「これまで散々な人生だったんだ。ちょっとくらいズルしたって良いでしょう」
そう言って天邪鬼は、小人に手を差し伸べた。
革命前夜の話である。
『輝針城にはドライブレコーダーをつけるべきだったかもしれない』
「今晩……泊めてもらえないかな」
雨に濡れた依神紫苑がそう頼むのを聞いて、少名針妙丸は昔話の一幕みたいだな思った。
なぁ、と猫の鳴く声がした。紫苑が胸元に抱えていた黒い塊は、いつものぬいぐるみではなく本物の黒猫だった。
「勿論構やしないけどさ、あんたがうちの城に一人で来るのは珍しいね。ああごめん、二人だったね」
針妙丸が彼女の胸元の黒猫を認めてそう言うと、言葉が解ってるかのように黒猫は満足そうに鳴いた。
「そ、そうかな」
紫苑と針妙丸は、一言でいうと「友達の友達」というような関係だった。互いの友人である天子と三人でいることはあっても、案外二人きりで話すのはこれが初めてだったかもしれない。
若干の気まずさが無いわけでは無かったが、わざわざ断るほどでもない。そもそも外は嵐なので、誰が来たとしても追い返すわけにはいかないだろう。
紫苑の様子が、いつもより少し暗いのは気になったが、天子と一緒にいないときはこんなものなのかもしれないと針妙丸は深く考えないことにした。
「その猫、どうしたの?」
「ええと、ちょっとね、拾ったというか……」
針妙丸は猫に追いかけられることが多々あるのだが、この黒猫は大人しそうだし問題なさそうだった。
「あーごめん、寒いよね。今囲炉裏に火を入れるから。お勝手に手ぬぐいあるから身体拭きなよ」
紫苑をずぶ濡れのまま立たせていることに気づき、針妙丸がいそいそと動き回りはじめる。
この豪雨の夜を飛んできたのだ。風邪を引いてしまうかもしれない。
「ええと、白襦袢はどこにしまったかな」
普通の人間が着れる大きさのものもあったはずだ。その本来の持ち主のことが一瞬脳裏に浮かびかけたが、針妙丸はそれに蓋をした。
「……ありがとう」
「まー寛いでってよ」
数刻後に、彼女は思い知ることになる。
依神紫苑が超一流の貧乏神であることを。
深夜、轟音で針妙丸は目を覚ました。
目の前には船があった。
「海……?」
どこか見覚えのある船だなぁ、と思いながら寝ぼけ眼をこすって、もう一度寝付こうとする。
それから布団の中で何が起こっているのか気づいて、眠気が吹っ飛んでいった。さぁ、と血の気が引いていく。
彼女は布団をはねのけて飛び起きた。
輝針城の中に船があった。聖輦船だ。
突き刺さっているのだ。
宇佐見菫子がその光景を見たなら、アクセルとブレーキ間違えてコンビニに車が突っ込んだ光景を十倍派手にした感じ、と形容するだろう。
針妙丸の絶叫が、嵐の夜に響き渡った。彼女の人生の中でも一二を争う大きな声だった。
「な……なんっ……何でぇ……?」
半分裏返った情けのない声を出しながら、彼女は右手で頭を抱えた。
ふと横を見ると、黒猫を抱えた貧乏神が「やっちまった」という青ざめた表情をしていた。
その瞬間、針妙丸は自分の犯した愚に気づいた。
いつも紫苑が輝針城にいるときに起こる不幸は、天子の天運によりある程度相殺されていたのだ。
その枷が無くなった貧乏神は、城の一つを半壊させるなど朝飯前だった。
「お前のせいか……お前のせいかー!」
大切な我が家を壊されて、針妙丸は激昂した。
紫苑の胸ぐらをが掴んで、がくんがくんと揺らそうとする。もっとも傍目に見れば、小人が胸ぐらに吊り下がっているようにしか見えなかったが。
「ご、ごめんなさい……」
「……?」
針妙丸は貧乏神の様子に違和感を抱いた。
彼女は貧乏神という自らの性質と長年付き合ってきたのもあり、基本的には自分が周りに迷惑をかけるのは仕方のないことと思っている。心を読むさとり妖怪が嫌われるのに慣れているように、自分の性質との折り合いがある程度付いているのだ。
敬愛する天子相手でもなければ、何かやらかしてもへらへら謝るだけだ。
だが、今日の彼女は違った。
本当に申し訳なさそうな表情をしていたというか、いつもより数段暗い。
「あんた……」
針妙丸が口を開きかけると、突っ込んだ船の船長が飛び降りてきた。
そしてそのまま土下座した。
「本っ当に申し訳ありませんでした!! 何故か船の調子がおかしくなって、急に嵐になって、雲に捕まっちゃって、舵が取れなくて、それで……」
「あー、いや……まあ仕方ないんじゃないかな」
村紗水蜜は半泣きの面をあげると、視界に貧乏神を捉え、複雑そうになった顔になった。
普通そうなるよな、と針妙丸は思う。
紫苑のせいでこの事態が発生したという予想はつくだろうが、確証は特にない。仮に確証があったとしても、貧乏神が全部悪いので私たちは全く悪くなかったとは言えないだろう。
誰かが見ていたり映像記録でもあれば、貧乏神がいなければこんな不可抗力で避けようのない事故は起きなかったと言えるかもしれないが。
数秒の逡巡の後、彼女はどちらにしろ謝るしかないと決断したらしく、その額を床にぶつけた。
「本当に申し訳ない! どんな手を使ってでも迅速に修理するから!」
「いや、修理のアテはあるから大丈夫だよ。ちょっと協力してもらうけど」
そう言うと針妙丸は懐から、打ち出の小槌を取り出した。村紗がなるほど、という顔をする。
数あるマジックアイテムの中でも、殊更に高名で強力な一品。勿論リスクはあるが、今回は村紗たちから魔力を借りれば問題ないだろう。
それに、今回が貧乏神による不幸の産物だとすれば、打ち出の小槌であれば簡単に帳尻を合わせられるだろう。
打ち出の小槌で強引に願いを叶えれば、相応の歪みを発生させるものだが、そもそも貧乏神による被害が歪みである。今回はむしろ歪みを正すことになるのだから、普通に壊れてしまった城を小槌で修理するより楽なはずだ。
「それはともかく、他の人たちは?」
「遊覧船業が終わった後だったから客さんはいないよ」
「それもだけど、他の寺の面子も。村紗一人?」
聖輦船は遊覧船であるとともに、彼女たちが暮らす寺でもある。しかし村紗以外の姿が見えない。
「聖と星さんは今日は人里の寄り合い参加してるからお泊り、一輪は頭打って気絶して雲山が介抱してる」
「えっ……気絶とか一輪大丈夫なのそれ……」
「雲山がついてるし、そんなヤワじゃないし平気よ平気」
からからと村紗は笑う。いくら妖怪は頑丈って言ってもなぁ、と針妙丸はこぼしたが、ひ弱な小人の基準とはまた違うのかもしれない。
とはいえそのまま船においておくわけにもいかない。打ち所が悪いといけないので、念のため輝針城に一輪を連れてくることになった。
「……」
針妙丸は一言も発さなかった紫苑を横目に見た。
彼女は俯いて項垂れているだけだった。
「いやー、本当に申し訳ないね!」
一輪は目を覚まし、お詫びということでお酒とつまみを輝針城に持ち込んだ。針妙丸も紫苑も何故寺に戒律で禁じられている酒があるのかという指摘はしなかった。公然の事実だからだ。
あっけらかんとした一輪の様子に、もうちょっと申し訳なさそうにしてもいいんじゃないかなぁ、と針妙丸は思わないでもなかった。
もっとも針妙丸は城が壊れたことで彼女たちを責める気は毛頭なかった。十中八九貧乏神が原因であり、彼女たちに非はない。それに小槌で城が戻せるのがわかっているのだから怒る理由は薄い。
