坂田ネムノは横倒しになったスギの木に腰掛け、アケビをかじっていた。倒れたスギの木はネムノがなぎ倒したばかりの大木で、アケビはその隣に生えていたナラの木に絡む蔓から実っていたものだ。そのナラの木も、今はスギの下敷きになってしまっている。
ネムノはがむしゃらに振るっていた自分の大鉈を目線の高さに掲げ、恨めしそうに眺めた。
刃が、へたれている。
こびりついたヤニの下には細かい刃こぼれがチラホラ。さらに刃こぼれ手前の歪みも多数ある。
鉈から目を離し、振り返って後ろを見る。こんだけやればそんなもんか、と、うんざりしながらアケビの種をププッと吹き飛ばした。
「あーあ、刃ぁ研がなぁ」
ネムノの背後、スギの下敷きになったナラの向こうにも、叩き伐られた夥しい数の樹木が無惨に転がされていた。さらにその向こうにも枝振り豊かなケヤキが根元まで裂かれていたり、スラッと伸びたカラマツの梢が地面に突き立てられていたりしている。ネムノの縄張りの境界に沿って、そんな様子が帯状にずうううっと続いていた。
最近、異常気象とともに現れた巫女や天狗どもを皮切りに、観光気分で縄張りに入ってくる輩が確実に増えていた。一時のことだと思って黙っていたら、縄張りの中で野放しにしていた獲物にまで手を出される始末。これはもう我慢ならんと業を煮やした末のネムノの蛮行だった。
それには大した考えがあったわけでもない。暴れている最中は興奮しきっていたもので、縄張りの主など眼中にないのなら目に物見せてくれよう、だとか、熊よりも嵐よりももっとおっかない奴がここにいることを知らしめてやろう、だなんて意気込んでいたものだった。しかし冷静になって荒れた山と傷んだ鉈を振り返って見るに、正直やり過ぎたと思ってしまうのだった。
ハイテンションのまま完徹した反動は相当なもので、頭は真っ白である。自分の髪の方がまだ色がある。もはや眠気も空腹もなく、ただただ家に帰りたいと望むばかりだった。立ち上がって家路へと歩きだすと心身のバランスが崩れているのがよくわかる。視覚情報に対する身体の反応が過剰になりがちで、また微妙にずれているのだ。
ネムノは溌剌と疲れていた。朦朧としながら風を切るようにケモノ道を突き進んでゆく。藪を不必要なまでに勢いよく飛び越え、大げさに蜘蛛の巣をかわす。そのくせ幾度となく小石や木の根に蹴つまづいたりするものだから、いちいち「ハーッ」だか「フーッ」だか掛け声を上げつつ騒々しく帰るのであった。
途中に我が家の裏にある沢で水浴びをしたネムノは、真っ裸に大鉈だけを持って家に入った。戸を開けてまず目に入ったものは作りかけだったツル縄の山だった。採取してきて束にしておいたツルが作業場を占領している。途中で縄張りの見回りに出掛けてしまったままだった。すぐにまた作業を再開できるようにと思ってそうしたはずだったのに、もうまるでそんな気にはなれない。ネムノは単純に疲れ切っていた。高揚していた精神が落ち着き、ついに肉体の徒労に追い抜かれてしまっていた。大暴れした甲斐あって溜飲が下がった、ということではなく、無駄な仕事をさせられたとうんざりするばかりであった。仕事を終えた爽快感などまるでない。割と上機嫌に縄をよっていた昨日の自分までもが恨めしい。
詮無いことに囚われているのもいい加減馬鹿々々しく、ネムノは埃らないように作業場のツルを軽くまとめると、服を着込んで囲炉裏の前に座った。囲炉裏には鍋が吊るされている。中身は一昨日作った煮物だ。
せめて暖まりたい。ただせめて温かいものを食べてから眠りにつきたい。今のネムノにはそれが全てだった。
蓋を開けて匂いを嗅いで、まだ腐らせていないことを確認する。すでに春だがまだ雪が解けきらない程度の陽気だ。まだ平気なはずである。
