疲れ知らずの氷の妖精が飛び回る冬の時期、山に囲まれた幻想郷では身動き取れぬ豪雪に見舞われることも珍しくない。雪に埋もれてしまっては無縁塚の物色に出歩くなど出来やしないし、ただでさえお客の少ない香霖堂の利用者はこの時期ぱったりと途絶えてしまう。こういう時は店の事を忘れ、しんしんと降りしきる雪の音に耳を傾けながら、積みあげた本を崩していくのが僕なりの風流な冬の過ごし方だ。
椅子に腰掛ける僕、窓の外には銀世界、静かな店に古書をめくる紙の音だけが響き、鼻腔をくすぐる挽きたての珈琲が香る。そこにさらに、冬ならではの欠かせない道具がある。
そう、ストーブだ。
「ああぁ~……もう家に帰りたくないぜぇ~……」
落ち着きのない魔理沙が動けなくなるほどの魔力をストーブは秘めている。囲炉裏も炬燵も無い僕の家ではこれが寒さを凌ぐ為の生命線なのだ。それはともかく、魔理沙は馬鹿なことを言ってないでちゃんと家に帰るべきだが。
「君には八卦炉があるだろ? 寒いのならそれで暖まればいいじゃないか」
魔理沙は『これだから素人は』と言わんばかりの小馬鹿にした表情をこちらに向けた。
「これだから香霖は分かってないなあ。暖まりたい時は一人より二人なんだよ。その方が心も暖かいだろ。その栄えある相方をお前で妥協してやってるんだから感謝してもらいたいところだぜ」
僕のことなど見向きもせずにずっとストーブに顔をときめかせていたくせによく言う。
「それよりちょっと火が弱いんじゃないか? 火力はパワーだぜ」
当たり前のことだ。魔理沙は少し火に当たりすぎて頭がのぼせてきているのではないか。
「燃料が残り少ないんだよ。だから節約して弱火で点けてるんだ」
減ったのならば買い足せばいいじゃないかと思われるかもしれないが、ストーブに使う灯油は幻想郷では精製する技術どころか原油を手に入れるアテも無い。ならば僕はどのようにして燃料を手に入れてるのかというと。
「あー、また紫に頼まなきゃいけないのか。それは嫌だもんなあ」
八雲紫。幻想郷創設にも携わった妖怪の賢者で、境界を操る程度の能力を持つ。彼女ならば幻想結界の外から燃料を持って来るなど容易いことだ。ただ、いつでもどこからでも出てこれる彼女は、僕が言うのもなんだが胡散臭さの塊だ。出来ればあまり積極的に関わりたくない人物の一人でもある。
「別に嫌というわけではないけど……ただその、心臓に悪いだけだ」
わかるぜ、その気持ち。魔理沙は愉快そうにうんうんと頷いた。
そうは言っても以前燃料の件で一度世話になってから、冬の時期には定期的に燃料を持ってきていただく契約を結んでいるお得意様だ。僕の方からぞんざいに扱う理由など有るはずもない。
「まーとにかく、紫がまた油を持ってくるまでは省エネってやつなんだな。そうだ、ちょうど昼時だし何か温かいものでも作ってやるよ」
魔理沙は僕の返答も聞かずに店の奥へと踏み入ってしまう。魔理沙はああ言ったが、食事を人ほど必要としない僕の為ではなく自分が食べたいから作るのだろう。それも使うのは僕の家の食材だから僕の損なのだが。
「くわー……相変わらずろくな材料が無いなあ。私が来ることも考えてちゃんと買っとけよなー」
奥から魔理沙の自分勝手な文句が届く。
「そのくせ砂糖菓子とかコーラとかそういうのは充実してるんだもんなー」
それは魔理沙がそのような甘い物が好きだから置いているのだ。僕は僕なりに気遣ってやっているというのに、魔理沙がそのことを理解できるほど大人になるのはいつの日だろうか。
──コン、コン、コン。
ああ、来たか。
全くリズムが狂わない、几帳面すぎるノックの音。それだけで扉を叩いたのが誰なのかはおよそ想像できた。
「いらっしゃいませ。どうぞお入り下さい」
ノックの主は僕の声をちゃんと確認してから扉を開いた。本当にこの店のお客様には稀に見る礼儀正しさだ。だが、それ以上に乱雑な踏み込み方の魔理沙とは決定的に違う点が一つある。
彼女は雪を払い落としていない。この大雪の中にも関わらず雪を欠片も被っていなかったのだ。
切れ長だが人懐こい表情を浮かべる彼女も、やはり結界の力を持った人外の一人なのだと否応なしに思い知らされる。
「霖之助殿、ご無沙汰しております。紫様の使いで参りました」
「毎年すまないね、藍君。寒い中そんな物を持って大変だったろう」
八雲紫の式神、八雲藍。彼女自身も九尾の狐という立派な妖怪であるにも関わらず、一妖怪の式神という立場に甘んじている。つまりは紫がそれ以上の大物だということを示している。
とにかくそんな大妖怪の彼女が、油の詰まった一斗缶を両手に使いっ走りさせられているのだ。
「そこに置いといてくれればいいよ。後は自分でやるから」
「承知しました。それより霖之助殿……例のアレですが」
「ああ、例のアレだね。奥にあるから今取ってくるよ」
僕は藍と不敵な笑みを交わし合い、朝からずっと座りっぱなしだった椅子から立ち上がった。彼女との間には、『例の』と言うだけで通じ合う密約が結ばれている。どうせ紫にはバレていないはずがないので秘密でも何でもないのだけど。
ともかく使われっぱなしで苦労しているだろう彼女への労いの為、僕は湯気と味噌の香りが漂う店の奥へと……ん、味噌?
味噌汁?
