朝起きて、機嫌よく外に出て、仲の良い友達に出会ったとする。
その友達に景気良く朝の挨拶をした直後、相手から返ってきた答えが
「えっ、誰?」
だった場合、さてあなたならどう思うだろう。
黒谷ヤマメは友のはずの橋姫から、まさに前述のような返事をされて絶句してしまった。
水橋パルスィは先の一言を放つと、それきり黙ってヤマメを睨め据えていた。
――なんてね。
友の口からそんな台詞が、意地悪な笑顔とともに飛び出してくる――などということもなく。
パルスィは怪訝そうにするばかりで、積極的にヤマメに関わろうという様子もない。あまつさえ、踵を返して橋桁の下に戻ろうとしている。
ヤマメは慌てて彼女を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ちなよ! 何? 何で怒ってるのさ?」
「いや、だから……貴女、誰? なんで、馴れ馴れしく話しかけてくるの?」
これはいよいよまずいと思い、ヤマメは眉間に指をあてがって、本気で思案を始めた。
少なくとも、だ。昨日の朝は、彼女とバカ話をしていちゃついていた記憶がある。となると、何かあったとすれば、昨日の日中から夜に掛けてだ。
一つだけ心当たりがあった。
昨日ヤマメは、昼間から旧都の往来に陣取り、星熊勇儀と一緒に酒をかっ食らっていた。その時偶然、道の向こう側を歩くパルスィの姿を見かけたので、ヤマメは大声で彼女を呼んだのだ。だが、パルスィは勇儀とヤマメを一瞥すると、声もかけずにつんとそっぽを向いて、何処かへ歩き去ってしまったのだった。
「……えっと、もしかして、あの時勇儀と一緒に呑んでた時のことで、怒ってるのかい?」
「いえ、貴女、初対面なんだけど。貴女の言っている話も、初耳だわ」
答えるパルスィは、あくまでつれない、にべもない。
いくつものクエスチョンマークを頭上に浮かべて首をかしげるヤマメだったが、ある瞬間、ふいに彼女の脳裏に閃きが走った。
「あ! そういう! あー、そういう流れね、はいはい」
「何……。何を勝手に、納得したような顔してるの」
「いや、わかるよ私もさ。毎日同じネタやってると飽きちゃうもんね。うん。たまにはこういう趣向もありかねえ」
ヤマメの言わんとすることはつまり。
これはごっこ遊びなのだ。
弾幕ごっこなんてものもまかり通るのがこの世界だ。
初対面ごっこがあったっていいじゃないか。
ヤマメは馴れ馴れしさに拍車を掛けて、パルスィの肩に手を回しつつ、にこやかに名乗りを上げた。
「改めましておはようさん! そしてはじめまして! あたしゃ黒谷ヤマメっていってね、見ての通り土蜘蛛さ」
「最初っからそう名乗れば良いのに」
「それであんたは、水橋パルスィ。嫉妬狂いの橋姫様さね」
つい調子に乗ってヤマメは口走ってしまったが、これがどうもまずかったようだ。
パルスィは肩を抱く手を無言で振り払うと、乱暴に身を翻してヤマメに向き直った。
そして彼女は、とことんまで猜疑心に溢れた視線をヤマメに向ける。
「……貴女、心を読む妖怪? それとも、名前を奪う妖怪だったりする?」
「そうきたか。……そりゃそうさね、なんたって初対面ってていだものね。や、でもさあ、そんな細かいツッコミ、野暮じゃないかい? しょせん、ごっこ遊びじゃないのさ」
「何をぶつぶつ、訳の分からないことを……。サトリ妖怪はこれだから……」
「誰がサトリ妖怪だって? さっき私、土蜘蛛って言ったじゃないのさ!」
「嘘ね。人畜無害な土蜘蛛のふりをして、私を騙そうとしているんでしょう」
「うーわ、めんどくさ! いつもの三割増しでめんどくさいわあ」
ここまで話して、ヤマメは、はたと気づいた。
――なんだこれ。ごっこ遊びにしては、全然楽しくない。
「ねえ、やっぱり、今日のあんたはおかしいよ、パルスィ。いったい、どうしたっていうのさ?」
「おかしいのは貴女じゃない! 何が目的か知らないけど、もう私に付きまとわないでよ!」
ヤマメは先刻の発言を訂正したい衝動に駆られた。三割増しどころじゃない。八割増しでめんどくさい。
そもそも会話が成り立っていないのだ。何か、話の前提から食い違っている。そのことに、ヤマメも薄々気付き始めていた。
だが、何が起きているのか、決定的にはわからない。
そして少なくとも、ここでパルスィと戯れていても埒が明かないことだけは確かだった。
そこでヤマメは、方針転換をすることにした。
彼女は、つとパルスィから身を離し、そっけなく言い放った。
「あ、そ。まあ良いけど。まあ良いけど! そんじゃ、私は旧都で勇儀あたりと一杯やりますかねえ。勇儀は良いやつだからなあ、あんたと違って!」
ヤマメはそう言って踵を返し、旧都に向かう道を歩き始めた。
橋から僅かに離れたところでちらりと後ろに視線を投げる。すると、欄干の隙間からパルスィが顔を覗かせて、こちらを伺っているのが見えた。そこで完全に振り返ってみると、橋姫は慌てて橋の下に身を隠す。
ヤマメは笑い出しそうになるのをこらえながら、口元に手を当ててもう一度、先ほどと同じセリフを叫んだ。
「勇儀は良いやつだからなあ! 橋姫なんかと違って!」
再び歩みを戻す。しかし、背後への注意は維持したまま。
そのまま少し歩くと、背後から足音が聞こえてきた。足音は、ヤマメの歩調に合わせて後ろからついてくる。
ヤマメが首を少し動かし、目の端で来た道を見やると、追随してきたパルスィが慌てて物陰に隠れるのが見えた。
――よっしゃ来た来た!
