Coolier - 新生・東方創想話

天子篇

2019/05/18 12:34:37
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 比那名居天子が遠い目をして頬杖をついている。
 スパゲッティナポリタンと格闘していた依神紫苑は、その視線の先に何があるのかと目を移した。窓の外には小雨の降り止まぬ人里の通りが続いていて、濡れた石畳の上を人々が足早に行き交っていた。
 どこにでもあるファミレスで、なにをどれだけ注文してもふたりで三千円を超えないランチをつつき、何の変哲もない街並みを眺めているだけなのに――増してや相方は貧相な貧乏神なのに――比那名居天子という少女が物憂げにしていれば、それはひとつの画であった。
「天人さま、どうかしましたか」
 皿の上に残った玉ねぎとピーマンを丁寧にすくい、口に運びながら紫苑が尋ねた。ついとまどろんだような目が正面を向く。二、三度ぱちぱちと瞬きをした天子は口周りを指さした。紫苑のそこには、べたべたと赤いものがついていたからだ。慌ててパーカーの裾でそれを拭おうとする貧乏神の手が伸びる前に、ナプキンを数枚取ってぐりぐりと相方の顔を拭う不良天人。柄でもない世話焼き気質は、この付き合いが始まってすぐ彼女が獲得したもののひとつだった。
「えへへ、ありがとうございます。女苑にも、よく怒られるんです。だらしないよーって」
 未だどこか宙を見ているようだった天子の眼が焦点を結ぶ。ふうん、と鼻を鳴らし身を傾けた天子は、物思いをつらつらと口にした。
「なあ紫苑、衣玖を知っているな。永江衣玖――……家をおん出されて以来、事実上、私の後見人をしている龍宮の使いなんだけど」
「何度かお会いしてます。最後に会った時はでん六豆のパックをくれました」
「ああ、あいついっつも飴ちゃんとか豆ちゃんとかを忍ばせてるんだ。まあそれはいい。私とあいつの付き合いは長くてな。おい、これは他言するなよ。正味のところ私はあいつのことを、実の姉のように思ってる。そのくらいお互いの手の内も心の内も知っている、そういう存在なんだ……向こうがどう思ってるかは、解らないが」
 独白を続けながら、自分の前に置かれていたプロシュートの皿を紫苑に差し出す。わあと目を輝かせもちゃもちゃと口を動かす相方が果たして聞いているのかいないのか、いずれにせよ天子は続けた。
「だけど、なあ私は、衣玖のことをどれだけ知っているだろう? そう思うと急に不安になってしまってな。
 あいつはいつもほんのりと笑ってて、まるで空気みたいに振舞っている。そして私が何をしてもあいつはすっかり受け止めてしまう。理不尽な怒り、身に余る喜び、胸が軋む寂しさ……不器用なりの、感謝。そういったもの、すべてをだ。
 だけど私は、あいつがマジに怒ったところをさえ知らない。数えきれないほど叱られてきたけど、そこに憤怒は欠片もなかった。
 なあ、それは私が衣玖のことを知らないって、そういうことなんじゃないか。そしてそれは、フェアじゃないんじゃあないか……そう思ったんだ」
「ねえ天人さま、もっかいガチャ回していいですか?」
「ん、いいぞ。私はもういいや、全部食えよ――でだ。昨日読んだ本に書いてあったんだよ。『その人のことを知りたかったら、どんなことで一番怒るかを知れ』ってさ」
「もしそれが漫画なら私も読んだことありますねそれ」
 昼時を過ぎた店内に人影は少ない。無防備な自分自身を俯瞰し、今さらながら照れくさくなった天子はいささか早口にまくし立てた。
「思うに衣玖は……感情の波が、遅いんだよ。解るか? あいつにも人並みに喜怒哀楽の起伏が、そう、振幅がある。波同士は干渉し、時として手に負えないほど高くなって人に過ちを犯させる。心という水面を湛える器が小さく浅いほどそれは起き易くなり、そんな中で衣玖は……その波が、遅い。寛仁大度というか、媒質が違うのか。だから大きな波が立っても、心の水面に新たに石を投げ入れて、度し難い感情を打ち消してしまう。もちろんそれは多かれ少なかれ誰もがやっていていることだ。自分のご機嫌は、自分で取る。それが大人だ。だけど衣玖は特にそれに長けている。私はな、紫苑。その衣玖の心に大波を起こしたい。あいつの逆鱗を知りたいんだ」
 言い終えた天子は熱くなった頬を冷ますべく卓上のグラスを一気にあおった。ドリンクバーの原液が切れていたそれはひどく薄味だった。貧乏神とつるんでいればよくあることだ。気にしない。
「あのう、天人さま。私はばかなので、簡潔にお願いできませんか」
「衣玖を怒らせてみたい」
「理由は?」
「なんか面白そうだから」
「よく解りました」
 不良天人の振舞いにいちいち歯止めをかけていたらあっという間に摩滅する。紫苑はその点、一種異様なまでの無気力さで、高速で回転するタービンのような少女への適応に成功していた。
「それで天人さま。どの程度怒らせたいとお考えなのです?」
 左様、賢明な読者諸氏には改めて説明申し上げるまでも無いことだが、怒りは階層構造を有する感情だ。
 曰く、