「何だ、待ちきれないのかー? そうかそうか、もうちょっとだから待っててくれよな」
ああ、やはりそうだったか。僕の悪い予感はよく当たってしまうのだ。特に魔理沙絡みの時には。
「魔理沙、やっぱり使ってしまったんだな。しまっておいたその油揚げ」
「もちろん使わせてもらったぜ。私お手製の茸と油揚げの味噌汁だ。ろくな物が無いからこれでも苦労したんだぞ」
そう、僕と藍の間の取り決めとは油揚げだった。秘密と言うにはあまりにも安直で申し訳ないが、彼女に渡すお駄賃としてこれ以上に相応しい物が思い浮かぶだろうか。だから勝手に持っていかれないように奥深くにしまっておいたというのに。いや、これは魔理沙の目敏さを見誤っていた僕の失点だ。
叱りたいことは叱りたいのだが……しかし、こんな年下の女の子に自信満々の笑みで料理を作られてそれが出来る人間がいるだろうか。少なくとも僕には無理だった。
「……お椀は三人分用意してくれるかい」
「おー、霊夢でも来たのか? あいつはいつもお腹空かしてるもんな」
魔理沙の中の霊夢は相当に貧困をこじらせているようである。僕の所に来れば大体茶菓子を貪っているし、他所でも貧乏神みたいな様を晒してはいないだろうな。
「……まったく、貴女という人は。他人の家で勝手に料理をするどころか、食材まで持ち出して使うなんて」
「だーかーらー、お前の味噌汁には多めに油揚げ入れてやったじゃないか。料理の手間が省けて良いだろ?」
奇妙な空間だ。
普段は僕一人で食事をする骨董品であふれた茶の間に女二人。魔理沙は見慣れたものだが、もう一人は黄金色の豊かな尻尾をなんと九本も蓄えた狐の妖怪ともなれば。
「料理を作ってくれたことは感謝するよ。だけど本当ならこの油揚げは私が独り占めできたものなんだからね」
「まあまあ藍君、もっと彼女の手の届かない所に置かなかった僕の落ち度でもあるし、魔理沙には後で言って聞かせるから勘弁してやってくれないかい」
「へっ。香霖が届いて私が届かない場所なんかあるもんか」
自分で言ってなんだが、僕もそう思う。彼女の手癖の悪さは邪仙にも引けを取らない一級品だ。言っても聞いてくれたこともないし。下手をすれば僕よりも僕の家の裏事情なんかには詳しいかもしれない。
──しかし。
僕は藍を眺める。大妖怪のはずの彼女も大好物の入った味噌汁をすすって顔をほころばせる様子は僕達と何ら変わらない。何しろあの八雲紫の式神だから、藍もその筋の手合いなのかと初見では身構えたものだが。もしかしたら彼女も僕の知らないところでは大妖怪の面目躍如たる活躍の場面があったのだろうか。
「霖之助殿、私が食事をする姿がそんなに珍しいですか?」
流石にじろじろ見すぎたか、藍が僕に目を合わせた。
「いや失礼。君のような大物が僕の家で味噌汁をいただいているという光景が信じられなくてね」
「ふふ、それはどうも。ですが紫様と比べれば私はまだまだですよ」
「いやあ、お前とやったのもだいぶ昔の話になってしまったけど、主人よりむしろお前の弾の方が難しい場面も結構有ったぜ。あの四面楚歌なんちゃらとか」
魔理沙は真っ直ぐな性格だから思ってもないお世辞を言わないだろうし、実際に戦って感じたならばそうなのだろう。それにしても、彼女もよくよく小さな人間の身で人智の及ばぬ存在と戦ってきたものだ。大怪我をして帰ってくることも珍しくはないはずなのに、魔理沙が絶対にそういった姿を僕に見せないのは、僕がどんな顔で何を言うかを分かっているからなのだろう。
何故だろうか、出会った頃からずっと、魔理沙が頑張る姿を見ていると僕は胸と手が熱くなるのを感じて……手?
「……あっつ!!」
味噌汁がこぼれていたらそりゃ熱い。おまけに反射的に手を動かしたものだから、お椀の残りはよりによって僕の胸元に飛び散ってしまったのだった。
「あーあー何やってるんだ香霖は。飯の時は飯に集中しろよなぁ。えーと拭く物はどこだっけな……」
何てことだ。魔理沙のことなんか考えていたせいで汁をこぼすだなんて。呆れた顔で立ち上がって布巾を絞りに行こうとする魔理沙だったが、それより先に驚きの光景が繰り広げられる。
「霖之助殿、火傷は無いですか? 動かないでくださいね」
なんと、魔理沙が行動起こすよりも先に藍が僕の体を拭きに来てくれたのだ。
「す、すまないね藍君。お客様の君にこんなことをさせるなんて申し訳ない」
「……おい香霖。それはどういう意味だ? まるで私なら申し訳あるみたいな言い方じゃないか」
そりゃあ、味噌汁を勝手に作ったのは魔理沙であるわけで。そこに文句は無いのだけれど。
「失礼、少し胸の所を開きますよ」
服越しに湿った胸元まできっちり拭いてくれるらしい。こんなこと、いつ以来だろうか。
手持ち無沙汰になってしまった魔理沙が僕と藍を交互に睨みつけてくるので非常に居心地が悪い。
「藍……お前、なんかやけに手慣れてないか? もしかしていつもこんなことやってるのか?」
「紫様はこの時期は眠っているのだが、たまに食事等の為に起きてくる。だがまあ、その……寝惚けているのでとてもうっかりしているんだ。だから、お世話用の道具は携帯していてね……」
嗚呼、思いもよらないところで賢者と謳われる大妖怪の情けない一面が僕の耳に。彼女が今だけ都合悪く起きているようことがないようにと強く願う。
「しかし……こうやって殿方の胸元に顔を近づけていると、遥か昔のことを思い出さずにはいられないな」
「そ、それはどういう……」
「おや、博識な霖之助殿ならば知らないはずはないでしょう? 九尾の狐の伝説のことですよ」
それはもちろん知っている。妲己という女性が中国にいた。酒池肉林の語源となった、贅の極みを尽くした宴を度々催して殷王朝を傾けた悪女と謂われる人物だ。そんな彼女、実は九尾の狐の化身だったと言い伝えられているのだが、それが今ここで味噌汁をすすっていた藍と同一人物とでも言うのか。だとしたら彼女はいったいどれほどの時を生きてきて、そんな人物が何故僕なんか。