我が意を得たり。うししと歯を見せ、ヤマメはほくそ笑む。
たとえ様子がおかしくなろうとも、パルスィはパルスィだ。この嫉妬姫の扱いにかけて、ヤマメの右に出る者などいないのだった。
ヤマメはパルスィを引き連れて、一路旧都に向かっていった。
***
旧都の大路にやってきて、ヤマメは複数の知り合いと短い会話を交わした。その結果、一つはっきりしたことがある。
おかしいのは、パルスィだけではない。ヤマメ以外の全員がおかしいのだ。
あるいはもしかすると、ヤマメだけがおかしいのかもしれない。いずれにせよ、そういった極端な状況に陥っていることは確かだった。
酒屋で二升の安酒を購った時も、干物屋で肴を買い込んだ時も、顔なじみのはずの店子との会話が噛み合わない。
皆、ヤマメのことを知らないていで話をするのだ。
否、『てい』などではなく、実際に知らないのかもしれない。
「えぇ〜……こんなことってあるのかい……? みんなして私をペテンにかけてるわけじゃあるまいねぇ」
むしろ、ペテンにかけてくれているのなら、まだ救いがあった。
――本当に、みんながみんな私のことを忘れていたら、どうしよう。
意識して頭の中から排除してきた考えが、いまここに来てヤマメの思考を冒し始めていた。
彼女は今、星熊勇儀の元に向かっていた。鬼の星熊は嘘をつかない。彼女に会えば、これが壮大なペテンか否かわかるはずだ。
もしペテンでなければ――
「その時はその時だ。その時考えりゃいいさ」
はたして『その時』はあっさりとやってきた。
勇儀は昨日と変わらず、茶屋の軒先で徳利片手にきこしめしていた。
既に出来上がっているのなら都合が良い。ヤマメは勇儀に向かって親しげに声を掛けた。
その時返ってきた答えが、これである。
「えっ、アタシと飲みたいって? 誰だい、アンタ?」
「よーしよし。いいね、最高。楽しくなってきたよぉ」
ヤマメはもう、そんな風なことを真顔でうそぶくしかなかった。
言ったきり黙り込んだヤマメを、勇儀は心配げに見下ろしていた。
「なんだい、突然頭を抱えちゃって。何か悩みがあるなら聞いてやるよ」
「おお……さすが勇儀! 親切な鬼だよ、あんたときたらさ!」
ぱっと顔を輝かせ、ヤマメは勇儀の膝にすがりついた。それから彼女はどこからともなく一升瓶を取り出して、うきうきした様子で勇儀の前に差し出した。
「ほんじゃ呑みながら話しましょ。勇儀、盃出しなね」
これに勇儀は目を丸くする。
「アンタ、星熊盃のことを知っているのかい」
「ついでに、その盃に酒を注ぐと旨くなることも、知ってるよ。さあほら、盃出しなよ、勇儀。どんな不思議も――いっそ怪力乱神だって、酒の前には無力なもんさ」
「ハッ! 言うじゃないか! ……気に入ったよ。使いな」
そう言って、勇儀は盃を差し出した。盃を受け取ったヤマメは、持ってきた酒をそこになみなみと注ぎ入れる。空いた一升瓶を放り投げ、ヤマメは手にした猪口を盃の中にざぶんと差し入れる。高台からぽたぽたと酒が滴り落ちるのもそのままにして、ヤマメはその猪口を勇儀に突き出した。
受け取った猪口の中身を、勇儀は一気に呑み干した。その呑み終わった猪口で、同じようにして勇儀はヤマメに酒を勧める。
ヤマメは勇儀から猪口をひったくると、口の端から溢れるのも厭わず、浴びるように呑んだ。
「ああ……美味いねえ!」
「そうだ、そういうふうに、とっとと呑まなきゃだめなんだよ。すぐ悪くなっちゃうからね」
それからヤマメは勇儀と酒を飲み交わしつつ、今朝から起きている不可思議な出来事について話し始めた。
ヤマメが一通りの話が終えると、それまで黙って相槌をうっていた勇儀が口を開いた。
「話は理解した。だが、そりゃ言っちゃ悪いが、アンタの頭がおかしくなったって線が有力じゃないか。だって、アタシはアンタのこと、これっぽっちも知らないんだから」
「いやあ、それがさ、私はあんたのことをよく知ってるのさ」
「どんなことを知ってる?」
「まあ、たいていのことは」
「たとえば?」
「あんた、みぞおちに三つのほくろがあるだろ。一緒に温泉行った時にちらっと見たのさ」
「……他には?」
「ずっと昔に飼ってたクマって名前の猫が、出て行ったきり帰ってこなくて心配してるって言ってたね」
「最近の悩みだと?」
「飲み友達がいなくて寂しいんだろ。みんなあんたのこと怖がって避けてっちゃってさ」
「……アンタ、サトリ妖怪じゃあるまいね」
「さっきも同じことを言われたよ。けど、私はサトリじゃない。嘘もついてない」
勇儀はわずかの間、険しい眼をして何事か思案していた。おそらくヤマメの言葉を信用すべきか判じかねているのだろう。
ヤマメはふと、この鬼に話してよかったと、そう思った。
見ず知らずの妖怪の話を、ここまで真剣に聞いてくれるのだ。
友であろうとなかろうと、勇儀はどんな時もどんな相手にも、同じように接してくれる。それが、今のヤマメには、どうにもありがたかった。
勇儀は、困惑気味の視線をヤマメに向けつつ、己の考えを口にした。
「ふうむ、なるほどねえ。アンタにはちゃんとアタシの記憶が残っているって言いたいのか。それが本当なら、アンタ以外の全員が、アンタのことを忘れっちまったとしか考えられないねえ」
「やっぱりそうかあ……そうだよねえ、それしかないよねえ」
ヤマメは何度もうなずき、頭をボリボリと掻いた。自身でも思い至った考えではあるが、他者から言われるとよりいっそう真実らしく思えてくるものだ。
――ヤマメ以外の全員が、ヤマメのことを忘れている。
これが、実際なのだろう。
さて、状況を概ね理解したヤマメは、この後どうするだろうか。
ままならない現実に屈託したり、もう二度と戻らない交友関係を懐かしんでめそめそしたりするのだろうか。
否。
彼女に限って、そんなことはあり得なかった。
ヤマメは掻いていた頭をぽんと平手で叩くと、朗らかに破顔した。
「まっ、いっか! それはそれで! あんたらとは、またイチから仲良くなれば良いだけだしさ!」
彼女はそう言って、カラカラと笑うのだった。
「それでいいのか。アンタ、あっさりしてんなあ……」
それから二人はしばらくの間談笑しながら猪口の中身をすすっていた。
ふと何気なく、勇儀が旧都の大路に目をやる。その瞬間、彼女の瞳がにわかに険を帯びた。
