さとりが手元の本のページを捲ろうとした時、その両肩にぐっと重みがかかるのを感じた。
「ねえ、お姉ちゃん。おしゃべりしようよ」
さとりが顔を上げるとそこには逆さに映るこいしの顔があった。
面倒ね、とさとりが尚もページを捲ろうとすると、その手を包み込むようにこいしが遮る。
「お姉ちゃんはさ、心って何だと思う?」
吐息を吹きかけるようにさとりの耳元でこいしは囁く。
ぞくぞくとした不快感がさとりの背筋を走る。図らずも振り返ってしまうさとりであったが、その背後には誰もいない。
ため息を吐きながら前に向き直りゆっくりと脚を組むと、さとりはいつの間にか向かいの椅子に座っていたこいしに対して口を開いた。
「心は心よ」
「何その答え。倭訓栞でももう少し気の利いた説明するわよ」
こいしは明らかな不満を体現しながらぎっぎっと椅子を揺らす。
「あんたは一体私に何を求めているのかしら」
さとりは先ほどまで読んでいた本に栞を挟んで机に置くと片目でこいしを睨みつけるように鋭い声調で話を続ける。
だからおしゃべりだって、とこいしは悪びれる様子もなくへらへらとした笑みを浮かべながら再び問うた。
「心って何だと思う?」
さとりは遂に観念したように顔を伏すと、脚を組み替えながらようやく答えた。
「……心とは学習よ」
「学習って? どんなもの?」
こいしがさとりの飲みさしの紅茶を啜りながら訊ねる。
「知らないことを知ることね」
さとりは安楽椅子の背もたれに背中を預けながら言った。
「ふーん。じゃあ心は知らないものがなくなった状態のものを指すということかしら」
「ええ、その通りよ」
さとりはこいしからティーカップを取ると残った紅茶をくいと飲み干す。
「ところでお姉ちゃんは今私が何を考えているのか知ってる?」
「知るわけないでしょ」
さとりは空になったティーカップをカンと指で弾きながら答えた。
「そうよね、お姉ちゃんが知ってる訳ないものね。それを知るにはお姉ちゃんはどうするの?」
「どうしようもないわ」
こいしがティーポットを傾けて琥珀色の液体をさとりが弄んでいたカップに満たす。
「となると今、お姉ちゃんには知らないことがある状態ということね」
「ええ」
さとりが毅然とした声で答えながら角砂糖を二つ、カップの中に落とした。
「ちなみに確認なんだけれど、お姉ちゃんには心があるのかしら」
「あるわ」
こいしが注いだミルクがもやを作りながら琥珀と混ざり合っていく様を眺めながらさとりが告げる。
「さっき心は知らないものがない状態だと確認した訳だけれど、お姉ちゃんには知らないことがある。……そのお姉ちゃんにある心とは本当に心なのかしら?」
「ええ、心よ」
「あら、でも今の話を聞いて他の人……そうね、お空やお燐が聞いて納得するのかしら」
さとりから取り上げるようにこいしはカップを持ち上げるとスプーンでくるくると掻き混ぜた。
「お燐やお空どころか誰も納得しないでしょうね」
「それでもお姉ちゃんは心とは学習だと?」
こいしは掻き混ぜた紅茶を口に含むと少し渋い顔をしてもう二つ、角砂糖を放り込んだ。
「それが心だもの」
さとりがこいしの掻き混ぜようとしたカップを取り上げるとそのままあおった。
カップの中には溶けきっていない角砂糖のような塊が残る。
「矛盾ね」
「そうね、矛盾ね」
さとりは残った塊を人差し指で転がしながら復唱する。
そうして濡れた人差し指を咥えると満足そうに微笑んだ。
「ところでこいし。無意識って何かしら」
「自覚できない意識よ」
こいしはカップに再び紅茶を満たすと残った角砂糖を溶かしてさとりの手を傾ける様にして飲みこんだ。
「自覚できないということは知らないということね」
「そうよ」
さとりは空になったカップを逆さにしてソーサーの上に置く。
「あんたは無意識を知っているのよね」
「当然よ」
カップが置かれてしまい全ての興味を失った様にどっかと椅子に座ったこいしはゆらゆらと足を振る。
「でも無意識は自覚できない意識なのに、こいしは知ってる。……あんたが知ってる無意識とは本当に無意識なのかしら」
こいしの振り子のリズムに同調するようにさとりも安楽椅子を揺らす。
「そうね、無意識よ」
「あら、その説明で他人……お燐やお空は納得するとは思えないのだけれど」
こいしはぴたりと足の動きを止めるとさとりの顔を見据えた。
「お空もお燐も、どんな人も納得しないわ」
「それでも無意識は知らないものだと?」
さとりは目を瞑り、尚も揺られたまま訊ねる。
「それが無意識だもの」
こいしがとんっと椅子から立ち上がった。
弾みで椅子がガタンと倒れる。
「矛盾ね」
「そうよ、矛盾よ」
こいしは倒れた椅子を気に掛けることもなくさとりを見下ろして微笑む。
さとりはその様子を見ることもなく机の上に置いた読みかけの本に手を伸ばす。
「……さあ、満足したかしら? こいし」
「ええ、とても」
突然耳元から囁かれたさとりはまた背筋をざわつかせながら後ろを振り返る。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
さとりは静かに膝元に視線を落とし栞の挟まれたページを開くと元の読書に戻る。
書斎にはただ、紙を捲る音だけが響いていた。
