ふぅ。と一息つく。
間近の蝋燭が揺れる。この大図書館の静寂と暗闇にさざ波をたてる。 古魔法書の解読作業は順調。難点をいうと、働きすぎたことか。きっと、そう。
うんと背伸びをする。きしんだ関節がはじけ、広い図書館の中でよく響いた。
体の疲れはそれほどでもなかったが、いささか気疲れしてしまった。少し気分転換になるものがほしい。
こつ。こつ。こつ。こつ。図書館の扉が音をたてる。「…どうぞ。」
「咲夜ですわ。夕食をお持ちしました。」「ああ、もうそんな時間だったの。すっかり熱中してて、出向くのを忘れていたわ。ごめんなさいね。」
いえいえ、お気になさらずと、手際よく皿が並べられていく。
幻想郷では貴重な魚や海老が、クリームソースの中にふんだんに仕込まれたフィッシュパイ。
エッグマヨネーズや、カレー風味のコロネーションチキンなどといった多様な豪勢な具材が真白なパンの間から顔を出したサンドイッチ。
咲夜自身が選んだ茶葉、香草、果実が配合され、無上の発酵タイミングで抽出された紅茶。
そのどれもが、出来立てで時が止まったかのようにあるものは湯気を立て、あるものはその新鮮さを最大限に保たれているようだった。実際そうなのだろう。
「・・・時間はあるかしら咲夜。」「ええ、そうおっしゃると思いまして、今日のうちの職務は全て済ませておきましたわ。」
「流石ね。じゃあ、お願いできる?」
特に作業に熱が入り、咲夜が夕食をここまで運んでくる必要があるようなときは、その日紅魔館で起こったことを告げ知らせてもらうのが常だった。
最初はただ業務的に、知っておく必要があるだろうことくらいにしか思い耳を傾けていたのだが、今となっては大切な私の楽しみの一つとなっていた。
「それでは恐れながら、ご拝聴願います。これなるは嘘か真か、東の果てに移り住んだ、誰よりも高貴で愉快な吸血鬼の館で起こった奇想天外な出来事の数々でございます。」仰々しい前置きを入れると、一転し軽い調子で話を進めていく。
いつもは完璧にそつなく仕事をこなし、口数も少ない咲夜だったが一度言葉をつむげばそれは泉のように湧き出て、上品なユーモアに包まれ、耳障りよく頭に入ってくるのだった。
そのことは恐らくはレミィと私以外の知るところではないことが、惜しまれる。
人間の里に依頼した刀と甲冑が届きレミィがいつもより一層上機嫌になっていたこと。
フランドールが珍しく部屋から抜け出てきて、ツパイの飼われている檻の前で興味深そうに釘付けになっていたこと。
今日も今日とて白黒の強盗が押し入り、なんとか撤退はさせたが退却のため残していった爆薬で危うく館が吹き飛びそうになったこと。
門番が爆弾を抱えたまま、親指をぐっと立てながら湖に沈んでいったこと。
普通に戻ってきて休暇と昇給を要求したが、居眠りで警戒を呼びかけることを怠ったままで侵入を許したことがばれ、普通に仕置きされたこと。
今日は一段と賑やかな日であったようだ。彼女独特のユーモアのセンスもあって、柄にもなく大声をあげて笑ってしまった。
「お言葉ですが大事な研究とはいえ、休憩をとられるか館内を見回り等されて気分転換なさってはいかがでしょうか。」
話しが終わるとこう提案してきた。空いた皿が一瞬で彼女の手もとに戻っていく。そう言われるのは無理もないことだ。図書館にこもりきりでもう三日になるか。
「ええ、明日にはきっと。昼過ぎに出向くから、その時には美味しいお茶を淹れておいてちょうだい。」
了解いたしました、と快い返事とともに爽やかに笑顔が返る。
こんな顔をしているのを妖精メイドたちが見たらどう思うかしら、と勝手に想像して可笑しくなった。
「…どうかされましたか?」「いや何も。何でもないのよ。」はあ、と狐につままれたような顔で見返してくる。
閑静な大図書館の密室の中で、私と彼女の息遣いが、奥の暗がりにゆったりと吸い込まれていく。
そのアトモスフィアが、私の、旧い記憶の水面にふわりと波紋をつくる。
「…そういえば憶えている?まだ貴方が背伸びして、ようやくこの机の向こうから顔を出せるくらいのおちびさんだったとき。」
「あまり記憶は定かではありませんが…なぜ今そのことを?」
いえね、と少し悪戯っぽく微笑みを返してみせながらじっとこちらを見返す咲夜の瞳を、同じようにじっと見据える。
「こうして貴方と話していると、ふと思い出したのよ。」
これを聞くとまた困ったような顔をする。その立場は昔と全くの逆で、それと共に自然とあふれ出てくる思い出に、思わず顔をほころばせる。
「無理もないわ。あの頃貴方は、まだこの館に来たばっかりだったもの。」
本を少し下げ、様子を伺う。また机の縁からちょこっと見えるつやつやの銀色の髪と、好奇心に溢れた瞳がのぞく。私が向けた視線を受け取り、ふたたびその瞳がにっこりと笑う。…はあ。勘弁してほしいわ。ここ最近私は訪問者に悩まされていた。それもとびきり小さい。嗚呼、困った。
訪問者が全くいないわけではなかった。ちょくちょくレミィが来てたし、稀に使いの者を寄越すことがあった。もっと稀に、フランドールが気まぐれに自室から足を運んでくることもあった。だがこの子は毎日のようにここに来るし、用事が済むと帰っていく他の者たちとは違っていた。そもそも、用事があるのかどうかすら私には検討がつかない。
