地底の太陽
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古明地さとりが地霊殿の執務室に入るとガタンと大きな音がした。わざとらしくあたりを見渡しながらソファに向かってゆっくりと進む。ソファには人影はなかったがその後ろに腰を低くして隠れている人間の存在をさとりは簡単に分かった。
「隠れていてもわかりますよ。でてきなさい」
ゆっくりと警戒しながら、ソファの背から少女の顔が見えてきた。顔や手足には擦り傷が目立っているし、全体的に痩せている。
背丈はほぼ同じくらいだがさとりは下から少女の顔を覗き込む。少女は緊張で顔がひきつっており、さとりとは目を合わせようとしなかった。
「ナツキさん……ですか。なるほど、親の決めた結婚が嫌で逃げだして迷い込んだと。黒谷さんに見つかるなんてラッキーでしたね。さまよって餓死することのほうが多いんですよ」
一息でさとりが話すとナツキは目を見開きゆっくりと後ずさる。壁に背中がぶつかり下がれなくなるとと少しずつ横に移動して距離を稼ごうとする。
「ええ。妖怪です。心が読める種族なんですよ」
少しずつさとりはドアに向かって後ろに下がる。唯一の出入り口を失いナツキは絶望の表情を見せ始めた。
「大丈夫ですよ。食べたりはしません。ただ街中にいる妖怪は性格が悪いのも多くて食べられるかもしれませんね。しばらくはここにいていいですよ。においを消せば印象もだいぶ変わります」
倒れこむようにソファに座り込んだナツキしばらくうなだれた後、静かにすすり泣いていた。
-2-
「ナツキちゃん、料理上手だね。驚いたよ」
火焔猫燐が食べ終わった皿を台所に片付けながらナツキに話していた。テーブルに突っ伏したナツキは不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。
「家が貧乏だったから、たいていのことは手伝わされたの。家事、弟の面倒、庭仕事、大人と同じくらいに頑張ったわ」
「偉いね」
「まさか。そのぶん勉強をやる暇がなかったの。難しい文章とか計算とかは全然できない」
わざとらしく大きなため息をつく。
「それで大きくなったら嫁に出そうとしたのよ。食い扶持を減らすために決まってる」
ナツキは顔を上げてお燐を見つめる。地底に下りる途中でつけた擦り傷すっかり完治し、痩せた印象もほとんどなくなった。
「ここの方がまし。手伝った分ご飯はくれるし、お燐ちゃんみたいな優しい人もいる」
優しい人という呼び方に、お燐は耳をピクリと動かした。洗い物の手を止めてナツキのほうに向きなおった。声のトーンを若干落とす。
「あたいは妖怪だけど、気にしないの?」
「最初は怖かったけどね。話しやすくていい人だと思うよ」
「戻りたいとかって思わないの?」
「今のところないね。いい思い出ないし、戻り方なんて全然全然覚えてないよ。ていうか、ここで人間て私だけなんでしょ? 未練たらしくしたってどうしようもないよ」
深い意味もない言葉だったが、お燐はその言葉に返事ができず顔をそらした。
その変化をナツキは見逃さなかった。
「……いるの?」
「あたいは言ってもいいと思うんだけどね」
「口止めなの? どういうこと?」
事情を説明しようとお燐が口を開いたところで見計らったようにさとりが部屋に入り込んできた。さとりに続いて何人かの人間が入ってくる。
ナツキは一瞬空白の表情を浮かべたが、すぐに目の中に怒りの炎がほとばしった。
「だましてたのね」
「あなたが勝手に勘違いしてたんじゃないですか」
「あんたの命令なの? どういうこと」
「察しの通り、まれに人がおりてきます。けど、全員が友好的とは限りません。ほかの人間を巻き込んで騒ぎを起こす可能性がないかチェックしないと」
「だから、ここにいろって最初に言ったのね。頭の中を覗いてたの」
「私は責任のある立場ですからね。けど、あなたは大丈夫でしたよ。ハッキリと物を言う性格ですが、周りに合わせる協調性があります」
「もし危険だと思われていたら、どうなっていたの?」
「不慮の事故なんていつ起きるか、わからないものですよ」
半目を開けて不敵な笑みを浮かべたさとりと怒りを浮かべたナツキが睨みあっている中お燐はさとりの後ろの人間たちを見ていた。新しい仲間が増える喜びと現在ナツキが抱えている怒りへの同情が混ざった表現しづらい感情が顔に浮かんでいて、自分にはこんな顔は作れないなと、お燐は思った。
-3-
「ごめんください。配達に来ました」
目の前に広がった大きな船に向かってナツキは声を上げた。近くに湖どころか水たまりすらない環境では船はむなしく見えた。
「はーい。中に来てください」
声の方角に向かってナツキが階段を上り始めると船の中腹ぐらいの高さで雲居一輪が待っていた。ギシギシと床板が鳴る音に気付いて一輪がナツキに振り向いた。