「チッ……あいつ、また旧都に来ているのか……」
「誰?」
勇儀の視線を追って、ヤマメが振り向く。視線の先にあったのは、金髪、緑眼、白い肌の美しい立ち姿。それは、見慣れた友の姿だった。
ヤマメは、ぱっと顔を輝かせ、その友を手招きする。
「ああ、パルスィかあ。おーい、パルスィ。あんたもこっちきて一緒にお飲み!」
「おい、バカ……」
勇儀がヤマメの肩を掴んで止めようとしたが、遅かった。パルスィはおもむろに近づいてきて、勇儀の姿を見下した。
「昼間からお酒を召してらして、良いご身分ですね。羨ましいですわ」
「開口一番にイヤミかい。本当にいけ好かないやつだ」
顔を合わせた途端に口汚く罵り合う二人。その様子を見たヤマメは、すっかり驚いて口をぽかんと開けてしまった。
「えーっ、あんたら、そんなに仲が悪かったの?」
思わず、ヤマメが尋ねる。すると、二人共(鬼は文字通り)鬼の形相をヤマメに向けて、それぞれ違いを貶め始めた。
「アタシは陰でコソコソ他人の嫉妬心を煽る、コイツのやり口がどうにも好きになれないんだ」
「鬼はすぐ暴力に訴えるんですもの。妖怪の目から見ると、一等劣っていると言わざるを得ませんわね」
――そういえば。
ヤマメはふと気づく。この二人が話しているのを見るのは、実はこれが初めてだったのだ。ヤマメが勇儀と話している時には、パルスィは決して話しかけてこなかったし、逆も然りだった。
それは要するに、ヤマメの前では気を使って停戦していたということではないだろうか。そして、ヤマメがかすがいの役目を果たさなくなった今、彼女達の本来の関係性が暴露されているということなのではないだろうか。
知りたくもなかった間柄を見せつけられ、ヤマメはうんざりしてきた。
だが、ここでヤマメが面倒事をほっぽり出して逃げ出せば、二人の関係は険悪なままになってしまう。
(仕方ない、一肌脱いでやるとしますか)
ヤマメは「まあまあ」などと両者をなだめすかしつつ、人懐っこい笑顔でパルスィに擦り寄った。
「ほら、パルスィ、喧嘩はよそうじゃない。ね。ここは私の顔を立てておくれよ」
「私は貴女のことなんて知らないわ。何度も言ってるけれど」
「そうだったね。ええと……」
頭をボリボリと掻きつつ、今度は勇儀に向き直る。
「勇儀! この子は私の友達さ。私の友達は、あんたの友達。ちがうかい?」
言われた勇儀は苦い顔をして、
「その物言い……なんか、アタシもアンタのことを覚えてる気がしてきたよ。気の所為かねえ」
と、呻くように呟いた。が、すぐに彼女は表情を引き締め、決然と言い放つ。
「だが、コイツとは相容れないね。不倶戴天だ」
「ええい、面倒くさいねえ!」
完全に不意討ちだった。電光石火の早業で、ヤマメがその手から白く輝く糸を放つ。すると糸は勇儀とパルスィの手首に絡みつき、互いの腕同士を結んだ。
勇儀はその眉間に剣呑な皺を寄せて、叫ぶ。
「何をする!」
怒髪天を衝く勢いの勇儀とは対象的に、ヤマメはあくまでにこやかだった。彼女は白い歯を見せて笑いつつ、自らの放った糸を指差した。
「その糸は暴力じゃあ絶対に切れないよ。お釈迦様の蜘蛛の糸さ。精神的な力で切れる」
そこで一度言葉を切って、ヤマメは二人の顔を順繰りに覗き込んだ。
「いいかい、私は、あんたたちに仲良くいて欲しいんだ。だから、頑ななままじゃ糸も頑ななまま。仲良く一緒に飲めば、いずれ解けるよ」
この言葉に、パルスィは冷ややかな声で答えた。
「それって……永久に解けないって言ってるようなものよ」
「さて、どうかねえ。ひとまず、二人共座りなね」
言われるままに、二人は座敷に座る。
するとすぐ、勇儀の方が無言のまま、自らの腕に巻き付いた糸を膂力で引っ張り出した。
鬼としての矜持がそうさせるのだろう。そちらはとりあえず放っておくことにして、ヤマメはパルスィの方に目をやった。
「パルスィ、私の酒を飲んでくれるかい?」
「断るわ」
「あ、そ。じゃあ、勇儀、あんたはどうだい」
勇儀は答えず、しばらくの間ウンウンと汗みどろになりながらヤマメの糸と格闘していた。が、糸は当然のごとく切れる気配もない。ついに彼女は苛立ったように「ええい!」と叫ぶと、猪口を引っ掴んでヤマメの胸元に押し付けた。
「注ぎな! 乞われて呑まずば、鬼じゃないよ」
「そうこなくっちゃ! やっぱり勇儀は誰かさんとひと味違うねえ」
言いながらヤマメはパルスィの方を一瞥する。橋姫の翡翠色の瞳には、今まさに嫉妬の火がチラチラとおこり始めていた。
そこを狙いすましてパルスィに擦り寄ると、ヤマメは彼女の耳元に優しく囁いた。
「パルスィ、歌ってよ。あんたの歌を聞きたいんだ」
ヤマメから身を引き離そうと思えばすぐにでもできたはずだが、パルスィはそうしなかった。
ただ、ヤマメからゆるゆると目をそらしつつ、ポツリと尋ねるだけだった。
「どうして、私が、歌なんか……」
「あんたの歌が素敵だってこと、知ってるからさ。相手の心しか読めないサトリ妖怪じゃ、こんなこと言えないよ。私がこの耳で聞いて知ってるから、言えるんだ」
「……不思議な妖怪ね、貴女って」
困惑が、その瞳の中に漂う。
それでもパルスィがなかなか歌い出そうとしないので、ヤマメはしびれを切らし、ついに自ら歌い始めた。
調子っ外れの、声だけ大きな、下手くそな歌だった。勇儀などは、辟易しながら小指で耳の穴をほじっていた。
と、パルスィが、ヤマメの唇に人差し指をあてがって歌を止めた。それから、渋々といった風情で歌い始めた。
それは美しい歌声だった。曲の調子はどこか物悲しげで、しみじみ呑むならこの上ない肴になっただろう。通りに目を向けると、どこかうらぶれた表情をした妖怪ばかりが、立ち止まって彼女の歌を聞いていた。
パルスィが歌い終わると、ヤマメは大いに拍手して囃し立てた。
「いいねいいね! 明るいのも歌えるかい?」
「得意じゃないわ」
「そっか! やっぱり、そういうのは私のほうが得意みたいだねえ」
「……歌うわよ。歌えば良いんでしょ」
半ばやけくそ気味にパルスィは歌い始める。今度の演目は、ヤマメが歌っていた祭り囃子だった。小気味良い調子で歌うパルスィを見ていると、ヤマメは居てもたっても居られず踊り始めた。