ところがだ。また別の問題が発生した。火がおこせないのだ。いくら火打石を鉈に打ち付けようとも火花がちっとも飛んでくれない。いつもなら一〇秒もあれば火種が作れるはずなのに、一分が経ち、二分が経っても繊維くずに着火させることができないのだ。終いには火打石が欠けてしまうことでネムノの気力も砕け散り、膝を抱えて横になることでしか悲しみを抑えることはできなかった。
その体勢で固まったままさらに数分が経つ。小鳥がネムノの家の窓にとまった。その歌声をひとしきり披露しきった頃、ようやくネムノの身体は動きを見せた。しかし起き上がること適わず、這うようにして奥の寝床へと身体を運ぶ。何度も言及することでもないが、ネムノは夜を通して大いに暴れ回っていた。そのおかげでそれはもう疲れていた。就寝は温かいものを食べてからが理想ではあったが、それがお預けになろうとも深い眠りにつけるはずだったのだ。
それがどうしてしまったのだろう。ネムノは布団に入ってまんじりともせず黙って目をつむっているのに、一向に眠ることができないでいた。
水浴びがあだとなったのか、もしくは過労が眠気を抑制しているのか、はたまたテンションが妙な所に入ってしまっただけなのか、まるで眠れない。脳みその奥の方では確かに眠気の存在を感じている。それなのに眠れない。ストレスだ。だんだん気分まで悪くなってきた。
こんなにも儘ならないことが続いていいものなのだろうか。いいわけがない。お天道様はいったい何を見てくれていたのだ。
眠い。ムカムカする。ああ、眠りたいのに眠くない。
「うあっ」
ネムノは唸りながら身体を起こした。大鉈を拾い、髪をかき上げて外へ出る。物置から大鉈の鞘を探しだし、家のすぐ裏手にある先ほど水浴びをした沢に向かった。
沢にはもうひとつの作業場がある。水仕事のための場所であり、眠れない上に機嫌が悪いのなら、そこで行うちょうどいい仕事があった。
それが刃研ぎだ。刃研ぎは刃物の手入れになるだけではなく、ちょっとだけ、研ぐ本人にもいいことがあるのだ。
その作業場は沢から一段高く、草が刈られて庭のように手入れがされた平らな場所で、洗濯道具やら鍋やらヤカンやら釣竿やらが木の枝に吊るされていた。一番日当たりのいい所には、物干し竿に袖を通した洗いたての服がぶら下げられている。
ネムノは同じように引っ掛けておいた作業台の骨組みを下ろすと、いつもの場所に設置した。砂利を均してより平坦にした場所だ。少し弛んでいた骨組みの縄を締め直してあげて台を安定させる。
次に沢に降り、流れから外れかけて停滞している水面に手を突っ込むと、中から桶を取り出す。桶の中には砥石が浸されていた。砥石は三枚。一枚は乳白色。あとの二枚は紺に近い黒なのだが、その内一枚だけやたらと大きいものがあった。まな板か、先ほども使った洗濯板くらいある。
ただその大きい砥石も大鉈と一緒に作業台に並べられれば違和感はなく、かえってネムノの方が小さく見えてきそうですらあった。
いつものちょうどいい丸太に毛皮を敷いて腰掛け、刃研ぎが始まった。
鉈を横から眺め、切っ先からも刃線をまっすぐに覗き込み、傷んだ箇所と狂いを確かめ、鉈の刃を砥石にそえる。重要なのはこの角度だ。
鋭く切れるようにするためには刃先を包丁のように薄い鋭角にする。しかしそれでは刃は脆い。丈夫で長持ちする刃にしたければ刃先を斧のような厚い鈍角にする。しかしやりすぎると切れ味が悪い。
鉈は、包丁でも斧でもない。だから自身の使い方を考慮し、ちょうどいい塩梅になるようなちょうどいい角度を何となく決めるのだ。
経験と勘の領域に、イメージひとつで踏み込んでゆく。
決めた角度を一定に保ち、ひたすら同じ動きを繰り返す。
早くも腰に違和感。作業台の下に石ころをかませて角度を調整し、腰を浮かせて丸太ももう少し均してみる。
砥石に軽く水を振り撒きつつさらに鉈を往復させる。砥石を乾かしてはいけないし、削れて出てきた砥石の粉を洗い流してもいけない。
