収奪伝
i`ll never be hungry again.No,nor any of my fok.If I have to lie,cheat or kill.
(姉妹はあらゆる公共サーヴィスを利用してはならない。またあらゆる公共サーヴィスを利用する権利を捨てさるために、税金を定められた九十九・九パーセントより多く“納めてはならない”……)
〈今に思えば、それが幻想砂漠へ逃げだすきっかけだったのである〉
すぐに電柱の影へ隠れて、怒りの声も出てこない。餅が喉につっかえている感じ。知らない男を捕まえてさんざん奢らせたアルコールも、ごきげんな私の千鳥足も、水を抜いたように息をひそめてしまうのだ。
奢らせたあと汚いアパートと診療所のあいだにある、そのころの姉さんのねぐらへ向かっていた。そしてねぐらの十メートルくらい手前で、狭い路地の向こうにいるであろう姉さんを、盗撮しているカメラマンふうの人間が見えてしまったわけである。
氷も凍る二月の夜。白い息を吐きだしながら、金属箱の瞳孔をあやつって、今にもシャッターが姉さんを世間から切りだそうとしている。私も白い息を吐きだしながら、電柱の影からその光景にかじりついて、仏像のように動けなかった。
しかし本当にシャッターが切られたとき、遅ればせて私の時間がよみがえった。焚かれたフラッシュのあと、灰色にこわばっていた視界が、カラー写真のように色めいた。
「泥棒!」
すぐに叫んだ。カメラマンが驚いてひるんだあと、あわてて走りさっていった。
追憶:私の 「泥棒!」 呼ばわりで逃げだすあたり、あのカメラマンのほうでも窃盗の自覚はしていたのだろう。カメラがまだ無自覚な風景の窃盗用品へと、完全になりきっていなかった時代……中身の詰まっていない姉さんから、切りだすことは不可能なのだから、別にうろたえることもなかったのかもしれない。だが肉親を世間から勝手に切りだされる痛みは、自分を世間から勝手に切りだされるよりも痛みを伴うのだ。
追いかけはしなかった。まだうろたえていたし、姉さんの様子が気になった。
私はすぐに路地へはいった。姉さんは眠っていた。アパートの換気口から漏れている、なまあたたかい風を浴びながら、地面にブルー・シートを敷いて、体は保温のために新聞紙を幾十にも巻いていた。
〈運転手の発作、下校中の児童が死亡〉……〈白菜の黒い斑点について〉……〈建築建材展〉……〈塾講師、女児にわいせつ行為〉……
寝相のわるさで膝から下の新聞紙がめくれあがっていた。なぜか新聞紙と足の境い目を注視してしまい、その部分だけ記事がよく見える。なまつばを飲みこんだ。記事の社会性と姉さんのゴボウのような足の対比は、あまりに滑稽だったものの、なんとなく肉感的だと思う。この足はどれだけ撮影されたのだろう。私がくるまえから、シャッターは切られまくっていたのかもしれないのだ……そう思うと胸が痛くなる。シャツの下でふたつボタンがすこし勃起した。
「姉さん」
姉さんは起きなかった。今度は 「紫苑、起きろって!」 と強く呼んでみる。
「女苑? うるさいねえ……酒くさいよ……こんな遅くになんだっての」
「盗撮されてたよ」
「何よ、急に」
「だから盗撮されてたんだって。寝てるとき、姉さん。鈍感なんだから」
「誰に」
「そんなの分からない。誰かよ」
「ふん」
姉さんは起きあがる。動いた拍子で、さらに新聞紙がめくれあがる。膝から上のあたりまで……どうして急に、足ばかり気にしているのだろう。フラッシュに嫉妬していたのかもしれない。その足はあまりに細くよわよわしくて、写真に撮られるとフィルムの格子に、空間ごともぎりとられそうだと思う。
それにしたって、女学生でも納税者でもないのに足を見せびらかすなんて、ちょっと反社会的すぎるよ。露出を職業にしているやつだっているんだからな。ただの乞食がなま足を見せびらかすなんて、世間に対する越権行為じゃないの?
「何、見てるのさ?」
姉さんはくすくすと笑いだす。
「何って……?」
「足よ」
「足くらい見てもいいじゃない」
「カメラマンって、本当は女苑のこと?」
「ちがう! いっしょにしないで。妹だって、分からないのかな」
「私の足の写真って、売ったらいくらくらいかな」
「売れるわけないよ……」
何に執着しているかなんて、以外と無自覚なものである。あのカメラマンが逃げだしたあとのことは分からないが、願わくば早く死んでしまってほしいのだ。
あのカメラマンが四十五度、向こうの路地にいる姉さんを、世間から切りだしたりしなかったら、私があいつにこだわって肉体関係を持ってしまったり、寝たフリ顔を見ながら自慰をしたり、おそろいの金メッキの腕輪をつけさせたりはしなかったはずである。
あの金属箱のレンズは、もしかすると私の瞳だったのかもしれない。他人の目や写真を通して見た肉親は、いやに肉感的な感じがする。姉さんを世間から切りだされる恐怖が、ビーカーから執着の水溶液を溢れださせて、そのときからあいつの薄ぎたないばかりの足は、ひどくみだらな曲線に見える。
一瞬のまたたきが、姉さんを見る目を変えてしまったのだ。
切れあじがあれば、なんでもかまわない。おおよそほとんどの場合はハサミやカッター・ナイフなのだろうが、凝った連中は爪にカミソリを取りつけると聞いたことがある。あとは小さくて、できるだけ特徴のない物であること。派手な色をしているなら、黒いマジック・ペンで塗っておくのが望ましい。
私は今、駅にいるのだ。改札を抜けて、プラット・ホームで電車を待っている。憂鬱な退社の匂いが餅かびのように香っていた。
電車がくるまえに、同じ電車に乗りそうな人間たちを観察しておこう。被害者は知るよしもないだろうが、スリは電車の外で、もう獲物を選びおえているのである。だから物を盗まれたくなければ電車の中ではなく、ホームで他人を警戒するべきなのだ。そうすればスリは別の誰かに狙いを定めてくれるだろう。ホームで無警戒なやつは、電車の中でも無警戒なのである。
使いふるした杖をにぎる、せむしの老人……就職さきが理想とちがい、溜め息を吐く若いサラリーマン(春の風物詩)……やかましい三人の女学生……ほら、まさに今。自動販売機にもたれかかっていたスリが、サラリーマンを注視した。それからほほえむのを我慢するように、唇をひと舐め。
同業者ってのは、分かりやすいよ。警察官なんかも私服だって、同じ警察官を雰囲気で見やぶるらしいのだ。
やがて電車が駅に来た。がたがたと車輪が荒い息づかいを発している。車輪はかなきり声をあげて、ぴったりと駅に吸いついた。そして口をひらくと、またたく間に人間たちを胃袋へと飲みこんでゆく……。
電車へ乗りこむ直前、最終的に目をつけたのは一人の年増だった。仮にA氏と呼んでおく。
粉が噴きそうな厚化粧。腫れぼったい頬と唇。てらてらとした黒いブーツ。むらさき色の派手なコートが虫の甲殻っぽい印象。肩からさげた茶色のバッグが振動で無防備に揺れている。いかにもと言う感じで、スリの相手にはおあつらえだ。
私は今、満員電車の中で、A氏のうしろにぴったりと張りついている。当然ながら、スリは人口密度が高いほどこのましい。つねづね死角の気配に敏感なくせに、密集と言うやつは、なぜか注意力を散漫にするものらしい。一対一で無警戒になるなんて、普通は散髪くらいだろう。肉親が相手だって、満員電車より気を抜くのはむずかしいのである。
A氏から、きつい香水の匂いがする。柑橘系で、周りの汗の匂いと混じりはじめた臭い。腐ったレモンのようだと思う。精神的な加齢臭を隠すには、却って逆効果だよ。私しか気づいていないだろうが、そのニセブランドのバッグだって、余計に加齢臭をきわだたせるんだからな。
着かざったって、枯れ木に葉が芽ぶいたりするはずがない。しかし腐ったレモンにも、引きつけられる者はいる。腐臭を嗅ぎつけた蠅として、私が財布を盗むくらいはしてやるさ……。
次の駅まであと三分。スリとる機会はふたつある。電車が動きだすときと、電車が停まるときである。車体が大きき揺れて、車内の空気に隙ができるし、何より刃物を使うなら、揺れがその異音を隠してくれるのだ。
まもなく××駅…… まもなく××駅……
やる気のない感じ。もごもごと話すので聞きとりづらい声。車輪がキイキイと子供のように鳴きはじめる。
私はポケットの中にあるカッターをにぎりしめて、ゆっくりと刃を押しだした。ふたつくらい。
チキ、チキ……
好きなんだよ、この感触。かきけされた音が鼓膜より、さらに奥のほうで響いてきた。いつもこの瞬間は、時が伸びた麺のようになってくれる。
追憶:ジャレーの法則って言ったっけ。人間たちの時間の感覚は、老いると短くなるらしい。しかし、それは神さまや妖怪も同じである。
昔は一日が長かった。それが今はどうだろう。日は一秒ごとにやぶりとられるカレンダーになってしまい、まるで止まらない暴走列車だ。だから私は、スリをたのしむのだ。他人の者をこっそりと奪うとき、まだ生きてみたいと思う。時間が焼けついて、ひりひりとしたよろこびが指さきに触れると、バッグにカッターを当てがって……〈となりの車両で悲鳴。続いて言いあうような声〉……サラリーマンを狙っていたスリが失敗したようである。
ーーー窃盗症って呼ばれるらしいね……
病名。窃盗症(Kleptomania)……たのしい思いをさせてくれないものかな。なんでスリのさなかに、姉さんとの会話を思いだすのだろう。
ーーーなんだって、姉さん?
ーーー窃盗にも病名がある時代だよ……
ーーーまたゴミ箱にはいっていた本の知識を、ひけらかしているのかな
ーーー新聞だよ。三ヶ月まえの
判決しだいで、刑務所ではなく病院へ……摂食障害である場合が多く……私は摂食障害なんて患わない。
ーーー手段の目的化ってやつなんだな。金よりも窃盗行為を求めてしまうんだよ
ーーー女苑はどうなの?
ーーー私のことならよく分かっているでしょう
ーーー女苑は金が好き……
ーーーそのとおり。ねえ、もう寝るから。くだらない会話も終わりにしましょう
ーーー今日は早いね
ーーーあるのよ、そんな日も……
ーーー私の体、今日も使えます……
ーーー姉さん、そんな言いかたは已めて……
ーーーくすくす、くすくす
私の体、今日も使えます……? 保険会社の軽薄さ。姉さん、愛情なんだよ。分からないのかな……よし、もう抜きとれる……うまくいった!
