Coolier - 新生・東方創想話

こいしくて、いとしくて、さがして、つかまえて。

2019/05/14 22:27:07
最終更新
サイズ
21.55KB
ページ数
1
閲覧数
1698
評価数
9/11
POINT
990
Rate
16.92

分類タグ









Θ







 わたしが、わたしという存在を認識したとき、わたしの足はごつごつとした地面を踏みしめていた。

 それはとても唐突で、例えるなら、夢の世界から大きな手で摘まみ上げられて、いきなり現実に放り出されたような感じで、わたしは、はっとして、それからきょろきょろとあたりを見回した。夢から覚めたあとのわたしの現実は、暗くて、ごろんごろん、岩ばかりに囲まれていて、天井も、左右の壁も、苔むした岩石をぎゅうぎゅうに詰めたみたいになっていて、だけど、わたしの前後だけが、壁がなくって、すうっと奥に長く続いていた、地霊殿の廊下みたいに。
 するっと視線を下げて、自分の足元を見てみると、やっぱりそこも周りと同じで岩ばかりが転がっていて、だからさっきからごつごつした感触が足から伝わってきていたんだろうな、と思って、そこら中岩だらけなので、きっとわたしは今、地底へと続く洞窟に立っている、ってことなんだろうなあって思った。

 もしわたしじゃない他の人が、いきなり、気づいたらこんなところにいた、なんてことになったら、その人はきっと、とても驚くんだろうけど、わたしはそんなに驚かなかった。いや、ほんとはちょっと驚いたけど、でもその驚きは他の人が感じるよりもきっと小さくて、だからわたしは、自分の能力に対する馴れみたいなものを実感していた。第三の目を閉ざして、無意識の力を手に入れてから、こういうことはよくあって、こういうことっていうのはつまり、たとえば、ふらっとお手洗いに立ったはずなのに気づいたら旧都の街中にいたりだとか、ペットのブラッシングをしてたのに、次の瞬間には、リビングのソファに横になってたりだとか、そういう感じの、意識がごっそり抜ける瞬間を何度も経験してきた、ということで、そんなわたしにとっては、今回の現象も今までのそれと大差なくって、ただぼんやり、ああ、またかあ、めんどくさいなあ、なんてぼやいたりした。
 ただ、なんでか、今日だけはそんな気持ちにほんの少し、少しだけ、別の感情が混ざった気がして、自分のことなのに、あれって思った。なにかを忘れてるようなもにょもにょした気持ちと、きゅっと胸が締めつけられるような気持ち。とても楽しかったはずの夢から覚めた瞬間みたいな、確かに楽しかったんだけど、いざ思い出そうとすると内容が思い出せなくて、残り香だけを残して、夢がすうっと頭から抜けちゃうみたいな、そんなときの感覚に近い感じ、胸がもやもや、きゅっとする。なにか大切なものを忘れてるような、そんな気持ち。
 今日がなにか特別な日だったり、なにか約束があったりしたのかなって、うんうん思い悩んだけれど、それがぜんぜん思い出せなくて苦しい感じがして、だからわたしは、それよりもまず、そういえば今日って何月の何日だっけ、とか、そんなことを先に考えることにした。それから、意識が途切れる前、わたしは何をしてたっけ、とかも考えた。だけど、やっぱり、なんにも、思い出せなくて、ただただ胸がきゅっとなって、それから、目の奥がじんわり熱くなった。そうして、頭の奥に浮かんだのは、よく知ってる顔だった。眠たげに揺れる二つの瞳、青白い幽霊みたいな顔、くしゃくしゃのくせっ毛、ぱっちり開いた第三の目。お姉ちゃんだ。

