夜の荒野を照らすお月様は真っ白くて、きちんと丁寧に磨けている子供の歯みたいな色をしていました。
白々とした月の光が降り注いで、墨汁を満たしたような真っ暗な暗闇にも、美しい海がそうであるような透明感が生まれて、彼方までを見通すことができるのです。星々の光もまた、都市部で見るそれとは比べ物にならない程に一粒一粒が眩しく、夜空の一面に散りばめられています。目で見て取ることのできるような、透明度の高い暗黒の夜でした。
そんな夜の荒野を、学校の制服を着た女の子が歩いていますね。
年の頃は中学生ほどで、スクールバッグの小物類やスカート丈に、垢抜けた自己主張の兆しが見え始めています。都会のネオン街は、背伸びにはまだ早いでしょう。夜の住宅街、無人の公園あたりをさ迷っているのなら、まだしも頷けますか。少なくとも山奥でも滅多に見られないような寒々しいほど広い荒野を歩いているには、違和感しかない女の子です。
実際、ついさっきまで女の子は夜の町を歩いていました。とぼとぼ、とぼとぼ、足元だけ見て歩きながら、まだ、周囲の変化には気付いていません。自分の心の底から溢れ返るぐちゃぐちゃした思いでいっぱいで、気を配る余裕が無かったのです。
「何のかんの言って、本当に怖いのは人間なのよ」
制服の女の子は、突然そう口走りました。
透明度の高い暗闇の中に、一部分だけ、凝りのような空間があります。女の子の話し相手は、その中から現れた金髪の少女のようですね。
赤い唇の弧が生々しい。そこさえ目を瞑れば、明眸皓歯の美少女です。
「学校、ね。あんなものは人間の醜さを醸造する酒蔵よ。ドロップアウトを事前に弾き出して平気な顔をしている人間の群れ。『個性を伸ばしましょう』、そのスローガンが偽善に過ぎなくて、それでも掲げた意味を忘れた愚か者共が、過去の慣例に従って惰性で続けるだけの、名状し難い何かじゃない。
ああ、一応言っておくとね、別に私が酷い目に遭ったから恨み言を言っているわけじゃない。本当に笑える所はね、賢くて強い人間なら自分から離れていくけど、ただの立場の弱い人間は、檻の中で食い殺されるしかないという点なのよ。
学校は勉強をする場所ではなく、人間関係を学び取る場所。だから、そこでの人間関係に遅れるというその失点は、取り返しが付かないものよ。学校に行く意味は、『普通』という必須単位を取得することなんだから」
「……」
金髪の少女は、じぃ~っと、ひとまずは学校の話に聞き入っているようでした。
「知ってる? カラスって人間の5才児くらいの頭脳があるんだって。それはそれとしてね、子供の頭って、やっぱりその年齢程度にしか成長してないの。5才児の知能は5才児程度。10才の知能は10才程度。はっきり言うわ。頭が悪いのよ。そんなガキが、情緒や良識を理解できるわけがない。でもそれは頭が悪いだけで、愚かではない。愚かなのは、そんな動物に毛が生えた程度の知性しかない子供たちを同じ場所、同じ檻の中に閉じ込めて何事も無いと思っている、年嵩の大人の方よね」
制服の女の子の症状は、潔癖症的な嫌悪感。
耐えられないものを、とにかく遠ざけておきたい。
大人は誰も取り合ってくれない、けれど、とても切実な願望。
「……?」
「でも、これで生温い方の評価だと思うわよ? 可哀そうな目に遭っている子は、生き地獄と形容するはずだもの」
「……ふーん」
「学校ってさ、私はあれ、本当におかしいと思うわ。知恵って言うか、簡単な思いやりのある人間のすることじゃない」
吐き捨てるように言うと、口調は更に荒々しくなっていきます。
「……んー?」
「小学校の時に学級裁判という題名の茶番劇があったかな。あれ、本当に笑えた。心当たりのある子は、黙って手を上げなさい……あれは、何を考えているの? あれで何がどうなるか、少しは考えた?」
「……ほへー」
「人間は、平気な顔で惨いことをする」
「……わはー」
「だから……って聞いてる?」
「うん、聞いてる」
なら良いわ、と制服の女の子。そしてもう一度、より一層の嫌悪を示して、こう繰り返します。
「何のかんの言って、本当に怖いのは人間なのよ」
◇
「人間ほど怖い生き物はいないな」
眼鏡を掛けた、中肉中背の男性が言いました。大学生かフリーターといった感じの若い男です。
「──と、いうことなんだよ」