そのときぴったりと、電車が駅に辿りつく。降りるとあのスリが何人かにつかまれて、ホームの床へ押さえつけられている。彼を見る人間たちの目は、便所虫を嫌悪する感じ。私はホームを出るために階段を歩いてゆく。
「バッグ、裂けてるんだよお……」
A氏らしき声が聞こえてきた。気づくのが遅すぎるよ。声は階段を登るほど小さくなってゆく。
「あたいのバッグ、裂けてるんだよお。財布がないんだよお」
便所にはいって、個室に鍵をした。財布の中身を確認した。
二万円しかなかった。ニセブランドを使うような貧乏人は、これだから困るよ。ニセセレブは、財布の中身までニセセレブなんだな。
私は財布の中身をポケットに押しこんだ。財布は便所のゴミ箱に捨てた。
駅の外の時計を見ると、十八時まえだった。人間たちは今日の刑期を満了して、そろそろと家へ向かっている。ビジネス・ホテルのうしろに、太陽が隠れてしまっていた。
駅の外には街がある。別にたいした規模もない。だから××県××市と、ことさら名前を言う必要もないだろう。田舎の街とはそんなもので、なんとなく劣化コピーの産物のようである。けなしているわけじゃないよ。却って褒めてるくらいなんだ。本物の都会よりはせわしさもなく、かと言って枯れはてているわけでもない。丁度よく、中途半端な欺瞞の風が吹いている。タクシーの尻から出る、排気ガスだった。
ビルが立っている。トラックの足に撫でつけられて、でこぼこになった道路がある。裁判所がある。病院があれば、調剤薬局がある。何より忘れてはならないのは、駅があれば乞食がいると言うことだ。これなしに、街の輪郭はなりたたない。
乞食。そこにいるのに、いないように扱われている連中。世間の外側と内側のあいだをうろついている虫けら。私の姉さんもそのひとりだ。
「ちょっと、いいかな」
駅まえの広場にいる乞食へ声をかけた。
「なんです……ああ、女苑ちゃんかい……」
「何をおどろいてるの」
「不良にからまれたと思ったんだよ」
「天性の殴られ屋なんだな……」
「へ、へ!」
乞食は自虐的に笑っていた。
「姉さんがどこにいるか知らないかな」
「ええ、ええ。われらの姫ね。われらの姫は、駅の北口にいるよ」
乞食の声は、雑菌でねとついていた。そのうえ姉さんを“姫”などと呼ぶから、余計に耳ざわりなのである。
新聞紙を敷いてその上に、乞食は小瓶を並べていた。五センチ間隔で四つ。中身は黒い粉末で、火薬のように見えるのである。気になると言えば気になるが、聞くのも癪なので無視していた。すると彼は思ったとおり、こちらにそれをさしだしてきた 「これ、買わないかい?」 そう言うところなんだよ。子供の商売ごっこじゃないか。目をきらきらとさせないでほしい。駆けひきのなさが、もう落伍の証明なのだ。
「危ない薬なんか売って、また検挙されたいの」
「無駄だよ、検挙なんて……ただ“もう不法占拠はしません”の書類にサインするだけなんだからな。おれたちはそのあと、同じ場所に戻ってしまう……」
「役所らしい」
「向こうも書類上の検挙が終われば、不満はないらしいんだね……まあ、そんなことはいいんだよ。薬のことだ。これは違法薬物なんかじゃない。同じにされると、この偉大な発明に失礼ってものさ。これはね、ムカデを煎じているんだよ」
「ムカデだって?」
ムカデ……頭の中でも、その言葉を飲みこんでみる……節足動物……英語で、センチピード……実際は百本も足がない。以外とかわいらしい触覚をしている……下位分類群、不快害虫目……。
「煎じて、どうしようっての」
「どうしようって……」 乞食は口ごもる。先生にたしなめられた子供のように、鼻をひくつかせた 「目的だよ、つまり……ムカデってのは、価値のない虫なんだよ。蝶のように美しくもないし、蜂のように受粉の手つだいもしない。乞食の親戚だと思ってね。気味がわるいし、存在がもう迷惑なのさ……へ、へ……ところが煎じてやると、ムカデにも存在価値が産まれてくる。おれのほうでも薬の商人として、存在価値ができるわけだね」
「自分を商人として、一人前にするためってわけか。その贋薬で」
「うん、そうなんだ」
「それで、効能は?」
「おれが、知るもんかよ!」
乞食が笑った。自分の滑稽さを、鏡に映して、まじまじと眺めているようだ。映しているのは小瓶かもしれない。小瓶の中身は、まずそうだった。
別に欲しくもなかったが、そのとき私に魔がさして、ひとつ買わせてしまうのだ。タバコを三本。乞食が渋い顔をした。
「それだけかい、女苑ちゃんよお……?」
「いやなら、買わなくても困らないけどね……」
私に金を渡す気がないと見ると、結局あきらめて取りひきに応じた。謝らないよ。乞食ってのは、本当は疫病神よりも拝金主義者なんだからな。金を簡単に貰えると思ったら、おおまちがいさ。
発明と言っておきながら、ムカデの粉末はタバコでゆすれるほどの価値しかないらしい。胃のあたりで、軽い失望感が分泌されはじめる。失望感は胃液と化学反応を引きおこして、すぐに嘲笑へ転じた。喉へせりあがってくるそれを、私は無表情で取りつくろっていた。
北口へ行くとバス停のあたりで、姉さんが地べたに座っていた。つめたいアスファルトに、足を抱いて三角ずわり。足の近くへ募金箱がわりに、桃のアキ缶を置いて、貧困を演出していた。街灯の金属質な明かりに照らされて、あいつの青みがかった髪が、すこしだけどんくさく見えなくなっていた。
そんな青さに目を留めてしまったのか、中年が一人バス停で、姉さんのことをちらちらと見ていた。
私は、眺める。
中肉中背。眼鏡をしている。黒いスーツと黒い靴。理想的な一般市民だ。
已めておけよ。姉さんに関わらないほうがいい。関わったって、ただ不幸になるだけさ。
今あの中年は、姉さんのアキ缶に小銭を入れようか迷っているのだ。注目したからには、見世物へ代金を払わないと心にしこりが残るからである。これは善良な人間にとって、むずがゆい罪悪感そのものなのだ。
しかし分かってほしいのは、乞食が何も無償で金を施してもらっているわけではないと言うことだ。市民は金を施すかわりに、姉さんから善行をはたらく機会を施してもらっているんだよ。
ーーー私に金を施すやつは、道徳を満たせて満足そうだよ。数十円、数百円で生活できるわけないのに……
姉さんはそう言っていた。あいつは自分の不幸を、青く体からにじみでる力がわるいのだと思いこんでいる。しかし、本当のところあいつの腐った性格がより不幸を呼びさますのだ。世間を舐めくさるニヒリズムだって、悪性格診断書に、きつく手形を押しているようなものである……だからあいつの募金箱に金を入れて、甘やかすべきではないのだ。中年は、施しがあいつに感謝をいだかせると思いこんでいる。あいつは、内心それをあざわらう……ほら、気づいてよ。聡明な社会人なら、あいつの馬脚くらい、なんとか引きまわしてみたらどうなんだ……!
しかし願いもむなしく、中年は姉さんに近づくと、アキ缶に硬貨を入れてしまうのだ。
バスが来た。それに乗りこむ中年は、頬の道徳ぶくろを善行で膨らませて、うれしそうだった。膨らんで見えるのは、ただ肥えていたのかもしれない。
馬鹿が……近くの電柱に、痰を吐きつけてやる……永遠に、ヒラ社員でも、やっていればいい。
私は姉さんに近づいた。アキ缶の中身は以外とあった。聖なる手榴弾が泡をはじけさせた時代にしては、多いほうである。
「女苑」 姉さんが私を見た。
「一週間ぶりくらいかな。今日は稼げたの」
「三千円くらいかな」
「本当に人間たちの罪悪感をくすぐるのがうまいよ。その才能を活かして、精神科医にでもなったらどうなの?」
「学費、ちょうだい」
「冗談に決まっているじゃないか!」
「私もよ」
「ああ、つまらない……どいつもこいつも、しけてるよ。バブルってのは、うまい文句だわ。他人の財布の中身まで、泡のように消えてしまうなんて……」
街が暗くなってゆく。外はいずれ、自宅のドアに飲みこまれそこねた人種が練りあるくようになるだろう。
バス停のベンチの背中に、ポスターが貼ってある。若い男が写真に載っていた。あれは就職啓蒙集会のポスターだ。大きく明朝体で“どんづまり”と書いている。
どんづまり……。
「駅から東に二キロ。川を渡った鉄橋の下で、今は寝ているんだよ」
「またねぐらを変えたの」
「えへ、えへ。最近は、どこもきびしい。寝る場所が減ってきたよ」
「もう、東北にでも行こうか?」
「寒い土地に住む乞食はいないよ。くだるなら、大阪府」
「メッカだな、乞食の」
「めっかって、どう言う英語?」
「馬鹿すぎる……」
月が出てきた。にんまりとした、笑う三日月。その光が横断歩道の上に落ちている、一円玉に注がれていた。
橋のある場所は知っている。姉さんの案内がなくてもよかったから、私は率先して前に出ていた。
「待ってよお……」
「遅いよ」
いつの間にか姉さんとの距離が離れていた。あいつは、ビッコだったのである。両方だからビッコとは言わないかもしれないが、私にそれ以外の語彙はなかった。地面に打ちつけられて折れてしまった、烏のような足。あいつの足はいつからか、そんなふうになってしまった。しかし、いつからかと言っても具体的なことはもうおぼえていないのだ。ぼんやりと思いだすかぎりでは……まだ私の、他人から収奪する力が弱かったころ……あいつの足は、まだたよりがいがあった気もする。それどころか、いつもあいつの足に、安心を感じてはいなかっただろうか。
「昔の女苑なら手を引いてくれたよ」
「分かったよ……」
姉さんの手を取って、ひえこみはじめる道を進んだ。あいつは歩きながら、ふところから取りだした歯みがき粉のチューブをすすっていた。
橋の下には、ゴミが散乱していた。世間に登録されていない、暗黙の廃棄所なのである。姉さんはそこからボール箱と薄よごれた毛布を引っぱりだそうとしていた。私は橋の柱にもたれて、タバコを吸いながらそれを見ていた。あいつの髪の上で、沢山のシラミが跳ねている。別に見えたわけじゃない。つねづね見かけるから、今もそう決めつけたまでのことである。
「姫だってさ」
「ふん?」
「乞食どもは、姉さんのこと……」
「ああ、そうらしいね」
「乞食の偶像になった気分は?」
「別に私がかわいらしいから、そう呼んでいるわけじゃない。ただ、より貧相だからね」
「乞食まで、下を見て安心するんだな……」
「五十歩、百歩……」
ボール箱と毛布が地面に敷かれた。姉さんはそこに潜りこんで 「おいで」 と私にささやいた。
姉さんの横にすべりこんだ。毛布から、鼻にわるそうな、埃が舞った。
「今日は、するの?」
「どうしようかな……」
「私の体、今日も使えるよ」
夜行生物でもないのに、姉さんの瞳は星のようだと思う。あいつの、めずらしく美しい部分。世間のあらゆる痛みからのがれている、河原の丸っこい無形石。あいつは 「金が欲しい」 といつも言った。しかし、私はあいつが率先して収奪するのをほとんど見たことがない。本当は金なんか、落ちていればうれしいくらいの物なんでしょう? 雑草のように、夜露でも飲んで暮らせれば、それで満足なのである。
私は姉さんの誘いをことわって、右の瞼に接吻した。するとあいつは、寝たフリをする。硬直した蜘蛛のわざとらしさ……それが以外と、好都合なのだ。
少なくとも、寝たフリは本当の睡眠のように、起きる心配がないわけだからな……むしろ寝たフリのほうが、却って自慰もしやすいくらい……〈下着をずりおろす音〉……他人の物を奪うのは、わるいことである。しかし、それが世間の痛みからのがれる道なのだ。私はそれを成すために、あらゆる努力を惜しまなかった。
姉さん、そんな私を褒めてくれ。慰めて、くれ。
〈打ちあけばなし〉
つかれきって眠るときには、鉛のヘソの緒の夢を見る。別に何かの比喩じゃない。みんな見たままの物をそう呼んでいるだけだ。尤もみんなはずかしいから、それを見ているなんて、絶対に話題にしたりしない。羞恥心のわずかな姉さんだって、口にしたがらないくらいである。
神さまや妖怪の中でも、人間世界に執着している者が見る。つまり、すべての神さまや妖怪がその夢を見ると言うわけだ。
追憶:どこかに人間世界に執着しない神さまや妖怪がいるかもしれないが、私はあえてそう信じている。
ヘソの緒は日あたりのよい場所が好きだから、夢の景色もそれに倣って、私の場合は海である。ねずみ色の太陽光線が肌を突きさす、火山国に特有の、にごった砂浜。砂粒が吹かれて、龍の背骨のような風紋をえがいていた。その風紋の突端で、二メートルはあるヘソの緒が、蛇のようにのたうったり、西部劇の“あの草”のように、丸まりながら回転している。
ヘソの緒で肉親とつながれたら、どれだけしあわせだろう。しかし、神さまや妖怪にそれがあるわけもない。それは哺乳動物の特権なのである。その特権を得られないから、鉛なんかで創られているのだ。
ああ、私は本当にみんなの愛情が欲しい。
「Double,double,toil and trouble……」
「なんだって?」
姉さんが砂の上に、寝ころびながらつぶやいた。いつの間にいたのだろう。
「困りごと、世界に満ちよって意味よ」
「今度はどこの新聞なの」
「ゴミ箱にはいっていた本さ。スペンサーの詩集」
追憶:このまえ調べてみた。スペンサーじゃない、シェイクスピアだ。馬鹿が。
「馬鹿って言わないでよ」
「私は過去の夢を思いかえしているだけなんだから、追憶に話しかけるのはルール違反じゃないの? 時間がばらばらになってしまうよ」
「ばらばらになったら、糊づけすればいい……」
「頭が本当に弱いんだな」
「昔の女苑なら、そんなことは言わなかった」
「昔、々ってうるさいんだよ!」
「私に何を期待しているのさ」
「何って……なら率直に言わせてもらうけど、姉さんは私に魂を支配させたほうが、しあわせだと思うんだ!」
私は打ちあける。打ちあけばなしなのだから当然だ。むしろ打ちあけないのは不親切と言えるだろう。互いにいつも、嘘まみれなんだからな。
「そうすれば、もう歯みがき粉や洗剤を食べなくてもいい。服もあげるし“差しおさえ”だって剥がしてやるよ」
「遠慮するよ」
「養ってもらえるんだぞ! 本当にどうしようもないやつね」
「ねえ、好きよ」
「紫苑には体を使わせるくらいの、見せかけの愛情しかない」
「女苑にだってスリの途中で考えられるくらいの、片手間の愛情しかない」
姉さんが、身もだえした。ヘソの緒がこちらに近づいて、あいつの足にからみついた。砂が舞った。あいつはすこし、腰をくねらせていた。小便にでも行きたいのかな?
「腕輪がねえ……」
「腕輪が何よ」
「謝りたいんだけど……えへ、えへ……女苑のくれた金メッキのやつ、感触……股のあいだに押しつけると、丸みがたまらないんだな……」
「死にくされ!」
私は、つかみかかる。姉さんの服の、垢まみれの襟を引っぱった。あいつは歯を剥きだした。歯ならびを、欠陥工事で積まれたレンガのようだと思う。
「女苑、そんなに顔を近づけて……接吻してほしいのかい。それとも××××する?」
下品な言葉でささやくんじゃない。裸になりたいなら、欧米のヌーディスト・ビーチにでも、独りで高とびすればいい。
「臭いのよ、口が」
「どうして姉さんをそんなふうに言えるのかな」
姉さんはさめざめと泣きはじめる。
「もう、いい。女苑が死にくされって言うなら、望みどおりそうするよ。こんな不潔な姉さんは、処分したいらしいからね」
「えっ、えっ」
急にしおらしくなるので、私は狼狽した。そして次の刹那に、体へ衝撃が加わった。心傷じゃない。本当に体へ何かがぶっつかって、姉さんから引きはなされ、砂浜に打ちのめされてしまったのだ。
「えっ、えっ」
頭がぼんやりとして動けない。私は血まみれになっていた。よく見ると、ぶっつかってきたのは廃品回収車じゃないか。
「さようなら、別れって本当に突然なのね。これも女苑が私に愛想を尽かしたおかげ」
「待ってよお……」
「幻想砂漠の国へ行くわ」
「待ってよお。死にくされなんて嘘よ、本気じゃなかったんだ!」
「さようなら!」
「私を独りにしないでくれ!」
廃品回収業者が車から降りてきた。彼(彼女?)は姉さんからヘソの緒をむしりとって、荷台に乗せてしまうのだ。むしりとられるとき、私の腹に猛烈な痛みが突きささった。
そして車は去ってしまった。排気ガスとホイールのうねりで、砂まじりの風を炊きあげながら。
ヘソの緒は独りで踊りくるっている。
私はめそめそと泣いていた。別に悲しかっただけではない。同じような夢を何度も見ているのに、いつも最後は涙を垂れてしまうのが、ただはずかしかったのもある。それは消化不良の自尊心にほかならない。同じ映画で何度も泣いている感動屋の気分がよく分かったよ。
這って進んで、私はヘソの緒にすがりつく。しかしヘソの緒はただくねくねとするばかりで、絶対につながってはくれないのだ。
それくらいで絶望する私ではない。反骨精神ならアマノジャクにも負けはしないのだ。今日は無理でも明日ならば、絶対に紫苑の魂を、支配してやる……!
