夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
おててつないでみな帰ろう
からすと一緒に帰りましょ
とろんとして、空から蜂蜜が溶け落ちてくるような夕陽だった。
橙色を包み込む金色の光暈は、何処にでもありそうな、いえ、此処を何処の場所と言っても通用しそうな、ありふれた郊外の公園を、此方より彼方の世界であるかのように染め抜いている。時折、ふとした瞬間に、自然現象が、あるいは、見る人の気持ちが、何気ないような景色を、泣いてしまいたくなるくらいに美しく見せることがある。昨日も、昨日の昨日も、夕焼けは同じように美しかったはずなのだけれど、どうしてか今日だけは、特別に見えてしまう。
だから、なのだろう。その男の子は立ち止まった。
午後5時のチャイムが聴こえて、友達と手を振り別れて帰路に付いた所だったのに、ふと、忘れ物を思い出したように公園を振り返ったのだ。
もちろん、公園は公園。団地の中にある公園としては、やや広い方で、滑り台もブランコもあって、シーソーが無い。そう言えば、跨ってぶらぶらと揺れる動物も遊具も無かった。砂場も小さくて物足りないけれど、まあ、普通の公園。いつもの、公園……?
そこかしこに暗くなり始めた夕闇が凝っているようで、少し怖い。でも、男の子は怖いなんて認めなかった。何故って、まだまだ本格的に日が暮れるには早いからで、帰宅に要する時間を考慮しても、五時十五分、いや五時半くらいまでは、外で遊んでいても良いと常日頃から思っていたからだ。
そんな、いつもと同じようで、だけどいつもと違う公園に、麦わら帽子と白いワンピースの女性が佇んでいた。腰までの長さがある黒髪は目にも掛かっていて、表情はよく分からない。黄昏時は、誰そ彼時。けれども、男の子は少しも疑問を持たずに駆け寄った。
『行方不明の男の子を探しています』
一週間後くらいに、そんなチラシが公園の看板に張り付けられることになる。
……
…………
時は流れて、数十年。昭和を代表していたような団地も寂れても、公園は公園のままだった。取り残された空き地のようで、老朽化した遊具は撤去され、地域の子供が減ったために新設されることも無い。
この日の夕焼けも、とろんとして、空から蜂蜜が溶け落ちてくるような夕陽だった。か、どうだか。
八雲紫は藤色が上品な着物姿に身を包み、日傘を肩に預けながら、路地裏から公園の様子を窺っていた。
白いワンピースの女性は、以前と変わらない様子で、日陰の端っこに佇んでいる。
触れれば壊れてしまいそうに、儚げに。何をするでもなく、ただ、佇んでいる。まるで時間を止める魔法に掛かったように、団地が寂れたことも、少なからずいる地域の子供だって別の場所で遊んでいることを、知らないみたいに。ある意味で愚直に、佇むことしか知らないみたいに。
だから、声を掛けるのも躊躇われた。まるで真夏の雪像。魔法が解けてしまったら、本当に壊れて消えてしまいそうだったから。最下段が一枚抜けたトランプタワーが崩れずにいるようなものだ。
でも、声を掛ける。このまま待っていても、幻が消えてしまうのは同じだから。
「……ねぇ、貴方さえ良ければ、私と一緒に…………」
「──? ────」
口元が笑って、ふっと消えた。
紫は目を細めて、唇を噛んで、俯いて、それから、表情を消した。
触れれば壊れると思っていたものが、触れたから壊れた。後悔とは程遠い、ああ、やっぱり、という結末。
何気ない景色は少しずつ夜に落ちていく。光のグラデーションは刻一刻と移り変わっていき、いつまでだって飽きずに眺めていられそうなのに、そんな時間は一時間かそこらで終わってしまう。冬ほど日が短いわけでないにしても、夏の夕暮れが永遠に長いわけでもない。
溜め息、に満たない吐息を吐いて、紫は道の先に目線をやった。
早帰りらしいスーツの男性が、公園の曲がり角で足を止めていた。くたびれた中年の男だ。
「こんばんは。この公園に、何か?」
一瞬、紫の雰囲気に呑まれかけたようだったが、男はすぐに決まりが悪そうに目を逸らした。
「秘密であろうと、何なりと。どうせ私は、異邦人です」
特別な金色の瞳で見つめて、声をひそめて囁く。
男は不思議なほど簡単に相好を崩した。いや、大したことじゃないんだがな、という風に前置きすると、短い昔話を始めるのだった。
「昔、友達がこの公園から帰る途中で行方不明になったんだよ」
「へぇ、そう」
「結局、見付からなくてな」
それだけだ、と。
「それにしても、なんだか勝手に、五時のチャイムなんてもう鳴ってないもんだと思っていたが、今もまだあるんだな。久し振りに聴いたよ」
男は懐かしむような眼差しで、鐘の音なんてとっくに鳴り止んだ朱と紫色の夕空を見上げる。
「思えば、最近の子供はゲームばかりで外で遊ばなくなった、そんな定型句さえ、とんと聞かなくなった。あのチャイムで帰る子供は、まだいるのかなぁ」
