「おかしいよ! まったくもってして気が触れている! クレイジーだよ,里乃!」
人里の駄菓子屋前にて響き渡るのは,丁礼田舞の叫び声。憤懣やる方ないといった様子である。
相対する爾子田里乃は口を少し尖らせ,不本意だといった表情。
「いいかい? 僕たちは何のためにここまでやって来たんだ? お師匠様からもらった貴重な休みを費やしてまで」
「……暑くて暑くてどうしようもなくて,炙られた死体みたいになってたら,『氷菓でも買ってきたらどうか』ってお師匠様に勧められたからよ」
「わかっているじゃないか!」
舞は大仰に両手を広げ,天を仰ぎ見る。これから夏本番が訪れようとする水無月の空は,しかしどこまでも青く澄み渡り,気の早い入道雲が浮かんでいるのも見える。
いつの間に真夏となったのかと文句の一つも言いたくなるが,それは先年に四季異変を引き起こした隠岐奈に仕えるふたりが言えた義理でもなかった。
「なのに……なのにだ! どうして君はアイスクリンを買おうだなんて!」
駄菓子屋の前には簡易に設えられた氷室があり,氷菓が並んでいた。波の上に赤々と『氷』の文字が書かれた旗も,暑気の中でぐんにょりと垂れ下がっている。
アイスクリンとは,アイスクリームほどではないが卵や乳脂肪の含まれる氷菓である。
「どうして? 決まってるじゃないの。かき氷は既に売り切れ。アイスキャンデーは残り1本。だったら5つ残ってるアイスクリンを買うしかないでしょ」
「何言ってるんだ! こんな暑い日のさなかにアイスクリンだなんて,冗談じゃない! サッパリするどころか口の中がモニャモニャしちゃうだろ!」
舞は地団駄を踏む。その様は,奇しくもバックダンスを踊っているときとそっくりであった。
乳脂肪が含まれているだけに,アイスクリンはアイスキャンデーよりもこってりしている。当然,食べた後の爽快感も若干少なく,猛暑日にチョイスする氷菓としてはやや不向きと言えよう。舞の主張も無理はなかった。
「じゃあアイスキャンデーを買えばいいって言うの? 1本しかないのに?」
「分ければいいじゃないか」
「1本の棒状のモノをふたりで争うように舐め回すだなんて……はしたない!」
「言い方!」
その昔,里乃が摩多羅神に仕えるようになってから間もない頃のこと。彼女は主の名を呼び間違えてしまったことがあった。「摩多羅様」と呼ぶべきところ,一文字言い損ねてしまったのである。その結果は,語るまでもない。
それからというもの,里乃はある種のネタに対して厳しくなった。だが,そちらの方面に対する興味が存在しなくなったわけではないため,抑圧された欲求が妙なところで発露するのである。
「そもそもぐずぐずしてたのは舞じゃない。私は早く行こうって言ったのに。早くしないとアイスが売り切れちゃうからって。挙句の果てに途中で余計なことまでして」
「あれは,あのおじさんが困っていたから仕方ないじゃないか。人助けだよ」
人里まで来る途中,あぜ道に脱輪していた荷車を押し上げるのを手伝ったのだ。里乃に言わせれば,貴重な休日の貴重な時間を費やしてまで人助けをするなんて,お人好しが過ぎるというものである。舞のそういうところは決して嫌いではないけれども。
「そりゃあ,アイスキャンデーが2本以上あったら,私だってアイスクリンは選ばないわよ」
里乃の言葉に,舞は苦渋に満ちた顔つきとなる。別に先ほどから直射日光が当たっていて暑かったためではない。
「……ちょっと思ったんだけど,いいかな? 怒らないで聞いてほしい」
「何よ」
「僕がアイスキャンデーを買う。君がアイスクリンを買う。そうすれば――ごめんなんでもない」
無表情となった里乃を見て,舞は即座に自分の言葉を撤回した。ふたりが別々のものを買うというのは,彼女らにとって許されざることなのだった。ふたりでひとつのクレイジーバックダンサーズなのだから。そのへんがやりたい放題好き放題の鳥獣伎楽とは異なるところである。
「何も買わずに帰るというのは……ないわよね」
「このままじゃ帰り道で干からびちゃうよ」
ふたりが腕組みをしてうんうん唸っていると,後ろから声を掛けられた。
「ちょいと失礼。そこどけてもらえるかな。――ああ良かった。いいお詫びにもなる」
