昼下がりの人里は、食事を終えて仕事場へと戻ろうとする職人風の男らが行き交っていた。封獣ぬえはその合間を、郊外に向けて歩いていた。もちろんぬえは妖怪なので、背中の鎌と矢印を組み合わせたみたいな羽根を上着で隠し、正体不明のタネをで無理矢理ごまかした上での徒路であった。目指しているのは二ッ岩マミゾウの店である。
「二ッ岩商店」は表向き腐葉土や種苗などを取り扱うが、裏ではそれらで稼いだ金を元手に金貸しや経営コンサルタントで稼いでいる。返済を渋ると酷い報復が待っているので、マミゾウの手元には善良な客だけが残る。それらの取引で、マミゾウはますます儲けているのだった。
舞う砂埃を避けつつ郊外まで行くと、若草色の布地に白い瓢箪の家紋をあしらった暖簾が見えた。ちょうどその時、暖簾が鴨居のあたりまでまくれ上がって依神女苑が顔を出した。いつもはジャラジャラとぶら下げているアクセサリを全て外し、人参色した髪を首のあたりで二つに結って下ろし、シンプルな臙脂色の着物という出で立ちだ。現在は疫病神業のかたわら、近所の茶屋でアルバイトなどしているとぬえは聞いていた。
女苑は楚々とした小走りでぬえの方にやって来て、その脇を通り過ぎた。その際にほのかな香水の匂いと、短いつぶやきを口からこぼしながら。
「あんた、よくあいつに付き合っていられるわ」
「長いからね」
女苑とのやり取りは、それだけだった。首を後ろにひねってみると、彼女はぬえを一顧だにしない。背中はみるみる遠ざかり、人混みにまみれて見えなくなった。
ぬえの鼻から含み笑いが漏れた。ああ、少し面倒なことになっているなと。
面倒は、マミゾウのほうだ。女苑はもともと気が短いからどうでもいい。
二ッ岩商店の暖簾を横に押しのけると、内側の話し声が聞こえてきた。
「これマミ子や。おぬし女苑へ茶を出す時に、尻尾を隠したであろう? いかんのう、全くいかん。出したまま振る舞わねばならんぞ」
「でも、隠さなかったら狸だってばれちゃいますよ」
奉公人のマミ子さん(仮名)がぬえの方に背中を向けて、尻込みしている様子が見えた。他にも何人か眉尻を下げて様子を見守る奉公人がいるが、全てが化け狸だ。みな頭に髪飾りめかした木の葉を乗せていた。
「そこをばれずに化かし続けるのが化け狸の裁量というものよ。明日から一週間、マミ子には特別修練を課すので心して受けるように」
「ふええ」
対するマミゾウは、奥の番台にいた。子どもの身の丈ほどもある自らの尻尾を背もたれの代わりにして、手にした煙管から煙を燻らせている。
「よいか、みなも聞くがええ。狸というものは」
これは長い説教になりそうだ。ぬえはそう確信すると暖簾の隙間を広げ、店内に踏み込んだ。
「もう少し声を落としなよ。外まで聞こえる」
マミゾウはぬえの声を聞くや、苦笑いを浮かべて灰皿に燃えかすを落とした。
「なんじゃ、おぬしか。飯でもせびりに来たのかえ?」
「ああ、少し外に出ないマミゾウ。座りっぱなしじゃ体がなまるよ」
「おぬしに言われんでも運動はしとるんじゃがのう」
尻尾が白煙を上げて縮み、羽織の裏側へ収まった。なるほどああして化かすのかと、子分たちが感心することしきり。マミゾウは店の番を彼女らに任せ、ぬえと共に外へ出た。
二人肩を並べて、往来を歩く。道中、老婆がすれ違いざまにマミゾウに向けて手を振った。
「二ッ岩さん、また松の様子を見に来ておくれよ」
「おや、また虫でもついたかえ? よかろう、後で遣いの者をよこそう」
老婆と別れて十字路にさしかかる。と、今度は横から子どもらが歓声を上げながら飛び出してきた。その中の一人がマミゾウの目の前で、路面の窪に足を取られる。マミゾウがとっさに手を差し出して、小さな惨事を未然に防ぎ切った。
「これ童ども、ここは人が多くて危ないぞい。もちっと広い場所で騒げ」
「ありがとう、マミおばちゃん」
走り去る子どもたちの背中に、笑顔で手を振った。おばちゃん呼ばわりに顔色一つ変えない。まあ実際、国津神がブイブイ言わしてるころから生きてる年増女なのだが。
この優しさをもう少し身内にも分けてやればいいのにと、ぬえは考えて止まない。
頼れる親分。優しいマミおばちゃん。
マミゾウを慕う近隣の住民には、そのように見えているのだろう。実際化けの皮だ。
しかしマミゾウ本人が頼りたい場合、優しくされたい場合はどこに向かえばよいのか。
里人たちはマミゾウの正体が、化け狸であることすら知らない。
佐渡から幻想郷に呼び寄せた当初の、彼女の荒んだ姿を知らない。
あの召喚は早計ではあったが、結果的には正しかった。今のマミゾウの生き生きとした姿を見れば、一目瞭然だ。幻想郷の空気が気に入ったからこそ、彼女はこの地に留まっている。
不意にマミゾウが、ぬえに目配せをしてきた。街路の角に一軒の茶屋が建っている。あそこでよいか、という合図であろう。ぬえは首肯して、マミゾウの後に続いた。