と、男は知った風な顔で戦争の歴史を語りました。そのくだりは省きましょう。
「人間は奪う生き物だ。他の動物から奪うことに飽いた今、人間は人間から奪うことを覚えたんだ。資本主義、まったくもって下らない。競争をさも素晴らしいことのように語る輩が気に入らない。あんな輩のせいで『使えない奴』にはな、居場所なんて無いんだよ。そこが何処だろうとね、そりゃそうさ、俺だって『使えない奴』と付き合うのはごめんだよ」
戦争の話をしていた時の薄っぺらな演説とは違っていて、これだけは本心からの情を伴った声で男の口から吐露されました。
「前に何かのエッセイで読んだ話でね。その人は、子供の頃に何処かの国の貧しい地域で過ごしたことがあるらしくてね、その時、そこの子供と仲良くなって、一緒に遊んだんだって。遊ぶと言うと、サッカーとか。で、思ったそうだよ。その子は裸足なのに、自分は靴を履いている。そのことが何だか恥ずかしかった。靴を履いていること。加えて、それを気にしてしまうことが、なんだか相手を下に見てるみたいで。
しかし現代、ひとまず生活圏に限って言えば、靴を履いていない子なんて、基本的にはいないと思いたい。食べ物だって捨てるほど余ってるって話。人の数に対して椅子の数は足りているはずだ。じゃあ誰もが満足してる? 違うよな?」
流れる声音の底には、人間に対するどうしようもない怒りがあります。
「知らなければ良い。でも、俺達は知ってる。こっちよりあっちが良い、って。そうやって自分達で勝手に、使える椅子を減らしているんだ」
例えば、土地。例えば、恋。例えば、挙げていけば枚挙に暇が無くなります。
ひとまとめにして、居場所と言われるようなもの。
できることがあったり、誰かに必要とされたり、勝ち取ったりすることで初めて手に入る、ただここにいるだけでは得られないもの、そういうもの全部のことです。
「つまりは椅子取りゲーム。実際に人生というゲームとやらで使う椅子の数は、限られている。しかもこのゲームはデスゲームなのだから笑えない」
「……お椅子?」
「人間はね、生まれた時からそのデスゲームに参加を強要されるんだよ。辞退するということは、自殺することと同じだからね。そして、嬉々として参加する人達の方が、頑張ってるね、って言われるんだ。変じゃないか? 率先して大変な思いをしてる、何かを履き違えた連中が、そんなに偉いのか? 俺達に割を喰わせて悦に浸ってるサイコパス共が、そんなに凄いのか?」
「……すごいのかー」
「俺が大切だと思っていた静穏は、世の中では、何の価値も無いものだった……ッ」
絞り出したような声からは、どうしようもない悔しさと憤りが滲み出していました。声だけでなく男自身まで、今にも悲嘆に擦り切れてしまいそう。
「俺にはね、周りの人間が殺人者に見えるよ。雑踏を行き交う人々を眺めて、こいつらみんな殺人者なのかって。あいつらは、大勢の『使えない奴』を殺して平気な顔をしている殺人者だってなッ!」
男にとっても、思いがけないほどに昂った大声だったのでしょう。
荒い息を吐き出した後の沈黙は、まるで荒野の静寂に染み渡るようでした。
「……ん~?」
金髪の少女は指を咥えて聞いていますけど、よく分かっていない顔ですね。男は初めて状況のおかしさに気付き、辺りを見回しました。
「変な話をして、すまないね」
僻みに凝り固まった認識はあれ、性根の穏やかな男であることには違いないのです。そんな気は無かったとは言え大声で怒鳴る形になってしまった少女に、男は優しく語り掛けました。怖がらせてしまったのなら、悪いことをした、そう思っているのは確かです。
ただ、話の続きとして、反省も込めつつ結論だけは口にしました。
「人間ほど怖い生き物はいないな」
◇
「結局ね、一番怖いのは人間なのよ」
疲れた様子の若い女性は、偽物の賢者のような悟り切った眼差しでそう言いました。
「この前、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読み直したんだけどね」
清楚な容姿で、美人と評して良いでしょう。さくさくした口調も好印象です。女性は、訥々と、次のように語ります。
私達は、いずれオトナになること迫られる。だけどその瞬間になったって、実感があるわけじゃない。
じゃあ、オトナになるって何?