「で、なんですぐに直さないの?」
「こんな嵐の中、すぐ追い出したりしないよ。それに嵐でだいぶ疲れたでしょ? 小槌に魔力を吸い取らせるのは一眠りして体力回復してからの方が良いと思ってさ」
そりゃ助かる、と一輪が徳利を傾ける。
輝針城に命蓮寺を突っ込ませたままにしておく理由は、実のところもう一つあった。
貧乏神の登場する昔話は概ね金持ちを没落させる、つまりプラスをマイナスにすることが多い。であれば、住処が破壊されているというマイナスの状態においたままの方が、更なる不幸の追撃は起きづらいと、針妙丸は仮説を立てた。下手に修理してゼロまたはプラスの状態に戻せば、また壊されたり別の不幸が起こりかねない。
船は深く城に突っ込んでおり落下しそうもなかったので、そのままにしておいても問題ないだろう。
「ああ、挨拶が遅れちゃったけど、女苑のお姉さんよね。完全憑依の異変以来かしら?」
一輪がそう言って微笑むと、紫苑は「ああ」とか「うん」というような曖昧な相槌を返した。彼女は何だか調子が悪そうだったが、一輪と村紗の二人はそれに気づかず、そして彼女に興味津々だった。大人しくしているが、雲山も同じようだ。
女苑は姉のことを外で話題するような性格ではなかったので、寺の面々は誰も紫苑のことをよく知らないのだ。紫苑の方も能力の関係もあってあまり人前に出ない。彼女たちにとっては、女苑の姉と話すまたとない機会だった。
「女苑って家だとどんな感じ?」
「どんな感じと言われても……うーん、普通にゴロゴロしてるよ」
オフだとダラけるタイプだよねー、外出してる時とギャップあるよねー、と二人。
そのまま質問責めにあう紫苑を、針妙丸が時折フォローしながら夜が更けていく。
ただ、ある質問に対し紫苑は大きな動揺を見せた。
「紫苑さんは女苑と喧嘩したりするの?」
彼女はぎょっとした表情をしてから、「しょっちゅうっていうか……大体私が怒られてるんだけど……」ともごもごと答えた。
その様子を見て、針妙丸は彼女が輝針城に泊まりに来た理由の見当が大体ついた。
「紫苑、眠いなら先に寝たら?」
「いや、いい」
人と話している気分ではないだろうと、針妙丸は気を使って助け舟を出したつもりだったが、彼女は頑として首を横に振った。彼女はこの場から離れたがっていると思ったのだが、それを拒否する心情が針妙丸にはよく分からなかった。
そんな調子で話していると数刻後、村紗は酒が回ってきたのか、ふらふらとしてきた。
「……厠どこ?」
村紗が急に立ち上がるが、今にもひっくり返りそうだった。
「私がわかるから連れてくよ」
そう言って一輪が立ち上がり村紗の体を雲山と一緒に支えた。「ごめんちょっと村紗連れてくね」と言って三人は席を外した。
その場には針妙丸と紫苑だけが残された。
「……」
「……」
二人して黙っていると、眠っていた黒猫が起きて、なあ、と鳴いた。
人の家に来て、こういつまでも辛気臭い顔をされては堪ったものではない。遠慮することないな、と針妙丸は単刀直入に切り出した。
「妹と喧嘩でもしたの?」
「えっ……なんでわかったの……?」
「あれで察するなという方が難しいと思うけど……」
目を丸くする紫苑に、針妙丸は呆れた。どれだけ自分が感情を表に出してしまっていたかを、彼女は全く気づいていなかったようだ。
「やっぱりその猫が原因?」
「……うん」
黒猫を撫でながら、紫苑はそういった。
雨で濡れていた黒猫を、彼女は可哀想に思い、連れて帰ったそうだ。
『うちの家計がどんだけ火の車かわかってんの?』
『で、でも可哀想だよ』
『同情するのは勝手だけどね、姉さんがその子の食い扶持稼げるの? 善いことがしたいなら、余裕があるやつに任せればいいのよ。ウチにそんな余裕はありません』
『……その割には最近おしゃれな服増えてるじゃん』
『はー? これは私が野郎どもから貢がせたものよ。私が稼いだものをどう使おうが勝手でしょ! 一銭も稼いでない役立たずの姉さんに何で金の使い方を指図されなきゃいけないのよ』
『や、役立たずは酷いじゃない!』
そんな塩梅で喧嘩した挙句、猫を抱えて家を飛び出したらしかった。
実質敗走なんだろうなぁ、と針妙丸は思った。妹君の方は口喧嘩が強そうだ。
「で、それでウチに転がり込んだと」
紫苑は無言で頷いた。どこにでもある、犬も食わない他愛のない姉妹喧嘩だ。依神姉妹は割と喧嘩しがちであるため、今回のようなことは別段珍しくないだろう。
だからこそ針妙丸は気になった。何故、輝針城に駆け込むまで話がこじれたのかを。喧嘩が多いからこそ、落とし所を見つけることにも慣れているだろうに、何故適当な頃合いでお互い折り合いを付けることができなかったのだろうか。
「ほとぼりの冷めたところで謝るなり仲直りすればいいじゃない。女苑だって、真剣に頼めば次の飼い主が見つかるまで預かっとくくらいだったら許してくれるでしょ」
「そうね……言い争った後はいつも大体そうなんだけど……」
紫苑は数秒悩んでから、二の句を継いだ。
「そう思って戻ったらね……女苑の友達がいたのよ」
紫苑が名前を知らなかったということは、人里の人間だろうと針妙丸は見当をつけた。女苑は最近、人里の茶屋で働いているようだったから。
流石に知らない人がいる前で喧嘩の和解とはいかないだろう。だが、間を開ければ良いのではないかと、針妙丸は首をかしげる。
「タイミングが悪かったのはわかるけどさ、ちょっと待ってから出直してとは行かなかったの」
「そうすれば良かったんだけど……」
また彼女は口ごもる。
言いたくないならいいけど、と針妙丸は口を開きかけてやめた。無理にでも気持ちを吐かせた方が良いだろうと判断した。悩みは誰かに話すだけでも楽になるものだ。
数巡の後、ようやく彼女は切り出した。
「女苑にはたくさん友達がいるんだなと思ったら……何だか、酷く惨めな気分になって……」
紫苑は両手でお猪口をぎゅっと握りしめた。
「あー……そりゃあ、まあ……こっちから謝ってやるみたいな気分じゃなくなるか」
喧嘩したあと謝るには、心の平静が必要だ。嫌な気分を抱えたまま和解するのは、互いが親しい関係にあるほど難しい。
「でも紫苑には霊夢も天子もいるじゃない」
紫苑だって一時期博麗神社に転がり込んでいたわけだし、天人とも仲良くなっているのだ。彼女にも親しい人が増えており、引け目を感じることは何もない。
針妙丸としては、妹の方が姉と天子の仲を羨んでいるように感じることはあれど、紫苑の方が妹を羨んでいたとはあまり考えたことがなかった。
それを針妙丸が指摘すると、彼女は首を振った。
「でも、霊夢さんは誰に対しても優しいし、逆を言えば天人様としか仲良くなれてないし……」
紫苑も針妙丸が言いたいことはわかっている。
二人ぼっちだった神様両方に変化が訪れている。そしてその変化は妹の方が大きかった。
しかし女苑よりも紫苑の能力の方が凶悪であり、その分のハンデがあるのでそれは当然のことだった。
「妹とアンタは別よ。アンタの方が能力の制御の効かなさは酷い割に、頑張ってると思うよ」
「……ありがと」
紫苑はそう言ったが、暗いままの表情を見るに、心中に言葉は届いていないようだった。
コンプレックスとはそういうものだ。他者より劣っているのを気にしている状態というより、自分に自信がない状態と言った方が近い。
