私は、漂っている。
何もない、空虚な、或いは何かに満たされた世界で。
自他の境界は、曖昧模糊。何処からが世界で、何処からが私なのか、判然としない。
そんな曖昧とした体だからか、私は五感で世界の汎ゆる情報を感じ取っていた。
けれど世界は、私を感じ取ることは出来ないようで。
私はただ、そこに在るだけ。何も出来ず、何もしていない。
……私は漂っている。
一体いつから、私はこうして漂っているのだろう?
不意に、思い出す。誰かが言っていた言葉を。
世界は、全てを受け入れるのだと。
とすれば、この様が、私に最も適した受け入れ方だった、ということなのだろうか?
判らない。
……私は、漂う。
この疑問に、私は何度思い至ったのだろうか。
この問いを、私は何度考えたのだろうか。
数え覚える間もなく、疑問は、思考は拡散し、世界と溶け合い、希釈されていく。
……はて、何を考えていたのだろう?
世界は答えない。私も答えを持ち合わせていない。
何にせよ、私はこれからも漂うのだろう。この世界を。
もうそろそろ、この意識さえ世界に拡散してしまうだろう。
そして再び意識を取り戻した時、また問うのだろうか。何かを。
「……――――!」
霞む意識の中、唐突に言葉にならない声のようなものが聞こえた気がして、
眼の前に形のない少女の姿を幻視た気がして、
私は、
◆
「今、貴方の隣にいるのー!」
「うわあああ!」
鼓膜を直接ぶん殴られたかのような衝撃で、私の意識は強制的に覚醒させられた。同時に、反射的に叫び声を上げ、立ち上がってその場から離れる。爆音の発信源から距離を取るために。
「あ、起きた。死んでたらお燐へのお土産になったのになぁ」
「びっ、びっくりしたぁ……」
胸に手を当て、乱れた呼吸を整える。掌から激しく脈打つ心臓の鼓動を感じた。
深呼吸を繰り返すと、動転していた意識が鮮明になっていき、暫くして周囲の状況を把握するための余裕を手に入れた。
どうやら私は、鬱蒼とした森の中にいるようだった。上空は木々に遮られているから薄暗いものの、青い空を確認できた。時刻はどうやら昼頃らしい。
周囲には看板や建物といった、人工物のような目立ったものはなにもなく、私の足元を通る踏み固められたような道が一本だけ。
「ねーねー、メリーさん怖かった?」
動くモノは、私以外には隣の少女だけだった。
少女は私の耳元で叫んだことを悪びれることなく、無邪気な笑顔を浮かべ、首を傾げつつ問う。
「……貴方、何者?」
質問を質問で返すのはどうかと思ったが、耳元で叫ぶような奴にしてやる配慮など無い。
そもそもと思いながら、浮かんでいる大きな瞳を見つめる。その瞳からは触手めいた管が繋がっており、それは服の裏側へと続いていた。どう考えても人外だ。であれば、人間の道理が通じるわけでもあるまい。
「私? 古明地こいし。こいしって呼んでいいよ。因みにメリーさんはオカルトね」
「こいしって言うのね。で、なんて妖怪なの?」
握りこぶし大の瞳を睨みつけ、問う。
「サトリだよ。まあ、この瞳、第三の眼っていうんだけど、これを閉じちゃったから心は読めないのよね」
「さと、り?」
「サトリね。心を読む妖怪のこと」
聞いたことがない妖怪だった。
「はいはい、次私が質問! 貴方はどうして真っ昼間から、こんな暗い森の中で倒れていたの? 妖怪にでも襲われた? 傷はなさそうだけど」
かと思うと、急に私の方へと歩み寄り、顔を近寄せて、そんな事を口早に訊いてきた。切り替えの早さに目をしばたたかせつつも、彼女が疑問を覚えるのも無理はない、と私は考える。
日中ではあるものの、たった一人で、妖怪が出てきそうな――というか眼の前にいる――こんな森の奥で倒れているだなんて、不自然だ。森林浴をしに来て、その休憩をしていたのだとしても、ここ以外でもっと適当な場所があるはずだ。
自分自身でさえ首を傾げてしまう先程までの状況。彼女や自分が抱いた疑問を解消するために、ここに至るまでの経緯を思い出そうとする。
けれど。
「……あ、あれ?」
思い出せない。思い出せなかったのだ。
頭を抑え、困惑する。過去の記憶を呼び起こすなどという、出来て当たり前な行為にしくじる自分自身に対して。
こんな非常識な状況になるまでの顛末を、私は忘れてしまったというのか?
いや、確かに、人間は記憶を忘れることが出来る。昨日の出来事の細部も、数年前の大まかな出来事も等しく。良くも悪くもだ。
だが、でも。
……嫌な予感がした。背筋に悪寒が走る。
私は、思い出そうとした。彼女に起こされるまでの過程以外を。
昨日のこと、一昨日のこと、去年のこと。何を食べた? 誰と逢った? 何処を歩いた?
そして、私自身のことを。
思いつく限りの事象を、精一杯想起しようとする。
だが、一つ確認するたびに、嫌な予感は、確信へと変わっていく。
あるはずのものがない違和感。手にすることが出来ない焦燥感。
それらが言葉にし得ない恐怖となり、重荷のように心にのしかかる。
私は、忘れてしまっていた。
昨日の出来事も。去年の思い出も。
……この世界に存在する全てに与えられているもの。自と他を分け隔てる境界。持っていて当たり前の存在。知っていて当然のもの。
そんな、自らの名前さえも。
「思い出せない! どうして私はここにいるの!?」
今まで何をしていたのか、どうしてここにいるのか、自己に関する殆どの記憶が欠落していた。……記憶喪失だ。
自らの身に襲いかかっている異常事態に、私は恐怖していた。森のなかで倒れていたという事実以上に。
その恐怖は、どす黒い悪寒となり、背筋を逆撫でる。吐き気となり、胃の中でのたうち回る。足の震えとなり、思わずしゃがみこんでしまう。
怖い。怖い! 恐ろしい!
「名前は何? 誰なの? 私は、このわたしは!」
私が私であるという私の私が私で、私?
私は何? 私は誰? 考えれば考えるほど、私が私でなくなっていくようで。わたしはわたしを見失ってしまうようで。
違う、私はわたし、でも、わたしではわたしをわたしだと確信できない。
だから、私は縋った。
「私を見て! 私を認めて! 特別な私のことを!」
叫びながら、体を引きずりながら、私は眼の前の妖怪に掻い付く。
誰でも良い。何者でも良い。誰かに私は私だと私に言い聞かせてほしかった。
「ちょ、ちょっと!」
彼女が抵抗したかと思うと、次の瞬間、私は天地がひっくり返った状態で宙に浮いていた。よく見ると、体に紫色の触手が絡まっている。
意識が自分自身から彼女へと移ったせいか、つい数秒前まで感じていた恐怖心がパタリと失せ、我に返ることが出来た。
出来たが、
「あの、頭に、血が」
「落ち着いた?」
「はい……多分」
「なら結構」
触手が解かれ、私は地面に叩きつけられた。背中が痛い。
別の痛みが体を襲うが、先程の恐怖に比べればましだった。
「えっと、つまり、記憶喪失ってこと?」
倒れた私の顔を覗き込みながらこいしが問う。私は黙ってこくりと頷いた。
「ならもしかすると、貴方は外の世界の住民なのかもしれないわね。幻想入りした衝撃で記憶を失っちゃうことがあるらしいし」
聞き慣れないとはまた違った違和感を抱く。ひっかかる。
「幻想入り……? 外の、世界……?」
仕方がないなぁとつぶやき、こほんと咳払いをしてから、こいしは飄々と説明し始める。
「ここは、人間と妖怪が暮らしている世界、幻想郷と呼ばれているわ。そして、幻想郷から見て、人間だけが暮らしている世界の事を指して外の世界と呼んでいるの。そして、外の世界から人や物が幻想郷に入ってくる現象が、幻想入り」
「げんそうきょう」
言葉をゆっくりと反芻しながら立ち上がる。何故だかは不明だが、頭の中に自然とスッと入り込んできた。頭の靄が晴れていくような感じ。言葉が引っかかったのはこの所為か?