1.おこ(弱め)
2.まじおこ(普通)
3.激おこぷんぷん丸(強め)
4.ムカ着火ファイヤー(最上級)
5.カム着火インフェルノォォォォオオウ(爆発)
6.激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム(神)

 ――以上の六段階である。かつて天子は、衣玖の激おこぷんぷん丸までは目撃したことがあった。
「ゆったりした服を着てるから解り難いけど、滅茶苦茶着やせするのよあいつ。んでおなかの肉をこう……むんずとやったことがあって」
「ああ、はい。解ります。それで、どの段階を目指すおつもりで?」
「私ひとりなら激おこぷんぷん丸の一段階上、ムカ着火ファイヤーで満足したろうが、お前も手を貸してくれるのだろう? なら、せめてカム着火インフェルノォォォォオオウまでは見ておかなくちゃな」
「ええっ! カム着火インフェルノォォォォオオウですか!?」
「そうだ。やるからにはカム着火インフェルノォォォォオオウだ」
 ただならぬ雰囲気を発し始めた不良天人と貧乏神に、店内にいたいくつかのグループが不穏を察してそそくさと会計を済ませ出ていった。このふたりに店舗を根城にされたらたまったもんじゃねえなあ店長はなあ。
「ああ、それとあのスキマ妖怪にちょいギレしてたって、聞いたな。まあ、まじおこ程度だろう……で、だ。あの衣玖を怒らせるには、どうすればいいと思う?」
「うーん……」
 ほうれん草のソテーをもぐもぐしながら、紫苑が頭をひねる。
「衣玖さんが食べている雪見だいふくを一個横取りしちゃう」
「やったことある。もう一個もくれたな」
「えぇ……。……ベタですけど、推理小説の犯人を教えちゃう、とか」
「それもやったことあるわあ」
「マジですか。じゃあ衣玖さんが録画してた映画を消しちゃうとか」
「そんなんで怒ったりしないだろう。ほぼ月一でやってるもの」
「……、……衣玖さん……」
 サラダをぱくつきながら禁じ得ぬ涙をよよよとこぼす貧乏神。なに、ドレッシングが酸っぱかったの? といぶかしがる桃を戴いた少女が、今だけは悪鬼に見えた。
「例えば、紫苑。あなたの妹さんは、何をしたら怒る?」
 そろそろ場所を変えようということになり、ふたりは会計を済ませて街に出た。天子が外に出ると急に雨がやみ、晴れ間が見え始める。濡れた石畳をこつこつ、ひたひたと歩きながら続けた。
「今朝も怒ってましたよ。目玉焼きにしょうゆかけ過ぎだ、って」
「あーおまえ、おぼれるほど調味料かけるものな」
 貧乏で時間に追われる暮らしをするものは、得てして濃い味の食生活に陥りがちだ。短時間で満足感を得られる、安上がりな手段だからである。
「でも、そんなこと私はやらんぞ。衣玖を怒らせるためでもな。目玉焼きを食べるときはな、なんというかこう……救われてなきゃあダメなんだ。独りで、静かで、豊かで……」
 ハア、と気のない返しの貧乏神。目玉焼きは唯一天子が作れる料理らしい料理であることを、彼女は知っていた。それを可能にさせたのが誰であるのかも薄々察しがついていた。
「そういえば。一昨日ですかね、家でひとりでホラー映画観てたんです。部屋を真っ暗にして。それで私がおトイレに行ってる間に女苑が帰ってきてー、後ろからおかえり女苑ーって言ったら。ええ、危うく拳が当たるところでした。グレイズしましたけど」
「ふむ。だめだな」
「だめですか。お手軽な方法だと思いますけど」
「だって、その……なんだ。ひとりで暗い部屋で、なんだ。うん、だめだな」
「だめですか」
 ふたりの歩みは人里の中央広場に至っていた。まばらにいた人影が引き潮のように音もなく消え、相剋するエネルギーの奔流に龍神の像が……その目を、極彩色に明滅させた。が、ふたりは特に気を払いもしなかった。
 ああでもない、こうでもない。
 喧々諤々とした議論はやがて熱を帯び、陽が沈むに従って両者の計画は輪郭を得、内容を充実させた。
 傍からはそこそこ容姿の良い女子ふたりのガールズトークにしか見えなかったし、ある意味ではその通りであったかもしれない……だがここで語り合われたのはそんな可愛いものではない。
「ようし、このプランで行くぞ!」
「流石です天人さま!」
「前祝だ、一杯付き合え!」
「流石です天人さま!」
 こうして、永江衣玖という少女の逆鱗を探る大作戦は動き出したのだった。
 