手押し車を押した赤髪の猫耳が,氷室から1本のアイスキャンデーがと5つのアイスクリンを取り出すなり,「おばちゃーん!」と奥に向かって声を掛ける。
――毎度ありがとうだよぉ
――いやいや。あたいも腐らせちゃならないものを運んでるし,ちょうどよかったのさ
猫耳はそのまま駄菓子屋のおばあちゃんに小銭を支払うと,買い占めた氷菓を手押し車に放り込み,スタコラサッサと軽快に走り去っていった。
「…………」
「…………」
後には空っぽになった氷室と,ポカンとした表情のバックダンサーズだけが残されていたのだった。
◇ ◇ ◇
「……里乃のせいだよね」
「……舞が全部悪いわね」
険悪な表情で睨み合う。
あれこれ言い合っている隙に,アイスキャンデーどころかアイスクリンまで掻っ攫われてしまった。こんな暑い日なのだから,いつ売り切れたっておかしくなかった。お互いがお互いしか目に入っていなかったが故の悲劇である。
「ああ,ちくしょう! 僕らは何のために里まで出てきたんだ! あり得ないほど貴重な休みを潰してまで!」
「バケツいっぱいの黄金よりも貴重なその休みにぐだぐだしてたのは,貴方じゃないの」
里のカフェーで冷たい甘味でも食べられればよかったのだろうが,あいにくそこまでの金は渡されていなかった。
やむを得ず,とぼとぼと帰り路につくふたり。その足取りはどこまでも重い。踊っているときはいつまでも軽快に動く両足が,まるで鉛にでもなったかのようだ。
「あーあ,明日からまたバックダンスの日々かぁ。もういっそのこと,ひょっとこ踊りでもやってやろうかなぁ」
「キタキタ踊りでもいいわね。お師匠様にぶっ飛ばされずにすむのなら」
揃ってため息。
不平不満は数多かれども,摩多羅神に対して大っぴらに逆らうという発想はない。
「ちょっと舞,舌出してハァハァいうの止めてよ」
「こうすると身体の熱が逃げやすくなるらしい。道端の犬も時々やってるだろう」
「なんかフケツなの!」
肩をポカポカ叩いてくる里乃に,舞は不承不承ながら犬式呼吸法を止めた。ちなみに身体は涼しくならず,口の中が乾いただけだった。
「見なよ里乃。太陽までが僕らをあざ笑っているかのようだ」
「見たくない。暑い」
照りつける水無月の日差し。そよ風すら吹かず,どこか生温く澱んだ空気。ギィギィと軋むような蝉の鳴き声。立ち込める土と草の匂い。足元にわだかまる影は,汗染みのようだ。
白昼夢のような世界に,ぽつりと取り残されたふたり。
「…………むなしい」
ふと漏れ出た言葉は,どちらによるものだったのだろうか。
どこまでも続く,早すぎた夏の中。
舞も里乃も,胸にぽっかりと穴が空いたような空虚さを持て余していた。
求めていたのは氷菓。それが得られなかっただけの,他愛もない話。けれども,目的が喪われたふたりを支えるものは何もなかった。何故なら,今日はふたりにとっての休日で,誰の支配下にもない自由な日だったからだ。
それでも時は流れる。どちらともなく,一歩を踏み出そうとした時だった。
「――おぉーい,そこのお嬢ちゃんたち!」
見渡す限りの幻想郷の田畑の中。道を往くのは何者でもない舞と里乃だけである。
ふたりは振り向いた。
「ふぅ,よかったよかった」
そこにいたのは…………おっさんだった。
浅黒く日焼けした,いかにも精魂込めて農業やってます的なおっさんである。
どこにでもいそうな感じの,よく見るとイケオジっぽくないこともないかな,というおっさんだ。
「さっきは助けてもらったのに,お礼もできなかったからね」
そう,彼は脱輪した荷車の持ち主であった。
「お礼!?」
里乃が甲高い声を上げる。おっさんと舞の顔を交互に見てから,舞の手をがっしと握った。
「お礼ですって! あらまあ! まあまあ!」
「せっかくのお申し出ですが,僕らはそんな大したことはしていないので……」
「ちょ,断るつもり!? まったくもってして気が触れている! クレイジーだわ,舞!」
「クレイジーバックダンサーズだからね」
ふたりのやり取りに,おっさんは笑った。
「いやいや,謙虚なお嬢さんだ。しかし,それではこちらの気が済まないよ。採れたての美味しいのを冷やしてあるから,ぜひ味わっていただきたい」
おっさんの言葉に,ふたりは顔を見合わせた。