他人に言われたところで、さらっと払拭されるようなものではない。
「なー」
針妙丸がどうしたら彼女を元気付けられるかと腐心していると、黒猫が顔を押し当ててきた。毛に埋もれてしまっていたが、満更でもないので、懐かれるに任せていた。
しばらく考えたあと、針妙丸は紫苑に提案した。
「この子、ウチで引き取ろうか?」
「えっ!……いいの? 猫は苦手だって言ってなかったっけ?」
「追い回されるのが嫌いなだけだよ……お燐とか。丁度城が広くて寂しいなと思ってたのよ」
「あ、ありがとう!」
「それとどうにもこの子、化けかけてるみたいだね」
「え、そうなの?」
「うん。今触れられてわかったけど、ちょっと妖気を感じる気がする」
沢山の道具が付喪神となる過程を見てきた針妙丸には、妖怪になる予兆が何となくわかるようになっていた。
化け猫になりかけると、前足で戸を開けて後ろ足で閉めるようになるという。黒猫の尻尾はまだ裂けていないが、既に戸を閉めるくらいはできそうなくらい妖怪に近づいている。
これだけ人懐っこいとなると、元々飼い猫だったが飼い主に先立たれて居場所がなくなったところだろうと針妙丸は思った。
「そっかー、お前もあと少しで妖怪の仲間入りかー」
紫苑が猫の顔を覗き込むと、猫は前足で顔をかいた。
「そしたらさ、あとは妹と仲直りするだけだね」
「うん……」
一瞬明るくなった紫苑の顔がまた萎れてしまった。
針妙丸はガシガシと頭をかいて、呆れ気味に言った。
「ったく……いつまでも帰らないわけにもいかないでしょ。女苑だって今頃言い過ぎたかなって思ってるって」
「でも、私が居なくても女苑は平気だろうし……」
「だーもーまどろっこしいな! 女苑が迎えにきてくれるのを待つの?」
針妙丸は紫苑をまっすぐと見つめる。その目に彼女は少したじろいだ。
「女苑じゃなくてアンタはどうしたいのさ」
「それは……一緒にいたいけど……」
「じゃあそうすれば良いのよ。本当に一緒にいたいなら、自分から……」
急に針妙丸は言い淀んでしまった。
気づいてしまったのだ。じゃあ自分はどうなんだと。
「自分から……」
共に世界へ反旗を翻した初めての友達は、結局城に戻ることは無かった。
逃亡生活を続ける正邪に救いの手を伸ばし、そしてその手は払われた。天邪鬼が救いの手を取るなんておかしいし、だからこそ針妙丸も「あんたならそう言うと思ったけどね」と返した。
放っておけば自分の元に戻ってくるだろうと思っていたからこそ、それ以上深追いはしなかった。だがそれは思い上がりだった。
輝針城での生活を一人で続けるうち、彼女はもう自分に興味が無いのではないかと針妙丸は思い始めた。そう考えるともう一度正邪に会うのが怖かった。
正邪が抗わぬ弱者に対して抱くあの視線が、自分にも向けられるのではないかと。
「……どうしたの?」
「あ、うん……」
自分と紫苑の何が違うのだと思うと、彼女に説教するような真似はおこがましくてできなかった。
共に過ごしたいと思う相手に、拒絶されたらどうしようと恐れ、自分から歩み寄ることができない。二人はどうしようもなく同類だったのだ。
紫苑が不安そうに針妙丸の顔を覗き込む。彼女はようやく我に帰り、慌てて取り繕った。
「ほ、ほら! 女苑だって本当に嫌いなら、今まで一緒にいたはずないよ。私なんて一日でもうギブアップだもの」
「うん……そうかな」
針妙丸の言葉はどこか空回っているような響きだった。紫苑を励ましているようで、その実、自分に言い聞かせているようだった。
しかも動揺のあまり、自分の言葉に紫苑が少し傷ついていることにもすぐには気づかなかった。
足音が向かってくる。一輪たちが戻ってきたようだった。
それに気づいた紫苑が立ち上がった。
「もう寝るね……この子を引き取るって言ってるくれてありがとう。明日には出ると思う」
「あっ、うん……」
そこでようやく針妙丸は、紫苑と一緒にいるのが苦痛だと自分が言っていたことに気づいた。
紫苑が部屋を出て行こうとすると、ちょうど一輪が戻ってきた。
「もう寝るの?」
一輪がそう声をかけると、紫苑はかるく頷いて客人向けの寝所に向かっていった。その背中に一輪がおやすみー、と手をひらひらふった。
紫苑に入れ替わる形で一輪が部屋に入る。
「紫苑さん、もう寝るみたいね」
「うん。村紗は?」
「ああごめん、勝手に寝かせちゃった」
一輪と針妙丸はそれなりに交流がある方だった。針妙丸は針仕事で糊口をしのいでいたが、人里に卸すとなるとツテが必要だ。そのツテが命蓮寺であり、針妙丸とやりとりするのは専ら一輪だった。
そんな繋がりもあってか、一輪は少なくとも客人用の寝所を知っているくらいには針妙丸と仲が良かった。
「そいでさ」
一輪が針妙丸の横にどかっとあぐらをかいた。そしてお猪口に酒を注ぎ、彼女に突き出した。
「何か浮かない顔してるけど、どうしたのさ」
お姉さんには全てお見通しよ、という少ししたり顔の一輪に、針妙丸は言い淀んだ。
「あー……いや……」
少し迷ったが、お猪口を受け取り全てを話した。
依神姉妹の些細な喧嘩と、姉の抱えるコンプレックスの話を。全てと言っても、正邪と自分の影を依神姉妹に重ねていることは流石に伏せたままだった。
「はー、話に聞いてるよりも大人しいと思ったらそういうことだったのね」
悪いことしちゃったなー、と一輪は頭をかいた。姉妹喧嘩中ということに気づかず、姉妹の間について根掘り葉掘り聞いてしまったからだ。
「ていうか又聞きだから違うかもしれないけどさ、女苑、一言もこの猫ちゃんを元の場所に捨ててこいとかは言ってないんじゃないかな」
「確かに……言い合いになって引っ込みきかなくなっちゃっただけなんだろうね」
猫を迎えるのは吝かではないが、その前に姉の無責任なところをちょっと諌めてやろうというつもりが、あれよあれよという内に本気の喧嘩になってしまい、一人になってから自己嫌悪に頭を抱える女苑の姿が一輪の脳裏に浮かび上がる。
異変で話しただけの針妙丸よりも、一時期とはいえ寝食を共にした一輪の方が女苑の性格への理解は深いようだった。
「そしたら猫ちゃんは紫苑さんに連れて帰ってもらっても良いんじゃない?」
「いや……こんな広い城に私一人ってのも中々寂しいからさ、この子はうちで引き取りたいかな」
針妙丸はどこか遠くを、かつての相棒の影を見ているのが一輪にもわかったが、彼女は「そっか」とだけ返した。
「それにその方が紫苑も帰りやすいでしょ。変に自信がなくなってて仲直りする勇気が足りないだけだと思うんだけど……上手く励ませなくてさ」
「言ってやれば良かったじゃない。私っていう友達がいるじゃんとか私が友達になるよとか」
「……あんたはシラフでそういう事言えそうよね」
「変かな?」
一輪は豪胆というか、世が世なら傑物になっているような器だ。聖の下にあるため多少そういった側面が見えづらくなっているところがあるが、本来の彼女は自然と周りに人が集まってくるタイプだ。
「まあ似たようなことは考えたけど……ウチに来て数刻で城の土手っ腹に穴開ける貧乏神に笑顔でまた来てよって言えるほど私人間できてないよ」
「んー……まあ……そうねぇ……」
流石の一輪も返答の声が濁る。
