「法」
先程からひとりごちているメリーをよそに、私は目の前のレポートをまとめるのに必死になっていた。
特にレポートが多い学科ではないぶん、いざ課題として出されると時間がかかってしまう。
本当ならば、今日は集まってすぐメリーへ報告することがあったのだが、昨日の夜終わるはずのレポートがまだ出来ていないので、お願いして作業をさせてもらっている。
「気」
メリーの独り言の大きさが会話レベルになって来た。
そろそろ切り上げないと彼女は機嫌を斜めにして感情を零してしまう。
その感情をもとに戻すにはなかなかに骨が折れるので、それは避けなければいけない。
あと喫茶店で会話をせずに独り言を放っている女子がいるのも、他人の目から見ると少し危ない気もする。
「ご、ごめんメリー。あとちょっとだから」
「うん」
「モーニングは食べ終わっちゃった? ならケーキでも頼んでて。奢るわ」
「あら、いいの? やったあ! 蓮子に奢ってもらえるなんて嬉しいわ。……あ、琴線」
とりあえずこれでごまかせた。
こちらもあと十分ほどでなんとか出来上がる。
あとは時間との勝負だ。
今はケーキを待つおとなしいメリーが暴れないように、急いで仕上げなければ。
「美味しかった」
「こ、こっちもできた……はあ。つかれたー……」
「お疲れ様。お水あるわよ」
「あれ、余計にもらってくれたの? 助かるわー」
データをクラウドに上げて、タブレットをカバンにしまう。
安らぐはずの喫茶店でこんなに苦しい思いをしているのは、きっと私だけだろう。
「コーヒーのおかわりもらう?」
「もらうー……あー疲れた」
「ちょっと、だらしないわよ。周りも見てるんだから……あ、人の目」
「ねえ、それさっきから何なの?」
メリーがぽつぽつとつぶやいていた不可思議な単語。
先程はレポートに夢中で気にならなかったが、ここまであからさまに言われるとなにかもやもやとしたものが心に残る。
「普段遅刻してばかりの相棒が珍しく早く来たと思ったら、何やらタブレットに食いついてあまりにも暇だったから」
「あ、すみません」
「一人で古今東西をやっていたのよ」
「古今東西? お題に沿って適当な言葉を言うあれ?」
「そう、旧山手線ゲーム」
「琴線、気、法、……人の目?」
単語を振り返ってみたが、その単語を導き出すお題に皆目検討がつかなかった。
「お題なんなの?」
「『ふれるもの』よ」
「……あー、なるほど」
注いでもらったばかりの熱いコーヒーを流し込む。
苦い。
甘味料を入れよう。
もう一口。
うん、これくらいが美味しい。
「ってだいぶ際どいところまで来てるのね」
「だれかが長い間相手してくれなかったからね」
「ご、ごめんて。……でも私もなにかいいたいわ。ふれるもの、でしょ」
ここでメリーが思いつかない気の利いた答えを出して、格好良くしたいものだけど。
「メリー、タブーにふれるは?」
「それは出たわ」
「機微にふれる」
「それも出た」
「えー……たたり、とかは」
「……それもだいぶ序盤に出たわ」
「だいぶんハイレベルね……」
よほど暇だったのだろう。
メリーに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。……が、それも一瞬だ。
そもそも優等生の私がなぜこんな課題に追われることになったのか、そこから言及しても良い気もするが。
「そもそもね」
「はいはいかってるわよ。でも蓮子も何か良い経験をしたでしょう」
「まあ、そうだけど」
「今日の活動はレポートでも古今東西でも無いのよ」
メリーはそう言って、いつの間にか頼んでいたチーズケーキを私の前に差し出した。
一口分を小さなフォークで切り分けて口に運ぶ。
美味しい。
今食べた旧型ケーキに入ってるのは太らない甘味料ではなく、正真正銘体に害のある砂糖だ。
だから疲れた脳に余計にしみる。
ついでに、口を開けて待っている相棒にも一口分分けてやる。
「私がさっき食べたのより美味しい。蓮子ばかりずるいわ」
「ずるいといわれても、ねえ」
「昨日も蓮子ばかりいい目に合うし」
「それはメリーが私を当事者にしたからでしょう。あと別にいい目ではなかった。最悪な目だったわ」
「それはまあ、置いといて」
置いとかれた。
「さあ蓮子、脳に糖分は補給できたかしら。語ってもらうわよ。昨日、何を見たのか、何があったのか、彼と何を話したのか。そしてなんで……ああ、これは後でいいわ」
メリーは大げさに両手を広げて私に笑いかける。
その顔は、その目は、好奇心に侵され、気がふれた狂人のようにも見える。
普段は優等生でも活動は不良な我がサークルが体験した、昨日の事件。
もちろんそれは秘封倶楽部が巻き起こした(巻き込まれた)ものだけど、私にしか体験できなかったこともある。
だから私にはそれを語る必要があった。
答え合わせをする必要があった。
なぜならそれが秘封倶楽部だから。
この事件は、秘封倶楽部のもとへ訪れた、ある一人の依頼者から始まった。
◆
私達のサークルは裏では境界を暴くなんてことをしてるけど、表向きはただのオカルトサークル。
尤も、大学側に申請を出しているわけでもないので、ただの仲良しクラブみたいなものかもしれない。
そんな私達にこうして「依頼」が来るっていうのは非常に珍しいことだ。
「ということで、お父さんのタクシーに乗って欲しいの」
「はあ」
長々と話した依頼者はそう言って私達に視線を渡し、満足そうに冷たい番茶なんかをすすっていた。
ここは大学内の食堂。
今はお昼時のピークも過ぎたので空席が目立つ。
四人がけの机に、私の隣にはメリー、向かいには依頼者が椅子を二つ使って座っていた。
単純に荷物が多い。
椅子に置いたトートバックからはお菓子の箱と化粧品が入っていそうなポーチが見える。
「それで、ええと」
先程ため息と一緒に返事をしたメリーは、両手を合わせて言葉を探している。
というかまず、名前を探している。
「藤野。呼び捨てでいいよ」
「藤野さん、なんで自分でやらないで私達に依頼したの? その、言いづらいけど別に私達って仲良しじゃないわ」
「全然言いづらそうに見えない」
藤野はそう言ってからからと笑う。
確かに、藤野(下の名前は忘れた)は顔は見たことあるけど話したことなど数度しかない、友人というよりも知り合い……
いや、ただの同級生だという程度の存在だ。
むしろ、それも怪しいけど。年上か年下かもしれない。
「ハーンさんって、物事をはっきりいうのね」
「ああ、ごめんなさい。よく言われるわ。日本では気をつけてるんだけど……」
メリーがよく使う、外国人のふり(気まずい相手によく使う)も出たところで私は話を進めるため二人の間に入った。
「藤野さん、それで私達に依頼する理由を聞きたいんだけど」
「ああごめんね。私はほら、これだから」
藤野は金色……よりはベージュ気味の前髪をいじってこちらの様子を伺ってきた。
何を言いたいのかは全くわからない。
メリーの方から「なるほど」と聞こえてきたのは気のせいだろう。
「ごめん、全然わからないわ」
「深泥池の幽霊は、黒の長い髪の持ち主なのよ」
「ああ、だから蓮子に!」
メリーが手をぱんと鳴らして声を上げた。
「そう、宇佐見さんがぴったりなのよ」
「ええ……なんで、他にいっぱいいるでしょう。私はそこまで長髪ってわけじゃないけど」
「そりゃあ女の子で、黒い髪の毛で、髪の長い子はいっぱいいるわ」
でもね、藤野はトートバッグからお菓子を出して続ける。
「オカルトサークルの、って条件をつけると宇佐見さんしかいないのよ」
「なるほどねー」
いつの間にか、メリーは藤野が出したお菓子のご相伴に預かっている。
相変わらず環境適応力のあるやつだ。
「だからお願い。このままだとうちがピンチなの!」
「やりなさいよ蓮子。面白そうよ」
「えー、こういうのは、うーん。気がのらないわ」
「ちなみに前金はこのお菓子ね。ハーンさんが食べてるやつ。結構高いんだから」
「あら。じゃあ蓮子、やらなきゃ契約違反になっちゃう」
「……ちょっと」
ということで私達は藤野の依頼を受けざるを得なくなった、というよりも、最初から答えは決まっていたのかもしれない。
メリーが珍しく乗り気だったからだ。
メリーのことだ、きっとこの依頼も何かの不思議体験につながると思ったのだろう。
