屠自古は荒れ果てていた。普段抑え込んでいた感情がここぞとばかりに漏れ出している。
青娥は見誤っていた。普段はお硬い屠自古が一度崩れるとここまで脆いとは。
芳香は笑っていた。死体人生初めての酒と、いつもと違う二人の姿を心から楽しんでいた。
「あのさぁ、私らってなぁ、好きで閉じこもってねえってんだよぉ!」
「屠自古なだけに閉じこもり、ってかー? あはははは!」
嗅いだだけでも喉が焼けそうな強烈な酒の香。焼け焦げた川魚の香ばしい脂の匂い。山菜の天麩羅の油がぱちぱちと弾ける音が加わり、それが一層と人の欲望をかき立てる。
ここは幻想郷の人里に古くから構える居酒屋の一角である。表通りから離れている故に客入りは決して盛況とは言えないが、年季の入った常連が集う隠れた名店だ。常日頃ならば酒と油と中高年親父の香りが漂う店内だが、今日はくすんだ着物の男の群れの中に混じって否応にも浮いている三人が居た。神霊廟の表に出してはいけない方こと、蘇我屠自古・霍青娥・宮古芳香の、稗田家当主お墨付きの高危険度トリオである。目立ちたくない屠自古たっての要望で店の隅っこに陣取っているのだが、それが自らこの様では甲斐もない。
「……んもう。おじ様ぁ、お冷をいただけるかしら。ほら屠自古さん、周りを御覧なさいな。おじ様方がすっかり怯えてるじゃないの」
さしもの邪仙も他に抑え側の人間が居なくなれば自分がそうせざるを得ない。青娥としてもそれで相手をして貰えるのであれば、構ってちゃんとしては本望なので良いのだが。
「よしよし。屠自古はいつも頑張ってるもんなー。屠自古はいい子だなー」
「芳香ぁ……お前だけだよ、そういう事言ってくれるのはさぁ。太子様なんかなぁ、太子なんかなあー! 寺に行ったっきり帰って来ないもんなあ!」
酔いに任せて上司の愚痴。それは酒の席では全く珍しい話ではないのだが、今回ばかりはさしもの青娥も肝を冷やしていた。青娥の体は酒を呑んでも呑んでも冷える一方だ。
好き勝手を言うのは私の役ではなかったのか。私に目立つ真似はするなと口を酸っぱくして言っていたのは誰だったのか。何故私がこんな気苦労をしなければならないのか。どうして誘ってしまったのか。
そもそも、青娥はともかくとして、何故屠自古と芳香までもが人里の居酒屋で呑んだくれているのか。その発端は今より数刻ほど遡り──
「屠自古さんってぇ、この掃除機に入ったりできませんの?」
蘇我屠自古はピリピリしていた。理由は明白である。
気付けばふらっと居なくなり、油断した頃にふらっと帰ってくる、自由迷惑極まりない邪仙。その霍青娥は屠自古の心を悩ませ続ける人物だった。
「お前の言う事はいつもよく分からん。日本語を話せ。ここは幻想郷だ」
「屠自古さんって雷の怨霊でしょう? だったら電気製品と合体できるのではないかと」
めちゃくちゃな事を言っているが実のところ、青娥の言う事は屠自古にも理解出来ていた。何故ならば彼女が豊聡耳神子の復活を千何百年と待っていた間、霊廟の外の情報をもたらすのは青娥以外に居なかったからである。
青娥は自身の欲に忠実な仙人で、その振る舞いは子供に近いところがある。怨霊であるが故に霊廟の外から一歩も出ようとしない屠自古の気晴らしになればと、彼女は外から遊具をいろいろ持ち込んできており、その中に球体に魔物を収納して戦わせるゲームがあった。お友達と交換しないと、この子が進化できないのよぉ、と屠自古も付き合わされて遊んでいたものである。
「屠自古さん自身が掃除機になれば、広い道場のお掃除も楽になると思いません?」
「お腹もいっぱいになって一石二鳥だぞー!」
青娥に続いて埃で腹を満たせと進言したのは、悪食で知れた屍体、宮古芳香だ。青娥が居れば芳香が呼ばれて来る。芳香が居れば青娥が近くに居る。二人はそういう関係だ。
たしかに現在の屠自古は、箒を握りしめて広い道場の縁側を掃除していた最中ではあった。それが留守を任されがちな屠自古の役割であるから文句は無いが、日課に一日のほとんどを費やしてしまうのは事実。それが楽になるのであれば有り難い話ではあるのだが。
「ゴミを吸い込む私の気持ちになってみろ。もし出来たとしたら真っ先に吸い込むゴミはお前だろうよ」
「それって私のことを食べちゃいたいって事かしら? やだぁ、屠自古ちゃんったら大胆なんだから」
──バチッ!
屠自古は何も言わずに青白い稲光を掌の上で走らせた。黙れという合図である。
「はいはい、冗談ですよ」
名案だと思いましたのに、と名残惜しそうに掃除機を床に下ろす。屠自古さんは幽霊なのに心に余裕がありませんわ、そんなに生き急いでも命は帰ってきませんのに。青娥は良い匂いがするからゴミなんかじゃないぞー、などと二人はぶつくさ言うものの、しかし二人共に終始笑っていた。この二人は初めから、屠自古に絡む事が目的だったのは言うまでもない。
そもそも仙界には電気が通っていないのだから、この邪仙は使えもしないガラクタをわざわざこの為に持ち込んで来たということである。いっそこの場で消し炭にしてしまおうかとも考えたが、わざわざ床を焦がしたくもないのでここはぐっと堪える屠自古であった。
「……で、嫌がらせはもう終わりか? 掃除の邪魔だから大人しく居間で茶でも飲んでろよ」
「そこで消えろとか帰れとか言わないのが優しいですよね、屠自古さんて」
言われたところで絶対にそうするわけがないので、少しでも従ってくれそうな事を言うのがマシなだけである。ついでに掃除を手伝ってくれる事も滅多に無い。
「でも大丈夫ですわ。この掃除機は充電式ですもの」
つまみを横にカチリとずらすと、掃除機は仙界に不釣り合いな不快音を奏でだした。
まさか、万に一つ有るか無いかの手伝いが今来るとはと、屠自古は目を丸くした。さては何か後ろめたい事があるのかと、手を荒っぽく往復させて掃除機を繰る邪仙に訝しげな眼差しを向ける。
「何が目的だ。何をやらかした。正直に言えば今なら許す事も考えてやる」
「んもう、そうやって人を疑ってばっかりだと心が疲れる一方ですわよ」
「猜疑心は心と肌を腐らすぞ」
誰のせいだ、誰の。屠自古は歯を軋ませる。
「あのね、これから芳香ちゃんと人里にお食事に行くのよ。そうしたら芳香ちゃんが屠自古さんも一緒が良いって言うから、家事を早く終わらせてあげようと思ったの」
「そうだぞー! 一日中家事ばっかりじゃ人生もったいないぞ!」
芳香が、私と。
屠自古は自分の耳も疑わざるを得なかった。
屠自古は青娥が苦手である。そして青娥とは違う方向で芳香の事も苦手であった。
壁抜けの邪仙こと霍青娥は、距離を置こうにも心の壁にも平気で穴を開けて入り込んでくる。それにひきかえ芳香はまず心が無い。青娥の力で動いているだけの死体なのだから当たり前の事だ。
邪仙からどんなに酷な扱いを受けようとも、芳香は笑って青娥の歪んだ愛を受け続ける。それが見るに堪えなくて、時として屠自古自身も怒りに任せて芳香に酷い仕打ちをした事もあった。
だというのにその芳香が今、屠自古と出かけたいと言ったという。それが邪仙のでまかせにしか聞こえないのは当然であった。
「もちろん屠自古さんも行くわよね? 芳香ちゃんを悲しませたくないものね?」
「行ってくれなきゃ寂しさで死んじゃうぞ。良いのかぁ?」
行って良いわけが無い。怨霊という身の上、要らぬ騒ぎを起こさぬようになるべく霊廟の外には出たくないのが本音である。それも高危険度と稗田の当主から太鼓判を押された邪仙と屍体と共に。一体どんな罰ゲームだ。
……が、青娥は顔こそ笑っているものの拒否など絶対に許さない『圧』を放っていた。芳香も干乾びた躰のくせに器用に目に涙を浮かべている。
この場合だが、本当に行きたくなかったのならば、屠自古は掃除を手伝い出す前に止めるべきであったのだ。されど時既に遅し。しかしそれも邪仙の卑劣な企みの内である。
青娥が無理を言ったという大義名分の下であれば屠自古の責は軽くなり、ならば屠自古も渋々ながら首を縦に振るだろうと、青娥はそう読んでいた。
なにより『この麗しく清楚可憐な私のお誘いを断れる御方などおりませんしぃ?』とそこまで思っていたかは定かではないが。
「……わかったよ。仕方ないから一緒に行ってやる、が……。ただし、太子様にまで迷惑がかかるような騒ぎだけは絶対に起こすなよ」
屠自古は如何にも苦渋の決断を下したかのような、眉間にシワ寄った顔で答えた。
「本当は最初から行ってあげる気でいたのに、嫌がる振りする屠自古さんのそういう所、好きですわよ」
