『箱』
晴れて暖かい日だった。無縁塚の見回りを終え帰ってきた私、ナズーリンは、書見机と椅子を抱え出して南向きの窓の下に運んだ。そうして窓から斜めに差し掛かる昼の光をくぐり、服さえ着替えないままそこへ腰かけた。帰宅後はすぐに甕の水で顔を洗う心地よさが長年身に沁みついている私にとって、こんな習慣の変化はおろそかなことではないはずだった。
机に向かった私は背負ってきたかばんをようやく膝の上に置き、中から小さな紙箱を一つ、そっと取り出した。東の小高い丘の上で見つけた、その日唯一の収穫物だった。頼りない紙箱をうっかり潰すまいとして、また落とすまいとして、慎重な力加減を意識する私の手はかすかに震えていた。鼻から細く息を吹こうとして、その息も震えていた。
素晴らしい箱だった。その、「滋養豊富」「風味絶佳」「森永ミルクキャラメル」と書かれた手のひらほどの長方形の紙箱以上に素晴らしい箱を、私は今日まで見たことがなかった。私は本当に驚いていた。改めて眺めつけると、私は日差しの中で胸まで苦しくなり、身動きもできなかった。
箱の全体は狐の毛のような色をしていた。棘のないまろみがかった黄色、深い色だった。四角い筒状の外箱で内箱を包んだだけの単純な構造をしていた。
六面には全て細かな黒い文字が書かれていた。というよりも、箱はほとんどそうした文字のみによって装飾されていたのだった。様々な書体を使い分けた大小の活字が、箱の全体を美しく覆っていた。文字以外の図柄としては、箱の天部の広い表面に白く抜かれた何やら薔薇のように見える縁取りと、その上の方に小さくくっつけられた天使の印のみだった。その天使ですら、顔貌の読めないほど簡単な描かれ方で済まされているくらいのものだった。
箱全体を覆っているその文字たちを、私は読もうとした。しかし読むことはできても、その意味はほとんど解らない。文章を成さない言葉や数字を羅列しているだけの部分も多く、とりわけそうした部分には手のつけようもなかった。例えば、側面にある「お客様相談室」という夢の中にでも出てきそうな不思議な言葉の後ろには、「0120……」と暗号らしき数字が続き、その意味するところを知るための何の手がかりもないのだった。
しかし、中には理解できそうな意味の通った文字列もいくつかはあった。そうした部分はわずかではあったが、それでも表に踊っている「滋養豊富」「風味絶佳」という謳い文句と合わせて推測してみると、箱の中身が食べ物であることだけは、どうやら確からしかった。
内箱の底面にはこんな文句が見つかった。
「外側を透明フィルムで密封包装しています」
「歯科治療材が取れる場合がありますのでご注意ください」
「開封後はお早めにお召し上がりください」
いったい何という親切さ優しさか、初めて読んだとき、私は自分の目が信じられず同じ一文を三度読み返してしまった。どんな奇妙な要求がこれを書かせたのだろうか、想像しようとした私は思わず気が遠くなった。この箱の作られた場所が、彼岸ほど遠くに感じられたから。
また外箱の裏には「ピーナッツを含む製品と共通の設備で製造しています」とも書かれていた。この謎めいた一文はあまりにも感動的で、特に私の胸を苦しくさせた。
「商標登録」
「登録商標」
「あけくち」
「SINCE1913」
「キャラメル・ウォーキング」
「ミニチュア森永6/6」
「49810462」
「プラ」
「紙」
「個包装、箱」
「ベルマーク1点」
その他にもいちいち考えようとすれば気を落ち着けるのに一年はかかりそうな、無数の不思議な言葉たちが箱を覆っていた。
私はこのまま胸を潰されて息が止まりそうな気がした。私は美しい箱の前でしばらく躊躇してから、興奮した頭を鎮めるために一度思い切って目を閉じることにした。
すると、目を閉じた私に向けて箱は再び驚くべき威力を発揮した。
目を閉じて感じる箱の大きさ、重さ、形、その手応えは完璧だった。軽く上下に振ってみると、箱の中で固い物たちが揺れ、コトコトと小気味よい音で互いに弾き合っていた。丘の上で初めて箱を見つけて拾い上げたときの新鮮な感触が、無造作に箱を振る瞬間瞬間に再現されるようだった。私はすぐにこの遊びに魅了されてしまい、手を止めることが出来なくなった。一振りごとに痺れにも似た感触がだんだんと手首を伝わって全身に響いた。数分もそうしていると、先ほどまで胸を締めつけていた興奮とは逆に、湖の底に座っているかのような落ち着きが私を訪れた。
