虚しい気持ちが無かった訳ではない。私は、紫様の式神として在れれば良いと、昔はそう思えていた。
「ねえ、藍。そこの煎餅取ってくれない?」
今、気だるそうに畳の上で品も無くダラけきっている我が主人に使える事が、私のためになるのだろうか? 疑問を解決できないまま、私は煎餅をスキマ越しに紫様に手渡した。
「ありがと藍」
「はい」
昔は、こんな方ではなかったのだ。一日中朝から晩まで居間でごろつきながらただ食事だけを貪ったり、冬場の間ずっと布団から離れないような、そんなダメ人間のような方ではなかった。
「最近、季節柄暑くなってきたわねえ。もう夏かしら。橙はよくこういう暑い日は水浴びをして式が剥がれてしまうから、目を離しちゃだめよ」
「しかと言付けておりますので、問題ありません」
「……そう、なら良かった」
自他共に認められる大妖怪として月に攻め入り、消え失せていく妖怪達のために楽園を創造したのも、今となっては昔の話に成り果ててしまった。今の紫様の生活は、隠居暮らしをしている老婆に等しい。
「きょうの夕飯はなんだったかしら? 確か、食材が足りないんじゃなかった?」
「お造りですね。外の世界から取り寄せました」
「えーと、じゃあ今日は私が夕飯の支度を」
「紫様は、夕飯なんて作らないで下さい」
「え……あ、そう……」
私は、耐えられなくなって居間を後にした。どうしようもないほどの虚しさと惨めさが私を襲っていた。私が憧れ、目指し、崇拝していた紫様が、ただ普通の人間のように生活し、あまつさえ台所に立って夕飯の支度をしている様子を幻視して、私は吐き気を催した。
今日は、週に一度の境界の改修日だった。博麗大結界の管理と保守の大部分は博麗の巫女に任されている。私が担当するのは、幻と実体の境界だ。
紫様が構築した概念の境界ともいえるこれを、私は常に監視し、不具合をまとめ、修正案を提出し、紫様の許可が下りたのちにまとめて改修する。今週明らかになった不具合もまた、なんの問題もなく修正されていった。作業をひと段落させた私は、手近な岩場に腰かけた。
「藍様、見回りを終えてきました。修正が必要な目立った不具合は見つかりませんでした」
「ふむ、そいつは良かった。今日の作業はこれでお終いだな」
橙が空を見上げながら言った。
「まだ日も暮れてませんよ。随分と早くなりましたね」
「なに、昔は一人で作業してたんだ。早く終えられるようになったのは橙のお陰だよ。まあ、紫様と二人で作業をしていた時の方が早かったがな」
いつからだろうか、紫様が境界の監視と修正方法を私に任せきりにし始めたのは。多分、私が八雲の名を名乗る事を許された時からだったと思う。今は紫様は、ただ私の修正案を聞いて首を縦に振る事しかしてくれない。
するうち、橙も境界の保守作業に付けるようにと命じられた。紫様は、どんどんと何もしなくなっていった。そんなに楽がしたかったのだろうか。紫様の今の生活を見るに、きっとそうだと思える。所詮、式神など使役者が楽をするための道具でしかないのだから。
「おかえりなさい、藍」
紫様が、夕飯の支度を済ませていた。私が外の世界から取り寄せた鮮魚が、綺麗にお造りにされていて、炊きたての白米が椀に盛られていた。
「ただいま戻りました。……紫様」
「ごめんなさいね、退屈だったから。一日中布団で転がっていても良かったのだけれど」
「いえ、ありがとうございます」
私は考えた。恐らく紫様は、こうした穏やかでただ普通の日々を愛しているのだろうと。もう、灼熱の時に身を焼いて夢を追い求める事は、きっとないのだろう。今、紫様は叶った夢を慈しんでいるのだから。
「一つお聞きしていいですか、紫様」
「なにかしら」
「紫様は、もう夢を追うことはないのですか?」
「随分と抽象的な質問ね。私はいつも夢、言わば目標を達成し続けているわよ。幻想郷ができてからは、この世界が存続してくれることが私の夢になった。作った後は、守らなきゃならないでしょう?」