こいしが告げた話は、聞いたことがあり、知識として有していたものなのではないか。
根拠はないが、確信はしていた。
「外来人だったら、ここで『妖怪なんているわけないじゃん!』って否定したり困惑したりするのが定番らしいけど、貴方はあんまり驚かないね。記憶喪失状態だって気がついた時の方が取り乱してたし」
「……きっと、記憶を失う前から幻想郷に居たんだと思う」
「サトリを知らない幻想郷の住民なんているかなぁ……。まあいいや」
思い返せば、私はこいしをみて妖怪だと断定していた。妖怪の存在を知っていたに違いない。幻想郷の住民なのだという確信が深まる。
「にしても、その様子じゃ名前も思い出せないようね。なんて呼んだら良いのかわからないのは不便ね……」
眉をへの字に曲げていたかと思えば、笑顔でこちらに迫ってくる。
「そうだ! もしかしたら服に名前が書いてあるかも!」
「いや……まあ見てはみるか」
否定しかけたものの、曖昧に頷く。記憶を失う前の自分が、持ち物に名前を書くほど几帳面で神経質な人間だったならば、可能性はあるかもしれない。
何処か巫女装束めいた服をひらひらとさせたり、鈴のような物がついたリボンを確認したものの、それらしい記述は何もなく。よく考えれば服に名前を書くなんて幼少期ぐらいだろう。自分が抱いていたあわよくばという思いは無残にも崩れ去った。
「あー」
すると、こいしが気の抜けたような声を上げた。
「何?」
「そういえば、貴方が寝っ転がっている傍に、こんなものが落ちてたの」
彼女はそう言いながら、何処からか道具を取り出し、私に見せる。
「弦楽器? みたいなんだけど、名前が判らなくてさー。でもお姉ちゃんへのお土産くらいにはなるか」
「二胡」
彼女の言葉を遮るように、私はその楽器の名を呟く。
琴筒が六角で、二本の弦が張られ、弓を用いて弾く弦楽器。
……そして、それは私の大切な物だ。
次の瞬間、私はこいしから二胡を奪い取っていた。
「――……あ、ごめん」
数秒後に、自らの無意識の行動を認識した私は、慌てて謝罪の言葉を口にし、こいしの様子を窺う。彼女は驚いたかのように目をしばたたかせていた。
「貴方の物だったの?」
「いや、自分のものだっていう記憶は無いんだけど、見た瞬間、どうしても手に握っていたくなったと言うか、自分の大切な半身を取り戻したくなったというか……」
「変な感性~」
倒れていた人を起こすために耳元で叫んだ奴に言われたくない、というツッコミは心の中に留めた。
「じゃあ、名前がわかるまで二胡ちゃんって呼ぶね」
「えっ」
いくらなんでも安直ではないか、と言いたかったものの、現状他の案も思い浮かばず、私はそれを渋々受け入れることにした。
「で、二胡ちゃんはこれからどうするつもりなの?」
「どうするって……記憶を取り戻したい」
二胡を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟く。
こいしとのやり取りで、幻想郷での知識を持っていたこと、幻想郷の住民であったという確信を得た。
であれば、幻想郷に知り合いが居てもおかしくない。その人物から話を聞けば、それがきっかけで記憶が蘇る可能性はあるはずだ。
「自分が何者なのか、何をしていたのか、知りたい」
「よーし、私に任せて!」
私の当分の目的を聞くと、こいしはどんと胸を張ってそう言った。
かと思うと、唐突に私の手を引き、ぐいぐいと歩き始める。
「ちょ、ちょっと!」
「博麗神社へ行こう! あそこの巫女なら何か分かるかもー!」
◆
こいしに導かれるまま道を歩き、長い階段を上ると、目的地である博麗神社に到着した。
階段の最上段、朱色の鳥居の真下に立ち、境内をぼうっと見渡す。
博麗神社は比較的高いところに建っていて、その周りを桜がぐるりと囲んでいた。
そよ風が枝を揺らすと、ひらりと花びらが舞い落ち、ふわりと春の匂いが鼻腔を擽る。
先程まで居た森の中では感じられなかった季節感に、博麗神社は溢れていた。
……神社といえば、神聖なものを祀る場所に相応しく、静かで荘厳な雰囲気を湛えているものだ。
しかし博麗神社は、静かではあるものの、神聖さのかけらもなかった。
何故なら、
「ねぇ、こいし。この神社はいつもこんな調子なの?」
「いやー、流石にこんな散らかり様ではないかなー」
境内には敷物が敷かれ、その上には皿や酒瓶が散乱していた。花びらも散らかっている。
昨晩に夜桜見物と称した宴会が行われていたのだろうか。
「いないねぇ、誰も」
こいしが呟く。
見渡す限り、人っ子一人、妖怪一匹も居ない。がらんとしている。誰の声も聞こえない。音もなく、静かに桜が舞い落ちる。
宴会の片付けがされていないのは、単にサボっているだけなのか、片付けよりも優先して行わなければならない何かがあったということなのか。
首を傾げながら、境内に足を一歩踏み入れる。
境界を、超える。
「……あ、?」
ふと、形容し難い想いが湧き上がってきた。
旧友と再開し、その変わらなさに安心したと言うか。
普段どおり、いつまでも、いつもどおりが続いていることに対するやすらぎ?
あいつなら「気持ちいいわね」とか言いそうな……? あいつとは誰だろう?
瞳を閉じ、物思いに耽る。深層心理の最奥から、想いが膨らむ。そう、それはまるで、
……とても、
「懐かしい、ような」
思わず、ひとりごちた。けれどその瞬間に、想いは声とともに立ち消えてしまう。
「どうしたの?」
「え、いや、なんでもない」
幻覚だろうか。この神社は、私となにか関係があるのだろうか?
気を取り直して、まっすぐ伸びる石畳の上を歩き、本殿前に鎮座しているお賽銭箱に腰掛け、二胡を膝の上に置き、境内を見る。変わらず人は居ない。変な想いも感じられない。
そして、こいしが私に逢わせたがっていた巫女が不在な今、手持ち無沙汰になってしまった。
「ここで待っていれば、巫女に会えるかな?」
「多分ね」
私に合わせて、こいしも隣に腰掛けた。
そして、ふと思う。
「こいしも待つの?」
「うん」
足をぶらつかせながら、彼女は当然とばかりに肯定した。
「ここからは一人で大丈夫だと思うし、私に付き合う必要はないのよ? 一人だと寂しいし、居てくれるのなら嬉しいけど」
「うーん、二胡ちゃんの傍にいるとなんとなく楽しそうだから、記憶を取り戻すまでは一緒に行動しようかなって。
……後は、なんか似ている気がしたから」
「似てる? 何が?」
「さー? 無意識だからわかんないや。それよりさ、本当に何も思い出せないの? 幻想郷で何をしていたのか、とか。幻想郷のどの辺りに住んでたのか、とか」
訊かれ、改めて自身に関する記憶と向き合う。だが、思い出せるのは起き上がった時からの出来事ばかり。それも、取り乱していたときのことは既にあやふやになっていて。
ただ一つ、判然としていた物があった。
あの時、口走っていた想い。
それに気がついた時、心の奥底――深層心理とでも言うべき場所から、音もなく声がした。私はそれを、私の意思で口にする。
「ただ思い出せるのは、特別な私を、誰かに認めてもらいたいっていう想いだけ」
「特別な私、ねぇ……。記憶喪失状態も特別、というか特異な状況だけど、そういう意味じゃあないんでしょう? 特別な私、特別な人、特別な存在……?」
大きく首を傾げながらこいしは唸る。
「この幻想郷で特別な存在と言えば……うーん、なんだろ? 一勢力のボスとか、妖怪の賢者とか? それか……異変解決の専門家?」
「異変解決の、専門家」
何気なく挙げたであろうその言葉を、私は反芻する。その瞬間、幻想郷という単語を聞いたときと似たような、頭が冴え渡るような感覚を覚えた。
異変。それは、妖怪が気まぐれや興味本位で起こす事象。
幻想郷全域を巻き込む事件。人間に害する現象。
心が確信で満ちる。深層意識が歓喜している。
私は何度も頷きながら言葉を零した。
「きっとそれだと思う。いえ、それに違いないわ」
「うおぉ、大きく出たね」
驚いたと言わんばかりに、触手が蠢く。
「異変解決の専門家だって断言できるってことは、実際に幾つか解決したことがあるってこと? 覚えてる?」
「覚えてない……。けど、解決したと言うか、解決しなければいけない、みたいな義務感だけがある」
義務感、というよりも、息を止めていれば自ずと新たな空気を求めるような、生理的欲求に近い、ような気がする。
「なにそれ? 変なのー。でもまあ、断言する辺り、一回ぐらいは解決したことがあるんじゃない?」
そう言われると、そのような気がしてくる。
であれば、私はどんな異変を解決したのだろうか。
どういう異常現象と直面したのだろうか。
何という妖怪たちと対峙したのだろうか。
どんな人達から感謝されてきたのだろうか。
考え事をしていると、上空から人がふわりと飛んできた。巫女かと思いきや、そうではなさそうで。
金髪碧眼、透き通るような白い肌に、青いロングスカートを穿いた少女。
その佇まいや容姿は、まるで作り物のように美しく。
さらに、地上に降り立った彼女の周囲には何体もの人形が飛び交っていた。
西洋めいた幻想的な光景。人形たちが宴会用の道具と思しき物を運んでいなければ、もっと映えていたかもしれない。
だが、彼女が私を惹きつけたのは、美しさばかりではなかった。
古い、旧い何か。
ノスタルジーにも似た、ほろ苦い想い。懐かしい匂い? そう、博麗神社に足を踏み入れたときに感じたそれと同一のそれ。
深層心理からこみ上げてくる想いに突き上げられ、私はお賽銭箱から立ち上がり、彼女の方へ一歩近づく。
すると、相手も私の存在に気が付いたのか、境内の掃除をしつつ、こちらに背を向けたまま話しかけてきた。
「……見かけない顔ね。外来人?」
「いえ、私は」
心の奥底から急激に膨らんだ想いを整理し切ることが出来ず、言葉に詰まり、自分の意志を正確に伝えることが出来ない。
でも、訊かなければ。私のことを。
「まあ誰だっていいわ。霊夢達は、鳥の不審死を調査するとかでどっかに出掛けたわよ。いつ帰ってくるかは知らないけど、今夜の宴会にはいるだろうし、用があるならそのときに済ませることを勧めるわ」
「あのっ」
膨らんでいく懐かしさは願望となり、願望は期待へ、期待は確信に変貌する。彼女は私のことを知っているはずだ、と。
私は、私の深層心理は、一刻も早く知りたかった。私のことを。
でなければ、私は、わたしは……!
「あいつらに幹事を押し付けられて機嫌が悪いの。お願いだから邪魔しないで」
氷のように冷たい拒絶。ブロンドの髪の隙間から覗く表情は、疎ましげで。
足が竦む。まるで、溺れかけているのに誰にも助けてくれないような。
だから私は、諦めず手を伸ばす。直ぐ側に立つ彼女が引っ張り上げてくれると信じて。
「まって! 私の事、知らない……?」
精一杯、私は問う。
この場で私を救ってくれるのは、貴方しか居ないのだと伝わるように。
彼女は手を止め、くるりとこちらを向き、一言だけ呟いた。
「知らない」
一瞬だけ、青みがかったカチューシャを身に着け、群青色のスカートを穿いた幼い少女が見えた、そんな気がした。
◆
凄まじい否定のされようだった、と博麗神社での件を振り返り思う。いや、自分がそう感じただけで、彼女はそこまで感情を込めていなかったかもしれないが。
それにしても、アリスさん――あの後にこいしが、彼女の名はアリス・マーガトロイドだと教えてくれた――に対して感じた想いは、一体何だったのだろうか?
ノスタルジーにも似たその想いは、博麗神社そのものに対して感じていたそれと、確かによく似ていて。
これらには共通点があるということなのだろうか?
わからない、何もわからない。
結局、アリスさんからはなんにも情報を得られなかったわけで、手掛かりは一つもない状態、つまり何も変わっていなかった。
「彼女に何か訊くにしても、もう少し段階を踏むべきだったわね」
「……はい」
私の考え事を知ってか知らずか、こいしはそう突っ込んできた。まあ、彼女の指摘はもっともなのだが。
気掛かりなのは、私が、私の深層心理が、あんなにも焦っていた理由だ。急がねばならない訳があるのだろうか? 自問しても、答えが返ってくることはなく。
「せめて、もうちょっと愛想良くしたら? そしたら、あんなふうに突っぱねられることはなかったんじゃないかなー」
「あれは単に作業を押し付けられた事に苛立っていただけで、そのフラストレーションがたまたま私に向けられただけだから。……多分」
それでも、なんとなく傷ついたのは確かだった。私が勝手に期待した結果だとはいえ、辛辣に見えた態度は、どうしても後味の良くないものが残り続けていて。
「ほら、二胡ちゃんなんだからニコニコして!」
「それは仮名だし」
自分を気遣ってくれたのか、それとも無意識にそうしただけなのか。彼女の励ましに苦笑いを浮かべながら言葉を返し、目の前に迫ってきた人の脇を抜けた。
閑古鳥が鳴いていた博麗神社とは打って変わって、辺りは人でごった返している。時刻は昼過ぎ。人間の活動が最も活発になる時間帯。
……あれから私は、こいしの提案で人里に来ていた。
こいし曰く、アリスさんは幻想郷でも有名な魔法使いらしい。であれば彼女は妖側の存在だ。彼女が知らないということは、私は妖怪サイドには知られていない人間、ということになる。
幻想郷で人間といえば、最も多く住んでいる地域である人里。そこを歩きまわっていれば、私を知っている人が向こうから話しかけてくれるかもしれない。記憶を失う前の私が、人里を拠点としていたのであれば、だけど。
だが、少しでも可能性があるのなら、神社で巫女を待つよりも、足を運ぶほうが得策だと考えた。
立ち止まってなどいられない。待ってなどいられない。
私は知りたいのだ、一刻も早く、私のことを。
……加えて、アリスさんとの間に流れていた気まずい空気に耐えられなさそうだったからというのもある。
それにしても、と私は思う。
妖怪が起こす異変を解決する専門家なのであれば、妖怪側に私の存在が知られていてもおかしくないのでは? もしかすると、妖怪に知られぬまま退治するという正体不明の専門家なのだろうか? もしくは、参謀的な立場の人間で、人を動かし間接的に異変を解決していたということなのだろうか?