昼飯時を過ぎて、客の数はまばらである。店に入るとよく見覚えのある顔が引きつった笑みを浮かべていた。
「いらっしゃーせー、何名様」
そう言えば女苑のバイト先というのは、この茶屋だったか。マミゾウが指を二本立てると、女苑はおざなりに手を振って二人を中へ導いた。空いてる机の一つに、向かい合わせで座る。
ガタンゴトンと音を立てて、波立つ茶の注がれた湯のみが二人の前に差し出された。ずかずかと不機嫌な足音が遠ざかったところで、二人改めて向き直る。湯のみがすぐに触れない程度に、茶の湯が熱い。
「毎度おぬしんとこの僧侶は相変わらずのようじゃのう」
「本人が十戒を守りたいんだから、やらしときゃいいのよ。ただ他の門徒は昔の野蛮をなかなか忘れられないらしくてねえ。私もだけど」
と、茶の湯が冷めるまでの間、しばらく世間話に花が咲いた。やれ最近の里の景気はどうの、悪い金持ちはこうの、仙人は最近何やっているのかなどなど、他愛もない話だ。
しかしながら時おりそんな会話の中に、不穏が混ざる。
「ところで、最後に芝刈りへ向かってからそろそろ一ヶ月になろうかのう」
ぬえは表情を変えない。そろそろ来るころかと思っていたところだ。芝刈りとは二人の間でのみ通じる符丁で、ある遊びの話をする時に使う。
全幻想郷の反逆者こと、鬼人正邪の行方はようとして知れない。ということになっている。実のところマミゾウがよこした子分が密偵となって、その潜伏先は常に知れているのだ。逃げ切ったと思い込んだ天邪鬼が新たな異変など企まないように、時おりマミゾウの伝手で集めた妖怪たちでこぞって追いかけ回す。これこそマミゾウたちにとっての芝刈りである。
「回を追って刈りにくくなってる気がするよ。必要かしら?」
「やっこさんが望んで選んだ道よ。おっと、今回もおぬしには存分に働いてもらうぞ? こういう時にこそ、食客の借りはきっちり返してもらわんとのう」
「それはいいけれど、今回もあれの手を借りるの?」
ぬえは店の奥に視線を走らせる。女苑が先ほどとは打って変わった愛想を振りまきつつ、客の一人と談笑している様子が見えた。
「手数が多いに越したことはない。荒事むきの性格じゃからのう」
「ま、いいけど。雇うなら相応の手当てはつけてやりなよ? また報酬とかで揉めたでしょ? あの様子だと」
「きやつには相応の報いは与えとるぞ? 表向きの仕事とかものう」
ぬえはようやくぬるくなった湯のみを手にして、マミゾウの顔を見上げた。相変わらずのにやけた顔が視界いっぱいに広がる。
「本当に? 最近、身内への当たりが強くなってない? 久しぶりに、相手をするかい?」
マミゾウは眼鏡を指でわずかにずらした。彼女の表情が、レンズの反射光で捉えにくくなる。
ぬえはマミゾウとの付き合いは、確かに長い。大火や飢饉で荒れていた京の都で浮浪児みたいな暮らしを送っていたころに、見聞を広めにやって来たのに出くわしたのが最初の出会いだったか。だからごまかしに入っている時の所作とかもよく知っていた。
「それは余計なお世話というものよ。ストレス発散の手段くらい、心得ておるわい」
「なら、いいけど。四季狂いの異変が収まってからこのかた、でかいドンパチがないからね。退屈を持て余してないかと心配でさ」
「それを言うたら、おぬしもであろう?」
「違いない」
マミゾウもまた茶の湯に口をつけた。なんだかんだで老獪な女だ。このまま問い詰めたところで上手くはぐらかされるだけだろう、とぬえは考えた。長く生きてるぶんプライドも高い。
野生の直感というもので、ぬえの目には危険な空気がマミゾウの周りに染み出しているのがなんとなくわかった。もしもそれが暴走しようものなら、友人のよしみでなんとか手綱を握ってやらねばなるまい。ぬえはさらに考えながら、出てきた焼き団子の串に手をつけた。
§
そのタイミングは、思った以上に早く巡ってきた。ぬえは再び人里に紛れて、二ッ岩商店へと向かった。店に差し掛かるはるか前に、異常は伝わってきていた。
二ッ岩商店の店先に、閑散とした空気が流れる。ここがアメリカの西部なら転がり草の一つも横切っているところだ。いたずらな風が跳ね除けた暖簾の奥に、虚無が見えた。
ぬえは歩調を早め、暖簾をくぐる。店内はがらんとしており、マミゾウがただ一人、番台でキセルを吹かしていた。顔はうつむき、何らかに合点がいっていないように見える。
「なんじゃ、おぬしか。悪いが今は留守番中じゃ。あまり構ってやれんぞ」
「子分たちはどうしたの」
「順繰りに用事を思い出したの、具合が悪いだので出払っておる。ま、そういうこともあろう」
この時点でもはや、悪い予感しかない。マミゾウにもわからぬはずがないであろうに。いや、あえてわからぬ振りをしているのかもしれない。
この後に起こるであろうことこそ、彼女の望むものなのだから。
「突然で悪いんだけどねえマミゾウ。何か失くなってないか調べてもらえる?」
「何か、とは、なんじゃ」