「ちょっとしたことがあったときに、紫苑のせいだみたいな目線を向けられずにいる自信、私には無いよ」
「そう考えるとあの天人は大したもんよね」
「……そうだねぇ」
天子とて紫苑のもたらす不幸を全て相殺できるわけではない。ただ天子は不幸が起こったとしても、紫苑を責めない。
それはとても難しいことだ。紫苑に悪気が無いのはわかっていても、恨めしい気持ちを一切持たない、出さないというのは針妙丸にも一輪にも真似できない。しかし天人としての誇り高さと本人の大らかさのようなものが合わさった結果、天子は唯一と言っても良い、紫苑のもたらす不幸を気にしないでいられる人物だった。
「なー」
悩む二人を心配するかのように、黒猫が鳴いた。
「お前まだここにいたのか。大人しかったから気づかなかったよ」
「あー、その猫ちゃん、針妙丸が預かるんだっけ?」
「そうそう。人懐っこくて可愛いでしょ」
またしても針妙丸が黒猫の毛に埋もれる。
「とても不幸の象徴とは思えないわねぇ」
「そういや、黒猫って別に不幸の象徴じゃ無いらしいよ」
元より黒猫は幸福の象徴だった。その黒猫が前を横切ると、幸福が逃げていく、つまり不幸になるという俗信があったのだが、それがいつしか黒猫そのものが不幸の象徴とみなされるようになってしまったのだ。
針妙丸がそう得意げに説明すると、一輪は何か考え込むようなそぶりを見せた。
「どかした?」
「えー……あー……ちょっと思いついたことがあるんだけど」
一輪は不敵な笑みを浮かべていた。
朝が来た。
嵐は過ぎ去り、青い空と白い雲のコントラストが気持ち良い快晴だ。
輝針城に空いた穴と船の隙間から光が差し込む。一見すると箱舟の降臨とでも呼ぶべき神々しさがあったが、実態を考えると非常に滑稽だった。
「それじゃ……悪いけどよろしくね」
村紗は一輪に手を引かれて、雲山に乗った。そして聖輦船へと乗り込んだ。
三人ともふらついている。小槌にありったけの魔力を吸わせたからだ。
「それじゃ上の階……あー下の階というか、とにかく船が見下ろせるところへ行こうか」
「うん」
紫苑は頷き、黒猫を抱えた。
城に突き刺さった船を一望できるところに来ると、聖輦船の城からはみ出た部分に乗った一輪ら三人が見えた。
彼女たちが手を振るのを確認して、針妙丸は打ち出の小槌を握りしめる。
「頼むよ」
針妙丸が意識を集中すると、小槌に流れる魔力を感じた。僅かに光を纏っているのが、紫苑の目でも見ることができた。
ふー、と長く息を吐いてから、彼女はその小さな体を目一杯使って、小槌を天に掲げた。
「打ち出の小槌よ! 逆しまの城と星の船を元の形に戻せ!」
小槌が虹色に輝く。
溢れんばかりの光の奔流が放たれた。紫苑が眩しさに目を細め、黒猫は彼女の胸の中にうずくまる。
氾濫した光はやがて指向性を持ち、聖輦船を包み込む。メキメキと音を立てて船は城からゆっくりと抜けていく。破損した箇所やヒビが入っていた部分も、時が巻き戻るかのように元の形へ戻っていく。
それに合わせて光の奔流は輝針城に空いた穴にも向かう。空いた穴に破片が収まっていく様はジグソーパズルにピースが自動ではまっていくようだった。
「おおー」
一輪と雲山と村紗は船上からその眺めを見ていた。危ないから城にいた方が良いという針妙丸の提案は、一輪のどうせなら一等席で見たいとの発言に切って捨てられていた。
城と船が元の姿を取り戻すと、二つを取り巻いていた小槌の光は消え失せた。魔力が尽きた小槌が、急に重くなったように針妙丸には感じられた。
彼女がはー、と長い息を吐いてその場にへたり込んだ。
「その……本当に色々……ありがとうね」
紫苑がそう言って礼を言ったが、針妙丸にはどちらかと言えば謝っているように聞こえた。
「乗ってかないのー!」
船の上から、村紗が口の前に手で筒を作ってそう叫ぶ。
もう行く、と紫苑が返事をしようとしたところで、針妙丸がそれを遮った。
「ちょっと待ってー!」
彼女はそう叫んだ後、袖をもぞもぞと漁り始めた。紫苑はそれを不思議そうな顔で覗き込む。
「これ! 可愛いでしょ」
それは鈴のついた首輪だった。赤を基調に金の意匠がしつらえてある。
紫苑の反応を待たずに、針妙丸はそれを黒猫の首に付けてやった。
「可愛いけれど……うん?」
「気づいた?」
黒猫が首を傾けると、りん、と音がした。
「何か妙な……暖かい感じがする」
「そう。この鈴ね、小槌の魔力で作ったマジックアイテムなんだ」
紫苑が針妙丸の意図を図りかねていると、彼女は説明を続けた。
「黒猫って時代や場所によっては幸運の象徴でもあるんだよ。そんな黒猫、しかも半化けの黒猫に魔法の鈴を付けてあげて、この子を輝針城の守り神みたく仕立て上げてるわけ」
針妙丸の知識にはなかったが、鈴は元々魔除けの力がある。例えば神社の賽銭箱の上に設置されている大きな鈴も、魔除けの効果があるとされている。
「多分完全にとはいかないけどさ、紫苑のもたらす不幸もある程度緩和できると思う」
貧乏神とて神である。
人にご利益を与える神がいれば、崇め奉り、どうか何もしてくれるなと宥めなければならない祟り神もいる。
一輪が提案したのは、紫苑の神としての性質に働きかけようということだった。
「だからさ、天子が居ない時でも、うちに遊びに来ても大丈夫だよ」
その言葉に、紫苑は胸の奥がきゅっとする気がした。震えた声で彼女は尋ねた。
「またここに来ても良いの……?」
針妙丸は「もちろん」と笑顔で応えた。
ほとんど泣き出しそうな紫苑に向かって、黒猫が「なー」と鳴いた。針妙丸にはその様子がどことなく嬉しそうに見えた。
「ほらー、置いてくぞー!」
話が終わったと見計らった船長がまた叫んだ。
紫苑は顔をぐしぐしとすると、欄干を離れてこう言った。
「ありがとう……今だったら、女苑と仲直りできると思う」
「そいつはよかった。それじゃあ、またね」
「うん。またね」
紫苑は確かめるように別れの言葉を返した。貧乏神がほとんど交わすことのない挨拶だった。
彼女は空を飛び、聖輦船に乗った。いつも猫背な彼女だったが、今は少しだけ背筋が伸びているようだ。
「今更だけど……あの船平気かな……」
貧乏神を乗せたら墜落するんじゃないかという懸念に気づいた針妙丸がそう呟いた。今の今まで、五人中誰もその可能性に思考が至らなかったのだ。
「なー」
「そうかそうか、大丈夫か」
針妙丸は何となく、黒猫がそう言ったように感じた。
彼女は猫を撫でてやってから、ゆっくりと小さくなっていく船に目をやった。
紫苑は自分から歩み寄って、妹と仲直りするだろう。女苑の方から声をかけてくれるのを待つ紫苑はもう居ない。
「さあ……お前はどうだ、針妙丸」
針妙丸は自分に鞭打つために、あえて口に出してそう言った。
離れ離れになってからもずっと、正邪のことが脳裏をチラついていた。それはやっぱり、彼女を忘れられないからだろう。また一緒に馬鹿をやりたいからだろう。
何となく頭に思い描いていることがあった。
先の革命は正邪から針妙丸に持ちかけたことだ。だったら今度は、自分から正邪に何か大きなことを持ちかけてみるのはどうだろうか。
あの天邪鬼がなんてつまらない話なんだ、と唸るような計画が必要だ。
空飛ぶ船が雲の向こうへ消えていくのを見届けて、一人と一匹は城の中へと戻っていった。