 会いたい、って思った。
 強く、思った。
 いつもはそんなことないのに。なにか約束があったのか、何の日なのか、ぜんぜん、思い出せないけど、でも帰って、お姉ちゃんに会わなきゃっていう気持ちが、胸の奥から、どんっ、どんって、太鼓が鳴ってるみたいに突き上げられてきて、わたしはいてもたってもいられなくなった。
 だけど。
 もういちど、わたしはあたりを見回したけど、やっぱりそこらじゅう、岩岩、また岩で、地底世界なんて、大抵そんなもんで、旧都や地霊殿、橋の周り以外は、こんな景色ばっかりで、これは困ったぞ、と思った。だって、こう岩ばかりの代わり映えしない風景に囲まれてしまったら、ここがだいたいどのあたりで、どっちに進めば地霊殿にたどり着けるのか、まったくわからない。洞窟は一本道で、だからきっと、前と後ろにすうっと伸びてる岩の廊下を、どっちかに歩き続けていれば地霊殿にたどり着けるのだろうけど、その肝心の、「どっちか」のうちの「どっち」が正解なのかが分からなくて、わたしは立ちすくんでしまった。間違った方にもし進んでしまったら、きっとたどり着くのは地の底の我が家じゃなくて、地上の、何もないただっぴろい草原に違いなくて、そうなったらきっと、今日のうちに地霊殿に帰り着くことはできなくなってしまうに違いない。今日はもしかしたら、大切な日なのかもしれないのに。

 いや、むしろ、とお腹の底からは次々にぞわりと考えが湧き出てくる。むしろ明日になっても、明後日になっても、それからずっと経っても、一生、地霊殿に戻れなくなりそうな予感がした。今この瞬間に道を間違ったら、無意識がわたしをさらってどこか遠くへ連れ去って、もう一生、お姉ちゃんにも会えないし、暖かい紅茶にクッキーも、暖炉のぬくもりも、巡り合えないんじゃないかって、思った。ホントはそんなことはないのかもしれないけど、でもいちどそう考え出すと、お腹の底から湧き出てくる、得体の知れない考えはいよいよ勢いを増して、沸騰したお湯みたいに泡を吹いて沸き立って、わたしはぞわぞわとした感触に、体中を包み込まれた。


 とそのとき。
 びゅううっと、強い風が吹いた。
 わたしの後ろから、つまりは洞窟の奥の方から、勢いよく風が、いや、わたしにはどっちが奥なのだかわからないけど、とにかく、わたしの背後の、すうっと長く伸びた空洞の先から、びゅうおおお、っとすごい音をわめきたてながら、空気が押し出された。
 わたしは、帽子が、お気に入りの黒いつばの広い帽子が飛ばされないように、ぎゅっと握って、強く握って、それから目をぎゅっと閉じて、その風がやむのを待った、けれど、その風はおさまるどころか、いよいよ狂ったようにわたしに吹きつけて、ごおうごう、大きな獣の鳴き声みたいなけたたましい音を立てて、わたしを揺さぶった。わたしはとうとう立っていられなくなって、その場にしゃがみこんで、膝をかかえた。
 そうやってしばらく、嵐が過ぎ去るのをじっと待っていたけれど、ふと、鼻先を甘い、懐かしい匂いがかすめた気がして、わたしははっとして目を開けた。わたしは、鼻をひくひくさせて、今嗅いだ、甘い匂いをもう一度確かめた。かすかだけど、でも確かに、強い風に押し流されるようにして、甘い匂いがわたしの鼻を刺激していた。それは、いつか嗅いだ事のある匂い、だけど、なんの匂いだろう、とひとしきり考えているうちに、いつしか風は穏やかになって、その匂いもふっとかき消えてしまっていた。
 気付いたらわたしは立ち上がっていた、そしてそのときにはもう、さっきまでのぞわぞわとわたしを侵食する得体の知れない考えはわたしの中からは消えていて、その代わり、その匂いはなんなのかという疑問がわたしの中を駆け廻っていた。確かめたい、その匂いのもとを、確かめなければならない、考えた瞬間、もう足は動いていて、その足は当然のように、風上のほうに向いている。不思議と迷いはなかった、歩いていけば、その匂いにたどり着ける、そう考えると、体が軽い、すいすいとわたしは泳ぐみたいに洞窟の奥へと進んでいく。







   Θ







 そうしてしばらく行くと、遠くにあかりがちらちら揺れているのが見えた。よく目をこらせば、地底の薄闇をかき消して、辻行灯(つじあんどん)の火が、行儀よく並んであたりをぼんやり照らしている。ああいったふうなあかりのある場所と言えば、間違いない、きっと旧都だ、と思った。ということは、わたしは、間違いなく地底の奥に向かって進んでいるはずで、そうやって旧都を突っ切って進んで行った先に、地霊殿もあるはずで、匂いを辿っていけば、わたしは地霊殿にたどり着けるのかもしれない、あの甘い匂いはきっと、アリがえさの場所を仲間に教えるために出すフェロモンみたいなもので、その道しるべはわたしを地霊殿まで連れていってくれるに違いない、と思った。

