームですかぁ?」
扉を閉め、彼方へと飛ばす。
「違うったら。お前達にはまだ早いコンテンツ」
「またそればっかり。たまには私達に丸投げしないで、ご自分でなさったら如何ですか?」
「それも、そうだな。運動も悪くない。どれ、忙しい童子達のためにも、今日は私が晩飯を作るとするかな」
「あー、レトルトで済ますのはなしですよー?」
三人は扉の一つを選び、その場を去る。
雑多なる後戸の国に、しばしの静寂が訪れた。
(今日も摩多羅神の一日は平穏に過ぎる つづく)
三人全員それぞれ言動から個性がにじみ出しててとても好きなキャラたちでした
「つづく」で無限ループさせる構図も面白かった。
//おまじない ←すき
隠岐奈様悩みはいつになれば直るのでしょうね……気になります
駒が足りない幻想郷は賢者たちの奮闘で維持されているのですね
隠岐奈がリスペクトされてる作品をあまり見ないので新鮮でした
// なぜかこれなら動作する 消してはいけない↓