「自分は騒ぎを起こさない側だと思っているのかー?」
「お前の悪行を知らなかったら私だってもっと心穏やかで居られるだろうよ。あとその屍体を黙らせろ」
もっとも、心穏やかだったら屠自古もとっくに成仏していたに違いないのだが。
さて、蘇我屠自古といえば足が無いことで有名であるが、それは単に彼女がその方が楽だからという理由に過ぎない。電気でエネルギーを大量に消費する屠自古が自然と省エネ思考になっていったが為、浮けるのだから足など不要だという結論に至ったまでの話である。
現にこうして今、屠自古は二本の足で二人の前に立っているのだから。
「……何をジロジロ見てんだよ。わざわざ疲れる足を生やしてやってるんだぞ。感謝ぐらいしたらどうなんだよ」
「お化けが疲れるのかー?」
もちろん怨霊に肉体的な疲労は無いし、青娥が屠自古の全身を眺めているのは足だけが理由ではなかった。いつもの烏帽子と札だらけの古びた服を脱ぎ捨て、いつの間に持っていたのか人里の娘の間で流行りの若葉色の着物を見事に着こなしている、その用意の良さである。
「屠自古さんって可愛い所あるわよねえ」
「ああ? 馬鹿にしてるのか、それとも褒めてるつもりなのか? そう言うお前の死体だって無駄にめかし込んでるだろうが。いつものキョンシー丸出しの格好よりかは万倍マシだがな」
屠自古はやや早口気味にまくし立てた。そして芳香はというと、服はいつもと変わらないが、帽子と額の札が取り払われている。左耳の上には何の皮肉か白檀の花を模した髪飾りと、そこから半分ほどに縮小された札が垂れ下がり、死体であるが故にやや白すぎる顔には化粧が施されてほんのりと赤みを帯びていた。
「可愛いでしょう? 芳香ちゃんは素材が良いからお化粧しがいがあるのよ」
「えへへへへ、青娥の方がかわいいぞー!」
「へーへー、みんな可愛くて良かったな」
三人の心が一つになったところで、青娥はしゃらんと音立てて簪を手に取った。彼女を壁抜けの邪仙たらしめる、ご存知道士の不思議な穴開け鑿だ。
これ見よがしに腕を伸ばし、鑿を地面に突き立てると、そこを中心に、人一人が余裕を持って通れる大きさの穴が開いた。
穴の向こうは水色と橙の境界が広がる黄昏時の空。青娥は仙界の地面と人里の地面を繋げて穴を開けるという秘術を披露して見せたのだ。
「名付けて、ワープポータルの術よ」
そのまんまだな。屠自古はぼそりと呟いた。中国人のくせに英語のネーミングか。
「さあ、レッツゴーですわ。頭から飛び込んでくださいね。そうしないと飛び出した先で頭から地面に落ちちゃいますからね」
「おー!」
スカートの捲れも意に介さず、芳香はプールの飛び込み台の要領で勢い良く潜り込んでいった。もとより痛みも感じないキョンシーだ。地面にぶつかる事を怖がりもしないのだろう。それよりも、屠自古はこれだけはどうしても言わせて貰いたかった。
「地面じゃなくて壁に開けても良かったよな?」
「だって、こっちの方が面白いことになるかもしれないでしょう?」
言うと思ったよ、と屠自古は諦めきった表情で足からそのまま飛び降りた。何のことは無い。足を生やしても屠自古は地に足がついていないのだから、出た先で縦に半回転だ。
穴から飛び出た先は、人里の防壁の外側にぽつんとそびえ立つ一本松の根本。さしもの邪仙も人里のど真ん中に穴を開けるような真似をしなかった事に屠自古も安堵した。
「足から出て来るなんて、はしたないぞ」
自分もダイビングを披露したのを棚に上げて芳香は呆れた表情を浮かべる。続いて青娥が穴からふわりと浮かび上がると同時に、穴は最初から何も無かったかの如く瞬時に消え去った。
「へへへ。いざ、行くぞー!」
芳香が手足を振り上げ元気良く歩き出す。どうやら日頃の柔軟体操の甲斐あってか両足跳びでの移動は卒業できたようだ。とはいえ、それでも肘や膝は伸び切ったままでぎこちない。例えるならば兵隊か、あるいはロボットのそれだ。
これは外の世界の歌だろうか、屠自古には聞き覚えの無いメロディーを口ずさみながらずんずんと突き進む。その姿に屠自古もほんの少しだけ笑みをこぼした。道をわかっているのかと心配になるが、そこは青娥が制御しているから迷うことはないのだろう。
引きこもりの屠自古にとっては人里を歩いているだけでも落ち着かないのに、横には否が応でも人目を引く青娥がいる。一体私は青娥とどのような関係だと思われているのだろうと不安で仕方がなかった。
「悪い事はしてないのだからもっと堂々と歩いていいのに」
「だったらお前はもっと頭下げて縮こまって歩くんだな!」
とりあえず、今のところは漫才コンビといったところか。
途中三人を見て悲鳴を上げて気絶する貸本屋の娘と遭遇したりしたが、ともかく金色の三日月が山から顔を覗かせる頃、三人は冒頭の居酒屋に辿り着いたわけである──
お冷を一気に煽る屠自古を見届け、青娥はようやく呑みかけのお猪口に口を付けた。
「それにしても意外ですわねえ、霊体の屠自古さんにここまでお酒が効くだなんて。精神体だからお酒を呑んだという気分に強い影響を受けるということかしら……そして、お水を飲めば一気に酔いが覚める、と」
「まーたお前はそうやって科学者気取りでよぉ。仙人の本分を忘れたのか、あー?」
「なにおぅ。仙道に飽き足らず、あらゆる学問を修めんとする青娥の探究心がわからんのかぁ!?」
芳香と屠自古は歯もむき出しにし、顔を突き合わせて睨み合う。
「今更だけどお前も何なんだよ。昔は本当に邪仙に言われるがままの肉人形だったのに、いつの間にかいっちょ前の口利くようになってるじゃんか」
「幻想郷っていうパワースポットのおかげかしらね。やっぱり『空気が濃い』ところは魂が宿りやすいみたいなのよ。でも、決定打はあの付喪神異変の時だったわ」
「まー、よく分かんないけど、私には青娥の愛がたっぷり籠もってるおかげだろうなー。死んでても愛には応えたいのが人情だろぅ?」
それは本来なら青娥にとっても芳香にとっても、生涯をかけてきた根幹を揺るがす大事件の筈である。そして、彼女達の心情を最も知っているのは他でもない、誰よりも長い時を共に経てきた屠自古だ。
しかし、だからこそ、二人がこうもあっけらかんとそれを話すのならばと、屠自古はあえてそこに踏み込まないことに決めた。彼女達が蓋をした過去の穴は、気安く掘り返すにはあまりにも底が深すぎるから。
「……まあ、そういう事ならそれでいいよ。だがな、芳香だって探究心とやらで見た目も性別も弄りまくって別物にされてるだろ。仙人じゃなくてマッドサイエンティストでも名乗った方が良いんじゃないか」
「不老不死を求めると、自然と医学や生物学に行き着くのよ。もっとも、私にはもはや必要の無いものですけどね」
青娥は残り少ないとっくりをくるくると振りながら、容器の先の遠い何かを探し見ているようだった。
「屠自古ぉ、たしか性別まで変えざるを得なくなったのはお前のせいだったはずだぞ。私はちゃんと覚えてるからなー」
「そうそう、あの時は面白かったわよねえ。まともに見たこと無かった陽物に悲鳴あげちゃって。屠自古さんたらウブで可愛いんだから」
「ウブで悪かったな!! こちとらそういう生まれ育ちなんだからしょうがないだろうが。それにいくら眠ってるからって素っ裸で太子様のお傍を徘徊させるんじゃねえ!」
「死んでるから良いけどなー。股にそそり立ってる物に雷を流される方の気持ちなんてお前には絶対分からんだろう。生きてたらショックでそのまま死んでたぞー」
「もともと女の子に改造するつもりでいたから丁度良かったですけどね」
死体の性転換を改造と言ってのけたが、青娥という邪仙はこういうものだ。一々それに苦言を呈する気も屠自古は失せているのであった。
「……そういや雷で思い出したんだが、仙界のお前の住処って私に頼らずとも電気が通ってるんだよな。外から電線を引っ張ってきてるのか?」
「出来ないことも無いけど自前ですわね。キョンシーの子たちに地下でコイルを回して貰っているのよ、人力でね」
「キョンシーに、人力でか」
「ランニングマシーンタイプと自転車タイプと、あと奴隷がみんなでくるくる回すアレのタイプもあるわよ」
「8時間勤務で3交代制の24時間営業でー、勤務中でも自分で生み出した電気でテレビやラジオは使い放題なのだ。給料は無いが3食昼寝付きで、頑張ると青娥がよしよししてくれるぞー。屠自古も働きたかったら現場主任の……えーと、誰だっけ?」
「ファンよ。先輩の名前ぐらい覚えてあげなさい」