ところでこの大鉈は、いわゆる剣鉈と呼ばれる両刃の鉈である。両刃の鉈とは、つまりは包丁と同じ刃の構造であり、諸刃の剣というわけではない。両面が均等になるように引っくり返しながら片側ずつバランスよく研いであげる。切っ先は刃が反りかえっていくため研ぎの角度を変えていく必要がある。刃を潰さないように砥石との接地を調整しながら研いであげる。
作業台がカッチリとはまったように安定したことで、ネムノにも調子が出てきた。時折疲れを散らすように手をぷらぷら振ってみせるが言うほど応えているわけではない。
刃研ぎを思い出してきた手つきは大鉈を滑らかに操つり、砥石から心地よい摩擦音を生み出してゆく。
鋼が煌めく。
鉄が香る。
思わずゴクリと喉が鳴る。
腕が疲れても鉈は止まらない。
鉈をひっくり返し、均等に研ぐ。水を振り撒く。角度を保つ。刃を覗き、腰を伸ばしてまた研ぎに戻る。
鉈が、研ぎ澄まされてゆく。
さらにイメージを働かせる。刃の構造を思い浮かべる。ネムノが愚かな侵入者を追い詰め、その無駄に頑丈そうな頭蓋をキレイにカチ割る姿を思い浮かべる。それができる刃の “形 ”を知っているし、自分はその形に仕上げることができる。そしてその刃が今、現実に出来上がりつつある。イメージが刃を研ぎ澄まし、刃もまたイメージを研ぎ澄ましてゆく。
息つぎをするように一度大鉈を置くと尺の長い柄杓をとり、身を乗り出して沢の水を掬う。ゴクリゴクリと飲み干すと、冬の厳しさに春の麗らかさをそなえた清流がネムノの身体に浸透していく。
清らかなものが身体に染みわたる。
「ふー、うまぃ」
顎へ零れた滴りを袖で拭い、周囲を見渡す。沢の水が、頭上を覆う枝葉が、日の光を受けて輝いている。
ネムノは沢の音に少し耳を傾けて、やがてまた大鉈を手に取った。
砥石から出た泥を拭い、横から眺め、切っ先から覗き、また研ぎに戻る。今度は仕上げ用の目の細かい砥石だ。大きさはないが、砥石を設置して鉈の方を動かして研ぐ方がやはり好みである。砥石が小さいと少しやりりにくくはあっても、刃が仕上がってゆく様は喜びそのものだ。心身共にそろって整いを見せてゆくようだった。
沢のせせらぎに見た煌めきが木漏れ日に重なり、重厚な鉄が白く瞬く。
夢中になって刃を滑らせていると、不意に、手が止まった。
気がつけば、ネムノは仕上がりの実感を得ていた。
今一度大鉈を目線の高さに掲げ、刃を先から元まで一直線に覗き込む。絵に描いたような流線とまではいかないものの、滑らかに研ぎあがった刃は切れ味と耐久性に太鼓判を押すような冷たい光を湛えていた。
「……よーしよし、こいつはキレるぞお。こんなら楽に殺せる」
ネムノはスッキリと険のとれた微笑みを浮かべ、まっすぐに立つ。数度軽く素振りをして、名残惜しみながら鉈を鞘に納めると、今しがた座っていた丸太に音を立てないように立て掛けた。
もう一度柄杓をとり、沢の水を掬う。深呼吸するように飲むと、清涼なため息がこぼれた。沢の音と色彩に浸り、余韻に浸る。
それから、ネムノはテキパキと片付けをはじめた。砥石を入れた桶を元の場所に沈め、足取りも軽やかに作業台を元の木の枝に引っ掛け、敷いていた毛皮をパパっとはたいてささっと丸める。物干し竿への日当たりと雲の具合を確かめると、鞘のヒモを肩に担いで沢を後にした。
首をほぐすように回すと、大きな欠伸が溢れてきた。瞼にも重力を感じはじめている。そういえば先ほど仰ぎ見たお日様もやたらと眼に応えた。
背負った大鉈が、歩みに合わせてカタカタと鞘を鳴らす。
甦った得物の心地よい重さを肩と背中で噛みしめる。鞘に納められたこの重さは信頼の証だ。とても落ち着く。
これは思惑通りと言うべきか、今度こそよく眠れそうであった。
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ネムノはがむしゃらに振るっていた自分の大鉈を目線の高さに掲げ、恨めしそうに眺めた。