 永江衣玖の昼食は、朝方コンビニに寄って調達したサンドイッチなどをひとりで齧るというものである。この日も彼女は官舎から少し離れた河原――天界における河とはジェット気流が作るエアロゾルの通り道だ――の一角を訪れていた。片手にビニール袋を提げている。
「うふふっ」
 ゴキゲンである。今日は週に一度、苺クリームサンドを食べることを自分に許している日であった。ささやかではあるが、それが彼女の楽しみだった。
 軽やかな足取りが不意に途切れる。人気のない、彼女だけの場所に、今日は先客がいるではないか。しかも見知った顔である。
「あら、総領娘様じゃあないですか」
「やあ衣玖。お昼休みだろう? 早速だけど、お弁当を作ってきたんだ。見てくれよ」
「まあ、嬉しい! お昼どうしようかと思ってたところなんですよ」
 音も無くビニール袋をフリルの内側にしまい込み、話を合わせる龍宮の使い。天子は得意げに重箱を広げた……衣玖の口が、ぽかんと開く。滅多に隙を見せない彼女が一瞬、心底驚いたという表情を浮かべた。よほど衣玖と付き合いが長い天子じゃないと見逃がしちゃうようなやつだった。
「なによ。そんなに驚くことないじゃない」
「いえ……はい。これ、総領娘様が? 玉子焼き、できるようになったんですね」
 重箱には、これでもかと一面の黄色が詰め込まれている。卵を二パック費やした天子渾身の玉子焼き重だった。下の段には白飯が盛られている――無論、これらはすべて永江衣玖の逆鱗に触れるために行われたことであるが、重箱が二色で構成されるに至ったのは決して嫌がらせのためではない。純粋に天子ができることをやり切った結果であった。彼女はウィンナーを炒めることすらできないのである。仕方ないね。
「召し上がれ! ほら、あーん」
「そっ、総領娘様」
 あーん!? あーん!! なんたることか!
 玉子焼きを切り分けた比那名居天子が、衣玖にそれを差し出しているのである!
 衣玖はひとしきり目を白黒させたあと、意を決してぱくりと行った。味は可もなく不可もない、ごく普通の玉子焼きである。当然、何の仕掛けもしてはいない。ごく当たり前の玉子焼きだ。一体彼女は、なにをしているのだろう……? 読者諸氏は彼女が唐突に示した挙動に戸惑いを覚えたはずだ。これらの奇行はどれもこれも、元をただせば依神紫苑とその妹、女苑のある日のひとコマに由来していた――