それを繰り返し、気が済むと机の近くにある椅子に腰かけ、いつものように本を読み始めた。それは私も見たことがない絵本だった。きっとこの子の持ち込んだ私物なのだろう、と検討をつけていた。この子がそれ以外の本を読んでいるのはみたことがなかった。またどうしてその本だけを読み続けているのかも分からなかった。
ひとしきりぱらぱらとページをめくり終えると、またいつものように隣にこしかけ、作業をする私を特に何をするわけでもなくじっと見つめる。…すごく、すごく気が散る。そして恥ずかしい。ほんの小さい子供なのに、なかなかどうして圧迫感がある。
例えば、そう、学生はきっと提出した論文を目の前で教授に読まれているとき、こんな気持ちになるのだろう。
何度か小悪魔に応対させようとしたのだが、頭に生えている蝙蝠の様な羽からして人間ではないように見えるからなのか、警戒しているのか首を横に振るだけだった。羽を隠させても、頑として触れ合おうとはしなかった。
ああ、なんて賢い子。
とはいえ、こうじっと凝視観察を決め込まれるのは困る。軽く頭をなでてちょっと待っててね、と声をかける。つぶらな瞳が表情を変えないままに見返す。
いっときして、数冊の本を持ち帰る。この子一人でも読めるくらい簡単な本を厳選したつもりだが、かなり不安だ。童話やおとぎ話の類などそもそもが何故この図書館にあるのか分からないようなものだったし、数も多くはなかったからだ。
与えてみるとページをめくりだし、案の定眉の間にしわをつくりながら、首を傾げだした。
構わず作業を続けようとしたが、今度は先ほどよりさらに落ち着かない。困り顔のまま少女を放置することが気に障ったからだ。正直、自分の中にもこんな気持ちがあったのかと思い、驚いた。「…はあ。」
もう作業を続けるのは諦めた。能率の上がらぬままに継続しても、ただの時間の無駄だ。覚悟を決め、ちょいちょいと手振りで少女に膝の上に来るように促す。すると困り顔がぱあっと晴れやかな喜びをたたえるものに変わる。
てくてくとこちらに歩いてきて、私のスカートに手を その次に足をかけ、派手に皺を作り私の手を借りながらもよじ登ることに成功した。
大仕事を終えたその顔はかなり満足げだった。その少女の顔の前に本を広げ、分からないところを指し示すよう促す。
「これは…木陰(こかげ)ね。生えている樹の下の陰ね。ああ、それは兎(うさぎ)。あのふわふわして耳が長い動物よ。そして時計(とけい)。あそこに大きいのが見えるわね?こっちは…穴(あな)。えいっ。どう?イメージできたかしら?」
本を持つ手を片方にし、もう片方で拳を軽く握り、出来た穴をそのまま少女の片目にあてがう。
幼い少女らしい笑い声をあげ、今度はこちらを振り返りながら同じように私の目を隠す。ただし、両方の手でだ。「わぁっ。何も見えないわ。降参ね。」そういうと
手を放し、本当に可笑しそうにきゃっきゃと笑いながらこっちを見返す。
その姿にこっちも可笑しくなり、つられて笑うのだった。こんなに図書館が騒がしくなったのは、いったいいつ以来だろうか。
それからは少女が来れば必ず本の内容を分かりやすくかみ砕いて教えることが日常になっていった。
変わったのは図書館の静寂だけでない。…私も以前よりも心を開き、積極的に周囲に触れ合ったり、気分を変えるために図書館から出るようにもなった。
私が用意した本だけでなく、少女は自分の持っているたった一冊の本を差し出すこともあった。そして二人で顔を寄せ合いながら、一緒に本の世界に飛び込むのだった。
少女が持ってきた本のあらすじはこうだ。ある村に住む女の子は、生まれつき他と違う容姿などの点で周囲から差別を受け、迫害を受けていた。
そんなとき、恐ろしい怪物が村に現れるようになった。人の力ではどうにもできず村は不満が残らない、という理由で少女を生贄に怪物に差し出すことにする。
ぐるぐるに縛り付けられた少女の前に怪物が現れ、さらっていく。
しかし、本当は怪物は正しい心を持っていて、他の人々と異なる容姿で差別を受けていた少女に共感をし、自分の住処に連れていく。そしてそのまま楽しくいつまでも幸せに暮らしました、というものだ。
陳腐だが、私は少女と同じく、その童話を気に入り、一緒に読んでいるときは二人の顔にはいつも微笑みが浮かび、本を通して暖かい気持ちが通じ合うようだった。
いや、以前の私ならそんな本を読んでも、少しも心を動かされなかったと思う。
この少女は、薄暗い図書館でさび付いていた私の心の時を再び動かし、変えてしまったのだ。
「…そうでしたか。そう言われてみるとそんなことも有ったような…?」「もう。幼かっただけに気楽なものね。こっちは結構大変だったんだから。」
「それは申し訳ないことを…」「いや、いいのよ。それでも貴方との時間にはそのくらいの価値があったから。本当に大変だったけど、それと同じくらい楽しみも有ったわ。」
追憶するその表情は、どことなく子供を慈しむ母親のような優しい笑みを浮かべていた。
「…それからあのことが起こったのでしたね。」「へえ。それは覚えていたのね。」ええ、と上品な、けれど力強い返事が返る。
咲夜が私の片方の手を少し浮かせ、その間に自分の手を滑り込ませ、両手で優しく包み込む。「この十六夜咲夜、その節のご恩を忘れたことは、片時としてございませんわ。」