バックから出した大量のお菓子を残し、藤野は去っていった。
なかなかにキャラクタが濃いというか、物怖じしない性格のせいで、私は疲弊してしまった。
「面白い子ね。ああいう子なら付き合っても疲れなそう」
「メリーは私と正反対なのね」
「蓮子が考えすぎなのよ。貴方は頭が良い分、余計なことも考えすぎ。はいあーん」
「あーん」
害の無い甘味料が入った駄菓子の味はあまり好きではない。
甘いものを食べたのに、余計に砂糖が欲しくなった。
「さて蓮子、話を整理してよ」
メリーが家に帰りたくないというので(なんとセクシーな台詞だろう!)二人でスーパーで食べ物を買い込み、私の寮で話をすることにした。
メリーは案の定、藤野の依頼をあまり聞いていなかったようで、大根の皮を剥きながらそう言い放ってきた。
「なんで聞いてないのかしら」
「だって、あの子に興味が出たのは髪の毛の話をしてからだから」
「最後しか聞いてなかったのね……まあいいわ。まず、藤野さんのお父さんは、なんとも珍しいタクシー運転手をやってるってのは覚えてる?」
「ああ、藤野って名前だったわね」
予想外の箇所で合いの手が入ったので少々面食らった。
身とほとんど厚さの変わらない大根の皮を水に晒しながら、メリーは続ける。
「それにしても、タクシー運転手なんて素敵だわ」
「まあ滅多に居ないものね。メリーは乗ったことある?」
「無いわね。自動車にだって乗ったこと無いもの。あ、テーマパークではあるけど」
「タクシーなんて、最近は観光地くらいにしか置いてないからね」
そもそも乗るのにいくら掛かるのか、まさか通貨しか使えないわけはないだろうが、そのあたりも気になる。
乗るにあたり一度調べてみないと。
「蓮子、それで?」
「ああ、それで。藤野からの依頼の内容は『幽霊のふりをして、彼女の父親のタクシーに乗ってほしい』という内容」
「ふむ」
「今や観光地の乗り物としても廃れてきたタクシーの遊覧。その復興のためにここらで都市伝説の噂を活性化させてほしいってことね。噂になれば、遊び半分でも客は増える」
「ふうん、でもそんなの」
大根に竹串を刺して遊んでいるメリーが口を尖らせて言う。
「姑息的手段でしょ。すぐに客足は遠のくわ」
「それでいいんじゃない? その中の何パーセントかがリピーターになって、あとは元通り。忙しすぎるのも良くないし」
「なるほどね」
「それに彼女の父親はもうすぐ定年だって言ってたから、最後に夢を見せたいんじゃないの」
「定年? ずいぶん早いのね。上の兄弟がいてももう少し働ける気もするけど……」
「タクシー運転手なんて体力使うでしょう。そんなものなんじゃない?」
ふうん、とメリーは更に口を尖らせる。
可愛らしいが、そろそろ手元の大根がずたぼろになってしまうのでやめて欲しい。
「それでもう一つよ蓮子。その、みぞろがいけっていうのは」
「あら知らない? 知ってると思ってた」
「少しは知ってるわ。伝統的な怪談話でしょう」
メリーの言う通り、深泥池(みぞろがいけ)の都市伝説はかなり昔から語り継がれる怪談話だ。
その頃はタクシーがメインの移動手段に数えられるほどタクシー事業は盛んであった。
なのでそれに伴い、様々な噂や都市伝説が囁かれていたのだろう。
深泥池の都市伝説は、そのルーツになったものだと言われている。
「それ、借りたの?」
「うん。一応全容を知っておいたほうがいいかと思って」
「渋々承諾した割には真面目なのね」
「相棒が頼りないからね」
ひき肉を炒めるフライパンの音が大きくなった気がする。
メリーの怒ってますアピールは放っておいて、タブレットをスクロールする。
深泥池の都市伝説の、具体的な内容は以下の通りだ。
その日は前方を照らす強いライトでも少々頼りなく思えるほどの土砂降りだった。
タクシー運転手の男は、大学病院前で、傘も刺さずに立っていた女を客として乗せる。
女はひどく陰気な雰囲気を醸し出しており、長い黒い髪のため表情も見えない。
運転手が明るく「どこまでいきましょうか?」と聞いてみたが、蚊の鳴くような声で「深泥池まで」と言ったっきり、一言も喋らずにただ窓の外を眺めていたという。
運転手は不審に思ったが、よくあることだ、と特に何も言うことなく目的地へと向かった。
深泥池付近に近づいたので「このあたりの、どこに停めましょうか」と声をかけたものの、女の返事は無い。
「お客さん?」運転手は車を道の端に寄せ、後ろを振り返る。
そこには誰の姿もなく、女が座っていたか場所はぐっしょりと濡れて、代わりに大量の髪の毛が残されているだけだった。
運転手は慌てて警察に駆け込んだが、詳細はわからず。
その頃は髪の毛でDNA鑑定の精度もあまり良くなかったため、女が誰なのかもわからない。
ただ、彼女がタクシーに乗った場所、大学病院ではその日、黒い髪の長い女が亡くなったという話もあったが、その女との関係もわからないままだ。
「こんな感じ。そろそろできた?」
資料を読み終えて顔をあげると、キッチンからこちらを見つめて固まっているメリーの顔が見えた。
手元は動いていない。
「何メリー、怖かったの?」
「……お話はそんなに。ありきたりな話じゃない。でも」
「でも?」
「蓮子の話し方が怖かったわ。淡々と、感情を込めずにただ事実を語るだけ、なにかそれに幽霊めいたものを感じた」
「なあに、それ」
私はあまりに真剣に語るメリーに吹き出してしまった。
しかし、メリーの目は本気でまっすぐだった。
「幽霊むいてるわよ、蓮子」
「そんなのむいててほしくない。ところでまだなの? お腹空いた」
「ああうん、そろそろ」
その日メリーが作った大根とひき肉のカレーは、なんともご飯にあって美味しかった。
大根の形のいびつさは、気にしないことにした。
食後、藤野からもらったお菓子を食べながらテレビを見ていると、先程私が借りた資料を眺めていたメリーがいきなり声を上げた。
「ねえ蓮子! これ、動画が残ってるんじゃない?」
「うん?」
「深泥池つながりで色んなことを調べていたのだけど、当時は動画サイトが流行ってたのよ」
「ふん」
「動画サイトってのは一般人が投稿するやつね。都市伝説になってるってことは、暇な若者が当時の映像が残してるんじゃないかもしれないわ」
「暇な若者」
きっと私達みたいなやつのことだろう。
メリーに言われるがまま、動画サイトで「深泥池」と検索した。
「どう?」
「あまり出てこないわね。学者の研究結果の動画が多いわ。確かに、昔の人間からしたら心霊スポットかもしれないけど、幽霊が否定された現代じゃああそこは貴重な生き物が育つ、学者が好む湿地だもの」
私のタブレットをひったくって、メリーはふてくされたようにページをスクロールする。
メリーの求める暗くて胡散臭い深泥池の動画は見つからないようだ。
仕方がない。
私も何度かあそこを通ったことがあるが、今の深泥池は夜すら明るい観光地のようなものになっているんだから。
「むう」
「ねえメリー、明日藤野に会って、この話は断りましょうよ」
「なんでよ」
「きっと何も起こらないからよ」
「根拠は?」
「無いけど、わかるでしょう。今の深泥池はもう観光地なの。昔みたいに夜が暗くて幽霊に怯えていた時代じゃないのよ」
「それはわかるわ」
「わかるなら、なんで」
「うーん、あのね蓮子。貴方は頭がいいじゃない」
急にどうしたのか。
メリーは頬張っていたお菓子を机に置いて、私の正面へ座り直した。
「蓮子、秘封倶楽部は秘封倶楽部ゆえに、危ない目に何度もあったわ」
「ええ、そうね」
「私が引っ張って危険に飛び込むこともあったし、蓮子が飛び込むこともあった。もちろん意見も何回も割れた」
「間違っていないわ」
「私の突拍子もない行動を咎めてくれたのは聡明な蓮子の論理的な思考のおかげよ。わかる? 私は真っ向勝負の口喧嘩で、貴方に勝てる気がしないの」
絡め手を使っていいならわからないけど、彼女は頬を崩してそう言った。
「メリー、何が言いたいの。私は怒ってないから率直に言ってちょうだい」
「今回の件で、貴方は論理的に否定していないの。実際、蓮子だってさっき『根拠は無い』っていったわ。なにか起きるかも知れないのに」
「そりゃあ可能性の問題だもの、完全な否定っていうのはできないじゃない」