 ――その日、依神女苑は朝寝坊をした。弁当を作る暇も無く家を飛び出した妹のため、紫苑は不慣れながら弁当をこさえ、女苑の当時の職場まで届けたことがあったのだ。
「女苑は大変に怒りました……ええ、全然目を合わせてくれなかったくらいです。お弁当届けてあげたのに。それで、とっても長いネイルをつけてたから私は女苑にあーんして食べさせてあげようとしたんです。なのに、そっぽ向いちゃって。こりゃいけないな、ご機嫌取らないとなーって思って、女苑がつけてたお仕事用のアクセサリーを褒めたんです。可愛いね、綺麗だね、似合ってるよーって。ますます女苑は俯いちゃって。顔が真っ赤になるくらい怒ってましたね、あれは」
 と、紫苑はそう述懐する。なるほど確かに、そのときの女苑の顔は真っ赤であったろう。だが俯瞰してみれば……口角は喜色を隠しきれず上がり気味で、視線もふやけたように甘かったのだ。紫苑は結局気付かなかったが。
「なるほど、なるほど。お弁当を作って持っていって、あーんして食べさせて、アクセサリを褒めればいいんだな!」
「そうです! その日からしばらく、女苑はよそよそしかったくらいですから!」

 ……てな訳で、天子はその情報通りに行動していたのである。
「どう? 美味しい?」
「ええ、よく焼けていますよ総領娘様」
 依神女苑はなるほどあのように厄介な性格をしているため姉の行為に素直に応じることはできなかったろう。だが永江衣玖ともなれば話は違う。この点を見事にふたりは履き違えていた。所詮は酔生夢死の天人崩れと付和雷同の多重債務者である。計画が上手く転がるはずが無かった……ま、その方がいいんだけど。
 うまうまと幸せそうに玉子をほおばる衣玖。彼女は秘かに妹分と可愛がってきた少女の、急ではあるが快いサプライズを素直に喜んでいた。
「おかわりもあるぞ!」
「…………!」
「遠慮するな、今までの分食え……」
 繰り返すが、あーんして食べさせる玉子も飯も、素人料理であること以外は真っ当なものである。毒ガス訓練も控えてなどいない。
「なあ衣玖、もしかしてリップの色変えた?」
「えっ。いえ、はい。よくお気づきになりましたね」
 勿論、なにも変えてなどいない。だが永江衣玖はやはり話を合わせた。
「うん、とっても似合ってる。素敵な色だ」
「あっ……ありがとうございます総領娘様」
 ここにきて、永江衣玖も何かがおかしいと勘づき始めていた。だがそれがなんだというのだろう? 玉子をうまうまとほおばる衣玖。
 やがて昼休みが終わり、衣玖は職場へ引き上げていく。
 天子は荷物をまとめ、遠くに控えていた紫苑と合流した。
「紫苑よ、観ていたな。どうやらあまりうまくはいかなかったみたいだ」
「そのようですね、天人さま……」
 左様、一部始終は帽子の桃の間に隠されたスパイカムと集音マイクを通じ、紫苑のスマートデバイスへとストリーミングされていた。いわゆる完全憑依である。
「なあに、まだまだ計画は始まったばかりだ、次に行こう!」
「流石です天人さま!」
 
 その後もいくつかの作戦が実行に移された。
 
「天人さま天人さま。女苑ったら、私が家を掃除すると怒るんです。埃の掃き清めがあまい、こんなんじゃお嫁さんの貰い手がないって。女苑がいるからいいもんって私が反論したら、バッカじゃないの! ってぷんぷんして顔真っ赤にして口きいてくれなくなって……」
「なるほど、掃除だな!」
 ――翌日、朝早くにハウスクリーニング用品を満載した軽トラで衣玖のアパートに突入した天子は、独身生活が染みついた部屋を問答無用で断捨離していった。はじめは衣玖も戸惑っていたが、次第にこれもいい機会だ、いやさ妹分に気を遣われているようではだめだと心を入れ替え、物にあふれていた部屋はピカピカに、スッキリした人権の宿った空間に変貌した。
「総領娘様、こんな私を気遣ってくださって、わざわざ来てくださるなんて……そうだ、今日はご飯を食べていってください。すぐ作りますからね」
 ウキウキと新品同然となったガスコンロで親子丼を作る衣玖の後姿を眺めながら、どうやらこの作戦も失敗だなと天子は悟った。なお流石に衣玖の私室にカメラを入れるわけにはいかなかったため、紫苑は少し離れた場所で経過を伺いつつ、漂ってくる夕食の匂いに腹を鳴らすことになった。