それからしばらくそんなことが続き、急に少女の訪問が途絶えた。最初の数日は特に何も思わなかったものの、しばらくすると自分の研究さえ手につかなくなった。最初は重荷でしかなかった少女との時間は、それくらい私の中で大切なものへと変わっていたのだ。図書館を出て探してみても、どこを歩き回っているのか、姿が見えなかった。
そんなことをしていたある日、図書館に戻ると愕然とした。そこら中の本棚から本が引きずり降ろされ、滅茶苦茶になっていた。侵入者かと思い、使い魔を呼び寄せようとしたとき、ふと気づいた。多くの本が床に散らばっていたが、落ちたものはどれもごく低い位置にあるものに限定されていたのだ。
勘を頼りに図書館を探し回ると、微かに泣き声がした。それを追って進んでいくと、床に座り込んだまま嗚咽する少女が目に入った。慌てて駆け寄り、肩のところから抱き寄せる。どうしたの、黙って泣いていても分からないでしょう。そう声をかけてもなかなか少女の嗚咽は止もうとしなかった。
「もしかして…あの本を探しているのかしら?」返事はなかったが、その小さい頭がこくん、と頷きをかえす。
「…私たちも一緒に探すから、心配しないで。どうか、涙を流さない頂戴。」
それからは妖精メイドをはじめとしてすべての紅魔館の住人に声をかけ、本が見つかれば少女のところまで持っていくように依頼した。私自身も、図書館を中心にいろいろなところを回ったが、見つかる気配は一向になかった。
自然、私も図書館から歩き回ることが増え、以前の様なわんぱくさと元気を失った少女を見るたびに胸が痛み、どうすればよいかをひたすらに常に考えていた。
そしてやっと思いついた。膝にかわいらしい重みをかかえ、少女と私が、何度も一緒に笑顔になって読み返した思い出の本。内容なら全て頭の中の、この知識に。
本が見つかった、と部屋を訪れた私の口から少女に伝えた。正確に言うと作った、のだが。筆を執るのはこれが初めてではなかったが、子供向けの、それも挿絵がつく本を作り上げるのは骨がおれたが、すべては彼女の喜びと笑顔のためだ。
時間と労力をかけ、やっと完成させた。どこからどう見てもそうと分からない、完璧な出来栄えだ。
その言葉を聞いた少女が駆け寄り、ぎゅっとしがみつく。久しぶりの温もりと香りを感じた。小さなことだが、このことが私を本当に喜ばせたのを今でもはっきりと覚えている。「図書館にいたずらしてごめんなさい…」耳元で恥ずかしそうに、こう囁かれた。「ええ、ええ。いいのよ。」肩を抱き寄せ、背中をさする。
そのまま抱え、持ち上げる。「これから図書館に戻るけど、来る?」「来るーー!」幼い少女相応の、よく耳に残る朗らかな声でころころと笑っている。
長く続く紅が基調となった廊下で、数人の妖精メイドたちに挨拶を返した。
ああ、この本と、彼女とともに、旅をしよう。そしてその次は、どの本の世界へ。
失くなっていた本と一緒に彼女もまた、図書館に戻ってくる。いつものようなありふれた時間が始まった。こんなに暖かい気持ちになったのは、後にも先にもこれが初めてだったかもしれない…。
「本当に、見つけるのには苦労したわ。でもその時の喜びに溢れた貴方の顔を見たら、疲れなんて魔法みたいに消えてしまったわ。」「そうでしたか…手間をおかけして申し訳ございませんでした。」幼い昔のことを言われたためか、気恥ずかしそうに答えるのだった。
こんな貴重な姿を妖精メイドにでも見られたら、数週間分の噂のタネになるだろう。そう思うと少し面白くなった。
その本は自分が作ったものだ、とは言わなかった。今も隠したままであった。なぜかというと、少し返答がしにくい。傷つけたくない、というのも確かに有った。だけれどそれが全てでは無かった。
昔の咲夜は、あの本を肌身離さず、と言っていいほど大切にしていた。
恐らく彼女にとって一番大事だったのはあの本で、自分ではなかった。
だからこそその事実を偽ってでも、自分の作った本を彼女の一番として持っておいてもらいたかった。それで笑顔になってほしかった。
正直に言うとこんな幼稚な願望が、私の中にあったのだろう。…それは今でも変わらない。
そんな私とは対照的に小さかった彼女はぐんぐん成長していき、私がそれに気づいたころには「お嬢ちゃん」「おちびちゃん」ではなく。
新たな名前「十六夜咲夜」を背負い、その名付け親である自分の主、レミィの世話を中心にする立派なメイドになっていた。
自然彼女はレミィのことで多忙になり、立場としての距離もでき、以前のように図書館を訪れ、言葉を交わすことも段々と少なくなっていった。
私はというと、やはりそれに寂しさを感じずにはいられなかった。またしても彼女をとられた、という幼稚な妬みもあったが、反対に喜びもあった。あんなに小さく館の住人全員に面倒をみられるくらいだった彼女が、その皆のために館を引っ張って働ける位にまで成長していったからだ。
自分のもとを離れていく寂寞と、その成長の中に感じる暖かい感動。子供を育てる親の気持ちなど知らなかったが、おそらくはこれがそうなのだろうと漠然と思った。彼女がすっかり大きく大人になってしまった今でも、その思いは私の中に密かに秘められている。
冬の冷気に浸った外気がしみこんだ図書館の古びた建材が時折、静謐の中で不気味に鳴る。
「…どうかなされましたか。」「いや、貴方もすっかり大人になったな、ってつい感慨にふけってしまって。もう子供でもないのにね。それに今では貴方は立派なレミィの右腕だもの。今更私がどうこう言うこともないわよね。」