「明るかったら幽霊って出ないのかしら? 幽霊が『時代遅れだから』って主張をしなくなるかしら」
「えー……」
「蓮子は否定する時、細かいことから逃げ道を無くすように私の意見を潰していくわ。でも今回はそれがなかった。蓮子、正直に言って。ひょっとして『なにか嫌な予感』でもしてるんじゃないの」
正直、私はメリーに弱い。
彼女は私を聡明と言うけれど、対人に関して言えば彼女は心を動かすこと、読むことに長けている。
私はそれには敵わない。
そして今回も、ものの見事に彼女は私の心の内を暴いてしまったのだ。
「……はい、わかりました。観念します」
「やっぱりねー」
んふーと勢いよく鼻息が漏れる。
「確かにね、メリーの言う通り、なにか不吉な感じがしてたから嫌だったのよ」
「へえ、どんな?」
「特に明確なものは無いわ。予感だもの」
メリーは先程の緊張感のある真面目な顔をどこかに捨てて、満足そうに新しいお菓子の袋を開封した。
「でも蓮子のそういう嫌な予感は、予感で終わることが多いわよ」
「うんまあ、そうだけど……」
「じゃあいいじゃない」
「うん……あとさ、メリー、実はもう一個隠してた」
「え、何よ」
「動画サイト、これソートを新しい順にしているのよ。古い順にすれば昔の動画も出てくるんじゃない?」
「あー全然気づかなかったわ」
昔、深泥池が心霊スポットと言われていたときのものも。
メリーは熱く話したからか、お菓子を食べすぎたのか、のどが渇いたと言ってキッチンへと下がっていった。
流石に一人で再生するのも怖……味気ないので、メリーの帰りを待つ。
さて、と頭を切り替える。
もうメリーを説得するのは無理だ。自分はこの珍妙な依頼を受けないといけなくなった。
はっきり言って気が全く乗らないが、やると(メリーが)言った以上やらないといけない。
思い切り、大きなため息をついた。
「……蓮子ー」
「うわびっくりした!」
こういう話をしたからか、余計に驚いた。
メリーがキッチンから顔だけをのぞかせている。生首かと思った。
「今日はお風呂、一緒に入りましょう」
「え、メリーひょっとして怖いの?」
「……」
「まさか、本当に?」
「ふふふ、違うわ。幽霊めいた人と一緒に入ったら本当に幽霊に出会えるかと思って」
「……あそ」
「あと、蓮子も怖がってるようだし。お風呂でゆっくり作戦会議をしましょう」
それは照れ隠しでもなく、本気で思っているのだろう。
相変わらず一般人と思考のベクトルが違う。
先ほどよりは小さいため息を付いて立ち上がった。
さて、何かを考えるよりはまずお風呂だ。
一緒に入れるとわかって喜んでいる相棒を見て、やっぱり私は何度めかのため息をついてしまう。
ああ、可愛いなあメリーは。
こうして私達は藤野の依頼をどうこなすかを話すべく、のぼせるまで湯船に浸かることとなったのだ。
「お二人さん、あれがお父さんのタクシーよ」
「すごいわね」
「へえ、レトロな乗り物ねえ。レガシーと言っても良さそうだけど」
前者が私、後者がメリーの反応だ。
決行当日、私たち秘封倶楽部は日が暮れる直前に藤野と合流し、彼女の父のもとへと向かった。
京都駅から三人で丸太町にある大学前あたりまで歩いてみると、ちらほらと自動車の姿が見える。
京都ほど修学旅行生が多い場所はないので、それらの学生を乗せたものがほとんどだが、その中に四人乗りの小さな小さな車が時たま走っている。
あれらがタクシーだろう。
藤野の指差した車は、今は専用の駐車場に停められている。
「なんとあれ、令和に製造された車なのよ」
「令和! そんな昔に作られたの、まだ動くのね」
「あんなのに乗れるなんて、蓮子が羨ましいわ。しかもそんなおめかしして」
果たして本心が何パーセント含まれているのかわからないメリーの称賛を浴びる。
今日の私の格好は、白い長いワンピースと踵の短い黒のパンプスだ。
メリーの希望で帽子もかぶっていないし髪も縛っていない。
これが一般人が想像する、最もスタンダードな幽霊の姿だとメリーは言っていた。
「じゃあおさらい。もう少ししたら、お父さんが休憩から帰ってくるから、すぐさま蓮子ちゃんが飛び乗る。乗ったら目的地を言うわけだけど、もちろん行き先は深泥池ね」
「蓮子、できるだけ幽霊っぽく振る舞うのよ」
「幽霊っぽくって、どうよ」
「喋る時はぼそっと言う感じで、乗ってる時はずっと一点を見つめるとか、常軌を逸した感じで振る舞うの」
「うーん、わかった。やってみる」
「いいね蓮子ちゃん。その格好も似合ってるよ! それで深泥池付近についたら消えていなくなれば良いんだけど、蓮子ちゃん透明化は?」
「……それ答えなきゃだめ?」
「ごめんごめん、透明になって消えるのは無理だから代案だ。代案係のハーンちゃん」
「はーい」
藤野は他人との距離の詰め方が少し早いのだろう。
気づいたらちゃん付けで呼ばれている。
メリーは満更でもない様子だけど、私はまだ少しむず痒い。
「メリー、いつの間にそんな係になってたの?」
「まあね。藤野ちゃん、タクシーってお金は前金制? 後払い?」
「前金制だね。昔は後払いが主流だったらしいんだけど、そうするとわざと遠回りする運転手とかが出てきたらしいから、今は目的地と現在地から換算した金額が自動で出るようになってる。それを目的地を言ったあとに払うわけ」
「なるほどねえ。じゃあ蓮子、これ持って。消えるのは無理なんだから、深泥池についたらゆっくりと降りるしか無いわ。でもシートは濡らして髪の毛を残す必要があるから」
メリーが大きめのカバンから私にもたせたのは、二つの水風船とチャック付きの小さな袋だった。
透明なので中は見えるが、入っている髪の毛は一体……
「この間お風呂入ったときちょっとね」
「え、これマジの私の髪?!」
「そのほうがリアリティ出るじゃない」
「ちょっと、流石にやりすぎなんじゃないの? しかもこの水風船は?」
「なるほど、やるねハーンちゃん。濡らすための水は飲み物の容器とかで良いかなと思ったけど、それだと手ぶらじゃ隠すのはきついし、降りるときにそれを手に持ってるなんてダサすぎる。水風船なら隠しやすいし、水がなくなったあとは手の中とかに隠せるし」
「いやでも、これ持ってタクシー乗ってる時点でおかしくないかしら」
「それはもう、ね。ハーンちゃん」
「ね、藤野ちゃん」
なんだ、気づいたら二人が仲良くなっている気がする。
何か水風船を隠す妙案があるのか。
私は少し頭を捻っている。
考える私に対して、メリーは二つの水風船をいやらしく揉みしだいていた。(しかも満面の笑みで)
ふむ。
『妙案』に気づいた私は、変な汗が出てくるのを抑えられなかった。
「え、そんな屈辱受けなきゃいけないの?」
「蓮子、これは藤野ちゃんのためなのよ。ちゃんと幽霊を演じてきてね」
「あ、お父さん帰ってきたよ!」
「蓮子、はい水風船、早くおっぱいに詰めて」
二つあるのはそういう意味だったようだ。
このことで、メリーはもう私をいかにおもちゃにして遊ぶかがメインの目的になっているというのがわかったので、あとで絶対に何かを奢らせようと思った。
◆
「と、ここまでは齟齬ないよね。そこから藤野とメリーとは離れて、私は一人であのタクシーに乗った」
「ええ、問題ないわ」
ぬるくなったコーヒーを飲み込む。
ここまでは二人の思い出だ。基本的に相違は無いだろう。
少々乾燥してしまったチーズケーキを大きく切り取り、一口食べる。
「あーん」
「あーん」
二人で咀嚼して飲み込む。
さて、本題はこれからだ。
正直、これから話す事は、私にとってとても嫌なことだ。
思い出すだけで鳥肌が立つ。
だが、ともかく話さないと始まらない。
私はコーヒーにもう一度口をつけ、あのあとの事を思い出しながら、ゆっくりと語っていった。
◆
タクシーの側までよると、運転席から一番離れた、後ろの左側のドアが自動で開いた。
「どうぞー」
間延びした声が社内から届く。
どうも、なんて言うのは(多分)幽霊っぽくはないと思うので、無言で車に乗り込んだ。
できるだけ顔を見られたくなかったので、運転席の真後ろに座る。
もちろん、胸には水風船が詰まっている。
最初はかなり無理があると思ったが、相手は男性だ。あまり女性の胸を凝視しないだろう。
メリーはそういうことまで考えていたのだろうか?