私の答えはモモが教えてくれた……訂正、周りの大人達が教えてくれた。
正直、子供の頃に読んだ時の思い出なんて覚えていない。もしかして読んだことは無かったような気もする。でもきっと、普通の冒険小説のように読んだんじゃないかと思う。
モモが灰色の男たちと戦う大冒険!
どきどきはらはらしながら読み進めて、示唆的な意味には気付かなかった。
で、この前ふと読みたくなる機会があって、そして読んだの。
ただただ、やるせない失望感が胸を占めた。絶望ではない、失望だ。
「ほんと、笑っちゃうよね。モモの時間どろぼうが警鐘を鳴らしたのは1973年だよ? これだけ鋭い指摘が出版されて、もう何年? 世界は少しでも素敵になった? なってないよね。一向に改善の兆しが見られないどころか、ますます醜い現実へ真っ逆さま。
あとさ、ディーノ・ブッツァーティーの『急行列車』は読んだ? いや、私も翻訳小説は文体が苦手だから、むしろこれくらいしか読んでないんだけどさ。まあ、メッセージ的には同じようなこと。そんなに急いで何処へ行くの? みたいな感じ。
人間の世界にはね、こうと定められた幸せの形があるのよ。なんて言ったら、決まっていない、誰も定めていないと返ってくる。うん、その通り、誰も定めていない、何故なら全員の無意識で決まる共同幻想だから。そして下らないのはね、その幸せから外れる人の中にさえ、幸せの定義の決定に参加してしまっている人がいることなのよ。
みんなの決まり事は、とても暴力的。外部からだけじゃなくて内圧としても、幸せという幻想は、そこから外れた迷子に対して、容赦の無い圧力で心を締め上げる」
女性は腕を掻き毟りながら、続けます。
「それだけならば、まだ良いよ。私が一番疑問なのは、じゃあ本当にみんなは幸せなのか、ということ。灰色の男に時間を奪われてない? 『急行列車』に飛び乗ってない?」
問い掛ける形ではありましたが、答えは既に出ています。
「あのさぁ。そんな間違った幸福の定義で、そこから外れた人間を不幸に追いやるつもりなの? そんなんじゃ、誰も幸せにならないよ。列車に乗った人も、乗れなかった人も、どちらもね」
「……」
金髪の少女は黙って女性を見つめています。
まずは左腕。お腹、胸、足、二の腕、首筋、この順番です。
「私は、人間のことが気持ち悪いよ……」
泣きそうに掠れた声で、偽物の賢者の女性は、気持ちと悲鳴を全部吐き出すみたいに。
捲れた袖から覗いた左の手首には、白いガーゼが当てられています。いっそ聖女じみた面持ちで、目の前の無垢に、教え諭すように優しい声で囁くのです。
「人間は愚か。人間は醜い。人間は卑しい。人間は、ありとあらゆる罵倒の対象になる」
「そう。それで?」
金髪の少女は、純真とも冷淡とも付かない、清冷と言うのが丁度良い感じの態度で問いを発しました。
返ってくるのは、確信的な答えです。
「結局ね、一番怖いのは人間なのよ」
◇
「人間ってやつは、本当に怖いな」
30代くらいの会社員風の男性が呟きました。
「テレビのニュース番組は世間のネガキャンで持ちっきり。あんなものを見続けていれば精神を病む。だから私はテレビは見ないことにしてるんだ」
そう言うわりには、よくテレビの画面を眺めている男なのですが。
「殺人事件なんて、報道されてないのもあるんだろうなぁ。まあその辺りは良い、とにかく、多いってことが言いたいんだ。で、私は思うんだけどさ、そんなニュースを見ている人が、どうしてあんなことをするのか分からない、とかって言うだろ」
「?」
金髪の少女はそんなこと知りません。
「まあ、言うんだよ」
「……そーなのかー」
男が力説するものだから、少女は分かっていない顔で頷きます。こくり。
「どうして酷い事件を起こしてしまったのか? ──答えよう。その不理解のせいだ。誰も分かってあげられなかったのがいけないんだ。理解できないなんて、軽々しく言うな。それなのに、何故、何故、とあれこれ勝手なことを言いやがる。挙句、被疑者が苦し紛れに口にした言い訳を、本気にしたりする。おかしな話だよ、まったく。