いえいえ、と咲夜はかぶりをふる。「先ほども言いましたが、私はあのときのご恩を一度たりとも忘れたことはございません。あの優しさもです。口数こそ少なかったですけど、ここまで成長するまでに何度もその暖かさを感じてまいりました。本当に、私は、十六夜咲夜は幸せ者ですわ。」遠くで時計が控えめに、けれどもはっきりと今の時を主張する。
「もう遅いわね。…明日も早いのに付き合わせちゃって悪かったわね。」「そんなことありません。確かに昔を思い出すような時間で、私も暖かい気持ちになれて楽しかったです。パチュリー様も、あまり力を入れすぎず、ご自愛ください。それと紅茶、きっと楽しみにしておいてくださいね。」
ええ、と柔らかく微笑みを返しながらも頭の中では憂いの靄がかかっている。ああ。こんなに立派になってしまって。もう、貴方は膝に可愛らしく腰かけていたお嬢さんではないのね。すっかり背が高くなった。すっかり所作も大人びた。
その中に微か垣間見える昔の面影が、かえって私の感傷をひどく締め付けるのだった。
「パチュリー様、昔の私はそんなに愛らしかったのですか?」「ええ、もちろん。けれど時を戻すことはできないものね。それに、今だってそれは変わらないわ。」「そんな勿体ないお言葉… パチュリー様は、昔の私に会ってみたいですか?」意外な問いかけに思わずぽかんとする。
「出来ればね。でも、本当に今の貴方と久しぶりにこうやって長く話を聞けただけども、本当に幸せだったのよ。」
そうですか、と嬉しそうに笑みがかえる。「あっ…就寝前にリラックスがしたいので、一冊借りていってもよろしいでしょうか?」
私がそれに頷くと、何やら奥まで踏み込んでいき、しばし時間がたった後、足音が戻ってきた。
図書館の本は持ち出されるとき借りた人物に紐づけされ、自動で私の手元のメモ書きに記載されるように、システムを設計している。
今しがた咲夜が選んだのは、解読もまだ進んでいない、価値すら分からないような古魔法所だったので不思議に思った。まあ、どんな本でも文字の羅列で眠気を誘うには十分だろう。
図書館の扉を開放し、私のほうを見ると咲夜は悪戯っぽい子供のように笑ったのだった。
「おやすみなさいませ、パチュリー様。」「おやすみ、咲夜。」
ここ最近の寒さがやはり館内にもしみこんでいる。もう日も沈みきってかなり経ち、図書館の薄明りの中で夜の帳は永遠に伸びていくようだった。
「ふう…」
ろうそくの炎が揺れ、図書館の深い暗闇の中で淡い光が躍る。作業ももう佳境だが、彼女の助言通りに休息をとることにした。魔女の必要としない、久しぶりの睡眠。せっかくだからすっきりした気持ちで床に就き立いと思い、不要な本を一つずつ本棚に戻していくことにした。
抱えた本の塔を殆ど消化し終えたころ、並んだ本の抜き取られた隙間、その付近の一冊の本が目に入ってきた。「なぜ、こんなところに…?」
私の込めた魔力が未だにほのかに感じられた。それは他でもない、幼かったころの咲夜に与えた本に違いなかった。両隣に小さく隙間を開け、そっと取り出す。本は時が止まったままであるかのように、昔そのままの姿に見えた。
昔と同じように、何気なくページをめくる。何度も読み返した物語の世界が、変わらずに広がっていた。遠く彼女と私が旅して歩いた世界。
胸が暖かくなり、そして少し痛む。
「………?」仄かに、本に私以外が手を加えた痕跡を感じる。妖しい魔力のようなものは感じないのだが、いったい誰が。
それは表紙をと開いたところに見つかった。書き手と、挿絵の画家の名が記載されているところ。上から子供の書いたような字で、インクで訂正がしてあった。
作:パチュリーさま
絵:パチュリーさま
古びたインクはすっかり乾ききり、それが十数年ほど前に書かれたことを示していた。なにより、いくら大人が意識しても書けないような、独特の子供の字のもつ暖かで朗らかな雰囲気を帯びていた。
「ふふっ…」思わず笑顔がこぼれる。これが見せたくて、こっそり図書館まで運んできたに違いない。
ああ、私は、幼い子供のように幼稚なことで思い悩んでいたんだろう。
あの子は、いくら誤魔化したところで、私が書いたということに昔から気づいていたのだ。すべて知ったうえで、元の本と同じように、今度は失くさずに大事にしてくれていた。
あの子にとっての「唯一」になんてなれないし、何よりなる必要もなかった。
あの子は、職務が変わっても昔も今も、紅魔館の皆を平等に愛し、そのために尽くしてくれていたのに。私はそれに気づかなかった。いや、ただ自分に向けられる愛に夢中で気づこうとともしていなかったのかもしれない。
私も、今度はもらった愛を失くさない様にしなくては。
こんなふうに閉じこもってばかりでは、やはり心を識るまでには時間がかかる。
それを教えてくれた彼女たちから学ぶことはまだまだ多そうだ。明日は久方振りに図書館の扉を自らの手で開くとしよう。そして外の世界へ。
「ふふっ…やっぱりいつまで経っても貴方には敵いそうにないわね、お嬢さん。」
間近の蝋燭が揺れる。この大図書館の静寂と暗闇にさざ波をたてる。 古魔法書の解読作業は順調。難点をいうと、働きすぎたことか。きっと、そう。
うんと背伸びをする。きしんだ関節がはじけ、広い図書館の中でよく響いた。