「私は、昔の紫様が好きです。でも今は……」
「退屈に過ぎる?」
私は無言で返した。言葉を続けられなかったから。紫様の表情が、少し悲しそうに見えて。
「私ね、夢を叶えたらまた次の夢をって、嫌いなのよ」
「は?」
「まるで叶った夢が、無価値なもののような言い方だと思わない? 次の夢、次の次の夢って、次から次へと夢を取っ替え引っ替え、私には夢を蔑ろにしているようにしか見えない。もっと夢は大事にするべきなのよ」
「だから紫様は、今は叶えた夢を守っておられるのですね」
「そうよ。もう私は夢を追うことはないの。夢はここにあるから、ただ守るだけ」
それきり紫様は、二、三他愛ない話をしてから、私たちが食事を終えた食器を持って台所へ向かった。私は、居間から縁側へ向かって、夜風に当たった。
今日は、朝から境界の監視だった。私は、少し考えた。多分、紫様からの信頼を意味することでもあるとは思うが……。私は、境界を壊せる。
これまでずっと保守してきたのだ。何処をどうすれば境界が機能不全になるかなど手に取るようにわかる。それどころか、幻と実体の境界の機能を真逆なものにして、この幻想郷をただの現実にすることだってできる。
もし夢が、幻想郷が壊れてしまったら、紫様はどうするのだろう。新しい幻想郷を作るのだろうか、それとも、壊れた世界を直そうとするんだろうか。
実践できる事のために理論を使うのが馬鹿らしく思えてきた。できるなら、やってみればいいのだ。
ただ、私がここに妖力を流し込めば
それだけで、壊れる——
「藍様?」
橙が、私を見ていた。不思議そうな表情を浮かべて、首を傾げながら私に疑問の視線を投げかけていた。
「何を…しようと」
私はふいと我に帰った。橙を抱きしめて、何度も謝罪の言葉を呟く事しかできなかった。橙は、何が何だか分からないと言った様子だったが、私はそれでも謝ることをやめられなかった。
「式を……辞める?」
紫様が、悲しそうにそう呟いた。
「はい。私は、あなたの式神ではいられません」
「それは貴方が決める事じゃないわ。藍は優秀な式神よ。私の式神でいられないなんて、そんなことはあり得ない」
「私は、許されないことをしようとしました」
「でもしなかったのでしょう? だからこそ私は貴方を信頼できるのよ。それに橙はどうするつもりよ。あんなにも藍を慕っているのに」
「それは……」
私は、答えられなかった。底無しな紫様の優しさに甘えるしかないのだろうか。否だと思った。例え許されようと、許してしまってはいけない事もある。
「紫様は言いましたよね。夢を守るのだと。私は夢を壊そうとしたんです。さあ、紫様の夢を守ってください」
「貴方もまた私の夢の内側なのよ」
紫様は部屋を出て行った。頰に奇妙な感覚があった。拭ってみると、涙だった。
今日はいい天気だ。私は縁側で陽に当たった。紫様も丁度、隣に腰掛けられた。
「私は……紫様みたいにはなれません」
「そうね」
「変わらない日々を愛するよりも、理想の日々を追い求めることを望みます」
「そう……」
「でもきっと、それはどっちもおんなじ事なんでしょう。ただ求めるものが、手元にあるか遠くにあるか、それだけの違いなのだと私は考えます」
そう、おんなじなのだ。だから……
「紫様。お供いたします。退屈であろうと、代わり映えしなくとも。そしてまたいつか、夢が私たちの手元を離れてしまったら……。その時は、私は嬉々として夢を追いましょう。紫様、貴方の元で」
「名答」
紫様はただ一言、そう答え、それからハッと我に帰ったように仰られた。
「ねえ、藍。そこの煎餅取ってくれない?」
変わらないお方だと、私は苦笑した。
「ねえ、藍。そこの煎餅取ってくれない?」