「どこに行きましょう?」
「み……深泥池」
「はい、じゃあこちらお願いします」
運転席と後部座席の間のディスプレイに金額が移る。
移動費としては公共の交通機関よりは少し値が張ると感じた。
観光用というのもあるので、これが妥当かもしれないが。
「はい、じゃあ向かいますねー。移動時は揺れる場合もありますのでシートベルトの着用を~」
乗車時の決まり文句であろう言葉を慣れきった感じで言い切り、私と藤野の父を乗せたタクシーは、深泥池へと出発した。
道中、もし声をかけられたらどうしようかと思ったが、その心配は杞憂に終わった。
藤野の父は特にこちらを注視することもなく、慣れきった様子で運転をしている。
怪しまれないのは結構だが、今回の目的は藤野の父に幽霊だと思わせること。
流石に客が去ったあとのシートが濡れて、髪の毛まみれになってたら少しの騒ぎになるだろうが、せめてもう少し幽霊だと思われたいという気持ちも湧いてきた。
せっかくだから、という貧乏性のそれだろう。
「あと数分でつきますからねー」
その言葉に思わず「はーい」と答えそうになったが、それは間違いなく幽霊っぽくはない。
私は少しだけ考えたあと、小さく「はい……」と答えた。
聞こえているかは微妙だが……
そんな事をもやもやと考えていると。
「あの、もしかしたらなんですけど」
急に声をかけられた。
予想だにしていなかったので、なんと答えようかと迷っていると、藤野の父は更にこう続けた。
「なつきに何か頼まれました? 幽霊のふりをしてくれとかなんとかって」
なつき、というのが一瞬人の名前かどうかも理解できなかった。
少しの間考えて、それが藤野のことだとわかると、急に冷静になることが出来た。
「……それは」
「ひょっとしてあたりですか? いやね、なつきのやつ、今日の休憩時間とか、シフトのこととかいやに聞いてくるもんで、何かしてくるんじゃないかと思ってたんですよ」
「……」
「お客さんの行き先聞いてピンと来ました。今は深泥池で催しもやってないし、乗ってきたのは手ぶらの女の子、観光客でもない。格好からして、幽霊の真似して噂でも立てて客を集めようって魂胆ですか」
この父あって、あの子あり。
藤野の作戦は父にはばればれだったようだ。
私は大きく息を吐いて、背もたれに寄りかかった。
とんだ茶番だ。
情けなくなってくる。
下を向くと見える、私とは思えないほどの胸の主張が本当に悲しくなって涙が出てきそうになった。
「バレちゃいましたか……」
「やっぱり、そうでしたか。全く、余計なお世話だって言うのに。すみませんね娘が何かご迷惑をかけたようで」
「いえそれは……。いや、そうです、迷惑です」
「はははっ、お客さん正直だ。……と、深泥池に着きました。ああこれ」
「え?」
「料金は返しますよ。娘のせいですから、気にしないで」
「……ありがとうございます」
父から受け取った小銭を見て、またため息が出た。
なんともまあ、つまらない結末となった。
藤野の父にお礼を言って、私はタクシーを降りる。
外はすっかり日が暮れて、深泥池の周りには取り付けられたライトが煌々と光っている。
やはり、ここの夜は明るすぎる。
「お客さん」
後ろから声がかけられた。
Uターンした藤野の父が、運転席の窓からこちらを覗いている。
「どうせ私も帰るから、乗った所まで乗せていってもいいですよ」
「お気遣いありがとうございます。ここで友達と待ち合わせしてますので大丈夫です」
「ああそうか、それじゃ、私は。娘にはきつく言っときますんで。ご迷惑かけました」
「とんでもないです。では」
「この辺り、夜でも明るいけど人あんまり居ないから気をつけてね。二人共可愛いんだから。それじゃ」
そう言って、藤野の父は運転席の窓を閉めた。
エンジンの音が遠ざかってゆく。合わせて私の血の気も引いてゆく。
いま、藤野の父はなんと言った?
何かの気配を感じ、恐る恐る後ろを振り返る。
だれも居ない。
しかし、一度その感情に陥ってしまった以上、私はその場に居る勇気はなかった。
風が吹いて、深泥池のまわりの草木がさああと鳴いた。
それをきっかけに、私は駆け出した。
「ひ、ひいいいいいいい」
本当に情けない声だと思った。
自分の声とは思えないほどの情けない声。
まさか! まさか! 本当に?! 藤野の父には見えていたのか!
胸元の水風船はいつの間にかずれ落ちてなくっている。
走りづらいパンプスを履いてきたことをしぬほど後悔した。
泣きながら、情けない声を漏らしながら、なりふり構わず駆け出した。
落ち着いたのは、駅前について、通行人がいくつか見えたときだ。
すれ違う通行人は私の姿を見て若干引いていたようにも思える。
顔は涙で崩れ、走ったために髪もぼさぼさだ。
靴ずれもしたので片足を引きずっている。幽霊どころか妖怪だ。
私はそこで、やって携帯を取り出した。
メリーから来ていた「どこにいるの?」というメッセージに「明日話す。もう帰る」とだけ返して、私はすぐさま帰路についた。
一刻も早く家に帰って布団にくるまって寝たかったのだ。
朝が来ること、太陽の光が恋しくなったのだ。
そのせいで私は昨日の晩、やるはずのレポートをそっちのけで布団に入ったのである。
これが、昨日の出来事だ。
私だけが体験した、幽霊騒動の話である。
◆
「とまあ、こんな感じ」
「とてもおもしろかった。なるほどね」
蓮子は話し疲れたという風に、大きく息を吐いた。
そして、冷たそうなコーヒーに口をつけ、思い切り額に皺を寄せる。
「まずい。コーヒーおかわりもらうけど、メリーはどうする?」
「私はいいわ」
「ああそう。それで、メリーはどう思った?」
「……まずは蓮子の考えから聴かせて頂戴」
「うん、私の考えは二つ」
蓮子はピースを作って続ける。
「一つは、藤野のお父さんのウソ。私達が変なことしたから驚かそうとして『二人共』なんて言ったのよ。見るからに、というか娘を見ればわかるけど陽気そうな人だったからありえるわ」
「うん、もう一つは?」
「本当に、藤野のお父さんには幽霊が見えていた。私の隣に座ってたのかしら?」
蓮子はそういって自信ありげに笑う。
蓮子らしい、しっかり客観的に見ている考えだ。
「メリーはどう思う?」
「私も蓮子と一緒よ。……でも、もう少し考えさせて」
「うん、何を?」
「まあいいから」
ふうん、と不思議そうにして、蓮子はタブレットを取り出した。
私は深く椅子に座り、額に手をあてた。
この後の予定をどうするか、真剣に考える必要がある。
「あっ!」
「……ちょっと蓮子、びっくりするから大きな声出さないで。どうしたの」
「……レポート、もう一個あった」
みるみる蓮子の顔が青くなっていった。
彼女は「ごめん、ケーキもう一個食べてて!」と言ってタブレットに食いつくように文字を打ち込み始めた。
まあちょうどいい。
私も少し考える時間が必要だから。
「ああ、やばいやばい……」
「……ふれるもの、ふれるもの。……外気」
「メリー、また古今東西?」
「うん、黙ってると、ちょっともってかれそうなのよ」
「どういうこと?」
「気にしないで。蓮子はレポートを仕上げなさい」
先程蓮子が言った二つの考え。
私には、どちらが正解かはわかっている。
正解は「後者」だ。
藤野の父は、間違いなく幽霊を見ていたはずだ。
「ええと、ふれるもの、ふれるもの」
じゃなければ、今蓮子の後ろにいる、私だけが見えている髪の長い女に説明がつかない。
彼女は私達をじっと見つめている。
そして、何かをつぶやいている。
きっと、それは聞いてはいけない。
何を言っているかはわからないけれど、耳を貸しては絶対にいけないのだ。
「ふれるもの、ふれるもの。逆鱗。……あ」
「どうしたの?」
「……なんでもない」
そう、蓮子は、私達は、彼女の逆鱗にふれたのだ。
面白半分で自分の真似をしている愚かな生者に、怒りを感じているのだ。
「ふれるもの、ふれるもの」
「メリー、独り言大きいんじゃない?」
「でも、そうしないと」
聞こえてしまうから。
彼女がしきりにつぶやいている、恨みや辛み。呪われた言葉。
それを聞いてしまったら、私はどうなってしまうのだろう。
まずは、蓮子に気付かれないように、お祓いをしにいかないと。
昨日の様子を見る限り、蓮子が彼女に気づいてしまったらそれこそパニックになってしまう。
私は、できるだけ情報をまとめようと、手元のノートに文字を書きなぐった。