「お、あなたが新入りね。よろしく」
「よろしくお願いします。って、もう知れ渡ってるんですね」
「こんな場所だとね。すぐに広まるものなのよ」
ナツキから配達の弁当を受け取り、代金を渡す。
ナツキはすぐに立ち去ろうとしたが一輪が話題を振って呼び止めた。
「なんか嫁入りから逃げたとか聞いたけど」
「そうです。逃げる途中で迷ってここにきてました」
「いい度胸してるわ。そういう子ならここでもやっていけそう」
一輪は屈託のない笑顔を向ける。人当たりのよさそうな先輩といった様子だ。
「雲居さんほどではないですよ。長い間ここにいるって聞いてます」
「頑固なだけよ」
船の中ほどから地底世界の街並みがいつもより広く見渡せた。活気はあっても薄暗い街並みにナツキの視線が落ち込んだものになった。
「悩んでるの?」
「まあ…… これからどうしようかなと」
「ここに来たばかりの奴はみんなそうなる。何かしらの理由があるやつばかりよ。道は2つ。周りに合わせるか、意地を張るか」
「雲居さんは意地っ張りってことですか?」
「地上で待ってる人がいるからね。いつかこの船と一緒に上がってやる」
彼女らの噂は既に勤め先の間で聞いていた。かなり昔からここにいるのに少しもあきらめないその様子はまぶしく、底知れ意志の強さをナツキは感じ取っていた。
「すみません。お店に戻ります」
「そうね。邪魔しちゃってごめんね」
ナツキと離れた一輪がさらに船を登ると村紗水密が待ち構えていた。
「また話してたの」
村紗の表情はあきれ返っていた。
「これで何人目よ?」
「0人よ。まだ、誰もまともに救えてない」
硬質な岩を思わせる固い声色で返事をする。先ほどのナツキとの会話とは雰囲気が違っていた。
「何百年も色んな人間を背負いこんで、助けられずに見届けてばかりじゃない。何が楽しいの?」
「楽しいとかじゃない、目指してるものがあるからよ」
ただひたすらに岩のような意地がそこにあった。
「事情はどうあれ、こんな太陽の光が届かないような地の底に落ちて、絶望して死んでいくなんて悲しいでしょ。嘘でもなんでも支えを作らなきゃいけないの。私はそういう道を選んだの」
離れていく一輪の背中に村紗は聞こえないくらい小さな声でつぶやく。
「一番救われたいのは……あんたでしょ」
-4-
水橋パルスィが戸を開けて店に入ると、たくさんの熱気と声に圧倒された。人ごみをかき分けながらカウンターを見つけ座り込むと、目の前のナツキに声をかけた。
「久しぶり、お酒頂戴」
「あらパルスィだ。久しぶりね」
笑顔を振りまきながら酒とお通しを置く。パルスィはずっと静かな顔でナツキの顔を覗き込んでいた。
「いつも一人で来るわね」
「私が誰かと飲むなんて柄じゃない」
「そんなの気にしなくていいでしょ」
ほかの客からの注文も聞きながらナツキはパルスィの前を行ったり来たりしていた。
「で、今日はどんな妬みがあるの?」
井戸端会議のような気軽さでナツキは聞く。彼女との付き合い方はすっかり習得していた。
「あんたよ。彼氏ができたって聞いたから」
「残念。もう別れた」
一瞬パルスィは目を大きく見開き緑色の瞳を見せつけたと思うとすぐに目を細めた。
「あっという間だったのね」
「イマイチなやつだったから。口を開けば地上とか昔の話ばっかり。ここにいるべき人間じゃないってのが口癖の卑屈なやつだった」
あっけらかんとナツキは話す。聞いてくれるのを喜んでいるようだった。
「あんたは帰りたいとは思わないの?」
「思ってたんだけどね。何回か登ろうとしても道に迷うか低級な妖怪に追われて終わったわ。今じゃほとんど諦め。いいところだとは思わないけど私目当てで来てくれるお客さんもいるし、いつかお店を持とうかなと思ってる」
パルスィの前にお酒と追加のつまみを出す。彼女の好みに合わせたメニューだった。
「前言撤回。やっぱりあんたは妬ましいわ」
勝ち誇った笑顔をナツキは見せつけていた。
-5-
完成したばかりの店内をナツキはゆっくりと見渡す。まだテーブルやイスも満足に入れていない空間で新しい木材の匂いと音が反射して響き渡りそうなしんとした雰囲気が空間を満たしていた。
後ろから見守っていた黒谷ヤマメが声をかけた。
「どう?」
「うん。いい感じ」
新しい店ができたにも関わらず、ナツキの声は浮足立った様子もなくむしろ沈み込んでいた。
ヤマメはその理由を知っていた。
「旦那さん、残念だったね」
「ありがとう」
ぶっきらぼうに、感情を表にださないようにナツキは淡々と返事をする。
「訴えは出したの?」
「どう言えっていうの? 夫が街中で殺されました。犯人は妖怪かもしれませんが調べてくださいって? ここじゃあ、誰も調べてくれないわ」
早口でナツキは返事をする。隠そうとしている感情を察して、ヤマメはぐっと言葉を飲みこんだ。かけるべき言葉も見つからなかった。
「せっかくお店ができたのに、一人じゃ大変でしょ」