「天人さま天人さま。女苑ったら、私が隣に座ると怒るんです。部屋が寒いからなるべくくっついてた方があったかいのに。貧乏がうつる、あっち行けって。悔しいから抱きついてやったんですけど、最後にはあきれて何も言わなくなってましたよ!」
「なるほど、密着だな!」
 ――衣玖が”久しぶりの日曜日”を満喫している午前中、突如として鳴り響くインターホン! 開け放たれるドア! 不良天人のエントリーだ!
「遊びに来たわよ、衣玖!」
「ようこそいらっしゃいました、総領娘様……っと」
 手洗いうがいを済ませた天子は、飛び込むようにして衣玖の隣に尻を落ち着けた。詰めれば四人座れるソファである。衣玖はどうぞおくつろぎくださいな、と言ったが天子は首を振り、衣玖の肩に肩を、太ももに太ももを当ててぴたりと密着した。衣玖はしばらく首をひねったり身じろぎしたりしていたが、天子が自分の身体でリラックスしているのだと解ると何も言わず読みかけの本を広げた。
 これは、邪魔してやらねばなるまい! 天子は衣玖の膝の上にしなだれかかり、ころんと上を向いた。まるで猫か何かだった。
「仕方のない総領娘様ですね」
 呆れたような言葉とは裏腹に、ひどく慈愛に満ちた表情で天子の頭を撫でる衣玖。気づけば天子は眠っていた。やはりその日も夕食をごちそうになる。漂ってくる筑前煮の匂いに、この日も紫苑は腹をぐぅと鳴らした。

「天人さま天人さま。女苑ったら、私がお風呂上りにお着替えが無くって、裸でいると怒るんです。それで私はこのあいだ、女苑の古い仕事着から着られそうなのを探して、服が乾くまでそれ着てたんですよ。そこに女苑が帰ってきて……絶句してしばらく部屋から出て来ませんでした、相当怒ってましたよあれは」
「ほう、そんなにか!」
「はい! あれは姉さんなんだ、あれは姉さんなんだ、抑えろ私……って独りごと言ってました、部屋で。きっと殺意を抑えていたんでしょう……恐ろしい!」
「どんな衣装だ!」
「興味を持たれるだろうと思って、用意してきました!」
「なるほど、バニーガールだな!」
 ――金曜日のある晩、遅くまで飲み会に付き合わされ疲労困憊となった衣玖が帰宅すると、うっすら部屋の電気が点いていた。豆球だ。合鍵を持っているのは天子くらいだし、玄関に脱いだ彼女のブーツがあった。千鳥足で部屋に入る。
「総領娘様? 寝ているんですか?」
 自分も化粧を落として、シャワーを浴びたらさっさと眠りたい……くたくたになった気持ちで呼びかける。すると ぱ、と部屋の明かりが光量を増した。
 衣玖はわが目を疑った。肩を大きく露出し、貧相な体をナイロンのバニースーツに収めた、比那名居天子がそこに居たからだ。ソファに座った彼女が振り向くと兎耳がぴろんぴろんと揺れる。
「おかえりなさい、衣玖。だいぶお疲れみたいだな……ささ、まずは座って」
「あ…………はい」
 二の句を告げないまま歓待を受ける衣玖。桃のカクテルを薦められるがままに飲み干すと……あっという間に、タガが外れてしまった。日頃言えない、日々に潜む様々な不平不満。社会への苦言と自身への嫌悪。そういった言葉が留処なく溢れ出し、天子はそれを黙って聞き、必要に応じて衣玖を癒す酒を注いだ。この点、そつなくやってしまうのが比那名居天子という少女である。
 やがて日付をまたぎ、なお夜は更け……朝になる。
 明朝!
 頭痛を抱えながら起き上がった衣玖は脱ぎ捨てられたバニースーツとほとんど裸のような格好で毛布にくるまる天子、メイクも落とさずスーツをしわくちゃにした自分自身を発見した。天人の注いだ酒は翌朝に引きずったりなどしない上等なもので、記憶もしっかり残っていた。全くの大失態、自分の弱さを見せたというのに――なぜだか衣玖は少しも、自己嫌悪に囚われたり落ち込んだりしていなかった。
「ありがとうございます、天子」
 小さくそうつぶやき、晴れやかな気持ちで朝食を作り始める。
 紫苑はというとさすがに学習しており、今日はちゃんと夜食も朝食も準備してあった。ベーコンの焼けるにおいをかぎながら、建物の影の草むらのじめじめした陰気なところでおにぎりをかじる貧乏神であった。