そう言って天邪鬼は、小人に手を差し伸べた。
革命前夜の話である。
『輝針城にはドライブレコーダーをつけるべきだったかもしれない』
「今晩……泊めてもらえないかな」
雨に濡れた依神紫苑がそう頼むのを聞いて、少名針妙丸は昔話の一幕みたいだな思った。
なぁ、と猫の鳴く声がした。紫苑が胸元に抱えていた黒い塊は、いつものぬいぐるみではなく本物の黒猫だった。
「勿論構やしないけどさ、あんたがうちの城に一人で来るのは珍しいね。ああごめん、二人だったね」
針妙丸が彼女の胸元の黒猫を認めてそう言うと、言葉が解ってるかのように黒猫は満足そうに鳴いた。
「そ、そうかな」
紫苑と針妙丸は、一言でいうと「友達の友達」というような関係だった。互いの友人である天子と三人でいることはあっても、案外二人きりで話すのはこれが初めてだったかもしれない。
若干の気まずさが無いわけでは無かったが、わざわざ断るほどでもない。そもそも外は嵐なので、誰が来たとしても追い返すわけにはいかないだろう。
紫苑の様子が、いつもより少し暗いのは気になったが、天子と一緒にいないときはこんなものなのかもしれないと針妙丸は深く考えないことにした。
「その猫、どうしたの?」
「ええと、ちょっとね、拾ったというか……」
針妙丸は猫に追いかけられることが多々あるのだが、この黒猫は大人しそうだし問題なさそうだった。
「あーごめん、寒いよね。今囲炉裏に火を入れるから。お勝手に手ぬぐいあるから身体拭きなよ」
紫苑をずぶ濡れのまま立たせていることに気づき、針妙丸がいそいそと動き回りはじめる。
この豪雨の夜を飛んできたのだ。風邪を引いてしまうかもしれない。
「ええと、白襦袢はどこにしまったかな」
普通の人間が着れる大きさのものもあったはずだ。その本来の持ち主のことが一瞬脳裏に浮かびかけたが、針妙丸はそれに蓋をした。
「……ありがとう」
「まー寛いでってよ」
数刻後に、彼女は思い知ることになる。
依神紫苑が超一流の貧乏神であることを。
深夜、轟音で針妙丸は目を覚ました。
目の前には船があった。
「海……?」
どこか見覚えのある船だなぁ、と思いながら寝ぼけ眼をこすって、もう一度寝付こうとする。
それから布団の中で何が起こっているのか気づいて、眠気が吹っ飛んでいった。さぁ、と血の気が引いていく。
彼女は布団をはねのけて飛び起きた。
輝針城の中に船があった。聖輦船だ。
突き刺さっているのだ。
宇佐見菫子がその光景を見たなら、アクセルとブレーキ間違えてコンビニに車が突っ込んだ光景を十倍派手にした感じ、と形容するだろう。
針妙丸の絶叫が、嵐の夜に響き渡った。彼女の人生の中でも一二を争う大きな声だった。
「な……なんっ……何でぇ……?」
半分裏返った情けのない声を出しながら、彼女は右手で頭を抱えた。
ふと横を見ると、黒猫を抱えた貧乏神が「やっちまった」という青ざめた表情をしていた。
その瞬間、針妙丸は自分の犯した愚に気づいた。
いつも紫苑が輝針城にいるときに起こる不幸は、天子の天運によりある程度相殺されていたのだ。
その枷が無くなった貧乏神は、城の一つを半壊させるなど朝飯前だった。
「お前のせいか……お前のせいかー!」
大切な我が家を壊されて、針妙丸は激昂した。
紫苑の胸ぐらをが掴んで、がくんがくんと揺らそうとする。もっとも傍目に見れば、小人が胸ぐらに吊り下がっているようにしか見えなかったが。
「ご、ごめんなさい……」
「……?」
針妙丸は貧乏神の様子に違和感を抱いた。
彼女は貧乏神という自らの性質と長年付き合ってきたのもあり、基本的には自分が周りに迷惑をかけるのは仕方のないことと思っている。心を読むさとり妖怪が嫌われるのに慣れているように、自分の性質との折り合いがある程度付いているのだ。
敬愛する天子相手でもなければ、何かやらかしてもへらへら謝るだけだ。
だが、今日の彼女は違った。
本当に申し訳なさそうな表情をしていたというか、いつもより数段暗い。
「あんた……」
針妙丸が口を開きかけると、突っ込んだ船の船長が飛び降りてきた。
そしてそのまま土下座した。
「本っ当に申し訳ありませんでした!! 何故か船の調子がおかしくなって、急に嵐になって、雲に捕まっちゃって、舵が取れなくて、それで……」
「あー、いや……まあ仕方ないんじゃないかな」
村紗水蜜は半泣きの面をあげると、視界に貧乏神を捉え、複雑そうになった顔になった。
普通そうなるよな、と針妙丸は思う。
紫苑のせいでこの事態が発生したという予想はつくだろうが、確証は特にない。仮に確証があったとしても、貧乏神が全部悪いので私たちは全く悪くなかったとは言えないだろう。
誰かが見ていたり映像記録でもあれば、貧乏神がいなければこんな不可抗力で避けようのない事故は起きなかったと言えるかもしれないが。
数秒の逡巡の後、彼女はどちらにしろ謝るしかないと決断したらしく、その額を床にぶつけた。
「本当に申し訳ない! どんな手を使ってでも迅速に修理するから!」
「いや、修理のアテはあるから大丈夫だよ。ちょっと協力してもらうけど」
そう言うと針妙丸は懐から、打ち出の小槌を取り出した。村紗がなるほど、という顔をする。
数あるマジックアイテムの中でも、殊更に高名で強力な一品。勿論リスクはあるが、今回は村紗たちから魔力を借りれば問題ないだろう。
それに、今回が貧乏神による不幸の産物だとすれば、打ち出の小槌であれば簡単に帳尻を合わせられるだろう。
打ち出の小槌で強引に願いを叶えれば、相応の歪みを発生させるものだが、そもそも貧乏神による被害が歪みである。今回はむしろ歪みを正すことになるのだから、普通に壊れてしまった城を小槌で修理するより楽なはずだ。
「それはともかく、他の人たちは?」
「遊覧船業が終わった後だったから客さんはいないよ」
「それもだけど、他の寺の面子も。村紗一人?」
聖輦船は遊覧船であるとともに、彼女たちが暮らす寺でもある。しかし村紗以外の姿が見えない。
「聖と星さんは今日は人里の寄り合い参加してるからお泊り、一輪は頭打って気絶して雲山が介抱してる」
「えっ……気絶とか一輪大丈夫なのそれ……」
「雲山がついてるし、そんなヤワじゃないし平気よ平気」
からからと村紗は笑う。いくら妖怪は頑丈って言ってもなぁ、と針妙丸はこぼしたが、ひ弱な小人の基準とはまた違うのかもしれない。
とはいえそのまま船においておくわけにもいかない。打ち所が悪いといけないので、念のため輝針城に一輪を連れてくることになった。
「……」
針妙丸は一言も発さなかった紫苑を横目に見た。
彼女は俯いて項垂れているだけだった。
「いやー、本当に申し訳ないね!」
一輪は目を覚まし、お詫びということでお酒とつまみを輝針城に持ち込んだ。針妙丸も紫苑も何故寺に戒律で禁じられている酒があるのかという指摘はしなかった。公然の事実だからだ。
あっけらかんとした一輪の様子に、もうちょっと申し訳なさそうにしてもいいんじゃないかなぁ、と針妙丸は思わないでもなかった。
もっとも針妙丸は城が壊れたことで彼女たちを責める気は毛頭なかった。十中八九貧乏神が原因であり、彼女たちに非はない。それに小槌で城が戻せるのがわかっているのだから怒る理由は薄い。
「で、なんですぐに直さないの?」