往来を行き交う妖怪たちが、次々に足を止めて二人の様子を眺め始める。
と、パルスィの隣に座っていた勇儀が、箸を手に持ち囃子に合わせて茶碗を叩き始めた。
「私も混ぜな。見る阿呆は御免だよ」
そんな勇儀を傍目に見て、ヤマメはにやりと笑ったのだった。
それからはもう破茶目茶だった。ヤマメは往来から引っ張ってきた見ず知らずの妖怪に酌をさせ、勇儀は興に乗って歌いだして地響きを起こす。パルスィだけがしらふのまま、二人の制動役に徹していた。釈迦の糸は未だ切れないまま、鬼と土蜘蛛の酔いだけが進んでゆく。
宴もたけなわ。それでも酒盛りは締まらない。ヤマメは飲んで食って歌って踊って、その挙句、幸せそうに天を仰いだ。
「あはは、楽しいねえ。なんだい、結局なんにも変わりゃしないじゃないか。世界中から忘れられたって、何度はじめましてになったって、結局あたしゃあんたらの友達になるのさ」
「おうそうさ! 良いこと言った、ヤマメとやら、あんた今い〜いこと言った!」
すっかり出来上がった勇儀が、目尻をだらしなく垂れ下げながら喚く。不本意にも彼女と繋げられたパルスィは、寂しげにぼやいた。
「もう、うるさいわよ酔っ払いども。なによ、貴女たちばかり、楽しんじゃって……」
屑入れを小脇に抱えて鼓打ちをしていたヤマメは、そんなパルスィの顔をおやおやと覗き込んだ。
「あんたは楽しくないのかい? ならさ、寄ってこお嬢さん。ほらほらそこの水橋さん。歌って踊って乱痴気騒ぎさ! 結局最後はおんなじなんだ、ならほらみんなで酔いましょ寝ましょってねえ!」
歌うようにそう言って、ヤマメはパルスィの手を引き一緒に踊り始めた。そうなれば、パルスィにつられて勇儀も踊らざるを得なくなる。
往来の真ん中で、三人は輪になって踊りはじめた。くるくる、くるくると。今にも膝から崩れ落ちそうになるのを、お互いに支えあうように。
たたらを踏み踏み、パルスィはヤマメの顔を覗き込む。
「ふふ。私も、貴女のこと知ってる気がするわ」
そう言って、パルスィは今日はじめての笑顔を見せた。
「……へえ。どんなことを知ってるのさ」
「貴女のこと、ずっと昔から、羨ましいなって思ってた気がする。今日、初めて会ったのにね」
それを聞くや、勇儀が意地の悪い顔になって囃し立てた。
「ひゅう~! そりゃ、運命ってやつかい」
「ひゅう~! 妬けるね妬けるね!」
「ちょ、ヤマメ、貴女……なんで貴女まで冷やかす側に回ってるのよ! これじゃあ恥ずかしいの、私だけじゃない!」
顔を桜色に染めるパルスィ。それを見たヤマメと勇儀はつかのま顔を見合わせると、弾かれるように笑い始めた。
ひとしきり、笑えるだけ笑った後、勇儀がふっと表情を和らげた。彼女は手ずから猪口に酒を注ぐと、パルスィに向かって差し出した。
「パルスィ、あんたのこと、いけ好かないとか言って、悪かった。友達の友達は、友達さ。ま、せいぜい仲良くしようじゃないか」
からかわれたこともあってか、パルスィはしばらくの間憮然としていた。だが、やがて彼女の白く頑なな顔がほころび、代わりに諦めのような苦笑がもれた。
「……せめて、今夜くらいは、ね」
彼女は勇儀から差し出された猪口を受け取ると、ゆっくりと目の高さに掲げて見せた。
橋姫と鬼の間に、わずかではあるがほの温かい空気が流れる。
それを気取ったヤマメは、我が意を得たりとばかりに笑ってから、自らも猪口を差し出して言った。
「それで充分! どうせ明日のことなんか、わかりゃしないんだから!」
「ハハハ! ちがいないね!」そう言って、勇儀も猪口を差し伸べる。
「もう、酔っぱらいはこれだから……」
ぶつくさ言いつつも、パルスィは差し出された二つの猪口に自分の猪口を軽く打ち付けた。そして、そのまま口に運ぶ。
「おいしい……!」
星熊の酒を一口喉に通した瞬間、パルスィは目を見開いて感嘆したのだった。
***
旧都の往来で楽しげに酒盛りする三体の妖怪の様子を、影からじっと観察する少女がいた。
いた、といっても、姿は誰にも認識されていない。
存在の稀薄な妖怪。サトリ妖怪姉妹の片割れ。忘却される運命にある悲しき妖怪。
それは、地霊殿の古明地こいしの姿だった。
「『世界中から忘れられたって、何度はじめましてになったって、結局私はあなたのお友達』かあ」
こいしは、誰に言うともなく、ヤマメの言葉を口の中で繰り返した。それからぱっと笑顔になって、
「えへへ、良いこと聞いちゃった。そうよね、きっと。きっと、そうよねえ」
そう言って何度もうなずくのだった。
「……ヤマメにはちょっと悪いことしちゃったかしらね。明日になったら、もとに戻しておこうっと」
そう言うと、こいしは踊るように回りながら、往来の向こうに歩み去っていった。
***
どんちゃん騒ぎから一夜明けた朝、ヤマメは再び橋姫のもとにやってきた。
欄干に腕をついて物思わしげにしているパルスィに、ヤマメは普段どおり愛想よく声を掛ける。
「おはよう、パルスィ! いやあ、昨日はしこたま飲んだねえ」
「おはよう、ヤマメ。そうね、まだちょっと残ってるかも」
「ああ、今日は覚えていてくれたんだねえ。嬉しいよ」
喜色満面で顔を覗き込んでくるヤマメを見て、パルスィは思わず苦笑してしまった。
その額をぴしりと指で弾くと、ヤマメはびっくりしてのけぞって、それから少し恨めしげにパルスィを見た。
意地悪く笑うパルスィを見て、ヤマメはお返しとばかりに頭を小突く。
そうして少しの間じゃれ合ってから、パルスィはおもむろに顔を上げ、穏やかな笑顔とともにヤマメを見やった。
「ねえ、ヤマメ」
「うん?」
「あんたがあの日、勇儀と一緒に飲んでるの見たときね。私けっこうね、妬いたのよ。だから、声をかけずに、行っちゃったの」
「ん? あんた、その話って……」
「ええ、思い出したわ」
「何もかも?」
「一切合財ね」
ヤマメは少しの間きょとんとしてパルスィの顔を見ていた。しかし、パルスィの瞳の中に嘘がないと見て取るや、ヤマメは大きなため息をついて、がっくりとうなだれてしまった。
「なんだい! 安心したよ、ほんとにもう!」
「心配してたのね」
「そりゃあそうさ。変わりゃしないなんて言ったけどさあ、そりゃやっぱりちょっとは寂しいじゃないか」