体の疲れはそれほどでもなかったが、いささか気疲れしてしまった。少し気分転換になるものがほしい。
こつ。こつ。こつ。こつ。図書館の扉が音をたてる。「…どうぞ。」
「咲夜ですわ。夕食をお持ちしました。」「ああ、もうそんな時間だったの。すっかり熱中してて、出向くのを忘れていたわ。ごめんなさいね。」
いえいえ、お気になさらずと、手際よく皿が並べられていく。
幻想郷では貴重な魚や海老が、クリームソースの中にふんだんに仕込まれたフィッシュパイ。
エッグマヨネーズや、カレー風味のコロネーションチキンなどといった多様な豪勢な具材が真白なパンの間から顔を出したサンドイッチ。
咲夜自身が選んだ茶葉、香草、果実が配合され、無上の発酵タイミングで抽出された紅茶。
そのどれもが、出来立てで時が止まったかのようにあるものは湯気を立て、あるものはその新鮮さを最大限に保たれているようだった。実際そうなのだろう。
「・・・時間はあるかしら咲夜。」「ええ、そうおっしゃると思いまして、今日のうちの職務は全て済ませておきましたわ。」
「流石ね。じゃあ、お願いできる?」
特に作業に熱が入り、咲夜が夕食をここまで運んでくる必要があるようなときは、その日紅魔館で起こったことを告げ知らせてもらうのが常だった。
最初はただ業務的に、知っておく必要があるだろうことくらいにしか思い耳を傾けていたのだが、今となっては大切な私の楽しみの一つとなっていた。
「それでは恐れながら、ご拝聴願います。これなるは嘘か真か、東の果てに移り住んだ、誰よりも高貴で愉快な吸血鬼の館で起こった奇想天外な出来事の数々でございます。」仰々しい前置きを入れると、一転し軽い調子で話を進めていく。
いつもは完璧にそつなく仕事をこなし、口数も少ない咲夜だったが一度言葉をつむげばそれは泉のように湧き出て、上品なユーモアに包まれ、耳障りよく頭に入ってくるのだった。
そのことは恐らくはレミィと私以外の知るところではないことが、惜しまれる。
人間の里に依頼した刀と甲冑が届きレミィがいつもより一層上機嫌になっていたこと。
フランドールが珍しく部屋から抜け出てきて、ツパイの飼われている檻の前で興味深そうに釘付けになっていたこと。
今日も今日とて白黒の強盗が押し入り、なんとか撤退はさせたが退却のため残していった爆薬で危うく館が吹き飛びそうになったこと。
門番が爆弾を抱えたまま、親指をぐっと立てながら湖に沈んでいったこと。
普通に戻ってきて休暇と昇給を要求したが、居眠りで警戒を呼びかけることを怠ったままで侵入を許したことがばれ、普通に仕置きされたこと。
今日は一段と賑やかな日であったようだ。彼女独特のユーモアのセンスもあって、柄にもなく大声をあげて笑ってしまった。
「お言葉ですが大事な研究とはいえ、休憩をとられるか館内を見回り等されて気分転換なさってはいかがでしょうか。」
話しが終わるとこう提案してきた。空いた皿が一瞬で彼女の手もとに戻っていく。そう言われるのは無理もないことだ。図書館にこもりきりでもう三日になるか。
「ええ、明日にはきっと。昼過ぎに出向くから、その時には美味しいお茶を淹れておいてちょうだい。」
了解いたしました、と快い返事とともに爽やかに笑顔が返る。
こんな顔をしているのを妖精メイドたちが見たらどう思うかしら、と勝手に想像して可笑しくなった。
「…どうかされましたか?」「いや何も。何でもないのよ。」はあ、と狐につままれたような顔で見返してくる。
閑静な大図書館の密室の中で、私と彼女の息遣いが、奥の暗がりにゆったりと吸い込まれていく。
そのアトモスフィアが、私の、旧い記憶の水面にふわりと波紋をつくる。
「…そういえば憶えている?まだ貴方が背伸びして、ようやくこの机の向こうから顔を出せるくらいのおちびさんだったとき。」
「あまり記憶は定かではありませんが…なぜ今そのことを?」
いえね、と少し悪戯っぽく微笑みを返してみせながらじっとこちらを見返す咲夜の瞳を、同じようにじっと見据える。
「こうして貴方と話していると、ふと思い出したのよ。」
これを聞くとまた困ったような顔をする。その立場は昔と全くの逆で、それと共に自然とあふれ出てくる思い出に、思わず顔をほころばせる。
「無理もないわ。あの頃貴方は、まだこの館に来たばっかりだったもの。」
本を少し下げ、様子を伺う。また机の縁からちょこっと見えるつやつやの銀色の髪と、好奇心に溢れた瞳がのぞく。私が向けた視線を受け取り、ふたたびその瞳がにっこりと笑う。…はあ。勘弁してほしいわ。ここ最近私は訪問者に悩まされていた。それもとびきり小さい。嗚呼、困った。
訪問者が全くいないわけではなかった。ちょくちょくレミィが来てたし、稀に使いの者を寄越すことがあった。もっと稀に、フランドールが気まぐれに自室から足を運んでくることもあった。だがこの子は毎日のようにここに来るし、用事が済むと帰っていく他の者たちとは違っていた。そもそも、用事があるのかどうかすら私には検討がつかない。
それを繰り返し、気が済むと机の近くにある椅子に腰かけ、いつものように本を読み始めた。それは私も見たことがない絵本だった。きっとこの子の持ち込んだ私物なのだろう、と検討をつけていた。この子がそれ以外の本を読んでいるのはみたことがなかった。またどうしてその本だけを読み続けているのかも分からなかった。