箱の生み出す痺れが顔までやってくると、瞼の裏から透けて見える光が質を変えたような気がした。頬に感じる空気ははっきりと柔らかくなった。世界が別物に変化したような気がした。しかしもちろん、変化したのは私の方だったのだろう。
再び目を開けたとき、私はもう安心して箱を見ることができた。箱は相変わらず私にとって大きな謎の塊ではあったが、もう私をうろたえさせることはなかった。それでいて、窓から注ぐ七色を含んだ陽光に照らされながら、あの深い狐色の外箱はいっそう美しく、火のように輝いていた。
この箱はまるで、と私は胸中呟こうとして、すぐにやめた。これは本当に素晴らしい箱だ、と代わりに思った。結局、素晴らしいという言葉しか私の手元には見つからなかった。
明日になったら久しぶりに寺へ出向いて、この箱を主人に見てもらおう、と私は決めた。箱のための言葉は、そのときまでに見つけておけばいい、と思った。
私はふと、いつか主人を相手に自分の仕事について話したときのことを思い出した。
「私は探したいのです」と私はいつか主人に言ったのだった。
「私が探したいのは」と私はまた主人に言った。「きっとまだ誰も探そうとしたことのないものなのです。そして私がそれを探そうとしたということの証明に、私はそれを見つけ出したいのです」
「そのためには、誰も探そうとしたことのないものが何なのか、まずその正体を探さなければならないでしょう」
「しかし、それは不可能でしょう。きっと、それが何なのかを見つけるより先に、つまり実際に探そうとし始めるより先に、それは実際に見つかってしまうでしょう。しかも、実際にそれを見つけるのは私ではない場合がほとんどでしょう」と私は主人に言った。「もしも私がそれを見つけることができたとして、私はどうやってそれをそれと知ることができるでしょうか。いったい私のしていることは、何なのでしょうか」
「ダウザーは、いつもそのような矛盾を乗り越えようとしています。と言うよりは、ダウザーとはそもそも矛盾を抱えた仕事なのです。不可能な仕事なのです。見つからない場所へ隠れているものを、自分だけは見つけようというのです。だから見つかるということは、一つの神秘です」
「私はときどき、自分のしていることは、実はただ待ち続けることでしかないのではないかと思うのです。そんな神秘の訪れを、辛抱強く待っているのではないかと……」
それは大変昔のことだったのに、細部まで明確な記憶だった。なんだか今日のために大事にとっておいたもののような気がした。
私は半ば陶然として箱を開けた。外箱の筒から内箱が引き出された。中には星のようにぴかぴか光る銀紙に包まれた小さなさいころが十二個可愛らしく並んでいた。一つをそっとつまみ上げてみると、嗅いだことのない甘い香りが鼻先に香った。私は破かないようにゆっくりと、柔らかく銀紙を開いた。
銀紙の中に包まれていたものについては、その甘い香りを凝縮させたような小さな四角い粒、と言うより他に言いようがない。私は何も考えず、しかし静かな予感とともにそれを唇に触れさせた。
そのとき、信じられないことが起きた。私ははっとして振り返った。部屋の中はいつの間にか真っ暗の闇だった。本当だった。驚いた拍子に甘い香りが私の唇を離れて消え去った。すぐに拾おうと床の上を手探りしたが、もうどこへ消えたのだか分からなかった。ほんの少し前まで眩しく輝いていたはずの箱の文字も、今は暗くて読めなかった。
顔を上げて窓の方を見た。窓硝子は一面に黒くなっていた。
「夜だ」
晴れて暖かい日だった。無縁塚の見回りを終え帰ってきた私、ナズーリンは、書見机と椅子を抱え出して南向きの窓の下に運んだ。そうして窓から斜めに差し掛かる昼の光をくぐり、服さえ着替えないままそこへ腰かけた。帰宅後はすぐに甕の水で顔を洗う心地よさが長年身に沁みついている私にとって、こんな習慣の変化はおろそかなことではないはずだった。