「そうそう、そいつがシフトも組んでるから頼むと良いぞ」
「何で私が人力発電機なんて無駄な事しなきゃいけねえんだよ。っていうか私よりまともなライフスタイル送ってて恨めしいわ」
「おー、過労死とは無縁の職場だぞ。なんたってみんな死んじゃってるからなー。あはははははは!」
まただ。屠自古が知っている芳香とは決定的に違う言動をした。酒も程々につまみの揚げ物を笑顔でぱくついている芳香を、屠自古は酒を一口喉に流し込みながら真っ直ぐに見据えた。
「……芳香。私の知ってるお前はな、冗談でも死を笑い話にできるような奴じゃなかったよ」
芳香も手を止め、机に置いた枡に口を付けた。
「……昔の死に怯える私の方が好きだったか? 屠自古よ、お前も私の知るお前とはだいぶ変わってしまったぞ」
「脳死のお前が言う昔の私ってのは数秒前か、数分前か? まさか千年前とでも言い出す気じゃないだろうな」
「そのまさかだとしたら? 例え魂が別物でも、この体がお前のことを覚えているぞ」
「そりゃ執念深い事だな。私よりよっぽど怨霊の素質があるんじゃないか」
青娥は二人の会話を、酒をちびちびと舐めながら静かに聞いている。
「恨みはしておらぬよ。お前も私も、過去の妄執などとうに失せていよう。それでも現世にしがみついているのは新たな生きがいを見出しているからではないか」
「生前のお前とはかけ離れた死人の体とまがい物の魂でか。それが新たな自分だと言うつもりか? 物部みたいな喋り方までしやがって」
「屠自古とて元の体が無いではないか。しかしそんな自分を気に入っているのだろう? 今更過去の事をぐちぐち言うものではないわ」
「ふん、死人のくせによく口が回るもんだよ。まあ飼い主が飼い主だからそれも当然か。口先から生まれた不良仙人だもんなあ!?」
「お前こそ、減らず口は千年経っても直らぬな。それとも怨霊だから何を言っても仕方がないと思ってくれるとでも? 主が怒らぬから黙っておれば、お前は少し青娥の優しさに甘えすぎではないのか!?」
「こら」
黙っていた青娥が口を挟んだ。柔らかく握った拳骨で、芳香の眉間を軽く小突く。
「そういう事を言うんじゃありません。お酒は楽しく呑みなさい」
「だって、屠自古がー!」
「だってじゃありません。お酒の勢いで喧嘩をするようなみっともない子は土に還しちゃいますからね」
うー……と唸り声を上げて、芳香は不満げに顔を机の上に乗せる。
「不躾な子でごめんなさいね」
「……ちっ、それじゃ私が悪くないみたいじゃないか。わかってるよ、わかってる。先に仕掛けたのは私の方だ。私だって別に喧嘩がしたいわけじゃない。すまなかったよ、芳香」
「屠自古ぉ、ごめんなー」
先程までの古風な喋り方はどこへやらで、すっかりいつもの間の抜けた口調に戻ってしまっている。怒られたショックで魂が抜けてしまったといったところだろうか。
「はい宜しい。さあさあ、呑み直して楽しいお話をしましょうね。芳香ちゃんは他に何か食べたいものはあるかしら?」
「じゃあー、唐揚げー!」
目を輝かせて答える、生き生きとした屍体の少女に屠自古は苦笑する。
「死体のくせに油っこい物ばっかり食べやがって。育ちもしないのにもったいないったらないよ」
「キョンシーの超パワーは日々の食事から生まれるのだ。食べる意味が無いのは屠自古の方だろうに」
「雷の発電には燃焼物が必要なんだよ。それと、美味い飯は精神にも影響する。霊体の私にはとても重要なことだ」
「よく言うよ!」
「よく言うなー!」
二人は顔を向かい合わせて、へへっと笑った。
「うふふ。そうだ、聞いてもらえます?豊聡耳様ったらね……」
それからも三人は色々な話をした。信じていた弟子に0点を付けられたこと、芳香の人生相談、屠自古が食べた物はどこから出るのか等々、取り留めなく話し続けた。
屠自古は呑んだ。とてもよく呑んだ。呑みすぎて地に足が付かぬ程に。
芳香は食べた。とてもよく食べた。食べすぎて地から足が離れぬ程に。
結果どうなったか。青娥が両肩で、まともに歩けなくなった二人を抱えているのであった。
「……おじさま。お代は豊聡耳様にお願いくださいましね……」
この華奢な体のどこに二人を抱える膂力があるのかと困惑する店主に後を頼み、青娥は死体二人を引きずって逞しく店を出ていった。
修行は疎かにしているとはいえ青娥も仙人の端くれだ。女二人を担いで歩く程度、何のことは無い。しかし青娥にも苦手なタイプはいる。自分にうざったく絡んでくる人間だ。(自分のことは思いっきり棚に上げるとする)
そしてそれは、青娥の顔を挟んで両肩にいる今の二人のことである。
「金はらえよー。せいがー。おまえー。たいし様にー。めいわくかけんなーって。言ったろー!」
「お財布を持ち歩かないのなら、ツケで良いから私の所に持ってきなさいって、豊聡耳様に言われたのよ……どうせ今言っている事なんて覚えていただけないんでしょうけど」
「私がちゃんと覚えてるぞー! 安心しろー! 青娥ー!」
「芳香、あなたは自分の胃の限界ぐらい覚えておきなさい……こんな事ならちゃんと制御しておくのだったわ」
屠自古がむっとした表情で青娥の頬に顔を近付ける。
「あのさー。せいがよー。いま私はおまえにめいわくかけてるだろー!? 怒れよー! おまえが怒ってくれないから余計に私が怒るんだよー。それがわかんないかなー!?」
「わかってます。わかってて屠自古さんの事怒らせてるんですから……」
「ふざけんなー! こっちだってわかってんだよー! おまえが私のことどう思ってるかくらいよー……」
屠自古の声の音量が下がっていく。心なしか顔の赤みも引いたように見えた。本当に精神状態がすぐ体に影響する怨霊だ。
非常に言いづらそうに、ぼそぼそと、屠自古は自分の心情を語りだし始めた。
「私は、お前みたいな奴は嫌いだけど、お前の事は嫌いじゃない。だから、気にするなよ」
「……ちょっと何言ってるかわからないぞー、屠自古」
わからなくて良かった。この二人の信頼関係は、心の内を直接口にしないことで成り立っているのだから。
「別に気になんかしませんよ。私は別に、屠自古さんの事はそれほど好きじゃありませんしぃ……」
「はあー!? ふざけんなよお前! あんだけ人に絡んでおいて今更そんなのが許されると思ってんのか、あー!?」
屠自古の顔の赤みが復活した。もちろん酒に依るものではないが。
「あのなー、青娥はなー、本当に好きな相手には直接好きだって言わないんだぞ。でも向こうから面と向かって好きだーって言われると弱いんだぞ。昔もそうやって結婚したわけだからなー」
「ちょっと、芳香。その話はどこで聞いたのかしら……?」
「深夜勤の時に先輩から聞いたー」
一瞬だけだったが、青娥にしては珍しく、本気で苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「へー。ほー。お前ってそういうところあるんだなー? それは良いこと聞いたなー。あー?」
「……口の軽いキョンシーには、後でしっかりお仕置きをしないといけないわね。それと、屠自古さん、ほっぺを突かないで……」
不機嫌な顔を見せる青娥と、それを愉快に眺める満面の笑みの芳香と屠自古。三日月に見守られながら、青娥は自分をいじり続ける二人を仙界の道場まで運びきったのであった。
「青娥! 屠自古が居ないと思ったら、この状況は一体どういうことなのですか!?」
豊聡耳神子は困惑を隠し切れない様子で三人を出迎えた。こんなにげんなりした顔で惨めな姿の師匠は今まで見たことがない。
そしてこれまた今まで見たことなかったであろう、真っ赤な顔の屠自古が上機嫌に神子に挨拶する。
「おー! どなたかと思ったら青娥に0点を付けた太子様じゃありませんかあ! 只今帰りましたよー! 酔ってまーす! あはははははは!」
「と、屠自古ぉ! お主、太子様になんという口の利き方を……!」
あまりの事態に布都の顔も顔面蒼白だ。いつも自分を睨む屠自古が上機嫌、いつも掴みどころのない青娥が掴まれ、死人の芳香の顔が(油物で)てかてかで生命力に満ち溢れている。一体これは何事か。
「三人で呑んでたのですか……?」
察しの良い神子でなくても判る事ではあるが、状況の理解とはまた別に、個人的な感情が神子の口から漏れ出してしまった。
ズルい、と。
「太子様が我々を放ったらかすからー、拗ねちゃった青娥にむりやり誘われましたー! 私は何も悪くありませーん!」