実際は、いるのかも知れない。
ただ男の口振りからすると、いないんだろうなぁ、と思っていることは窺えた。あの頃は良かったと懐古するでもなく、時代の移り変わりに、大きな反応も無く驚いているだけ。
「ねぇ。一つ、もしもの話をよろしいかしら?」
「……何かな?」
「貴方はお友達が羨ましいのでは? 行きたいのなら、連れて行って貰えたかも知れませんよ? 神隠しに遭い易い人間の特徴は、あちら側に意識が振れていることだそうですから。それに、チャイムの音は、ある種の境界です」
「いや」
男は、はっきりと告げた。
「郷愁がな、かつてほど胸を打たないんだ。あのチャイム、寂しい音だとは思うんだけどな」
あんなに色々な思いが渦巻いていたのに、今はもう忘れてしまったのだと。
「……それが、年を取るということですわ」
そうなんだろうな、と男は苦み走った顔で笑って、帰って行った。彼ならば、夕焼けの狭間に落ちることもなく、無事に家まで帰るだろう。だってもう、いい大人なんだから──
異界への憧れを抱いて死ぬことと、憧れを失って生きること、そのどちらが本当の幸福かどうかは、紫の知ったことではない。あの男には普通に帰る家があるのだろう、とは思ったが。
いや、知ったことではない、というのは嘘だ。ここではない何処かへの憧れを持たず、今この場所にあるものを見つめていられるのは、きっと、幸福なことだ。地に足を付けた、真っ当な生き方だ。
「大人になんて、なりたくないものね」
すぐに戻る気にもなれず、夜と夕暮れの入り混じった道を、少しだけ歩くことにした。
上機嫌、とは程遠かったが、童謡のメロディーが鼻唄になって零れ落ちる。胸の底で微かな痛みを疼かせる、侘しいような、もの悲しいような旋律。音符に形があるのなら、地面に落ちて、潰れている。五線譜はきっと、引っ掻き傷みたいに歪んでいる。
子供が帰った後からは
まるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星
隠し神も、もう帰る時間なのかも知れなかった。
山のお寺の鐘が鳴る
おててつないでみな帰ろう
からすと一緒に帰りましょ
とろんとして、空から蜂蜜が溶け落ちてくるような夕陽だった。
橙色を包み込む金色の光暈は、何処にでもありそうな、いえ、此処を何処の場所と言っても通用しそうな、ありふれた郊外の公園を、此方より彼方の世界であるかのように染め抜いている。時折、ふとした瞬間に、自然現象が、あるいは、見る人の気持ちが、何気ないような景色を、泣いてしまいたくなるくらいに美しく見せることがある。昨日も、昨日の昨日も、夕焼けは同じように美しかったはずなのだけれど、どうしてか今日だけは、特別に見えてしまう。
だから、なのだろう。その男の子は立ち止まった。
午後5時のチャイムが聴こえて、友達と手を振り別れて帰路に付いた所だったのに、ふと、忘れ物を思い出したように公園を振り返ったのだ。
もちろん、公園は公園。団地の中にある公園としては、やや広い方で、滑り台もブランコもあって、シーソーが無い。そう言えば、跨ってぶらぶらと揺れる動物も遊具も無かった。砂場も小さくて物足りないけれど、まあ、普通の公園。いつもの、公園……?
そこかしこに暗くなり始めた夕闇が凝っているようで、少し怖い。でも、男の子は怖いなんて認めなかった。何故って、まだまだ本格的に日が暮れるには早いからで、帰宅に要する時間を考慮しても、五時十五分、いや五時半くらいまでは、外で遊んでいても良いと常日頃から思っていたからだ。
そんな、いつもと同じようで、だけどいつもと違う公園に、麦わら帽子と白いワンピースの女性が佇んでいた。腰までの長さがある黒髪は目にも掛かっていて、表情はよく分からない。黄昏時は、誰そ彼時。けれども、男の子は少しも疑問を持たずに駆け寄った。
『行方不明の男の子を探しています』
一週間後くらいに、そんなチラシが公園の看板に張り付けられることになる。
……
…………
時は流れて、数十年。昭和を代表していたような団地も寂れても、公園は公園のままだった。取り残された空き地のようで、老朽化した遊具は撤去され、地域の子供が減ったために新設されることも無い。
この日の夕焼けも、とろんとして、空から蜂蜜が溶け落ちてくるような夕陽だった。か、どうだか。
八雲紫は藤色が上品な着物姿に身を包み、日傘を肩に預けながら、路地裏から公園の様子を窺っていた。
白いワンピースの女性は、以前と変わらない様子で、日陰の端っこに佇んでいる。
触れれば壊れてしまいそうに、儚げに。何をするでもなく、ただ、佇んでいる。まるで時間を止める魔法に掛かったように、団地が寂れたことも、少なからずいる地域の子供だって別の場所で遊んでいることを、知らないみたいに。ある意味で愚直に、佇むことしか知らないみたいに。