 ふらふらわたしが進んでいくと、いよいよ旧都が薄闇の中から浮かび上がって現れた。行灯を両脇に見ながら、その中心を南北に走る大通り、通称、旧地獄街道を、北に進んでいく。ちらちら揺れる行灯を見つめていると、それはまるで夢のようで、無意識のままに歩いていきそうになって、思わずはっとして、顔をぶんぶん横にふる。わたしは、帰るんだ、匂いを辿って、家に帰るんだ。わたしは自分の意識に言い聞かせて、口をきゅっと真一文字に結ぶと、ずんずん、大股で石畳をかつかつ鳴らして、歩いていく。
 すると、だんだん、行く先の方から音がする。それは祭り囃子の賑やかな音楽であるように最初は聞こえたけれど、よく聞きながら近づいていくと、それは音楽と言ってしまえるほど規則的でなく、どちらかと言うと、ただお祭りのギャラリーたちの賑やかしのようだった。わたしは、そのどんちゃん騒ぎに向かって歩いていく、すると、ぷぅんと、鼻先を、さっき嗅いだ甘い匂いがかすめた。

 ああ、これだ、この臭いだ。

 わたしはくんくん鼻をいわせて、どんどん、ずんずん進んでいく、すると、お祭り騒ぎの賑やかな声、笑い声や威勢のいい大声が、より、はっきり聞こえ始め、先ほどの甘い臭いも、他のなにやら美味しそうな料理の匂いと混じりあいながら、だんだん強く香るようになってきた。

 いったい全体、これはなんの匂いだろう、なんの騒ぎだろう、と首をひねりひねり歩を進めていけば、やがて、旧都の中心とも言うべき、開けた場所、催しごとが開ける程度の大きさの広場に出た。そこで見たのは、妖怪たちが、笑い、騒ぎ、わいわいと声を響かせ、語らいながら、広場に雑然と並べられたテーブルを囲み、その上に広げられたたくさんの料理を、思い思いにつつき、酒を浴びるように呑んでいる光景だった。鬼、鬼、子鬼、妖獣、土蜘蛛に橋姫につるべ落としに、また鬼。さっきから聞こえていた音は、何のことはない、地底の妖怪たちの宴会のばか騒ぎで、そう考えると、何の不思議も、特別なこともなく、いつもの日常的な地底の風景だった。地底の妖怪たちときたら、とにかく何かにつけて騒ぎ立てる連中で、良いことがあったときも、悪いことがあったときも、とりあえず酒酒酒の酒づくしであり、こうやって、人目をはばからずに大通りで酒を呑んでのどんちゃん騒ぎなんてしょっちゅうだった。ただ、それにしてもいつもより規模がおっきいことだけ、気になって、あれ、やっぱり今日は、なにか特別な日なのかしらん、と首をかしげて、それから、じゃあさっきの甘い匂いはなにかしら、と不思議に思った。酒呑みは、大体において辛党である、さっきの甘い匂いを発するような甘味は、酒には合わないから、と酒の場には供さないのがふつうだ。だとしたら、さっきの甘い匂いはいったいどこから来たんだろう?
 わたしは、無意識のベールを身にまとい、周りから気づかれないようにしながら、きょろきょろとあたりの様子をうかがった。そうして、ばか騒ぎする妖怪たちの肩越しにそれを見つけて、目を丸くした。