机に向かった私は背負ってきたかばんをようやく膝の上に置き、中から小さな紙箱を一つ、そっと取り出した。東の小高い丘の上で見つけた、その日唯一の収穫物だった。頼りない紙箱をうっかり潰すまいとして、また落とすまいとして、慎重な力加減を意識する私の手はかすかに震えていた。鼻から細く息を吹こうとして、その息も震えていた。
素晴らしい箱だった。その、「滋養豊富」「風味絶佳」「森永ミルクキャラメル」と書かれた手のひらほどの長方形の紙箱以上に素晴らしい箱を、私は今日まで見たことがなかった。私は本当に驚いていた。改めて眺めつけると、私は日差しの中で胸まで苦しくなり、身動きもできなかった。
箱の全体は狐の毛のような色をしていた。棘のないまろみがかった黄色、深い色だった。四角い筒状の外箱で内箱を包んだだけの単純な構造をしていた。
六面には全て細かな黒い文字が書かれていた。というよりも、箱はほとんどそうした文字のみによって装飾されていたのだった。様々な書体を使い分けた大小の活字が、箱の全体を美しく覆っていた。文字以外の図柄としては、箱の天部の広い表面に白く抜かれた何やら薔薇のように見える縁取りと、その上の方に小さくくっつけられた天使の印のみだった。その天使ですら、顔貌の読めないほど簡単な描かれ方で済まされているくらいのものだった。
箱全体を覆っているその文字たちを、私は読もうとした。しかし読むことはできても、その意味はほとんど解らない。文章を成さない言葉や数字を羅列しているだけの部分も多く、とりわけそうした部分には手のつけようもなかった。例えば、側面にある「お客様相談室」という夢の中にでも出てきそうな不思議な言葉の後ろには、「0120……」と暗号らしき数字が続き、その意味するところを知るための何の手がかりもないのだった。
しかし、中には理解できそうな意味の通った文字列もいくつかはあった。そうした部分はわずかではあったが、それでも表に踊っている「滋養豊富」「風味絶佳」という謳い文句と合わせて推測してみると、箱の中身が食べ物であることだけは、どうやら確からしかった。
内箱の底面にはこんな文句が見つかった。
「外側を透明フィルムで密封包装しています」
「歯科治療材が取れる場合がありますのでご注意ください」
「開封後はお早めにお召し上がりください」
いったい何という親切さ優しさか、初めて読んだとき、私は自分の目が信じられず同じ一文を三度読み返してしまった。どんな奇妙な要求がこれを書かせたのだろうか、想像しようとした私は思わず気が遠くなった。この箱の作られた場所が、彼岸ほど遠くに感じられたから。
また外箱の裏には「ピーナッツを含む製品と共通の設備で製造しています」とも書かれていた。この謎めいた一文はあまりにも感動的で、特に私の胸を苦しくさせた。
「商標登録」
「登録商標」
「あけくち」
「SINCE1913」
「キャラメル・ウォーキング」
「ミニチュア森永6/6」
「49810462」
「プラ」
「紙」
「個包装、箱」
「ベルマーク1点」
その他にもいちいち考えようとすれば気を落ち着けるのに一年はかかりそうな、無数の不思議な言葉たちが箱を覆っていた。
私はこのまま胸を潰されて息が止まりそうな気がした。私は美しい箱の前でしばらく躊躇してから、興奮した頭を鎮めるために一度思い切って目を閉じることにした。
すると、目を閉じた私に向けて箱は再び驚くべき威力を発揮した。
目を閉じて感じる箱の大きさ、重さ、形、その手応えは完璧だった。軽く上下に振ってみると、箱の中で固い物たちが揺れ、コトコトと小気味よい音で互いに弾き合っていた。丘の上で初めて箱を見つけて拾い上げたときの新鮮な感触が、無造作に箱を振る瞬間瞬間に再現されるようだった。私はすぐにこの遊びに魅了されてしまい、手を止めることが出来なくなった。一振りごとに痺れにも似た感触がだんだんと手首を伝わって全身に響いた。数分もそうしていると、先ほどまで胸を締めつけていた興奮とは逆に、湖の底に座っているかのような落ち着きが私を訪れた。