……或いは、まさか、私は、異変解決の専門家ではない?
いや、それはありえない。仮にそうだとしても、自分がその専門家だという確信は、一体どこから来たものだと説明する? 私の思い違い? 私が、間違っている? そんなはずはない、と深層意識が否定する。
分からない。
自分自身を疑っていると頭が痛くなってくる。一旦脇に置き、別の話題をこいしに振った。
「人里ってあんまり妖怪が闊歩していていい場所じゃないでしょう? 大丈夫なの?」
第三の眼を揺らし、堂々と歩くこいしをみて私は言う。人里を妖怪がこんな堂々と歩いていたら恐れられるに決まっている。現状、彼らは彼女を無視しているが。
「へーきへーき。私は無意識を操れるの。だから、常に人間の無意識の中にいるよう気をつければ、誰も私を感知できない」
「じゃあさ、何で私はこいしちゃんの事を認識できてるの?」
「調整してるからだよー。あ、これ貰ってくねー」
こいしはそう言いながら露店から桜餅を盗み、普通に食べた。犯罪である。だが、店主は目もくれない。気がついていないようだ。
「それにしても、話しかけられる気配が全く無いね。無意識の中にいる私みたい」
彼女の指摘通り、今の所収穫は皆無だった。一時間ほど散策し、人里の主だった場所には足を運んでいるにもかかわらず。
誰も彼もが、私を通行人の一人として扱い、気にも留めず、歩き去る。
老若男女が、私を背景の一部として扱い、歯牙にも掛けず、立ち去る。
皆が皆、私に気が付かない。私という存在を、自らの意識から押しやっている。
徒に、時間だけが過ぎていく。
「以前の私は、あんまり有名じゃなかったってことなのかな」
「みんなに知られていないって、こういうときに不便ねー。これからはもっと派手に暴れて知名度を上げたほうが良いよ? 何なら今からでも暴れておく?」
「お断りします」
今の私の知名度を上げたところで、記憶を失った状態である今の私の知名度が上がるだけだ。何の意味もない。騒ぎを聞きつけて以前の私を知る人物がやってくるかもしれないが、この現状を見る限り、可能性は低いだろう。
私が知りたいのは記憶を失う前の私であり、皆から、世界から受け入れられていたであろう以前の私なのだから。
……つまり、今の私は、
「世界に、受け入れられていない?」
突拍子もない言葉だったが、現状を形容する言葉としては、これ以上ないくらいに正鵠を射ていた。
うつむきながら思考を巡らせる。
私の心からの焦りも、認められたいという想いも、この世界から爪弾きにされている現状に起因するものではないのか。
もしかすると、記憶を失う前の私は、世界から――世間から? 皆から?――受け入れられることがなく、その時に感じ、内に秘めていた孤独感が、記憶を失ったことで噴出しているのではないか。
だが、それならば、以前の私を取り戻したとしても、この蟠りが解かれることは、無いのでは?
そうであったとしても、今の私が出来ることは、記憶喪失より前の――深層意識の言葉を借りるなら、特別な――私を思い出すことだけ。
……世界から受け入れられることがなかった、異変解決の専門家。
私は一体、何なのだろう。
ぼうっとしていると、私達の傍を子供が走り抜けていった。
「また人面犬が出たんだってさ!」
「こわー!」
他愛も無い話をしながら。不思議な唄を歌いながら。純粋に笑いながら。とても、楽しそうに。
ふと顔をあげると、そんな子供たちが垣根で仕切られた敷地から出てきては、方方へ走っていく。
よく見ると、入り口と思しき場所には寺子屋という看板が掲げられていた。
全く思い出せないが、自分もこういった所に通っていたのだろうか。そんな事を思っていると、こいしが口を開いた。
「あー、もしかしたら、ここの先生が貴方のことを知っているかも」
「どうして?」
「なんでも、幻想郷の歴史を編纂しているんだとか。異変に詳しいかも。
自警団にも顔が利く人らしいし、幻想郷の人間で行方不明になった人物の情報とか知ってそう」
彼女の話が本当なのであれば、私を知っている可能性は高い。
偶然寄りかかった場所で情報を得られるとは思っていなかったので、私の中で期待がどんどん膨らんでいく。
居ても立っても居られず、私は寺子屋から出ていく子供たち――恐らく家へ帰るのだろう――の間を縫って入る。
垣根の中はそこそこ広く、複数人で運動ができそうな庭と、中規模な平屋が一つ。
その建物の入り口の側に、女性が立っていた。彼女は子供たちを笑顔で見送っている。どうやらここの先生らしい。
逸る気持ちを抑えられず、私は足早に駆け、彼女に近づいた。すると、彼女の方から話しかけてきた。
「寄り道せず真っ直ぐ帰るんだぞー。……あら、こんにちは。寺子屋に、なにか御用でしょうか?」
「あ、えっと……。私自身のことについて、知りたくて」
我ながら、よくわからない返答をしてしまった。
女性は目をしばたたかせつつも、逡巡した後、小さく微笑んでから、中に入れてくれた。
通された部屋、彼女が敷いてくれた座布団の上に腰掛け、側に二胡を置く。ただし、こいしのことは認知していないようで、彼女の分の座布団が用意されることはなかった。
「私の名前は上白沢慧音。ここ、寺子屋で子供達に歴史や簡単な算術などを教えたり、幻想郷の歴史の編纂を行ったりしています」
「ご丁寧に有り難うございます。私も自己紹介を、と言いたいところなのですが……」
名前を始めとした記憶を失っていること、幻想郷に関する知識は知っていたらしいということ、そして異変解決の専門家ではないかと考えていることを伝えた。
幻想郷に詳しいのであれば、私を知っているはず。深層意識から期待が湧き上がる。
私が何者なのか。きっと漸く答えが得られるはず。話を進めるたびに期待が高まる。
全てを吐き出した時、私の口角は釣り上がっていた。
だが、それに反するかのように、慧音さんは困惑した表情を浮かべていて。
まさか、いや、でも。
「申し訳ないのですが、貴方のような方は私がここに住み始めてから見たことがないですね……」
期待を裏切る言葉だった。
奈落へ突き落とされたかのような、絶望感。世界の彩度が急激に変化したように感じ、めまいに襲われる。
「……ぁ」
段々と肩が震えてきた。
それを知ってか知らずか、慧音さんは説明を続ける。
「私は半人半獣、白沢。幻想郷の歴史を消したり作ったり出来ます。
そもそも歴史とは、人々が記憶した事実を過去のものとし、誰かの手によって歴史という形にする必要があります。そうでなければ、人間の殆どは、数日経てば細部を忘れ、数年もすればほぼ忘却してしまうでしょう。
何を幻想郷の――特に人里の歴史にするかは、基本的に私が、人間に利するかどうかで判断しています。
幻想郷と深く関わる出来事で、人間に利する行為といえば、それは異変の解決でしょう。
異変は、妖怪などが幻想郷規模で起こす異常現象のこと。それらは大抵、人間にとってはた迷惑な事。それを解決したのであれば、人々から称賛され、私の手によって歴史にされて然るべきです。
だが、私が編纂した中では、君が異変を解決したという歴史は、無い。無論、それを消したこともありません」
理路整然とした解説。わかり易く丁寧なさまは正に教師なのだと感じさせるには十分で。
しかし、それは、私の心に追撃を食らわせるに十分な威力を秘めていて。
この幻想郷の歴史を知る人物から否定されるということは、この世界から否定されている事と同じではないか、そう思えてならなかった。
「……私と似た能力を持ち、誰にも悟られずに君を歴史から抹消したのであれば、それこそ異変だ。残念ながら、私の手には負えない」
抹消。その単語が、妙に心に引っかかる。
話を区切るためか、咳払いをしてから、彼女は言った。
「この目に狂いがなければ、君は普通の人間……大方、外界の住民だろう。幻想入りする際に記憶に齟齬が発生したのかもしれない。よく見るパターンだ。違和感があるかもしれないが、心機一転、これから幻想郷に馴染むというのも」
「いや! 私は、私は元から幻想郷の住民、なんです……」
ほぼ無意識、いや心の奥底の声に乗っ取られたかのように私は食い気味に叫んだ。それでも、言葉尻は小さくなり。
「……急に大声を出してしまい、申し訳ありません」
視線をそらすように顔を伏せ、謝罪をする。
「こちらこそ無神経なことを言ってしまった。謝るよ」
居心地の悪い空気と、沈黙が流れる。
暫しの後、そうだ、と呟き、
「稗田阿求と呼ばれる、幻想郷の記憶と言っても過言ではない少女がいる。念の為そちらを当たってみると良い。確か今は命蓮寺にいるはずだ」
微笑みながら、別の案を提示してくれた。
精一杯の気遣いが伺え、とても辛かった。
◆
昔の私を思い出し、それを認めてもらいたいのに対し、世界は私を必要としていないと言わんばかりに、拒絶していく。
私と世界の考えが、根本から食い違っているかのような。
食い違いから生じる違和感は、焦りとなっていた。その焦燥感が、更に私を以前の私と世界へと向けられる。
別に時間制限があるわけでもないのに。いや、あるのか? 或いは、もしかすると、何かの拍子でまたもや記憶を失ってしまうかもしれないという危機感からきているのか?
もしも幻想郷に関する事実さえ忘れてしまったら。もう私は、以前の私に戻ることは出来なくなってしまうのでは?