「おやめなさい屠自古さん。私は別に怒ってなんかいないですし」
「そうだそうだー! 青娥は怒ってないぞー! 悲しいんだぞー! なにが0点だー!」
青娥の肩で英気を養っていた二人が活動を再開した。青娥の肩から神子に向けて飛び立ち、詰め寄る。
「あ、あれはその、建前として、公の場で青娥の行いを肯定するわけにもいかないんですよ。いろいろと表に出せないのです。それはわかっていただけるでしょう……?」
「なーにが公ですかあ! あの尼の前だから良い格好したかっただけでしょうにい!」
「そうやって何人の女を誑かして来たんだー? 見損なったぞ神子ー。もうお前の友達やめたろかー?」
酔っているのを良いことに、二人は神子を挟んでその肩に手を回す。
「こ、こらあ! 太子様から手を離さぬかぁ!」
布都の絶叫も聞いちゃいない。死人に耳なしである。
絡みの対象が自分から神子に移ったことで青娥は安心した。それと同時に、手を口に当てて吹き出しそうなのを堪えていたが。
「せ、青娥、助けてくださいっ……!」
「ええー……。でも私、0点ですしぃ……。そんな私が豊聡耳様の為に何が出来ましょうか。私はあまりにも無力ですもの。本当は貴女の師匠などと名乗ってはいけない者なのですわ……」
酔っぱらい二人(芳香はフリだが)に肩を組まれて小さくなる神子の懇願を、青娥はここぞとばかりに突っぱねた。無論、青娥の顔はにやけている。
「そんな事無いです! 謝りますから! 貴女のお願い何でも聞いてあげますから! だから助けて!」
「……あらぁ? 今何でも聞くって言いましたよね? そうですかそうですか、何でもぉ……?」
「は、はい……言いました」
勢いで口走ってしまったが時既に遅し。後悔先に立たずとはこの事だ。死神の鎌を前にした被告人として、神子は己の運命を受け入れるしかなかった。
「……お布団を用意してくださいな。芳香ちゃんを寝かせますから」
青娥は神子に絡みついた二人の首根っこを子猫の如くひょいと掴んで開放してくれた。始めの数秒は呆気に取られていた神子であったが。
「え……? あ、はい……!」
顔がぱあっと明るくなった。安堵の表情を浮かべて、神子は逃げるように寝室へと駆けていき、布都もこれを慌てて追いかけていった。
「まーたそういう所で優しさ発揮しちゃってよお。これじゃ太子様がますますお前に逆らえなくなっちゃうじゃんか。この邪仙がよー」
「私がこんなになってるのは誰の無礼講のせいだと思ってるんですか、誰の」
「我々だー! わっはっはっはー!」
大元を辿れば青娥が屠自古を誘ったせいなのであるが、これも日頃の行いが悪かった、自業自得と謂われる処であろう。
予定では芳香ちゃんと一緒に屠自古さんをからかって遊んでお友達を増やしてあげるつもりでしたのに、と独り言つ青娥であったが、芳香ちゃんが楽しそうだし結果的に予定よりも仲良しになれたので善しと思う事にした。
えっちらおっちら三人が客間に行けば、布団は既に完璧に敷いてあった。しかも頼んでいなかったのに二人分だ。つくづく察しが良い優秀な弟子だと青娥は感心する。
(まあ、私が育てたのだから当然ですけどね……!)
自画自賛に耽る青娥が二人から手を離した途端、ふかふかの布団に気分が昂揚したのだろうか、芳香と屠自古は子供のようにそこに飛び込んだ。
「あー……天国だー……」
「うーん……生き返るぞー……」
すっかり恒例となった死人ジョークである。二人は顔を見合わせて吹き出した。
「あのぉ屠自古さん。そのお布団は私の分なんですけれども? 貴女の寝室はちゃんとあるでしょうに」
青娥はかがみ込んで屠自古の頬をぺちぺちと叩く。帰り道で顔を突かれた事へのお返しだ。
「なんだよー。お前は自分の家に帰っちまえばいいだろー。どうしてもここで寝たいのなら一緒の布団で寝ればいいだろー」
屠自古は緩みきった幸福な顔で布団に沈み込んでいる。こうなっては最早、言ってもテコでも動かない気だろう。
「一緒って、屠自古さんとですか?」
「あー? そっちの死体と一緒に決まってるだろ。お前と一緒に寝るなんて死んでも御免だよ」
「はいはい。屠自古さんは、私みたいな人、お嫌いですものね」
そう言うと、青娥がゆっくりと立ち上がって部屋から出ていこうとするので、屠自古は不満げにスカートの端を掴んで引っ張った。
「おい。どうしてもって言うんなら別に良いんだぞ? 本当にどっか行く気じゃないよな?」
「もう二人、手のかかる子供がいるでしょう? そちらの様子を見に行くだけですよ。ちゃんとお着替えして、歯磨きしてから寝なさいね」
「へっ、この私にそんなもんが必要だと思ったか。虫歯だって泣いて逃げ出すのが怨霊ってもんよ」
謎の自信に満ちた屠自古にさすがの青娥も苦笑いである。青娥としては子供扱いされている事に怒って欲しかったのだが。
「屠自古ってツンデレだし、時々変なこと言ったりしてかわいいよなー」
「うるせえやい」
どこで覚えてきたのか、現代で一昔前に流行った言葉で屠自古をからかう芳香。すっかり私に似てきたわね、そうやってくすくす微笑みながら、青娥は客間を後にするのだった。
二人の絡み相手が居なくなったことで、静寂に包まれた客間。
その中で、屠自古がおもむろに口を開いた。
「あのさ、芳香よ」
「何だ、屠自古よ」
「実は私な、味は分かるけど酒で酔ったりしないんだよ」
「……ほう?」
「顔が赤くなるのだって化けの応用だ。足を出したり消したり出来るのと同じな……」
「つまり我々は……一杯食わされたということだなー!」
今日の一連の醜態は全て、完全に正気の屠自古の意志によるものだった。
酒を利用して、屠自古は見事に青娥を困惑させてみせたのである。
「ほんっとうに素直じゃないな、屠自古はー!」
「あいつとは付き合いが長すぎてな。何かの力を借りないと今更ああいうのは出来ないんだよ」
腐れ縁程度ならまだしも、腐れすぎた縁というのはもはやそれ以外の形を取ることが出来ないという事だろうか。
まったく、面倒くさい関係もあったものだと呆れるが、ここで芳香は一つ面白いことを思いついた。
「お返しと言ってはなんだが、私の秘密も教えてやろうか」
「ほう?」
屠自古の眼を見てにやにや笑う芳香の秘密、せっかく仲良くなったのだから聞いておきたい。頭をこくこくと縦に振って続きを促した。
「私の視覚と聴覚はな、青娥と繋がっているのだ」
「……なに?」
「私の体の一部には青娥の肉体を埋め込んである。難しいことは分からんが、それで私と感覚を少しだけ共有できるらしいぞー?」
つまり、どういうことかというと。
「今の私の話も……青娥には筒抜けだったと?」
「アンテナ代わりの札が貼ってある時だけだがなー」
屠自古は眼をカッと見開いて芳香の眉間を睨みつけた。今日は……いつもの札が額に無い。
無いが、今日の芳香は耳の上に髪飾りを付けている。
小さなお札付きの、おそらく青娥の手書きの文字が書かれているものが、だ。
「聞かれてた……死にたい……」
「どうする? やっぱり本当は酒に酔ってたことにするかー?」
にやけ顔の芳香と赤面の屠自古の口喧嘩ではどちらが勝つかなど自明の理だ。
ならば、狙うは相討ち。
往生際において、屠自古はここ一番の覚悟を決めたのである。
「……いいや、どうせあいつは全部見透かしてきて腹立つんだ。だったら、こうだ」
屠自古は芳香の顔を両手で掴んで自分の顔の前にぐっと引き寄せた。
「いいか、芳香。これは断じて青娥にではなくてお前に言うのだが、私はお前にこれだけは言いたいことがあるんだ。私はな……!」
最初に異変に気付いたのは、とばっちりで脚を揉まされていた布都であった。
察しの良さでは神子に軍配が上がるが、肩を揉まされていた神子は椅子の後ろからでは変化に気付きにくかったのである。
「せ、青娥殿。どうかなされたのですか?」
何かあったのかと神子が前に回ると、何かを堪えるように震えて赤面する青娥の顔がそこにはあった。
「マ、マッサージが気持ち良かったのですか? それとも酔いが今になって回ってきたとか……」
すう、はあ。
心配する二人をよそに、ひとつ、大きく深呼吸をした。
「……そうね、お酒に酔ってしまったの。大丈夫だから、ほら、続きをお願いいたしますわ」
二人に全身を揉みほぐされながら、青娥は椅子に斜めに体を預けて天井を見た。
仙人を志した時から変わらない己の純粋さが、誇らしくもあり、今は少しだけ恥ずかしい。
でも……。
私も同じ気持ちですよ、屠自古さん。