箱の生み出す痺れが顔までやってくると、瞼の裏から透けて見える光が質を変えたような気がした。頬に感じる空気ははっきりと柔らかくなった。世界が別物に変化したような気がした。しかしもちろん、変化したのは私の方だったのだろう。
再び目を開けたとき、私はもう安心して箱を見ることができた。箱は相変わらず私にとって大きな謎の塊ではあったが、もう私をうろたえさせることはなかった。それでいて、窓から注ぐ七色を含んだ陽光に照らされながら、あの深い狐色の外箱はいっそう美しく、火のように輝いていた。
この箱はまるで、と私は胸中呟こうとして、すぐにやめた。これは本当に素晴らしい箱だ、と代わりに思った。結局、素晴らしいという言葉しか私の手元には見つからなかった。
明日になったら久しぶりに寺へ出向いて、この箱を主人に見てもらおう、と私は決めた。箱のための言葉は、そのときまでに見つけておけばいい、と思った。
私はふと、いつか主人を相手に自分の仕事について話したときのことを思い出した。
「私は探したいのです」と私はいつか主人に言ったのだった。
「私が探したいのは」と私はまた主人に言った。「きっとまだ誰も探そうとしたことのないものなのです。そして私がそれを探そうとしたということの証明に、私はそれを見つけ出したいのです」
「そのためには、誰も探そうとしたことのないものが何なのか、まずその正体を探さなければならないでしょう」
「しかし、それは不可能でしょう。きっと、それが何なのかを見つけるより先に、つまり実際に探そうとし始めるより先に、それは実際に見つかってしまうでしょう。しかも、実際にそれを見つけるのは私ではない場合がほとんどでしょう」と私は主人に言った。「もしも私がそれを見つけることができたとして、私はどうやってそれをそれと知ることができるでしょうか。いったい私のしていることは、何なのでしょうか」
「ダウザーは、いつもそのような矛盾を乗り越えようとしています。と言うよりは、ダウザーとはそもそも矛盾を抱えた仕事なのです。不可能な仕事なのです。見つからない場所へ隠れているものを、自分だけは見つけようというのです。だから見つかるということは、一つの神秘です」
「私はときどき、自分のしていることは、実はただ待ち続けることでしかないのではないかと思うのです。そんな神秘の訪れを、辛抱強く待っているのではないかと……」
それは大変昔のことだったのに、細部まで明確な記憶だった。なんだか今日のために大事にとっておいたもののような気がした。
私は半ば陶然として箱を開けた。外箱の筒から内箱が引き出された。中には星のようにぴかぴか光る銀紙に包まれた小さなさいころが十二個可愛らしく並んでいた。一つをそっとつまみ上げてみると、嗅いだことのない甘い香りが鼻先に香った。私は破かないようにゆっくりと、柔らかく銀紙を開いた。
銀紙の中に包まれていたものについては、その甘い香りを凝縮させたような小さな四角い粒、と言うより他に言いようがない。私は何も考えず、しかし静かな予感とともにそれを唇に触れさせた。
そのとき、信じられないことが起きた。私ははっとして振り返った。部屋の中はいつの間にか真っ暗の闇だった。本当だった。驚いた拍子に甘い香りが私の唇を離れて消え去った。すぐに拾おうと床の上を手探りしたが、もうどこへ消えたのだか分からなかった。ほんの少し前まで眩しく輝いていたはずの箱の文字も、今は暗くて読めなかった。
顔を上げて窓の方を見た。窓硝子は一面に黒くなっていた。
「夜だ」
結局、素晴らしいという言葉しか私の手元には見つかりませんでした。
面白かったです。
美しい言葉でした……
ナズーリンが幻想入りした時期は分からないですから、こういう現代物は未知の物質である可能性もありますよね!
何よりも夢中になりすぎ、それを星との思い出にフィードバックさせていたら夜になっていたのは尊いです!
そしてあわよくばそんな乙女ナズと一緒にキャラメルを食べたい人生だった
なぜキャラメル箱ひとつでここまで面白くできるのか
時間を忘れて美にふけるナズーリンがよかったです
キャラメルの箱ひとつでここまで綺麗な掌編を書けるのはすごいなぁ
リンネもこんな感じだったのかな……なんて