深泥池、都市伝説、大学病院、髪の長い女。
きっとこれらはお祓いのヒントになるだろう。
そこで、気づいてしまった。
気づかないほうが良さそうなことに気づいてしまったのだ。
みぞろがいけ。
深泥池。
読み方を変えると……
「しん、でい、いけ……しんでいいけ。死んでいけ?」
その瞬間、蓮子の後ろの女から微かに笑い声が聞こえた気がした。
私はもう限界で、とうとう先程食べたチーズケーキを吐き出してしまった。
ばかのひ
先程からひとりごちているメリーをよそに、私は目の前のレポートをまとめるのに必死になっていた。
特にレポートが多い学科ではないぶん、いざ課題として出されると時間がかかってしまう。
本当ならば、今日は集まってすぐメリーへ報告することがあったのだが、昨日の夜終わるはずのレポートがまだ出来ていないので、お願いして作業をさせてもらっている。
「気」
メリーの独り言の大きさが会話レベルになって来た。
そろそろ切り上げないと彼女は機嫌を斜めにして感情を零してしまう。
その感情をもとに戻すにはなかなかに骨が折れるので、それは避けなければいけない。
あと喫茶店で会話をせずに独り言を放っている女子がいるのも、他人の目から見ると少し危ない気もする。
「ご、ごめんメリー。あとちょっとだから」
「うん」
「モーニングは食べ終わっちゃった? ならケーキでも頼んでて。奢るわ」
「あら、いいの? やったあ! 蓮子に奢ってもらえるなんて嬉しいわ。……あ、琴線」
とりあえずこれでごまかせた。
こちらもあと十分ほどでなんとか出来上がる。
あとは時間との勝負だ。
今はケーキを待つおとなしいメリーが暴れないように、急いで仕上げなければ。
「美味しかった」
「こ、こっちもできた……はあ。つかれたー……」
「お疲れ様。お水あるわよ」
「あれ、余計にもらってくれたの? 助かるわー」
データをクラウドに上げて、タブレットをカバンにしまう。
安らぐはずの喫茶店でこんなに苦しい思いをしているのは、きっと私だけだろう。
「コーヒーのおかわりもらう?」
「もらうー……あー疲れた」
「ちょっと、だらしないわよ。周りも見てるんだから……あ、人の目」
「ねえ、それさっきから何なの?」
メリーがぽつぽつとつぶやいていた不可思議な単語。
先程はレポートに夢中で気にならなかったが、ここまであからさまに言われるとなにかもやもやとしたものが心に残る。
「普段遅刻してばかりの相棒が珍しく早く来たと思ったら、何やらタブレットに食いついてあまりにも暇だったから」
「あ、すみません」
「一人で古今東西をやっていたのよ」
「古今東西? お題に沿って適当な言葉を言うあれ?」
「そう、旧山手線ゲーム」
「琴線、気、法、……人の目?」
単語を振り返ってみたが、その単語を導き出すお題に皆目検討がつかなかった。
「お題なんなの?」
「『ふれるもの』よ」
「……あー、なるほど」
注いでもらったばかりの熱いコーヒーを流し込む。
苦い。
甘味料を入れよう。
もう一口。
うん、これくらいが美味しい。
「ってだいぶ際どいところまで来てるのね」
「だれかが長い間相手してくれなかったからね」
「ご、ごめんて。……でも私もなにかいいたいわ。ふれるもの、でしょ」
ここでメリーが思いつかない気の利いた答えを出して、格好良くしたいものだけど。
「メリー、タブーにふれるは?」
「それは出たわ」
「機微にふれる」
「それも出た」
「えー……たたり、とかは」
「……それもだいぶ序盤に出たわ」
「だいぶんハイレベルね……」
よほど暇だったのだろう。
メリーに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。……が、それも一瞬だ。
そもそも優等生の私がなぜこんな課題に追われることになったのか、そこから言及しても良い気もするが。
「そもそもね」
「はいはいかってるわよ。でも蓮子も何か良い経験をしたでしょう」
「まあ、そうだけど」
「今日の活動はレポートでも古今東西でも無いのよ」
メリーはそう言って、いつの間にか頼んでいたチーズケーキを私の前に差し出した。
一口分を小さなフォークで切り分けて口に運ぶ。
美味しい。
今食べた旧型ケーキに入ってるのは太らない甘味料ではなく、正真正銘体に害のある砂糖だ。
だから疲れた脳に余計にしみる。
ついでに、口を開けて待っている相棒にも一口分分けてやる。
「私がさっき食べたのより美味しい。蓮子ばかりずるいわ」
「ずるいといわれても、ねえ」
「昨日も蓮子ばかりいい目に合うし」
「それはメリーが私を当事者にしたからでしょう。あと別にいい目ではなかった。最悪な目だったわ」
「それはまあ、置いといて」
置いとかれた。
「さあ蓮子、脳に糖分は補給できたかしら。語ってもらうわよ。昨日、何を見たのか、何があったのか、彼と何を話したのか。そしてなんで……ああ、これは後でいいわ」
メリーは大げさに両手を広げて私に笑いかける。
その顔は、その目は、好奇心に侵され、気がふれた狂人のようにも見える。
普段は優等生でも活動は不良な我がサークルが体験した、昨日の事件。
もちろんそれは秘封倶楽部が巻き起こした(巻き込まれた)ものだけど、私にしか体験できなかったこともある。
だから私にはそれを語る必要があった。
答え合わせをする必要があった。
なぜならそれが秘封倶楽部だから。
この事件は、秘封倶楽部のもとへ訪れた、ある一人の依頼者から始まった。
◆
私達のサークルは裏では境界を暴くなんてことをしてるけど、表向きはただのオカルトサークル。
尤も、大学側に申請を出しているわけでもないので、ただの仲良しクラブみたいなものかもしれない。
そんな私達にこうして「依頼」が来るっていうのは非常に珍しいことだ。
「ということで、お父さんのタクシーに乗って欲しいの」
「はあ」
長々と話した依頼者はそう言って私達に視線を渡し、満足そうに冷たい番茶なんかをすすっていた。
ここは大学内の食堂。
今はお昼時のピークも過ぎたので空席が目立つ。
四人がけの机に、私の隣にはメリー、向かいには依頼者が椅子を二つ使って座っていた。
単純に荷物が多い。
椅子に置いたトートバックからはお菓子の箱と化粧品が入っていそうなポーチが見える。
「それで、ええと」
先程ため息と一緒に返事をしたメリーは、両手を合わせて言葉を探している。
というかまず、名前を探している。
「藤野。呼び捨てでいいよ」
「藤野さん、なんで自分でやらないで私達に依頼したの? その、言いづらいけど別に私達って仲良しじゃないわ」
「全然言いづらそうに見えない」
藤野はそう言ってからからと笑う。
確かに、藤野(下の名前は忘れた)は顔は見たことあるけど話したことなど数度しかない、友人というよりも知り合い……
いや、ただの同級生だという程度の存在だ。
むしろ、それも怪しいけど。年上か年下かもしれない。
「ハーンさんって、物事をはっきりいうのね」
「ああ、ごめんなさい。よく言われるわ。日本では気をつけてるんだけど……」
メリーがよく使う、外国人のふり(気まずい相手によく使う)も出たところで私は話を進めるため二人の間に入った。
「藤野さん、それで私達に依頼する理由を聞きたいんだけど」
「ああごめんね。私はほら、これだから」
藤野は金色……よりはベージュ気味の前髪をいじってこちらの様子を伺ってきた。
何を言いたいのかは全くわからない。
メリーの方から「なるほど」と聞こえてきたのは気のせいだろう。
「ごめん、全然わからないわ」
「深泥池の幽霊は、黒の長い髪の持ち主なのよ」
「ああ、だから蓮子に!」
メリーが手をぱんと鳴らして声を上げた。
「そう、宇佐見さんがぴったりなのよ」
「ええ……なんで、他にいっぱいいるでしょう。私はそこまで長髪ってわけじゃないけど」
「そりゃあ女の子で、黒い髪の毛で、髪の長い子はいっぱいいるわ」
でもね、藤野はトートバッグからお菓子を出して続ける。
「オカルトサークルの、って条件をつけると宇佐見さんしかいないのよ」
「なるほどねー」
いつの間にか、メリーは藤野が出したお菓子のご相伴に預かっている。
相変わらず環境適応力のあるやつだ。
「だからお願い。このままだとうちがピンチなの!」
「やりなさいよ蓮子。面白そうよ」
「えー、こういうのは、うーん。気がのらないわ」
「ちなみに前金はこのお菓子ね。ハーンさんが食べてるやつ。結構高いんだから」