「そうだねえ、例えば店のお金とか?」
マミゾウは静かな所作で灰皿に煙草の燃えかすを落とし、ゆっくりと立ち上がった。すぐ背後に小さな金庫が見える。
「金の管理はしっかりしとる。何を馬鹿な」
金庫についたダイヤルを右へ左へと回したり鍵を差し込んだりと、せせこましい操作を繰り返す。やがてカチリと音がして、扉が開いた。しばらくマミゾウの動きが止まる。
ぬえは忍び足でマミゾウの背中を回り込んだ。金庫の中に残ってるのは、数枚の木の葉だけだった。隙を見て持ち出したか、金と木の葉をすり替えたか、あるいはその両方か。
マミゾウがゆっくりと立ち上がる。彼女の表情からは一切の感情が失われていた。
「しばらく店を空ける。残りたければ好きにせい」
「子分たちを捕まえに行くの? 手伝うよ」
外に出て暖簾を下ろし、雨戸を閉めて臨時休業の札を出す。マミゾウはそうして全ての戸締りを終えると、足早に往来を歩き出した。ぬえはその背中を追いかける。
「子分どもより前に、主犯を引っ捕らえる」
「何か心当たりでも?」
「わからいでか。あの連中が後先考えずに店の金に手をつけるとはいささか考え難い。しかし誰かがあやつらの背中を押せば話は変わる」
「ああ、なるほど」
往来を行くマミゾウたちが最初に向かったのは、あの茶屋だった。案の定、女苑は今日所用で休むと聞いた。つまりはそういうことである。疫病神の力があれば、半人前化け狸の自制心を奪うことくらい容易いだろう。
さらに人里の反対側まで歩いて、少々ガタのきた長屋の並ぶ界隈にたどり着いた。整地もおざなりな悪路に、昼間から物乞いが道端に無気力に座ってるような場所である。そこからさらに裏通りへ入り、一軒のうらぶれたあばら家の前までやって来た。
扉には鍵もつっかい棒もかかっておらず、あっさりと二人の来客を受け入れた。剥がれかけた畳の部屋は無人である。部屋は几帳面に片付けられており、畳まれた布団、ぼろ家に似つかわしくないドレッサー、飲みかけの酒瓶数本があった。
「さすがに逃げた後か。何か出先について手がかりの一つも残っておればええが」
マミゾウが家捜しを始める。その横でぬえは何度か鼻を鳴らした。部屋にごくわずかながら、女苑のつけていた香水の香りが残っている。それに混じって、気になるものがもう一つ。
「かび臭い匂いが残ってる。あの第一印象に気を遣ってる女には、似つかわしくない匂いだわ」
「ほう。さては、姉が戻ってきたか?」
「貧乏神が戻ってきたなら、多分ここに残しておくだろうね。私らが追ってくるのを予想できてれば、そっちのほうがダメージでかそうだもの。それ以外で、疫病神とつるみそうな奴なんているかしら。しかも、何日も身体洗ってなさそうな」
マミゾウが目を見開いてぬえを見る。ぬえもそれを見返した。
「そいつは、ひょっとして」
「ひょっとするよねえ」
§
それから数日後のこと。昼なお薄暗い裏路地の奥の奥に、ぬえは潜んでいた。行き来するのは腕に入れ墨を入れたいかつい男らや、笠で顔を隠し大きな荷物を背負った行商人らしきものなど。道端ではござを広げた男らが壺やら仏像やら、てんで統一感のない品物を置いて道行く者を見上げていた。
ぬえがいるのはそんな闇市みたいな場所の一角。一軒の庵じみた屋台の入り口近くである。外套を深くかぶり、正体不明のタネを自身に植えている。店の奥はわずかな蝋燭の灯りしか光源がなく、座る店主の顔は闇に隠れて見えない。
ぬえは膝を抱えたまま、往来を行くやくざ者たちのささやきに意識を集めた。今月の凌ぎはどうだの、賭場にこんな客がいただの、不穏な会話から目当てのやつを拾い上げようとする。
――畜生め。どこもかしこもまともな品物ばっかりだな。
――結構なことじゃないの。まだ探すつもり? 人里に出回るのなんて、知れたものよ。
聞き覚えのある声が近づいてきた。こちらへ向かってくる、フードを深くかぶった小柄な二人組。ビンゴである。ぬえは無気力を装い、獲物が罠にかかるのを待った。
――道具の本当の価値なんて、人間どもにはわかりゃしねえ。そういう意味のない品物に大枚叩いてやろうってんだ。少しは気前よく差し出しゃいいものを。
――いいけどね、約束は守りなさいよ。人里を歩き回るだけでも十分リスキーなんだから。
――銭で思い通りになる奴はここいらにしかないんだから仕方ない、いやちょっと待て。
二人組が店の前で、歩みを止めた。そのまま屋台の暗がりに視線を凝らす。さすがの逃走王、なかなか隙を見せない。
「何かお探しですかい、お客さん?」
店の奥からしゃがれ声。フードの一人が顔を上げた。
「ああ、ちょいと家の飾りに使えるやつをな」
「そいつはちょうどいい。どいつもこいつも掘り出し物ばっかりでさぁ。どうぞ心置きなく見ていってくだせえ」
「そいじゃ、お言葉に甘えて」
土音を鳴らして、フードが店内に踏み込む。むしろじみて羽織った上着の下から直方体の何かを取り出しながら。それが突然光り輝き、一瞬だけ屋台の奥を真っ白く照らす。即席の案山子みたいな人形が露わになる。