おそらく農家であろうおっさんが,『採れたての美味しいの』と言うのだ。
「スイカに1ステップ賭けるわ」
「じゃあ僕はメロンに1ステップ」
踊る際の難ステップをどちらが担当するかという賭けは,ふたりの間の定番だ。
小声で合意し,頷き合ったふたりは,おっさんの申し出を受けることにしたのだった。
◇ ◇ ◇
「きゅ,キュウリ……!?」
ノコノコとおっさんの家までついていったふたりが目にしたのは,井戸水で冷やされたキュウリだった。ほとんど黒のような濃い緑色で,イボイボしている。見るからに新鮮そうだ。
おっさんは「ちょっと待ってな」と言い置いて,家の中へと入っていった。
「ねぇ舞,あのおっさん,私たちのこと河童か何かと勘違いしてるんじゃない?」
「いや,誰も果物を振る舞うとは言っていない。盲点だった」
またもや小声で言い合うふたりに,家の中から戻ってきたおっさんが笑い掛ける。その手には白い小瓶が握られていた。
「ほれ,こいつをちょっと振り掛けてやれば,っと」
おっさんはキュウリに謎の白い粉を軽く振りかけると,差し出してきた。
舞が里乃に目をやると,里乃はふるふると首を小さく左右に振る。自信過剰なくせに慎重で臆病な里乃は,こうして舞に先陣を切らせようとしてくるのだ。
舞は軽くため息をつき,白い粉がかかったキュウリを受け取って,また里乃をチラ見する。里乃は,飼い主に無理やり洗われた後の犬みたいな勢いで首をぶるるるると振った。クレイジーバックダンスの振り付けに使えそうだな,と舞は思った。
「じゃ,じゃあ,いただきます」
舞は意を決し,太くて濃い緑色をした新鮮そうなキュウリを頬張る。
シャポリ! という軽快な音がして,舞はもぐもぐと口を動かし,飲み込む。舞の白い喉元がくくっと動くのを,里乃は緊張に満ちた眼差しで見つめた。
その直後,舞が「うっ!」とうめき声を漏らす。「ま,舞!?」と思わず手を伸ばす里乃。
そして。
「――っっっっっっまいっ!!」
天を仰ぎながら全力でガッツポーツをキメる舞に,呆気に取られた。
舞はもう一口キュウリを齧ると,満面の笑みで里乃を見やる。
「こりゃ美味いよ,里乃! おすすめだ! 果物のように――いや,下手な果物よりも美味しいかも知れない!」
「はっはっは,そうまで言ってくれると嬉しいね。生産者冥利に尽きるというものだ」
超高難易度ステップに成功した時のように目をキラキラさせる舞に,喜ぶおっさん。期せずして里乃の喉もごくりと鳴る。これは食べないわけにはいかないようだ。
微かに震える手で,おっさんからキュウリを受け取った里乃は,おそるおそる口へと運ぶ。その間に,舞は早くも二本目のキュウリをおっさんから受け取っていた。
そして。
「――お」
「お?」
「いひいいいいいいいいっ!!」
里乃も全力でガッツポーツを取った。――取ってしまった。
噛んだ瞬間に口の中いっぱいに広がる,青みがかった爽やかさと甘み。振り掛けられた塩によって風味が引き立てられている。それはまさしく凝縮された夏の味だった。
「おいひいわね! 舞!」
「ああ。――知ってるかい? 里乃。キュウリの95%は水分らしいよ」
「へぇ~。なんで今その話したの?」
「つまり真実のキュウリは5%ということさ」
「『真実のキュウリ』ってなに?」
「寺子屋通いの子供でもわかる簡単な計算だ。要するに20本食べることで,ようやく1本分のキュウリを食べたことになるってわけさ。――おじさん,おかわりをもらえるかな?」
「いいぞ。どんどん食いたまえ」
ちょっと何を言っているのかわからない計算式を基にキュウリをバクバク食べ始める舞を横目で見ながら,里乃も二本目を遠慮がちに受け取るのだった。
◇ ◇ ◇
「ふむ。その様子だと,十分に今日という一日を謳歌してきたみたいだな」
舞と里乃の前で,いつもの椅子に悠然と腰掛けた摩多羅隠岐奈は頷いてみせる。
キュウリを食べに食べて食べまくり,最後には大食い挑戦者もかくやというほど腹に詰め込んだふたりは,腹を軽く押さえながら曖昧な微笑を浮かべた。
普段ならここで会話は終わるはずだったが,隠岐奈は少し身を乗り出すようにして,ふたりを興味深そうに眺めてくる。
「どれ,話してみよ」
「……?」
「お前たちがどういう一日を過ごしたのか,何を経験し,何を思ったのか。それを話せと言っているのだ」