「天人さま天人さま。女苑ったら、私が半日かけて編んだシロツメクサの冠を、そんなの貧乏くさいって言うんです。あんまり貧乏くさいから逆に貴重だって、ドライフラワーにして未だに部屋に置いて見せしめにしてるんですよ、ひどいでしょ」
「なるほど、贈り物だな!」
 ――翌日、天子はティファニー人里店に突撃し店中をひっかきまわした、
 やがて半日かけて、一対のイヤリングを選び出す。アクアマリンがあしらわれた、実に控えめなひと品だった。
 衣玖に約束を取り付け、普段は行かないような少し高いお店に連れ出す。ドレスコードを意識するギリギリの水準という店だったが、その日衣玖は随分とおめかしをしてやってきた。あんパンと牛乳片手に遠巻きにしていた貧乏神が「わはあ」と口を開けてしまうほどであり、比那名居天子をしてさえ、素直に見違えたと思わせる変身ぶりだった。
 食事は終始、和やかに進んだ。事ここに至り、天子でさえ、いったい何のためにこんなことをしているのか……当初の目的を、忘れつつあった。慎重に機を見て包みを取り出す。
「これ、気に入ってくれるといいんだけど」
「総領娘様。よろしいのですか。感激です。大事にしますね」
 唐突だが、読者諸氏の忘備のため書いておく。これは永江衣玖の逆鱗を探り当てようという作戦である。というのも、一応解説しておかねばなるまいと思ったからだ――アクアマリンの石言葉には『幸せな結婚』というのも含まれている、ということを。
 店を出て、ふたりは夜の街を歩き出した。紫苑が背後からひたひたと後をつける。だがもう、天子は衣玖と過ごす時間に夢中になっていた。それは衣玖とて同じだったろう。
 かつん、こつんと。
 靴底が、石畳をたたく音が響く。
 やがて何を思ったか、天子が衣玖の手を取って、小走りに石畳を鳴らし始めた。
 衣玖は戸惑いながらもしっかりと手を握り返す。ヒールを浮かせ、伴奏と鳴らす。笑顔を交わし、ふたりは衆目にも構わずリズムに乗って回り出した。即興のストリートダンス。天子はもとよりなんだってできる少女で、衣玖は追従するだけならいくらでもできる少女だ――だが、ここには。
 それ以上のものがあった。
 天子に導かれた衣玖は、徐々にその心を露わにしていった。それは天子と一緒だからこそ彼女から引き出されたものだった。
「衣玖、見て。月が出てる」
「はい、天子」
「良い響きだ。ずっとそう呼んでくれ」
「よろこんで」
 ……貧乏神は気配を消して、ナッツをかじりながらその様子を見ていた。
 十分に――……左様。
 自身の影響が、及ばない距離を取って。
「わたしは透明になる術を身に着けた……スローすぎて……誰も私の姿は見えない……そしてゆっくりと……ナッツを口に運ぶ……」
「あれ、姉さんじゃん? 何してるのこんなところで」
「…………」
 平穏な夜であった。
 
 さて、永江衣玖の逆鱗を探ろう作戦は暗礁に乗り上げていた。
 もはや紫苑が出せる案も残りは少なく、ついでに言うとふたりのやる気も尽き始めていた。新しい遊びを探す時期が来ていたのだ。
「天人さま、天人さま。女苑ったら――」
「ふむ、ふむ、ふむなるほど解った」
 天子は厳かに頷いた。
「なるほど、洗いっこだな!」