ひとしきりぱらぱらとページをめくり終えると、またいつものように隣にこしかけ、作業をする私を特に何をするわけでもなくじっと見つめる。…すごく、すごく気が散る。そして恥ずかしい。ほんの小さい子供なのに、なかなかどうして圧迫感がある。
例えば、そう、学生はきっと提出した論文を目の前で教授に読まれているとき、こんな気持ちになるのだろう。
何度か小悪魔に応対させようとしたのだが、頭に生えている蝙蝠の様な羽からして人間ではないように見えるからなのか、警戒しているのか首を横に振るだけだった。羽を隠させても、頑として触れ合おうとはしなかった。
ああ、なんて賢い子。
とはいえ、こうじっと凝視観察を決め込まれるのは困る。軽く頭をなでてちょっと待っててね、と声をかける。つぶらな瞳が表情を変えないままに見返す。
いっときして、数冊の本を持ち帰る。この子一人でも読めるくらい簡単な本を厳選したつもりだが、かなり不安だ。童話やおとぎ話の類などそもそもが何故この図書館にあるのか分からないようなものだったし、数も多くはなかったからだ。
与えてみるとページをめくりだし、案の定眉の間にしわをつくりながら、首を傾げだした。
構わず作業を続けようとしたが、今度は先ほどよりさらに落ち着かない。困り顔のまま少女を放置することが気に障ったからだ。正直、自分の中にもこんな気持ちがあったのかと思い、驚いた。「…はあ。」
もう作業を続けるのは諦めた。能率の上がらぬままに継続しても、ただの時間の無駄だ。覚悟を決め、ちょいちょいと手振りで少女に膝の上に来るように促す。すると困り顔がぱあっと晴れやかな喜びをたたえるものに変わる。
てくてくとこちらに歩いてきて、私のスカートに手を その次に足をかけ、派手に皺を作り私の手を借りながらもよじ登ることに成功した。
大仕事を終えたその顔はかなり満足げだった。その少女の顔の前に本を広げ、分からないところを指し示すよう促す。
「これは…木陰(こかげ)ね。生えている樹の下の陰ね。ああ、それは兎(うさぎ)。あのふわふわして耳が長い動物よ。そして時計(とけい)。あそこに大きいのが見えるわね?こっちは…穴(あな)。えいっ。どう?イメージできたかしら?」
本を持つ手を片方にし、もう片方で拳を軽く握り、出来た穴をそのまま少女の片目にあてがう。
幼い少女らしい笑い声をあげ、今度はこちらを振り返りながら同じように私の目を隠す。ただし、両方の手でだ。「わぁっ。何も見えないわ。降参ね。」そういうと
手を放し、本当に可笑しそうにきゃっきゃと笑いながらこっちを見返す。
その姿にこっちも可笑しくなり、つられて笑うのだった。こんなに図書館が騒がしくなったのは、いったいいつ以来だろうか。
それからは少女が来れば必ず本の内容を分かりやすくかみ砕いて教えることが日常になっていった。
変わったのは図書館の静寂だけでない。…私も以前よりも心を開き、積極的に周囲に触れ合ったり、気分を変えるために図書館から出るようにもなった。
私が用意した本だけでなく、少女は自分の持っているたった一冊の本を差し出すこともあった。そして二人で顔を寄せ合いながら、一緒に本の世界に飛び込むのだった。
少女が持ってきた本のあらすじはこうだ。ある村に住む女の子は、生まれつき他と違う容姿などの点で周囲から差別を受け、迫害を受けていた。
そんなとき、恐ろしい怪物が村に現れるようになった。人の力ではどうにもできず村は不満が残らない、という理由で少女を生贄に怪物に差し出すことにする。
ぐるぐるに縛り付けられた少女の前に怪物が現れ、さらっていく。
しかし、本当は怪物は正しい心を持っていて、他の人々と異なる容姿で差別を受けていた少女に共感をし、自分の住処に連れていく。そしてそのまま楽しくいつまでも幸せに暮らしました、というものだ。
陳腐だが、私は少女と同じく、その童話を気に入り、一緒に読んでいるときは二人の顔にはいつも微笑みが浮かび、本を通して暖かい気持ちが通じ合うようだった。
いや、以前の私ならそんな本を読んでも、少しも心を動かされなかったと思う。
この少女は、薄暗い図書館でさび付いていた私の心の時を再び動かし、変えてしまったのだ。
「…そうでしたか。そう言われてみるとそんなことも有ったような…?」「もう。幼かっただけに気楽なものね。こっちは結構大変だったんだから。」
「それは申し訳ないことを…」「いや、いいのよ。それでも貴方との時間にはそのくらいの価値があったから。本当に大変だったけど、それと同じくらい楽しみも有ったわ。」
追憶するその表情は、どことなく子供を慈しむ母親のような優しい笑みを浮かべていた。
「…それからあのことが起こったのでしたね。」「へえ。それは覚えていたのね。」ええ、と上品な、けれど力強い返事が返る。
咲夜が私の片方の手を少し浮かせ、その間に自分の手を滑り込ませ、両手で優しく包み込む。「この十六夜咲夜、その節のご恩を忘れたことは、片時としてございませんわ。」
それからしばらくそんなことが続き、急に少女の訪問が途絶えた。最初の数日は特に何も思わなかったものの、しばらくすると自分の研究さえ手につかなくなった。最初は重荷でしかなかった少女との時間は、それくらい私の中で大切なものへと変わっていたのだ。図書館を出て探してみても、どこを歩き回っているのか、姿が見えなかった。