刃が、へたれている。
こびりついたヤニの下には細かい刃こぼれがチラホラ。さらに刃こぼれ手前の歪みも多数ある。
鉈から目を離し、振り返って後ろを見る。こんだけやればそんなもんか、と、うんざりしながらアケビの種をププッと吹き飛ばした。
「あーあ、刃ぁ研がなぁ」
ネムノの背後、スギの下敷きになったナラの向こうにも、叩き伐られた夥しい数の樹木が無惨に転がされていた。さらにその向こうにも枝振り豊かなケヤキが根元まで裂かれていたり、スラッと伸びたカラマツの梢が地面に突き立てられていたりしている。ネムノの縄張りの境界に沿って、そんな様子が帯状にずうううっと続いていた。
最近、異常気象とともに現れた巫女や天狗どもを皮切りに、観光気分で縄張りに入ってくる輩が確実に増えていた。一時のことだと思って黙っていたら、縄張りの中で野放しにしていた獲物にまで手を出される始末。これはもう我慢ならんと業を煮やした末のネムノの蛮行だった。
それには大した考えがあったわけでもない。暴れている最中は興奮しきっていたもので、縄張りの主など眼中にないのなら目に物見せてくれよう、だとか、熊よりも嵐よりももっとおっかない奴がここにいることを知らしめてやろう、だなんて意気込んでいたものだった。しかし冷静になって荒れた山と傷んだ鉈を振り返って見るに、正直やり過ぎたと思ってしまうのだった。
ハイテンションのまま完徹した反動は相当なもので、頭は真っ白である。自分の髪の方がまだ色がある。もはや眠気も空腹もなく、ただただ家に帰りたいと望むばかりだった。立ち上がって家路へと歩きだすと心身のバランスが崩れているのがよくわかる。視覚情報に対する身体の反応が過剰になりがちで、また微妙にずれているのだ。
ネムノは溌剌と疲れていた。朦朧としながら風を切るようにケモノ道を突き進んでゆく。藪を不必要なまでに勢いよく飛び越え、大げさに蜘蛛の巣をかわす。そのくせ幾度となく小石や木の根に蹴つまづいたりするものだから、いちいち「ハーッ」だか「フーッ」だか掛け声を上げつつ騒々しく帰るのであった。
途中に我が家の裏にある沢で水浴びをしたネムノは、真っ裸に大鉈だけを持って家に入った。戸を開けてまず目に入ったものは作りかけだったツル縄の山だった。採取してきて束にしておいたツルが作業場を占領している。途中で縄張りの見回りに出掛けてしまったままだった。すぐにまた作業を再開できるようにと思ってそうしたはずだったのに、もうまるでそんな気にはなれない。ネムノは単純に疲れ切っていた。高揚していた精神が落ち着き、ついに肉体の徒労に追い抜かれてしまっていた。大暴れした甲斐あって溜飲が下がった、ということではなく、無駄な仕事をさせられたとうんざりするばかりであった。仕事を終えた爽快感などまるでない。割と上機嫌に縄をよっていた昨日の自分までもが恨めしい。
詮無いことに囚われているのもいい加減馬鹿々々しく、ネムノは埃らないように作業場のツルを軽くまとめると、服を着込んで囲炉裏の前に座った。囲炉裏には鍋が吊るされている。中身は一昨日作った煮物だ。
せめて暖まりたい。ただせめて温かいものを食べてから眠りにつきたい。今のネムノにはそれが全てだった。
蓋を開けて匂いを嗅いで、まだ腐らせていないことを確認する。すでに春だがまだ雪が解けきらない程度の陽気だ。まだ平気なはずである。
ところがだ。また別の問題が発生した。火がおこせないのだ。いくら火打石を鉈に打ち付けようとも火花がちっとも飛んでくれない。いつもなら一〇秒もあれば火種が作れるはずなのに、一分が経ち、二分が経っても繊維くずに着火させることができないのだ。終いには火打石が欠けてしまうことでネムノの気力も砕け散り、膝を抱えて横になることでしか悲しみを抑えることはできなかった。