舞は思わず里乃と顔を見合わせる。隠岐奈がふたりに関心を示すのはかなり珍しいことだった。普段から,悪く言えばいくらでも替えの利く存在のように,良く言えば――とにかく,まあ後ろで激しく踊っている下僕か何かのように扱われていたため,話を聞きたがること自体が異例なのである。
舞は黙考した。里へ行く途中でおっさんを助け,里の店先で何を買うか言い合っていたら猫耳に氷菓を掻っ攫われ,金も大してなかったので帰路についていたら,助けたおっさんにキュウリで恩返しをされた。めでたしめでたし。
まとめればそれだけの話なのだが,どこか足りない気もする。そもそも,当初の予定通り――隠岐奈の言う通り――氷菓を入手できていたとしたら。
(……僕らは,今ほど満たされた気持ちになっていただろうか)
ただ,そこから先が言葉にならない。
舞は喘いだ。犬のように呼吸をしたわけでもないのに,口の中が急激に乾き,舌が思うように動かない。
このままでは――という時に,横で里乃が口を開く。
「私たちは,目的としていた氷菓を得られなかったんです。いろいろあって」
「ほう?」
隠岐奈が軽く眉を上げた。
舞は,助かったと思った。自分の代わりに説明してくれようとする里乃に,心の中で感謝する。
「私たちはとてもとても残念に思いました」
「ふむ」
「ですがそこで,ちょっとイケてる感じのオジサマが手を差し伸べてくれたんです」
舞は顔をしかめる。里乃の言い方では少々説明が足りていない。おっさんが恩返しをしてくれた経緯についても言っておかないと,話が伝わらないではないか。
「オジサマの誘いに,私たちは乗りました」
「ふむ」
なんとなくイヤな予感を覚える舞。
「そこで彼は,私たちに空いた穴を,たっぷりと満たしてくれたんです。黒くてイボイボした――」
「言い方ァ!!」
慌てて隠岐奈へと向き直る。
「ち,違いますからね? お師匠様。キュウリの話です」
「きゅ,キュウリで!?」
「ちがーう! いや,違わないのか……? あれ? いや,たぶん違います!」
舞が全力で否定すると,隠岐奈はスッと目を逸らす。
「ま,まあ,たまにはそういう休日の過ごし方も悪くないと思う,よ?」
「お師匠様? 大丈夫ですよね? お師匠様?」
「あー,わかったわかった。とにかく楽しんできたのだろう。明日からまた励むがよい」
話を続けるのが面倒になったのか,隠岐奈は手を振って立ち上がると,向こうにある後戸の寝室へと引っ込んでしまった。ちなみに起こすときは戸の前で賑やかに踊ればいい。
誤解を解けたのかどうかは定かではなかったが,わざわざ呼び出してまで説明を再開する気にもならず,舞はため息をついた。
「やれやれ……里乃,君は本当に」
「あのね,舞」
思いがけず静かな声に,舞は瞬きする。
里乃は薄く笑うと,舞の唇へ軽く人差し指を当ててきた。
「言えないこと,言いたくないことは,言わなくていいと思うの」
「……」
その一言で舞は気づいた。里乃も同じ想いだったのだと。
命じられていない一日からふたりが得たものは,きっと等しかった。
当たり前だ。ふたりでひとつのクレイジーバックダンサーズなのだから。
「それにね,日付が変わるまでは休日よ。私たちに『報告』の義務はない。そうじゃなくて?」
「……はは,君の言う通りだ」
舞は苦笑する。里乃のこういうところは,嫌いじゃなかった。
里乃は両手を伸ばし,わざとらしく顔をしかめてみせる。
「あーあ,そういや汗かいちゃったわ。うぇぇ,身体がベタベタする」
「久し振りにふたりでお風呂でも入ろうか。背中でも流してあげるよ」
「いい提案ね。全然クレイジーじゃないけど」
「だろう?」
舞と里乃はクスクスと笑い合うと,手をつないで駆け出していった。
―― 了 ――
涼しげで良いssでした
キュウリ、昨日も食べたのに…
仮に筆さんのコメディは本当に面白いです。
「きゅ、キュウリで!?」
ってセリフはちょいとワロタ
クレイジーじゃないのもいいですね!
夏らしい冷やしキュウリの食べたくなるよいお話でした。
お互いの空いた穴にキュウリを入れ合うさとまい下さい。
上下関係が結構ハッキリした感じの隠岐奈様とこういう距離間のさとまいもいいですね…