青娥は見誤っていた。普段はお硬い屠自古が一度崩れるとここまで脆いとは。
芳香は笑っていた。死体人生初めての酒と、いつもと違う二人の姿を心から楽しんでいた。
「あのさぁ、私らってなぁ、好きで閉じこもってねえってんだよぉ!」
「屠自古なだけに閉じこもり、ってかー? あはははは!」
嗅いだだけでも喉が焼けそうな強烈な酒の香。焼け焦げた川魚の香ばしい脂の匂い。山菜の天麩羅の油がぱちぱちと弾ける音が加わり、それが一層と人の欲望をかき立てる。
ここは幻想郷の人里に古くから構える居酒屋の一角である。表通りから離れている故に客入りは決して盛況とは言えないが、年季の入った常連が集う隠れた名店だ。常日頃ならば酒と油と中高年親父の香りが漂う店内だが、今日はくすんだ着物の男の群れの中に混じって否応にも浮いている三人が居た。神霊廟の表に出してはいけない方こと、蘇我屠自古・霍青娥・宮古芳香の、稗田家当主お墨付きの高危険度トリオである。目立ちたくない屠自古たっての要望で店の隅っこに陣取っているのだが、それが自らこの様では甲斐もない。
「……んもう。おじ様ぁ、お冷をいただけるかしら。ほら屠自古さん、周りを御覧なさいな。おじ様方がすっかり怯えてるじゃないの」
さしもの邪仙も他に抑え側の人間が居なくなれば自分がそうせざるを得ない。青娥としてもそれで相手をして貰えるのであれば、構ってちゃんとしては本望なので良いのだが。
「よしよし。屠自古はいつも頑張ってるもんなー。屠自古はいい子だなー」
「芳香ぁ……お前だけだよ、そういう事言ってくれるのはさぁ。太子様なんかなぁ、太子なんかなあー! 寺に行ったっきり帰って来ないもんなあ!」
酔いに任せて上司の愚痴。それは酒の席では全く珍しい話ではないのだが、今回ばかりはさしもの青娥も肝を冷やしていた。青娥の体は酒を呑んでも呑んでも冷える一方だ。
好き勝手を言うのは私の役ではなかったのか。私に目立つ真似はするなと口を酸っぱくして言っていたのは誰だったのか。何故私がこんな気苦労をしなければならないのか。どうして誘ってしまったのか。
そもそも、青娥はともかくとして、何故屠自古と芳香までもが人里の居酒屋で呑んだくれているのか。その発端は今より数刻ほど遡り──
「屠自古さんってぇ、この掃除機に入ったりできませんの?」
蘇我屠自古はピリピリしていた。理由は明白である。
気付けばふらっと居なくなり、油断した頃にふらっと帰ってくる、自由迷惑極まりない邪仙。その霍青娥は屠自古の心を悩ませ続ける人物だった。
「お前の言う事はいつもよく分からん。日本語を話せ。ここは幻想郷だ」
「屠自古さんって雷の怨霊でしょう? だったら電気製品と合体できるのではないかと」
めちゃくちゃな事を言っているが実のところ、青娥の言う事は屠自古にも理解出来ていた。何故ならば彼女が豊聡耳神子の復活を千何百年と待っていた間、霊廟の外の情報をもたらすのは青娥以外に居なかったからである。
青娥は自身の欲に忠実な仙人で、その振る舞いは子供に近いところがある。怨霊であるが故に霊廟の外から一歩も出ようとしない屠自古の気晴らしになればと、彼女は外から遊具をいろいろ持ち込んできており、その中に球体に魔物を収納して戦わせるゲームがあった。お友達と交換しないと、この子が進化できないのよぉ、と屠自古も付き合わされて遊んでいたものである。
「屠自古さん自身が掃除機になれば、広い道場のお掃除も楽になると思いません?」
「お腹もいっぱいになって一石二鳥だぞー!」
青娥に続いて埃で腹を満たせと進言したのは、悪食で知れた屍体、宮古芳香だ。青娥が居れば芳香が呼ばれて来る。芳香が居れば青娥が近くに居る。二人はそういう関係だ。
たしかに現在の屠自古は、箒を握りしめて広い道場の縁側を掃除していた最中ではあった。それが留守を任されがちな屠自古の役割であるから文句は無いが、日課に一日のほとんどを費やしてしまうのは事実。それが楽になるのであれば有り難い話ではあるのだが。
「ゴミを吸い込む私の気持ちになってみろ。もし出来たとしたら真っ先に吸い込むゴミはお前だろうよ」
「それって私のことを食べちゃいたいって事かしら? やだぁ、屠自古ちゃんったら大胆なんだから」
──バチッ!
屠自古は何も言わずに青白い稲光を掌の上で走らせた。黙れという合図である。
「はいはい、冗談ですよ」
名案だと思いましたのに、と名残惜しそうに掃除機を床に下ろす。屠自古さんは幽霊なのに心に余裕がありませんわ、そんなに生き急いでも命は帰ってきませんのに。青娥は良い匂いがするからゴミなんかじゃないぞー、などと二人はぶつくさ言うものの、しかし二人共に終始笑っていた。この二人は初めから、屠自古に絡む事が目的だったのは言うまでもない。
そもそも仙界には電気が通っていないのだから、この邪仙は使えもしないガラクタをわざわざこの為に持ち込んで来たということである。いっそこの場で消し炭にしてしまおうかとも考えたが、わざわざ床を焦がしたくもないのでここはぐっと堪える屠自古であった。
「……で、嫌がらせはもう終わりか? 掃除の邪魔だから大人しく居間で茶でも飲んでろよ」
「そこで消えろとか帰れとか言わないのが優しいですよね、屠自古さんて」
言われたところで絶対にそうするわけがないので、少しでも従ってくれそうな事を言うのがマシなだけである。ついでに掃除を手伝ってくれる事も滅多に無い。
「でも大丈夫ですわ。この掃除機は充電式ですもの」
つまみを横にカチリとずらすと、掃除機は仙界に不釣り合いな不快音を奏でだした。
まさか、万に一つ有るか無いかの手伝いが今来るとはと、屠自古は目を丸くした。さては何か後ろめたい事があるのかと、手を荒っぽく往復させて掃除機を繰る邪仙に訝しげな眼差しを向ける。
「何が目的だ。何をやらかした。正直に言えば今なら許す事も考えてやる」
「んもう、そうやって人を疑ってばっかりだと心が疲れる一方ですわよ」
「猜疑心は心と肌を腐らすぞ」
誰のせいだ、誰の。屠自古は歯を軋ませる。
「あのね、これから芳香ちゃんと人里にお食事に行くのよ。そうしたら芳香ちゃんが屠自古さんも一緒が良いって言うから、家事を早く終わらせてあげようと思ったの」
「そうだぞー! 一日中家事ばっかりじゃ人生もったいないぞ!」
芳香が、私と。
屠自古は自分の耳も疑わざるを得なかった。
屠自古は青娥が苦手である。そして青娥とは違う方向で芳香の事も苦手であった。
壁抜けの邪仙こと霍青娥は、距離を置こうにも心の壁にも平気で穴を開けて入り込んでくる。それにひきかえ芳香はまず心が無い。青娥の力で動いているだけの死体なのだから当たり前の事だ。
邪仙からどんなに酷な扱いを受けようとも、芳香は笑って青娥の歪んだ愛を受け続ける。それが見るに堪えなくて、時として屠自古自身も怒りに任せて芳香に酷い仕打ちをした事もあった。
だというのにその芳香が今、屠自古と出かけたいと言ったという。それが邪仙のでまかせにしか聞こえないのは当然であった。
「もちろん屠自古さんも行くわよね? 芳香ちゃんを悲しませたくないものね?」
「行ってくれなきゃ寂しさで死んじゃうぞ。良いのかぁ?」
行って良いわけが無い。怨霊という身の上、要らぬ騒ぎを起こさぬようになるべく霊廟の外には出たくないのが本音である。それも高危険度と稗田の当主から太鼓判を押された邪仙と屍体と共に。一体どんな罰ゲームだ。
……が、青娥は顔こそ笑っているものの拒否など絶対に許さない『圧』を放っていた。芳香も干乾びた躰のくせに器用に目に涙を浮かべている。
この場合だが、本当に行きたくなかったのならば、屠自古は掃除を手伝い出す前に止めるべきであったのだ。されど時既に遅し。しかしそれも邪仙の卑劣な企みの内である。
青娥が無理を言ったという大義名分の下であれば屠自古の責は軽くなり、ならば屠自古も渋々ながら首を縦に振るだろうと、青娥はそう読んでいた。
なにより『この麗しく清楚可憐な私のお誘いを断れる御方などおりませんしぃ?』とそこまで思っていたかは定かではないが。
「……わかったよ。仕方ないから一緒に行ってやる、が……。ただし、太子様にまで迷惑がかかるような騒ぎだけは絶対に起こすなよ」
屠自古は如何にも苦渋の決断を下したかのような、眉間にシワ寄った顔で答えた。
「本当は最初から行ってあげる気でいたのに、嫌がる振りする屠自古さんのそういう所、好きですわよ」
「自分は騒ぎを起こさない側だと思っているのかー?」
「お前の悪行を知らなかったら私だってもっと心穏やかで居られるだろうよ。あとその屍体を黙らせろ」