「確保!」
瞬間、裏路地の全ての光景が歪んだ。狸の尻尾が生えた壁が四方に競り上がり、ぬえもろとも二人組を囲い込む。フードの一人が舌打ちしながら上着を払いのけ、鬼人正邪の姿を晒した。この界隈、全てが彼女を捕えるための罠だった。
ぬえもまた外套を脱ぎ捨て、三叉槍を構える。
「バリケードの外にも手勢が控えてるぞ。お得意のチート道具で逃げたかったら、存分に試せ」
「ずいぶん似合いの格好になったじゃねえか」
「子分どもに急いで灸を据えねばならんかったからのう」
マミゾウが塗り壁のバリケードを飛び越え、ぬえの反対側に降り立った。ぬえもマミゾウもいたる所にほころびを、生傷をこさえている。回復の早い妖怪がまだ治っていない程度の傷だ。
いま一人、女苑もまたフードを上げると大きなため息をついた。
「まあ、ここまでよね。私はとっとと降参するわ」
「てめぇ、手を切ろうってのか。例の約束がなくなってもいいのか」
「姉さんの貧乏をひっくり返すってやつ? どうせその場で出任せの方便だろう? しばらく一緒に動いててよくわかったわ。あんたが行き当たりばったりだってこと」
正邪はギザギザの歯を剥き出して、なお不敵に笑う。そうしなければならない正邪の不屈を、ぬえもマミゾウもよく知っていた。
「また四面楚歌に逆戻りってわけだ」
「おぬしの降参などハナから期待しておらん。儂の家族を切り崩してまで何がしたかった」
「家族だと、笑わせる。上位者ぶってる奴が破滅するのを見るのは、私にとって無上の快楽だ。増して今の私がこうしているのは貴様のせいなんだからな。気合も入るってもんだ」
女苑が怪訝な顔で正邪を見ている。彼女は正邪の、最初の逃走劇の顛末を知らない。
「質問するのは私だ。なぜ貴様は私に、道具の新たな使い方を教えた。追う側の癖しやがって、なぜ私の偉大な逃走を手伝うような真似をしたんだ」
「今さら、ずいぶんと懐かしい話を掘り出すのう。よろしい、いい機会じゃから教えてやろう。つうても答は単純。そうしたほうが儂が長く楽しめるからじゃ」
女苑の顔から血の気が引いた。ぬえが苦笑いを浮かべた。マミゾウは満面の笑みを浮かべて正邪に向け弁舌を振るう。
「例えばおぬしが長い長い逃走の果てに下剋上を果たしたとて、儂にとっては瑣末な出来事に過ぎん。ただ、蹴落とす者と蹴落とされる者が入れ替わるだけじゃ。おぬしはどうあれ、音を上げ降参するまで儂の挑戦を退け続けねばならん。それがおぬしの選んだ道というものじゃ」
対する正邪はマミゾウの言葉を聞くにつれて、顔から汗をとめどなく流し手足をガタガタ震わせ始めた。小刻みに揺れる指先をマミゾウに突きつける。
「私にはわかるぞ。そいつは、ハッタリじゃねえ。マジで言ってんのか。本気で死ぬまで私を追い回すつもりでいるのか。サドかてめえは!?」
「そりゃ出自は佐渡じゃからのう」
「どっちかというとマゾでしょ。マミゾウだけに」
女苑が肩を落としてぼそりと呟いた。正邪は忙しなく懐を探って、もはや周囲の言葉を聞く余裕すら失ったようだ。
「冗談じゃねえ。例え天地がひっくり返ったとして、お前の喜ぶ真似を誰がしてやるものか」
正邪の手の中には、導火線から火花を散らす七尺マジックボムがあった。
人里の片隅で、雷かと紛うほどの閃光と轟音が空間を満たした。
§
後日。ぬえは茶店の軒先で、長椅子に腰掛け曇天の光を浴びていた。
そこに女給姿となった女苑が盆を抱えて出てきた。憮然とした頬に、絆創膏が貼られている。おざなりに置かれた盆の上で、茶碗が揺れた。
「結局、天邪鬼にいいようにひっくり返されただけだったわ。もう本当、なんなのアイツ」
「ああ見えて、弱味を突くのが得意だからね。一度はアイツの口車に乗っちゃったでしょう?」
女苑は顔を真っ赤に染めて、歯ぎしりしながらぬえを見下ろした。
「逃げたクズ妖怪のことはどうでもいい! 問題は狸のほうだわ。本当、よくあんなのと友達やってられるわよねアンタ。ただ喧嘩がしたいだけのために、周囲を煽ってるマゾ狸なんかと」
「あれは言わば佐渡の海よ。時化の時は大いに荒れるけど、凪いだ時には懐が深い」
「ポエムかよ」
ぬえは湯飲みに触れようとして、反射的に手を引いた。
「普段は色々と頼れる奴なんだから、大いに宛てにしときゃいいのよ。誰にだって、気分の波が大きく揺れる時の一つや二つあるんだもの。あいつにだけはそれがないと考えるのは、思い上がりってもんだわ。そういう時にこそ、受け止めてやればいい。私たちは、共依存なわけ」
砂埃の向こうから、長身の影が近づいてきた。若草色の紋付羽織に、木の葉の髪飾りで前髪をまとめた長髪の。
「なんじゃ、おぬしら。悪巧みの相談かえ?」
(マミを忘れるな 完)