 少し離れた向こうのテーブル、そこに白い巨塔がそびえ立っていた。
 ちょっと距離があるけれど、その異形はそれでもわたしの目を釘付けにして、わたしは、目をまん丸くしながらその白い塔に見入っていた。その塔は、上に向かってだんだんと小さくなる円柱を積み上げたような形をしていて、その段々畑のようになってる側面に、見張りみたいにして赤い丸いイチゴが突き立っていて、白く突き出した尖塔みたいな生クリームが飾られていて、それから、ここからではよく見えないけれど、そのてっぺんにも何やら砂糖菓子みたいな豪華な飾りやイチゴたちが乗っかっていて、なんともふてぶてしく、この宴会の場に鎮座していた。酒の場にあるにしてはとてつもなく不自然な、イチゴと生クリームの巨大ケーキだった。
 なんでこんなところに、イチゴのケーキが? 考えながらわたしは、じいっとそのケーキを見つめていた。この場には間違いなく不釣り合いな塔は、それでもなおわたしを惹きつけて離さなかった。その周りには、いかにも呑みの席にふさわしい料理、例えば乾き物だとか、揚げ物だとか、サラダだとかが囲んでいたけど、今この瞬間にはそれらは、その中央にそびえ立つ生クリームの巨塔の引き立て役でしかなかった。
 わたしは、ふらふらとそのケーキに近づいていく。ひしめき、うごめく妖怪の海の間を懸命に泳ぎ、泳ぎ、わたしはついに、その巨塔のふもとにたどり着いた。そして、その瞬間、甘い匂いがわたしの鼻をついた。そうだ、確かにこの匂いだ、わたしはこの匂いに誘われてここまで来たんだ、と強く思った。こんなところになにゆえケーキが備え付けられるに至ったか、それはわたしにはわからないが、そんなことはどうでもよかった。
 見ると、ケーキの目の前に席がぽっかりと空いていた。ここ以外の席は鬼たちが暑苦しいくらいに肩を組んで呑み比べをして騒いでいるというのに、不思議なくらいここばかりが密度が低かった。きっと、やっぱり鬼たちは甘い甘いケーキなど興味がなく、そんなものを目の前にして酒が呑めるか、とか思ってるんだろうなあ、って納得しながら、わたしはこっそりその席についた。わたしは当然お呼ばれしてない身だから、見つかったら屈強な鬼たちに文字通りつまみ出されてしまうに違いない。だからわたしは、無意識の力を相変わらず使ったままで、みんなに見えないようにしながら、いただきます、と心の中でつぶやいて、手を合わせた。
 見れば、目の前にはおあつらえ向きに、フォークと、取り分ける小皿まで乗っている、これは運命のいたずらか、わたしを待っていたみたいじゃないか。わたしはいそいそとフォークを手に取る。隣では、鬼が何やら喚いている、そんなの知ったこっちゃない、わたしの姿は誰にも見えないのだから、わたしに文句を言うやつなどどこにもいないのだ。フォークを構えて手をのばす、さて、どこから崩そう、どうやって食べよう、相変わらず喚き立てる鬼の怒声、ふと姉の顔を思い出す。そういえばわたしはなぜこんなところにいるのか、地霊殿に、お姉ちゃんに会いに行く途中ではなかったか。意識の連続がわたしを形作っていた、形作っていたはずなのに、わたしはこうして、無意識に、ケーキの甘い匂いに誘われて、それにかじりつこうとしている。そういえば、わたしはイチゴケーキが好きだった、お姉ちゃんにいつだったか、食べたいって言ったら、また今度ね、なんて言われたけど、お姉ちゃんはそんな約束を覚えてるだろうか。こんなケーキを作って、って頼んだら、今度こそお姉ちゃんは作ってくれるだろうか。――

「おらあ! 呑んでるかぁ!」
「ひゃっ!?」

 ぐいと。
 隣に座っていた鬼がこちらに体を大きく倒し、わたしの肩を引き寄せていた。
 思考の海から引っ張り出されて、わたしは思わず目を白黒させた。
 わたしは、わたしを抱き寄せてアルコール臭い息を浴びせてくる鬼の顔をまじまじと見た。ボサボサの長い金髪、額から伸びる紅い一本角、がっしりとした顔つき。そこにきて初めて、隣に座っていたのが、鬼の四天王が一人、星熊勇儀さんだということに気づいた。

「なんでっ」

 なんで? なんでなんで?
 わたしの頭の中に、思考が渦巻く。なんでわたしに気づいたの? なんでわたしを認識したの? さっきまで、いや今も、わたしは無意識の能力を使って、周りのひとたちの認識をごまかしている、はずだった。
 わたしはどぎまぎしながら、勇儀さんの顔を、見つめることしかできない。
 勇儀さんは、わたしの肩に回してない方の空いた手で、ぐいと杯をあおってから、ハッハ、と快活に笑う。