分からない。わからないことだらけ。深く考えてしまうと、また取り乱してしまいそうで。
陽がかなり傾き、赤くなった空を背に、トボトボと歩く。
「元気だしなって。はい、鯛焼き」
「……ありがと」
くすねたそれを受け取り、口に運ぶ。パサパサとしていて、しつこい甘さが舌に絡みついてきて、不愉快だったが、彼女の心遣いは有り難かった。
「稗田阿求ならきっと知ってると思う。なにせ、一度見たものや聞いたものを忘れない能力なんてのがあるんだから。きっと、二胡ちゃんのことも知っているはず。
……そろそろつくよ」
半ば呆然としながらこいしに連れられるまま歩いていると、目的地である命蓮寺に近づいていた。
大きさは、今まで里の中で見てきたどの施設よりも大きい。中からはお経が聞こえてきた。そこそこ賑わっているようである。
……だが、と思う。
このような施設は、幻想郷にあったか? という違和感が深層心理から湧き出てきた。
なんとも言えないズレに困惑しつつ、境内を掃除していた妖怪に声を掛ける。来客に会いたいと言うと、いま住職と話しているがそろそろ帰られる時間だからと言われて、その部屋まで通された。
縁側では白髪の少女と頭巾をかぶった少女が囲碁を打っており、部屋の中心では尼の格好をした女性と、着物を着た少女が向かい合っていた。
突然の来客に二人は驚いた様子だったが、稗田阿求という人に用があると話すと、尼は席を外した。こいしとともに少女と向き合う。
そして、慧音さんに話した事と同じ内容を、彼女に伝えた。
話している最中の私は、もはや縋るような思いだった。もう、十分苦しんだのだから。もう、助かってもいいでしょう。もう、楽にさせてくれてもいいでしょう。
何に対して懇願しているのかは、判らなかった。
「自己紹介と、現状説明、ありがとうございます。礼儀として、私も自己紹介させていただきます。
私の名前は稗田阿求。稗田阿礼から代々受け継いできた求聞持の能力を持っています。一度見たものは忘れませんし、先代以前の記憶も継承しています。
だからこそ、断言できます。貴方が異変解決の専門家というのは、単なる記憶違いである、と」
……そんな私の思いとは裏腹に、世界は、残酷だった。
あまりにも、あっさりと否定された。
あまりにも、簡単に突き放された。
私の願いを擦り潰すかのように、少女は続ける。
「異変を解決する者は、博麗霊夢、霧雨魔理沙、十六夜咲夜、最近では東風谷早苗などです。明確な制度や規則という確固たる定義があるわけではありませんが、彼女達の武勇伝は知られていますし、認知されています。いわば、異変を解決したという事実が周知されている者であれば、異変解決の専門家と言えるでしょう。
では、貴方は? 誰も知らない専門家なんて、存在するはずがないのです。それは、私の記憶が証明できます。異変を解決したという事実が周知されているのであれば、私の耳にも届きますし、記憶され、幻想郷縁起の英雄伝にも書いてあるはずですから」
そう言いながら、彼女は袖から一冊の本を取り出し、私に見せた。あれが、幻想郷縁起なのだろう。
「そもそも、貴方が解決したというのは、どのような異変なのですか? 最近の逆様異変? 神霊異変? 永夜異変? ……それとも、紅霧異変? 或いは、名前もついていない何か?」
幻想郷で起きたであろう異変の数々。その名前を聞き、なにかに突き上げられるかのような衝動により、立ち上がった。
「紅霧異変」
認識し、口にすると、朧気ながら記憶が蘇ってきた。
霧に包まれた世界を。
紅色の幻想郷を。
吸血鬼が起こした、異変を。
「そう、それだ、私は、紅霧異変を」
「紅霧異変を解決したのは博麗霊夢と霧雨魔理沙ですよ」
私の言葉を遮るように、少女は幻想郷縁起をめくりながら、彼女はそう答える。
ならば、私の名前は博麗霊夢? いや、違う。
では、霧雨魔理沙? 違う。違う!
だが、でも、私は解決したはずだ。いや、解決した? 立ち向かったか? 未だ解決していない?
重大な手がかりを得たにもかかわらず、疑問は止まらない。自分がわからない。世界もわからない。なにもわからないまま。
懐疑心は恐怖となり、凄まじい悪寒となり体を襲い、座ることも、動くことも出来ず、私は黙ったまま立ち尽くす。
すると、少女が口を切った。
「数代前の記憶まで遡ってみましたが、あなたの顔は見たことがありません。貴方は、人里どころか、幻想郷の住民であった事実すらありません」
私の確信を更に踏みにじるかのような事実を、さらに突きつけられる。
そんなのうそだ!
では、幻想郷に関する知識を覚えていたのは何故だ? 説明がつかないじゃないか!
「第三者による強制的な結界侵犯、それに起因する幻想入りでは、しばしば記憶の混濁が起こるとされていますし、貴方もその類でしょう。気にすることはありません」
ちがう、ちがう、ちがう……。そんな都合のいい話なんて無い、在るはずがないのだ……。
「記憶のことはさておいて、貴方は外来人として処理されるでしょう。まあ記憶喪失者を外の世界へそのまま放り出すのも憚られることですし、新たな幻想郷の住民としては迎えられると思いますよ」
「いやぁ! ちがう! それじゃ、ダメなんだ……」
叫んだ。叫んだって、世界の認識のズレが矯正されるわけでもないのに。それでも、絶叫しなければ、深層意識から膨れ上がる絶望感に押しつぶされて、どうにかなってしまいそうだった。
何が間違っているのだ? 私? 世界?
わたし?
ちがう! だから、違った形では受け入れられたくない。歪な形では認められたくない。
わたしはわたしなのだから。記憶を失う前のわたしという、存在があるのだから。
思わず、二胡を握りしめ、飛び出てしまった。
◆
茫然自失なまま、走る。なにかから逃げるために。何処かへたどり着くために。
彷徨うように走っていた所為か、ふと気がつくと、いつの間にか森の中に居た。辺りは、起きたときよりも遥かに暗く、木々の間から、辛うじて星の光が見えるくらいで。時刻は既に夜だった。
道はなかった。生い茂る草や根っこに足を取られ、転びかけても、私は走るのをやめなかった。やめられなかった。
だが、そんな私も、何かにぶつかり、尻餅をついてしまっては、止まらざるを得なかった。
ゆっくりと顔を上げる。マントを身に纏い、帽子を被った少女と、紫色の球体が見えた気がしたが、それらは唐突に消失してしまう。
幻覚かと思っていると、別の存在がいることに気がついた。
闇夜と溶け合っているかのような真っ黒な服。赤いリボンと共に揺れる黄色い髪。血のように真っ赤な瞳。そんな少女が、満月の下、両の手を真横へピンと伸ばし、宙に浮いて、
「こんな暗い暗い森の中をほっつき歩いているだなんて、命知らずな人間も居たものねぇ」
「……」
ぁ、
「まあ仕方ないわよね。こんな危ない所に一人でいる貴方が悪いのよ? こんな闇夜に一人でいる貴方の所為なのよ? 自業自得。だから……ね、貴方は、食べられても良い人類なのよ」
彼女が近づく。私の腕を掴まんと、手を伸ばす。私の首を噛み切らんと、口を開く。ほおずきみたいに紅い口腔が見えた。
「……ルーミア」
「本能『イドの解放』!」
あと数センチというところで、背後から声がしたかと思うと、青色の触手が私の体を引っ張り、ルーミアから引き剥がす。同時に彼女にハート型の弾幕が直撃し、吹っ飛んでいった。
「大丈夫!? 全くもう。突然何処かへ行っちゃうんだから、追いかけるのに苦労し――」
地面に倒れた私は、こいしに話しかけられていた。
でも、そんなの、どうでもいい。
「ルーミア! 私が解決すべき異変、そこに立ちふさがる第一の敵! 闇を操る人喰い妖怪!」
思い出した情報を吐露していく度、記憶が連鎖的に蘇る。敵の事。世界の事。そして――
「ど、どうしたの」
「まだだ、チルノ、美鈴、パチュリー、それから、それから……!」
私のことを。
「思い出した……」
やっと、やっと。私を取り戻すことが出来たのだ。
「……貴方、誰?」
呆然とするこいしを一瞥し、私は立ち上がり、口にする。真実を。絶対に揺るがない、真実を。
「私の名は……そう、冴月麟。
紅霧異変を解決する者。
そう、私は冴月麟なのよ。やっと思い出せた。漸く思い出せた!」
「でも紅霧異変はもう解決済みだって」
恐らく、紅霧異変と関わりのあるルーミアを見たことで、記憶が完全に蘇ったのだ。偶然とはいえ、彼女には感謝しなければ。
だが、良いことばかりではない。急に記憶を取り戻してしまった弊害か、猛烈な頭痛に襲われていたのだ。悪寒は相変わらず続いている。視界も歪んで見える。
それでも、成し遂げなければならないことが在る。
それは、紅霧異変を解決し、世界から私の存在を認めてもらう事。
こいしに構っている暇などなかった。この倦怠感に飲み込まれてしまう前に、異変を解決しなければ。
冴月麟として。
既に、私にはわかっていた。異変の首謀者は今、この付近に――博麗神社にいると。
気配がするのだ。禍々しくて、幼い妖気が。
その気配に向かって、体を引きずりながら走り出す。
博麗神社に近づくに連れて、騒音が大きくなり、鼓膜を乱暴に叩く。何人居ようが関係ない。私のターゲットは一人だ。
数分もせず、私は博麗神社の裏庭にでた。
どうやら、宴会中のようで。人妖が入り乱れながら酒を酌み交わしている。
有象無象を掻き分けながら、奴を探すと、すぐに見つかった。
見たことのない顔が騒がしくしている最中、目標は、活気づいている空間から一歩離れたところに座っていたのだ。
堂々と。異変の首謀者たる風格を漂わせながら。
「レミリア……!」
頭を抑えながら、敵の名を呟く。
レミリア・スカーレット。紅魔館の主にして、運命を操る能力を有する、吸血鬼。
私が解決するべき、紅霧異変の主犯。
彼女を、視界に捉える。
奴もこちらに気が付いたようだ。羽をぴくりと震わせ、双眸が私を睨みつける。