「その、なんだ、僕はまだ王とか国とかそういう人じゃないんだ。だからそういうのは困るんだけど……!」
「この際ですから構いませんよ。私もたまには殿方のエキスでも吸いませんとねえ……」
藍の手が僕の胸元から服の中に入り込む。もう片方の腕は僕の背中に、細身の腕から想像できない力で僕を抑え、そして──。
「離れろ! エキノコックス!!」
──魔理沙が首根っこを掴んで引っこ抜き、危うく昼下がりの情事となりかけた事故は未遂に終わった。
彼女の顔は真っ赤っ赤である。本当に、終わって良かった。
「いたた……。酷いことするじゃないか。いきなり首を掴むなんて躾がなってないぞ」
「うるさい! 私の目の前でおっぱじめようとした奴に言われたくないわ!」
「貴女が見ているのに破廉恥な行為に及ぶわけがないでしょうに。少しは常識的に考えなさい」
非常識が常識である幻想郷の管理者側が言うことか。
「……だが、ふむ。悪ふざけが過ぎたのは事実ですね。謹んでお詫び申し上げます、霖之助殿」
衣服を整えた藍が深々と僕にお辞儀をした。魔理沙が止めなければどこまで行ったのか、実はほんの少しだけ期待していたとは言えない。
もはや味噌汁をすするような空気でも無くなってしまった。この奇妙な団欒もお開きにするべきだろうか。
「まあ、君も何かと苦労が多いだろうから気張らししたくもなるんだろうさ。主人が……いや、止めておこう」
「主人の躾が悪いな。二度と人のペットに色目使わないように去勢を頼んでやろうか?」
「魔理沙、いろいろ待ちなさい」
突っ込みどころが多すぎて追いつけない。頼むから冗談は一回の台詞で一つにしてくれ。
「私から紫様については控えさせていただきますよ。それに霖之助殿も自分で言ってましたが、娶られるならばもっと大成した殿方の所でないと、私の九尾の狐としての格が疑われますので~」
「たしかに、言ったけども」
僕が商売人としてはうだつが上がらないというのは認めるけども。力でも知恵でも勝てないのは認めるけども。自虐ならともかく、人から言われると僕だって傷付くのだ。
「言われちゃったなー。そもそも独立してこんな所に店構えてるのが間違いだと思うがなー」
いつもは聞き流している魔理沙の嫌味もこういう時は傷口に塩だ。
「そういえば……魔理沙、貴女の名字は霧雨だったな?」
「あん? そうだけど、それがどうかしたのか?」
藍は狐らしい細めた目付きでにこやかに次を提案した。
「霖之助殿、魔理沙の所に婿入りしてはどうですか?」
「は、はぁー!!?」
僕が驚くタイミングを逃してしまう程に魔理沙の反応の方が過剰なものだった。何故そうなるのかと止める間髪も入れさせてもらえず、藍は雄弁に語り続ける。
「霧雨家と言えば人間の里でも有数の豪商ではないですか。そこの婿養子になればあの店はもう貴方の物。そうなれば霖之助殿は名実ともに立派な一国一城の主となり、私も晴れて堂々と口説き落としに行けるというもので──」
「待てまて、待て! 何で私がこんな辛気臭いチンケな店の眼鏡男と結婚しろなんて話になるんだよ! 大体私はもう実家から勘当されてるんだから魔法の森に住んだまんまで何も変わらないし、っていうかお前も堂々と不倫するとか言うなよ!」
「はて、人間の貴女と半妖の霖之助殿では事故でもなければどうしても男やもめになるでしょう。私はその時が来るぐらい待ちますとも。ああ、それとも本当に不老の魔法使いになる気でいたのかな?」
「そういう話をしているんじゃない! 香霖、お前も何とか言ってやれよ!」
「……君は僕の事を辛気臭いチンケな店の眼鏡男だと思っていたんだね。まさかそこまで嫌われているとは思わなかったよ」
「そうじゃなぁぁい!! 別に結婚が嫌だなんて一言も言ってないだろうがあ!!」
魔理沙がひときわ大きな声を張り上げたところで藍は限界に達する。
「っぷ、くくくくくく……! いや魔理沙、いくらなんでも動揺しすぎでしょ……!」
涼しげな笑顔を保っていた彼女だったが、いよいよ堪えきれずに顔を歪めて笑いだしてしまった。顔を赤らめて息も絶え絶えな魔理沙の頭にぽんと手を置く。
「本当にごめんね~。まさかここまで良い反応をしてくれるとは思わなかったから少し調子に乗ってしまったよ。いや、ごめんごめん」
「~~~~~っ!」
魔理沙が気性の荒い猫のような、声にならない呻きと共に威嚇を始めてしまう。
「ッ香霖!! お前だってわかってるくせに悪乗りしたよなあ!?」
わかっていたことだが怒りの矛先がこちらにも向いた。
「わかってるけど、あたふたしている時の君は可愛いから」
面白くて可愛い。面白いの部分は言うと絶対余計に怒るので勘弁してやろう。僕は商の者だが武士の情けである。
「か、かわ、い……」
魔理沙は帽子のつばで顔を隠してしまった。ひねくれ者のくせに一度劣勢になるとちょろくて可愛い。
「……じゃない、それでごまかせると思ったか。今度お前の店の一番大事な物を借りに来てやるから覚えてろよ」
やっぱり駄目だったか、顔も真っ赤に上目遣いで睨みつけてくるのだった。しかし最後のそれは往々にして敗北した者が言う台詞だが良いのか。
いや、そもそもが数千年生きた狐と十年そこらしか生きていない生娘で、やるまでもなく化かし合いで魔理沙に勝ち目などあるはずも無い。弾幕勝負では勝てても人をからかうことにかけては藍の方が一枚、ならぬ十枚ぐらいは上手だったのだ。
「藍君、何とかしたまえ」
とどめを刺したのは僕だった気もするが、概ね追い込んだのは藍の方なので場を収めるのは彼女の役目だろう。優秀な彼女ならば丸投げしてもなんとかしてくれるはず。
藍は肩をすくめる仕草を取ると、魔理沙の横にゆっくりと近づいて顔を寄せた。
(霖之助殿も、貴女が嫌とは言ってなかったでしょ?)