「あら。じゃあ蓮子、やらなきゃ契約違反になっちゃう」
「……ちょっと」
ということで私達は藤野の依頼を受けざるを得なくなった、というよりも、最初から答えは決まっていたのかもしれない。
メリーが珍しく乗り気だったからだ。
メリーのことだ、きっとこの依頼も何かの不思議体験につながると思ったのだろう。
バックから出した大量のお菓子を残し、藤野は去っていった。
なかなかにキャラクタが濃いというか、物怖じしない性格のせいで、私は疲弊してしまった。
「面白い子ね。ああいう子なら付き合っても疲れなそう」
「メリーは私と正反対なのね」
「蓮子が考えすぎなのよ。貴方は頭が良い分、余計なことも考えすぎ。はいあーん」
「あーん」
害の無い甘味料が入った駄菓子の味はあまり好きではない。
甘いものを食べたのに、余計に砂糖が欲しくなった。
「さて蓮子、話を整理してよ」
メリーが家に帰りたくないというので(なんとセクシーな台詞だろう!)二人でスーパーで食べ物を買い込み、私の寮で話をすることにした。
メリーは案の定、藤野の依頼をあまり聞いていなかったようで、大根の皮を剥きながらそう言い放ってきた。
「なんで聞いてないのかしら」
「だって、あの子に興味が出たのは髪の毛の話をしてからだから」
「最後しか聞いてなかったのね……まあいいわ。まず、藤野さんのお父さんは、なんとも珍しいタクシー運転手をやってるってのは覚えてる?」
「ああ、藤野って名前だったわね」
予想外の箇所で合いの手が入ったので少々面食らった。
身とほとんど厚さの変わらない大根の皮を水に晒しながら、メリーは続ける。
「それにしても、タクシー運転手なんて素敵だわ」
「まあ滅多に居ないものね。メリーは乗ったことある?」
「無いわね。自動車にだって乗ったこと無いもの。あ、テーマパークではあるけど」
「タクシーなんて、最近は観光地くらいにしか置いてないからね」
そもそも乗るのにいくら掛かるのか、まさか通貨しか使えないわけはないだろうが、そのあたりも気になる。
乗るにあたり一度調べてみないと。
「蓮子、それで?」
「ああ、それで。藤野からの依頼の内容は『幽霊のふりをして、彼女の父親のタクシーに乗ってほしい』という内容」
「ふむ」
「今や観光地の乗り物としても廃れてきたタクシーの遊覧。その復興のためにここらで都市伝説の噂を活性化させてほしいってことね。噂になれば、遊び半分でも客は増える」
「ふうん、でもそんなの」
大根に竹串を刺して遊んでいるメリーが口を尖らせて言う。
「姑息的手段でしょ。すぐに客足は遠のくわ」
「それでいいんじゃない? その中の何パーセントかがリピーターになって、あとは元通り。忙しすぎるのも良くないし」
「なるほどね」
「それに彼女の父親はもうすぐ定年だって言ってたから、最後に夢を見せたいんじゃないの」
「定年? ずいぶん早いのね。上の兄弟がいてももう少し働ける気もするけど……」
「タクシー運転手なんて体力使うでしょう。そんなものなんじゃない?」
ふうん、とメリーは更に口を尖らせる。
可愛らしいが、そろそろ手元の大根がずたぼろになってしまうのでやめて欲しい。
「それでもう一つよ蓮子。その、みぞろがいけっていうのは」
「あら知らない? 知ってると思ってた」
「少しは知ってるわ。伝統的な怪談話でしょう」
メリーの言う通り、深泥池(みぞろがいけ)の都市伝説はかなり昔から語り継がれる怪談話だ。
その頃はタクシーがメインの移動手段に数えられるほどタクシー事業は盛んであった。
なのでそれに伴い、様々な噂や都市伝説が囁かれていたのだろう。
深泥池の都市伝説は、そのルーツになったものだと言われている。
「それ、借りたの?」
「うん。一応全容を知っておいたほうがいいかと思って」
「渋々承諾した割には真面目なのね」
「相棒が頼りないからね」
ひき肉を炒めるフライパンの音が大きくなった気がする。
メリーの怒ってますアピールは放っておいて、タブレットをスクロールする。
深泥池の都市伝説の、具体的な内容は以下の通りだ。
その日は前方を照らす強いライトでも少々頼りなく思えるほどの土砂降りだった。
タクシー運転手の男は、大学病院前で、傘も刺さずに立っていた女を客として乗せる。
女はひどく陰気な雰囲気を醸し出しており、長い黒い髪のため表情も見えない。
運転手が明るく「どこまでいきましょうか?」と聞いてみたが、蚊の鳴くような声で「深泥池まで」と言ったっきり、一言も喋らずにただ窓の外を眺めていたという。
運転手は不審に思ったが、よくあることだ、と特に何も言うことなく目的地へと向かった。
深泥池付近に近づいたので「このあたりの、どこに停めましょうか」と声をかけたものの、女の返事は無い。
「お客さん?」運転手は車を道の端に寄せ、後ろを振り返る。
そこには誰の姿もなく、女が座っていたか場所はぐっしょりと濡れて、代わりに大量の髪の毛が残されているだけだった。
運転手は慌てて警察に駆け込んだが、詳細はわからず。
その頃は髪の毛でDNA鑑定の精度もあまり良くなかったため、女が誰なのかもわからない。
ただ、彼女がタクシーに乗った場所、大学病院ではその日、黒い髪の長い女が亡くなったという話もあったが、その女との関係もわからないままだ。
「こんな感じ。そろそろできた?」
資料を読み終えて顔をあげると、キッチンからこちらを見つめて固まっているメリーの顔が見えた。
手元は動いていない。
「何メリー、怖かったの?」
「……お話はそんなに。ありきたりな話じゃない。でも」
「でも?」
「蓮子の話し方が怖かったわ。淡々と、感情を込めずにただ事実を語るだけ、なにかそれに幽霊めいたものを感じた」
「なあに、それ」
私はあまりに真剣に語るメリーに吹き出してしまった。
しかし、メリーの目は本気でまっすぐだった。
「幽霊むいてるわよ、蓮子」
「そんなのむいててほしくない。ところでまだなの? お腹空いた」
「ああうん、そろそろ」
その日メリーが作った大根とひき肉のカレーは、なんともご飯にあって美味しかった。
大根の形のいびつさは、気にしないことにした。
食後、藤野からもらったお菓子を食べながらテレビを見ていると、先程私が借りた資料を眺めていたメリーがいきなり声を上げた。
「ねえ蓮子! これ、動画が残ってるんじゃない?」
「うん?」
「深泥池つながりで色んなことを調べていたのだけど、当時は動画サイトが流行ってたのよ」
「ふん」
「動画サイトってのは一般人が投稿するやつね。都市伝説になってるってことは、暇な若者が当時の映像が残してるんじゃないかもしれないわ」
「暇な若者」
きっと私達みたいなやつのことだろう。
メリーに言われるがまま、動画サイトで「深泥池」と検索した。
「どう?」
「あまり出てこないわね。学者の研究結果の動画が多いわ。確かに、昔の人間からしたら心霊スポットかもしれないけど、幽霊が否定された現代じゃああそこは貴重な生き物が育つ、学者が好む湿地だもの」
私のタブレットをひったくって、メリーはふてくされたようにページをスクロールする。
メリーの求める暗くて胡散臭い深泥池の動画は見つからないようだ。
仕方がない。
私も何度かあそこを通ったことがあるが、今の深泥池は夜すら明るい観光地のようなものになっているんだから。
「むう」
「ねえメリー、明日藤野に会って、この話は断りましょうよ」
「なんでよ」
「きっと何も起こらないからよ」
「根拠は?」
「無いけど、わかるでしょう。今の深泥池はもう観光地なの。昔みたいに夜が暗くて幽霊に怯えていた時代じゃないのよ」
「それはわかるわ」
「わかるなら、なんで」
「うーん、あのね蓮子。貴方は頭がいいじゃない」
急にどうしたのか。
メリーは頬張っていたお菓子を机に置いて、私の正面へ座り直した。
「蓮子、秘封倶楽部は秘封倶楽部ゆえに、危ない目に何度もあったわ」
「ええ、そうね」
「私が引っ張って危険に飛び込むこともあったし、蓮子が飛び込むこともあった。もちろん意見も何回も割れた」
「間違っていないわ」
「私の突拍子もない行動を咎めてくれたのは聡明な蓮子の論理的な思考のおかげよ。わかる? 私は真っ向勝負の口喧嘩で、貴方に勝てる気がしないの」
絡め手を使っていいならわからないけど、彼女は頬を崩してそう言った。
「メリー、何が言いたいの。私は怒ってないから率直に言ってちょうだい」
「今回の件で、貴方は論理的に否定していないの。実際、蓮子だってさっき『根拠は無い』っていったわ。なにか起きるかも知れないのに」