ああ、私は本当に人間世界のすべてが欲しい。
転機は音もなく、隠者のように訪れる。
私はその日、朝からスリをおこなうつもりだったのに、眠りの支配者にかどかわされて、駅内のベンチに座っていたら、つい寝てしまっていた。昨日は悪夢が体に堪えて、よく眠れなかったからである。
まだ月が出ている時間の目ざめ。汗と涙で湿った皮膚。姉さんはもう本当に眠っていた。透湿性のないレイン・コートを着せられたまま、死んでいる気分。私はあいつの顔を眺めながら、眠りたいのに悪夢を憎んで、ついには朝まで起きていた。だから電車に乗らないで、ベンチに瞼を預けてしまったのも、当然かもしれない。
起きた矢さきに、なぜか目を向けたのは公衆電話。今日は土曜日である。親子づれの声が聞こえる……先着一名の、孤独地獄か……不意に電話をかけたいと思う。奢らせた男たち以外の番号がいい。私と無関係な端末に接続されている……たとえば日数と栞をへだてた百ページ目と百一ページ目の無関係さ……消防署へのいたずらでもよかったし、占いマニヤの気象庁へ罵詈雑言を浴びせてもよかった。
もちろん考えるだけで本当にかけるわけがない。かけた途端に、マヌケさ加減に萎えてしまうし、もう財布の中の十円玉は不当な使いかたをいやがって、ずっしりと重くなっていた。
転機は、この次である。
「ああ、ああ!」
スリへの息ごみをなくして、アパートに帰ろうと立ちあがったときである。鋭い叫びが駅に響いた。人間たちは、揃ってそちらに顔を向ける。
追憶:パトカーが通りすぎるとき、人間たちが一瞬だけ気を取られるのは、日ごろ意識しない罪悪感がむきだしにされるからだろうか? 私のように振るまえば、あの声だって……しかし、そう考えるのはあまりに反社会的な気もしてくる。
止まっていた時間が、また動きはじめる。みんなが見て々ぬフリをする、あのぎこちない感じ。時間を一瞬でも奪われた人間たちの、しおらしい憤りが伝わってくる。
このとき声のしたほうを見ないのは悪手だった。なぜなら今度は 「見つけたよ、々つけたよ」 と狂犬のように吠えたその魔物は、私を標的にしていたのだ。声のあるじは、目と鼻のさきまでつかつかとあゆんでくるのである。そしてようやく面倒ごとに巻きこまれていると、気がつかされるのだ。
「えっ、えっ」 Double,double,toil and trouble……姉さんは、なんて言ってたかな……。
「あたいの財布を盗んだはずだ! 思いだしたよ、たしかにうしろにいたはずだ!」
「えっ、えっ」 ちくしょう! ……“困りごと、世界に満ちよ”か!
誰かと思ったら、昨日のA氏じゃないか。あのときと、打ってかわって地味な服。けばけばしい化粧はしていないし、腐ったレモンも香ってこない。代わりに、年相応の醜さだ。
困ったな。世間へ出ているのに仮面をつけないのは、それだけ追いつめられていると言うことだった。
「人ちがいです……」 もちろんすぐに嘘をつく。気の弱い、勉強マニヤで眼鏡をしている女学生の感じ。
「嘘だよ、うしろにいたんだよ!」
鳴りっぱなしの空襲警報のようだと思う。爆弾を相手に、命ごいしても意味がない。今度は周りも慣れてきて、視線が集中しはじめる。誰だっていくら醜くても、見世物がいるなら安全地帯で見たいのだ 「うしろにいたんだよお!」 うるさいな。私は目だつのがきらいなんだ。頼むから、静かにしろよ。
それにしても、私が見つからなければどうしたのだろう。見つかるまで、永遠に探すつもりだったのかもしれない。二万円くらいで、たいした執着心である。
「どうしました……」
運よく通りかかった駅員が、のそのそとこちらに近づいてくる。私は内心ほほえんだ。
「ちょっと、助けてください。ヘンな人にからまれてしまって……」
被害者をよそおい、気もち瞳をうるませながら、長身の駅員に話しかける。
心配は要らない。私はまだ負けていない。少なくとも、見目のうえでは若いのだ。若さは万能の通行許可証なんだからな。顔がよければなおのこと、甘くならない異性がどこにいるものか。
目線から分かるように、駅員は私を気ちがいにからまれた女学生くらいに考えているようだ。今日が土曜日でよかったよ。平日だったら制服なしで、信頼を得られるわけがなかった。東京都で手にいれた東深見高校の制服は、巻きあげるときにしか使わないからな……。
「きみ、大丈夫です?」
「はい……」
「昨日、財布を盗まれたんだよ!」
「こんなふうです……」
「困った人だねえ」
「本当なんだよ!」
「なら盗んだ人に次の日、また会ったってわけですか?」
「本当なんだってば!」
「若い娘さんに突っかかって、はずかしくないの?」
私は唇を噛んでしまう。腹で暴れる笑いの渦を、腸壁に突きささる属条虫のようだと思う。A氏は話すほど、みずから首を絞めあげるのだ。
「とりあえず、ちょっと……事務室に、来てもらえる? 周りの人に、迷惑なので……おい、見てないで“こいつ”を連れていってくれよお!」
駅員が、仲間を呼んだ。迷宮の悪魔がそうするように。
A氏の顔が青くなった。今さら不利を悟ったのだ。私は内心、勝ちほこる。いつの時代も弱肉強食。後手々々に回るほうがわるいのである。
しかし、そんな余裕もすぐに崩れてしまうのだ。駅員の仲間が駆けよって、肩をつかまれてしまうまえに、A氏が私にすがりついてきたのである。そして言った。
「死んだ息子の贈りものだったんだぞ! 贈りものだったんだぞ!」
「おい、早く押さえつけるんだ!」 駅員があわてた。
駅員の仲間が、私からA氏を引きはがした。それでも彼女は手を伸ばしてきた。鼻を掠めるくらいの距離で、手は悪霊のようにこちらを絡めとろうと宙空で踊っている。胸のあたりに、見えない針が突きささる。過呼吸になった心臓が、打ちならされまくった太鼓のように、痛ましい悲鳴をあげていた。
A氏はずるずると連れられてゆく。そのさまは、いつの間にかなくなっていた、市中ひきまわしの刑によくにていた。
「怪我はないです……?」
「……」
「学生証とか持っていたら、見せてもらえる? あとはこちらで、なんとかしておきますから……」
「帰る……帰るわ」
逃げるように歩きだす。駅員が、呼びとめてきた。それでも私は止まらなかった。
「息子の贈りものだったんだ!」
まだ叫んでいる。
他人の者を奪うとき……今、足早にアパートへ向かっている。1DKで駅から遠いぶん家賃は安い。姉さんを入れると狭くなるから、あまり連れこみたくはない。あまり帰っていなかったから、ドアに新聞紙が山ほど詰まって、消化不良を引きおこしているだろう……絶対に避けたいことがある。それは金より大切な物を奪わないようにすることである。
金はたしかに大切だ。私が誰よりもよく知っている。しかし人間たちの中で優先順位をつけるなら、金は十番目くらいがよいところだろう。
追憶:私は人間たちの、そんなところが好きだった。そう信じ、いとおしんでいる。これは真実でなければならない。もし真実ではなかったら、姉さんを道づれに死ぬ予定だ。
人間たちの中心に住んでいるのは、金ではなく肉親や、絶版のレコードや、もう死んでしまった文豪のサインが書かれた小説なのである。
それを奪おうとすれば、人間たちはあらゆる手段を使ってでも、私に報復しようとするにちがいない。だから報復されないように、こちらのほうでも十番目くらいの物しか奪わずに、痛む胃を押さえてひたすら我慢しているのだ。
追憶:もし人間たちが金より肉親や、絶版のレコードや、もう死んでしまった文豪のサインが書かれた小説をすげなく扱うなら、私が人間世界のすべてを欲しがるわけがない。
少なくとも、はした金なら身をむしられるような痛みはない。それどころか金のことを身がわり人形くらいに考えて、寛容になってくれるのだ。私をわざわざ探しだして、報復するはずもないわけだ。
それが決めごとだったのに……アパートが見えてきた。雨風に殴られまくった壁面がみすぼらしい。今月の家賃、払わないといけないな……私は失敗したらしいのだ。A氏は 「死んだ息子の贈りもの」 と言った。つまり私は、迂闊に“身むしり”をしてしまったのである。
そう言われるとあの財布は、男が選びそうな雰囲気が出ていた気もしてくる。しかし、今ごろ財布は清掃工場で火葬されているにちがいない。昨日の今日なので、まだ早いかもしれないが、そうなることは決まっている。
ドアをひらいて、靴を脱ぐ。鍵を閉めた。
私は冷蔵庫をあさりはじめる。いやなことは、満腹になれば忘れられる。パンが六枚。いちごジャムとオレンジ・ジュース。不意に腐ったレモンを思いうかべる。連想なんて趣味じゃない。
冷蔵庫を閉めわすれたまま、袋を開けて、しゃにむにパンへかじりつく。食感がわるくて、まずいうえに、なんの匂いもしなかった。不良品のガムでも噛んでいるようだ。
「くちゃ、くちゃ」
それにしても、決めごとをやぶったからって、どうしてここまで気分を沈めなければならないのだろう。
「くちゃ、くちゃ」
姉さんなら……〈ピイ、ピイ〉……こう言うときはどう考える? 後悔するのだろうか。それとも、いつものように世間をただあざわらうのだろうか……〈ピイ、ピイ〉……冷蔵庫は、黙ってろよ!
「くちゃ、くちゃ」
腹が膨れなかった。パンはもう、なくなってしまう。私は摂食障害なんて患わない。そのうえ断じて特定的に、近ごろ神経性過食症にも似た症状が出はじめているわけでもない。神さまが人間の決めた精神病理を患うなんてマヌケすぎるよ……「げエーー……げエーー……」……胃が突然、痙攣した。畳にパンを吐きもどした。
姉さん、くるしいんだ。過酷すぎるよ。
どうして人間世界の圧力へ、抵抗力ができるまえに、餓死できなかったのだろう。早く姉さんと接吻したまま、窒息してしまえばよかったのに。しかし、あいつは頼んでもことわるだろうな。あいつの生きぎたなさは、誰より私がよく知っている。
ちくしょう! ……電気をつけない部屋の中で、冷蔵庫だけがいやにあかるい。姉さんを、そこへすっぽりと押しいれてみたかった。あいつは今ごろ、アキ缶に金を催促しているのだろう。私が危険を冒して稼いでいるのに、あいつは地雷のない土地で、ただぼんやりとしているだけなのだ。
私は地雷探知機を振りまわしながら、腹ばいになり、必死に匍匐前進しなければ、一円だって稼げないんだ。そのうえようやく見つけた物が、他人の“十番目”だったときの落胆を、姉さんなんかに分かるのか! ……〈ピイ、ピイ〉……産まれたときから頭の奥でがなりたてるのは、強欲の化身の悪霊だ。その声はいつの時代も冷蔵庫の音によく似ている。なんでも欲しがり、腹に収めるところなんて瓜ふたつだ。
〈重要参考人 カメラマン〉
わたしは遺書を書いています。さらに詳しく書くならば、山奥の廃屋で、ひどい臭いのする便所のドアと窓に木の板を打ちつけたあと、餓死しようとしています。本当は入水自殺がよかったのですが、あの夢はそれを許してくれませんでした。
わたしが死ぬのは、あまりの絶望によって、生きる気力をなくしてしまったからであります。
あるときひとりの乞食を撮影していました。青っぽい髪の、その娘を見かけたとき、わたしは内心 「これだ!」 と叫びました。経済の泡が破裂したこの時代ですら簡単に見られないくらいの、彼女からただよう本物の貧困の臭い。それは退廃のきわみでした。彼女を写真にして発表すれば、一流のカメラマンとして世間は認めてくれるだろうと、ほとんど確信できる被写体でした。
失敗したのは、ここからです。ここでとどまるべきでした。
娘(以下、姉と表記します)には妹がいたのです。それは最初に撮影した夜、わたしを 「泥棒!」 と言って追いかえした者でした。
傲慢そうで、背が低く、あまりにふたりが似ていないので、わたしはふたりの会話を聞くまで(その夜から、写真のためにふたりをこっそりと観察するようになりました)ただの他人だと信じきっていました。
それを知ると、わたしは妹のほうにもシャッターを向けました。
乞食の姉とその妹。いよいよ、わたしが芸術家として、はばたく日が来たのだと、私は内心おどっていました。
しかし、妹を撮影した日からわたしに不幸が襲いかかってくるのです。私をカメラマンとして雇ってくれるはずの企業が、汚職発覚で信用をなくして、あっと言う間に潰れました。一流のカメラマンを夢にえがいて、生活をつないでいた日やといさきも、経営難で追いだされました。
それだけならまだよかったのですが……文字にするとあまりに簡単すぎて、笑えるくらいです。四国に旅行へ行った家族が事故で死んでしまったのです。父も母も兄も弟も、みんな死んでしまいました。以上がわたしの死ぬ理由になります。
これは偶然でしょうか。不条理が偶然にも続いただけなのでしょうか。私は本当に家族のところへ行きたいと思う。そして今度は家族写真でフィルムの中身を埋めつくすのです。
ちがうんです。偶然じゃないんです。呪われたんです。許してください。もう絶対にあの妹を撮影しません。許してください。フィルムは現像せずに、すべて処分しましたから、夢の中でわたしを呪わないでください。
「私には妹しかいない
だから私から妹を盗むな
呪われろ、餓死してしまえ
この、泥棒め」