『寂しい』という言葉を聞いて、パルスィはまんざらでもなさそうに目を細める。
それから両名はしばらく黙って川の水面を眺めていた。
ふと、パルスィが思い出したようにつぶやいた。
「結局、今回のことはなんだったのかしらね」
「さあねえ」
興味なさそうにヤマメは答える。もう問題は解決したのだから、あえてわざわざ掘り返す必要もない。ヤマメはそう考えていた。
それよりも、今日をどう楽しく生きるか、だ。
と、ヤマメの目に悪餓鬼めいた光が宿る。今日の遊びを思いついたのだ。
「ところでさ。また、はじめましてごっこ、するかい?」
昨日の今日でこの提案にはさすがのパルスィも苦笑いだったが、無下に断ることはしなかった。
「そうね。まあ、そういう趣向も良いかもしれないわね」
「たまにはね」
「ええ、たまには」
二人の妖怪は、顔を見合わせて笑った。
その友達に景気良く朝の挨拶をした直後、相手から返ってきた答えが
「えっ、誰?」
だった場合、さてあなたならどう思うだろう。
黒谷ヤマメは友のはずの橋姫から、まさに前述のような返事をされて絶句してしまった。
水橋パルスィは先の一言を放つと、それきり黙ってヤマメを睨め据えていた。
――なんてね。
友の口からそんな台詞が、意地悪な笑顔とともに飛び出してくる――などということもなく。
パルスィは怪訝そうにするばかりで、積極的にヤマメに関わろうという様子もない。あまつさえ、踵を返して橋桁の下に戻ろうとしている。
ヤマメは慌てて彼女を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ちなよ! 何? 何で怒ってるのさ?」
「いや、だから……貴女、誰? なんで、馴れ馴れしく話しかけてくるの?」
これはいよいよまずいと思い、ヤマメは眉間に指をあてがって、本気で思案を始めた。
少なくとも、だ。昨日の朝は、彼女とバカ話をしていちゃついていた記憶がある。となると、何かあったとすれば、昨日の日中から夜に掛けてだ。
一つだけ心当たりがあった。
昨日ヤマメは、昼間から旧都の往来に陣取り、星熊勇儀と一緒に酒をかっ食らっていた。その時偶然、道の向こう側を歩くパルスィの姿を見かけたので、ヤマメは大声で彼女を呼んだのだ。だが、パルスィは勇儀とヤマメを一瞥すると、声もかけずにつんとそっぽを向いて、何処かへ歩き去ってしまったのだった。
「……えっと、もしかして、あの時勇儀と一緒に呑んでた時のことで、怒ってるのかい?」
「いえ、貴女、初対面なんだけど。貴女の言っている話も、初耳だわ」
答えるパルスィは、あくまでつれない、にべもない。
いくつものクエスチョンマークを頭上に浮かべて首をかしげるヤマメだったが、ある瞬間、ふいに彼女の脳裏に閃きが走った。
「あ! そういう! あー、そういう流れね、はいはい」
「何……。何を勝手に、納得したような顔してるの」
「いや、わかるよ私もさ。毎日同じネタやってると飽きちゃうもんね。うん。たまにはこういう趣向もありかねえ」
ヤマメの言わんとすることはつまり。
これはごっこ遊びなのだ。
弾幕ごっこなんてものもまかり通るのがこの世界だ。
初対面ごっこがあったっていいじゃないか。
ヤマメは馴れ馴れしさに拍車を掛けて、パルスィの肩に手を回しつつ、にこやかに名乗りを上げた。
「改めましておはようさん! そしてはじめまして! あたしゃ黒谷ヤマメっていってね、見ての通り土蜘蛛さ」
「最初っからそう名乗れば良いのに」
「それであんたは、水橋パルスィ。嫉妬狂いの橋姫様さね」
つい調子に乗ってヤマメは口走ってしまったが、これがどうもまずかったようだ。
パルスィは肩を抱く手を無言で振り払うと、乱暴に身を翻してヤマメに向き直った。
そして彼女は、とことんまで猜疑心に溢れた視線をヤマメに向ける。
「……貴女、心を読む妖怪? それとも、名前を奪う妖怪だったりする?」
「そうきたか。……そりゃそうさね、なんたって初対面ってていだものね。や、でもさあ、そんな細かいツッコミ、野暮じゃないかい? しょせん、ごっこ遊びじゃないのさ」
「何をぶつぶつ、訳の分からないことを……。サトリ妖怪はこれだから……」
「誰がサトリ妖怪だって? さっき私、土蜘蛛って言ったじゃないのさ!」
「嘘ね。人畜無害な土蜘蛛のふりをして、私を騙そうとしているんでしょう」
「うーわ、めんどくさ! いつもの三割増しでめんどくさいわあ」
ここまで話して、ヤマメは、はたと気づいた。
――なんだこれ。ごっこ遊びにしては、全然楽しくない。
「ねえ、やっぱり、今日のあんたはおかしいよ、パルスィ。いったい、どうしたっていうのさ?」
「おかしいのは貴女じゃない! 何が目的か知らないけど、もう私に付きまとわないでよ!」
ヤマメは先刻の発言を訂正したい衝動に駆られた。三割増しどころじゃない。八割増しでめんどくさい。
そもそも会話が成り立っていないのだ。何か、話の前提から食い違っている。そのことに、ヤマメも薄々気付き始めていた。
だが、何が起きているのか、決定的にはわからない。
そして少なくとも、ここでパルスィと戯れていても埒が明かないことだけは確かだった。
そこでヤマメは、方針転換をすることにした。
彼女は、つとパルスィから身を離し、そっけなく言い放った。
「あ、そ。まあ良いけど。まあ良いけど! そんじゃ、私は旧都で勇儀あたりと一杯やりますかねえ。勇儀は良いやつだからなあ、あんたと違って!」
ヤマメはそう言って踵を返し、旧都に向かう道を歩き始めた。
橋から僅かに離れたところでちらりと後ろに視線を投げる。すると、欄干の隙間からパルスィが顔を覗かせて、こちらを伺っているのが見えた。そこで完全に振り返ってみると、橋姫は慌てて橋の下に身を隠す。
ヤマメは笑い出しそうになるのをこらえながら、口元に手を当ててもう一度、先ほどと同じセリフを叫んだ。
「勇儀は良いやつだからなあ! 橋姫なんかと違って!」
再び歩みを戻す。しかし、背後への注意は維持したまま。
そのまま少し歩くと、背後から足音が聞こえてきた。足音は、ヤマメの歩調に合わせて後ろからついてくる。
ヤマメが首を少し動かし、目の端で来た道を見やると、追随してきたパルスィが慌てて物陰に隠れるのが見えた。
――よっしゃ来た来た!