「そりゃあ可能性の問題だもの、完全な否定っていうのはできないじゃない」
「明るかったら幽霊って出ないのかしら? 幽霊が『時代遅れだから』って主張をしなくなるかしら」
「えー……」
「蓮子は否定する時、細かいことから逃げ道を無くすように私の意見を潰していくわ。でも今回はそれがなかった。蓮子、正直に言って。ひょっとして『なにか嫌な予感』でもしてるんじゃないの」
正直、私はメリーに弱い。
彼女は私を聡明と言うけれど、対人に関して言えば彼女は心を動かすこと、読むことに長けている。
私はそれには敵わない。
そして今回も、ものの見事に彼女は私の心の内を暴いてしまったのだ。
「……はい、わかりました。観念します」
「やっぱりねー」
んふーと勢いよく鼻息が漏れる。
「確かにね、メリーの言う通り、なにか不吉な感じがしてたから嫌だったのよ」
「へえ、どんな?」
「特に明確なものは無いわ。予感だもの」
メリーは先程の緊張感のある真面目な顔をどこかに捨てて、満足そうに新しいお菓子の袋を開封した。
「でも蓮子のそういう嫌な予感は、予感で終わることが多いわよ」
「うんまあ、そうだけど……」
「じゃあいいじゃない」
「うん……あとさ、メリー、実はもう一個隠してた」
「え、何よ」
「動画サイト、これソートを新しい順にしているのよ。古い順にすれば昔の動画も出てくるんじゃない?」
「あー全然気づかなかったわ」
昔、深泥池が心霊スポットと言われていたときのものも。
メリーは熱く話したからか、お菓子を食べすぎたのか、のどが渇いたと言ってキッチンへと下がっていった。
流石に一人で再生するのも怖……味気ないので、メリーの帰りを待つ。
さて、と頭を切り替える。
もうメリーを説得するのは無理だ。自分はこの珍妙な依頼を受けないといけなくなった。
はっきり言って気が全く乗らないが、やると(メリーが)言った以上やらないといけない。
思い切り、大きなため息をついた。
「……蓮子ー」
「うわびっくりした!」
こういう話をしたからか、余計に驚いた。
メリーがキッチンから顔だけをのぞかせている。生首かと思った。
「今日はお風呂、一緒に入りましょう」
「え、メリーひょっとして怖いの?」
「……」
「まさか、本当に?」
「ふふふ、違うわ。幽霊めいた人と一緒に入ったら本当に幽霊に出会えるかと思って」
「……あそ」
「あと、蓮子も怖がってるようだし。お風呂でゆっくり作戦会議をしましょう」
それは照れ隠しでもなく、本気で思っているのだろう。
相変わらず一般人と思考のベクトルが違う。
先ほどよりは小さいため息を付いて立ち上がった。
さて、何かを考えるよりはまずお風呂だ。
一緒に入れるとわかって喜んでいる相棒を見て、やっぱり私は何度めかのため息をついてしまう。
ああ、可愛いなあメリーは。
こうして私達は藤野の依頼をどうこなすかを話すべく、のぼせるまで湯船に浸かることとなったのだ。
「お二人さん、あれがお父さんのタクシーよ」
「すごいわね」
「へえ、レトロな乗り物ねえ。レガシーと言っても良さそうだけど」
前者が私、後者がメリーの反応だ。
決行当日、私たち秘封倶楽部は日が暮れる直前に藤野と合流し、彼女の父のもとへと向かった。
京都駅から三人で丸太町にある大学前あたりまで歩いてみると、ちらほらと自動車の姿が見える。
京都ほど修学旅行生が多い場所はないので、それらの学生を乗せたものがほとんどだが、その中に四人乗りの小さな小さな車が時たま走っている。
あれらがタクシーだろう。
藤野の指差した車は、今は専用の駐車場に停められている。
「なんとあれ、令和に製造された車なのよ」
「令和! そんな昔に作られたの、まだ動くのね」
「あんなのに乗れるなんて、蓮子が羨ましいわ。しかもそんなおめかしして」
果たして本心が何パーセント含まれているのかわからないメリーの称賛を浴びる。
今日の私の格好は、白い長いワンピースと踵の短い黒のパンプスだ。
メリーの希望で帽子もかぶっていないし髪も縛っていない。
これが一般人が想像する、最もスタンダードな幽霊の姿だとメリーは言っていた。
「じゃあおさらい。もう少ししたら、お父さんが休憩から帰ってくるから、すぐさま蓮子ちゃんが飛び乗る。乗ったら目的地を言うわけだけど、もちろん行き先は深泥池ね」
「蓮子、できるだけ幽霊っぽく振る舞うのよ」
「幽霊っぽくって、どうよ」
「喋る時はぼそっと言う感じで、乗ってる時はずっと一点を見つめるとか、常軌を逸した感じで振る舞うの」
「うーん、わかった。やってみる」
「いいね蓮子ちゃん。その格好も似合ってるよ! それで深泥池付近についたら消えていなくなれば良いんだけど、蓮子ちゃん透明化は?」
「……それ答えなきゃだめ?」
「ごめんごめん、透明になって消えるのは無理だから代案だ。代案係のハーンちゃん」
「はーい」
藤野は他人との距離の詰め方が少し早いのだろう。
気づいたらちゃん付けで呼ばれている。
メリーは満更でもない様子だけど、私はまだ少しむず痒い。
「メリー、いつの間にそんな係になってたの?」
「まあね。藤野ちゃん、タクシーってお金は前金制? 後払い?」
「前金制だね。昔は後払いが主流だったらしいんだけど、そうするとわざと遠回りする運転手とかが出てきたらしいから、今は目的地と現在地から換算した金額が自動で出るようになってる。それを目的地を言ったあとに払うわけ」
「なるほどねえ。じゃあ蓮子、これ持って。消えるのは無理なんだから、深泥池についたらゆっくりと降りるしか無いわ。でもシートは濡らして髪の毛を残す必要があるから」
メリーが大きめのカバンから私にもたせたのは、二つの水風船とチャック付きの小さな袋だった。
透明なので中は見えるが、入っている髪の毛は一体……
「この間お風呂入ったときちょっとね」
「え、これマジの私の髪?!」
「そのほうがリアリティ出るじゃない」
「ちょっと、流石にやりすぎなんじゃないの? しかもこの水風船は?」
「なるほど、やるねハーンちゃん。濡らすための水は飲み物の容器とかで良いかなと思ったけど、それだと手ぶらじゃ隠すのはきついし、降りるときにそれを手に持ってるなんてダサすぎる。水風船なら隠しやすいし、水がなくなったあとは手の中とかに隠せるし」
「いやでも、これ持ってタクシー乗ってる時点でおかしくないかしら」
「それはもう、ね。ハーンちゃん」
「ね、藤野ちゃん」
なんだ、気づいたら二人が仲良くなっている気がする。
何か水風船を隠す妙案があるのか。
私は少し頭を捻っている。
考える私に対して、メリーは二つの水風船をいやらしく揉みしだいていた。(しかも満面の笑みで)
ふむ。
『妙案』に気づいた私は、変な汗が出てくるのを抑えられなかった。
「え、そんな屈辱受けなきゃいけないの?」
「蓮子、これは藤野ちゃんのためなのよ。ちゃんと幽霊を演じてきてね」
「あ、お父さん帰ってきたよ!」
「蓮子、はい水風船、早くおっぱいに詰めて」
二つあるのはそういう意味だったようだ。
このことで、メリーはもう私をいかにおもちゃにして遊ぶかがメインの目的になっているというのがわかったので、あとで絶対に何かを奢らせようと思った。
◆
「と、ここまでは齟齬ないよね。そこから藤野とメリーとは離れて、私は一人であのタクシーに乗った」
「ええ、問題ないわ」
ぬるくなったコーヒーを飲み込む。
ここまでは二人の思い出だ。基本的に相違は無いだろう。
少々乾燥してしまったチーズケーキを大きく切り取り、一口食べる。
「あーん」
「あーん」
二人で咀嚼して飲み込む。
さて、本題はこれからだ。
正直、これから話す事は、私にとってとても嫌なことだ。
思い出すだけで鳥肌が立つ。
だが、ともかく話さないと始まらない。
私はコーヒーにもう一度口をつけ、あのあとの事を思い出しながら、ゆっくりと語っていった。
◆
タクシーの側までよると、運転席から一番離れた、後ろの左側のドアが自動で開いた。
「どうぞー」
間延びした声が社内から届く。
どうも、なんて言うのは(多分)幽霊っぽくはないと思うので、無言で車に乗り込んだ。
できるだけ顔を見られたくなかったので、運転席の真後ろに座る。
もちろん、胸には水風船が詰まっている。
最初はかなり無理があると思ったが、相手は男性だ。あまり女性の胸を凝視しないだろう。
メリーはそういうことまで考えていたのだろうか?