それで私は、手を打つことにしたわけだ。姉さんの世間に対する越権行為と、それをいましめようとする衝動について。これまで我慢していたことを、ついに実行してみようと思うのである。
追憶:私は悪夢と不本意な“身むしり”と精神病理(人間たちの定めた症状に似ているだけで、本当の精神病理じゃない。ただ便宜的にそう言っているだけだ)で、おかしくなっていたのかもしれない。悪夢はともかく、ほかふたつは姉さんに責任などなかったのである。つまり、ただ虫のいどころがよくないために、あいつへからもうとしたのだった。今さら口にしないけど、もう幻想郷に来てほとぼりは冷めてしまったのだし、謝っておくよ。心の中でだけ。ごめんなさい。謝ったから、許してね。
不良たちを雇いいれた。不良なら、乞食たちとちがって姉さんを“われらの姫”などと、神聖視するはずがない。姉さんの周りに配置する募金妨害者として、学校に行かず青春を喰いつぶす不良はまさにおあつらえだった。
日当は一日あたり七千八百円とする。姉さんの周りを市民が寄りつきやすい時間だけ見はるにしてはよい給料だと思う。つまり朝の七時から九時までと、夜の十八時から二十一時までだ。片方の時間帯だけでも、三千五百円を払ってやった。ただし、あいつに手をださないように、契約書へきつく判子を押させたうえでだ。
この作戦は、拍子ぬけするほどうまくいった。姉さんはうまく金を稼げなくなった。つかず離れず、いかに善良な市民と言えども、あいつの周りに不良たちがたむろしていては、金を払えるわけがない。そのうえあいつを崇めている乞食たちも、助けてくれはしないのだ。
当然じゃないか。崇めると言っても、拝むためじゃない。ただ姉さんを見くだして、安心したいだけなのだ。腐れ根性なしがあいつを助けるはずはないし、そんな根性があるのなら、乞食どころか今ごろ立派な経営者さ。しかし、すこしくらいなら笑わないでやってもいい。酔っぱらいと不良たちは、まさに乞食たちの天敵なんだからな。
遠まきに観察するかぎり、姉さんはいらだちを深めはじめる。ぎりぎりと並びのわるい歯をぎしらせたり、ときには変わりゆく信号機の明滅を、うらめしそうに眺めたりしていた。
そして一週間が経ったころ、私は夜に鉄橋の下で姉さんと会った。ごきげんになり、めずらしく酒を持っていった。あいつはボール箱を絨毯に、三角ずらりで膝に頭を乗せながら、耳を喧嘩で失ったノラ猫くらいしょぼくれていた。
「何を落ちこんでいるのかな」 私はにやつきを隠せない。口角を無理やり、糸で引っぱられているようだ 「また洗剤でも食べて、腹の調子がわるいのかな。それとも、どこかで病気でも貰ってきたのかな? そう、にらむなよ。酒でも飲もうか」
「要らない」
「ダニエルなんだよ、ジャック・ダニエルなんだよ」
「飲む」
「はい……?」
「飲ませて、ください」
「フフフフ、フフ」
姉さんに瓶をほうりなげた。受けとめると、あいつはすぐに栓を開けて、水を得た砂漠の迷いっ子のようにがぶがぶと飲みはじめる。あいつがむせかえる。そのあとは瓶の口を舐めながら、ちびちびと喉を焼いていた。
「ふウーー……たまらん……ハアアア、アア……」
「そんなに、おいしいのかい?」
「女苑、私に不良をけしかけてなんのつもりなの」
「気づいちゃうか」
「露骨すぎる」
姉さんのとなりに座り、右手で肩を抱きこんでやる。顔を見つめると、あいつはぷいっと横を向いてしまうのだ。
「露骨すぎるよ」
「私は姉さんも欲しいんだよ」
姉さんから瓶を引ったくる。こちらも一気に、胃をうるおして、ゆっくりと頭に眩暈が満たされはじめる。しかし、わるい気はしない。少なくとも酔いよりさきに、頭は支配の陶酔でいっぱいになっていた。
「金なんて欲しくもないくせに、一丁まえに稼ぎやがって」
「私は貧乏神らしくしているだけよ」
「それこそ手段の目的化だ! すぐになくしてしまうのに、金を稼いだって意味がない」
「貧乏神なんだよ」 姉さんは言った 「貧乏神らしくないことはしない……」
「ふん」
「酒を飲ませてよ」
「飲ませてくださいでしょう」
「飲ませなさい」
「全身全霊でへつらってみなよ。世間にそうしているように」
「飲ませろ!」
「奪ってみろ!」
私たちは喧嘩しはじめる。髪を引っぱり、むしりとる。爪で顔に傷をつける 「ふウーー……ふウーー……」 うめきながらのしかかったり、のしかかられたりを繰りかえす 「女苑、キッスをしてやる」 …… 「臭いんだよ、口が……ウウ。ン、ン、ン、ン……するなら、歯を磨けよ!」 そのうち、私が一方的に姉さんをなぶりはじめる。あいつとちがって格闘屋なのだから、負けるわけがない。
姉さんは地面に転がって、めそめそと泣くフリをした。
「何がいやなの、気に入らないの? 私の体、好きに使えるよって言ったじゃない……」
「そう言うところだよ。愛情に、胡椒をまぶして、味をごまかすな! そんなの、嘘つきのすることだ」
「女苑の欲しい愛情って?」
「つまり……無添加、無農薬で……人間くさい……神さまや妖怪の愛情も、できればそうあるべきなんだよ……分からない、かな? ちくしょう! 私は強欲なんだよ、とにかくそれが欲しいんだ!」
「私が欲しいのかい?」
「よこせ!」
「べえ……絶対にいや」
「すぐに言えなくしてやるよ。金を稼げないで、貧乏神の貧相な生きざまも、どれだけ守っていられるかな。姉さんの忍耐力のなさはよく知っているのよ」
口に酒をふくんで、姉さんに吹きかける。それから残っていた酒も、ばしゃばしゃと全身に浴びせかけてやる。あいつはつめたさにおどろいて、小鳥のようにピイピイと鳴いている……ちくしょう、たまらん。あいつは本当にかわいい。おい、殴ってやろうか? ……ピイピイと鳴きながらもそれで終わらないのが、浅ましいところだ。あいつは服へ染みこんだ酒に、口をつけてすすりはじめる。
満月になるまえに、決着はついてくれるだろう。
首をやたらと動かしたり、足ぶみするのはいらだっている証拠なのだ。落ちつけよ、あせったところでどうしようもないじゃないか。
不良たちが、いなくなった。姉さんの周りに見あたらないし、日当を受けとりにもこなくなった。なんなのだろう、仕事に飽きてしまったのかな。これだから、最近の若いやつは困るのだ……それにしたって、数時間で七千八百円なんだぞ……警備員より、よほど高給とりだと思うのだが……よほど計算が苦手なのか、親が金もちでいくらでもせびれる立場にあったのか……それなら最初から、私に仕える理由もないわけだし……。
そんなふうにまごついていたら、ある朝ようやく、怖るべき事態になっていたと、気がつかされるのだ。朝刊の見だしを、思わず玄関に取りおとす。見だしの文字列が指のさきから、頭めがけて血管にはいりこみ、脳の奥へ突きささった。
見だしには、こう書いてある。
非行少年、四人の死体。暴力団の関与か? 腹部に刃物で“姫”と彫られておりーーー
指のふるえが止まらない。アルコール中毒病者のようだと思う。しかし私の指をふるえさせているのは断じてアルコール中毒(そのほうがよかったかもしれない)ではなく、底しれない恐怖なのだ。怖ろしいことをしてくれたものである。腹部に“姫”などと、誰のしわざか教えているのと同じじゃないか。
私はすぐにアパートを出る。歯みがきも、化粧もせずに駅へ走った。
駅まえの広場で、ムカデの乞食が座っていた。
追憶:そう言えば、このまえあの粉末を飲んでみたっけ。本人の言うとおり、なんの効能も得られなかった。せめて悪夢を退治するくらいの効能を、期待してやったのに……。
「おい!」
「……」
「聞けったら!」
「女苑ちゃんよお……」
「馬鹿なことをしてくれたな……実行犯は、何人いる?」
乞食が笑った。
「笑ってごまかそうとするな!」
「だってよお……われらの姫が、あんなにつらそうにして……ぼそっと言っていたらしいんだよお」
ーーーもう、別の土地に行ってしまおうか……
「われらの姫がいなくなったら、おれたちはこの街で、誰よりも下になるんだよお」
「それで、殺したってわけか」
「ごめんよお」
「馬鹿すぎる、なんで乞食のくせに他人へ迷惑をかけるんだ! 学生でもない、税金も払わない、正社員でもない。そのうえ人ごろしになりさがりやがって。どこで人生をまちがえたんだ! 死にくされ、姉さん以下よ!」
「ごめんよお……」
「姉さんなんかを助けるために……それ以下になって、どうするよ……」
「許してくれ……々してくれ……」
「リアリスティックに許されたいなら、神さまじゃなくて警察署に頼めよ!」
「リアリスティック……? 神さま……?」
「行けよ!」
「捕まっちまうよお……」
「早く、行けよ! 共犯者も、連れていくんだ。姉さん以下になりたいのか!」
私は呪っている。呪っているのは他人を不幸にしなければ姉妹喧嘩もできない、私たちの体質のことをだ。
〈打ちあけばなしを、もうひとつ〉
今ゆっくり耳に浸透しはじめる水音は、鉛のヘソの緒が夢中夢を見せようとする知らせなのだ。それは思いだしたくもない、まだ私の他人から収奪する力が、弱かったころを創りだす。
ただ創りだすと言っても夢だから、すべてが正しいとはかぎらない。実際あのころは安土桃山時代だったのに、私たちが寄りそうキク科ムカシヨモギ属の花畑からは、その時代の建築物に混じって、ビール工場や裁判所が見えている。
「姉さん、ひもじいよお」
私は腹を押さえてくるしんでいる。他人から何も奪えずに、ただ姉さんへ話しかけるばかりなのだ。
「何も食べものがないんだよ。代わりにその髪へキッスをしてあげるから、許してね」
キッスだと? ……私の愛情は萎えはじめる……安土桃山時代にそんな言葉があるわけもない。しかし、姉さんの唇はナメクジのようにしっとりとしていて、いやに真実味を感じさせた。
「ひもじいよお」
「許してね」
「なんでもいいから、食べたいんだ」
「なら、これを食べてみる?」
姉さんは、差しだす。
「歩けなくなってしまうよ」
「いずれ元に戻るよ。人間じゃないんだから」
「ひもじいままだと、ヘンなふうに戻ってしまうかも」
「ビッコに、なったり?」
「ビッコに、なったり……」
いやに具体的じゃないか、姉さん。答案用紙を盗んだのかな。
私は、食べはじめる。
「くちゃ、くちゃ」
「おいしい?」
「うん、おいしいよ。くちゃ、くちゃ。姉さんの足って、ムカデの味がする」
「子供じゃないんだから、音を立てないの。めっ……」
「ごめんなさい」
「分かればいいのよ」
「どうして疫病神なんかに、産まれてしまったんだろう。姉さん、くるしいんだ。過酷すぎるよ。頭の中でいつも、いつも強欲の化身がうるさいんだ」
「貧乏神が肉親だからだよ。呪うかい?」
「呪わないよ」
「そう……よかった」
「姉さん、謝るよ。私は起きると、この夢を忘れてしまうんだ。くちゃ、くちゃ。どうしても、おぼえることができないんだよ」
「大丈夫よ。所詮は夢でしかない。女苑が私の足を食べたのも、本当だったのかどうか……」
「姉さん。鉛のヘソの緒の夢を、今は見るの? そして、その夢に……私は、紫苑の中にいる?」
「困りごとーーー
世界に満ちよ。
乞食を送りだしてから、姉さんのところへ向かった。あいつはアキ缶に金を貯めてごきげんだった。
今、また誰かが姉さんのまえに立ちどまっている。私は腹が立ってきて、そのうち軽率に動きだす。あいつのアキ缶に金を入れられるまえに、財布を盗もうと思ったのだ。
バスを待つフリをしながら、うしろに張りつき、手を伸ばす。姉さんが、私に気づいた。
本当に、軽率だったと思う。姉さんがそうすることは、予測できたはずなのに。
「うしろ! ……オオオオ、オオ!」
どうして姉さんに、こうもあっさりとしてやられるのだろう。何も持っていないくせに……だからだろうか? あいつは、何も持っていないからか? 私の特技は、他人から奪うことしかない。あいつから奪おうとするのが、最初からまちがいだったらしいのだ。
声に釣られて、周りの視線が姉さんを向いた。しかし次にその視線が向かうのは、他人の鞄に手を入れようとする私だった。時間がひりひりと焼けつきはじめる。こちらを告発する視線からのがれたいのに、のがれられないのだ。
ちくしょう! ……私は本当に姉さんのすべてが欲しい。
しかし手にはいってしまったら、私は姉さんに飽きるかもしれないな……誰だって、他人の物だから欲しいのだ……だからこそ、もういくつも持っているくせに新しい服や宝石あつめに、必死で奔走しなければならない……これで却ってよかったのだ。少なくとも、得られなければ街の迷路で、イタチごっこを永遠に続けられることだろう。言うまでもなく、他人の人生を破滅させながら、私たちはそうして生きてきたのだ。
とにかく今はしりぞこう。スリの現場を、いつまでもじろじろと見物される趣味はない。
どこまでも、逃げてやろう。紫苑の両足がギロチンになり、挟みこまれてしまうまえに、私の脳は命令を送り、足の筋肉を収縮させる。
そしていつの間にか私の足は、あの幻想砂漠の国の方角へ、今にも駆けだそうとしている……!
収奪伝 終わり
i`ll never be hungry again.No,nor any of my fok.If I have to lie,cheat or kill.