数秒程度だが、魔理沙に何かを耳打ちしたようだ。拗ねた彼女には僕も毎回手を焼かされるのだが、魔理沙は何やら神妙な面持ちで藍とぼそぼそと言葉を交わして僕の顔を何度か見ると、大きなため息と共にちゃぶ台に座り直すのだった。
「……ふう。すっかり冷めちまったな。お前のせいだぞ香霖」
湯気の消えた味噌汁を飲み干し、また一つ息を吐いた。いろいろと納得が行かない部分はあるが、確かに味噌汁をこぼした僕が事の始まりである。誰かが大人にならないと揉め事というのは収まらないもので、それは僕が居ながら魔理沙に求めるべきではない。
「せっかく君に作って貰った物を粗末にしてしまった事は申し訳なかったよ」
「すみませんねえ。私も、紫様の前だとどうしても自分から戯れというのが出来ませんので、つい」
藍も上司と部下に挟まれて何かと気苦労が多いのだろう。彼女からしてみればあまりにも自由に暮らし過ぎている僕や魔理沙が羨ましくて堪らないのかもしれない。もっとも、それは聞かないでおくのが身の為である。
「……私はそろそろお暇しますよ。紫様をお風呂に入れて差し上げないといけませんので」
「ああ、そうかい……何と言えばいいか、大変だね。こんな狭い店で良ければ用が無くても気軽に来るといい。君なら歓迎するよ」
──ただ、今回のような色仕掛けはもう勘弁願いたいけど。
藍は空になったお椀に手を合わせると、僕と魔理沙に向けて一礼した。この礼儀正しき式神でもあのように人と絡むことがある、それが知れただけでも今日は収穫だろう。紫との取引材料に使うには後が怖いので役に立つかは置いといて。
「ああそうだ、今度の油揚げは霊夢に封印を施してもらうといいですよ」
なるほど、良い考えだ。素人には手が出せず、万が一開けられても中身が油揚げという二段重ねの徒労、実に面白い。惜しむらくは開けそうな筆頭が今ここに居て聞いてしまっていることである。
「おい香霖、その顔は何だよ」
魔理沙の怪訝な顔にまたあの狐らしい笑顔を向けると、藍は再び一礼して扉から外へ。
ブゥ────ン……という古ぼけた機械が寿命を擦り減らすような、奇妙でやけに響く音が鳴った。見に行けばそこにはもう藍の姿どころか雪道に有るはずの足跡すら無く、彼女が常識では考えられない方法でそこから立ち消えた事は自明であった。ならば別に寒い外に出なくてもと思わなくもないが、それが主とは異なる彼女らしさの表れとも言える。彼女は礼儀正しく動くように設定された式神であるのだから。
「うえーい。さっさとドアを閉めてくれよー。寒くて堪んないぜー!」
「やれやれ、君だって本来は冬を一番得意とするはずだろうに」
とはいえ僕も寒いのは御免なので、藍が持ってきてくれた油をさっさと入れてしまおう。石油燃焼機器用注油ポンプ(魔理沙はそういう音がするのでシュポシュポと呼んでいる)はどこにあったかな。
魔理沙はというと、かちゃかちゃ、ちゃぷちゃぷと水仕事の音を響かせている。考えてみれば、寒いからと何もしないことを決め込んでいた僕と違って、魔理沙は自分の為が半分なのだろうが炊事をしてくれたというのに。僕も油揚げの事はさておきもう少し感謝をしてあげればよかった。
「魔理沙、それが終わったらこっちに来るといい。油も入れたことだし餅の一つでも焼こうじゃないか」
「ほほーう、香霖にしては気が利くじゃないか。だけど食べ物以外にご機嫌取りの方法はないのか?」
魔理沙が手をぷらぷら水滴を飛ばしながら戻ってきた。育ちは良いくせに無理に悪ぶろうとする。まあ彼女は思春期だから仕方ない。
「食べ物を馬鹿にしちゃいけないな。藍君があれだけ絡んできたのも、元はと言えば食べ物の恨みだったんじゃないか。君はお稲荷様の油揚げを横取りした罰が当たったんだよ」
正確には狐が稲荷では無いのだが、まあ好物を取られたら誰だって怒るはずだ。
「あー、その話蒸し返しちゃうか。香霖だって藍に言い寄られて満更でも無い顔してただろ」
「それは誤解だな。はっきり言って寿命が縮むかと思ったよ」
「お前の寿命なんか縮むぐらいでちょうどいいぜ。狐の嫁入りの件だって案外乗り気だったんじゃないか? そうすりゃ八雲一家の仲間入りで香霖の地位も安泰だもんな」
たしかに僕の名前には雨が含まれているのでまさしく狐の嫁入りなのだが、なんだかなぁ。どこに耳が有るか分かったものではないので極力魔理沙にしか聞こえない声量でこう述べた。
「……君、八雲紫が自分の姑であってほしいかい……?」
「……寿命がいくつあっても足りないな……」
そうだろう。魔理沙は腕組みして大きく頷いた。
「ん? ちょっと待てよ。それって藍が紫の式じゃなければ良いって事なのか?」
それは考えていなかった。八雲藍がただの藍となった時、どうなるか。
まず彼女は三途の川の幅を求める方程式を導き出すような傑出した頭脳の持ち主だ。性格も真面目で礼儀正しいし、紫からの無茶な要求を全てこなす有能さで、器量もいい。おまけに商売繁昌の守護神であるお稲荷様の使いの狐の化身。つまりは断る理由など何もない超優良物件ではないか──。
「あー! 考え込んでるってことはやっぱり満更でも無かったんだろー!」