今、気だるそうに畳の上で品も無くダラけきっている我が主人に使える事が、私のためになるのだろうか? 疑問を解決できないまま、私は煎餅をスキマ越しに紫様に手渡した。
「ありがと藍」
「はい」
昔は、こんな方ではなかったのだ。一日中朝から晩まで居間でごろつきながらただ食事だけを貪ったり、冬場の間ずっと布団から離れないような、そんなダメ人間のような方ではなかった。
「最近、季節柄暑くなってきたわねえ。もう夏かしら。橙はよくこういう暑い日は水浴びをして式が剥がれてしまうから、目を離しちゃだめよ」
「しかと言付けておりますので、問題ありません」
「……そう、なら良かった」
自他共に認められる大妖怪として月に攻め入り、消え失せていく妖怪達のために楽園を創造したのも、今となっては昔の話に成り果ててしまった。今の紫様の生活は、隠居暮らしをしている老婆に等しい。
「きょうの夕飯はなんだったかしら? 確か、食材が足りないんじゃなかった?」
「お造りですね。外の世界から取り寄せました」
「えーと、じゃあ今日は私が夕飯の支度を」
「紫様は、夕飯なんて作らないで下さい」
「え……あ、そう……」
私は、耐えられなくなって居間を後にした。どうしようもないほどの虚しさと惨めさが私を襲っていた。私が憧れ、目指し、崇拝していた紫様が、ただ普通の人間のように生活し、あまつさえ台所に立って夕飯の支度をしている様子を幻視して、私は吐き気を催した。
今日は、週に一度の境界の改修日だった。博麗大結界の管理と保守の大部分は博麗の巫女に任されている。私が担当するのは、幻と実体の境界だ。
紫様が構築した概念の境界ともいえるこれを、私は常に監視し、不具合をまとめ、修正案を提出し、紫様の許可が下りたのちにまとめて改修する。今週明らかになった不具合もまた、なんの問題もなく修正されていった。作業をひと段落させた私は、手近な岩場に腰かけた。
「藍様、見回りを終えてきました。修正が必要な目立った不具合は見つかりませんでした」
「ふむ、そいつは良かった。今日の作業はこれでお終いだな」
橙が空を見上げながら言った。
「まだ日も暮れてませんよ。随分と早くなりましたね」
「なに、昔は一人で作業してたんだ。早く終えられるようになったのは橙のお陰だよ。まあ、紫様と二人で作業をしていた時の方が早かったがな」
いつからだろうか、紫様が境界の監視と修正方法を私に任せきりにし始めたのは。多分、私が八雲の名を名乗る事を許された時からだったと思う。今は紫様は、ただ私の修正案を聞いて首を縦に振る事しかしてくれない。
するうち、橙も境界の保守作業に付けるようにと命じられた。紫様は、どんどんと何もしなくなっていった。そんなに楽がしたかったのだろうか。紫様の今の生活を見るに、きっとそうだと思える。所詮、式神など使役者が楽をするための道具でしかないのだから。
「おかえりなさい、藍」
紫様が、夕飯の支度を済ませていた。私が外の世界から取り寄せた鮮魚が、綺麗にお造りにされていて、炊きたての白米が椀に盛られていた。
「ただいま戻りました。……紫様」
「ごめんなさいね、退屈だったから。一日中布団で転がっていても良かったのだけれど」
「いえ、ありがとうございます」
私は考えた。恐らく紫様は、こうした穏やかでただ普通の日々を愛しているのだろうと。もう、灼熱の時に身を焼いて夢を追い求める事は、きっとないのだろう。今、紫様は叶った夢を慈しんでいるのだから。
「一つお聞きしていいですか、紫様」
「なにかしら」
「紫様は、もう夢を追うことはないのですか?」
「随分と抽象的な質問ね。私はいつも夢、言わば目標を達成し続けているわよ。幻想郷ができてからは、この世界が存続してくれることが私の夢になった。作った後は、守らなきゃならないでしょう?」
「私は、昔の紫様が好きです。でも今は……」
「退屈に過ぎる?」
私は無言で返した。言葉を続けられなかったから。紫様の表情が、少し悲しそうに見えて。