(姉妹はあらゆる公共サーヴィスを利用してはならない。またあらゆる公共サーヴィスを利用する権利を捨てさるために、税金を定められた九十九・九パーセントより多く“納めてはならない”……)
〈今に思えば、それが幻想砂漠へ逃げだすきっかけだったのである〉
すぐに電柱の影へ隠れて、怒りの声も出てこない。餅が喉につっかえている感じ。知らない男を捕まえてさんざん奢らせたアルコールも、ごきげんな私の千鳥足も、水を抜いたように息をひそめてしまうのだ。
奢らせたあと汚いアパートと診療所のあいだにある、そのころの姉さんのねぐらへ向かっていた。そしてねぐらの十メートルくらい手前で、狭い路地の向こうにいるであろう姉さんを、盗撮しているカメラマンふうの人間が見えてしまったわけである。
氷も凍る二月の夜。白い息を吐きだしながら、金属箱の瞳孔をあやつって、今にもシャッターが姉さんを世間から切りだそうとしている。私も白い息を吐きだしながら、電柱の影からその光景にかじりついて、仏像のように動けなかった。
しかし本当にシャッターが切られたとき、遅ればせて私の時間がよみがえった。焚かれたフラッシュのあと、灰色にこわばっていた視界が、カラー写真のように色めいた。
「泥棒!」
すぐに叫んだ。カメラマンが驚いてひるんだあと、あわてて走りさっていった。
追憶:私の 「泥棒!」 呼ばわりで逃げだすあたり、あのカメラマンのほうでも窃盗の自覚はしていたのだろう。カメラがまだ無自覚な風景の窃盗用品へと、完全になりきっていなかった時代……中身の詰まっていない姉さんから、切りだすことは不可能なのだから、別にうろたえることもなかったのかもしれない。だが肉親を世間から勝手に切りだされる痛みは、自分を世間から勝手に切りだされるよりも痛みを伴うのだ。
追いかけはしなかった。まだうろたえていたし、姉さんの様子が気になった。
私はすぐに路地へはいった。姉さんは眠っていた。アパートの換気口から漏れている、なまあたたかい風を浴びながら、地面にブルー・シートを敷いて、体は保温のために新聞紙を幾十にも巻いていた。
〈運転手の発作、下校中の児童が死亡〉……〈白菜の黒い斑点について〉……〈建築建材展〉……〈塾講師、女児にわいせつ行為〉……
寝相のわるさで膝から下の新聞紙がめくれあがっていた。なぜか新聞紙と足の境い目を注視してしまい、その部分だけ記事がよく見える。なまつばを飲みこんだ。記事の社会性と姉さんのゴボウのような足の対比は、あまりに滑稽だったものの、なんとなく肉感的だと思う。この足はどれだけ撮影されたのだろう。私がくるまえから、シャッターは切られまくっていたのかもしれないのだ……そう思うと胸が痛くなる。シャツの下でふたつボタンがすこし勃起した。
「姉さん」
姉さんは起きなかった。今度は 「紫苑、起きろって!」 と強く呼んでみる。
「女苑? うるさいねえ……酒くさいよ……こんな遅くになんだっての」
「盗撮されてたよ」
「何よ、急に」
「だから盗撮されてたんだって。寝てるとき、姉さん。鈍感なんだから」
「誰に」
「そんなの分からない。誰かよ」
「ふん」
姉さんは起きあがる。動いた拍子で、さらに新聞紙がめくれあがる。膝から上のあたりまで……どうして急に、足ばかり気にしているのだろう。フラッシュに嫉妬していたのかもしれない。その足はあまりに細くよわよわしくて、写真に撮られるとフィルムの格子に、空間ごともぎりとられそうだと思う。
それにしたって、女学生でも納税者でもないのに足を見せびらかすなんて、ちょっと反社会的すぎるよ。露出を職業にしているやつだっているんだからな。ただの乞食がなま足を見せびらかすなんて、世間に対する越権行為じゃないの?
「何、見てるのさ?」
姉さんはくすくすと笑いだす。
「何って……?」
「足よ」
「足くらい見てもいいじゃない」
「カメラマンって、本当は女苑のこと?」
「ちがう! いっしょにしないで。妹だって、分からないのかな」
「私の足の写真って、売ったらいくらくらいかな」
「売れるわけないよ……」
何に執着しているかなんて、以外と無自覚なものである。あのカメラマンが逃げだしたあとのことは分からないが、願わくば早く死んでしまってほしいのだ。
あのカメラマンが四十五度、向こうの路地にいる姉さんを、世間から切りだしたりしなかったら、私があいつにこだわって肉体関係を持ってしまったり、寝たフリ顔を見ながら自慰をしたり、おそろいの金メッキの腕輪をつけさせたりはしなかったはずである。
あの金属箱のレンズは、もしかすると私の瞳だったのかもしれない。他人の目や写真を通して見た肉親は、いやに肉感的な感じがする。姉さんを世間から切りだされる恐怖が、ビーカーから執着の水溶液を溢れださせて、そのときからあいつの薄ぎたないばかりの足は、ひどくみだらな曲線に見える。
一瞬のまたたきが、姉さんを見る目を変えてしまったのだ。
切れあじがあれば、なんでもかまわない。おおよそほとんどの場合はハサミやカッター・ナイフなのだろうが、凝った連中は爪にカミソリを取りつけると聞いたことがある。あとは小さくて、できるだけ特徴のない物であること。派手な色をしているなら、黒いマジック・ペンで塗っておくのが望ましい。
私は今、駅にいるのだ。改札を抜けて、プラット・ホームで電車を待っている。憂鬱な退社の匂いが餅かびのように香っていた。
電車がくるまえに、同じ電車に乗りそうな人間たちを観察しておこう。被害者は知るよしもないだろうが、スリは電車の外で、もう獲物を選びおえているのである。だから物を盗まれたくなければ電車の中ではなく、ホームで他人を警戒するべきなのだ。そうすればスリは別の誰かに狙いを定めてくれるだろう。ホームで無警戒なやつは、電車の中でも無警戒なのである。
使いふるした杖をにぎる、せむしの老人……就職さきが理想とちがい、溜め息を吐く若いサラリーマン(春の風物詩)……やかましい三人の女学生……ほら、まさに今。自動販売機にもたれかかっていたスリが、サラリーマンを注視した。それからほほえむのを我慢するように、唇をひと舐め。
同業者ってのは、分かりやすいよ。警察官なんかも私服だって、同じ警察官を雰囲気で見やぶるらしいのだ。
やがて電車が駅に来た。がたがたと車輪が荒い息づかいを発している。車輪はかなきり声をあげて、ぴったりと駅に吸いついた。そして口をひらくと、またたく間に人間たちを胃袋へと飲みこんでゆく……。
電車へ乗りこむ直前、最終的に目をつけたのは一人の年増だった。仮にA氏と呼んでおく。
粉が噴きそうな厚化粧。腫れぼったい頬と唇。てらてらとした黒いブーツ。むらさき色の派手なコートが虫の甲殻っぽい印象。肩からさげた茶色のバッグが振動で無防備に揺れている。いかにもと言う感じで、スリの相手にはおあつらえだ。
私は今、満員電車の中で、A氏のうしろにぴったりと張りついている。当然ながら、スリは人口密度が高いほどこのましい。つねづね死角の気配に敏感なくせに、密集と言うやつは、なぜか注意力を散漫にするものらしい。一対一で無警戒になるなんて、普通は散髪くらいだろう。肉親が相手だって、満員電車より気を抜くのはむずかしいのである。
A氏から、きつい香水の匂いがする。柑橘系で、周りの汗の匂いと混じりはじめた臭い。腐ったレモンのようだと思う。精神的な加齢臭を隠すには、却って逆効果だよ。私しか気づいていないだろうが、そのニセブランドのバッグだって、余計に加齢臭をきわだたせるんだからな。
着かざったって、枯れ木に葉が芽ぶいたりするはずがない。しかし腐ったレモンにも、引きつけられる者はいる。腐臭を嗅ぎつけた蠅として、私が財布を盗むくらいはしてやるさ……。
次の駅まであと三分。スリとる機会はふたつある。電車が動きだすときと、電車が停まるときである。車体が大きき揺れて、車内の空気に隙ができるし、何より刃物を使うなら、揺れがその異音を隠してくれるのだ。
まもなく××駅…… まもなく××駅……
やる気のない感じ。もごもごと話すので聞きとりづらい声。車輪がキイキイと子供のように鳴きはじめる。
私はポケットの中にあるカッターをにぎりしめて、ゆっくりと刃を押しだした。ふたつくらい。
チキ、チキ……
好きなんだよ、この感触。かきけされた音が鼓膜より、さらに奥のほうで響いてきた。いつもこの瞬間は、時が伸びた麺のようになってくれる。
追憶:ジャレーの法則って言ったっけ。人間たちの時間の感覚は、老いると短くなるらしい。しかし、それは神さまや妖怪も同じである。
昔は一日が長かった。それが今はどうだろう。日は一秒ごとにやぶりとられるカレンダーになってしまい、まるで止まらない暴走列車だ。だから私は、スリをたのしむのだ。他人の者をこっそりと奪うとき、まだ生きてみたいと思う。時間が焼けついて、ひりひりとしたよろこびが指さきに触れると、バッグにカッターを当てがって……〈となりの車両で悲鳴。続いて言いあうような声〉……サラリーマンを狙っていたスリが失敗したようである。
ーーー窃盗症って呼ばれるらしいね……
病名。窃盗症(Kleptomania)……たのしい思いをさせてくれないものかな。なんでスリのさなかに、姉さんとの会話を思いだすのだろう。
ーーーなんだって、姉さん?
ーーー窃盗にも病名がある時代だよ……
ーーーまたゴミ箱にはいっていた本の知識を、ひけらかしているのかな
ーーー新聞だよ。三ヶ月まえの
判決しだいで、刑務所ではなく病院へ……摂食障害である場合が多く……私は摂食障害なんて患わない。
ーーー手段の目的化ってやつなんだな。金よりも窃盗行為を求めてしまうんだよ
ーーー女苑はどうなの?
ーーー私のことならよく分かっているでしょう
ーーー女苑は金が好き……
ーーーそのとおり。ねえ、もう寝るから。くだらない会話も終わりにしましょう
ーーー今日は早いね
ーーーあるのよ、そんな日も……
ーーー私の体、今日も使えます……
ーーー姉さん、そんな言いかたは已めて……
ーーーくすくす、くすくす
私の体、今日も使えます……? 保険会社の軽薄さ。姉さん、愛情なんだよ。分からないのかな……よし、もう抜きとれる……うまくいった!
そのときぴったりと、電車が駅に辿りつく。降りるとあのスリが何人かにつかまれて、ホームの床へ押さえつけられている。彼を見る人間たちの目は、便所虫を嫌悪する感じ。私はホームを出るために階段を歩いてゆく。
「バッグ、裂けてるんだよお……」
A氏らしき声が聞こえてきた。気づくのが遅すぎるよ。声は階段を登るほど小さくなってゆく。
「あたいのバッグ、裂けてるんだよお。財布がないんだよお」
便所にはいって、個室に鍵をした。財布の中身を確認した。
二万円しかなかった。ニセブランドを使うような貧乏人は、これだから困るよ。ニセセレブは、財布の中身までニセセレブなんだな。
私は財布の中身をポケットに押しこんだ。財布は便所のゴミ箱に捨てた。
駅の外の時計を見ると、十八時まえだった。人間たちは今日の刑期を満了して、そろそろと家へ向かっている。ビジネス・ホテルのうしろに、太陽が隠れてしまっていた。
駅の外には街がある。別にたいした規模もない。だから××県××市と、ことさら名前を言う必要もないだろう。田舎の街とはそんなもので、なんとなく劣化コピーの産物のようである。けなしているわけじゃないよ。却って褒めてるくらいなんだ。本物の都会よりはせわしさもなく、かと言って枯れはてているわけでもない。丁度よく、中途半端な欺瞞の風が吹いている。タクシーの尻から出る、排気ガスだった。
ビルが立っている。トラックの足に撫でつけられて、でこぼこになった道路がある。裁判所がある。病院があれば、調剤薬局がある。何より忘れてはならないのは、駅があれば乞食がいると言うことだ。これなしに、街の輪郭はなりたたない。
乞食。そこにいるのに、いないように扱われている連中。世間の外側と内側のあいだをうろついている虫けら。私の姉さんもそのひとりだ。
「ちょっと、いいかな」
駅まえの広場にいる乞食へ声をかけた。
「なんです……ああ、女苑ちゃんかい……」
「何をおどろいてるの」
「不良にからまれたと思ったんだよ」
「天性の殴られ屋なんだな……」
「へ、へ!」
乞食は自虐的に笑っていた。
「姉さんがどこにいるか知らないかな」
「ええ、ええ。われらの姫ね。われらの姫は、駅の北口にいるよ」
乞食の声は、雑菌でねとついていた。そのうえ姉さんを“姫”などと呼ぶから、余計に耳ざわりなのである。
新聞紙を敷いてその上に、乞食は小瓶を並べていた。五センチ間隔で四つ。中身は黒い粉末で、火薬のように見えるのである。気になると言えば気になるが、聞くのも癪なので無視していた。すると彼は思ったとおり、こちらにそれをさしだしてきた 「これ、買わないかい?」 そう言うところなんだよ。子供の商売ごっこじゃないか。目をきらきらとさせないでほしい。駆けひきのなさが、もう落伍の証明なのだ。
「危ない薬なんか売って、また検挙されたいの」
「無駄だよ、検挙なんて……ただ“もう不法占拠はしません”の書類にサインするだけなんだからな。おれたちはそのあと、同じ場所に戻ってしまう……」
「役所らしい」
「向こうも書類上の検挙が終われば、不満はないらしいんだね……まあ、そんなことはいいんだよ。薬のことだ。これは違法薬物なんかじゃない。同じにされると、この偉大な発明に失礼ってものさ。これはね、ムカデを煎じているんだよ」
「ムカデだって?」
ムカデ……頭の中でも、その言葉を飲みこんでみる……節足動物……英語で、センチピード……実際は百本も足がない。以外とかわいらしい触覚をしている……下位分類群、不快害虫目……。
「煎じて、どうしようっての」
「どうしようって……」 乞食は口ごもる。先生にたしなめられた子供のように、鼻をひくつかせた 「目的だよ、つまり……ムカデってのは、価値のない虫なんだよ。蝶のように美しくもないし、蜂のように受粉の手つだいもしない。乞食の親戚だと思ってね。気味がわるいし、存在がもう迷惑なのさ……へ、へ……ところが煎じてやると、ムカデにも存在価値が産まれてくる。おれのほうでも薬の商人として、存在価値ができるわけだね」
「自分を商人として、一人前にするためってわけか。その贋薬で」
「うん、そうなんだ」
「それで、効能は?」
「おれが、知るもんかよ!」
乞食が笑った。自分の滑稽さを、鏡に映して、まじまじと眺めているようだ。映しているのは小瓶かもしれない。小瓶の中身は、まずそうだった。
別に欲しくもなかったが、そのとき私に魔がさして、ひとつ買わせてしまうのだ。タバコを三本。乞食が渋い顔をした。
「それだけかい、女苑ちゃんよお……?」
「いやなら、買わなくても困らないけどね……」
私に金を渡す気がないと見ると、結局あきらめて取りひきに応じた。謝らないよ。乞食ってのは、本当は疫病神よりも拝金主義者なんだからな。金を簡単に貰えると思ったら、おおまちがいさ。
発明と言っておきながら、ムカデの粉末はタバコでゆすれるほどの価値しかないらしい。胃のあたりで、軽い失望感が分泌されはじめる。失望感は胃液と化学反応を引きおこして、すぐに嘲笑へ転じた。喉へせりあがってくるそれを、私は無表情で取りつくろっていた。
北口へ行くとバス停のあたりで、姉さんが地べたに座っていた。つめたいアスファルトに、足を抱いて三角ずわり。足の近くへ募金箱がわりに、桃のアキ缶を置いて、貧困を演出していた。街灯の金属質な明かりに照らされて、あいつの青みがかった髪が、すこしだけどんくさく見えなくなっていた。
そんな青さに目を留めてしまったのか、中年が一人バス停で、姉さんのことをちらちらと見ていた。
私は、眺める。
中肉中背。眼鏡をしている。黒いスーツと黒い靴。理想的な一般市民だ。
已めておけよ。姉さんに関わらないほうがいい。関わったって、ただ不幸になるだけさ。
今あの中年は、姉さんのアキ缶に小銭を入れようか迷っているのだ。注目したからには、見世物へ代金を払わないと心にしこりが残るからである。これは善良な人間にとって、むずがゆい罪悪感そのものなのだ。
しかし分かってほしいのは、乞食が何も無償で金を施してもらっているわけではないと言うことだ。市民は金を施すかわりに、姉さんから善行をはたらく機会を施してもらっているんだよ。
ーーー私に金を施すやつは、道徳を満たせて満足そうだよ。数十円、数百円で生活できるわけないのに……
姉さんはそう言っていた。あいつは自分の不幸を、青く体からにじみでる力がわるいのだと思いこんでいる。しかし、本当のところあいつの腐った性格がより不幸を呼びさますのだ。世間を舐めくさるニヒリズムだって、悪性格診断書に、きつく手形を押しているようなものである……だからあいつの募金箱に金を入れて、甘やかすべきではないのだ。中年は、施しがあいつに感謝をいだかせると思いこんでいる。あいつは、内心それをあざわらう……ほら、気づいてよ。聡明な社会人なら、あいつの馬脚くらい、なんとか引きまわしてみたらどうなんだ……!
