少し前まで桜色一色だった幻想郷も五月に入り、今度は木々の緑に覆われていた。
華やかな景色も嫌いではないが、やはり読書をするにはこの時期の落ち着いた雰囲気が心地よい。そんなことを思いつつ、僕はじめついた店内で本を読んでいた。いつだったか、香霖堂の周りでだけ強雨が降ったとき、(それ自体は結局知らぬうちに住み着いた妖精の仕業だったのだが)霊夢に名前の霖の字をもって揶揄されたことがあったけれど、存外僕はこういう気質を持っているのかもしれない。
「ふう、邪魔するよ」
不意に聞こえた声とカウベルの音が来客を知らせた。読んでいた本に栞を挟み、そちらに向き直ると見知った少女が立っていた。彼女について強いて特徴を上げるならば、灰色の髪、小柄な体躯。
―そしてネズミの耳と尻尾がある。
「やあ、いらっしゃいナズーリン」
毘沙門天の遣いだという彼女とは、ひょんなことからある取引をし、折衝を重ねるため通ううちに習慣づいたのか、その一件が片付いた後もたまに店に顔を見せる。霊夢や魔理沙みたいに騒々しいだけじゃなく、含蓄に富んだ話ができる相手は貴重だから、こちらとしても彼女のような来客は歓迎だった。
どこぞのみょんな半人前とも違って。
あれはあれで見ていて面白くはあるが。
「ああ、こんにちは店主。悪いが少し雨宿りをさせてくれないか」
言われて窓を見ると、本を読む前の晴天とは打って変わって、空は灰色に染まり硝子には雨粒が滴っていた。読書に夢中だったのと、元々の湿気で気づかなかったが、天候が変わるくらいの時間は経っていたらしい。
「どうせ本読みに耽って気づいてなかったんだろう。先刻までは晴天だったんだがね、人里を出たところで急に雲行きが怪しくなって、今はごらんの通りさ」
「ふむ。いや、構わないが珍しいね、君が人里まで出向くとは」
「なに、今日は買い出し係の一輪や船長が忙しくてね。手が空いていた私に白羽の矢が立ったというだけだよ」
確かに彼女の手には随分な量の荷物があった。
抱える風呂敷からは青々とした植物が覗いている。仏前に供える樒だろうか。
見る限り濡れてはいないので間一髪、雨からは逃げ切ったようだ。
「濡れずに済んだようで何よりだよ。ところで買い出しついでに何か見ていくかい?つい先日仕入れに行ったから君の興味を引くものも―」
「遠慮しておくよ、また吹っかけられてはたまらないからね」
随分な物言いである。いっておくが僕は商人として商品に法外な値段をつけたりしない、あの宝塔とやらにはそれだけの価値があり……相応の用途があっただけだ。
「そもそもここは商店なんだがね」
「なんだい、この雨の中追い出すつもりかい?始めに了承は取っただろう」
「そうは言わないが……」
フリくらいはしてもらいたいものである。
「まあ、幸い荷物も私も濡れずに済んだけれど……」
言葉の内容とは裏腹に、彼女の表情には雨空と同じく影が差していた。
「どうかしたのかい?」
「いや、人里の鯉のぼりなんだが、まだ出したままのものが多くてね」
「おや、それは僥倖じゃないか」
曇っていた表情が訝しげなものに変わる。何を言っているんだとでも言いたそうである。そんなにおかしなことを言った覚えはないのだが。
「なんてことを言うんだい、君は」
「鯉のぼりだろう?雨に降られたと言ったから、それは良かった、と」
「随分と性の悪いことを言うんだな。いくらじめついた店だからって、店主まで陰湿にならなくともいいのに」
酷い言われ様だ。
ナズーリンが怒った理由は分かった。どうやら彼女は鯉のぼりが濡れてしまったことを憐れんでいるらしい。
「成程、君は鯉のぼりの由来を知らないのか」
さらに険しい表情になる。
「馬鹿にしないでくれ、登竜門の故事成語だろう。鯉が滝を登って竜になるっていう。子供の成長と立身出世を願ってとかなんとか」
「なんだ、知っているんじゃないか。なら僕の言いたいことも分かるだろうに。登る滝がなければ鯉も竜になれやしないだろう」
元来、鯉のぼりは雨の日に揚げるものだ。
幻想郷でも暦が変わってからはお構いなしに揚げるようになったけれど。
「へえ、それは素直に知らなかったな。つい意地の悪さが口に出たのかと」
「失敬な、子供の不幸を願うほど捻くれてはいないよ」
冗談だよ、手を振りつつも、顔に反省の色は見られない。。
いい来客だと言ったが前言を撤回しようか。