他に痛ましい事件と言えば、虐待関係は本当に嫌になるよ。親が我が子に暴力を振るってしまう。事情は様々だろうが、本当に、痛ましい。許されないことなのは分かる、だけど、許さないと大声で糾弾して良いことなのかどうか、疑問だな。
つまりね、家の中のことは家の中で完結していた出来事だ。それなのに、だよ。周りの人間は精神的に困窮する家庭を助けてやれなかったくせに、事件が明るみになった途端、司法の場に引きずり出す。おかしい、よな? 助けてやれなかったくせに、罰だけ与えるのか? 誰も気付いてやれなかったのにだぞ? 私にはそこが理解できない」
真っ平な真顔、据わった目。
会社員の男は大真面目に話をしています。恐ろしいのは事件を起こす人間ではなく、その周囲の人間の群れなのだよ、と。さて、金髪の少女には分かるでしょうか。
「誰もね、私の言っていることに共感してくれないんだよ。なんでだろうな? 行き詰まった人間に追い打ちで罰を与えるのは、自分の正しさを保証する行為であり安堵感が得られるとか、そんな感じか? いや、違うかもだが……ああ、分かったぞ。何も考えていないんだ。何も考えないまま、傷付いた人間を更に殴り倒して、そんなことを、なんとなくでやっているんだ」
そうして男は、しみじみと情感たっぷりに呟くのでした。
「人間ってやつは、本当に怖いな」
◇
四人の男女が夜の荒野を訪れました。
彼らの行方を、ここでは語りませんよ?
「うぃ~。おなかいっぱい。しあわせ~」
何はともあれ、ほくほく笑顔のルーミアちゃんです。
「本当に怖いのは、人間──」
ルーミアは彼らの語った言葉を繰り返して、さも可笑しいといった風に首を傾げるのでした。
「──そーかなー?」
白々とした月の光が降り注いで、墨汁を満たしたような真っ暗な暗闇にも、美しい海がそうであるような透明感が生まれて、彼方までを見通すことができるのです。星々の光もまた、都市部で見るそれとは比べ物にならない程に一粒一粒が眩しく、夜空の一面に散りばめられています。目で見て取ることのできるような、透明度の高い暗黒の夜でした。
そんな夜の荒野を、学校の制服を着た女の子が歩いていますね。
年の頃は中学生ほどで、スクールバッグの小物類やスカート丈に、垢抜けた自己主張の兆しが見え始めています。都会のネオン街は、背伸びにはまだ早いでしょう。夜の住宅街、無人の公園あたりをさ迷っているのなら、まだしも頷けますか。少なくとも山奥でも滅多に見られないような寒々しいほど広い荒野を歩いているには、違和感しかない女の子です。
実際、ついさっきまで女の子は夜の町を歩いていました。とぼとぼ、とぼとぼ、足元だけ見て歩きながら、まだ、周囲の変化には気付いていません。自分の心の底から溢れ返るぐちゃぐちゃした思いでいっぱいで、気を配る余裕が無かったのです。
「何のかんの言って、本当に怖いのは人間なのよ」
制服の女の子は、突然そう口走りました。
透明度の高い暗闇の中に、一部分だけ、凝りのような空間があります。女の子の話し相手は、その中から現れた金髪の少女のようですね。
赤い唇の弧が生々しい。そこさえ目を瞑れば、明眸皓歯の美少女です。
「学校、ね。あんなものは人間の醜さを醸造する酒蔵よ。ドロップアウトを事前に弾き出して平気な顔をしている人間の群れ。『個性を伸ばしましょう』、そのスローガンが偽善に過ぎなくて、それでも掲げた意味を忘れた愚か者共が、過去の慣例に従って惰性で続けるだけの、名状し難い何かじゃない。
ああ、一応言っておくとね、別に私が酷い目に遭ったから恨み言を言っているわけじゃない。本当に笑える所はね、賢くて強い人間なら自分から離れていくけど、ただの立場の弱い人間は、檻の中で食い殺されるしかないという点なのよ。
学校は勉強をする場所ではなく、人間関係を学び取る場所。だから、そこでの人間関係に遅れるというその失点は、取り返しが付かないものよ。学校に行く意味は、『普通』という必須単位を取得することなんだから」
「……」
金髪の少女は、じぃ~っと、ひとまずは学校の話に聞き入っているようでした。