もっとも、心穏やかだったら屠自古もとっくに成仏していたに違いないのだが。
さて、蘇我屠自古といえば足が無いことで有名であるが、それは単に彼女がその方が楽だからという理由に過ぎない。電気でエネルギーを大量に消費する屠自古が自然と省エネ思考になっていったが為、浮けるのだから足など不要だという結論に至ったまでの話である。
現にこうして今、屠自古は二本の足で二人の前に立っているのだから。
「……何をジロジロ見てんだよ。わざわざ疲れる足を生やしてやってるんだぞ。感謝ぐらいしたらどうなんだよ」
「お化けが疲れるのかー?」
もちろん怨霊に肉体的な疲労は無いし、青娥が屠自古の全身を眺めているのは足だけが理由ではなかった。いつもの烏帽子と札だらけの古びた服を脱ぎ捨て、いつの間に持っていたのか人里の娘の間で流行りの若葉色の着物を見事に着こなしている、その用意の良さである。
「屠自古さんって可愛い所あるわよねえ」
「ああ? 馬鹿にしてるのか、それとも褒めてるつもりなのか? そう言うお前の死体だって無駄にめかし込んでるだろうが。いつものキョンシー丸出しの格好よりかは万倍マシだがな」
屠自古はやや早口気味にまくし立てた。そして芳香はというと、服はいつもと変わらないが、帽子と額の札が取り払われている。左耳の上には何の皮肉か白檀の花を模した髪飾りと、そこから半分ほどに縮小された札が垂れ下がり、死体であるが故にやや白すぎる顔には化粧が施されてほんのりと赤みを帯びていた。
「可愛いでしょう? 芳香ちゃんは素材が良いからお化粧しがいがあるのよ」
「えへへへへ、青娥の方がかわいいぞー!」
「へーへー、みんな可愛くて良かったな」
三人の心が一つになったところで、青娥はしゃらんと音立てて簪を手に取った。彼女を壁抜けの邪仙たらしめる、ご存知道士の不思議な穴開け鑿だ。
これ見よがしに腕を伸ばし、鑿を地面に突き立てると、そこを中心に、人一人が余裕を持って通れる大きさの穴が開いた。
穴の向こうは水色と橙の境界が広がる黄昏時の空。青娥は仙界の地面と人里の地面を繋げて穴を開けるという秘術を披露して見せたのだ。
「名付けて、ワープポータルの術よ」
そのまんまだな。屠自古はぼそりと呟いた。中国人のくせに英語のネーミングか。
「さあ、レッツゴーですわ。頭から飛び込んでくださいね。そうしないと飛び出した先で頭から地面に落ちちゃいますからね」
「おー!」
スカートの捲れも意に介さず、芳香はプールの飛び込み台の要領で勢い良く潜り込んでいった。もとより痛みも感じないキョンシーだ。地面にぶつかる事を怖がりもしないのだろう。それよりも、屠自古はこれだけはどうしても言わせて貰いたかった。
「地面じゃなくて壁に開けても良かったよな?」
「だって、こっちの方が面白いことになるかもしれないでしょう?」
言うと思ったよ、と屠自古は諦めきった表情で足からそのまま飛び降りた。何のことは無い。足を生やしても屠自古は地に足がついていないのだから、出た先で縦に半回転だ。
穴から飛び出た先は、人里の防壁の外側にぽつんとそびえ立つ一本松の根本。さしもの邪仙も人里のど真ん中に穴を開けるような真似をしなかった事に屠自古も安堵した。
「足から出て来るなんて、はしたないぞ」
自分もダイビングを披露したのを棚に上げて芳香は呆れた表情を浮かべる。続いて青娥が穴からふわりと浮かび上がると同時に、穴は最初から何も無かったかの如く瞬時に消え去った。
「へへへ。いざ、行くぞー!」
芳香が手足を振り上げ元気良く歩き出す。どうやら日頃の柔軟体操の甲斐あってか両足跳びでの移動は卒業できたようだ。とはいえ、それでも肘や膝は伸び切ったままでぎこちない。例えるならば兵隊か、あるいはロボットのそれだ。
これは外の世界の歌だろうか、屠自古には聞き覚えの無いメロディーを口ずさみながらずんずんと突き進む。その姿に屠自古もほんの少しだけ笑みをこぼした。道をわかっているのかと心配になるが、そこは青娥が制御しているから迷うことはないのだろう。
引きこもりの屠自古にとっては人里を歩いているだけでも落ち着かないのに、横には否が応でも人目を引く青娥がいる。一体私は青娥とどのような関係だと思われているのだろうと不安で仕方がなかった。
「悪い事はしてないのだからもっと堂々と歩いていいのに」
「だったらお前はもっと頭下げて縮こまって歩くんだな!」
とりあえず、今のところは漫才コンビといったところか。
途中三人を見て悲鳴を上げて気絶する貸本屋の娘と遭遇したりしたが、ともかく金色の三日月が山から顔を覗かせる頃、三人は冒頭の居酒屋に辿り着いたわけである──
お冷を一気に煽る屠自古を見届け、青娥はようやく呑みかけのお猪口に口を付けた。
「それにしても意外ですわねえ、霊体の屠自古さんにここまでお酒が効くだなんて。精神体だからお酒を呑んだという気分に強い影響を受けるということかしら……そして、お水を飲めば一気に酔いが覚める、と」
「まーたお前はそうやって科学者気取りでよぉ。仙人の本分を忘れたのか、あー?」
「なにおぅ。仙道に飽き足らず、あらゆる学問を修めんとする青娥の探究心がわからんのかぁ!?」
芳香と屠自古は歯もむき出しにし、顔を突き合わせて睨み合う。
「今更だけどお前も何なんだよ。昔は本当に邪仙に言われるがままの肉人形だったのに、いつの間にかいっちょ前の口利くようになってるじゃんか」
「幻想郷っていうパワースポットのおかげかしらね。やっぱり『空気が濃い』ところは魂が宿りやすいみたいなのよ。でも、決定打はあの付喪神異変の時だったわ」
「まー、よく分かんないけど、私には青娥の愛がたっぷり籠もってるおかげだろうなー。死んでても愛には応えたいのが人情だろぅ?」
それは本来なら青娥にとっても芳香にとっても、生涯をかけてきた根幹を揺るがす大事件の筈である。そして、彼女達の心情を最も知っているのは他でもない、誰よりも長い時を共に経てきた屠自古だ。
しかし、だからこそ、二人がこうもあっけらかんとそれを話すのならばと、屠自古はあえてそこに踏み込まないことに決めた。彼女達が蓋をした過去の穴は、気安く掘り返すにはあまりにも底が深すぎるから。
「……まあ、そういう事ならそれでいいよ。だがな、芳香だって探究心とやらで見た目も性別も弄りまくって別物にされてるだろ。仙人じゃなくてマッドサイエンティストでも名乗った方が良いんじゃないか」
「不老不死を求めると、自然と医学や生物学に行き着くのよ。もっとも、私にはもはや必要の無いものですけどね」
青娥は残り少ないとっくりをくるくると振りながら、容器の先の遠い何かを探し見ているようだった。
「屠自古ぉ、たしか性別まで変えざるを得なくなったのはお前のせいだったはずだぞ。私はちゃんと覚えてるからなー」
「そうそう、あの時は面白かったわよねえ。まともに見たこと無かった陽物に悲鳴あげちゃって。屠自古さんたらウブで可愛いんだから」
「ウブで悪かったな!! こちとらそういう生まれ育ちなんだからしょうがないだろうが。それにいくら眠ってるからって素っ裸で太子様のお傍を徘徊させるんじゃねえ!」
「死んでるから良いけどなー。股にそそり立ってる物に雷を流される方の気持ちなんてお前には絶対分からんだろう。生きてたらショックでそのまま死んでたぞー」
「もともと女の子に改造するつもりでいたから丁度良かったですけどね」
死体の性転換を改造と言ってのけたが、青娥という邪仙はこういうものだ。一々それに苦言を呈する気も屠自古は失せているのであった。
「……そういや雷で思い出したんだが、仙界のお前の住処って私に頼らずとも電気が通ってるんだよな。外から電線を引っ張ってきてるのか?」
「出来ないことも無いけど自前ですわね。キョンシーの子たちに地下でコイルを回して貰っているのよ、人力でね」
「キョンシーに、人力でか」
「ランニングマシーンタイプと自転車タイプと、あと奴隷がみんなでくるくる回すアレのタイプもあるわよ」
「8時間勤務で3交代制の24時間営業でー、勤務中でも自分で生み出した電気でテレビやラジオは使い放題なのだ。給料は無いが3食昼寝付きで、頑張ると青娥がよしよししてくれるぞー。屠自古も働きたかったら現場主任の……えーと、誰だっけ?」
「ファンよ。先輩の名前ぐらい覚えてあげなさい」
「そうそう、そいつがシフトも組んでるから頼むと良いぞ」