「こんな嵐の中、すぐ追い出したりしないよ。それに嵐でだいぶ疲れたでしょ? 小槌に魔力を吸い取らせるのは一眠りして体力回復してからの方が良いと思ってさ」
そりゃ助かる、と一輪が徳利を傾ける。
輝針城に命蓮寺を突っ込ませたままにしておく理由は、実のところもう一つあった。
貧乏神の登場する昔話は概ね金持ちを没落させる、つまりプラスをマイナスにすることが多い。であれば、住処が破壊されているというマイナスの状態においたままの方が、更なる不幸の追撃は起きづらいと、針妙丸は仮説を立てた。下手に修理してゼロまたはプラスの状態に戻せば、また壊されたり別の不幸が起こりかねない。
船は深く城に突っ込んでおり落下しそうもなかったので、そのままにしておいても問題ないだろう。
「ああ、挨拶が遅れちゃったけど、女苑のお姉さんよね。完全憑依の異変以来かしら?」
一輪がそう言って微笑むと、紫苑は「ああ」とか「うん」というような曖昧な相槌を返した。彼女は何だか調子が悪そうだったが、一輪と村紗の二人はそれに気づかず、そして彼女に興味津々だった。大人しくしているが、雲山も同じようだ。
女苑は姉のことを外で話題するような性格ではなかったので、寺の面々は誰も紫苑のことをよく知らないのだ。紫苑の方も能力の関係もあってあまり人前に出ない。彼女たちにとっては、女苑の姉と話すまたとない機会だった。
「女苑って家だとどんな感じ?」
「どんな感じと言われても……うーん、普通にゴロゴロしてるよ」
オフだとダラけるタイプだよねー、外出してる時とギャップあるよねー、と二人。
そのまま質問責めにあう紫苑を、針妙丸が時折フォローしながら夜が更けていく。
ただ、ある質問に対し紫苑は大きな動揺を見せた。
「紫苑さんは女苑と喧嘩したりするの?」
彼女はぎょっとした表情をしてから、「しょっちゅうっていうか……大体私が怒られてるんだけど……」ともごもごと答えた。
その様子を見て、針妙丸は彼女が輝針城に泊まりに来た理由の見当が大体ついた。
「紫苑、眠いなら先に寝たら?」
「いや、いい」
人と話している気分ではないだろうと、針妙丸は気を使って助け舟を出したつもりだったが、彼女は頑として首を横に振った。彼女はこの場から離れたがっていると思ったのだが、それを拒否する心情が針妙丸にはよく分からなかった。
そんな調子で話していると数刻後、村紗は酒が回ってきたのか、ふらふらとしてきた。
「……厠どこ?」
村紗が急に立ち上がるが、今にもひっくり返りそうだった。
「私がわかるから連れてくよ」
そう言って一輪が立ち上がり村紗の体を雲山と一緒に支えた。「ごめんちょっと村紗連れてくね」と言って三人は席を外した。
その場には針妙丸と紫苑だけが残された。
「……」
「……」
二人して黙っていると、眠っていた黒猫が起きて、なあ、と鳴いた。
人の家に来て、こういつまでも辛気臭い顔をされては堪ったものではない。遠慮することないな、と針妙丸は単刀直入に切り出した。
「妹と喧嘩でもしたの?」
「えっ……なんでわかったの……?」
「あれで察するなという方が難しいと思うけど……」
目を丸くする紫苑に、針妙丸は呆れた。どれだけ自分が感情を表に出してしまっていたかを、彼女は全く気づいていなかったようだ。
「やっぱりその猫が原因?」
「……うん」
黒猫を撫でながら、紫苑はそういった。
雨で濡れていた黒猫を、彼女は可哀想に思い、連れて帰ったそうだ。
『うちの家計がどんだけ火の車かわかってんの?』
『で、でも可哀想だよ』
『同情するのは勝手だけどね、姉さんがその子の食い扶持稼げるの? 善いことがしたいなら、余裕があるやつに任せればいいのよ。ウチにそんな余裕はありません』
『……その割には最近おしゃれな服増えてるじゃん』
『はー? これは私が野郎どもから貢がせたものよ。私が稼いだものをどう使おうが勝手でしょ! 一銭も稼いでない役立たずの姉さんに何で金の使い方を指図されなきゃいけないのよ』
『や、役立たずは酷いじゃない!』
そんな塩梅で喧嘩した挙句、猫を抱えて家を飛び出したらしかった。
実質敗走なんだろうなぁ、と針妙丸は思った。妹君の方は口喧嘩が強そうだ。
「で、それでウチに転がり込んだと」
紫苑は無言で頷いた。どこにでもある、犬も食わない他愛のない姉妹喧嘩だ。依神姉妹は割と喧嘩しがちであるため、今回のようなことは別段珍しくないだろう。
だからこそ針妙丸は気になった。何故、輝針城に駆け込むまで話がこじれたのかを。喧嘩が多いからこそ、落とし所を見つけることにも慣れているだろうに、何故適当な頃合いでお互い折り合いを付けることができなかったのだろうか。
「ほとぼりの冷めたところで謝るなり仲直りすればいいじゃない。女苑だって、真剣に頼めば次の飼い主が見つかるまで預かっとくくらいだったら許してくれるでしょ」
「そうね……言い争った後はいつも大体そうなんだけど……」
紫苑は数秒悩んでから、二の句を継いだ。
「そう思って戻ったらね……女苑の友達がいたのよ」
紫苑が名前を知らなかったということは、人里の人間だろうと針妙丸は見当をつけた。女苑は最近、人里の茶屋で働いているようだったから。
流石に知らない人がいる前で喧嘩の和解とはいかないだろう。だが、間を開ければ良いのではないかと、針妙丸は首をかしげる。
「タイミングが悪かったのはわかるけどさ、ちょっと待ってから出直してとは行かなかったの」
「そうすれば良かったんだけど……」
また彼女は口ごもる。
言いたくないならいいけど、と針妙丸は口を開きかけてやめた。無理にでも気持ちを吐かせた方が良いだろうと判断した。悩みは誰かに話すだけでも楽になるものだ。
数巡の後、ようやく彼女は切り出した。
「女苑にはたくさん友達がいるんだなと思ったら……何だか、酷く惨めな気分になって……」
紫苑は両手でお猪口をぎゅっと握りしめた。
「あー……そりゃあ、まあ……こっちから謝ってやるみたいな気分じゃなくなるか」
喧嘩したあと謝るには、心の平静が必要だ。嫌な気分を抱えたまま和解するのは、互いが親しい関係にあるほど難しい。
「でも紫苑には霊夢も天子もいるじゃない」
紫苑だって一時期博麗神社に転がり込んでいたわけだし、天人とも仲良くなっているのだ。彼女にも親しい人が増えており、引け目を感じることは何もない。
針妙丸としては、妹の方が姉と天子の仲を羨んでいるように感じることはあれど、紫苑の方が妹を羨んでいたとはあまり考えたことがなかった。
それを針妙丸が指摘すると、彼女は首を振った。
「でも、霊夢さんは誰に対しても優しいし、逆を言えば天人様としか仲良くなれてないし……」
紫苑も針妙丸が言いたいことはわかっている。
二人ぼっちだった神様両方に変化が訪れている。そしてその変化は妹の方が大きかった。
しかし女苑よりも紫苑の能力の方が凶悪であり、その分のハンデがあるのでそれは当然のことだった。
「妹とアンタは別よ。アンタの方が能力の制御の効かなさは酷い割に、頑張ってると思うよ」
「……ありがと」
紫苑はそう言ったが、暗いままの表情を見るに、心中に言葉は届いていないようだった。
コンプレックスとはそういうものだ。他者より劣っているのを気にしている状態というより、自分に自信がない状態と言った方が近い。
他人に言われたところで、さらっと払拭されるようなものではない。