魔理沙が焼いた餅の如く、やいのやいのとうるさく詰め寄ってきた。まったく、こういう事を言われたくないから一人寂しくこんなチンケな店を営んでいるというのに。
「気に入らないなら長生きするんだな。君という悩みが解消されるまで女性と結婚する気は起きないよ」
ストーブの上の餅が耐えきれずにポンと弾けた。
藍が持ってきた新しい油はよく燃える。外は豪雪の真冬だというのに、この店の中は熱気に包まれていた。
椅子に腰掛ける僕、窓の外には銀世界、静かな店に古書をめくる紙の音だけが響き、鼻腔をくすぐる挽きたての珈琲が香る。そこにさらに、冬ならではの欠かせない道具がある。
そう、ストーブだ。
「ああぁ~……もう家に帰りたくないぜぇ~……」
落ち着きのない魔理沙が動けなくなるほどの魔力をストーブは秘めている。囲炉裏も炬燵も無い僕の家ではこれが寒さを凌ぐ為の生命線なのだ。それはともかく、魔理沙は馬鹿なことを言ってないでちゃんと家に帰るべきだが。
「君には八卦炉があるだろ? 寒いのならそれで暖まればいいじゃないか」
魔理沙は『これだから素人は』と言わんばかりの小馬鹿にした表情をこちらに向けた。
「これだから香霖は分かってないなあ。暖まりたい時は一人より二人なんだよ。その方が心も暖かいだろ。その栄えある相方をお前で妥協してやってるんだから感謝してもらいたいところだぜ」
僕のことなど見向きもせずにずっとストーブに顔をときめかせていたくせによく言う。
「それよりちょっと火が弱いんじゃないか? 火力はパワーだぜ」
当たり前のことだ。魔理沙は少し火に当たりすぎて頭がのぼせてきているのではないか。
「燃料が残り少ないんだよ。だから節約して弱火で点けてるんだ」
減ったのならば買い足せばいいじゃないかと思われるかもしれないが、ストーブに使う灯油は幻想郷では精製する技術どころか原油を手に入れるアテも無い。ならば僕はどのようにして燃料を手に入れてるのかというと。
「あー、また紫に頼まなきゃいけないのか。それは嫌だもんなあ」
八雲紫。幻想郷創設にも携わった妖怪の賢者で、境界を操る程度の能力を持つ。彼女ならば幻想結界の外から燃料を持って来るなど容易いことだ。ただ、いつでもどこからでも出てこれる彼女は、僕が言うのもなんだが胡散臭さの塊だ。出来ればあまり積極的に関わりたくない人物の一人でもある。
「別に嫌というわけではないけど……ただその、心臓に悪いだけだ」
わかるぜ、その気持ち。魔理沙は愉快そうにうんうんと頷いた。
そうは言っても以前燃料の件で一度世話になってから、冬の時期には定期的に燃料を持ってきていただく契約を結んでいるお得意様だ。僕の方からぞんざいに扱う理由など有るはずもない。
「まーとにかく、紫がまた油を持ってくるまでは省エネってやつなんだな。そうだ、ちょうど昼時だし何か温かいものでも作ってやるよ」
魔理沙は僕の返答も聞かずに店の奥へと踏み入ってしまう。魔理沙はああ言ったが、食事を人ほど必要としない僕の為ではなく自分が食べたいから作るのだろう。それも使うのは僕の家の食材だから僕の損なのだが。
「くわー……相変わらずろくな材料が無いなあ。私が来ることも考えてちゃんと買っとけよなー」
奥から魔理沙の自分勝手な文句が届く。
「そのくせ砂糖菓子とかコーラとかそういうのは充実してるんだもんなー」
それは魔理沙がそのような甘い物が好きだから置いているのだ。僕は僕なりに気遣ってやっているというのに、魔理沙がそのことを理解できるほど大人になるのはいつの日だろうか。
──コン、コン、コン。
ああ、来たか。
全くリズムが狂わない、几帳面すぎるノックの音。それだけで扉を叩いたのが誰なのかはおよそ想像できた。
「いらっしゃいませ。どうぞお入り下さい」
ノックの主は僕の声をちゃんと確認してから扉を開いた。本当にこの店のお客様には稀に見る礼儀正しさだ。だが、それ以上に乱雑な踏み込み方の魔理沙とは決定的に違う点が一つある。
彼女は雪を払い落としていない。この大雪の中にも関わらず雪を欠片も被っていなかったのだ。
切れ長だが人懐こい表情を浮かべる彼女も、やはり結界の力を持った人外の一人なのだと否応なしに思い知らされる。
「霖之助殿、ご無沙汰しております。紫様の使いで参りました」
「毎年すまないね、藍君。寒い中そんな物を持って大変だったろう」
八雲紫の式神、八雲藍。彼女自身も九尾の狐という立派な妖怪であるにも関わらず、一妖怪の式神という立場に甘んじている。つまりは紫がそれ以上の大物だということを示している。
とにかくそんな大妖怪の彼女が、油の詰まった一斗缶を両手に使いっ走りさせられているのだ。
「そこに置いといてくれればいいよ。後は自分でやるから」
「承知しました。それより霖之助殿……例のアレですが」
「ああ、例のアレだね。奥にあるから今取ってくるよ」
僕は藍と不敵な笑みを交わし合い、朝からずっと座りっぱなしだった椅子から立ち上がった。彼女との間には、『例の』と言うだけで通じ合う密約が結ばれている。どうせ紫にはバレていないはずがないので秘密でも何でもないのだけど。
ともかく使われっぱなしで苦労しているだろう彼女への労いの為、僕は湯気と味噌の香りが漂う店の奥へと……ん、味噌?
味噌汁?