我が意を得たり。うししと歯を見せ、ヤマメはほくそ笑む。
たとえ様子がおかしくなろうとも、パルスィはパルスィだ。この嫉妬姫の扱いにかけて、ヤマメの右に出る者などいないのだった。
ヤマメはパルスィを引き連れて、一路旧都に向かっていった。
***
旧都の大路にやってきて、ヤマメは複数の知り合いと短い会話を交わした。その結果、一つはっきりしたことがある。
おかしいのは、パルスィだけではない。ヤマメ以外の全員がおかしいのだ。
あるいはもしかすると、ヤマメだけがおかしいのかもしれない。いずれにせよ、そういった極端な状況に陥っていることは確かだった。
酒屋で二升の安酒を購った時も、干物屋で肴を買い込んだ時も、顔なじみのはずの店子との会話が噛み合わない。
皆、ヤマメのことを知らないていで話をするのだ。
否、『てい』などではなく、実際に知らないのかもしれない。
「えぇ〜……こんなことってあるのかい……? みんなして私をペテンにかけてるわけじゃあるまいねぇ」
むしろ、ペテンにかけてくれているのなら、まだ救いがあった。
――本当に、みんながみんな私のことを忘れていたら、どうしよう。
意識して頭の中から排除してきた考えが、いまここに来てヤマメの思考を冒し始めていた。
彼女は今、星熊勇儀の元に向かっていた。鬼の星熊は嘘をつかない。彼女に会えば、これが壮大なペテンか否かわかるはずだ。
もしペテンでなければ――
「その時はその時だ。その時考えりゃいいさ」
はたして『その時』はあっさりとやってきた。
勇儀は昨日と変わらず、茶屋の軒先で徳利片手にきこしめしていた。
既に出来上がっているのなら都合が良い。ヤマメは勇儀に向かって親しげに声を掛けた。
その時返ってきた答えが、これである。
「えっ、アタシと飲みたいって? 誰だい、アンタ?」
「よーしよし。いいね、最高。楽しくなってきたよぉ」
ヤマメはもう、そんな風なことを真顔でうそぶくしかなかった。
言ったきり黙り込んだヤマメを、勇儀は心配げに見下ろしていた。
「なんだい、突然頭を抱えちゃって。何か悩みがあるなら聞いてやるよ」
「おお……さすが勇儀! 親切な鬼だよ、あんたときたらさ!」
ぱっと顔を輝かせ、ヤマメは勇儀の膝にすがりついた。それから彼女はどこからともなく一升瓶を取り出して、うきうきした様子で勇儀の前に差し出した。
「ほんじゃ呑みながら話しましょ。勇儀、盃出しなね」
これに勇儀は目を丸くする。
「アンタ、星熊盃のことを知っているのかい」
「ついでに、その盃に酒を注ぐと旨くなることも、知ってるよ。さあほら、盃出しなよ、勇儀。どんな不思議も――いっそ怪力乱神だって、酒の前には無力なもんさ」
「ハッ! 言うじゃないか! ……気に入ったよ。使いな」
そう言って、勇儀は盃を差し出した。盃を受け取ったヤマメは、持ってきた酒をそこになみなみと注ぎ入れる。空いた一升瓶を放り投げ、ヤマメは手にした猪口を盃の中にざぶんと差し入れる。高台からぽたぽたと酒が滴り落ちるのもそのままにして、ヤマメはその猪口を勇儀に突き出した。
受け取った猪口の中身を、勇儀は一気に呑み干した。その呑み終わった猪口で、同じようにして勇儀はヤマメに酒を勧める。
ヤマメは勇儀から猪口をひったくると、口の端から溢れるのも厭わず、浴びるように呑んだ。
「ああ……美味いねえ!」
「そうだ、そういうふうに、とっとと呑まなきゃだめなんだよ。すぐ悪くなっちゃうからね」
それからヤマメは勇儀と酒を飲み交わしつつ、今朝から起きている不可思議な出来事について話し始めた。
ヤマメが一通りの話が終えると、それまで黙って相槌をうっていた勇儀が口を開いた。
「話は理解した。だが、そりゃ言っちゃ悪いが、アンタの頭がおかしくなったって線が有力じゃないか。だって、アタシはアンタのこと、これっぽっちも知らないんだから」
「いやあ、それがさ、私はあんたのことをよく知ってるのさ」
「どんなことを知ってる?」
「まあ、たいていのことは」
「たとえば?」
「あんた、みぞおちに三つのほくろがあるだろ。一緒に温泉行った時にちらっと見たのさ」
「……他には?」
「ずっと昔に飼ってたクマって名前の猫が、出て行ったきり帰ってこなくて心配してるって言ってたね」
「最近の悩みだと?」
「飲み友達がいなくて寂しいんだろ。みんなあんたのこと怖がって避けてっちゃってさ」
「……アンタ、サトリ妖怪じゃあるまいね」
「さっきも同じことを言われたよ。けど、私はサトリじゃない。嘘もついてない」
勇儀はわずかの間、険しい眼をして何事か思案していた。おそらくヤマメの言葉を信用すべきか判じかねているのだろう。
ヤマメはふと、この鬼に話してよかったと、そう思った。
見ず知らずの妖怪の話を、ここまで真剣に聞いてくれるのだ。
友であろうとなかろうと、勇儀はどんな時もどんな相手にも、同じように接してくれる。それが、今のヤマメには、どうにもありがたかった。
勇儀は、困惑気味の視線をヤマメに向けつつ、己の考えを口にした。
「ふうむ、なるほどねえ。アンタにはちゃんとアタシの記憶が残っているって言いたいのか。それが本当なら、アンタ以外の全員が、アンタのことを忘れっちまったとしか考えられないねえ」
「やっぱりそうかあ……そうだよねえ、それしかないよねえ」
ヤマメは何度もうなずき、頭をボリボリと掻いた。自身でも思い至った考えではあるが、他者から言われるとよりいっそう真実らしく思えてくるものだ。
――ヤマメ以外の全員が、ヤマメのことを忘れている。
これが、実際なのだろう。
さて、状況を概ね理解したヤマメは、この後どうするだろうか。
ままならない現実に屈託したり、もう二度と戻らない交友関係を懐かしんでめそめそしたりするのだろうか。
否。
彼女に限って、そんなことはあり得なかった。
ヤマメは掻いていた頭をぽんと平手で叩くと、朗らかに破顔した。
「まっ、いっか! それはそれで! あんたらとは、またイチから仲良くなれば良いだけだしさ!」
彼女はそう言って、カラカラと笑うのだった。
「それでいいのか。アンタ、あっさりしてんなあ……」
それから二人はしばらくの間談笑しながら猪口の中身をすすっていた。
ふと何気なく、勇儀が旧都の大路に目をやる。その瞬間、彼女の瞳がにわかに険を帯びた。
「チッ……あいつ、また旧都に来ているのか……」
「誰?」
勇儀の視線を追って、ヤマメが振り向く。視線の先にあったのは、金髪、緑眼、白い肌の美しい立ち姿。それは、見慣れた友の姿だった。
ヤマメは、ぱっと顔を輝かせ、その友を手招きする。
「ああ、パルスィかあ。おーい、パルスィ。あんたもこっちきて一緒にお飲み!」
「おい、バカ……」