「二ッ岩商店」は表向き腐葉土や種苗などを取り扱うが、裏ではそれらで稼いだ金を元手に金貸しや経営コンサルタントで稼いでいる。返済を渋ると酷い報復が待っているので、マミゾウの手元には善良な客だけが残る。それらの取引で、マミゾウはますます儲けているのだった。
舞う砂埃を避けつつ郊外まで行くと、若草色の布地に白い瓢箪の家紋をあしらった暖簾が見えた。ちょうどその時、暖簾が鴨居のあたりまでまくれ上がって依神女苑が顔を出した。いつもはジャラジャラとぶら下げているアクセサリを全て外し、人参色した髪を首のあたりで二つに結って下ろし、シンプルな臙脂色の着物という出で立ちだ。現在は疫病神業のかたわら、近所の茶屋でアルバイトなどしているとぬえは聞いていた。
女苑は楚々とした小走りでぬえの方にやって来て、その脇を通り過ぎた。その際にほのかな香水の匂いと、短いつぶやきを口からこぼしながら。
「あんた、よくあいつに付き合っていられるわ」
「長いからね」
女苑とのやり取りは、それだけだった。首を後ろにひねってみると、彼女はぬえを一顧だにしない。背中はみるみる遠ざかり、人混みにまみれて見えなくなった。
ぬえの鼻から含み笑いが漏れた。ああ、少し面倒なことになっているなと。
面倒は、マミゾウのほうだ。女苑はもともと気が短いからどうでもいい。
二ッ岩商店の暖簾を横に押しのけると、内側の話し声が聞こえてきた。
「これマミ子や。おぬし女苑へ茶を出す時に、尻尾を隠したであろう? いかんのう、全くいかん。出したまま振る舞わねばならんぞ」
「でも、隠さなかったら狸だってばれちゃいますよ」
奉公人のマミ子さん(仮名)がぬえの方に背中を向けて、尻込みしている様子が見えた。他にも何人か眉尻を下げて様子を見守る奉公人がいるが、全てが化け狸だ。みな頭に髪飾りめかした木の葉を乗せていた。
「そこをばれずに化かし続けるのが化け狸の裁量というものよ。明日から一週間、マミ子には特別修練を課すので心して受けるように」
「ふええ」
対するマミゾウは、奥の番台にいた。子どもの身の丈ほどもある自らの尻尾を背もたれの代わりにして、手にした煙管から煙を燻らせている。
「よいか、みなも聞くがええ。狸というものは」
これは長い説教になりそうだ。ぬえはそう確信すると暖簾の隙間を広げ、店内に踏み込んだ。
「もう少し声を落としなよ。外まで聞こえる」
マミゾウはぬえの声を聞くや、苦笑いを浮かべて灰皿に燃えかすを落とした。
「なんじゃ、おぬしか。飯でもせびりに来たのかえ?」
「ああ、少し外に出ないマミゾウ。座りっぱなしじゃ体がなまるよ」
「おぬしに言われんでも運動はしとるんじゃがのう」
尻尾が白煙を上げて縮み、羽織の裏側へ収まった。なるほどああして化かすのかと、子分たちが感心することしきり。マミゾウは店の番を彼女らに任せ、ぬえと共に外へ出た。
二人肩を並べて、往来を歩く。道中、老婆がすれ違いざまにマミゾウに向けて手を振った。
「二ッ岩さん、また松の様子を見に来ておくれよ」
「おや、また虫でもついたかえ? よかろう、後で遣いの者をよこそう」
老婆と別れて十字路にさしかかる。と、今度は横から子どもらが歓声を上げながら飛び出してきた。その中の一人がマミゾウの目の前で、路面の窪に足を取られる。マミゾウがとっさに手を差し出して、小さな惨事を未然に防ぎ切った。
「これ童ども、ここは人が多くて危ないぞい。もちっと広い場所で騒げ」
「ありがとう、マミおばちゃん」
走り去る子どもたちの背中に、笑顔で手を振った。おばちゃん呼ばわりに顔色一つ変えない。まあ実際、国津神がブイブイ言わしてるころから生きてる年増女なのだが。
この優しさをもう少し身内にも分けてやればいいのにと、ぬえは考えて止まない。
頼れる親分。優しいマミおばちゃん。
マミゾウを慕う近隣の住民には、そのように見えているのだろう。実際化けの皮だ。
しかしマミゾウ本人が頼りたい場合、優しくされたい場合はどこに向かえばよいのか。
里人たちはマミゾウの正体が、化け狸であることすら知らない。
佐渡から幻想郷に呼び寄せた当初の、彼女の荒んだ姿を知らない。
あの召喚は早計ではあったが、結果的には正しかった。今のマミゾウの生き生きとした姿を見れば、一目瞭然だ。幻想郷の空気が気に入ったからこそ、彼女はこの地に留まっている。
不意にマミゾウが、ぬえに目配せをしてきた。街路の角に一軒の茶屋が建っている。あそこでよいか、という合図であろう。ぬえは首肯して、マミゾウの後に続いた。
昼飯時を過ぎて、客の数はまばらである。店に入るとよく見覚えのある顔が引きつった笑みを浮かべていた。
「いらっしゃーせー、何名様」
そう言えば女苑のバイト先というのは、この茶屋だったか。マミゾウが指を二本立てると、女苑はおざなりに手を振って二人を中へ導いた。空いてる机の一つに、向かい合わせで座る。
ガタンゴトンと音を立てて、波立つ茶の注がれた湯のみが二人の前に差し出された。ずかずかと不機嫌な足音が遠ざかったところで、二人改めて向き直る。湯のみがすぐに触れない程度に、茶の湯が熱い。