「私ね、夢を叶えたらまた次の夢をって、嫌いなのよ」
「は?」
「まるで叶った夢が、無価値なもののような言い方だと思わない? 次の夢、次の次の夢って、次から次へと夢を取っ替え引っ替え、私には夢を蔑ろにしているようにしか見えない。もっと夢は大事にするべきなのよ」
「だから紫様は、今は叶えた夢を守っておられるのですね」
「そうよ。もう私は夢を追うことはないの。夢はここにあるから、ただ守るだけ」
それきり紫様は、二、三他愛ない話をしてから、私たちが食事を終えた食器を持って台所へ向かった。私は、居間から縁側へ向かって、夜風に当たった。
今日は、朝から境界の監視だった。私は、少し考えた。多分、紫様からの信頼を意味することでもあるとは思うが……。私は、境界を壊せる。
これまでずっと保守してきたのだ。何処をどうすれば境界が機能不全になるかなど手に取るようにわかる。それどころか、幻と実体の境界の機能を真逆なものにして、この幻想郷をただの現実にすることだってできる。
もし夢が、幻想郷が壊れてしまったら、紫様はどうするのだろう。新しい幻想郷を作るのだろうか、それとも、壊れた世界を直そうとするんだろうか。
実践できる事のために理論を使うのが馬鹿らしく思えてきた。できるなら、やってみればいいのだ。
ただ、私がここに妖力を流し込めば
それだけで、壊れる——
「藍様?」
橙が、私を見ていた。不思議そうな表情を浮かべて、首を傾げながら私に疑問の視線を投げかけていた。
「何を…しようと」
私はふいと我に帰った。橙を抱きしめて、何度も謝罪の言葉を呟く事しかできなかった。橙は、何が何だか分からないと言った様子だったが、私はそれでも謝ることをやめられなかった。
「式を……辞める?」
紫様が、悲しそうにそう呟いた。
「はい。私は、あなたの式神ではいられません」
「それは貴方が決める事じゃないわ。藍は優秀な式神よ。私の式神でいられないなんて、そんなことはあり得ない」
「私は、許されないことをしようとしました」
「でもしなかったのでしょう? だからこそ私は貴方を信頼できるのよ。それに橙はどうするつもりよ。あんなにも藍を慕っているのに」
「それは……」
私は、答えられなかった。底無しな紫様の優しさに甘えるしかないのだろうか。否だと思った。例え許されようと、許してしまってはいけない事もある。
「紫様は言いましたよね。夢を守るのだと。私は夢を壊そうとしたんです。さあ、紫様の夢を守ってください」
「貴方もまた私の夢の内側なのよ」
紫様は部屋を出て行った。頰に奇妙な感覚があった。拭ってみると、涙だった。
今日はいい天気だ。私は縁側で陽に当たった。紫様も丁度、隣に腰掛けられた。
「私は……紫様みたいにはなれません」
「そうね」
「変わらない日々を愛するよりも、理想の日々を追い求めることを望みます」
「そう……」
「でもきっと、それはどっちもおんなじ事なんでしょう。ただ求めるものが、手元にあるか遠くにあるか、それだけの違いなのだと私は考えます」
そう、おんなじなのだ。だから……
「紫様。お供いたします。退屈であろうと、代わり映えしなくとも。そしてまたいつか、夢が私たちの手元を離れてしまったら……。その時は、私は嬉々として夢を追いましょう。紫様、貴方の元で」
「名答」
紫様はただ一言、そう答え、それからハッと我に帰ったように仰られた。
「ねえ、藍。そこの煎餅取ってくれない?」
変わらないお方だと、私は苦笑した。
穏やかな物腰ながら毅然とした態度を崩さないゆなりんもカッコいい
どちらもその人達の在り方として良かったです。
とても良かったです。
藍には藍の思いがあって、紫のそれとは相いれないこともあるのだということが、なんだか斬新に思えました
藍様だって大妖怪なんだから紫様に従ってばかりじゃないですよね