「何だ、待ちきれないのかー? そうかそうか、もうちょっとだから待っててくれよな」
ああ、やはりそうだったか。僕の悪い予感はよく当たってしまうのだ。特に魔理沙絡みの時には。
「魔理沙、やっぱり使ってしまったんだな。しまっておいたその油揚げ」
「もちろん使わせてもらったぜ。私お手製の茸と油揚げの味噌汁だ。ろくな物が無いからこれでも苦労したんだぞ」
そう、僕と藍の間の取り決めとは油揚げだった。秘密と言うにはあまりにも安直で申し訳ないが、彼女に渡すお駄賃としてこれ以上に相応しい物が思い浮かぶだろうか。だから勝手に持っていかれないように奥深くにしまっておいたというのに。いや、これは魔理沙の目敏さを見誤っていた僕の失点だ。
叱りたいことは叱りたいのだが……しかし、こんな年下の女の子に自信満々の笑みで料理を作られてそれが出来る人間がいるだろうか。少なくとも僕には無理だった。
「……お椀は三人分用意してくれるかい」
「おー、霊夢でも来たのか? あいつはいつもお腹空かしてるもんな」
魔理沙の中の霊夢は相当に貧困をこじらせているようである。僕の所に来れば大体茶菓子を貪っているし、他所でも貧乏神みたいな様を晒してはいないだろうな。
「……まったく、貴女という人は。他人の家で勝手に料理をするどころか、食材まで持ち出して使うなんて」
「だーかーらー、お前の味噌汁には多めに油揚げ入れてやったじゃないか。料理の手間が省けて良いだろ?」
奇妙な空間だ。
普段は僕一人で食事をする骨董品であふれた茶の間に女二人。魔理沙は見慣れたものだが、もう一人は黄金色の豊かな尻尾をなんと九本も蓄えた狐の妖怪ともなれば。
「料理を作ってくれたことは感謝するよ。だけど本当ならこの油揚げは私が独り占めできたものなんだからね」
「まあまあ藍君、もっと彼女の手の届かない所に置かなかった僕の落ち度でもあるし、魔理沙には後で言って聞かせるから勘弁してやってくれないかい」
「へっ。香霖が届いて私が届かない場所なんかあるもんか」
自分で言ってなんだが、僕もそう思う。彼女の手癖の悪さは邪仙にも引けを取らない一級品だ。言っても聞いてくれたこともないし。下手をすれば僕よりも僕の家の裏事情なんかには詳しいかもしれない。
──しかし。
僕は藍を眺める。大妖怪のはずの彼女も大好物の入った味噌汁をすすって顔をほころばせる様子は僕達と何ら変わらない。何しろあの八雲紫の式神だから、藍もその筋の手合いなのかと初見では身構えたものだが。もしかしたら彼女も僕の知らないところでは大妖怪の面目躍如たる活躍の場面があったのだろうか。
「霖之助殿、私が食事をする姿がそんなに珍しいですか?」
流石にじろじろ見すぎたか、藍が僕に目を合わせた。
「いや失礼。君のような大物が僕の家で味噌汁をいただいているという光景が信じられなくてね」
「ふふ、それはどうも。ですが紫様と比べれば私はまだまだですよ」
「いやあ、お前とやったのもだいぶ昔の話になってしまったけど、主人よりむしろお前の弾の方が難しい場面も結構有ったぜ。あの四面楚歌なんちゃらとか」
魔理沙は真っ直ぐな性格だから思ってもないお世辞を言わないだろうし、実際に戦って感じたならばそうなのだろう。それにしても、彼女もよくよく小さな人間の身で人智の及ばぬ存在と戦ってきたものだ。大怪我をして帰ってくることも珍しくはないはずなのに、魔理沙が絶対にそういった姿を僕に見せないのは、僕がどんな顔で何を言うかを分かっているからなのだろう。
何故だろうか、出会った頃からずっと、魔理沙が頑張る姿を見ていると僕は胸と手が熱くなるのを感じて……手?
「……あっつ!!」
味噌汁がこぼれていたらそりゃ熱い。おまけに反射的に手を動かしたものだから、お椀の残りはよりによって僕の胸元に飛び散ってしまったのだった。
「あーあー何やってるんだ香霖は。飯の時は飯に集中しろよなぁ。えーと拭く物はどこだっけな……」
何てことだ。魔理沙のことなんか考えていたせいで汁をこぼすだなんて。呆れた顔で立ち上がって布巾を絞りに行こうとする魔理沙だったが、それより先に驚きの光景が繰り広げられる。
「霖之助殿、火傷は無いですか? 動かないでくださいね」
なんと、魔理沙が行動起こすよりも先に藍が僕の体を拭きに来てくれたのだ。
「す、すまないね藍君。お客様の君にこんなことをさせるなんて申し訳ない」
「……おい香霖。それはどういう意味だ? まるで私なら申し訳あるみたいな言い方じゃないか」
そりゃあ、味噌汁を勝手に作ったのは魔理沙であるわけで。そこに文句は無いのだけれど。
「失礼、少し胸の所を開きますよ」
服越しに湿った胸元まできっちり拭いてくれるらしい。こんなこと、いつ以来だろうか。
手持ち無沙汰になってしまった魔理沙が僕と藍を交互に睨みつけてくるので非常に居心地が悪い。
「藍……お前、なんかやけに手慣れてないか? もしかしていつもこんなことやってるのか?」
「紫様はこの時期は眠っているのだが、たまに食事等の為に起きてくる。だがまあ、その……寝惚けているのでとてもうっかりしているんだ。だから、お世話用の道具は携帯していてね……」
嗚呼、思いもよらないところで賢者と謳われる大妖怪の情けない一面が僕の耳に。彼女が今だけ都合悪く起きているようことがないようにと強く願う。
「しかし……こうやって殿方の胸元に顔を近づけていると、遥か昔のことを思い出さずにはいられないな」
「そ、それはどういう……」
「おや、博識な霖之助殿ならば知らないはずはないでしょう? 九尾の狐の伝説のことですよ」
それはもちろん知っている。妲己という女性が中国にいた。酒池肉林の語源となった、贅の極みを尽くした宴を度々催して殷王朝を傾けた悪女と謂われる人物だ。そんな彼女、実は九尾の狐の化身だったと言い伝えられているのだが、それが今ここで味噌汁をすすっていた藍と同一人物とでも言うのか。だとしたら彼女はいったいどれほどの時を生きてきて、そんな人物が何故僕なんか。