しかし願いもむなしく、中年は姉さんに近づくと、アキ缶に硬貨を入れてしまうのだ。
バスが来た。それに乗りこむ中年は、頬の道徳ぶくろを善行で膨らませて、うれしそうだった。膨らんで見えるのは、ただ肥えていたのかもしれない。
馬鹿が……近くの電柱に、痰を吐きつけてやる……永遠に、ヒラ社員でも、やっていればいい。
私は姉さんに近づいた。アキ缶の中身は以外とあった。聖なる手榴弾が泡をはじけさせた時代にしては、多いほうである。
「女苑」 姉さんが私を見た。
「一週間ぶりくらいかな。今日は稼げたの」
「三千円くらいかな」
「本当に人間たちの罪悪感をくすぐるのがうまいよ。その才能を活かして、精神科医にでもなったらどうなの?」
「学費、ちょうだい」
「冗談に決まっているじゃないか!」
「私もよ」
「ああ、つまらない……どいつもこいつも、しけてるよ。バブルってのは、うまい文句だわ。他人の財布の中身まで、泡のように消えてしまうなんて……」
街が暗くなってゆく。外はいずれ、自宅のドアに飲みこまれそこねた人種が練りあるくようになるだろう。
バス停のベンチの背中に、ポスターが貼ってある。若い男が写真に載っていた。あれは就職啓蒙集会のポスターだ。大きく明朝体で“どんづまり”と書いている。
どんづまり……。
「駅から東に二キロ。川を渡った鉄橋の下で、今は寝ているんだよ」
「またねぐらを変えたの」
「えへ、えへ。最近は、どこもきびしい。寝る場所が減ってきたよ」
「もう、東北にでも行こうか?」
「寒い土地に住む乞食はいないよ。くだるなら、大阪府」
「メッカだな、乞食の」
「めっかって、どう言う英語?」
「馬鹿すぎる……」
月が出てきた。にんまりとした、笑う三日月。その光が横断歩道の上に落ちている、一円玉に注がれていた。
橋のある場所は知っている。姉さんの案内がなくてもよかったから、私は率先して前に出ていた。
「待ってよお……」
「遅いよ」
いつの間にか姉さんとの距離が離れていた。あいつは、ビッコだったのである。両方だからビッコとは言わないかもしれないが、私にそれ以外の語彙はなかった。地面に打ちつけられて折れてしまった、烏のような足。あいつの足はいつからか、そんなふうになってしまった。しかし、いつからかと言っても具体的なことはもうおぼえていないのだ。ぼんやりと思いだすかぎりでは……まだ私の、他人から収奪する力が弱かったころ……あいつの足は、まだたよりがいがあった気もする。それどころか、いつもあいつの足に、安心を感じてはいなかっただろうか。
「昔の女苑なら手を引いてくれたよ」
「分かったよ……」
姉さんの手を取って、ひえこみはじめる道を進んだ。あいつは歩きながら、ふところから取りだした歯みがき粉のチューブをすすっていた。
橋の下には、ゴミが散乱していた。世間に登録されていない、暗黙の廃棄所なのである。姉さんはそこからボール箱と薄よごれた毛布を引っぱりだそうとしていた。私は橋の柱にもたれて、タバコを吸いながらそれを見ていた。あいつの髪の上で、沢山のシラミが跳ねている。別に見えたわけじゃない。つねづね見かけるから、今もそう決めつけたまでのことである。
「姫だってさ」
「ふん?」
「乞食どもは、姉さんのこと……」
「ああ、そうらしいね」
「乞食の偶像になった気分は?」
「別に私がかわいらしいから、そう呼んでいるわけじゃない。ただ、より貧相だからね」
「乞食まで、下を見て安心するんだな……」
「五十歩、百歩……」
ボール箱と毛布が地面に敷かれた。姉さんはそこに潜りこんで 「おいで」 と私にささやいた。
姉さんの横にすべりこんだ。毛布から、鼻にわるそうな、埃が舞った。
「今日は、するの?」
「どうしようかな……」
「私の体、今日も使えるよ」
夜行生物でもないのに、姉さんの瞳は星のようだと思う。あいつの、めずらしく美しい部分。世間のあらゆる痛みからのがれている、河原の丸っこい無形石。あいつは 「金が欲しい」 といつも言った。しかし、私はあいつが率先して収奪するのをほとんど見たことがない。本当は金なんか、落ちていればうれしいくらいの物なんでしょう? 雑草のように、夜露でも飲んで暮らせれば、それで満足なのである。
私は姉さんの誘いをことわって、右の瞼に接吻した。するとあいつは、寝たフリをする。硬直した蜘蛛のわざとらしさ……それが以外と、好都合なのだ。
少なくとも、寝たフリは本当の睡眠のように、起きる心配がないわけだからな……むしろ寝たフリのほうが、却って自慰もしやすいくらい……〈下着をずりおろす音〉……他人の物を奪うのは、わるいことである。しかし、それが世間の痛みからのがれる道なのだ。私はそれを成すために、あらゆる努力を惜しまなかった。
姉さん、そんな私を褒めてくれ。慰めて、くれ。
〈打ちあけばなし〉
つかれきって眠るときには、鉛のヘソの緒の夢を見る。別に何かの比喩じゃない。みんな見たままの物をそう呼んでいるだけだ。尤もみんなはずかしいから、それを見ているなんて、絶対に話題にしたりしない。羞恥心のわずかな姉さんだって、口にしたがらないくらいである。
神さまや妖怪の中でも、人間世界に執着している者が見る。つまり、すべての神さまや妖怪がその夢を見ると言うわけだ。
追憶:どこかに人間世界に執着しない神さまや妖怪がいるかもしれないが、私はあえてそう信じている。
ヘソの緒は日あたりのよい場所が好きだから、夢の景色もそれに倣って、私の場合は海である。ねずみ色の太陽光線が肌を突きさす、火山国に特有の、にごった砂浜。砂粒が吹かれて、龍の背骨のような風紋をえがいていた。その風紋の突端で、二メートルはあるヘソの緒が、蛇のようにのたうったり、西部劇の“あの草”のように、丸まりながら回転している。
ヘソの緒で肉親とつながれたら、どれだけしあわせだろう。しかし、神さまや妖怪にそれがあるわけもない。それは哺乳動物の特権なのである。その特権を得られないから、鉛なんかで創られているのだ。
ああ、私は本当にみんなの愛情が欲しい。
「Double,double,toil and trouble……」
「なんだって?」
姉さんが砂の上に、寝ころびながらつぶやいた。いつの間にいたのだろう。
「困りごと、世界に満ちよって意味よ」
「今度はどこの新聞なの」
「ゴミ箱にはいっていた本さ。スペンサーの詩集」
追憶:このまえ調べてみた。スペンサーじゃない、シェイクスピアだ。馬鹿が。
「馬鹿って言わないでよ」
「私は過去の夢を思いかえしているだけなんだから、追憶に話しかけるのはルール違反じゃないの? 時間がばらばらになってしまうよ」
「ばらばらになったら、糊づけすればいい……」
「頭が本当に弱いんだな」
「昔の女苑なら、そんなことは言わなかった」
「昔、々ってうるさいんだよ!」
「私に何を期待しているのさ」
「何って……なら率直に言わせてもらうけど、姉さんは私に魂を支配させたほうが、しあわせだと思うんだ!」
私は打ちあける。打ちあけばなしなのだから当然だ。むしろ打ちあけないのは不親切と言えるだろう。互いにいつも、嘘まみれなんだからな。
「そうすれば、もう歯みがき粉や洗剤を食べなくてもいい。服もあげるし“差しおさえ”だって剥がしてやるよ」
「遠慮するよ」
「養ってもらえるんだぞ! 本当にどうしようもないやつね」
「ねえ、好きよ」
「紫苑には体を使わせるくらいの、見せかけの愛情しかない」
「女苑にだってスリの途中で考えられるくらいの、片手間の愛情しかない」
姉さんが、身もだえした。ヘソの緒がこちらに近づいて、あいつの足にからみついた。砂が舞った。あいつはすこし、腰をくねらせていた。小便にでも行きたいのかな?
「腕輪がねえ……」
「腕輪が何よ」
「謝りたいんだけど……えへ、えへ……女苑のくれた金メッキのやつ、感触……股のあいだに押しつけると、丸みがたまらないんだな……」
「死にくされ!」
私は、つかみかかる。姉さんの服の、垢まみれの襟を引っぱった。あいつは歯を剥きだした。歯ならびを、欠陥工事で積まれたレンガのようだと思う。
「女苑、そんなに顔を近づけて……接吻してほしいのかい。それとも××××する?」
下品な言葉でささやくんじゃない。裸になりたいなら、欧米のヌーディスト・ビーチにでも、独りで高とびすればいい。
「臭いのよ、口が」
「どうして姉さんをそんなふうに言えるのかな」
姉さんはさめざめと泣きはじめる。
「もう、いい。女苑が死にくされって言うなら、望みどおりそうするよ。こんな不潔な姉さんは、処分したいらしいからね」
「えっ、えっ」
急にしおらしくなるので、私は狼狽した。そして次の刹那に、体へ衝撃が加わった。心傷じゃない。本当に体へ何かがぶっつかって、姉さんから引きはなされ、砂浜に打ちのめされてしまったのだ。
「えっ、えっ」
頭がぼんやりとして動けない。私は血まみれになっていた。よく見ると、ぶっつかってきたのは廃品回収車じゃないか。
「さようなら、別れって本当に突然なのね。これも女苑が私に愛想を尽かしたおかげ」
「待ってよお……」
「幻想砂漠の国へ行くわ」
「待ってよお。死にくされなんて嘘よ、本気じゃなかったんだ!」
「さようなら!」
「私を独りにしないでくれ!」
廃品回収業者が車から降りてきた。彼(彼女?)は姉さんからヘソの緒をむしりとって、荷台に乗せてしまうのだ。むしりとられるとき、私の腹に猛烈な痛みが突きささった。
そして車は去ってしまった。排気ガスとホイールのうねりで、砂まじりの風を炊きあげながら。
ヘソの緒は独りで踊りくるっている。
私はめそめそと泣いていた。別に悲しかっただけではない。同じような夢を何度も見ているのに、いつも最後は涙を垂れてしまうのが、ただはずかしかったのもある。それは消化不良の自尊心にほかならない。同じ映画で何度も泣いている感動屋の気分がよく分かったよ。
這って進んで、私はヘソの緒にすがりつく。しかしヘソの緒はただくねくねとするばかりで、絶対につながってはくれないのだ。
それくらいで絶望する私ではない。反骨精神ならアマノジャクにも負けはしないのだ。今日は無理でも明日ならば、絶対に紫苑の魂を、支配してやる……!