先手必勝だ。
袖からカードを取り出す。
スペルカードを。
そして、宣言する。彼奴を倒すために。紅霧異変を終わらせるために。
私が、異変を解決するために。
私が、世界に居るのだと知らしめるために。
「風符『――――」
刹那、世界が暗転した。
◆
博麗神社の境内で催される、夜桜見物を兼ねた宴会は、今日も賑わっていた。
人と妖とが入り混じり、酒を酌み交わし、食べ物を貪る。
共に笑いあい、にらみ合い、分かち合う。
その様は、まさに幻想郷の縮図のように見えて。
いつもどおりで、普段どおりで、有り触れた宴会の光景。
博麗霊夢もまたご多分に漏れず、茣蓙に座り込み、盃を呷っていた。
注がれた酒をぐいと飲み干し、酒気の混じった吐息を吐く。
そんな彼女の視界に、何かがちらりと映り込んだ。
勘が何かを訴えていた。再び捉えんと、霊夢は何かが居た方向へ視線を向ける。
「ん、どうしたんだ? 霊夢。変な方向をじろじろとみて」
隣で酒を飲んでいた魔理沙が、訝しげな目線を浮かべる彼女に問いかける。
暫く唸っていたものの、霊夢は諦めたのか、盃にお酒を注ぎながら答えた。
「誰かが歩いていたんだけど、そいつ、なーんか、どっかで見たことがあるような顔だった……気がするのよ。巫女服っぽい服を着た奴でさ。でも、名前も何も思い出せない」
「私の姿に化けた狐かなんかが、お前の巫女服を盗んで着てたんじゃないか?」
以前に自分自身に化けていたという化け狐を想起しながら、アルコールで曖昧となった思考から適当な推理をでっち上げた。
霊夢もまた、適当な相槌を打つ。
「きっとそれだわ。あとでとっ捕まえて狐鍋にしなきゃ」
「それか、妖精のイタズラか」
「妖精鍋って美味しいのかしら?」
「そんなゲテモノより、人の血の方が美味しいわよ」
二人の背後から声がする。振り返ると、そこにはレミリア・スカーレットがワイングラスと赤ワインの瓶を手に悠々と立っていた。
「じゃあ人間だったのかな?」
「じゃあって何だよ。ていうかレミリア、何の用だ?」
魔理沙がそう訊くと、レミリアは二人の正面に座り込み、嘲笑いながら答える。
「随分と、懐かしい運命を見たような気がしてね」
吸血鬼が指を鳴らす。すると、瞬時に十六夜咲夜が現れ、主のグラスに手際よくワインを注いだかと思うと、忽然と消えてしまった。
「私と霊夢は無視かよ」
魔理沙はそうぼやきながら、自分と霊夢の分を盃に注ぐ。
「乾杯」
彼女達の口から自然と漏れた言葉は重なり、器同士がカチリと音をたてる。
レミリアはグラスを軽く回し、その芳醇な香りを堪能していたが、霊夢と魔理沙はそのままぐいと一気に飲み干してしまう。
「風情がないわね」
「眼の前に酒があるなら、さっさと飲むに限るもんだ」
魔理沙はそう返し、皿に盛られた料理をつまむ。今日はアリスが幹事を務めている影響か、料理は洋食に偏っていた。
一方の霊夢は、盃から面を上げ、そういえば、と呟く。
「変な奴って、結局なんだったんだろう」
「まあ、最近の動向からして、都市伝説の何かだろ。トイレの花子さんとか、口裂け女とか?」
冬頃から、幻想郷では怪奇現象が多数発生していた。
桜が咲き誇る春となっても収まる兆しが無いものの、影響は微々たるもので、住民の殆どは既に気にすることも無くなっていたのだった。
「都市伝説?」
レミリアは黒い羽をぴくりと動かし、首を傾げた。
「最近ちょくちょく発生してるんだが、レミリアは知らないのか? 遅れてるぜ」
ニィと口元を歪ませて、魔理沙は軽く煽る。
「生憎、最近は深窓令嬢だからねぇ」
「じゃじゃ馬の間違いだな、それは」
「こういう減らず口を効く奴と顔を合わせないようにするために、最近はゆっくりしているの」
「隠しすぎると、腐るぜ。元々無い脳以外な」
短い掛け合いの後、二人は同時に立ち上がる。
レミリアは両の手を胸の前に当てながら。
魔理沙は箒を手にし、帽子のつばを弾きながら。
「月は紅くないけれど、久しぶりに暑い夜になりそうね」
「まだまだ涼しい夜が続くぜ、春だからな」
奇妙な魔法使いと永遠に紅い幼き月が飛び立つ。数秒後、弾が飛び交う音とレーザーが空気を切り裂く音が境内を支配し、夜空が血と星屑に染まった。宴会の席からはあちこちから歓声が上がっている。
それはまさしく、幻想郷の縮図だった。
いつもどおりで、普段どおりで、有り触れた宴会の光景。
その様子を見ながら、永遠の巫女はほんの少しだけ、口元を緩ませて、また酒を飲んだ。
……幻想郷の住民は、見かけた少女の事を有耶無耶にし、霧散させてしまった。
当たり前だ。見知らぬ少女がどうなろうと、大したニュースでは無いのだから。
◆
気がつくと、私は教会のような建物の中、その中心に立っていた。
壁一面にはめ込まれたステンドグラスから光が差し込んでいるものの、中は薄暗い。
左右対称に並べられた長椅子には、誰も座っていない。
そして、周囲には十字架があちこちに散乱していた。
「……貴方のお陰で助かった」
「全く、完全に思い込む前に介入できてよかったよ」
祭壇と思しき場所の壁には、ステンドグラスの代わりに丸窓があり、その目前には、二人の少女が並んで立っていた。
一人は、黒い帽子を被り、ブロンドヘアで、黒い服を着てスカートを穿いた少女。
もう一人は、赤い帽子を被り、緑の黒髪で、巫女装束に似た服を着ている少女。
彼女達は互いに言葉を交わしたかと思うと、黙ったまま私をじいと睨みつけてきた。
一瞬だけ困惑するも、私の成すべきことを思い出し、彼女達に問い質す。
「ここはどこだ? お前達は誰だ? 私は今すぐレミリア・スカーレットを倒さなければ!」
距離を詰めるために彼女達の方へと歩き始めると、ブロンドヘアの少女が黒髪の少女の前に立ち、口を開いた。
「落ち着きなよ」
「落ち着いていられるか! 私は、異変を解決しなければ!」
どうして私は博麗神社から移動したのだ? まさか紅魔館の住民による仕業? そうだ、確か時を止めることが出来る存在が、十六夜咲夜が居たではないか。彼女によって別の場所へ移動させられたに違いない。
では、彼奴らも紅魔館の協力者に違いない。
敵であるならば、倒すのみ。
「ほんとうのことを教えてあげなよ」
黒髪の少女がぶっきらぼうに呟くと、ブロンドヘアの少女は頭を抱えながら、言葉を発し始める。
「単刀直入に言ってあげよう」
聞くだけ無駄だ。時間の無駄だ。さっさと倒して、レミリアの元へ戻るだけ。
歩き、走り、距離を詰める。
少女達は、私を見据え、動かない。無防備だ。
「キミは」
さっさと勝負をつけるために、スペルカードを取り出し、
突きつけ、
「冴月麟ではない」
「…………ぇ」
突きつけられなかった。
カードが握られているはずの手は、空だった。
「いま、キミの意識を支配している情報や役割そのものが冴月麟なのさ。彼女は情報だけの存在だから、実体がない。だから、スペルカードも名前だけ。発動することもできやしない」
「……いや、うそ、なんで」
急に体から力が抜け、膝から崩れ落ち、倒れる。
天井には何故か、夜空が広がっていた。星が瞬き、私を見下ろしていた。
「反対に、キミ……そう、その二胡を握りしめているキミは、姿しか存在しないモノだった」
ブロンドヘアの少女は、淡々と述べる。嘘を。偽りを。
騙されるな。嘘つきめ。誑かすな! 私は、わたしは! わたし、は……。
……いや、嘘なんかじゃない。
彼女の言うことは本当だ。真実だ。
私は朧気ながら思い出していた。
世界と溶け合っていた時の事を。
「冴月麟には実体がない。だから世界から認識されることはなかった。
対するキミは、名前も記憶も、役割も、運命もない。ただそこに在るだけの存在だったから、世界と溶け合っていた」
そうだ、そして、出会ったのだ、彼女と。
名前と役割以外、何も持っていない少女と。
いま、私の心の中にいる、少女と。
「キミが世界と同化しているところに、偶然にも冴月麟という実体のない情報が憑依した。お互いの欠けた部分を補完するかのように、ね。そして、幻想郷内に出現できた。
そこでの体験から、キミは自分自身を冴月麟だと思いこんでしまった」
私を突き動かす衝動は、ほぼ決まって深層意識から湧き上がっていた。それはつまり、私自身の想いではなく、冴月麟の想いだったのだ。
「でもそれは、自分自身に嘘をつくことになる。
何故なら、冴月麟は冴月麟であり、キミはキミだ。キミが冴月麟になってしまえば、キミは消えてしまう」
そうであろうとなかろうと、私は彼女の意思に――冴月麟の声に従った。
どんな形であれ、一つの存在として、名前があるものとして、世界という大枠から切り離され、受け入れられたかったのだ。
たとえ、私の意思を失ったとしても。
私もまた――認められたかったのだ。
幻想郷の住民として。
だが、それももう叶わぬ願いとなってしまったらしい。
私を形作っていた冴月麟という情報が溶け出ていく。私が私であり、冴月麟ではないことを認識させられてしまったからだ。
名前も役割もないモノは、存在しないモノと同じ。他のモノと区別が付かず、世界と同化してしまうから。
ならば、また、曖昧な存在になってしまうのか?
自分を根本から失う恐ろしさが、波のように襲いかかる。消えていく感覚が、奥底から押し寄せる。体の震えが、止まらない。
世界に溶けていく。個を失う恐怖。
逃れる術は、もう無かった。
抵抗する熱量も、無かった。
押し潰されかけた心から溢れた感情は、冷たい涙となり、外へと零れ落ちてゆく。
視界が、星空が、光が、歪む。
「いやぁ……」
いやだ。嗚咽を漏らし、呟く。
「わたしはたしかにここにいるのに、だれも、わたしをみてくれない……。わたしをみとめてくれない……」
なぜ? わたしだけ、名前を与えられなかったの?
どうして? わたしだけ、役割を得られなかったの?