そんなことをしていたある日、図書館に戻ると愕然とした。そこら中の本棚から本が引きずり降ろされ、滅茶苦茶になっていた。侵入者かと思い、使い魔を呼び寄せようとしたとき、ふと気づいた。多くの本が床に散らばっていたが、落ちたものはどれもごく低い位置にあるものに限定されていたのだ。
勘を頼りに図書館を探し回ると、微かに泣き声がした。それを追って進んでいくと、床に座り込んだまま嗚咽する少女が目に入った。慌てて駆け寄り、肩のところから抱き寄せる。どうしたの、黙って泣いていても分からないでしょう。そう声をかけてもなかなか少女の嗚咽は止もうとしなかった。
「もしかして…あの本を探しているのかしら?」返事はなかったが、その小さい頭がこくん、と頷きをかえす。
「…私たちも一緒に探すから、心配しないで。どうか、涙を流さない頂戴。」
それからは妖精メイドをはじめとしてすべての紅魔館の住人に声をかけ、本が見つかれば少女のところまで持っていくように依頼した。私自身も、図書館を中心にいろいろなところを回ったが、見つかる気配は一向になかった。
自然、私も図書館から歩き回ることが増え、以前の様なわんぱくさと元気を失った少女を見るたびに胸が痛み、どうすればよいかをひたすらに常に考えていた。
そしてやっと思いついた。膝にかわいらしい重みをかかえ、少女と私が、何度も一緒に笑顔になって読み返した思い出の本。内容なら全て頭の中の、この知識に。
本が見つかった、と部屋を訪れた私の口から少女に伝えた。正確に言うと作った、のだが。筆を執るのはこれが初めてではなかったが、子供向けの、それも挿絵がつく本を作り上げるのは骨がおれたが、すべては彼女の喜びと笑顔のためだ。
時間と労力をかけ、やっと完成させた。どこからどう見てもそうと分からない、完璧な出来栄えだ。
その言葉を聞いた少女が駆け寄り、ぎゅっとしがみつく。久しぶりの温もりと香りを感じた。小さなことだが、このことが私を本当に喜ばせたのを今でもはっきりと覚えている。「図書館にいたずらしてごめんなさい…」耳元で恥ずかしそうに、こう囁かれた。「ええ、ええ。いいのよ。」肩を抱き寄せ、背中をさする。
そのまま抱え、持ち上げる。「これから図書館に戻るけど、来る?」「来るーー!」幼い少女相応の、よく耳に残る朗らかな声でころころと笑っている。
長く続く紅が基調となった廊下で、数人の妖精メイドたちに挨拶を返した。
ああ、この本と、彼女とともに、旅をしよう。そしてその次は、どの本の世界へ。
失くなっていた本と一緒に彼女もまた、図書館に戻ってくる。いつものようなありふれた時間が始まった。こんなに暖かい気持ちになったのは、後にも先にもこれが初めてだったかもしれない…。
「本当に、見つけるのには苦労したわ。でもその時の喜びに溢れた貴方の顔を見たら、疲れなんて魔法みたいに消えてしまったわ。」「そうでしたか…手間をおかけして申し訳ございませんでした。」幼い昔のことを言われたためか、気恥ずかしそうに答えるのだった。
こんな貴重な姿を妖精メイドにでも見られたら、数週間分の噂のタネになるだろう。そう思うと少し面白くなった。
その本は自分が作ったものだ、とは言わなかった。今も隠したままであった。なぜかというと、少し返答がしにくい。傷つけたくない、というのも確かに有った。だけれどそれが全てでは無かった。
昔の咲夜は、あの本を肌身離さず、と言っていいほど大切にしていた。
恐らく彼女にとって一番大事だったのはあの本で、自分ではなかった。
だからこそその事実を偽ってでも、自分の作った本を彼女の一番として持っておいてもらいたかった。それで笑顔になってほしかった。
正直に言うとこんな幼稚な願望が、私の中にあったのだろう。…それは今でも変わらない。
そんな私とは対照的に小さかった彼女はぐんぐん成長していき、私がそれに気づいたころには「お嬢ちゃん」「おちびちゃん」ではなく。
新たな名前「十六夜咲夜」を背負い、その名付け親である自分の主、レミィの世話を中心にする立派なメイドになっていた。
自然彼女はレミィのことで多忙になり、立場としての距離もでき、以前のように図書館を訪れ、言葉を交わすことも段々と少なくなっていった。
私はというと、やはりそれに寂しさを感じずにはいられなかった。またしても彼女をとられた、という幼稚な妬みもあったが、反対に喜びもあった。あんなに小さく館の住人全員に面倒をみられるくらいだった彼女が、その皆のために館を引っ張って働ける位にまで成長していったからだ。
自分のもとを離れていく寂寞と、その成長の中に感じる暖かい感動。子供を育てる親の気持ちなど知らなかったが、おそらくはこれがそうなのだろうと漠然と思った。彼女がすっかり大きく大人になってしまった今でも、その思いは私の中に密かに秘められている。
冬の冷気に浸った外気がしみこんだ図書館の古びた建材が時折、静謐の中で不気味に鳴る。
「…どうかなされましたか。」「いや、貴方もすっかり大人になったな、ってつい感慨にふけってしまって。もう子供でもないのにね。それに今では貴方は立派なレミィの右腕だもの。今更私がどうこう言うこともないわよね。」
いえいえ、と咲夜はかぶりをふる。「先ほども言いましたが、私はあのときのご恩を一度たりとも忘れたことはございません。あの優しさもです。口数こそ少なかったですけど、ここまで成長するまでに何度もその暖かさを感じてまいりました。本当に、私は、十六夜咲夜は幸せ者ですわ。」遠くで時計が控えめに、けれどもはっきりと今の時を主張する。