「知ってる? カラスって人間の5才児くらいの頭脳があるんだって。それはそれとしてね、子供の頭って、やっぱりその年齢程度にしか成長してないの。5才児の知能は5才児程度。10才の知能は10才程度。はっきり言うわ。頭が悪いのよ。そんなガキが、情緒や良識を理解できるわけがない。でもそれは頭が悪いだけで、愚かではない。愚かなのは、そんな動物に毛が生えた程度の知性しかない子供たちを同じ場所、同じ檻の中に閉じ込めて何事も無いと思っている、年嵩の大人の方よね」
制服の女の子の症状は、潔癖症的な嫌悪感。
耐えられないものを、とにかく遠ざけておきたい。
大人は誰も取り合ってくれない、けれど、とても切実な願望。
「……?」
「でも、これで生温い方の評価だと思うわよ? 可哀そうな目に遭っている子は、生き地獄と形容するはずだもの」
「……ふーん」
「学校ってさ、私はあれ、本当におかしいと思うわ。知恵って言うか、簡単な思いやりのある人間のすることじゃない」
吐き捨てるように言うと、口調は更に荒々しくなっていきます。
「……んー?」
「小学校の時に学級裁判という題名の茶番劇があったかな。あれ、本当に笑えた。心当たりのある子は、黙って手を上げなさい……あれは、何を考えているの? あれで何がどうなるか、少しは考えた?」
「……ほへー」
「人間は、平気な顔で惨いことをする」
「……わはー」
「だから……って聞いてる?」
「うん、聞いてる」
なら良いわ、と制服の女の子。そしてもう一度、より一層の嫌悪を示して、こう繰り返します。
「何のかんの言って、本当に怖いのは人間なのよ」
◇
「人間ほど怖い生き物はいないな」
眼鏡を掛けた、中肉中背の男性が言いました。大学生かフリーターといった感じの若い男です。
「──と、いうことなんだよ」
と、男は知った風な顔で戦争の歴史を語りました。そのくだりは省きましょう。
「人間は奪う生き物だ。他の動物から奪うことに飽いた今、人間は人間から奪うことを覚えたんだ。資本主義、まったくもって下らない。競争をさも素晴らしいことのように語る輩が気に入らない。あんな輩のせいで『使えない奴』にはな、居場所なんて無いんだよ。そこが何処だろうとね、そりゃそうさ、俺だって『使えない奴』と付き合うのはごめんだよ」
戦争の話をしていた時の薄っぺらな演説とは違っていて、これだけは本心からの情を伴った声で男の口から吐露されました。
「前に何かのエッセイで読んだ話でね。その人は、子供の頃に何処かの国の貧しい地域で過ごしたことがあるらしくてね、その時、そこの子供と仲良くなって、一緒に遊んだんだって。遊ぶと言うと、サッカーとか。で、思ったそうだよ。その子は裸足なのに、自分は靴を履いている。そのことが何だか恥ずかしかった。靴を履いていること。加えて、それを気にしてしまうことが、なんだか相手を下に見てるみたいで。
しかし現代、ひとまず生活圏に限って言えば、靴を履いていない子なんて、基本的にはいないと思いたい。食べ物だって捨てるほど余ってるって話。人の数に対して椅子の数は足りているはずだ。じゃあ誰もが満足してる? 違うよな?」
流れる声音の底には、人間に対するどうしようもない怒りがあります。
「知らなければ良い。でも、俺達は知ってる。こっちよりあっちが良い、って。そうやって自分達で勝手に、使える椅子を減らしているんだ」
例えば、土地。例えば、恋。例えば、挙げていけば枚挙に暇が無くなります。
ひとまとめにして、居場所と言われるようなもの。
できることがあったり、誰かに必要とされたり、勝ち取ったりすることで初めて手に入る、ただここにいるだけでは得られないもの、そういうもの全部のことです。
「つまりは椅子取りゲーム。実際に人生というゲームとやらで使う椅子の数は、限られている。しかもこのゲームはデスゲームなのだから笑えない」
「……お椅子?」