その体勢で固まったままさらに数分が経つ。小鳥がネムノの家の窓にとまった。その歌声をひとしきり披露しきった頃、ようやくネムノの身体は動きを見せた。しかし起き上がること適わず、這うようにして奥の寝床へと身体を運ぶ。何度も言及することでもないが、ネムノは夜を通して大いに暴れ回っていた。そのおかげでそれはもう疲れていた。就寝は温かいものを食べてからが理想ではあったが、それがお預けになろうとも深い眠りにつけるはずだったのだ。
それがどうしてしまったのだろう。ネムノは布団に入ってまんじりともせず黙って目をつむっているのに、一向に眠ることができないでいた。
水浴びがあだとなったのか、もしくは過労が眠気を抑制しているのか、はたまたテンションが妙な所に入ってしまっただけなのか、まるで眠れない。脳みその奥の方では確かに眠気の存在を感じている。それなのに眠れない。ストレスだ。だんだん気分まで悪くなってきた。
こんなにも儘ならないことが続いていいものなのだろうか。いいわけがない。お天道様はいったい何を見てくれていたのだ。
眠い。ムカムカする。ああ、眠りたいのに眠くない。
「うあっ」
ネムノは唸りながら身体を起こした。大鉈を拾い、髪をかき上げて外へ出る。物置から大鉈の鞘を探しだし、家のすぐ裏手にある先ほど水浴びをした沢に向かった。
沢にはもうひとつの作業場がある。水仕事のための場所であり、眠れない上に機嫌が悪いのなら、そこで行うちょうどいい仕事があった。
それが刃研ぎだ。刃研ぎは刃物の手入れになるだけではなく、ちょっとだけ、研ぐ本人にもいいことがあるのだ。
その作業場は沢から一段高く、草が刈られて庭のように手入れがされた平らな場所で、洗濯道具やら鍋やらヤカンやら釣竿やらが木の枝に吊るされていた。一番日当たりのいい所には、物干し竿に袖を通した洗いたての服がぶら下げられている。
ネムノは同じように引っ掛けておいた作業台の骨組みを下ろすと、いつもの場所に設置した。砂利を均してより平坦にした場所だ。少し弛んでいた骨組みの縄を締め直してあげて台を安定させる。
次に沢に降り、流れから外れかけて停滞している水面に手を突っ込むと、中から桶を取り出す。桶の中には砥石が浸されていた。砥石は三枚。一枚は乳白色。あとの二枚は紺に近い黒なのだが、その内一枚だけやたらと大きいものがあった。まな板か、先ほども使った洗濯板くらいある。
ただその大きい砥石も大鉈と一緒に作業台に並べられれば違和感はなく、かえってネムノの方が小さく見えてきそうですらあった。
いつものちょうどいい丸太に毛皮を敷いて腰掛け、刃研ぎが始まった。
鉈を横から眺め、切っ先からも刃線をまっすぐに覗き込み、傷んだ箇所と狂いを確かめ、鉈の刃を砥石にそえる。重要なのはこの角度だ。
鋭く切れるようにするためには刃先を包丁のように薄い鋭角にする。しかしそれでは刃は脆い。丈夫で長持ちする刃にしたければ刃先を斧のような厚い鈍角にする。しかしやりすぎると切れ味が悪い。
鉈は、包丁でも斧でもない。だから自身の使い方を考慮し、ちょうどいい塩梅になるようなちょうどいい角度を何となく決めるのだ。
経験と勘の領域に、イメージひとつで踏み込んでゆく。
決めた角度を一定に保ち、ひたすら同じ動きを繰り返す。
早くも腰に違和感。作業台の下に石ころをかませて角度を調整し、腰を浮かせて丸太ももう少し均してみる。
砥石に軽く水を振り撒きつつさらに鉈を往復させる。砥石を乾かしてはいけないし、削れて出てきた砥石の粉を洗い流してもいけない。
ところでこの大鉈は、いわゆる剣鉈と呼ばれる両刃の鉈である。両刃の鉈とは、つまりは包丁と同じ刃の構造であり、諸刃の剣というわけではない。両面が均等になるように引っくり返しながら片側ずつバランスよく研いであげる。切っ先は刃が反りかえっていくため研ぎの角度を変えていく必要がある。刃を潰さないように砥石との接地を調整しながら研いであげる。