「どうして、だあ? はン、知れたこと。こんな酒の場になあ、お前さんみたいな、素面の妖怪が混じってたら、嫌でも匂いで分かるってもんさね。目立つんだよなあ、お前みたいな、酒の匂いをさせてない妖怪が混じってたりしたら。まったく、辛気臭いったらありゃしない。こういう場では、誰でも倒れるまで呑むってのが礼儀ってもんだ!」

 それは鬼だけのルールだ、と指摘しようとした、けど、わたしが何か言うよりも早く、勇儀さんは、テーブルに置かれたグラスを掴み取ると、わたしの顔の前にぐいと押し付けるようにした。わたしは、お酒が強くない、甘党だし、なによりケーキが食べたくて、ここに寄っただけなのに。だから遠慮したいのだけど、勇儀さんのその太くたくましい腕にわたしはがっちり掴まれていて、逃げ出せなかった。こりゃまいったな、どうしようかな。
 考えているうちにも、ぐいぐいと強引に顔に押し付けられるグラス、それはわたしに酒を呑ませようとするよりもむしろ、勇儀さんはグラスを判子かなにかと勘違いしてて、わたしの顔に、それを押そうとしてるんじゃないかと思うくらいの押し付けだった。わたしは、その強引さにちょっとむっときて、絶対にお酒なんか呑むもんか、と口をきつく結んでみせた。
 だけど無駄だった。なぜなら、勇儀さんときたら、何を思ったか、わたしの鼻にぐいとグラスの縁を押し付け、それを流し込もうとするんだもの。ねじ込まれるアルコールの匂い、流れてくる、日本酒の奔流、こりゃまいった、って具合にわたしは自分から口を開けて、溺れないようにするので精一杯だった。口を開ければ当然、流れてくるのは怒涛のアルコール、口で受け止めて、仕方ないからちょっとずつ胃に流し込む。
 そんなわたしを見もせずに、勇儀さんはまた、快活にハッハッハ、と笑った。ぐいぐい押し付けられるグラス、わたしは懸命に液体を喉に流し込む、とカッと喉が焼けるような感触、そして、少し呑んだだけで、頭がくらっとして意識が飛びそうになる。無意識に連れ去られる直前みたいな感触とはまた違う、ふわふわとした浮遊感。気づけば、グラスにはなみなみと、新しいお酒が注がれている、また押し付けられるグラス、仕方がない、わたしは口を開く。ままよ、勢いよく流し込む。ふわふわとした浮遊感が強まり、顔がカッと熱くなる、ぐるぐる回る世界、目の前ではぐにゃりと白い塔がひしゃげて、それがおかしくて笑って、それからどろどろに体が溶けた私は、そのままぐでーっと流れていって、意識が霧散した。







   ◎






 呼び鈴がなった。私は、本から顔を上げ、柱時計に目をやる。20時を少し回ったところだった。私は本をテーブルの上に置き、安楽椅子から腰を上げると、玄関に向かった。
 扉を開けると、そこに立っていたのは、私が予期していた通りの人だった。星熊勇儀さん、地底の中でも指折りの実力のある鬼だ。
 私が「ご苦労様です」と言うと、何か言いたげに口をモゴモゴさせたが、結局なにも言わず、仏頂面をしながら、自分の肩を指さした。

「注文の品。確かに届けに来たよ」

 勇儀さんの肩には、少女が担ぎ上げられていた。
 眠っているのか、その少女はぐったりとして、微動だにしない。どっこいせ、と勇儀さんは肩からその少女をゆっくりと降ろすと、わたしにうやうやしく受け渡した。私は、その少女の背中と足を両の手でかかえるようにして、優しく抱きとめる。
 私は、少女の顔を覗き込む。

 古明地こいし。私の愛しい妹。

 こいしは、眠っていた。
 長いまつげ、くしゃっとしたくせっ毛、陶磁器のように白い肌、そして、上気した頬にはうっすらと赤みがさしていた。私はその安らかな顔と、そして両腕の確かな重みに、満足感を覚えながら、しばらくじっとこいしの顔を覗き込んでいた。
 その沈黙を、勇儀さんは、こいしの身を案じていると考えていて、補足するように付け加えた。

「眠っちゃいるが、そんなに呑ませてないよ。別に介抱が必要なほどではないと思う。といっても、妖怪が酒くらいでどうにかなるわけもないが。まあ、じきに目をさますだろうさ」