「どこに行きましょう?」
「み……深泥池」
「はい、じゃあこちらお願いします」
運転席と後部座席の間のディスプレイに金額が移る。
移動費としては公共の交通機関よりは少し値が張ると感じた。
観光用というのもあるので、これが妥当かもしれないが。
「はい、じゃあ向かいますねー。移動時は揺れる場合もありますのでシートベルトの着用を~」
乗車時の決まり文句であろう言葉を慣れきった感じで言い切り、私と藤野の父を乗せたタクシーは、深泥池へと出発した。
道中、もし声をかけられたらどうしようかと思ったが、その心配は杞憂に終わった。
藤野の父は特にこちらを注視することもなく、慣れきった様子で運転をしている。
怪しまれないのは結構だが、今回の目的は藤野の父に幽霊だと思わせること。
流石に客が去ったあとのシートが濡れて、髪の毛まみれになってたら少しの騒ぎになるだろうが、せめてもう少し幽霊だと思われたいという気持ちも湧いてきた。
せっかくだから、という貧乏性のそれだろう。
「あと数分でつきますからねー」
その言葉に思わず「はーい」と答えそうになったが、それは間違いなく幽霊っぽくはない。
私は少しだけ考えたあと、小さく「はい……」と答えた。
聞こえているかは微妙だが……
そんな事をもやもやと考えていると。
「あの、もしかしたらなんですけど」
急に声をかけられた。
予想だにしていなかったので、なんと答えようかと迷っていると、藤野の父は更にこう続けた。
「なつきに何か頼まれました? 幽霊のふりをしてくれとかなんとかって」
なつき、というのが一瞬人の名前かどうかも理解できなかった。
少しの間考えて、それが藤野のことだとわかると、急に冷静になることが出来た。
「……それは」
「ひょっとしてあたりですか? いやね、なつきのやつ、今日の休憩時間とか、シフトのこととかいやに聞いてくるもんで、何かしてくるんじゃないかと思ってたんですよ」
「……」
「お客さんの行き先聞いてピンと来ました。今は深泥池で催しもやってないし、乗ってきたのは手ぶらの女の子、観光客でもない。格好からして、幽霊の真似して噂でも立てて客を集めようって魂胆ですか」
この父あって、あの子あり。
藤野の作戦は父にはばればれだったようだ。
私は大きく息を吐いて、背もたれに寄りかかった。
とんだ茶番だ。
情けなくなってくる。
下を向くと見える、私とは思えないほどの胸の主張が本当に悲しくなって涙が出てきそうになった。
「バレちゃいましたか……」
「やっぱり、そうでしたか。全く、余計なお世話だって言うのに。すみませんね娘が何かご迷惑をかけたようで」
「いえそれは……。いや、そうです、迷惑です」
「はははっ、お客さん正直だ。……と、深泥池に着きました。ああこれ」
「え?」
「料金は返しますよ。娘のせいですから、気にしないで」
「……ありがとうございます」
父から受け取った小銭を見て、またため息が出た。
なんともまあ、つまらない結末となった。
藤野の父にお礼を言って、私はタクシーを降りる。
外はすっかり日が暮れて、深泥池の周りには取り付けられたライトが煌々と光っている。
やはり、ここの夜は明るすぎる。
「お客さん」
後ろから声がかけられた。
Uターンした藤野の父が、運転席の窓からこちらを覗いている。
「どうせ私も帰るから、乗った所まで乗せていってもいいですよ」
「お気遣いありがとうございます。ここで友達と待ち合わせしてますので大丈夫です」
「ああそうか、それじゃ、私は。娘にはきつく言っときますんで。ご迷惑かけました」
「とんでもないです。では」
「この辺り、夜でも明るいけど人あんまり居ないから気をつけてね。二人共可愛いんだから。それじゃ」
そう言って、藤野の父は運転席の窓を閉めた。
エンジンの音が遠ざかってゆく。合わせて私の血の気も引いてゆく。
いま、藤野の父はなんと言った?
何かの気配を感じ、恐る恐る後ろを振り返る。
だれも居ない。
しかし、一度その感情に陥ってしまった以上、私はその場に居る勇気はなかった。
風が吹いて、深泥池のまわりの草木がさああと鳴いた。
それをきっかけに、私は駆け出した。
「ひ、ひいいいいいいい」
本当に情けない声だと思った。
自分の声とは思えないほどの情けない声。
まさか! まさか! 本当に?! 藤野の父には見えていたのか!
胸元の水風船はいつの間にかずれ落ちてなくっている。
走りづらいパンプスを履いてきたことをしぬほど後悔した。
泣きながら、情けない声を漏らしながら、なりふり構わず駆け出した。
落ち着いたのは、駅前について、通行人がいくつか見えたときだ。
すれ違う通行人は私の姿を見て若干引いていたようにも思える。
顔は涙で崩れ、走ったために髪もぼさぼさだ。
靴ずれもしたので片足を引きずっている。幽霊どころか妖怪だ。
私はそこで、やって携帯を取り出した。
メリーから来ていた「どこにいるの?」というメッセージに「明日話す。もう帰る」とだけ返して、私はすぐさま帰路についた。
一刻も早く家に帰って布団にくるまって寝たかったのだ。
朝が来ること、太陽の光が恋しくなったのだ。
そのせいで私は昨日の晩、やるはずのレポートをそっちのけで布団に入ったのである。
これが、昨日の出来事だ。
私だけが体験した、幽霊騒動の話である。
◆
「とまあ、こんな感じ」
「とてもおもしろかった。なるほどね」
蓮子は話し疲れたという風に、大きく息を吐いた。
そして、冷たそうなコーヒーに口をつけ、思い切り額に皺を寄せる。
「まずい。コーヒーおかわりもらうけど、メリーはどうする?」
「私はいいわ」
「ああそう。それで、メリーはどう思った?」
「……まずは蓮子の考えから聴かせて頂戴」
「うん、私の考えは二つ」
蓮子はピースを作って続ける。
「一つは、藤野のお父さんのウソ。私達が変なことしたから驚かそうとして『二人共』なんて言ったのよ。見るからに、というか娘を見ればわかるけど陽気そうな人だったからありえるわ」
「うん、もう一つは?」
「本当に、藤野のお父さんには幽霊が見えていた。私の隣に座ってたのかしら?」
蓮子はそういって自信ありげに笑う。
蓮子らしい、しっかり客観的に見ている考えだ。
「メリーはどう思う?」
「私も蓮子と一緒よ。……でも、もう少し考えさせて」
「うん、何を?」
「まあいいから」
ふうん、と不思議そうにして、蓮子はタブレットを取り出した。
私は深く椅子に座り、額に手をあてた。
この後の予定をどうするか、真剣に考える必要がある。
「あっ!」
「……ちょっと蓮子、びっくりするから大きな声出さないで。どうしたの」
「……レポート、もう一個あった」
みるみる蓮子の顔が青くなっていった。
彼女は「ごめん、ケーキもう一個食べてて!」と言ってタブレットに食いつくように文字を打ち込み始めた。
まあちょうどいい。
私も少し考える時間が必要だから。
「ああ、やばいやばい……」
「……ふれるもの、ふれるもの。……外気」
「メリー、また古今東西?」
「うん、黙ってると、ちょっともってかれそうなのよ」
「どういうこと?」
「気にしないで。蓮子はレポートを仕上げなさい」
先程蓮子が言った二つの考え。
私には、どちらが正解かはわかっている。
正解は「後者」だ。
藤野の父は、間違いなく幽霊を見ていたはずだ。
「ええと、ふれるもの、ふれるもの」
じゃなければ、今蓮子の後ろにいる、私だけが見えている髪の長い女に説明がつかない。
彼女は私達をじっと見つめている。
そして、何かをつぶやいている。
きっと、それは聞いてはいけない。
何を言っているかはわからないけれど、耳を貸しては絶対にいけないのだ。
「ふれるもの、ふれるもの。逆鱗。……あ」
「どうしたの?」
「……なんでもない」
そう、蓮子は、私達は、彼女の逆鱗にふれたのだ。
面白半分で自分の真似をしている愚かな生者に、怒りを感じているのだ。
「ふれるもの、ふれるもの」
「メリー、独り言大きいんじゃない?」
「でも、そうしないと」
聞こえてしまうから。
彼女がしきりにつぶやいている、恨みや辛み。呪われた言葉。
それを聞いてしまったら、私はどうなってしまうのだろう。
まずは、蓮子に気付かれないように、お祓いをしにいかないと。
昨日の様子を見る限り、蓮子が彼女に気づいてしまったらそれこそパニックになってしまう。
私は、できるだけ情報をまとめようと、手元のノートに文字を書きなぐった。
深泥池、都市伝説、大学病院、髪の長い女。
きっとこれらはお祓いのヒントになるだろう。
そこで、気づいてしまった。
気づかないほうが良さそうなことに気づいてしまったのだ。
みぞろがいけ。
深泥池。
読み方を変えると……
「しん、でい、いけ……しんでいいけ。死んでいけ?」
その瞬間、蓮子の後ろの女から微かに笑い声が聞こえた気がした。
私はもう限界で、とうとう先程食べたチーズケーキを吐き出してしまった。
ばかのひ
扱っているのは確かに怪談話なのに、最後に至るまでそれを感じさせず、一気に不気味に突き落とす。やりますねえ、ぞくっとしました。
面白かったです。
序盤の会話とオチの繋がりがぱっと意識されるのが印象的でした
めちゃくちゃ完成度の高いお話でした!
とても面白かった……
最初は脳死百合かな? と思いましたが話が進むにつれてどんどん面白くなっていきました
オカルトにDNA鑑定とかぶっこんで来るのが科学世紀ですね
奴らに安易な気持ちで関わっちゃいけないってことがわかりました
するする読めました!