「毎度おぬしんとこの僧侶は相変わらずのようじゃのう」
「本人が十戒を守りたいんだから、やらしときゃいいのよ。ただ他の門徒は昔の野蛮をなかなか忘れられないらしくてねえ。私もだけど」
と、茶の湯が冷めるまでの間、しばらく世間話に花が咲いた。やれ最近の里の景気はどうの、悪い金持ちはこうの、仙人は最近何やっているのかなどなど、他愛もない話だ。
しかしながら時おりそんな会話の中に、不穏が混ざる。
「ところで、最後に芝刈りへ向かってからそろそろ一ヶ月になろうかのう」
ぬえは表情を変えない。そろそろ来るころかと思っていたところだ。芝刈りとは二人の間でのみ通じる符丁で、ある遊びの話をする時に使う。
全幻想郷の反逆者こと、鬼人正邪の行方はようとして知れない。ということになっている。実のところマミゾウがよこした子分が密偵となって、その潜伏先は常に知れているのだ。逃げ切ったと思い込んだ天邪鬼が新たな異変など企まないように、時おりマミゾウの伝手で集めた妖怪たちでこぞって追いかけ回す。これこそマミゾウたちにとっての芝刈りである。
「回を追って刈りにくくなってる気がするよ。必要かしら?」
「やっこさんが望んで選んだ道よ。おっと、今回もおぬしには存分に働いてもらうぞ? こういう時にこそ、食客の借りはきっちり返してもらわんとのう」
「それはいいけれど、今回もあれの手を借りるの?」
ぬえは店の奥に視線を走らせる。女苑が先ほどとは打って変わった愛想を振りまきつつ、客の一人と談笑している様子が見えた。
「手数が多いに越したことはない。荒事むきの性格じゃからのう」
「ま、いいけど。雇うなら相応の手当てはつけてやりなよ? また報酬とかで揉めたでしょ? あの様子だと」
「きやつには相応の報いは与えとるぞ? 表向きの仕事とかものう」
ぬえはようやくぬるくなった湯のみを手にして、マミゾウの顔を見上げた。相変わらずのにやけた顔が視界いっぱいに広がる。
「本当に? 最近、身内への当たりが強くなってない? 久しぶりに、相手をするかい?」
マミゾウは眼鏡を指でわずかにずらした。彼女の表情が、レンズの反射光で捉えにくくなる。
ぬえはマミゾウとの付き合いは、確かに長い。大火や飢饉で荒れていた京の都で浮浪児みたいな暮らしを送っていたころに、見聞を広めにやって来たのに出くわしたのが最初の出会いだったか。だからごまかしに入っている時の所作とかもよく知っていた。
「それは余計なお世話というものよ。ストレス発散の手段くらい、心得ておるわい」
「なら、いいけど。四季狂いの異変が収まってからこのかた、でかいドンパチがないからね。退屈を持て余してないかと心配でさ」
「それを言うたら、おぬしもであろう?」
「違いない」
マミゾウもまた茶の湯に口をつけた。なんだかんだで老獪な女だ。このまま問い詰めたところで上手くはぐらかされるだけだろう、とぬえは考えた。長く生きてるぶんプライドも高い。
野生の直感というもので、ぬえの目には危険な空気がマミゾウの周りに染み出しているのがなんとなくわかった。もしもそれが暴走しようものなら、友人のよしみでなんとか手綱を握ってやらねばなるまい。ぬえはさらに考えながら、出てきた焼き団子の串に手をつけた。
§
そのタイミングは、思った以上に早く巡ってきた。ぬえは再び人里に紛れて、二ッ岩商店へと向かった。店に差し掛かるはるか前に、異常は伝わってきていた。
二ッ岩商店の店先に、閑散とした空気が流れる。ここがアメリカの西部なら転がり草の一つも横切っているところだ。いたずらな風が跳ね除けた暖簾の奥に、虚無が見えた。
ぬえは歩調を早め、暖簾をくぐる。店内はがらんとしており、マミゾウがただ一人、番台でキセルを吹かしていた。顔はうつむき、何らかに合点がいっていないように見える。
「なんじゃ、おぬしか。悪いが今は留守番中じゃ。あまり構ってやれんぞ」
「子分たちはどうしたの」
「順繰りに用事を思い出したの、具合が悪いだので出払っておる。ま、そういうこともあろう」
この時点でもはや、悪い予感しかない。マミゾウにもわからぬはずがないであろうに。いや、あえてわからぬ振りをしているのかもしれない。
この後に起こるであろうことこそ、彼女の望むものなのだから。
「突然で悪いんだけどねえマミゾウ。何か失くなってないか調べてもらえる?」
「何か、とは、なんじゃ」
「そうだねえ、例えば店のお金とか?」
マミゾウは静かな所作で灰皿に煙草の燃えかすを落とし、ゆっくりと立ち上がった。すぐ背後に小さな金庫が見える。
「金の管理はしっかりしとる。何を馬鹿な」
金庫についたダイヤルを右へ左へと回したり鍵を差し込んだりと、せせこましい操作を繰り返す。やがてカチリと音がして、扉が開いた。しばらくマミゾウの動きが止まる。