「その、なんだ、僕はまだ王とか国とかそういう人じゃないんだ。だからそういうのは困るんだけど……!」
「この際ですから構いませんよ。私もたまには殿方のエキスでも吸いませんとねえ……」
藍の手が僕の胸元から服の中に入り込む。もう片方の腕は僕の背中に、細身の腕から想像できない力で僕を抑え、そして──。
「離れろ! エキノコックス!!」
──魔理沙が首根っこを掴んで引っこ抜き、危うく昼下がりの情事となりかけた事故は未遂に終わった。
彼女の顔は真っ赤っ赤である。本当に、終わって良かった。
「いたた……。酷いことするじゃないか。いきなり首を掴むなんて躾がなってないぞ」
「うるさい! 私の目の前でおっぱじめようとした奴に言われたくないわ!」
「貴女が見ているのに破廉恥な行為に及ぶわけがないでしょうに。少しは常識的に考えなさい」
非常識が常識である幻想郷の管理者側が言うことか。
「……だが、ふむ。悪ふざけが過ぎたのは事実ですね。謹んでお詫び申し上げます、霖之助殿」
衣服を整えた藍が深々と僕にお辞儀をした。魔理沙が止めなければどこまで行ったのか、実はほんの少しだけ期待していたとは言えない。
もはや味噌汁をすするような空気でも無くなってしまった。この奇妙な団欒もお開きにするべきだろうか。
「まあ、君も何かと苦労が多いだろうから気張らししたくもなるんだろうさ。主人が……いや、止めておこう」
「主人の躾が悪いな。二度と人のペットに色目使わないように去勢を頼んでやろうか?」
「魔理沙、いろいろ待ちなさい」
突っ込みどころが多すぎて追いつけない。頼むから冗談は一回の台詞で一つにしてくれ。
「私から紫様については控えさせていただきますよ。それに霖之助殿も自分で言ってましたが、娶られるならばもっと大成した殿方の所でないと、私の九尾の狐としての格が疑われますので~」
「たしかに、言ったけども」
僕が商売人としてはうだつが上がらないというのは認めるけども。力でも知恵でも勝てないのは認めるけども。自虐ならともかく、人から言われると僕だって傷付くのだ。
「言われちゃったなー。そもそも独立してこんな所に店構えてるのが間違いだと思うがなー」
いつもは聞き流している魔理沙の嫌味もこういう時は傷口に塩だ。
「そういえば……魔理沙、貴女の名字は霧雨だったな?」
「あん? そうだけど、それがどうかしたのか?」
藍は狐らしい細めた目付きでにこやかに次を提案した。
「霖之助殿、魔理沙の所に婿入りしてはどうですか?」
「は、はぁー!!?」
僕が驚くタイミングを逃してしまう程に魔理沙の反応の方が過剰なものだった。何故そうなるのかと止める間髪も入れさせてもらえず、藍は雄弁に語り続ける。
「霧雨家と言えば人間の里でも有数の豪商ではないですか。そこの婿養子になればあの店はもう貴方の物。そうなれば霖之助殿は名実ともに立派な一国一城の主となり、私も晴れて堂々と口説き落としに行けるというもので──」
「待てまて、待て! 何で私がこんな辛気臭いチンケな店の眼鏡男と結婚しろなんて話になるんだよ! 大体私はもう実家から勘当されてるんだから魔法の森に住んだまんまで何も変わらないし、っていうかお前も堂々と不倫するとか言うなよ!」
「はて、人間の貴女と半妖の霖之助殿では事故でもなければどうしても男やもめになるでしょう。私はその時が来るぐらい待ちますとも。ああ、それとも本当に不老の魔法使いになる気でいたのかな?」
「そういう話をしているんじゃない! 香霖、お前も何とか言ってやれよ!」
「……君は僕の事を辛気臭いチンケな店の眼鏡男だと思っていたんだね。まさかそこまで嫌われているとは思わなかったよ」
「そうじゃなぁぁい!! 別に結婚が嫌だなんて一言も言ってないだろうがあ!!」
魔理沙がひときわ大きな声を張り上げたところで藍は限界に達する。
「っぷ、くくくくくく……! いや魔理沙、いくらなんでも動揺しすぎでしょ……!」
涼しげな笑顔を保っていた彼女だったが、いよいよ堪えきれずに顔を歪めて笑いだしてしまった。顔を赤らめて息も絶え絶えな魔理沙の頭にぽんと手を置く。
「本当にごめんね~。まさかここまで良い反応をしてくれるとは思わなかったから少し調子に乗ってしまったよ。いや、ごめんごめん」
「~~~~~っ!」
魔理沙が気性の荒い猫のような、声にならない呻きと共に威嚇を始めてしまう。
「ッ香霖!! お前だってわかってるくせに悪乗りしたよなあ!?」
わかっていたことだが怒りの矛先がこちらにも向いた。
「わかってるけど、あたふたしている時の君は可愛いから」
面白くて可愛い。面白いの部分は言うと絶対余計に怒るので勘弁してやろう。僕は商の者だが武士の情けである。
「か、かわ、い……」
魔理沙は帽子のつばで顔を隠してしまった。ひねくれ者のくせに一度劣勢になるとちょろくて可愛い。
「……じゃない、それでごまかせると思ったか。今度お前の店の一番大事な物を借りに来てやるから覚えてろよ」
やっぱり駄目だったか、顔も真っ赤に上目遣いで睨みつけてくるのだった。しかし最後のそれは往々にして敗北した者が言う台詞だが良いのか。
いや、そもそもが数千年生きた狐と十年そこらしか生きていない生娘で、やるまでもなく化かし合いで魔理沙に勝ち目などあるはずも無い。弾幕勝負では勝てても人をからかうことにかけては藍の方が一枚、ならぬ十枚ぐらいは上手だったのだ。
「藍君、何とかしたまえ」
とどめを刺したのは僕だった気もするが、概ね追い込んだのは藍の方なので場を収めるのは彼女の役目だろう。優秀な彼女ならば丸投げしてもなんとかしてくれるはず。
藍は肩をすくめる仕草を取ると、魔理沙の横にゆっくりと近づいて顔を寄せた。
(霖之助殿も、貴女が嫌とは言ってなかったでしょ?)