 勇儀さんは、やれやれと言いながら、文字通り重荷が降りたというように、腕をぐるぐると回しました。

「そうですか。わざわざすみません」
「別に、いいよ。そういう"約束"だからね。――ただ、それにしたってねえ」

 はあ、と深い溜息を吐く勇儀さん。

「妹を捕まえるためだけに鬼をアゴで使おうなんて、ホント、いい度胸してるね」
「お褒めに預り光栄です」私は、妹の癖の強い前髪を、優しく撫でながら、答える。「欲しいものを手に入れるのに、手段を選ぶつもりはありませんから」

 私が、勇儀さんにお願いした"約束"は、別段、大したことではなかった。
 一つ目、指定した日に、旧都の一番目立つところで、大きな宴会を開くこと。ただし、料理やその他セッティングは、費用含めて地霊殿がすべて負担する。
 二つ目、大きなケーキを準備するから、それを会場の一番目立つところに置くこと。
 三つ目、そのケーキには手をつけず、その前の席を、必ず空けておくこと。
 そして四つ目は――

「なんにせよ、あんなに恥ずかしい芝居まで打ったんだ。感謝して欲しいね」

 特定の周期で、ケーキの前の空席に向かって、酒を勧める芝居をすること。肩に手を回すふりをし、虚空に向かってグラスを押し付け続けること。まるで、そこに誰かがいるみたいに。
 そう、勇儀さんには、当然、こいしの無意識の力を見破る方法なんてなかった。ただ、当たるまで下手な鉄砲を打ち続けただけだった。そうやって、こいしを酔い潰し、能力を解除させ、連れてこさせた。そういう算段だった。
 勇儀さんは、そのときの演技風景を、頭に思い浮かべていた。読み取ったそれがあまりに滑稽で、思わず笑う。勇儀さんは、あからさまにむっとした。

「いえ、すみません。ええ、助かりました。おかげでこうやって、こいしを連れてくることができたのですから」
「ふん、まあ、内容はどうあれ、約束だからね。ちゃんと守るさ。あそこまで派手な宴会を準備してもらったんだ、あれくらいで、ただで呑んで食べて騒げたんだから、お釣りが来るぐらいだ」

 私に腕の中で、こいしが身じろぎする。
 目を覚ましたのだろうか、と思ったがちょっと体勢を変えただけで動きを止めると、また穏やかな寝息を立て始めた。

「それにしたってずいぶん、気前がいい話じゃないか。料理も場所の準備も、あの馬鹿デカいケーキも、相当手間もお金もかかってるんだろ」
「大したものではありません」
「大したもんじゃない、ねえ。あれだけ大規模な宴会を計画しといて、よくまあ言えたもんだ。それに、だ。たまたまうまく行ったからいいものの、失敗する可能性だって高かったんじゃないかい? 例えば、もしたまたま、こいしが旧都を通りかからなかったらどうするんだい? 全部、水の泡じゃないか」
「そうならないために、最善は尽くしました。今日はペットに頼んで、旧地獄で、いつもより多めに死体を焼いてもらったんです。旧地獄では炎が燃え盛り、地下で暖められた空気は、地上に向かって大きな塊となって押し出される。地底は、間欠泉などの例外を除けば、出口が一つの一方通行です。出口に向かって、甘い匂いを乗せた風を、目一杯吹かせました。こいしが好きな、イチゴのケーキの甘い匂いを」
「こいしが地上にいたらどうするんだい」
「念のため、寺や神社など、こいしがいそうなところには、あらかじめペットを送り込んでます。見つけたら力ずくで連れてくるよう」
「それにしたって……」

 なおも、勇儀さんは、質問を続けようとした。が、結局、何も言わずに、口をつぐんだ。押し問答したところで、何も得るものはないし、ということに彼女は気づいていた。


 言われなくても、わかってる。
 この作戦が、ひどく脆弱で、成功率の低いものであることなど。可能性の上に可能性を重ねた、砂上の楼閣のような話であることなど。
 だけど、それでも良かった。成功するはずがない、と最初から投げるのではなく、できる限りのことをするつもりだった。だって、今日は――。
 気づけば、勇儀さんは、苦虫を噛み潰したような顔で、私を睨んでいた。

「あんたは」勇儀さんは、言葉を切り、ふう、と深く息を吐く。「あんたは、それを美しい姉妹愛だと思ってるのかもしれないがね。あんたのそれは異常だよ。普通じゃない。はっきり言って気持ち悪い」