「なー」
針妙丸がどうしたら彼女を元気付けられるかと腐心していると、黒猫が顔を押し当ててきた。毛に埋もれてしまっていたが、満更でもないので、懐かれるに任せていた。
しばらく考えたあと、針妙丸は紫苑に提案した。
「この子、ウチで引き取ろうか?」
「えっ!……いいの? 猫は苦手だって言ってなかったっけ?」
「追い回されるのが嫌いなだけだよ……お燐とか。丁度城が広くて寂しいなと思ってたのよ」
「あ、ありがとう!」
「それとどうにもこの子、化けかけてるみたいだね」
「え、そうなの?」
「うん。今触れられてわかったけど、ちょっと妖気を感じる気がする」
沢山の道具が付喪神となる過程を見てきた針妙丸には、妖怪になる予兆が何となくわかるようになっていた。
化け猫になりかけると、前足で戸を開けて後ろ足で閉めるようになるという。黒猫の尻尾はまだ裂けていないが、既に戸を閉めるくらいはできそうなくらい妖怪に近づいている。
これだけ人懐っこいとなると、元々飼い猫だったが飼い主に先立たれて居場所がなくなったところだろうと針妙丸は思った。
「そっかー、お前もあと少しで妖怪の仲間入りかー」
紫苑が猫の顔を覗き込むと、猫は前足で顔をかいた。
「そしたらさ、あとは妹と仲直りするだけだね」
「うん……」
一瞬明るくなった紫苑の顔がまた萎れてしまった。
針妙丸はガシガシと頭をかいて、呆れ気味に言った。
「ったく……いつまでも帰らないわけにもいかないでしょ。女苑だって今頃言い過ぎたかなって思ってるって」
「でも、私が居なくても女苑は平気だろうし……」
「だーもーまどろっこしいな! 女苑が迎えにきてくれるのを待つの?」
針妙丸は紫苑をまっすぐと見つめる。その目に彼女は少したじろいだ。
「女苑じゃなくてアンタはどうしたいのさ」
「それは……一緒にいたいけど……」
「じゃあそうすれば良いのよ。本当に一緒にいたいなら、自分から……」
急に針妙丸は言い淀んでしまった。
気づいてしまったのだ。じゃあ自分はどうなんだと。
「自分から……」
共に世界へ反旗を翻した初めての友達は、結局城に戻ることは無かった。
逃亡生活を続ける正邪に救いの手を伸ばし、そしてその手は払われた。天邪鬼が救いの手を取るなんておかしいし、だからこそ針妙丸も「あんたならそう言うと思ったけどね」と返した。
放っておけば自分の元に戻ってくるだろうと思っていたからこそ、それ以上深追いはしなかった。だがそれは思い上がりだった。
輝針城での生活を一人で続けるうち、彼女はもう自分に興味が無いのではないかと針妙丸は思い始めた。そう考えるともう一度正邪に会うのが怖かった。
正邪が抗わぬ弱者に対して抱くあの視線が、自分にも向けられるのではないかと。
「……どうしたの?」
「あ、うん……」
自分と紫苑の何が違うのだと思うと、彼女に説教するような真似はおこがましくてできなかった。
共に過ごしたいと思う相手に、拒絶されたらどうしようと恐れ、自分から歩み寄ることができない。二人はどうしようもなく同類だったのだ。
紫苑が不安そうに針妙丸の顔を覗き込む。彼女はようやく我に帰り、慌てて取り繕った。
「ほ、ほら! 女苑だって本当に嫌いなら、今まで一緒にいたはずないよ。私なんて一日でもうギブアップだもの」
「うん……そうかな」
針妙丸の言葉はどこか空回っているような響きだった。紫苑を励ましているようで、その実、自分に言い聞かせているようだった。
しかも動揺のあまり、自分の言葉に紫苑が少し傷ついていることにもすぐには気づかなかった。
足音が向かってくる。一輪たちが戻ってきたようだった。
それに気づいた紫苑が立ち上がった。
「もう寝るね……この子を引き取るって言ってるくれてありがとう。明日には出ると思う」
「あっ、うん……」
そこでようやく針妙丸は、紫苑と一緒にいるのが苦痛だと自分が言っていたことに気づいた。
紫苑が部屋を出て行こうとすると、ちょうど一輪が戻ってきた。
「もう寝るの?」
一輪がそう声をかけると、紫苑はかるく頷いて客人向けの寝所に向かっていった。その背中に一輪がおやすみー、と手をひらひらふった。
紫苑に入れ替わる形で一輪が部屋に入る。
「紫苑さん、もう寝るみたいね」
「うん。村紗は?」
「ああごめん、勝手に寝かせちゃった」
一輪と針妙丸はそれなりに交流がある方だった。針妙丸は針仕事で糊口をしのいでいたが、人里に卸すとなるとツテが必要だ。そのツテが命蓮寺であり、針妙丸とやりとりするのは専ら一輪だった。
そんな繋がりもあってか、一輪は少なくとも客人用の寝所を知っているくらいには針妙丸と仲が良かった。
「そいでさ」
一輪が針妙丸の横にどかっとあぐらをかいた。そしてお猪口に酒を注ぎ、彼女に突き出した。
「何か浮かない顔してるけど、どうしたのさ」
お姉さんには全てお見通しよ、という少ししたり顔の一輪に、針妙丸は言い淀んだ。
「あー……いや……」
少し迷ったが、お猪口を受け取り全てを話した。
依神姉妹の些細な喧嘩と、姉の抱えるコンプレックスの話を。全てと言っても、正邪と自分の影を依神姉妹に重ねていることは流石に伏せたままだった。
「はー、話に聞いてるよりも大人しいと思ったらそういうことだったのね」
悪いことしちゃったなー、と一輪は頭をかいた。姉妹喧嘩中ということに気づかず、姉妹の間について根掘り葉掘り聞いてしまったからだ。
「ていうか又聞きだから違うかもしれないけどさ、女苑、一言もこの猫ちゃんを元の場所に捨ててこいとかは言ってないんじゃないかな」
「確かに……言い合いになって引っ込みきかなくなっちゃっただけなんだろうね」
猫を迎えるのは吝かではないが、その前に姉の無責任なところをちょっと諌めてやろうというつもりが、あれよあれよという内に本気の喧嘩になってしまい、一人になってから自己嫌悪に頭を抱える女苑の姿が一輪の脳裏に浮かび上がる。
異変で話しただけの針妙丸よりも、一時期とはいえ寝食を共にした一輪の方が女苑の性格への理解は深いようだった。
「そしたら猫ちゃんは紫苑さんに連れて帰ってもらっても良いんじゃない?」
「いや……こんな広い城に私一人ってのも中々寂しいからさ、この子はうちで引き取りたいかな」
針妙丸はどこか遠くを、かつての相棒の影を見ているのが一輪にもわかったが、彼女は「そっか」とだけ返した。
「それにその方が紫苑も帰りやすいでしょ。変に自信がなくなってて仲直りする勇気が足りないだけだと思うんだけど……上手く励ませなくてさ」
「言ってやれば良かったじゃない。私っていう友達がいるじゃんとか私が友達になるよとか」
「……あんたはシラフでそういう事言えそうよね」
「変かな?」
一輪は豪胆というか、世が世なら傑物になっているような器だ。聖の下にあるため多少そういった側面が見えづらくなっているところがあるが、本来の彼女は自然と周りに人が集まってくるタイプだ。
「まあ似たようなことは考えたけど……ウチに来て数刻で城の土手っ腹に穴開ける貧乏神に笑顔でまた来てよって言えるほど私人間できてないよ」
「んー……まあ……そうねぇ……」
流石の一輪も返答の声が濁る。
「ちょっとしたことがあったときに、紫苑のせいだみたいな目線を向けられずにいる自信、私には無いよ」
「そう考えるとあの天人は大したもんよね」