作業台がカッチリとはまったように安定したことで、ネムノにも調子が出てきた。時折疲れを散らすように手をぷらぷら振ってみせるが言うほど応えているわけではない。
刃研ぎを思い出してきた手つきは大鉈を滑らかに操つり、砥石から心地よい摩擦音を生み出してゆく。
鋼が煌めく。
鉄が香る。
思わずゴクリと喉が鳴る。
腕が疲れても鉈は止まらない。
鉈をひっくり返し、均等に研ぐ。水を振り撒く。角度を保つ。刃を覗き、腰を伸ばしてまた研ぎに戻る。
鉈が、研ぎ澄まされてゆく。
さらにイメージを働かせる。刃の構造を思い浮かべる。ネムノが愚かな侵入者を追い詰め、その無駄に頑丈そうな頭蓋をキレイにカチ割る姿を思い浮かべる。それができる刃の “形 ”を知っているし、自分はその形に仕上げることができる。そしてその刃が今、現実に出来上がりつつある。イメージが刃を研ぎ澄まし、刃もまたイメージを研ぎ澄ましてゆく。
息つぎをするように一度大鉈を置くと尺の長い柄杓をとり、身を乗り出して沢の水を掬う。ゴクリゴクリと飲み干すと、冬の厳しさに春の麗らかさをそなえた清流がネムノの身体に浸透していく。
清らかなものが身体に染みわたる。
「ふー、うまぃ」
顎へ零れた滴りを袖で拭い、周囲を見渡す。沢の水が、頭上を覆う枝葉が、日の光を受けて輝いている。
ネムノは沢の音に少し耳を傾けて、やがてまた大鉈を手に取った。
砥石から出た泥を拭い、横から眺め、切っ先から覗き、また研ぎに戻る。今度は仕上げ用の目の細かい砥石だ。大きさはないが、砥石を設置して鉈の方を動かして研ぐ方がやはり好みである。砥石が小さいと少しやりりにくくはあっても、刃が仕上がってゆく様は喜びそのものだ。心身共にそろって整いを見せてゆくようだった。
沢のせせらぎに見た煌めきが木漏れ日に重なり、重厚な鉄が白く瞬く。
夢中になって刃を滑らせていると、不意に、手が止まった。
気がつけば、ネムノは仕上がりの実感を得ていた。
今一度大鉈を目線の高さに掲げ、刃を先から元まで一直線に覗き込む。絵に描いたような流線とまではいかないものの、滑らかに研ぎあがった刃は切れ味と耐久性に太鼓判を押すような冷たい光を湛えていた。
「……よーしよし、こいつはキレるぞお。こんなら楽に殺せる」
ネムノはスッキリと険のとれた微笑みを浮かべ、まっすぐに立つ。数度軽く素振りをして、名残惜しみながら鉈を鞘に納めると、今しがた座っていた丸太に音を立てないように立て掛けた。
もう一度柄杓をとり、沢の水を掬う。深呼吸するように飲むと、清涼なため息がこぼれた。沢の音と色彩に浸り、余韻に浸る。
それから、ネムノはテキパキと片付けをはじめた。砥石を入れた桶を元の場所に沈め、足取りも軽やかに作業台を元の木の枝に引っ掛け、敷いていた毛皮をパパっとはたいてささっと丸める。物干し竿への日当たりと雲の具合を確かめると、鞘のヒモを肩に担いで沢を後にした。
首をほぐすように回すと、大きな欠伸が溢れてきた。瞼にも重力を感じはじめている。そういえば先ほど仰ぎ見たお日様もやたらと眼に応えた。
背負った大鉈が、歩みに合わせてカタカタと鞘を鳴らす。
甦った得物の心地よい重さを肩と背中で噛みしめる。鞘に納められたこの重さは信頼の証だ。とても落ち着く。
これは思惑通りと言うべきか、今度こそよく眠れそうであった。
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雰囲気も良く、面白かったです!
とても面白かったです。
黙々と刀を研いでるネムノさんがよかったです
私も眠りたくても眠れないときは鉈を研ぐことにします
とても自然に世界観?雰囲気?が伝わってきました。
こういうの好き