 ――今日、部屋に行ってもいい?
 比那名居天子からその連絡を受けた永江衣玖は、鋭敏な能力を持ってこれから起こるであろう事態を予知してみせた。部屋を掃除し、食材を買い込み、念入りにベッドメイクを行い……天子を待ち受ける。
 彼女が来たのは夕方だった。最近ふたりでよく開けるワインを今日も携えている。
「ようこそ、いらっしゃい総領娘さ――あっ」
「もう、衣玖ったら」
 くすくすと笑いあいながら部屋に落ち着く。ふたりで夕食を作り、食べて、ソファに重なり合うように座りながら洋酒を開け、野球中継にヤジを飛ばす。いつも通り、いつも通りだが。ふたりとも、今日はどこかが違うと、頭の奥底で感じていた。
「じゃあ先にお風呂、いただいてきますね」
「ん」
 酔いの回った天子がくたりとソファに取り残される。
 ――……逃げ出しちゃおうか。
 このまま靴を履いて、夜に紛れてしまおうか。
 幾度か浮かんだ考えは、しかし何ら実を結ぶことなく、天子はいつの間にか、あるいは最初からか。服を脱ぎ、浴室の前に立っていた。
「衣玖ぅ、入るぞ」
 浴槽に肩まで浸かっていた衣玖が充血した目で天子を迎え入れる。
「洗いっこしましょ」
「……はい」
 衣玖の身体って、柔らかいよな、私こんなだから、うらやましいな。……そんなこと言って。便利なことだってたくさんあるでしょう? ……そうかな。そうかも。だけど私はずっと、そう。衣玖にあこがれてたんだと思う。ねえ、こんなことを言う私って変かな。……変です。変ですよ。だけど、ええ。私も変です。とてもきれいですよ、天子。……流すよ。髪、洗ってくれる? ひとりじゃ、大変なんだこれが。……これからは違いますよ。……ありがと。
 さばん、ざばん。湯の流れる音が響く。
 依神紫苑が定位置として潜んでいた草むらには今日、人の気配がない。
 貧乏神はもう、家に帰っていたのだった。
「じゃあ、先に上がりますね」
「ん……寝室で待ってて」
「はい」
 言葉少なに姿を消す衣玖。たっぷり百秒数えて、後を追う天子。念入りに髪にドライヤーを当てる。少しでも先延ばしにしようとする心理が働いていた。そう、彼女は、なんてことはない。
 怯えていたのである。
 比那名居天子、数百年の生で初めてのことだった。
 しずしずと寝室に向かう。ベッドに腰かけた衣玖がいた。気が付けばその隣に座っていた。そこ以外に、居場所などなかったのだ。左様、世界中どこを探しても。
「……っ衣玖。私、あなたに言わないといけないことがあるの」
 すがるような声。たとえどれほど空気が読めなかろうと、天子がひどい負い目を抱えていることは明らかだった。だって、いまさらどう伝えたらいいのだろう? すべてはあなたを怒らせるための、茶番だったなどと。
 言えるはずない。
「私は。あなたにひどいことをした」
「天子」
 どん、と肩を押され、天子はその細い身体を寝台に沈めた。
 突き倒されたのだ。今まで衣玖が見せた中で、最も強い意思表示だった。
「私がなにも知らないと、思っていましたか? ええ、すべて解っていましたよ。空気を読む程度の能力舐めないでください」
 龍宮の使いは一五〇を超える椎骨を持ち、これらを貫通する太い神経網はあらゆる角度から入射する電磁波を捉え、展開し、聴覚とよく似た第六感としてフィードバックし続けている。本来は地磁気の微細な変位、生物が発する電気的ノイズを検出し、光の届かない深海で活動するための器官であるのだが、これは今日では電子機器の接続を知覚する術として応用されている……天子たちが使っていたワコム製スパイカムのブルートゥースとwi-fi電波は、衣玖にしてみれば最初から丸聞こえだったのである。なおここで「聞こえる」といったのは喩えであり、通信内容を読み取れている訳ではない。ただ、どことどこが繋がっているかはわかる……自称「透明」の紫苑も、これでは形無しである。
「さあて、どうしてくれましょうかね」
「いっ衣玖……私、私は」
 天子が涙目で声を絞り出そうとする。衣玖は薄く笑い、告げた。
「今の私はカム着火インフェルノォォォォオオウですよ」
「カム着火インフェルノォォォォオオウなの?」
「ええ、カム着火インフェルノォォォォオオウです。だから――」
 ぎしりとベッドが軋む。天子に覆いかぶさるように、衣玖が身体を重ねる。
「――多少痛かったとしても、許してくださいね」
 こうして、比那名居天子は、期せずして目的を達したのだった。