「もう遅いわね。…明日も早いのに付き合わせちゃって悪かったわね。」「そんなことありません。確かに昔を思い出すような時間で、私も暖かい気持ちになれて楽しかったです。パチュリー様も、あまり力を入れすぎず、ご自愛ください。それと紅茶、きっと楽しみにしておいてくださいね。」
ええ、と柔らかく微笑みを返しながらも頭の中では憂いの靄がかかっている。ああ。こんなに立派になってしまって。もう、貴方は膝に可愛らしく腰かけていたお嬢さんではないのね。すっかり背が高くなった。すっかり所作も大人びた。
その中に微か垣間見える昔の面影が、かえって私の感傷をひどく締め付けるのだった。
「パチュリー様、昔の私はそんなに愛らしかったのですか?」「ええ、もちろん。けれど時を戻すことはできないものね。それに、今だってそれは変わらないわ。」「そんな勿体ないお言葉… パチュリー様は、昔の私に会ってみたいですか?」意外な問いかけに思わずぽかんとする。
「出来ればね。でも、本当に今の貴方と久しぶりにこうやって長く話を聞けただけども、本当に幸せだったのよ。」
そうですか、と嬉しそうに笑みがかえる。「あっ…就寝前にリラックスがしたいので、一冊借りていってもよろしいでしょうか?」
私がそれに頷くと、何やら奥まで踏み込んでいき、しばし時間がたった後、足音が戻ってきた。
図書館の本は持ち出されるとき借りた人物に紐づけされ、自動で私の手元のメモ書きに記載されるように、システムを設計している。
今しがた咲夜が選んだのは、解読もまだ進んでいない、価値すら分からないような古魔法所だったので不思議に思った。まあ、どんな本でも文字の羅列で眠気を誘うには十分だろう。
図書館の扉を開放し、私のほうを見ると咲夜は悪戯っぽい子供のように笑ったのだった。
「おやすみなさいませ、パチュリー様。」「おやすみ、咲夜。」
ここ最近の寒さがやはり館内にもしみこんでいる。もう日も沈みきってかなり経ち、図書館の薄明りの中で夜の帳は永遠に伸びていくようだった。
「ふう…」
ろうそくの炎が揺れ、図書館の深い暗闇の中で淡い光が躍る。作業ももう佳境だが、彼女の助言通りに休息をとることにした。魔女の必要としない、久しぶりの睡眠。せっかくだからすっきりした気持ちで床に就き立いと思い、不要な本を一つずつ本棚に戻していくことにした。
抱えた本の塔を殆ど消化し終えたころ、並んだ本の抜き取られた隙間、その付近の一冊の本が目に入ってきた。「なぜ、こんなところに…?」
私の込めた魔力が未だにほのかに感じられた。それは他でもない、幼かったころの咲夜に与えた本に違いなかった。両隣に小さく隙間を開け、そっと取り出す。本は時が止まったままであるかのように、昔そのままの姿に見えた。
昔と同じように、何気なくページをめくる。何度も読み返した物語の世界が、変わらずに広がっていた。遠く彼女と私が旅して歩いた世界。
胸が暖かくなり、そして少し痛む。
「………?」仄かに、本に私以外が手を加えた痕跡を感じる。妖しい魔力のようなものは感じないのだが、いったい誰が。
それは表紙をと開いたところに見つかった。書き手と、挿絵の画家の名が記載されているところ。上から子供の書いたような字で、インクで訂正がしてあった。
作:パチュリーさま
絵:パチュリーさま
古びたインクはすっかり乾ききり、それが十数年ほど前に書かれたことを示していた。なにより、いくら大人が意識しても書けないような、独特の子供の字のもつ暖かで朗らかな雰囲気を帯びていた。
「ふふっ…」思わず笑顔がこぼれる。これが見せたくて、こっそり図書館まで運んできたに違いない。
ああ、私は、幼い子供のように幼稚なことで思い悩んでいたんだろう。
あの子は、いくら誤魔化したところで、私が書いたということに昔から気づいていたのだ。すべて知ったうえで、元の本と同じように、今度は失くさずに大事にしてくれていた。
あの子にとっての「唯一」になんてなれないし、何よりなる必要もなかった。
あの子は、職務が変わっても昔も今も、紅魔館の皆を平等に愛し、そのために尽くしてくれていたのに。私はそれに気づかなかった。いや、ただ自分に向けられる愛に夢中で気づこうとともしていなかったのかもしれない。
私も、今度はもらった愛を失くさない様にしなくては。
こんなふうに閉じこもってばかりでは、やはり心を識るまでには時間がかかる。
それを教えてくれた彼女たちから学ぶことはまだまだ多そうだ。明日は久方振りに図書館の扉を自らの手で開くとしよう。そして外の世界へ。
「ふふっ…やっぱりいつまで経っても貴方には敵いそうにないわね、お嬢さん。」
優しい気持ちになれました。
こういう形式もいいと思う
咲パチェ良いぞ…良い…
ちょくちょく一行だけ文章に空白を開けているのが 読みやすさに貢献しています そこがとても巧みです
(追記:6段落目の「耳障りのよい」は耳障りでマイナスな意味となってしまうので、「耳に心地よい」にした方が良いかもしれません)
さくパチェよかったです
最後の咲夜視点になった時のお茶会の下ごしらえに関する表現が、読書家で静穏なパチュリーを思い起こさせる香りを運んでくれて、個人的にとても好きです。