「ねえ、お姉ちゃん。おしゃべりしようよ」
さとりが顔を上げるとそこには逆さに映るこいしの顔があった。
面倒ね、とさとりが尚もページを捲ろうとすると、その手を包み込むようにこいしが遮る。
「お姉ちゃんはさ、心って何だと思う?」
吐息を吹きかけるようにさとりの耳元でこいしは囁く。
ぞくぞくとした不快感がさとりの背筋を走る。図らずも振り返ってしまうさとりであったが、その背後には誰もいない。
ため息を吐きながら前に向き直りゆっくりと脚を組むと、さとりはいつの間にか向かいの椅子に座っていたこいしに対して口を開いた。
「心は心よ」
「何その答え。倭訓栞でももう少し気の利いた説明するわよ」
こいしは明らかな不満を体現しながらぎっぎっと椅子を揺らす。
「あんたは一体私に何を求めているのかしら」
さとりは先ほどまで読んでいた本に栞を挟んで机に置くと片目でこいしを睨みつけるように鋭い声調で話を続ける。
だからおしゃべりだって、とこいしは悪びれる様子もなくへらへらとした笑みを浮かべながら再び問うた。
「心って何だと思う?」
さとりは遂に観念したように顔を伏すと、脚を組み替えながらようやく答えた。
「……心とは学習よ」
「学習って? どんなもの?」
こいしがさとりの飲みさしの紅茶を啜りながら訊ねる。
「知らないことを知ることね」
さとりは安楽椅子の背もたれに背中を預けながら言った。
「ふーん。じゃあ心は知らないものがなくなった状態のものを指すということかしら」
「ええ、その通りよ」
さとりはこいしからティーカップを取ると残った紅茶をくいと飲み干す。
「ところでお姉ちゃんは今私が何を考えているのか知ってる?」
「知るわけないでしょ」
さとりは空になったティーカップをカンと指で弾きながら答えた。
「そうよね、お姉ちゃんが知ってる訳ないものね。それを知るにはお姉ちゃんはどうするの?」
「どうしようもないわ」
こいしがティーポットを傾けて琥珀色の液体をさとりが弄んでいたカップに満たす。
「となると今、お姉ちゃんには知らないことがある状態ということね」
「ええ」
さとりが毅然とした声で答えながら角砂糖を二つ、カップの中に落とした。
「ちなみに確認なんだけれど、お姉ちゃんには心があるのかしら」
「あるわ」
こいしが注いだミルクがもやを作りながら琥珀と混ざり合っていく様を眺めながらさとりが告げる。
「さっき心は知らないものがない状態だと確認した訳だけれど、お姉ちゃんには知らないことがある。……そのお姉ちゃんにある心とは本当に心なのかしら?」
「ええ、心よ」
「あら、でも今の話を聞いて他の人……そうね、お空やお燐が聞いて納得するのかしら」
さとりから取り上げるようにこいしはカップを持ち上げるとスプーンでくるくると掻き混ぜた。
「お燐やお空どころか誰も納得しないでしょうね」
「それでもお姉ちゃんは心とは学習だと?」
こいしは掻き混ぜた紅茶を口に含むと少し渋い顔をしてもう二つ、角砂糖を放り込んだ。
「それが心だもの」
さとりがこいしの掻き混ぜようとしたカップを取り上げるとそのままあおった。
カップの中には溶けきっていない角砂糖のような塊が残る。
「矛盾ね」
「そうね、矛盾ね」
さとりは残った塊を人差し指で転がしながら復唱する。
そうして濡れた人差し指を咥えると満足そうに微笑んだ。
「ところでこいし。無意識って何かしら」
「自覚できない意識よ」
こいしはカップに再び紅茶を満たすと残った角砂糖を溶かしてさとりの手を傾ける様にして飲みこんだ。
「自覚できないということは知らないということね」
「そうよ」
さとりは空になったカップを逆さにしてソーサーの上に置く。
「あんたは無意識を知っているのよね」
「当然よ」
カップが置かれてしまい全ての興味を失った様にどっかと椅子に座ったこいしはゆらゆらと足を振る。
「でも無意識は自覚できない意識なのに、こいしは知ってる。……あんたが知ってる無意識とは本当に無意識なのかしら」
こいしの振り子のリズムに同調するようにさとりも安楽椅子を揺らす。
「そうね、無意識よ」
「あら、その説明で他人……お燐やお空は納得するとは思えないのだけれど」
こいしはぴたりと足の動きを止めるとさとりの顔を見据えた。
「お空もお燐も、どんな人も納得しないわ」
「それでも無意識は知らないものだと?」
さとりは目を瞑り、尚も揺られたまま訊ねる。
「それが無意識だもの」
こいしがとんっと椅子から立ち上がった。
弾みで椅子がガタンと倒れる。
「矛盾ね」
「そうよ、矛盾よ」
こいしは倒れた椅子を気に掛けることもなくさとりを見下ろして微笑む。
さとりはその様子を見ることもなく机の上に置いた読みかけの本に手を伸ばす。
「……さあ、満足したかしら? こいし」
「ええ、とても」
突然耳元から囁かれたさとりはまた背筋をざわつかせながら後ろを振り返る。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
さとりは静かに膝元に視線を落とし栞の挟まれたページを開くと元の読書に戻る。
書斎にはただ、紙を捲る音だけが響いていた。
同じような結論に至るのがこれまた良かったです。
面白かったです。