「何で私が人力発電機なんて無駄な事しなきゃいけねえんだよ。っていうか私よりまともなライフスタイル送ってて恨めしいわ」
「おー、過労死とは無縁の職場だぞ。なんたってみんな死んじゃってるからなー。あはははははは!」
まただ。屠自古が知っている芳香とは決定的に違う言動をした。酒も程々につまみの揚げ物を笑顔でぱくついている芳香を、屠自古は酒を一口喉に流し込みながら真っ直ぐに見据えた。
「……芳香。私の知ってるお前はな、冗談でも死を笑い話にできるような奴じゃなかったよ」
芳香も手を止め、机に置いた枡に口を付けた。
「……昔の死に怯える私の方が好きだったか? 屠自古よ、お前も私の知るお前とはだいぶ変わってしまったぞ」
「脳死のお前が言う昔の私ってのは数秒前か、数分前か? まさか千年前とでも言い出す気じゃないだろうな」
「そのまさかだとしたら? 例え魂が別物でも、この体がお前のことを覚えているぞ」
「そりゃ執念深い事だな。私よりよっぽど怨霊の素質があるんじゃないか」
青娥は二人の会話を、酒をちびちびと舐めながら静かに聞いている。
「恨みはしておらぬよ。お前も私も、過去の妄執などとうに失せていよう。それでも現世にしがみついているのは新たな生きがいを見出しているからではないか」
「生前のお前とはかけ離れた死人の体とまがい物の魂でか。それが新たな自分だと言うつもりか? 物部みたいな喋り方までしやがって」
「屠自古とて元の体が無いではないか。しかしそんな自分を気に入っているのだろう? 今更過去の事をぐちぐち言うものではないわ」
「ふん、死人のくせによく口が回るもんだよ。まあ飼い主が飼い主だからそれも当然か。口先から生まれた不良仙人だもんなあ!?」
「お前こそ、減らず口は千年経っても直らぬな。それとも怨霊だから何を言っても仕方がないと思ってくれるとでも? 主が怒らぬから黙っておれば、お前は少し青娥の優しさに甘えすぎではないのか!?」
「こら」
黙っていた青娥が口を挟んだ。柔らかく握った拳骨で、芳香の眉間を軽く小突く。
「そういう事を言うんじゃありません。お酒は楽しく呑みなさい」
「だって、屠自古がー!」
「だってじゃありません。お酒の勢いで喧嘩をするようなみっともない子は土に還しちゃいますからね」
うー……と唸り声を上げて、芳香は不満げに顔を机の上に乗せる。
「不躾な子でごめんなさいね」
「……ちっ、それじゃ私が悪くないみたいじゃないか。わかってるよ、わかってる。先に仕掛けたのは私の方だ。私だって別に喧嘩がしたいわけじゃない。すまなかったよ、芳香」
「屠自古ぉ、ごめんなー」
先程までの古風な喋り方はどこへやらで、すっかりいつもの間の抜けた口調に戻ってしまっている。怒られたショックで魂が抜けてしまったといったところだろうか。
「はい宜しい。さあさあ、呑み直して楽しいお話をしましょうね。芳香ちゃんは他に何か食べたいものはあるかしら?」
「じゃあー、唐揚げー!」
目を輝かせて答える、生き生きとした屍体の少女に屠自古は苦笑する。
「死体のくせに油っこい物ばっかり食べやがって。育ちもしないのにもったいないったらないよ」
「キョンシーの超パワーは日々の食事から生まれるのだ。食べる意味が無いのは屠自古の方だろうに」
「雷の発電には燃焼物が必要なんだよ。それと、美味い飯は精神にも影響する。霊体の私にはとても重要なことだ」
「よく言うよ!」
「よく言うなー!」
二人は顔を向かい合わせて、へへっと笑った。
「うふふ。そうだ、聞いてもらえます?豊聡耳様ったらね……」
それからも三人は色々な話をした。信じていた弟子に0点を付けられたこと、芳香の人生相談、屠自古が食べた物はどこから出るのか等々、取り留めなく話し続けた。
屠自古は呑んだ。とてもよく呑んだ。呑みすぎて地に足が付かぬ程に。
芳香は食べた。とてもよく食べた。食べすぎて地から足が離れぬ程に。
結果どうなったか。青娥が両肩で、まともに歩けなくなった二人を抱えているのであった。
「……おじさま。お代は豊聡耳様にお願いくださいましね……」
この華奢な体のどこに二人を抱える膂力があるのかと困惑する店主に後を頼み、青娥は死体二人を引きずって逞しく店を出ていった。
修行は疎かにしているとはいえ青娥も仙人の端くれだ。女二人を担いで歩く程度、何のことは無い。しかし青娥にも苦手なタイプはいる。自分にうざったく絡んでくる人間だ。(自分のことは思いっきり棚に上げるとする)
そしてそれは、青娥の顔を挟んで両肩にいる今の二人のことである。
「金はらえよー。せいがー。おまえー。たいし様にー。めいわくかけんなーって。言ったろー!」
「お財布を持ち歩かないのなら、ツケで良いから私の所に持ってきなさいって、豊聡耳様に言われたのよ……どうせ今言っている事なんて覚えていただけないんでしょうけど」
「私がちゃんと覚えてるぞー! 安心しろー! 青娥ー!」
「芳香、あなたは自分の胃の限界ぐらい覚えておきなさい……こんな事ならちゃんと制御しておくのだったわ」
屠自古がむっとした表情で青娥の頬に顔を近付ける。
「あのさー。せいがよー。いま私はおまえにめいわくかけてるだろー!? 怒れよー! おまえが怒ってくれないから余計に私が怒るんだよー。それがわかんないかなー!?」
「わかってます。わかってて屠自古さんの事怒らせてるんですから……」
「ふざけんなー! こっちだってわかってんだよー! おまえが私のことどう思ってるかくらいよー……」
屠自古の声の音量が下がっていく。心なしか顔の赤みも引いたように見えた。本当に精神状態がすぐ体に影響する怨霊だ。
非常に言いづらそうに、ぼそぼそと、屠自古は自分の心情を語りだし始めた。
「私は、お前みたいな奴は嫌いだけど、お前の事は嫌いじゃない。だから、気にするなよ」
「……ちょっと何言ってるかわからないぞー、屠自古」
わからなくて良かった。この二人の信頼関係は、心の内を直接口にしないことで成り立っているのだから。
「別に気になんかしませんよ。私は別に、屠自古さんの事はそれほど好きじゃありませんしぃ……」
「はあー!? ふざけんなよお前! あんだけ人に絡んでおいて今更そんなのが許されると思ってんのか、あー!?」
屠自古の顔の赤みが復活した。もちろん酒に依るものではないが。
「あのなー、青娥はなー、本当に好きな相手には直接好きだって言わないんだぞ。でも向こうから面と向かって好きだーって言われると弱いんだぞ。昔もそうやって結婚したわけだからなー」
「ちょっと、芳香。その話はどこで聞いたのかしら……?」
「深夜勤の時に先輩から聞いたー」
一瞬だけだったが、青娥にしては珍しく、本気で苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「へー。ほー。お前ってそういうところあるんだなー? それは良いこと聞いたなー。あー?」
「……口の軽いキョンシーには、後でしっかりお仕置きをしないといけないわね。それと、屠自古さん、ほっぺを突かないで……」
不機嫌な顔を見せる青娥と、それを愉快に眺める満面の笑みの芳香と屠自古。三日月に見守られながら、青娥は自分をいじり続ける二人を仙界の道場まで運びきったのであった。
「青娥! 屠自古が居ないと思ったら、この状況は一体どういうことなのですか!?」
豊聡耳神子は困惑を隠し切れない様子で三人を出迎えた。こんなにげんなりした顔で惨めな姿の師匠は今まで見たことがない。
そしてこれまた今まで見たことなかったであろう、真っ赤な顔の屠自古が上機嫌に神子に挨拶する。
「おー! どなたかと思ったら青娥に0点を付けた太子様じゃありませんかあ! 只今帰りましたよー! 酔ってまーす! あはははははは!」
「と、屠自古ぉ! お主、太子様になんという口の利き方を……!」
あまりの事態に布都の顔も顔面蒼白だ。いつも自分を睨む屠自古が上機嫌、いつも掴みどころのない青娥が掴まれ、死人の芳香の顔が(油物で)てかてかで生命力に満ち溢れている。一体これは何事か。
「三人で呑んでたのですか……?」
察しの良い神子でなくても判る事ではあるが、状況の理解とはまた別に、個人的な感情が神子の口から漏れ出してしまった。
ズルい、と。
「太子様が我々を放ったらかすからー、拗ねちゃった青娥にむりやり誘われましたー! 私は何も悪くありませーん!」
「おやめなさい屠自古さん。私は別に怒ってなんかいないですし」
「そうだそうだー! 青娥は怒ってないぞー! 悲しいんだぞー! なにが0点だー!」