「そのことだけど、ケントを雇おうかと思っている」
その名前にヤマメは引っかかりを覚えた。
「あの子。混血だよ」
「知ってる」
あまりにもそっけない返事にふたたびヤマメは沈黙した。彼女の真意を測れなかったのだ。
「わかってるわよ。トラブルのもとになるって言いたいんでしょ。私だってそのくらい分かるわよ」
ナツキは少し顎を上げた。声量も大きくなる。
「けどね、だからやる必要があるのよ。人間からも妖怪からも好かれないで、このままだとまともな人生を送れないかもしれない。そういう子はね技術とかお店とかをもって時間をかけて信頼を勝ち取るしかないの。このまま働かせて一人前になれたらこのお店を譲ろうと思ってるの」
ヤマメは感嘆の声をあげながら小さくうなづいた。
「あんた立派になったね。私が拾ったときなんか気が強いだけの人間だったのに」
「やめてよ。私は立派じゃない」
ナツキは一瞬だまりこんだ。ためこんでいた思いを言葉にするのに一瞬だけで十分だった。
「私は人生の押し付けが嫌で逃げだしたの。逃げて逃げてこんな太陽の光が届かないような場所に来ちゃった。うまくいかないし、本当は泣き叫んで、全部放り投げたい。けどね、ちょっとは何か、誰かの将来に爪痕ぐらい残したい。悪あがきのひとつくらいしたいの」
ナツキの言葉は開き直りでもあり、前向きにも聞こえた。けれど、どちらの意味であっても意志の強さは感じられた。こんな意志の強さを出せるのはきっと人間だけだとヤマメは思った。
「さて、暗い話はここまでにして、明るくしましょう。今日はヤマメちゃんにごちそうするわ。新品の厨房でたくさん作ってあげる」
ナツキの笑顔は取り繕ったものであるにしろ、輝いていた。
-6-
椅子に座ってまどろんでいたが、ドアが閉まる音が聞こえナツキは目を覚ました。顔を上げると一輪が膝をついてナツキの顔を覗き込んでいた。彼女の服装や見た目などの印象がずいぶんと明るくなっていた。
「久しぶり」
「久しぶりね。また会うなんて思ってなかった」
一輪は自慢げに笑顔を向ける。内側からあふれる自信を象徴しているようだった。
「ここに来るまで大変だったわ。会うやつらみんなに揉みくちゃにされた」
「当り前よ。船と一緒にいなくなってどんだけ大騒ぎになったと思ってるの」
その時期はひたすらに騒がしかった。地霊殿で騒ぎがあったのかと思えば、船が消え、地上との交流が表立って行われるようになったのだ。ナツキは何も知らぬまま、全く無関係なところで世界が変わりつつあった。
「待たせちゃったわね。迎えに来たの」
一輪の言葉の真意がつかめず、ナツキは首をかしげた。
「地上で昔の友人に会ったの。みんなで寺を開いたから、ナツキを招待するわ。地上に戻れるのよ」
その言葉の意味をかみしめるのに時間がかかった。忘れていた記憶が、想いが、彼女に洪水となって押し寄せてきた。
そして、ナツキは首を横に振った。
一輪は眉間にしわを寄せないように、けれども眉はしっかりと上げた顔でナツキを見た。
「どうしてよ。何を遠慮してるの?」
一輪はナツキの手に自らの手を重ねた。
「どれだけ時間がたったと思ってるの。もう知ってる人なんてほとんどいない。出家信者ってことにすれば誰も詮索してこない。これ以上のチャンスはないわ」
それでもナツキは首を横に振った。「いいわ。行くつもりはない」
一輪はしばらく黙って、静かに、けれど強い思いを込めて言った。
「死ぬ前に太陽と青空を見ましょう。そのぐらいやってもバチは当たらないわ」
その言葉に、ナツキは視線を落とし一輪の手と己の手を見た。出会ったばかりのころは同じくらい綺麗な肌をしていたのにナツキの手はかさつき、数えきれないしわを刻んでいた。しわは手だけではなく、顔にも出ていたし髪も白くなった。
しわ一つ一つに何かしらの意味があると云わんばかりにナツキは己の手を見つめていた。
「いいの」
「どうしてよ。ここが気に入ったの?」
「まさか。ここは良い場所じゃない。けどね、ここに長く住んでたくさん泣いたし、怒ったし、笑いすぎた。地上には太陽と青空はあるけどそれだけよ、何もない。友人や夫がいるここで眠らせてほしいの」
一輪はゆっくりとナツキから手を離した。
「ねえ、幸せだった?」
「楽じゃなかった。けど残せたことは確かにあったの」
一輪はそれ以上言えなかった。ナツキの表情はとても穏やかで、太陽の光を浴びて日向ぼっこをしているようだった。
あまり良く思わない人も居るかも知れないので
私には分かりませんけれど、雰囲気とか、とても良かったです。
地底でどっこい生きていく主人公が読んでいて楽しかったです
作中で数十年もの時間が経過している姿が丁寧に書かれていて面白かったです
ある意味ナツキは一人の人間でしかなく主人公ではないように感じ取りました。だからこそ彼女の所感は非常に等身大で、すごく良かったです。