「……そうだねぇ」
天子とて紫苑のもたらす不幸を全て相殺できるわけではない。ただ天子は不幸が起こったとしても、紫苑を責めない。
それはとても難しいことだ。紫苑に悪気が無いのはわかっていても、恨めしい気持ちを一切持たない、出さないというのは針妙丸にも一輪にも真似できない。しかし天人としての誇り高さと本人の大らかさのようなものが合わさった結果、天子は唯一と言っても良い、紫苑のもたらす不幸を気にしないでいられる人物だった。
「なー」
悩む二人を心配するかのように、黒猫が鳴いた。
「お前まだここにいたのか。大人しかったから気づかなかったよ」
「あー、その猫ちゃん、針妙丸が預かるんだっけ?」
「そうそう。人懐っこくて可愛いでしょ」
またしても針妙丸が黒猫の毛に埋もれる。
「とても不幸の象徴とは思えないわねぇ」
「そういや、黒猫って別に不幸の象徴じゃ無いらしいよ」
元より黒猫は幸福の象徴だった。その黒猫が前を横切ると、幸福が逃げていく、つまり不幸になるという俗信があったのだが、それがいつしか黒猫そのものが不幸の象徴とみなされるようになってしまったのだ。
針妙丸がそう得意げに説明すると、一輪は何か考え込むようなそぶりを見せた。
「どかした?」
「えー……あー……ちょっと思いついたことがあるんだけど」
一輪は不敵な笑みを浮かべていた。
朝が来た。
嵐は過ぎ去り、青い空と白い雲のコントラストが気持ち良い快晴だ。
輝針城に空いた穴と船の隙間から光が差し込む。一見すると箱舟の降臨とでも呼ぶべき神々しさがあったが、実態を考えると非常に滑稽だった。
「それじゃ……悪いけどよろしくね」
村紗は一輪に手を引かれて、雲山に乗った。そして聖輦船へと乗り込んだ。
三人ともふらついている。小槌にありったけの魔力を吸わせたからだ。
「それじゃ上の階……あー下の階というか、とにかく船が見下ろせるところへ行こうか」
「うん」
紫苑は頷き、黒猫を抱えた。
城に突き刺さった船を一望できるところに来ると、聖輦船の城からはみ出た部分に乗った一輪ら三人が見えた。
彼女たちが手を振るのを確認して、針妙丸は打ち出の小槌を握りしめる。
「頼むよ」
針妙丸が意識を集中すると、小槌に流れる魔力を感じた。僅かに光を纏っているのが、紫苑の目でも見ることができた。
ふー、と長く息を吐いてから、彼女はその小さな体を目一杯使って、小槌を天に掲げた。
「打ち出の小槌よ! 逆しまの城と星の船を元の形に戻せ!」
小槌が虹色に輝く。
溢れんばかりの光の奔流が放たれた。紫苑が眩しさに目を細め、黒猫は彼女の胸の中にうずくまる。
氾濫した光はやがて指向性を持ち、聖輦船を包み込む。メキメキと音を立てて船は城からゆっくりと抜けていく。破損した箇所やヒビが入っていた部分も、時が巻き戻るかのように元の形へ戻っていく。
それに合わせて光の奔流は輝針城に空いた穴にも向かう。空いた穴に破片が収まっていく様はジグソーパズルにピースが自動ではまっていくようだった。
「おおー」
一輪と雲山と村紗は船上からその眺めを見ていた。危ないから城にいた方が良いという針妙丸の提案は、一輪のどうせなら一等席で見たいとの発言に切って捨てられていた。
城と船が元の姿を取り戻すと、二つを取り巻いていた小槌の光は消え失せた。魔力が尽きた小槌が、急に重くなったように針妙丸には感じられた。
彼女がはー、と長い息を吐いてその場にへたり込んだ。
「その……本当に色々……ありがとうね」
紫苑がそう言って礼を言ったが、針妙丸にはどちらかと言えば謝っているように聞こえた。
「乗ってかないのー!」
船の上から、村紗が口の前に手で筒を作ってそう叫ぶ。
もう行く、と紫苑が返事をしようとしたところで、針妙丸がそれを遮った。
「ちょっと待ってー!」
彼女はそう叫んだ後、袖をもぞもぞと漁り始めた。紫苑はそれを不思議そうな顔で覗き込む。
「これ! 可愛いでしょ」
それは鈴のついた首輪だった。赤を基調に金の意匠がしつらえてある。
紫苑の反応を待たずに、針妙丸はそれを黒猫の首に付けてやった。
「可愛いけれど……うん?」
「気づいた?」
黒猫が首を傾けると、りん、と音がした。
「何か妙な……暖かい感じがする」
「そう。この鈴ね、小槌の魔力で作ったマジックアイテムなんだ」
紫苑が針妙丸の意図を図りかねていると、彼女は説明を続けた。
「黒猫って時代や場所によっては幸運の象徴でもあるんだよ。そんな黒猫、しかも半化けの黒猫に魔法の鈴を付けてあげて、この子を輝針城の守り神みたく仕立て上げてるわけ」
針妙丸の知識にはなかったが、鈴は元々魔除けの力がある。例えば神社の賽銭箱の上に設置されている大きな鈴も、魔除けの効果があるとされている。
「多分完全にとはいかないけどさ、紫苑のもたらす不幸もある程度緩和できると思う」
貧乏神とて神である。
人にご利益を与える神がいれば、崇め奉り、どうか何もしてくれるなと宥めなければならない祟り神もいる。
一輪が提案したのは、紫苑の神としての性質に働きかけようということだった。
「だからさ、天子が居ない時でも、うちに遊びに来ても大丈夫だよ」
その言葉に、紫苑は胸の奥がきゅっとする気がした。震えた声で彼女は尋ねた。
「またここに来ても良いの……?」
針妙丸は「もちろん」と笑顔で応えた。
ほとんど泣き出しそうな紫苑に向かって、黒猫が「なー」と鳴いた。針妙丸にはその様子がどことなく嬉しそうに見えた。
「ほらー、置いてくぞー!」
話が終わったと見計らった船長がまた叫んだ。
紫苑は顔をぐしぐしとすると、欄干を離れてこう言った。
「ありがとう……今だったら、女苑と仲直りできると思う」
「そいつはよかった。それじゃあ、またね」
「うん。またね」
紫苑は確かめるように別れの言葉を返した。貧乏神がほとんど交わすことのない挨拶だった。
彼女は空を飛び、聖輦船に乗った。いつも猫背な彼女だったが、今は少しだけ背筋が伸びているようだ。
「今更だけど……あの船平気かな……」
貧乏神を乗せたら墜落するんじゃないかという懸念に気づいた針妙丸がそう呟いた。今の今まで、五人中誰もその可能性に思考が至らなかったのだ。
「なー」
「そうかそうか、大丈夫か」
針妙丸は何となく、黒猫がそう言ったように感じた。
彼女は猫を撫でてやってから、ゆっくりと小さくなっていく船に目をやった。
紫苑は自分から歩み寄って、妹と仲直りするだろう。女苑の方から声をかけてくれるのを待つ紫苑はもう居ない。
「さあ……お前はどうだ、針妙丸」
針妙丸は自分に鞭打つために、あえて口に出してそう言った。
離れ離れになってからもずっと、正邪のことが脳裏をチラついていた。それはやっぱり、彼女を忘れられないからだろう。また一緒に馬鹿をやりたいからだろう。
何となく頭に思い描いていることがあった。
先の革命は正邪から針妙丸に持ちかけたことだ。だったら今度は、自分から正邪に何か大きなことを持ちかけてみるのはどうだろうか。
あの天邪鬼がなんてつまらない話なんだ、と唸るような計画が必要だ。
空飛ぶ船が雲の向こうへ消えていくのを見届けて、一人と一匹は城の中へと戻っていった。
丁寧に組み立てられていて良かったです
ほっこりして良い話でした
対貧乏神の解決策がとても東方らしくて好きでした。