ぬえは忍び足でマミゾウの背中を回り込んだ。金庫の中に残ってるのは、数枚の木の葉だけだった。隙を見て持ち出したか、金と木の葉をすり替えたか、あるいはその両方か。
マミゾウがゆっくりと立ち上がる。彼女の表情からは一切の感情が失われていた。
「しばらく店を空ける。残りたければ好きにせい」
「子分たちを捕まえに行くの? 手伝うよ」
外に出て暖簾を下ろし、雨戸を閉めて臨時休業の札を出す。マミゾウはそうして全ての戸締りを終えると、足早に往来を歩き出した。ぬえはその背中を追いかける。
「子分どもより前に、主犯を引っ捕らえる」
「何か心当たりでも?」
「わからいでか。あの連中が後先考えずに店の金に手をつけるとはいささか考え難い。しかし誰かがあやつらの背中を押せば話は変わる」
「ああ、なるほど」
往来を行くマミゾウたちが最初に向かったのは、あの茶屋だった。案の定、女苑は今日所用で休むと聞いた。つまりはそういうことである。疫病神の力があれば、半人前化け狸の自制心を奪うことくらい容易いだろう。
さらに人里の反対側まで歩いて、少々ガタのきた長屋の並ぶ界隈にたどり着いた。整地もおざなりな悪路に、昼間から物乞いが道端に無気力に座ってるような場所である。そこからさらに裏通りへ入り、一軒のうらぶれたあばら家の前までやって来た。
扉には鍵もつっかい棒もかかっておらず、あっさりと二人の来客を受け入れた。剥がれかけた畳の部屋は無人である。部屋は几帳面に片付けられており、畳まれた布団、ぼろ家に似つかわしくないドレッサー、飲みかけの酒瓶数本があった。
「さすがに逃げた後か。何か出先について手がかりの一つも残っておればええが」
マミゾウが家捜しを始める。その横でぬえは何度か鼻を鳴らした。部屋にごくわずかながら、女苑のつけていた香水の香りが残っている。それに混じって、気になるものがもう一つ。
「かび臭い匂いが残ってる。あの第一印象に気を遣ってる女には、似つかわしくない匂いだわ」
「ほう。さては、姉が戻ってきたか?」
「貧乏神が戻ってきたなら、多分ここに残しておくだろうね。私らが追ってくるのを予想できてれば、そっちのほうがダメージでかそうだもの。それ以外で、疫病神とつるみそうな奴なんているかしら。しかも、何日も身体洗ってなさそうな」
マミゾウが目を見開いてぬえを見る。ぬえもそれを見返した。
「そいつは、ひょっとして」
「ひょっとするよねえ」
§
それから数日後のこと。昼なお薄暗い裏路地の奥の奥に、ぬえは潜んでいた。行き来するのは腕に入れ墨を入れたいかつい男らや、笠で顔を隠し大きな荷物を背負った行商人らしきものなど。道端ではござを広げた男らが壺やら仏像やら、てんで統一感のない品物を置いて道行く者を見上げていた。
ぬえがいるのはそんな闇市みたいな場所の一角。一軒の庵じみた屋台の入り口近くである。外套を深くかぶり、正体不明のタネを自身に植えている。店の奥はわずかな蝋燭の灯りしか光源がなく、座る店主の顔は闇に隠れて見えない。
ぬえは膝を抱えたまま、往来を行くやくざ者たちのささやきに意識を集めた。今月の凌ぎはどうだの、賭場にこんな客がいただの、不穏な会話から目当てのやつを拾い上げようとする。
――畜生め。どこもかしこもまともな品物ばっかりだな。
――結構なことじゃないの。まだ探すつもり? 人里に出回るのなんて、知れたものよ。
聞き覚えのある声が近づいてきた。こちらへ向かってくる、フードを深くかぶった小柄な二人組。ビンゴである。ぬえは無気力を装い、獲物が罠にかかるのを待った。
――道具の本当の価値なんて、人間どもにはわかりゃしねえ。そういう意味のない品物に大枚叩いてやろうってんだ。少しは気前よく差し出しゃいいものを。
――いいけどね、約束は守りなさいよ。人里を歩き回るだけでも十分リスキーなんだから。
――銭で思い通りになる奴はここいらにしかないんだから仕方ない、いやちょっと待て。
二人組が店の前で、歩みを止めた。そのまま屋台の暗がりに視線を凝らす。さすがの逃走王、なかなか隙を見せない。
「何かお探しですかい、お客さん?」
店の奥からしゃがれ声。フードの一人が顔を上げた。
「ああ、ちょいと家の飾りに使えるやつをな」
「そいつはちょうどいい。どいつもこいつも掘り出し物ばっかりでさぁ。どうぞ心置きなく見ていってくだせえ」
「そいじゃ、お言葉に甘えて」
土音を鳴らして、フードが店内に踏み込む。むしろじみて羽織った上着の下から直方体の何かを取り出しながら。それが突然光り輝き、一瞬だけ屋台の奥を真っ白く照らす。即席の案山子みたいな人形が露わになる。
「確保!」
瞬間、裏路地の全ての光景が歪んだ。狸の尻尾が生えた壁が四方に競り上がり、ぬえもろとも二人組を囲い込む。フードの一人が舌打ちしながら上着を払いのけ、鬼人正邪の姿を晒した。この界隈、全てが彼女を捕えるための罠だった。
ぬえもまた外套を脱ぎ捨て、三叉槍を構える。