「人間はね、生まれた時からそのデスゲームに参加を強要されるんだよ。辞退するということは、自殺することと同じだからね。そして、嬉々として参加する人達の方が、頑張ってるね、って言われるんだ。変じゃないか? 率先して大変な思いをしてる、何かを履き違えた連中が、そんなに偉いのか? 俺達に割を喰わせて悦に浸ってるサイコパス共が、そんなに凄いのか?」
「……すごいのかー」
「俺が大切だと思っていた静穏は、世の中では、何の価値も無いものだった……ッ」
絞り出したような声からは、どうしようもない悔しさと憤りが滲み出していました。声だけでなく男自身まで、今にも悲嘆に擦り切れてしまいそう。
「俺にはね、周りの人間が殺人者に見えるよ。雑踏を行き交う人々を眺めて、こいつらみんな殺人者なのかって。あいつらは、大勢の『使えない奴』を殺して平気な顔をしている殺人者だってなッ!」
男にとっても、思いがけないほどに昂った大声だったのでしょう。
荒い息を吐き出した後の沈黙は、まるで荒野の静寂に染み渡るようでした。
「……ん~?」
金髪の少女は指を咥えて聞いていますけど、よく分かっていない顔ですね。男は初めて状況のおかしさに気付き、辺りを見回しました。
「変な話をして、すまないね」
僻みに凝り固まった認識はあれ、性根の穏やかな男であることには違いないのです。そんな気は無かったとは言え大声で怒鳴る形になってしまった少女に、男は優しく語り掛けました。怖がらせてしまったのなら、悪いことをした、そう思っているのは確かです。
ただ、話の続きとして、反省も込めつつ結論だけは口にしました。
「人間ほど怖い生き物はいないな」
◇
「結局ね、一番怖いのは人間なのよ」
疲れた様子の若い女性は、偽物の賢者のような悟り切った眼差しでそう言いました。
「この前、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読み直したんだけどね」
清楚な容姿で、美人と評して良いでしょう。さくさくした口調も好印象です。女性は、訥々と、次のように語ります。
私達は、いずれオトナになること迫られる。だけどその瞬間になったって、実感があるわけじゃない。
じゃあ、オトナになるって何?
私の答えはモモが教えてくれた……訂正、周りの大人達が教えてくれた。
正直、子供の頃に読んだ時の思い出なんて覚えていない。もしかして読んだことは無かったような気もする。でもきっと、普通の冒険小説のように読んだんじゃないかと思う。
モモが灰色の男たちと戦う大冒険!
どきどきはらはらしながら読み進めて、示唆的な意味には気付かなかった。
で、この前ふと読みたくなる機会があって、そして読んだの。
ただただ、やるせない失望感が胸を占めた。絶望ではない、失望だ。
「ほんと、笑っちゃうよね。モモの時間どろぼうが警鐘を鳴らしたのは1973年だよ? これだけ鋭い指摘が出版されて、もう何年? 世界は少しでも素敵になった? なってないよね。一向に改善の兆しが見られないどころか、ますます醜い現実へ真っ逆さま。
あとさ、ディーノ・ブッツァーティーの『急行列車』は読んだ? いや、私も翻訳小説は文体が苦手だから、むしろこれくらいしか読んでないんだけどさ。まあ、メッセージ的には同じようなこと。そんなに急いで何処へ行くの? みたいな感じ。
人間の世界にはね、こうと定められた幸せの形があるのよ。なんて言ったら、決まっていない、誰も定めていないと返ってくる。うん、その通り、誰も定めていない、何故なら全員の無意識で決まる共同幻想だから。そして下らないのはね、その幸せから外れる人の中にさえ、幸せの定義の決定に参加してしまっている人がいることなのよ。
みんなの決まり事は、とても暴力的。外部からだけじゃなくて内圧としても、幸せという幻想は、そこから外れた迷子に対して、容赦の無い圧力で心を締め上げる」
女性は腕を掻き毟りながら、続けます。
「それだけならば、まだ良いよ。私が一番疑問なのは、じゃあ本当にみんなは幸せなのか、ということ。灰色の男に時間を奪われてない? 『急行列車』に飛び乗ってない?」
問い掛ける形ではありましたが、答えは既に出ています。