わからない、わからない。わからない……。
「きえたくないよ……」
空へ手を伸ばし、希う。
誰にも届くはずのない、か細い言葉。
「ここならキミも、冴月麟も、大丈夫だ」
しかし、予想に反して、想いは誰かに汲まれていて。
誰かは私の手を握りしめ、抱き起こすと、指でつぅと頬を撫で、涙を拭った。
視界が鮮明となる。眼の前には、ブロンドヘアの少女が微笑んでいた。
わたしは、消えていなかった。
「どう、して?」
少女は口を歪ませ、赤子に聞かせるかのような優しい口調で話しだした。
「……楽園も、そしてその住民も、不変ではない。在るモノ達から絶えず影響を受け、或いは互いに影響しあい、変化している。
ここに来るまでに出逢った人妖や場所のうち、ひどく懐かしい想いに駆られるモノは無かったかい? それらが、形を変え遺された旧き幻想だ。彼等は、ボク達とは事情が似て非なる者さ。
そう、変化する事が出来るモノも在れば、変化する事が出来無いモノも在る。
楽園から取残された幻想。
楽園から見放された幻想。
楽園から突放された幻想。
楽園から棄てられた幻想。
楽園から忘れられた幻想。
そういった幻想が萃まる、もう一つの楽園。それが、ここさ」
「もう一つの、らくえん……」
うっとりするほど甘美で、魅力的で、魅惑的で、素敵な響きだった。
「名前もない、役割もない、変化もない、閉じた、完全な存在。そして、想いで安易に何もかもが変容してしまう、曖昧な存在。それはまるで――人形のような。それが、ここにいる私達」
また別の声がする。目線を動かすと、黒髪の少女がブロンドヘアの少女の後ろに立ち、私を見下ろしていた。
「ちなみに、私も貴方と同じ。名前も役割も、繋がりもない。或いは、既に失われてしまった」
「ま、名前も役割も無いのは、在る種の強みなんだけどね。何者でも無いということは、何者にもなれる。そして、その性質はとあるものの本来の姿と同じで……この話はまた今度にでも」
彼女達の言っていることは、筋が通っていた。どうやら確からしいとも思えた。
でも、どこか信じきれていなかった。
それは、幻想郷でずっと期待を裏切られ続けてきた結果だろう。
願望が失望へと変わる、絶望。それを、何度も何度も経験してきたからだろう。
だから私は、問うた。
「ほんとうに、私を、受け入れてくれるの……?」
私の体を抱きかかえている腕にしがみつきながら、唇を震わせ、言葉を発する。
ブロンドヘアの少女は、顔をほころばせながら私の髪を撫で、答えた。
「そのままのキミを受け入れよう。ありのままのキミを認めよう。
ここでは、キミの在りたい様に在っていいんだ。髪の色だって、ブロンドでなくてもいい。リボンや服の色だって、紅白でなくてもいい。見ず知らずの人間の言葉に――想いに、振り回される必要はないのよ」
彼女はそう優しく言い切ると、私の体を力強く抱きしめた。
甘酸っぱい匂いが、私の鼻孔を擽る。
彼女の鼓動が、私の鼓膜を打つ。
黄金の髪が、私の視界を奪う。
彼女の熱は、確かに本物で。
それを受け止める私も本物で。
実体があって。
世界に――楽園から認められていて。
楽園に受け入れられていて。
「貴方は何者なの? 何でも知っていて、こんな私をも受け入れる、貴方は」
思わず溢してしまった、疑問。
ブロンドヘアの少女はそれを聞くと、クスクスと笑いながら私から離れた。そして、その場をくるりと回ってから、両手を広げ、楽しそうに答える。
その姿はまさに、何者からも縛られていない、自由を感じさせるもので。
「正直者かもしれない。最も美しいボクかもしれない。鳥人間かもしれない。U.N.オーエンかもしれない。或いは、全く無関係な人間かもしれない。
だが、いずれも、仮説だ。演繹たり得るものではない。ボクはボク、それだけでしかない。
ボクはその想いの隙間を突くことで、幻想郷とこことを行き来出来る。だから現に、こうしてキミ達を救い出せたのさ」
「君達……? 私の他には、誰が」
「冴月麟さ。キミの隣に居るだろう? 彼女も救出対象さ。姿はなくとも、ボクらと境遇は同じだからね」
ハッとなり、隣に意識を集中させる。
そして、確かに感じた。目に見えなくとも、確実に存在する、少女の事を。
……思えば、彼女のお陰で幻想郷に現れることが出来たのだ。こうして在るのは、彼女無くしては在り得なかった。
途端、私の心は冴月麟に対する感謝の想いで一杯となっていた。
同時に、目の前の少女にも感謝していた。
彼女の純粋な想いに。嘘偽りの無いその想いに、感謝をして――惹かれていた。
「……ありがとう。貴方も、冴月麟も。本当に、本当に……」
想いは言葉となり、暖かい涙となり、世界にこぼれ落ちていく。それさえも、消えることは無かった。
今、私はここに居る。
その幸せを噛み締めていると、ブロンドヘアの少女は、笑い、嗤い、嘲笑いながら、私に手を差し伸べた。
何者でもない、彼女が。
何者でもない、私へと。
「名付けられざる者、名前のみの存在。歓迎するよ、この蓬莱の地へ!」
何もない、空虚な、或いは何かに満たされた世界で。
自他の境界は、曖昧模糊。何処からが世界で、何処からが私なのか、判然としない。
そんな曖昧とした体だからか、私は五感で世界の汎ゆる情報を感じ取っていた。
けれど世界は、私を感じ取ることは出来ないようで。
私はただ、そこに在るだけ。何も出来ず、何もしていない。
……私は漂っている。
一体いつから、私はこうして漂っているのだろう?
不意に、思い出す。誰かが言っていた言葉を。
世界は、全てを受け入れるのだと。
とすれば、この様が、私に最も適した受け入れ方だった、ということなのだろうか?
判らない。
……私は、漂う。
この疑問に、私は何度思い至ったのだろうか。
この問いを、私は何度考えたのだろうか。
数え覚える間もなく、疑問は、思考は拡散し、世界と溶け合い、希釈されていく。
……はて、何を考えていたのだろう?
世界は答えない。私も答えを持ち合わせていない。
何にせよ、私はこれからも漂うのだろう。この世界を。
もうそろそろ、この意識さえ世界に拡散してしまうだろう。
そして再び意識を取り戻した時、また問うのだろうか。何かを。
「……――――!」
霞む意識の中、唐突に言葉にならない声のようなものが聞こえた気がして、
眼の前に形のない少女の姿を幻視た気がして、
私は、
◆
「今、貴方の隣にいるのー!」
「うわあああ!」
鼓膜を直接ぶん殴られたかのような衝撃で、私の意識は強制的に覚醒させられた。同時に、反射的に叫び声を上げ、立ち上がってその場から離れる。爆音の発信源から距離を取るために。
「あ、起きた。死んでたらお燐へのお土産になったのになぁ」
「びっ、びっくりしたぁ……」
胸に手を当て、乱れた呼吸を整える。掌から激しく脈打つ心臓の鼓動を感じた。
深呼吸を繰り返すと、動転していた意識が鮮明になっていき、暫くして周囲の状況を把握するための余裕を手に入れた。
どうやら私は、鬱蒼とした森の中にいるようだった。上空は木々に遮られているから薄暗いものの、青い空を確認できた。時刻はどうやら昼頃らしい。
周囲には看板や建物といった、人工物のような目立ったものはなにもなく、私の足元を通る踏み固められたような道が一本だけ。
「ねーねー、メリーさん怖かった?」
動くモノは、私以外には隣の少女だけだった。
少女は私の耳元で叫んだことを悪びれることなく、無邪気な笑顔を浮かべ、首を傾げつつ問う。
「……貴方、何者?」
質問を質問で返すのはどうかと思ったが、耳元で叫ぶような奴にしてやる配慮など無い。
そもそもと思いながら、浮かんでいる大きな瞳を見つめる。その瞳からは触手めいた管が繋がっており、それは服の裏側へと続いていた。どう考えても人外だ。であれば、人間の道理が通じるわけでもあるまい。
「私? 古明地こいし。こいしって呼んでいいよ。因みにメリーさんはオカルトね」
「こいしって言うのね。で、なんて妖怪なの?」
握りこぶし大の瞳を睨みつけ、問う。
「サトリだよ。まあ、この瞳、第三の眼っていうんだけど、これを閉じちゃったから心は読めないのよね」
「さと、り?」
「サトリね。心を読む妖怪のこと」
聞いたことがない妖怪だった。
「はいはい、次私が質問! 貴方はどうして真っ昼間から、こんな暗い森の中で倒れていたの? 妖怪にでも襲われた? 傷はなさそうだけど」
かと思うと、急に私の方へと歩み寄り、顔を近寄せて、そんな事を口早に訊いてきた。切り替えの早さに目をしばたたかせつつも、彼女が疑問を覚えるのも無理はない、と私は考える。
日中ではあるものの、たった一人で、妖怪が出てきそうな――というか眼の前にいる――こんな森の奥で倒れているだなんて、不自然だ。森林浴をしに来て、その休憩をしていたのだとしても、ここ以外でもっと適当な場所があるはずだ。
自分自身でさえ首を傾げてしまう先程までの状況。彼女や自分が抱いた疑問を解消するために、ここに至るまでの経緯を思い出そうとする。
けれど。
「……あ、あれ?」
思い出せない。思い出せなかったのだ。
頭を抑え、困惑する。過去の記憶を呼び起こすなどという、出来て当たり前な行為にしくじる自分自身に対して。
こんな非常識な状況になるまでの顛末を、私は忘れてしまったというのか?
いや、確かに、人間は記憶を忘れることが出来る。昨日の出来事の細部も、数年前の大まかな出来事も等しく。良くも悪くもだ。
だが、でも。
……嫌な予感がした。背筋に悪寒が走る。
私は、思い出そうとした。彼女に起こされるまでの過程以外を。
昨日のこと、一昨日のこと、去年のこと。何を食べた? 誰と逢った? 何処を歩いた?
そして、私自身のことを。
思いつく限りの事象を、精一杯想起しようとする。
だが、一つ確認するたびに、嫌な予感は、確信へと変わっていく。
あるはずのものがない違和感。手にすることが出来ない焦燥感。
それらが言葉にし得ない恐怖となり、重荷のように心にのしかかる。
私は、忘れてしまっていた。
昨日の出来事も。去年の思い出も。
……この世界に存在する全てに与えられているもの。自と他を分け隔てる境界。持っていて当たり前の存在。知っていて当然のもの。
そんな、自らの名前さえも。
「思い出せない! どうして私はここにいるの!?」
今まで何をしていたのか、どうしてここにいるのか、自己に関する殆どの記憶が欠落していた。……記憶喪失だ。
自らの身に襲いかかっている異常事態に、私は恐怖していた。森のなかで倒れていたという事実以上に。
その恐怖は、どす黒い悪寒となり、背筋を逆撫でる。吐き気となり、胃の中でのたうち回る。足の震えとなり、思わずしゃがみこんでしまう。
怖い。怖い! 恐ろしい!
「名前は何? 誰なの? 私は、このわたしは!」
私が私であるという私の私が私で、私?