「バリケードの外にも手勢が控えてるぞ。お得意のチート道具で逃げたかったら、存分に試せ」
「ずいぶん似合いの格好になったじゃねえか」
「子分どもに急いで灸を据えねばならんかったからのう」
マミゾウが塗り壁のバリケードを飛び越え、ぬえの反対側に降り立った。ぬえもマミゾウもいたる所にほころびを、生傷をこさえている。回復の早い妖怪がまだ治っていない程度の傷だ。
いま一人、女苑もまたフードを上げると大きなため息をついた。
「まあ、ここまでよね。私はとっとと降参するわ」
「てめぇ、手を切ろうってのか。例の約束がなくなってもいいのか」
「姉さんの貧乏をひっくり返すってやつ? どうせその場で出任せの方便だろう? しばらく一緒に動いててよくわかったわ。あんたが行き当たりばったりだってこと」
正邪はギザギザの歯を剥き出して、なお不敵に笑う。そうしなければならない正邪の不屈を、ぬえもマミゾウもよく知っていた。
「また四面楚歌に逆戻りってわけだ」
「おぬしの降参などハナから期待しておらん。儂の家族を切り崩してまで何がしたかった」
「家族だと、笑わせる。上位者ぶってる奴が破滅するのを見るのは、私にとって無上の快楽だ。増して今の私がこうしているのは貴様のせいなんだからな。気合も入るってもんだ」
女苑が怪訝な顔で正邪を見ている。彼女は正邪の、最初の逃走劇の顛末を知らない。
「質問するのは私だ。なぜ貴様は私に、道具の新たな使い方を教えた。追う側の癖しやがって、なぜ私の偉大な逃走を手伝うような真似をしたんだ」
「今さら、ずいぶんと懐かしい話を掘り出すのう。よろしい、いい機会じゃから教えてやろう。つうても答は単純。そうしたほうが儂が長く楽しめるからじゃ」
女苑の顔から血の気が引いた。ぬえが苦笑いを浮かべた。マミゾウは満面の笑みを浮かべて正邪に向け弁舌を振るう。
「例えばおぬしが長い長い逃走の果てに下剋上を果たしたとて、儂にとっては瑣末な出来事に過ぎん。ただ、蹴落とす者と蹴落とされる者が入れ替わるだけじゃ。おぬしはどうあれ、音を上げ降参するまで儂の挑戦を退け続けねばならん。それがおぬしの選んだ道というものじゃ」
対する正邪はマミゾウの言葉を聞くにつれて、顔から汗をとめどなく流し手足をガタガタ震わせ始めた。小刻みに揺れる指先をマミゾウに突きつける。
「私にはわかるぞ。そいつは、ハッタリじゃねえ。マジで言ってんのか。本気で死ぬまで私を追い回すつもりでいるのか。サドかてめえは!?」
「そりゃ出自は佐渡じゃからのう」
「どっちかというとマゾでしょ。マミゾウだけに」
女苑が肩を落としてぼそりと呟いた。正邪は忙しなく懐を探って、もはや周囲の言葉を聞く余裕すら失ったようだ。
「冗談じゃねえ。例え天地がひっくり返ったとして、お前の喜ぶ真似を誰がしてやるものか」
正邪の手の中には、導火線から火花を散らす七尺マジックボムがあった。
人里の片隅で、雷かと紛うほどの閃光と轟音が空間を満たした。
§
後日。ぬえは茶店の軒先で、長椅子に腰掛け曇天の光を浴びていた。
そこに女給姿となった女苑が盆を抱えて出てきた。憮然とした頬に、絆創膏が貼られている。おざなりに置かれた盆の上で、茶碗が揺れた。
「結局、天邪鬼にいいようにひっくり返されただけだったわ。もう本当、なんなのアイツ」
「ああ見えて、弱味を突くのが得意だからね。一度はアイツの口車に乗っちゃったでしょう?」
女苑は顔を真っ赤に染めて、歯ぎしりしながらぬえを見下ろした。
「逃げたクズ妖怪のことはどうでもいい! 問題は狸のほうだわ。本当、よくあんなのと友達やってられるわよねアンタ。ただ喧嘩がしたいだけのために、周囲を煽ってるマゾ狸なんかと」
「あれは言わば佐渡の海よ。時化の時は大いに荒れるけど、凪いだ時には懐が深い」
「ポエムかよ」
ぬえは湯飲みに触れようとして、反射的に手を引いた。
「普段は色々と頼れる奴なんだから、大いに宛てにしときゃいいのよ。誰にだって、気分の波が大きく揺れる時の一つや二つあるんだもの。あいつにだけはそれがないと考えるのは、思い上がりってもんだわ。そういう時にこそ、受け止めてやればいい。私たちは、共依存なわけ」
砂埃の向こうから、長身の影が近づいてきた。若草色の紋付羽織に、木の葉の髪飾りで前髪をまとめた長髪の。
「なんじゃ、おぬしら。悪巧みの相談かえ?」
(マミを忘れるな 完)
サドとマゾのくだりで笑いました笑
なんだかんだで姉さん思いの女苑いい…
綺麗にまとまっていて良かったです。そして毎回狂言を回さざるを得なくなるぬえちゃんェ……
懐広くても、あらぶれば何が起こるか分からない。
忘れてはならないものもあるということですかね。
とても面白かったです。
こういう幻想郷の表沙汰にならない「影」の話というのは魅力があって面白いですね。
楽しかったです!
マミゾウたちの一幕に思わず見入りました
とてもよかったです
起承転結とそれに至るディティールがとても良かったです。