ああ、私は本当に人間世界のすべてが欲しい。
転機は音もなく、隠者のように訪れる。
私はその日、朝からスリをおこなうつもりだったのに、眠りの支配者にかどかわされて、駅内のベンチに座っていたら、つい寝てしまっていた。昨日は悪夢が体に堪えて、よく眠れなかったからである。
まだ月が出ている時間の目ざめ。汗と涙で湿った皮膚。姉さんはもう本当に眠っていた。透湿性のないレイン・コートを着せられたまま、死んでいる気分。私はあいつの顔を眺めながら、眠りたいのに悪夢を憎んで、ついには朝まで起きていた。だから電車に乗らないで、ベンチに瞼を預けてしまったのも、当然かもしれない。
起きた矢さきに、なぜか目を向けたのは公衆電話。今日は土曜日である。親子づれの声が聞こえる……先着一名の、孤独地獄か……不意に電話をかけたいと思う。奢らせた男たち以外の番号がいい。私と無関係な端末に接続されている……たとえば日数と栞をへだてた百ページ目と百一ページ目の無関係さ……消防署へのいたずらでもよかったし、占いマニヤの気象庁へ罵詈雑言を浴びせてもよかった。
もちろん考えるだけで本当にかけるわけがない。かけた途端に、マヌケさ加減に萎えてしまうし、もう財布の中の十円玉は不当な使いかたをいやがって、ずっしりと重くなっていた。
転機は、この次である。
「ああ、ああ!」
スリへの息ごみをなくして、アパートに帰ろうと立ちあがったときである。鋭い叫びが駅に響いた。人間たちは、揃ってそちらに顔を向ける。
追憶:パトカーが通りすぎるとき、人間たちが一瞬だけ気を取られるのは、日ごろ意識しない罪悪感がむきだしにされるからだろうか? 私のように振るまえば、あの声だって……しかし、そう考えるのはあまりに反社会的な気もしてくる。
止まっていた時間が、また動きはじめる。みんなが見て々ぬフリをする、あのぎこちない感じ。時間を一瞬でも奪われた人間たちの、しおらしい憤りが伝わってくる。
このとき声のしたほうを見ないのは悪手だった。なぜなら今度は 「見つけたよ、々つけたよ」 と狂犬のように吠えたその魔物は、私を標的にしていたのだ。声のあるじは、目と鼻のさきまでつかつかとあゆんでくるのである。そしてようやく面倒ごとに巻きこまれていると、気がつかされるのだ。
「えっ、えっ」 Double,double,toil and trouble……姉さんは、なんて言ってたかな……。
「あたいの財布を盗んだはずだ! 思いだしたよ、たしかにうしろにいたはずだ!」
「えっ、えっ」 ちくしょう! ……“困りごと、世界に満ちよ”か!
誰かと思ったら、昨日のA氏じゃないか。あのときと、打ってかわって地味な服。けばけばしい化粧はしていないし、腐ったレモンも香ってこない。代わりに、年相応の醜さだ。
困ったな。世間へ出ているのに仮面をつけないのは、それだけ追いつめられていると言うことだった。
「人ちがいです……」 もちろんすぐに嘘をつく。気の弱い、勉強マニヤで眼鏡をしている女学生の感じ。
「嘘だよ、うしろにいたんだよ!」
鳴りっぱなしの空襲警報のようだと思う。爆弾を相手に、命ごいしても意味がない。今度は周りも慣れてきて、視線が集中しはじめる。誰だっていくら醜くても、見世物がいるなら安全地帯で見たいのだ 「うしろにいたんだよお!」 うるさいな。私は目だつのがきらいなんだ。頼むから、静かにしろよ。
それにしても、私が見つからなければどうしたのだろう。見つかるまで、永遠に探すつもりだったのかもしれない。二万円くらいで、たいした執着心である。
「どうしました……」
運よく通りかかった駅員が、のそのそとこちらに近づいてくる。私は内心ほほえんだ。
「ちょっと、助けてください。ヘンな人にからまれてしまって……」
被害者をよそおい、気もち瞳をうるませながら、長身の駅員に話しかける。
心配は要らない。私はまだ負けていない。少なくとも、見目のうえでは若いのだ。若さは万能の通行許可証なんだからな。顔がよければなおのこと、甘くならない異性がどこにいるものか。
目線から分かるように、駅員は私を気ちがいにからまれた女学生くらいに考えているようだ。今日が土曜日でよかったよ。平日だったら制服なしで、信頼を得られるわけがなかった。東京都で手にいれた東深見高校の制服は、巻きあげるときにしか使わないからな……。
「きみ、大丈夫です?」
「はい……」
「昨日、財布を盗まれたんだよ!」
「こんなふうです……」
「困った人だねえ」
「本当なんだよ!」
「なら盗んだ人に次の日、また会ったってわけですか?」
「本当なんだってば!」
「若い娘さんに突っかかって、はずかしくないの?」
私は唇を噛んでしまう。腹で暴れる笑いの渦を、腸壁に突きささる属条虫のようだと思う。A氏は話すほど、みずから首を絞めあげるのだ。
「とりあえず、ちょっと……事務室に、来てもらえる? 周りの人に、迷惑なので……おい、見てないで“こいつ”を連れていってくれよお!」
駅員が、仲間を呼んだ。迷宮の悪魔がそうするように。
A氏の顔が青くなった。今さら不利を悟ったのだ。私は内心、勝ちほこる。いつの時代も弱肉強食。後手々々に回るほうがわるいのである。
しかし、そんな余裕もすぐに崩れてしまうのだ。駅員の仲間が駆けよって、肩をつかまれてしまうまえに、A氏が私にすがりついてきたのである。そして言った。
「死んだ息子の贈りものだったんだぞ! 贈りものだったんだぞ!」
「おい、早く押さえつけるんだ!」 駅員があわてた。
駅員の仲間が、私からA氏を引きはがした。それでも彼女は手を伸ばしてきた。鼻を掠めるくらいの距離で、手は悪霊のようにこちらを絡めとろうと宙空で踊っている。胸のあたりに、見えない針が突きささる。過呼吸になった心臓が、打ちならされまくった太鼓のように、痛ましい悲鳴をあげていた。
A氏はずるずると連れられてゆく。そのさまは、いつの間にかなくなっていた、市中ひきまわしの刑によくにていた。
「怪我はないです……?」
「……」
「学生証とか持っていたら、見せてもらえる? あとはこちらで、なんとかしておきますから……」
「帰る……帰るわ」
逃げるように歩きだす。駅員が、呼びとめてきた。それでも私は止まらなかった。
「息子の贈りものだったんだ!」
まだ叫んでいる。
他人の者を奪うとき……今、足早にアパートへ向かっている。1DKで駅から遠いぶん家賃は安い。姉さんを入れると狭くなるから、あまり連れこみたくはない。あまり帰っていなかったから、ドアに新聞紙が山ほど詰まって、消化不良を引きおこしているだろう……絶対に避けたいことがある。それは金より大切な物を奪わないようにすることである。
金はたしかに大切だ。私が誰よりもよく知っている。しかし人間たちの中で優先順位をつけるなら、金は十番目くらいがよいところだろう。
追憶:私は人間たちの、そんなところが好きだった。そう信じ、いとおしんでいる。これは真実でなければならない。もし真実ではなかったら、姉さんを道づれに死ぬ予定だ。
人間たちの中心に住んでいるのは、金ではなく肉親や、絶版のレコードや、もう死んでしまった文豪のサインが書かれた小説なのである。
それを奪おうとすれば、人間たちはあらゆる手段を使ってでも、私に報復しようとするにちがいない。だから報復されないように、こちらのほうでも十番目くらいの物しか奪わずに、痛む胃を押さえてひたすら我慢しているのだ。
追憶:もし人間たちが金より肉親や、絶版のレコードや、もう死んでしまった文豪のサインが書かれた小説をすげなく扱うなら、私が人間世界のすべてを欲しがるわけがない。
少なくとも、はした金なら身をむしられるような痛みはない。それどころか金のことを身がわり人形くらいに考えて、寛容になってくれるのだ。私をわざわざ探しだして、報復するはずもないわけだ。
それが決めごとだったのに……アパートが見えてきた。雨風に殴られまくった壁面がみすぼらしい。今月の家賃、払わないといけないな……私は失敗したらしいのだ。A氏は 「死んだ息子の贈りもの」 と言った。つまり私は、迂闊に“身むしり”をしてしまったのである。
そう言われるとあの財布は、男が選びそうな雰囲気が出ていた気もしてくる。しかし、今ごろ財布は清掃工場で火葬されているにちがいない。昨日の今日なので、まだ早いかもしれないが、そうなることは決まっている。
ドアをひらいて、靴を脱ぐ。鍵を閉めた。
私は冷蔵庫をあさりはじめる。いやなことは、満腹になれば忘れられる。パンが六枚。いちごジャムとオレンジ・ジュース。不意に腐ったレモンを思いうかべる。連想なんて趣味じゃない。
冷蔵庫を閉めわすれたまま、袋を開けて、しゃにむにパンへかじりつく。食感がわるくて、まずいうえに、なんの匂いもしなかった。不良品のガムでも噛んでいるようだ。
「くちゃ、くちゃ」
それにしても、決めごとをやぶったからって、どうしてここまで気分を沈めなければならないのだろう。
「くちゃ、くちゃ」
姉さんなら……〈ピイ、ピイ〉……こう言うときはどう考える? 後悔するのだろうか。それとも、いつものように世間をただあざわらうのだろうか……〈ピイ、ピイ〉……冷蔵庫は、黙ってろよ!
「くちゃ、くちゃ」
腹が膨れなかった。パンはもう、なくなってしまう。私は摂食障害なんて患わない。そのうえ断じて特定的に、近ごろ神経性過食症にも似た症状が出はじめているわけでもない。神さまが人間の決めた精神病理を患うなんてマヌケすぎるよ……「げエーー……げエーー……」……胃が突然、痙攣した。畳にパンを吐きもどした。
姉さん、くるしいんだ。過酷すぎるよ。
どうして人間世界の圧力へ、抵抗力ができるまえに、餓死できなかったのだろう。早く姉さんと接吻したまま、窒息してしまえばよかったのに。しかし、あいつは頼んでもことわるだろうな。あいつの生きぎたなさは、誰より私がよく知っている。
ちくしょう! ……電気をつけない部屋の中で、冷蔵庫だけがいやにあかるい。姉さんを、そこへすっぽりと押しいれてみたかった。あいつは今ごろ、アキ缶に金を催促しているのだろう。私が危険を冒して稼いでいるのに、あいつは地雷のない土地で、ただぼんやりとしているだけなのだ。
私は地雷探知機を振りまわしながら、腹ばいになり、必死に匍匐前進しなければ、一円だって稼げないんだ。そのうえようやく見つけた物が、他人の“十番目”だったときの落胆を、姉さんなんかに分かるのか! ……〈ピイ、ピイ〉……産まれたときから頭の奥でがなりたてるのは、強欲の化身の悪霊だ。その声はいつの時代も冷蔵庫の音によく似ている。なんでも欲しがり、腹に収めるところなんて瓜ふたつだ。
〈重要参考人 カメラマン〉
わたしは遺書を書いています。さらに詳しく書くならば、山奥の廃屋で、ひどい臭いのする便所のドアと窓に木の板を打ちつけたあと、餓死しようとしています。本当は入水自殺がよかったのですが、あの夢はそれを許してくれませんでした。
わたしが死ぬのは、あまりの絶望によって、生きる気力をなくしてしまったからであります。
あるときひとりの乞食を撮影していました。青っぽい髪の、その娘を見かけたとき、わたしは内心 「これだ!」 と叫びました。経済の泡が破裂したこの時代ですら簡単に見られないくらいの、彼女からただよう本物の貧困の臭い。それは退廃のきわみでした。彼女を写真にして発表すれば、一流のカメラマンとして世間は認めてくれるだろうと、ほとんど確信できる被写体でした。
失敗したのは、ここからです。ここでとどまるべきでした。
娘(以下、姉と表記します)には妹がいたのです。それは最初に撮影した夜、わたしを 「泥棒!」 と言って追いかえした者でした。
傲慢そうで、背が低く、あまりにふたりが似ていないので、わたしはふたりの会話を聞くまで(その夜から、写真のためにふたりをこっそりと観察するようになりました)ただの他人だと信じきっていました。
それを知ると、わたしは妹のほうにもシャッターを向けました。
乞食の姉とその妹。いよいよ、わたしが芸術家として、はばたく日が来たのだと、私は内心おどっていました。
しかし、妹を撮影した日からわたしに不幸が襲いかかってくるのです。私をカメラマンとして雇ってくれるはずの企業が、汚職発覚で信用をなくして、あっと言う間に潰れました。一流のカメラマンを夢にえがいて、生活をつないでいた日やといさきも、経営難で追いだされました。
それだけならまだよかったのですが……文字にするとあまりに簡単すぎて、笑えるくらいです。四国に旅行へ行った家族が事故で死んでしまったのです。父も母も兄も弟も、みんな死んでしまいました。以上がわたしの死ぬ理由になります。
これは偶然でしょうか。不条理が偶然にも続いただけなのでしょうか。私は本当に家族のところへ行きたいと思う。そして今度は家族写真でフィルムの中身を埋めつくすのです。
ちがうんです。偶然じゃないんです。呪われたんです。許してください。もう絶対にあの妹を撮影しません。許してください。フィルムは現像せずに、すべて処分しましたから、夢の中でわたしを呪わないでください。
「私には妹しかいない
だから私から妹を盗むな
呪われろ、餓死してしまえ
この、泥棒め」
それで私は、手を打つことにしたわけだ。姉さんの世間に対する越権行為と、それをいましめようとする衝動について。これまで我慢していたことを、ついに実行してみようと思うのである。
追憶:私は悪夢と不本意な“身むしり”と精神病理(人間たちの定めた症状に似ているだけで、本当の精神病理じゃない。ただ便宜的にそう言っているだけだ)で、おかしくなっていたのかもしれない。悪夢はともかく、ほかふたつは姉さんに責任などなかったのである。つまり、ただ虫のいどころがよくないために、あいつへからもうとしたのだった。今さら口にしないけど、もう幻想郷に来てほとぼりは冷めてしまったのだし、謝っておくよ。心の中でだけ。ごめんなさい。謝ったから、許してね。