私は何? 私は誰? 考えれば考えるほど、私が私でなくなっていくようで。わたしはわたしを見失ってしまうようで。
違う、私はわたし、でも、わたしではわたしをわたしだと確信できない。
だから、私は縋った。
「私を見て! 私を認めて! 特別な私のことを!」
叫びながら、体を引きずりながら、私は眼の前の妖怪に掻い付く。
誰でも良い。何者でも良い。誰かに私は私だと私に言い聞かせてほしかった。
「ちょ、ちょっと!」
彼女が抵抗したかと思うと、次の瞬間、私は天地がひっくり返った状態で宙に浮いていた。よく見ると、体に紫色の触手が絡まっている。
意識が自分自身から彼女へと移ったせいか、つい数秒前まで感じていた恐怖心がパタリと失せ、我に返ることが出来た。
出来たが、
「あの、頭に、血が」
「落ち着いた?」
「はい……多分」
「なら結構」
触手が解かれ、私は地面に叩きつけられた。背中が痛い。
別の痛みが体を襲うが、先程の恐怖に比べればましだった。
「えっと、つまり、記憶喪失ってこと?」
倒れた私の顔を覗き込みながらこいしが問う。私は黙ってこくりと頷いた。
「ならもしかすると、貴方は外の世界の住民なのかもしれないわね。幻想入りした衝撃で記憶を失っちゃうことがあるらしいし」
聞き慣れないとはまた違った違和感を抱く。ひっかかる。
「幻想入り……? 外の、世界……?」
仕方がないなぁとつぶやき、こほんと咳払いをしてから、こいしは飄々と説明し始める。
「ここは、人間と妖怪が暮らしている世界、幻想郷と呼ばれているわ。そして、幻想郷から見て、人間だけが暮らしている世界の事を指して外の世界と呼んでいるの。そして、外の世界から人や物が幻想郷に入ってくる現象が、幻想入り」
「げんそうきょう」
言葉をゆっくりと反芻しながら立ち上がる。何故だかは不明だが、頭の中に自然とスッと入り込んできた。頭の靄が晴れていくような感じ。言葉が引っかかったのはこの所為か?
こいしが告げた話は、聞いたことがあり、知識として有していたものなのではないか。
根拠はないが、確信はしていた。
「外来人だったら、ここで『妖怪なんているわけないじゃん!』って否定したり困惑したりするのが定番らしいけど、貴方はあんまり驚かないね。記憶喪失状態だって気がついた時の方が取り乱してたし」
「……きっと、記憶を失う前から幻想郷に居たんだと思う」
「サトリを知らない幻想郷の住民なんているかなぁ……。まあいいや」
思い返せば、私はこいしをみて妖怪だと断定していた。妖怪の存在を知っていたに違いない。幻想郷の住民なのだという確信が深まる。
「にしても、その様子じゃ名前も思い出せないようね。なんて呼んだら良いのかわからないのは不便ね……」
眉をへの字に曲げていたかと思えば、笑顔でこちらに迫ってくる。
「そうだ! もしかしたら服に名前が書いてあるかも!」
「いや……まあ見てはみるか」
否定しかけたものの、曖昧に頷く。記憶を失う前の自分が、持ち物に名前を書くほど几帳面で神経質な人間だったならば、可能性はあるかもしれない。
何処か巫女装束めいた服をひらひらとさせたり、鈴のような物がついたリボンを確認したものの、それらしい記述は何もなく。よく考えれば服に名前を書くなんて幼少期ぐらいだろう。自分が抱いていたあわよくばという思いは無残にも崩れ去った。
「あー」
すると、こいしが気の抜けたような声を上げた。
「何?」
「そういえば、貴方が寝っ転がっている傍に、こんなものが落ちてたの」
彼女はそう言いながら、何処からか道具を取り出し、私に見せる。
「弦楽器? みたいなんだけど、名前が判らなくてさー。でもお姉ちゃんへのお土産くらいにはなるか」
「二胡」
彼女の言葉を遮るように、私はその楽器の名を呟く。
琴筒が六角で、二本の弦が張られ、弓を用いて弾く弦楽器。
……そして、それは私の大切な物だ。
次の瞬間、私はこいしから二胡を奪い取っていた。
「――……あ、ごめん」
数秒後に、自らの無意識の行動を認識した私は、慌てて謝罪の言葉を口にし、こいしの様子を窺う。彼女は驚いたかのように目をしばたたかせていた。
「貴方の物だったの?」
「いや、自分のものだっていう記憶は無いんだけど、見た瞬間、どうしても手に握っていたくなったと言うか、自分の大切な半身を取り戻したくなったというか……」
「変な感性~」
倒れていた人を起こすために耳元で叫んだ奴に言われたくない、というツッコミは心の中に留めた。
「じゃあ、名前がわかるまで二胡ちゃんって呼ぶね」
「えっ」
いくらなんでも安直ではないか、と言いたかったものの、現状他の案も思い浮かばず、私はそれを渋々受け入れることにした。
「で、二胡ちゃんはこれからどうするつもりなの?」
「どうするって……記憶を取り戻したい」
二胡を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟く。
こいしとのやり取りで、幻想郷での知識を持っていたこと、幻想郷の住民であったという確信を得た。
であれば、幻想郷に知り合いが居てもおかしくない。その人物から話を聞けば、それがきっかけで記憶が蘇る可能性はあるはずだ。
「自分が何者なのか、何をしていたのか、知りたい」
「よーし、私に任せて!」
私の当分の目的を聞くと、こいしはどんと胸を張ってそう言った。
かと思うと、唐突に私の手を引き、ぐいぐいと歩き始める。
「ちょ、ちょっと!」
「博麗神社へ行こう! あそこの巫女なら何か分かるかもー!」
◆
こいしに導かれるまま道を歩き、長い階段を上ると、目的地である博麗神社に到着した。
階段の最上段、朱色の鳥居の真下に立ち、境内をぼうっと見渡す。
博麗神社は比較的高いところに建っていて、その周りを桜がぐるりと囲んでいた。
そよ風が枝を揺らすと、ひらりと花びらが舞い落ち、ふわりと春の匂いが鼻腔を擽る。
先程まで居た森の中では感じられなかった季節感に、博麗神社は溢れていた。
……神社といえば、神聖なものを祀る場所に相応しく、静かで荘厳な雰囲気を湛えているものだ。
しかし博麗神社は、静かではあるものの、神聖さのかけらもなかった。
何故なら、
「ねぇ、こいし。この神社はいつもこんな調子なの?」
「いやー、流石にこんな散らかり様ではないかなー」
境内には敷物が敷かれ、その上には皿や酒瓶が散乱していた。花びらも散らかっている。
昨晩に夜桜見物と称した宴会が行われていたのだろうか。
「いないねぇ、誰も」
こいしが呟く。
見渡す限り、人っ子一人、妖怪一匹も居ない。がらんとしている。誰の声も聞こえない。音もなく、静かに桜が舞い落ちる。
宴会の片付けがされていないのは、単にサボっているだけなのか、片付けよりも優先して行わなければならない何かがあったということなのか。
首を傾げながら、境内に足を一歩踏み入れる。
境界を、超える。
「……あ、?」
ふと、形容し難い想いが湧き上がってきた。
旧友と再開し、その変わらなさに安心したと言うか。
普段どおり、いつまでも、いつもどおりが続いていることに対するやすらぎ?
あいつなら「気持ちいいわね」とか言いそうな……? あいつとは誰だろう?
瞳を閉じ、物思いに耽る。深層心理の最奥から、想いが膨らむ。そう、それはまるで、
……とても、
「懐かしい、ような」
思わず、ひとりごちた。けれどその瞬間に、想いは声とともに立ち消えてしまう。
「どうしたの?」
「え、いや、なんでもない」
幻覚だろうか。この神社は、私となにか関係があるのだろうか?
気を取り直して、まっすぐ伸びる石畳の上を歩き、本殿前に鎮座しているお賽銭箱に腰掛け、二胡を膝の上に置き、境内を見る。変わらず人は居ない。変な想いも感じられない。
そして、こいしが私に逢わせたがっていた巫女が不在な今、手持ち無沙汰になってしまった。
「ここで待っていれば、巫女に会えるかな?」
「多分ね」
私に合わせて、こいしも隣に腰掛けた。
そして、ふと思う。
「こいしも待つの?」
「うん」
足をぶらつかせながら、彼女は当然とばかりに肯定した。
「ここからは一人で大丈夫だと思うし、私に付き合う必要はないのよ? 一人だと寂しいし、居てくれるのなら嬉しいけど」
「うーん、二胡ちゃんの傍にいるとなんとなく楽しそうだから、記憶を取り戻すまでは一緒に行動しようかなって。
……後は、なんか似ている気がしたから」
「似てる? 何が?」
「さー? 無意識だからわかんないや。それよりさ、本当に何も思い出せないの? 幻想郷で何をしていたのか、とか。幻想郷のどの辺りに住んでたのか、とか」
訊かれ、改めて自身に関する記憶と向き合う。だが、思い出せるのは起き上がった時からの出来事ばかり。それも、取り乱していたときのことは既にあやふやになっていて。
ただ一つ、判然としていた物があった。
あの時、口走っていた想い。
それに気がついた時、心の奥底――深層心理とでも言うべき場所から、音もなく声がした。私はそれを、私の意思で口にする。
「ただ思い出せるのは、特別な私を、誰かに認めてもらいたいっていう想いだけ」
「特別な私、ねぇ……。記憶喪失状態も特別、というか特異な状況だけど、そういう意味じゃあないんでしょう? 特別な私、特別な人、特別な存在……?」
大きく首を傾げながらこいしは唸る。
「この幻想郷で特別な存在と言えば……うーん、なんだろ? 一勢力のボスとか、妖怪の賢者とか? それか……異変解決の専門家?」
「異変解決の、専門家」
何気なく挙げたであろうその言葉を、私は反芻する。その瞬間、幻想郷という単語を聞いたときと似たような、頭が冴え渡るような感覚を覚えた。
異変。それは、妖怪が気まぐれや興味本位で起こす事象。
幻想郷全域を巻き込む事件。人間に害する現象。
心が確信で満ちる。深層意識が歓喜している。
私は何度も頷きながら言葉を零した。
「きっとそれだと思う。いえ、それに違いないわ」
「うおぉ、大きく出たね」
驚いたと言わんばかりに、触手が蠢く。
「異変解決の専門家だって断言できるってことは、実際に幾つか解決したことがあるってこと? 覚えてる?」
「覚えてない……。けど、解決したと言うか、解決しなければいけない、みたいな義務感だけがある」
義務感、というよりも、息を止めていれば自ずと新たな空気を求めるような、生理的欲求に近い、ような気がする。
「なにそれ? 変なのー。でもまあ、断言する辺り、一回ぐらいは解決したことがあるんじゃない?」
そう言われると、そのような気がしてくる。
であれば、私はどんな異変を解決したのだろうか。
どういう異常現象と直面したのだろうか。
何という妖怪たちと対峙したのだろうか。
どんな人達から感謝されてきたのだろうか。
考え事をしていると、上空から人がふわりと飛んできた。巫女かと思いきや、そうではなさそうで。
金髪碧眼、透き通るような白い肌に、青いロングスカートを穿いた少女。
その佇まいや容姿は、まるで作り物のように美しく。
さらに、地上に降り立った彼女の周囲には何体もの人形が飛び交っていた。
西洋めいた幻想的な光景。人形たちが宴会用の道具と思しき物を運んでいなければ、もっと映えていたかもしれない。
だが、彼女が私を惹きつけたのは、美しさばかりではなかった。
古い、旧い何か。
ノスタルジーにも似た、ほろ苦い想い。懐かしい匂い? そう、博麗神社に足を踏み入れたときに感じたそれと同一のそれ。
深層心理からこみ上げてくる想いに突き上げられ、私はお賽銭箱から立ち上がり、彼女の方へ一歩近づく。
すると、相手も私の存在に気が付いたのか、境内の掃除をしつつ、こちらに背を向けたまま話しかけてきた。
「……見かけない顔ね。外来人?」
「いえ、私は」
心の奥底から急激に膨らんだ想いを整理し切ることが出来ず、言葉に詰まり、自分の意志を正確に伝えることが出来ない。
でも、訊かなければ。私のことを。
「まあ誰だっていいわ。霊夢達は、鳥の不審死を調査するとかでどっかに出掛けたわよ。いつ帰ってくるかは知らないけど、今夜の宴会にはいるだろうし、用があるならそのときに済ませることを勧めるわ」
「あのっ」
膨らんでいく懐かしさは願望となり、願望は期待へ、期待は確信に変貌する。彼女は私のことを知っているはずだ、と。
私は、私の深層心理は、一刻も早く知りたかった。私のことを。
でなければ、私は、わたしは……!