数秒程度だが、魔理沙に何かを耳打ちしたようだ。拗ねた彼女には僕も毎回手を焼かされるのだが、魔理沙は何やら神妙な面持ちで藍とぼそぼそと言葉を交わして僕の顔を何度か見ると、大きなため息と共にちゃぶ台に座り直すのだった。
「……ふう。すっかり冷めちまったな。お前のせいだぞ香霖」
湯気の消えた味噌汁を飲み干し、また一つ息を吐いた。いろいろと納得が行かない部分はあるが、確かに味噌汁をこぼした僕が事の始まりである。誰かが大人にならないと揉め事というのは収まらないもので、それは僕が居ながら魔理沙に求めるべきではない。
「せっかく君に作って貰った物を粗末にしてしまった事は申し訳なかったよ」
「すみませんねえ。私も、紫様の前だとどうしても自分から戯れというのが出来ませんので、つい」
藍も上司と部下に挟まれて何かと気苦労が多いのだろう。彼女からしてみればあまりにも自由に暮らし過ぎている僕や魔理沙が羨ましくて堪らないのかもしれない。もっとも、それは聞かないでおくのが身の為である。
「……私はそろそろお暇しますよ。紫様をお風呂に入れて差し上げないといけませんので」
「ああ、そうかい……何と言えばいいか、大変だね。こんな狭い店で良ければ用が無くても気軽に来るといい。君なら歓迎するよ」
──ただ、今回のような色仕掛けはもう勘弁願いたいけど。
藍は空になったお椀に手を合わせると、僕と魔理沙に向けて一礼した。この礼儀正しき式神でもあのように人と絡むことがある、それが知れただけでも今日は収穫だろう。紫との取引材料に使うには後が怖いので役に立つかは置いといて。
「ああそうだ、今度の油揚げは霊夢に封印を施してもらうといいですよ」
なるほど、良い考えだ。素人には手が出せず、万が一開けられても中身が油揚げという二段重ねの徒労、実に面白い。惜しむらくは開けそうな筆頭が今ここに居て聞いてしまっていることである。
「おい香霖、その顔は何だよ」
魔理沙の怪訝な顔にまたあの狐らしい笑顔を向けると、藍は再び一礼して扉から外へ。
ブゥ────ン……という古ぼけた機械が寿命を擦り減らすような、奇妙でやけに響く音が鳴った。見に行けばそこにはもう藍の姿どころか雪道に有るはずの足跡すら無く、彼女が常識では考えられない方法でそこから立ち消えた事は自明であった。ならば別に寒い外に出なくてもと思わなくもないが、それが主とは異なる彼女らしさの表れとも言える。彼女は礼儀正しく動くように設定された式神であるのだから。
「うえーい。さっさとドアを閉めてくれよー。寒くて堪んないぜー!」
「やれやれ、君だって本来は冬を一番得意とするはずだろうに」
とはいえ僕も寒いのは御免なので、藍が持ってきてくれた油をさっさと入れてしまおう。石油燃焼機器用注油ポンプ(魔理沙はそういう音がするのでシュポシュポと呼んでいる)はどこにあったかな。
魔理沙はというと、かちゃかちゃ、ちゃぷちゃぷと水仕事の音を響かせている。考えてみれば、寒いからと何もしないことを決め込んでいた僕と違って、魔理沙は自分の為が半分なのだろうが炊事をしてくれたというのに。僕も油揚げの事はさておきもう少し感謝をしてあげればよかった。
「魔理沙、それが終わったらこっちに来るといい。油も入れたことだし餅の一つでも焼こうじゃないか」
「ほほーう、香霖にしては気が利くじゃないか。だけど食べ物以外にご機嫌取りの方法はないのか?」
魔理沙が手をぷらぷら水滴を飛ばしながら戻ってきた。育ちは良いくせに無理に悪ぶろうとする。まあ彼女は思春期だから仕方ない。
「食べ物を馬鹿にしちゃいけないな。藍君があれだけ絡んできたのも、元はと言えば食べ物の恨みだったんじゃないか。君はお稲荷様の油揚げを横取りした罰が当たったんだよ」
正確には狐が稲荷では無いのだが、まあ好物を取られたら誰だって怒るはずだ。
「あー、その話蒸し返しちゃうか。香霖だって藍に言い寄られて満更でも無い顔してただろ」
「それは誤解だな。はっきり言って寿命が縮むかと思ったよ」
「お前の寿命なんか縮むぐらいでちょうどいいぜ。狐の嫁入りの件だって案外乗り気だったんじゃないか? そうすりゃ八雲一家の仲間入りで香霖の地位も安泰だもんな」
たしかに僕の名前には雨が含まれているのでまさしく狐の嫁入りなのだが、なんだかなぁ。どこに耳が有るか分かったものではないので極力魔理沙にしか聞こえない声量でこう述べた。
「……君、八雲紫が自分の姑であってほしいかい……?」
「……寿命がいくつあっても足りないな……」
そうだろう。魔理沙は腕組みして大きく頷いた。
「ん? ちょっと待てよ。それって藍が紫の式じゃなければ良いって事なのか?」
それは考えていなかった。八雲藍がただの藍となった時、どうなるか。
まず彼女は三途の川の幅を求める方程式を導き出すような傑出した頭脳の持ち主だ。性格も真面目で礼儀正しいし、紫からの無茶な要求を全てこなす有能さで、器量もいい。おまけに商売繁昌の守護神であるお稲荷様の使いの狐の化身。つまりは断る理由など何もない超優良物件ではないか──。
「あー! 考え込んでるってことはやっぱり満更でも無かったんだろー!」
魔理沙が焼いた餅の如く、やいのやいのとうるさく詰め寄ってきた。まったく、こういう事を言われたくないから一人寂しくこんなチンケな店を営んでいるというのに。
「気に入らないなら長生きするんだな。君という悩みが解消されるまで女性と結婚する気は起きないよ」
ストーブの上の餅が耐えきれずにポンと弾けた。
藍が持ってきた新しい油はよく燃える。外は豪雪の真冬だというのに、この店の中は熱気に包まれていた。
霖之助さん大変だ
読んでるとむずむずする
藍様がお茶目でよかったです
味噌汁食べてくんだ藍様
それにしても魔理沙の可愛きことよ。ごちそうさまです。
朴念仁な霖之助もいいけどこれくらい感情豊かで冗談が通じる感じの方がわちゃわちゃしてるのが見てて楽しそうですね うらやまけしからん