不良たちを雇いいれた。不良なら、乞食たちとちがって姉さんを“われらの姫”などと、神聖視するはずがない。姉さんの周りに配置する募金妨害者として、学校に行かず青春を喰いつぶす不良はまさにおあつらえだった。
日当は一日あたり七千八百円とする。姉さんの周りを市民が寄りつきやすい時間だけ見はるにしてはよい給料だと思う。つまり朝の七時から九時までと、夜の十八時から二十一時までだ。片方の時間帯だけでも、三千五百円を払ってやった。ただし、あいつに手をださないように、契約書へきつく判子を押させたうえでだ。
この作戦は、拍子ぬけするほどうまくいった。姉さんはうまく金を稼げなくなった。つかず離れず、いかに善良な市民と言えども、あいつの周りに不良たちがたむろしていては、金を払えるわけがない。そのうえあいつを崇めている乞食たちも、助けてくれはしないのだ。
当然じゃないか。崇めると言っても、拝むためじゃない。ただ姉さんを見くだして、安心したいだけなのだ。腐れ根性なしがあいつを助けるはずはないし、そんな根性があるのなら、乞食どころか今ごろ立派な経営者さ。しかし、すこしくらいなら笑わないでやってもいい。酔っぱらいと不良たちは、まさに乞食たちの天敵なんだからな。
遠まきに観察するかぎり、姉さんはいらだちを深めはじめる。ぎりぎりと並びのわるい歯をぎしらせたり、ときには変わりゆく信号機の明滅を、うらめしそうに眺めたりしていた。
そして一週間が経ったころ、私は夜に鉄橋の下で姉さんと会った。ごきげんになり、めずらしく酒を持っていった。あいつはボール箱を絨毯に、三角ずらりで膝に頭を乗せながら、耳を喧嘩で失ったノラ猫くらいしょぼくれていた。
「何を落ちこんでいるのかな」 私はにやつきを隠せない。口角を無理やり、糸で引っぱられているようだ 「また洗剤でも食べて、腹の調子がわるいのかな。それとも、どこかで病気でも貰ってきたのかな? そう、にらむなよ。酒でも飲もうか」
「要らない」
「ダニエルなんだよ、ジャック・ダニエルなんだよ」
「飲む」
「はい……?」
「飲ませて、ください」
「フフフフ、フフ」
姉さんに瓶をほうりなげた。受けとめると、あいつはすぐに栓を開けて、水を得た砂漠の迷いっ子のようにがぶがぶと飲みはじめる。あいつがむせかえる。そのあとは瓶の口を舐めながら、ちびちびと喉を焼いていた。
「ふウーー……たまらん……ハアアア、アア……」
「そんなに、おいしいのかい?」
「女苑、私に不良をけしかけてなんのつもりなの」
「気づいちゃうか」
「露骨すぎる」
姉さんのとなりに座り、右手で肩を抱きこんでやる。顔を見つめると、あいつはぷいっと横を向いてしまうのだ。
「露骨すぎるよ」
「私は姉さんも欲しいんだよ」
姉さんから瓶を引ったくる。こちらも一気に、胃をうるおして、ゆっくりと頭に眩暈が満たされはじめる。しかし、わるい気はしない。少なくとも酔いよりさきに、頭は支配の陶酔でいっぱいになっていた。
「金なんて欲しくもないくせに、一丁まえに稼ぎやがって」
「私は貧乏神らしくしているだけよ」
「それこそ手段の目的化だ! すぐになくしてしまうのに、金を稼いだって意味がない」
「貧乏神なんだよ」 姉さんは言った 「貧乏神らしくないことはしない……」
「ふん」
「酒を飲ませてよ」
「飲ませてくださいでしょう」
「飲ませなさい」
「全身全霊でへつらってみなよ。世間にそうしているように」
「飲ませろ!」
「奪ってみろ!」
私たちは喧嘩しはじめる。髪を引っぱり、むしりとる。爪で顔に傷をつける 「ふウーー……ふウーー……」 うめきながらのしかかったり、のしかかられたりを繰りかえす 「女苑、キッスをしてやる」 …… 「臭いんだよ、口が……ウウ。ン、ン、ン、ン……するなら、歯を磨けよ!」 そのうち、私が一方的に姉さんをなぶりはじめる。あいつとちがって格闘屋なのだから、負けるわけがない。
姉さんは地面に転がって、めそめそと泣くフリをした。
「何がいやなの、気に入らないの? 私の体、好きに使えるよって言ったじゃない……」
「そう言うところだよ。愛情に、胡椒をまぶして、味をごまかすな! そんなの、嘘つきのすることだ」
「女苑の欲しい愛情って?」
「つまり……無添加、無農薬で……人間くさい……神さまや妖怪の愛情も、できればそうあるべきなんだよ……分からない、かな? ちくしょう! 私は強欲なんだよ、とにかくそれが欲しいんだ!」
「私が欲しいのかい?」
「よこせ!」
「べえ……絶対にいや」
「すぐに言えなくしてやるよ。金を稼げないで、貧乏神の貧相な生きざまも、どれだけ守っていられるかな。姉さんの忍耐力のなさはよく知っているのよ」
口に酒をふくんで、姉さんに吹きかける。それから残っていた酒も、ばしゃばしゃと全身に浴びせかけてやる。あいつはつめたさにおどろいて、小鳥のようにピイピイと鳴いている……ちくしょう、たまらん。あいつは本当にかわいい。おい、殴ってやろうか? ……ピイピイと鳴きながらもそれで終わらないのが、浅ましいところだ。あいつは服へ染みこんだ酒に、口をつけてすすりはじめる。
満月になるまえに、決着はついてくれるだろう。
首をやたらと動かしたり、足ぶみするのはいらだっている証拠なのだ。落ちつけよ、あせったところでどうしようもないじゃないか。
不良たちが、いなくなった。姉さんの周りに見あたらないし、日当を受けとりにもこなくなった。なんなのだろう、仕事に飽きてしまったのかな。これだから、最近の若いやつは困るのだ……それにしたって、数時間で七千八百円なんだぞ……警備員より、よほど高給とりだと思うのだが……よほど計算が苦手なのか、親が金もちでいくらでもせびれる立場にあったのか……それなら最初から、私に仕える理由もないわけだし……。
そんなふうにまごついていたら、ある朝ようやく、怖るべき事態になっていたと、気がつかされるのだ。朝刊の見だしを、思わず玄関に取りおとす。見だしの文字列が指のさきから、頭めがけて血管にはいりこみ、脳の奥へ突きささった。
見だしには、こう書いてある。
非行少年、四人の死体。暴力団の関与か? 腹部に刃物で“姫”と彫られておりーーー
指のふるえが止まらない。アルコール中毒病者のようだと思う。しかし私の指をふるえさせているのは断じてアルコール中毒(そのほうがよかったかもしれない)ではなく、底しれない恐怖なのだ。怖ろしいことをしてくれたものである。腹部に“姫”などと、誰のしわざか教えているのと同じじゃないか。
私はすぐにアパートを出る。歯みがきも、化粧もせずに駅へ走った。
駅まえの広場で、ムカデの乞食が座っていた。
追憶:そう言えば、このまえあの粉末を飲んでみたっけ。本人の言うとおり、なんの効能も得られなかった。せめて悪夢を退治するくらいの効能を、期待してやったのに……。
「おい!」
「……」
「聞けったら!」
「女苑ちゃんよお……」
「馬鹿なことをしてくれたな……実行犯は、何人いる?」
乞食が笑った。
「笑ってごまかそうとするな!」
「だってよお……われらの姫が、あんなにつらそうにして……ぼそっと言っていたらしいんだよお」
ーーーもう、別の土地に行ってしまおうか……
「われらの姫がいなくなったら、おれたちはこの街で、誰よりも下になるんだよお」
「それで、殺したってわけか」
「ごめんよお」
「馬鹿すぎる、なんで乞食のくせに他人へ迷惑をかけるんだ! 学生でもない、税金も払わない、正社員でもない。そのうえ人ごろしになりさがりやがって。どこで人生をまちがえたんだ! 死にくされ、姉さん以下よ!」
「ごめんよお……」
「姉さんなんかを助けるために……それ以下になって、どうするよ……」
「許してくれ……々してくれ……」
「リアリスティックに許されたいなら、神さまじゃなくて警察署に頼めよ!」
「リアリスティック……? 神さま……?」
「行けよ!」
「捕まっちまうよお……」
「早く、行けよ! 共犯者も、連れていくんだ。姉さん以下になりたいのか!」
私は呪っている。呪っているのは他人を不幸にしなければ姉妹喧嘩もできない、私たちの体質のことをだ。
〈打ちあけばなしを、もうひとつ〉
今ゆっくり耳に浸透しはじめる水音は、鉛のヘソの緒が夢中夢を見せようとする知らせなのだ。それは思いだしたくもない、まだ私の他人から収奪する力が、弱かったころを創りだす。
ただ創りだすと言っても夢だから、すべてが正しいとはかぎらない。実際あのころは安土桃山時代だったのに、私たちが寄りそうキク科ムカシヨモギ属の花畑からは、その時代の建築物に混じって、ビール工場や裁判所が見えている。
「姉さん、ひもじいよお」
私は腹を押さえてくるしんでいる。他人から何も奪えずに、ただ姉さんへ話しかけるばかりなのだ。
「何も食べものがないんだよ。代わりにその髪へキッスをしてあげるから、許してね」
キッスだと? ……私の愛情は萎えはじめる……安土桃山時代にそんな言葉があるわけもない。しかし、姉さんの唇はナメクジのようにしっとりとしていて、いやに真実味を感じさせた。
「ひもじいよお」
「許してね」
「なんでもいいから、食べたいんだ」
「なら、これを食べてみる?」
姉さんは、差しだす。
「歩けなくなってしまうよ」
「いずれ元に戻るよ。人間じゃないんだから」
「ひもじいままだと、ヘンなふうに戻ってしまうかも」
「ビッコに、なったり?」
「ビッコに、なったり……」
いやに具体的じゃないか、姉さん。答案用紙を盗んだのかな。
私は、食べはじめる。
「くちゃ、くちゃ」
「おいしい?」
「うん、おいしいよ。くちゃ、くちゃ。姉さんの足って、ムカデの味がする」
「子供じゃないんだから、音を立てないの。めっ……」
「ごめんなさい」
「分かればいいのよ」
「どうして疫病神なんかに、産まれてしまったんだろう。姉さん、くるしいんだ。過酷すぎるよ。頭の中でいつも、いつも強欲の化身がうるさいんだ」
「貧乏神が肉親だからだよ。呪うかい?」
「呪わないよ」
「そう……よかった」
「姉さん、謝るよ。私は起きると、この夢を忘れてしまうんだ。くちゃ、くちゃ。どうしても、おぼえることができないんだよ」
「大丈夫よ。所詮は夢でしかない。女苑が私の足を食べたのも、本当だったのかどうか……」
「姉さん。鉛のヘソの緒の夢を、今は見るの? そして、その夢に……私は、紫苑の中にいる?」
「困りごとーーー
世界に満ちよ。
乞食を送りだしてから、姉さんのところへ向かった。あいつはアキ缶に金を貯めてごきげんだった。
今、また誰かが姉さんのまえに立ちどまっている。私は腹が立ってきて、そのうち軽率に動きだす。あいつのアキ缶に金を入れられるまえに、財布を盗もうと思ったのだ。
バスを待つフリをしながら、うしろに張りつき、手を伸ばす。姉さんが、私に気づいた。
本当に、軽率だったと思う。姉さんがそうすることは、予測できたはずなのに。
「うしろ! ……オオオオ、オオ!」
どうして姉さんに、こうもあっさりとしてやられるのだろう。何も持っていないくせに……だからだろうか? あいつは、何も持っていないからか? 私の特技は、他人から奪うことしかない。あいつから奪おうとするのが、最初からまちがいだったらしいのだ。
声に釣られて、周りの視線が姉さんを向いた。しかし次にその視線が向かうのは、他人の鞄に手を入れようとする私だった。時間がひりひりと焼けつきはじめる。こちらを告発する視線からのがれたいのに、のがれられないのだ。
ちくしょう! ……私は本当に姉さんのすべてが欲しい。
しかし手にはいってしまったら、私は姉さんに飽きるかもしれないな……誰だって、他人の物だから欲しいのだ……だからこそ、もういくつも持っているくせに新しい服や宝石あつめに、必死で奔走しなければならない……これで却ってよかったのだ。少なくとも、得られなければ街の迷路で、イタチごっこを永遠に続けられることだろう。言うまでもなく、他人の人生を破滅させながら、私たちはそうして生きてきたのだ。
とにかく今はしりぞこう。スリの現場を、いつまでもじろじろと見物される趣味はない。
どこまでも、逃げてやろう。紫苑の両足がギロチンになり、挟みこまれてしまうまえに、私の脳は命令を送り、足の筋肉を収縮させる。
そしていつの間にか私の足は、あの幻想砂漠の国の方角へ、今にも駆けだそうとしている……!
収奪伝 終わり
その一言でした。紫苑に執着する女苑が強いと、言うのかな。
それとも紫苑が強いのかな。分からないのですけれど、それでも二人で生きていきたいのかな。そんな気がしました。
とても面白かったです。
紫苑は何もせずにのうのうと生きていると、そんな風に女苑には見えたのだろうけど、でもその実紫苑には姉としての矜恃があったのかなあ、なんて
姉妹の関係のかなりドライな感じも凄く自分の好みでした。
そこに確かに生きづいているものたちの息遣いを間近に感じるようでした
女苑が詩的な表現をするのにリアリストな生き様は素敵です。
自然主義って言うんですかね 社会の底をそっくり掬ってきた感じですね
どうしようもなくもあるのですが、そのどうしようもなさは本当のどうしようもなさではない感じがします。
しかしなんて生きづらい世の名のなのだろう! 作品の至るところに見ることができる女苑の人生哲学! 行動規範と行動のギャップ! 溢れるような比喩表現! 汚さと美の同居! あと足!
金という人間が作り出した共通欲求の亡霊を下地に人間の欲求が至る所に挟み込まれている。 人間の本質とは何か!!!!
ある種それらと実際の行動とが支離滅裂に見えなくもないはずなのに、
どちらも女苑として矛盾なく読める。
とても強い文章でした。