 その後についていくつか捕捉を書いておこう。 
 翌日、紫苑はいつもの場所で天子と落ち合った。作戦明けの日には首尾を報告し合うのが慣わしだったからだ。姿を見せた天子は、衣玖の怒りを受けてあちこちにキスマークをつけていた。『9mmじゃ疵もつかない』と言われる天人である……よほど可愛がられたのは明白だった。
 だが、天子はえへへとだらしなく笑っていた。これまで彼女が周囲に示してきた不遜さや頑なさは、すっかり鳴りを潜めていた。
 永江衣玖の逆鱗は、結局よく解らないままだった。とはいえ先は長いのだ。いずれ判明する日も来るだろう……そう、衣玖と言えば、彼女は後年己を振り返ってこう述べている。
「荒ぶる神を治めるための人身御供、そんな風に私を評価する人がいるかもしれません。確かにやらかしが過ぎることもありますがあれがいいんですよ、私には。空気をぶち壊して、なにをしてしまうか解らないっていうのが、ね。
 最近あったいいこと、ですか? ええ、あの人が私に、雪見だいふくを半分くれました。いやあ、嬉しかったですね」
 と、こんな具合である。
 依神姉妹は相変わらずだ。だが、それでふたりは幸せだった。
 そして天子はというと――

 ――人里の中央に、天人が足を踏み入れた。顔見知りと会釈しながら紫苑の姿を探す。やがて、龍神の像の足下に彼女を見つけた。貧乏神オーラの作用だろう、龍神の像の目は赤く瞬いている。
 だが一歩、また一歩と天子が近づくたび……その瞬きは、頻度を下げた。やがてふたりが朝の挨拶を交わすころには、その目はすっかり沈黙している。
「天人さま天人さま。今日は、どこでなにをしましょう?」
「さあてね」
 空を仰ぐ。屈託のない笑みと共に彼女は応える。
「風の吹くまま、歩いてみるか」
 
お米食べろ
保冷剤
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コメント



0.380簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
必死に衣玖さんを怒らせたい天子が可愛かった
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これは良いいくてんだ
4.90奇声を発する程度の能力削除
天子が可愛らしかったです
6.100名前が無い程度の能力削除
最高のいくてんを見たぞ
7.100名前が無い程度の能力削除
よかったです。
8.100名前が無い程度の能力削除
うむ、良い
9.100名前が無い程度の能力削除
何だこのかわいい奴ら
11.90ばかのひ削除
非常に面白く可愛く、流石に安定感がありました
14.100終身削除
全体に漠然とした明るさを感じる中にも所々の演出に色々な味がある感じで、小ネタも満載で読んでいて楽しかったです 「」がつかない会話の効果とか、紫苑が考えた作戦の元となった出来事がある中だからこそ、依神姉妹のその後を語る一行だけで文字通り以上の出来事を感じ取れた気分になれたりと演出が神でした
15.100上条怜祇削除
あまあまな雰囲気がとてもよかったです!
16.100モブ削除
そこそこ容姿の良い女子ふたり
そこそこではない(真顔)
面白かったです。御馳走様でした
17.100小野秋隆削除
面白かったです。
18.100仲村アペンド削除
全く隙のない見事なコメディでした。ラブコメ? ラブコメかな。まあ何というか、素晴らしかったです。
19.100南条削除
とても面白かったです
受け入れ態勢の整っている衣玖さんがよかったです
20.100名前が無い程度の能力削除
みんな可愛い
22.100すずかげ門削除
冒頭、あれ、これは良い天子かな?と思いきや結局いつもの天子でしたね笑
衣玖さんもハッピーだし、紫苑とのコンビもうまくやっていけそうだし、結局特に何も変わらなかったけれども幸せが残る良い〆でした
24.100名前が無い程度の能力削除
名作劇場
25.100名前が無い程度の能力削除
女苑も大変だなって
27.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしかったです。
いくてんも依神姉妹も最高でした。