それに、彼女は得心いったようだが鯉のぼりを雨天に揚げる理由はそれだけじゃない。
「あともう一つ、まあこちらももう明白だけれどね」
「なんだい、またいつもの胡散臭い蛇足かい」
「今からでも濡れ鼠になるには遅くないよ」
しれっとこちらから顔を外す。
やはり言い直そう。いい来客というよりいい性格だ。
「で、もう一つってのはなんだい。暇つぶしに聞こうじゃないか」
「……雨乞いだよ。鯉のぼりを揚げる時期を考えれば分かる。皐月が農作の月っていうのは知っているだろう。水無月についても読んで字の如くさ」
「そりゃあね、暦が変わってから少しずれてしまったけれど」
「あとは五番目の月っていうのがミソだよ。まあ、本来の紀月とは異なるけれど、そこは日本の正月に合わせたんだろう」
彼女が先ほど言った成り立ち通り、鯉は元々田植えにうってつけなほど雨が多く降る季節に空を泳がされていたわけだ。
来たる日照りの月に向けて、滝を登って、五番目の干支になるために。
「……ああ、なるほど。雨ってことはそういうことか」
「そうだ、さっき明白だって言っただろう。つまりは人為的に竜を作ろうとしていたんだよ」
近頃、外の世界では前触れなく大雨が降っては立ち消えることが頻繁に起きているらしい。
これは暦がずれた影響で出しっぱなしの鯉のぼりによって模造の竜たちが生み出され続け、本来六月に降らせる許容量を遥かに超えて他の時期や場所に雨が溢れ出てしまっているんだろうと僕は睨んでいる。
と、説明を終えるとナズーリンが半信半疑が溢れ出たような顔でこちらを見ている。
いつものことなのでもう気にしないが。
「ああ、まあいつも通り二信八疑くらいには聞いておくよ」
……思っていたよりずいぶん割合が低かった。
これだけ丁寧に解説したというのに。
「だがまあ、それが本当なら私が濡れずに済んだのは必然だったみたいだね」
「―ふむ、どうしてだい?」
言葉の意味に思い至れず問いかけると、彼女は尻尾までこちらに向けて意趣返しとばかりに得意げに口を開いた。
「さっき自分で言っていたくせに、知らないのかい?鼠は竜よりずうっと先を行ったってことをさ」
……成程、確かに、彼女は最も早く駆けた動物だった。
いや、実際に必死に駆けたのは鼠ではないのだけれど。
――カラン、カラン
切り返しに素直に感心しているとナズーリンが来た時と同じようにカウベルが来客を告げる。
と、同時に少し困窮したような女性の声
「失礼、店主殿……なにかこう、身体を拭くものを……」
玄関口にいたのは、このナズーリンの主人という寅丸星という女性だった。
なんでも毘沙門天の弟子兼代理というありがたい存在だそうだ。
ついでに付け加えると現在頭から足先までびっしょり濡れている。
「ご主人……」
「あ、ナ、ナズもここにいたんですね。御遣いに頼み忘れたものがあって追いかけたらこの有様で。あはは……」
お互いにものすごくばつが悪そうな顔をしている。間も悪かったのだが。
「寅丸さん、直ぐに拭くものを持ってきますよ。ところでナズーリン」
寅丸さんには申し訳ないが、失笑を堪えられずナズーリンの方を向く。
「寅は追いつかれてしまったようだね」
「……奴らも日々努力しているんじゃないかな、知らないけどさ」
先程まで自信満々にこちらを指していた灰色の尻尾は、登っていく鯉たちとは反対に下を向いて項垂れてしまっていた。
霖之助の怪しげな薀蓄もすごく彼らしくて良かったです!
楽しめて良かったです
綺麗に落ちていて見事だと感じます。面白かったです
鯉のぼりの下りから、十二支に繋いで、という話題の繋がり方も、あーなるほどなー上手いなーと感心しきりでした
雨乞いの辺りの話が好きでした。
知的な会話がとてもよかったです
雨宿りという状況を十二分に活かしきった名作だと思います
そこにつながるのか
勉強になりました
博識な店主の経営する道具店から切り取られた一幕にぴったりな知的で落ち着いた雰囲気が流れていてとても心が癒されました
知恵の良い者同士の知的な会話って間合いの探り合いをしているのが窺えて、良いですよね。星ちゃんの介入が無かった時のその先が見たいと思ってしまうばかりです。
でも自信の表れが尻尾に出てきているのはとても可愛いから星ちゃんナイス!!
2人のやり取りがいかにも霖之助とナズーリンっぽさが出ていて良かったです。
オチの星も可愛くて好きです!