青娥の肩で英気を養っていた二人が活動を再開した。青娥の肩から神子に向けて飛び立ち、詰め寄る。
「あ、あれはその、建前として、公の場で青娥の行いを肯定するわけにもいかないんですよ。いろいろと表に出せないのです。それはわかっていただけるでしょう……?」
「なーにが公ですかあ! あの尼の前だから良い格好したかっただけでしょうにい!」
「そうやって何人の女を誑かして来たんだー? 見損なったぞ神子ー。もうお前の友達やめたろかー?」
酔っているのを良いことに、二人は神子を挟んでその肩に手を回す。
「こ、こらあ! 太子様から手を離さぬかぁ!」
布都の絶叫も聞いちゃいない。死人に耳なしである。
絡みの対象が自分から神子に移ったことで青娥は安心した。それと同時に、手を口に当てて吹き出しそうなのを堪えていたが。
「せ、青娥、助けてくださいっ……!」
「ええー……。でも私、0点ですしぃ……。そんな私が豊聡耳様の為に何が出来ましょうか。私はあまりにも無力ですもの。本当は貴女の師匠などと名乗ってはいけない者なのですわ……」
酔っぱらい二人(芳香はフリだが)に肩を組まれて小さくなる神子の懇願を、青娥はここぞとばかりに突っぱねた。無論、青娥の顔はにやけている。
「そんな事無いです! 謝りますから! 貴女のお願い何でも聞いてあげますから! だから助けて!」
「……あらぁ? 今何でも聞くって言いましたよね? そうですかそうですか、何でもぉ……?」
「は、はい……言いました」
勢いで口走ってしまったが時既に遅し。後悔先に立たずとはこの事だ。死神の鎌を前にした被告人として、神子は己の運命を受け入れるしかなかった。
「……お布団を用意してくださいな。芳香ちゃんを寝かせますから」
青娥は神子に絡みついた二人の首根っこを子猫の如くひょいと掴んで開放してくれた。始めの数秒は呆気に取られていた神子であったが。
「え……? あ、はい……!」
顔がぱあっと明るくなった。安堵の表情を浮かべて、神子は逃げるように寝室へと駆けていき、布都もこれを慌てて追いかけていった。
「まーたそういう所で優しさ発揮しちゃってよお。これじゃ太子様がますますお前に逆らえなくなっちゃうじゃんか。この邪仙がよー」
「私がこんなになってるのは誰の無礼講のせいだと思ってるんですか、誰の」
「我々だー! わっはっはっはー!」
大元を辿れば青娥が屠自古を誘ったせいなのであるが、これも日頃の行いが悪かった、自業自得と謂われる処であろう。
予定では芳香ちゃんと一緒に屠自古さんをからかって遊んでお友達を増やしてあげるつもりでしたのに、と独り言つ青娥であったが、芳香ちゃんが楽しそうだし結果的に予定よりも仲良しになれたので善しと思う事にした。
えっちらおっちら三人が客間に行けば、布団は既に完璧に敷いてあった。しかも頼んでいなかったのに二人分だ。つくづく察しが良い優秀な弟子だと青娥は感心する。
(まあ、私が育てたのだから当然ですけどね……!)
自画自賛に耽る青娥が二人から手を離した途端、ふかふかの布団に気分が昂揚したのだろうか、芳香と屠自古は子供のようにそこに飛び込んだ。
「あー……天国だー……」
「うーん……生き返るぞー……」
すっかり恒例となった死人ジョークである。二人は顔を見合わせて吹き出した。
「あのぉ屠自古さん。そのお布団は私の分なんですけれども? 貴女の寝室はちゃんとあるでしょうに」
青娥はかがみ込んで屠自古の頬をぺちぺちと叩く。帰り道で顔を突かれた事へのお返しだ。
「なんだよー。お前は自分の家に帰っちまえばいいだろー。どうしてもここで寝たいのなら一緒の布団で寝ればいいだろー」
屠自古は緩みきった幸福な顔で布団に沈み込んでいる。こうなっては最早、言ってもテコでも動かない気だろう。
「一緒って、屠自古さんとですか?」
「あー? そっちの死体と一緒に決まってるだろ。お前と一緒に寝るなんて死んでも御免だよ」
「はいはい。屠自古さんは、私みたいな人、お嫌いですものね」
そう言うと、青娥がゆっくりと立ち上がって部屋から出ていこうとするので、屠自古は不満げにスカートの端を掴んで引っ張った。
「おい。どうしてもって言うんなら別に良いんだぞ? 本当にどっか行く気じゃないよな?」
「もう二人、手のかかる子供がいるでしょう? そちらの様子を見に行くだけですよ。ちゃんとお着替えして、歯磨きしてから寝なさいね」
「へっ、この私にそんなもんが必要だと思ったか。虫歯だって泣いて逃げ出すのが怨霊ってもんよ」
謎の自信に満ちた屠自古にさすがの青娥も苦笑いである。青娥としては子供扱いされている事に怒って欲しかったのだが。
「屠自古ってツンデレだし、時々変なこと言ったりしてかわいいよなー」
「うるせえやい」
どこで覚えてきたのか、現代で一昔前に流行った言葉で屠自古をからかう芳香。すっかり私に似てきたわね、そうやってくすくす微笑みながら、青娥は客間を後にするのだった。
二人の絡み相手が居なくなったことで、静寂に包まれた客間。
その中で、屠自古がおもむろに口を開いた。
「あのさ、芳香よ」
「何だ、屠自古よ」
「実は私な、味は分かるけど酒で酔ったりしないんだよ」
「……ほう?」
「顔が赤くなるのだって化けの応用だ。足を出したり消したり出来るのと同じな……」
「つまり我々は……一杯食わされたということだなー!」
今日の一連の醜態は全て、完全に正気の屠自古の意志によるものだった。
酒を利用して、屠自古は見事に青娥を困惑させてみせたのである。
「ほんっとうに素直じゃないな、屠自古はー!」
「あいつとは付き合いが長すぎてな。何かの力を借りないと今更ああいうのは出来ないんだよ」
腐れ縁程度ならまだしも、腐れすぎた縁というのはもはやそれ以外の形を取ることが出来ないという事だろうか。
まったく、面倒くさい関係もあったものだと呆れるが、ここで芳香は一つ面白いことを思いついた。
「お返しと言ってはなんだが、私の秘密も教えてやろうか」
「ほう?」
屠自古の眼を見てにやにや笑う芳香の秘密、せっかく仲良くなったのだから聞いておきたい。頭をこくこくと縦に振って続きを促した。
「私の視覚と聴覚はな、青娥と繋がっているのだ」
「……なに?」
「私の体の一部には青娥の肉体を埋め込んである。難しいことは分からんが、それで私と感覚を少しだけ共有できるらしいぞー?」
つまり、どういうことかというと。
「今の私の話も……青娥には筒抜けだったと?」
「アンテナ代わりの札が貼ってある時だけだがなー」
屠自古は眼をカッと見開いて芳香の眉間を睨みつけた。今日は……いつもの札が額に無い。
無いが、今日の芳香は耳の上に髪飾りを付けている。
小さなお札付きの、おそらく青娥の手書きの文字が書かれているものが、だ。
「聞かれてた……死にたい……」
「どうする? やっぱり本当は酒に酔ってたことにするかー?」
にやけ顔の芳香と赤面の屠自古の口喧嘩ではどちらが勝つかなど自明の理だ。
ならば、狙うは相討ち。
往生際において、屠自古はここ一番の覚悟を決めたのである。
「……いいや、どうせあいつは全部見透かしてきて腹立つんだ。だったら、こうだ」
屠自古は芳香の顔を両手で掴んで自分の顔の前にぐっと引き寄せた。
「いいか、芳香。これは断じて青娥にではなくてお前に言うのだが、私はお前にこれだけは言いたいことがあるんだ。私はな……!」
最初に異変に気付いたのは、とばっちりで脚を揉まされていた布都であった。
察しの良さでは神子に軍配が上がるが、肩を揉まされていた神子は椅子の後ろからでは変化に気付きにくかったのである。
「せ、青娥殿。どうかなされたのですか?」
何かあったのかと神子が前に回ると、何かを堪えるように震えて赤面する青娥の顔がそこにはあった。
「マ、マッサージが気持ち良かったのですか? それとも酔いが今になって回ってきたとか……」
すう、はあ。
心配する二人をよそに、ひとつ、大きく深呼吸をした。
「……そうね、お酒に酔ってしまったの。大丈夫だから、ほら、続きをお願いいたしますわ」
二人に全身を揉みほぐされながら、青娥は椅子に斜めに体を預けて天井を見た。
仙人を志した時から変わらない己の純粋さが、誇らしくもあり、今は少しだけ恥ずかしい。
でも……。
私も同じ気持ちですよ、屠自古さん。
青娥相手に勝手知ったる仲として一杯食わせたり食わされたり出来る関係の屠自古が素敵でした。
大昔からの悪友的な趣のある芳香のキャラ付けも実に魅力的です。