だから、声を掛けるのも躊躇われた。まるで真夏の雪像。魔法が解けてしまったら、本当に壊れて消えてしまいそうだったから。最下段が一枚抜けたトランプタワーが崩れずにいるようなものだ。
でも、声を掛ける。このまま待っていても、幻が消えてしまうのは同じだから。
「……ねぇ、貴方さえ良ければ、私と一緒に…………」
「──? ────」
口元が笑って、ふっと消えた。
紫は目を細めて、唇を噛んで、俯いて、それから、表情を消した。
触れれば壊れると思っていたものが、触れたから壊れた。後悔とは程遠い、ああ、やっぱり、という結末。
何気ない景色は少しずつ夜に落ちていく。光のグラデーションは刻一刻と移り変わっていき、いつまでだって飽きずに眺めていられそうなのに、そんな時間は一時間かそこらで終わってしまう。冬ほど日が短いわけでないにしても、夏の夕暮れが永遠に長いわけでもない。
溜め息、に満たない吐息を吐いて、紫は道の先に目線をやった。
早帰りらしいスーツの男性が、公園の曲がり角で足を止めていた。くたびれた中年の男だ。
「こんばんは。この公園に、何か?」
一瞬、紫の雰囲気に呑まれかけたようだったが、男はすぐに決まりが悪そうに目を逸らした。
「秘密であろうと、何なりと。どうせ私は、異邦人です」
特別な金色の瞳で見つめて、声をひそめて囁く。
男は不思議なほど簡単に相好を崩した。いや、大したことじゃないんだがな、という風に前置きすると、短い昔話を始めるのだった。
「昔、友達がこの公園から帰る途中で行方不明になったんだよ」
「へぇ、そう」
「結局、見付からなくてな」
それだけだ、と。
「それにしても、なんだか勝手に、五時のチャイムなんてもう鳴ってないもんだと思っていたが、今もまだあるんだな。久し振りに聴いたよ」
男は懐かしむような眼差しで、鐘の音なんてとっくに鳴り止んだ朱と紫色の夕空を見上げる。
「思えば、最近の子供はゲームばかりで外で遊ばなくなった、そんな定型句さえ、とんと聞かなくなった。あのチャイムで帰る子供は、まだいるのかなぁ」
実際は、いるのかも知れない。
ただ男の口振りからすると、いないんだろうなぁ、と思っていることは窺えた。あの頃は良かったと懐古するでもなく、時代の移り変わりに、大きな反応も無く驚いているだけ。
「ねぇ。一つ、もしもの話をよろしいかしら?」
「……何かな?」
「貴方はお友達が羨ましいのでは? 行きたいのなら、連れて行って貰えたかも知れませんよ? 神隠しに遭い易い人間の特徴は、あちら側に意識が振れていることだそうですから。それに、チャイムの音は、ある種の境界です」
「いや」
男は、はっきりと告げた。
「郷愁がな、かつてほど胸を打たないんだ。あのチャイム、寂しい音だとは思うんだけどな」
あんなに色々な思いが渦巻いていたのに、今はもう忘れてしまったのだと。
「……それが、年を取るということですわ」
そうなんだろうな、と男は苦み走った顔で笑って、帰って行った。彼ならば、夕焼けの狭間に落ちることもなく、無事に家まで帰るだろう。だってもう、いい大人なんだから──
異界への憧れを抱いて死ぬことと、憧れを失って生きること、そのどちらが本当の幸福かどうかは、紫の知ったことではない。あの男には普通に帰る家があるのだろう、とは思ったが。
いや、知ったことではない、というのは嘘だ。ここではない何処かへの憧れを持たず、今この場所にあるものを見つめていられるのは、きっと、幸福なことだ。地に足を付けた、真っ当な生き方だ。
「大人になんて、なりたくないものね」
すぐに戻る気にもなれず、夜と夕暮れの入り混じった道を、少しだけ歩くことにした。
上機嫌、とは程遠かったが、童謡のメロディーが鼻唄になって零れ落ちる。胸の底で微かな痛みを疼かせる、侘しいような、もの悲しいような旋律。音符に形があるのなら、地面に落ちて、潰れている。五線譜はきっと、引っ掻き傷みたいに歪んでいる。
子供が帰った後からは
まるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星
隠し神も、もう帰る時間なのかも知れなかった。
チャイムの音、最近は気にしなくなりましたね
明日聴いてみようと思います
私もチャイムの音を聴いてみようと思います
哀愁の風景が鮮烈に残る、良い作品だと思いました。
昼と夜の境界線上、公園ににたたずむゆかりんがとても妖艶に感じられて好きです
夕焼け小焼けでまた明日。
儚げでそれでいてあいまいながらも現実と同じ土俵にある
夕暮れの公園ってそういうものなのだろうと思いました
しんみりするようなしないような不思議な感覚に陥りました
こういった昔を思いやる気持ちもいつか褪せて無くなってしまうことがより一層強く意識されるのにぴったりの空気感でなんだか心につかえるものがありますね