「あのさぁ。そんな間違った幸福の定義で、そこから外れた人間を不幸に追いやるつもりなの? そんなんじゃ、誰も幸せにならないよ。列車に乗った人も、乗れなかった人も、どちらもね」
「……」
金髪の少女は黙って女性を見つめています。
まずは左腕。お腹、胸、足、二の腕、首筋、この順番です。
「私は、人間のことが気持ち悪いよ……」
泣きそうに掠れた声で、偽物の賢者の女性は、気持ちと悲鳴を全部吐き出すみたいに。
捲れた袖から覗いた左の手首には、白いガーゼが当てられています。いっそ聖女じみた面持ちで、目の前の無垢に、教え諭すように優しい声で囁くのです。
「人間は愚か。人間は醜い。人間は卑しい。人間は、ありとあらゆる罵倒の対象になる」
「そう。それで?」
金髪の少女は、純真とも冷淡とも付かない、清冷と言うのが丁度良い感じの態度で問いを発しました。
返ってくるのは、確信的な答えです。
「結局ね、一番怖いのは人間なのよ」
◇
「人間ってやつは、本当に怖いな」
30代くらいの会社員風の男性が呟きました。
「テレビのニュース番組は世間のネガキャンで持ちっきり。あんなものを見続けていれば精神を病む。だから私はテレビは見ないことにしてるんだ」
そう言うわりには、よくテレビの画面を眺めている男なのですが。
「殺人事件なんて、報道されてないのもあるんだろうなぁ。まあその辺りは良い、とにかく、多いってことが言いたいんだ。で、私は思うんだけどさ、そんなニュースを見ている人が、どうしてあんなことをするのか分からない、とかって言うだろ」
「?」
金髪の少女はそんなこと知りません。
「まあ、言うんだよ」
「……そーなのかー」
男が力説するものだから、少女は分かっていない顔で頷きます。こくり。
「どうして酷い事件を起こしてしまったのか? ──答えよう。その不理解のせいだ。誰も分かってあげられなかったのがいけないんだ。理解できないなんて、軽々しく言うな。それなのに、何故、何故、とあれこれ勝手なことを言いやがる。挙句、被疑者が苦し紛れに口にした言い訳を、本気にしたりする。おかしな話だよ、まったく。
他に痛ましい事件と言えば、虐待関係は本当に嫌になるよ。親が我が子に暴力を振るってしまう。事情は様々だろうが、本当に、痛ましい。許されないことなのは分かる、だけど、許さないと大声で糾弾して良いことなのかどうか、疑問だな。
つまりね、家の中のことは家の中で完結していた出来事だ。それなのに、だよ。周りの人間は精神的に困窮する家庭を助けてやれなかったくせに、事件が明るみになった途端、司法の場に引きずり出す。おかしい、よな? 助けてやれなかったくせに、罰だけ与えるのか? 誰も気付いてやれなかったのにだぞ? 私にはそこが理解できない」
真っ平な真顔、据わった目。
会社員の男は大真面目に話をしています。恐ろしいのは事件を起こす人間ではなく、その周囲の人間の群れなのだよ、と。さて、金髪の少女には分かるでしょうか。
「誰もね、私の言っていることに共感してくれないんだよ。なんでだろうな? 行き詰まった人間に追い打ちで罰を与えるのは、自分の正しさを保証する行為であり安堵感が得られるとか、そんな感じか? いや、違うかもだが……ああ、分かったぞ。何も考えていないんだ。何も考えないまま、傷付いた人間を更に殴り倒して、そんなことを、なんとなくでやっているんだ」
そうして男は、しみじみと情感たっぷりに呟くのでした。
「人間ってやつは、本当に怖いな」
◇
四人の男女が夜の荒野を訪れました。
彼らの行方を、ここでは語りませんよ?
「うぃ~。おなかいっぱい。しあわせ~」
何はともあれ、ほくほく笑顔のルーミアちゃんです。
「本当に怖いのは、人間──」
ルーミアは彼らの語った言葉を繰り返して、さも可笑しいといった風に首を傾げるのでした。
「──そーかなー?」
雰囲気も凄くよかったです
あと語り口との内容のギャップたまりません
あんま悩まないでいいよ(意味深)ていうルーミアなりの気遣いかな?
どの意見も社会の一側面を表しているのかもしれませんが、それらも目の前の暴力の前には無意味なのだと思わされました
そう来なくっちゃ