 勇儀さんは、指を突きつけて、指摘してくる。

 ――ああ、やっぱり、この鬼は好きだ。覚り妖怪に対して、ここまで、言いたいことをはっきり言ってくれる妖怪は、なかなかいない。まあ、そう言ったら余計気持ち悪がられるだろうから、言わないけれど。
 だけど、ひどく的外れだ。私はくすりと笑う。

「それが何か? もとより、嫌われものたちでしょう、私たちは。嫌われ、気味悪がられた存在が、普通や常識を重んじて行動を慎まなければいけない理由など、どこにもない」

 勇儀さんはさらに顔をしかめた。
 それから、何か言いたげにしていたが、何も言わず、おもむろに髪をがしがし乱暴にかくと、

「あんたは、立派に妖怪だよ」

 なんて、捨て台詞だかなんだかわからない台詞を吐いて、乱暴に扉を閉めて、出ていった。








 ◎ Θ








 私は、こいしをソファに優しく横たえて、毛布をかけた。
 地霊殿の居間は静かだった。例の作戦のために、ペットはほとんど出払っている。だけど、そろそろ戻ってくるはずだ。こいしが見つからなくても、日付が変わるまでに戻ってきなさい、と言いつけてあったから。
 こいしが目を覚ましたら、パーティをするつもりだ。
 戻ってきたペットたちと、私と、こいし。身内だけの、小さな小さなパーティ。まだ行われてるであろう、旧都のどんちゃん騒ぎ、それとは比べ物にならないくらいささやかな、でも、大切な祝いの席だ。
 さあ、こいしが目を覚ますまでに、パーティの準備を終わらせてしまおう。料理はすでに出来上がっているので、それを温め直して。紅茶を淹れるのは、まだ早いかしら。それから、鬼たちに運んできてもらったイチゴケーキも、テーブルの上にセットして。こいしが起きたら、きっと驚くだろう。それから。――

「お姉ちゃん?」

 その声に、私は振り向く。
 目を覚ましたらしいこいしは、寝ぼけ眼で、ぼーっとこちらを見ていた。目と目が合う。私は微笑んで、今日あったら言おうと思っていた、とっておきの言葉を紡ぐ。



ハッピーバースデー、こいし。
大豆まめ
http://twitter.com/isofurab
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.100簡易評価
1.100サク_ウマ削除
最後の最後で文の間のマークの意味に気付いて唸らされました。
素晴らしかったです。二人への愛を感じます。目的の為ならどんなに勝率が低くとも賭けをしてみせるさとり様がとても素敵でした。上手く転がされてるこいしちゃんも可愛い。
素晴らしい作品でした。大好きです。
2.90奇声を発する程度の能力削除
マークの表現が良かったです
楽しめました
4.100終身削除
謎が最後に一気にほどけていく感じが気持ちよくて良かったです。暖かい感じもあってほのぼのとして読んでいて楽しい作品でした
5.100モブ削除
上手くまとめられないので。面白かったです。御馳走様でした
6.100イド削除
二人が愛おしいです。素晴らしい作品でした。
7.100上条怜祇削除
異常な姉妹愛だ!?
それが良いんですよ勇儀さん!!
最高のお話でした!
随所に散りばめられたオノマトペも雰囲気を形成しててよかったです!
110点、これ以上の評価は出来ない点数ね。
8.100南条削除
大変面白かったです
文章が綺麗に組み立てられていて読んでいて気持ちよかったです
さとり様の愛が詰まっていますね
まさにこいしの日でした
9.100ヘンプ削除
何がなんでも連れてきたいお姉ちゃん、とても良いです。
妹を思っているんだな、と思いました。
こいしもさとりのことが好きなんだと。語彙が本当にありませんけれどとても良かったです……!
10.100すずかげ門削除
こいしちゃんの一人称がすごくやわらかく細やかで、まさしくこれはこいしちゃんの思考のトレースだなと思わされました。
カラの椅子に向かって声をかけ続ける勇儀、傍で見ていた鬼妖怪らはどう思ったか。鬼でも酩酊することがあるんだな、なんて思ったのかな。律儀に役目をこなした勇儀に乾杯したいですね。
すごく良かったです。ハッピーバースデー!