勇儀がヤマメの肩を掴んで止めようとしたが、遅かった。パルスィはおもむろに近づいてきて、勇儀の姿を見下した。
「昼間からお酒を召してらして、良いご身分ですね。羨ましいですわ」
「開口一番にイヤミかい。本当にいけ好かないやつだ」
顔を合わせた途端に口汚く罵り合う二人。その様子を見たヤマメは、すっかり驚いて口をぽかんと開けてしまった。
「えーっ、あんたら、そんなに仲が悪かったの?」
思わず、ヤマメが尋ねる。すると、二人共(鬼は文字通り)鬼の形相をヤマメに向けて、それぞれ違いを貶め始めた。
「アタシは陰でコソコソ他人の嫉妬心を煽る、コイツのやり口がどうにも好きになれないんだ」
「鬼はすぐ暴力に訴えるんですもの。妖怪の目から見ると、一等劣っていると言わざるを得ませんわね」
――そういえば。
ヤマメはふと気づく。この二人が話しているのを見るのは、実はこれが初めてだったのだ。ヤマメが勇儀と話している時には、パルスィは決して話しかけてこなかったし、逆も然りだった。
それは要するに、ヤマメの前では気を使って停戦していたということではないだろうか。そして、ヤマメがかすがいの役目を果たさなくなった今、彼女達の本来の関係性が暴露されているということなのではないだろうか。
知りたくもなかった間柄を見せつけられ、ヤマメはうんざりしてきた。
だが、ここでヤマメが面倒事をほっぽり出して逃げ出せば、二人の関係は険悪なままになってしまう。
(仕方ない、一肌脱いでやるとしますか)
ヤマメは「まあまあ」などと両者をなだめすかしつつ、人懐っこい笑顔でパルスィに擦り寄った。
「ほら、パルスィ、喧嘩はよそうじゃない。ね。ここは私の顔を立てておくれよ」
「私は貴女のことなんて知らないわ。何度も言ってるけれど」
「そうだったね。ええと……」
頭をボリボリと掻きつつ、今度は勇儀に向き直る。
「勇儀! この子は私の友達さ。私の友達は、あんたの友達。ちがうかい?」
言われた勇儀は苦い顔をして、
「その物言い……なんか、アタシもアンタのことを覚えてる気がしてきたよ。気の所為かねえ」
と、呻くように呟いた。が、すぐに彼女は表情を引き締め、決然と言い放つ。
「だが、コイツとは相容れないね。不倶戴天だ」
「ええい、面倒くさいねえ!」
完全に不意討ちだった。電光石火の早業で、ヤマメがその手から白く輝く糸を放つ。すると糸は勇儀とパルスィの手首に絡みつき、互いの腕同士を結んだ。
勇儀はその眉間に剣呑な皺を寄せて、叫ぶ。
「何をする!」
怒髪天を衝く勢いの勇儀とは対象的に、ヤマメはあくまでにこやかだった。彼女は白い歯を見せて笑いつつ、自らの放った糸を指差した。
「その糸は暴力じゃあ絶対に切れないよ。お釈迦様の蜘蛛の糸さ。精神的な力で切れる」
そこで一度言葉を切って、ヤマメは二人の顔を順繰りに覗き込んだ。
「いいかい、私は、あんたたちに仲良くいて欲しいんだ。だから、頑ななままじゃ糸も頑ななまま。仲良く一緒に飲めば、いずれ解けるよ」
この言葉に、パルスィは冷ややかな声で答えた。
「それって……永久に解けないって言ってるようなものよ」
「さて、どうかねえ。ひとまず、二人共座りなね」
言われるままに、二人は座敷に座る。
するとすぐ、勇儀の方が無言のまま、自らの腕に巻き付いた糸を膂力で引っ張り出した。
鬼としての矜持がそうさせるのだろう。そちらはとりあえず放っておくことにして、ヤマメはパルスィの方に目をやった。
「パルスィ、私の酒を飲んでくれるかい?」
「断るわ」
「あ、そ。じゃあ、勇儀、あんたはどうだい」
勇儀は答えず、しばらくの間ウンウンと汗みどろになりながらヤマメの糸と格闘していた。が、糸は当然のごとく切れる気配もない。ついに彼女は苛立ったように「ええい!」と叫ぶと、猪口を引っ掴んでヤマメの胸元に押し付けた。
「注ぎな! 乞われて呑まずば、鬼じゃないよ」
「そうこなくっちゃ! やっぱり勇儀は誰かさんとひと味違うねえ」
言いながらヤマメはパルスィの方を一瞥する。橋姫の翡翠色の瞳には、今まさに嫉妬の火がチラチラとおこり始めていた。
そこを狙いすましてパルスィに擦り寄ると、ヤマメは彼女の耳元に優しく囁いた。
「パルスィ、歌ってよ。あんたの歌を聞きたいんだ」
ヤマメから身を引き離そうと思えばすぐにでもできたはずだが、パルスィはそうしなかった。
ただ、ヤマメからゆるゆると目をそらしつつ、ポツリと尋ねるだけだった。
「どうして、私が、歌なんか……」
「あんたの歌が素敵だってこと、知ってるからさ。相手の心しか読めないサトリ妖怪じゃ、こんなこと言えないよ。私がこの耳で聞いて知ってるから、言えるんだ」
「……不思議な妖怪ね、貴女って」
困惑が、その瞳の中に漂う。
それでもパルスィがなかなか歌い出そうとしないので、ヤマメはしびれを切らし、ついに自ら歌い始めた。
調子っ外れの、声だけ大きな、下手くそな歌だった。勇儀などは、辟易しながら小指で耳の穴をほじっていた。
と、パルスィが、ヤマメの唇に人差し指をあてがって歌を止めた。それから、渋々といった風情で歌い始めた。
それは美しい歌声だった。曲の調子はどこか物悲しげで、しみじみ呑むならこの上ない肴になっただろう。通りに目を向けると、どこかうらぶれた表情をした妖怪ばかりが、立ち止まって彼女の歌を聞いていた。
パルスィが歌い終わると、ヤマメは大いに拍手して囃し立てた。
「いいねいいね! 明るいのも歌えるかい?」
「得意じゃないわ」
「そっか! やっぱり、そういうのは私のほうが得意みたいだねえ」
「……歌うわよ。歌えば良いんでしょ」
半ばやけくそ気味にパルスィは歌い始める。今度の演目は、ヤマメが歌っていた祭り囃子だった。小気味良い調子で歌うパルスィを見ていると、ヤマメは居てもたっても居られず踊り始めた。
往来を行き交う妖怪たちが、次々に足を止めて二人の様子を眺め始める。
と、パルスィの隣に座っていた勇儀が、箸を手に持ち囃子に合わせて茶碗を叩き始めた。
「私も混ぜな。見る阿呆は御免だよ」
そんな勇儀を傍目に見て、ヤマメはにやりと笑ったのだった。
それからはもう破茶目茶だった。ヤマメは往来から引っ張ってきた見ず知らずの妖怪に酌をさせ、勇儀は興に乗って歌いだして地響きを起こす。パルスィだけがしらふのまま、二人の制動役に徹していた。釈迦の糸は未だ切れないまま、鬼と土蜘蛛の酔いだけが進んでゆく。
宴もたけなわ。それでも酒盛りは締まらない。ヤマメは飲んで食って歌って踊って、その挙句、幸せそうに天を仰いだ。
「あはは、楽しいねえ。なんだい、結局なんにも変わりゃしないじゃないか。世界中から忘れられたって、何度はじめましてになったって、結局あたしゃあんたらの友達になるのさ」
「おうそうさ! 良いこと言った、ヤマメとやら、あんた今い〜いこと言った!」
すっかり出来上がった勇儀が、目尻をだらしなく垂れ下げながら喚く。不本意にも彼女と繋げられたパルスィは、寂しげにぼやいた。
「もう、うるさいわよ酔っ払いども。なによ、貴女たちばかり、楽しんじゃって……」
屑入れを小脇に抱えて鼓打ちをしていたヤマメは、そんなパルスィの顔をおやおやと覗き込んだ。
「あんたは楽しくないのかい? ならさ、寄ってこお嬢さん。ほらほらそこの水橋さん。歌って踊って乱痴気騒ぎさ! 結局最後はおんなじなんだ、ならほらみんなで酔いましょ寝ましょってねえ!」
歌うようにそう言って、ヤマメはパルスィの手を引き一緒に踊り始めた。そうなれば、パルスィにつられて勇儀も踊らざるを得なくなる。
往来の真ん中で、三人は輪になって踊りはじめた。くるくる、くるくると。今にも膝から崩れ落ちそうになるのを、お互いに支えあうように。
たたらを踏み踏み、パルスィはヤマメの顔を覗き込む。
「ふふ。私も、貴女のこと知ってる気がするわ」
そう言って、パルスィは今日はじめての笑顔を見せた。
「……へえ。どんなことを知ってるのさ」
「貴女のこと、ずっと昔から、羨ましいなって思ってた気がする。今日、初めて会ったのにね」
それを聞くや、勇儀が意地の悪い顔になって囃し立てた。
「ひゅう~! そりゃ、運命ってやつかい」
「ひゅう~! 妬けるね妬けるね!」
「ちょ、ヤマメ、貴女……なんで貴女まで冷やかす側に回ってるのよ! これじゃあ恥ずかしいの、私だけじゃない!」
顔を桜色に染めるパルスィ。それを見たヤマメと勇儀はつかのま顔を見合わせると、弾かれるように笑い始めた。
ひとしきり、笑えるだけ笑った後、勇儀がふっと表情を和らげた。彼女は手ずから猪口に酒を注ぐと、パルスィに向かって差し出した。
「パルスィ、あんたのこと、いけ好かないとか言って、悪かった。友達の友達は、友達さ。ま、せいぜい仲良くしようじゃないか」
からかわれたこともあってか、パルスィはしばらくの間憮然としていた。だが、やがて彼女の白く頑なな顔がほころび、代わりに諦めのような苦笑がもれた。
「……せめて、今夜くらいは、ね」
彼女は勇儀から差し出された猪口を受け取ると、ゆっくりと目の高さに掲げて見せた。
橋姫と鬼の間に、わずかではあるがほの温かい空気が流れる。
それを気取ったヤマメは、我が意を得たりとばかりに笑ってから、自らも猪口を差し出して言った。
「それで充分! どうせ明日のことなんか、わかりゃしないんだから!」
「ハハハ! ちがいないね!」そう言って、勇儀も猪口を差し伸べる。
「もう、酔っぱらいはこれだから……」
ぶつくさ言いつつも、パルスィは差し出された二つの猪口に自分の猪口を軽く打ち付けた。そして、そのまま口に運ぶ。
「おいしい……!」
星熊の酒を一口喉に通した瞬間、パルスィは目を見開いて感嘆したのだった。
***
旧都の往来で楽しげに酒盛りする三体の妖怪の様子を、影からじっと観察する少女がいた。
いた、といっても、姿は誰にも認識されていない。
存在の稀薄な妖怪。サトリ妖怪姉妹の片割れ。忘却される運命にある悲しき妖怪。
それは、地霊殿の古明地こいしの姿だった。
「『世界中から忘れられたって、何度はじめましてになったって、結局私はあなたのお友達』かあ」
こいしは、誰に言うともなく、ヤマメの言葉を口の中で繰り返した。それからぱっと笑顔になって、
「えへへ、良いこと聞いちゃった。そうよね、きっと。きっと、そうよねえ」
そう言って何度もうなずくのだった。
「……ヤマメにはちょっと悪いことしちゃったかしらね。明日になったら、もとに戻しておこうっと」
そう言うと、こいしは踊るように回りながら、往来の向こうに歩み去っていった。
***
どんちゃん騒ぎから一夜明けた朝、ヤマメは再び橋姫のもとにやってきた。
欄干に腕をついて物思わしげにしているパルスィに、ヤマメは普段どおり愛想よく声を掛ける。
「おはよう、パルスィ! いやあ、昨日はしこたま飲んだねえ」
「おはよう、ヤマメ。そうね、まだちょっと残ってるかも」
「ああ、今日は覚えていてくれたんだねえ。嬉しいよ」
喜色満面で顔を覗き込んでくるヤマメを見て、パルスィは思わず苦笑してしまった。
その額をぴしりと指で弾くと、ヤマメはびっくりしてのけぞって、それから少し恨めしげにパルスィを見た。
意地悪く笑うパルスィを見て、ヤマメはお返しとばかりに頭を小突く。
そうして少しの間じゃれ合ってから、パルスィはおもむろに顔を上げ、穏やかな笑顔とともにヤマメを見やった。
「ねえ、ヤマメ」
「うん?」
「あんたがあの日、勇儀と一緒に飲んでるの見たときね。私けっこうね、妬いたのよ。だから、声をかけずに、行っちゃったの」
「ん? あんた、その話って……」
「ええ、思い出したわ」
「何もかも?」
「一切合財ね」
ヤマメは少しの間きょとんとしてパルスィの顔を見ていた。しかし、パルスィの瞳の中に嘘がないと見て取るや、ヤマメは大きなため息をついて、がっくりとうなだれてしまった。
「なんだい! 安心したよ、ほんとにもう!」
「心配してたのね」
「そりゃあそうさ。変わりゃしないなんて言ったけどさあ、そりゃやっぱりちょっとは寂しいじゃないか」
『寂しい』という言葉を聞いて、パルスィはまんざらでもなさそうに目を細める。
それから両名はしばらく黙って川の水面を眺めていた。
ふと、パルスィが思い出したようにつぶやいた。
「結局、今回のことはなんだったのかしらね」
「さあねえ」
興味なさそうにヤマメは答える。もう問題は解決したのだから、あえてわざわざ掘り返す必要もない。ヤマメはそう考えていた。
それよりも、今日をどう楽しく生きるか、だ。
と、ヤマメの目に悪餓鬼めいた光が宿る。今日の遊びを思いついたのだ。
「ところでさ。また、はじめましてごっこ、するかい?」
昨日の今日でこの提案にはさすがのパルスィも苦笑いだったが、無下に断ることはしなかった。
「そうね。まあ、そういう趣向も良いかもしれないわね」
「たまにはね」
「ええ、たまには」
二人の妖怪は、顔を見合わせて笑った。
クロスレビューの評価と合わせて凄くご飯が進む
またイチから仲良くなれば良いというのがヤマメちゃんらしくて好きです
おおらかでお節介焼きなヤマメのキャラクターが魅力的だと思いました。
底抜けにポジティブなヤマメ、可愛くていじらしいパルスィ、豪放磊落な勇儀と、三者三様のキャラがそれぞれ魅力的に描かれていてとてもよかったです
それにしてもこのヤマメちゃんの胆力、ぜひともあやかりたい
忘れられても前を向けるヤマメが素晴らしいです。
とても面白かったです。
歌で心を通わせるのは万国共通ですね
見ならいたいとさえ思える