「あいつらに幹事を押し付けられて機嫌が悪いの。お願いだから邪魔しないで」
氷のように冷たい拒絶。ブロンドの髪の隙間から覗く表情は、疎ましげで。
足が竦む。まるで、溺れかけているのに誰にも助けてくれないような。
だから私は、諦めず手を伸ばす。直ぐ側に立つ彼女が引っ張り上げてくれると信じて。
「まって! 私の事、知らない……?」
精一杯、私は問う。
この場で私を救ってくれるのは、貴方しか居ないのだと伝わるように。
彼女は手を止め、くるりとこちらを向き、一言だけ呟いた。
「知らない」
一瞬だけ、青みがかったカチューシャを身に着け、群青色のスカートを穿いた幼い少女が見えた、そんな気がした。
◆
凄まじい否定のされようだった、と博麗神社での件を振り返り思う。いや、自分がそう感じただけで、彼女はそこまで感情を込めていなかったかもしれないが。
それにしても、アリスさん――あの後にこいしが、彼女の名はアリス・マーガトロイドだと教えてくれた――に対して感じた想いは、一体何だったのだろうか?
ノスタルジーにも似たその想いは、博麗神社そのものに対して感じていたそれと、確かによく似ていて。
これらには共通点があるということなのだろうか?
わからない、何もわからない。
結局、アリスさんからはなんにも情報を得られなかったわけで、手掛かりは一つもない状態、つまり何も変わっていなかった。
「彼女に何か訊くにしても、もう少し段階を踏むべきだったわね」
「……はい」
私の考え事を知ってか知らずか、こいしはそう突っ込んできた。まあ、彼女の指摘はもっともなのだが。
気掛かりなのは、私が、私の深層心理が、あんなにも焦っていた理由だ。急がねばならない訳があるのだろうか? 自問しても、答えが返ってくることはなく。
「せめて、もうちょっと愛想良くしたら? そしたら、あんなふうに突っぱねられることはなかったんじゃないかなー」
「あれは単に作業を押し付けられた事に苛立っていただけで、そのフラストレーションがたまたま私に向けられただけだから。……多分」
それでも、なんとなく傷ついたのは確かだった。私が勝手に期待した結果だとはいえ、辛辣に見えた態度は、どうしても後味の良くないものが残り続けていて。
「ほら、二胡ちゃんなんだからニコニコして!」
「それは仮名だし」
自分を気遣ってくれたのか、それとも無意識にそうしただけなのか。彼女の励ましに苦笑いを浮かべながら言葉を返し、目の前に迫ってきた人の脇を抜けた。
閑古鳥が鳴いていた博麗神社とは打って変わって、辺りは人でごった返している。時刻は昼過ぎ。人間の活動が最も活発になる時間帯。
……あれから私は、こいしの提案で人里に来ていた。
こいし曰く、アリスさんは幻想郷でも有名な魔法使いらしい。であれば彼女は妖側の存在だ。彼女が知らないということは、私は妖怪サイドには知られていない人間、ということになる。
幻想郷で人間といえば、最も多く住んでいる地域である人里。そこを歩きまわっていれば、私を知っている人が向こうから話しかけてくれるかもしれない。記憶を失う前の私が、人里を拠点としていたのであれば、だけど。
だが、少しでも可能性があるのなら、神社で巫女を待つよりも、足を運ぶほうが得策だと考えた。
立ち止まってなどいられない。待ってなどいられない。
私は知りたいのだ、一刻も早く、私のことを。
……加えて、アリスさんとの間に流れていた気まずい空気に耐えられなさそうだったからというのもある。
それにしても、と私は思う。
妖怪が起こす異変を解決する専門家なのであれば、妖怪側に私の存在が知られていてもおかしくないのでは? もしかすると、妖怪に知られぬまま退治するという正体不明の専門家なのだろうか? もしくは、参謀的な立場の人間で、人を動かし間接的に異変を解決していたということなのだろうか?
……或いは、まさか、私は、異変解決の専門家ではない?
いや、それはありえない。仮にそうだとしても、自分がその専門家だという確信は、一体どこから来たものだと説明する? 私の思い違い? 私が、間違っている? そんなはずはない、と深層意識が否定する。
分からない。
自分自身を疑っていると頭が痛くなってくる。一旦脇に置き、別の話題をこいしに振った。
「人里ってあんまり妖怪が闊歩していていい場所じゃないでしょう? 大丈夫なの?」
第三の眼を揺らし、堂々と歩くこいしをみて私は言う。人里を妖怪がこんな堂々と歩いていたら恐れられるに決まっている。現状、彼らは彼女を無視しているが。
「へーきへーき。私は無意識を操れるの。だから、常に人間の無意識の中にいるよう気をつければ、誰も私を感知できない」
「じゃあさ、何で私はこいしちゃんの事を認識できてるの?」
「調整してるからだよー。あ、これ貰ってくねー」
こいしはそう言いながら露店から桜餅を盗み、普通に食べた。犯罪である。だが、店主は目もくれない。気がついていないようだ。
「それにしても、話しかけられる気配が全く無いね。無意識の中にいる私みたい」
彼女の指摘通り、今の所収穫は皆無だった。一時間ほど散策し、人里の主だった場所には足を運んでいるにもかかわらず。
誰も彼もが、私を通行人の一人として扱い、気にも留めず、歩き去る。
老若男女が、私を背景の一部として扱い、歯牙にも掛けず、立ち去る。
皆が皆、私に気が付かない。私という存在を、自らの意識から押しやっている。
徒に、時間だけが過ぎていく。
「以前の私は、あんまり有名じゃなかったってことなのかな」
「みんなに知られていないって、こういうときに不便ねー。これからはもっと派手に暴れて知名度を上げたほうが良いよ? 何なら今からでも暴れておく?」
「お断りします」
今の私の知名度を上げたところで、記憶を失った状態である今の私の知名度が上がるだけだ。何の意味もない。騒ぎを聞きつけて以前の私を知る人物がやってくるかもしれないが、この現状を見る限り、可能性は低いだろう。
私が知りたいのは記憶を失う前の私であり、皆から、世界から受け入れられていたであろう以前の私なのだから。
……つまり、今の私は、
「世界に、受け入れられていない?」
突拍子もない言葉だったが、現状を形容する言葉としては、これ以上ないくらいに正鵠を射ていた。
うつむきながら思考を巡らせる。
私の心からの焦りも、認められたいという想いも、この世界から爪弾きにされている現状に起因するものではないのか。
もしかすると、記憶を失う前の私は、世界から――世間から? 皆から?――受け入れられることがなく、その時に感じ、内に秘めていた孤独感が、記憶を失ったことで噴出しているのではないか。
だが、それならば、以前の私を取り戻したとしても、この蟠りが解かれることは、無いのでは?
そうであったとしても、今の私が出来ることは、記憶喪失より前の――深層意識の言葉を借りるなら、特別な――私を思い出すことだけ。
……世界から受け入れられることがなかった、異変解決の専門家。
私は一体、何なのだろう。
ぼうっとしていると、私達の傍を子供が走り抜けていった。
「また人面犬が出たんだってさ!」
「こわー!」
他愛も無い話をしながら。不思議な唄を歌いながら。純粋に笑いながら。とても、楽しそうに。
ふと顔をあげると、そんな子供たちが垣根で仕切られた敷地から出てきては、方方へ走っていく。
よく見ると、入り口と思しき場所には寺子屋という看板が掲げられていた。
全く思い出せないが、自分もこういった所に通っていたのだろうか。そんな事を思っていると、こいしが口を開いた。
「あー、もしかしたら、ここの先生が貴方のことを知っているかも」
「どうして?」
「なんでも、幻想郷の歴史を編纂しているんだとか。異変に詳しいかも。
自警団にも顔が利く人らしいし、幻想郷の人間で行方不明になった人物の情報とか知ってそう」
彼女の話が本当なのであれば、私を知っている可能性は高い。
偶然寄りかかった場所で情報を得られるとは思っていなかったので、私の中で期待がどんどん膨らんでいく。
居ても立っても居られず、私は寺子屋から出ていく子供たち――恐らく家へ帰るのだろう――の間を縫って入る。
垣根の中はそこそこ広く、複数人で運動ができそうな庭と、中規模な平屋が一つ。
その建物の入り口の側に、女性が立っていた。彼女は子供たちを笑顔で見送っている。どうやらここの先生らしい。
逸る気持ちを抑えられず、私は足早に駆け、彼女に近づいた。すると、彼女の方から話しかけてきた。
「寄り道せず真っ直ぐ帰るんだぞー。……あら、こんにちは。寺子屋に、なにか御用でしょうか?」
「あ、えっと……。私自身のことについて、知りたくて」
我ながら、よくわからない返答をしてしまった。
女性は目をしばたたかせつつも、逡巡した後、小さく微笑んでから、中に入れてくれた。
通された部屋、彼女が敷いてくれた座布団の上に腰掛け、側に二胡を置く。ただし、こいしのことは認知していないようで、彼女の分の座布団が用意されることはなかった。
「私の名前は上白沢慧音。ここ、寺子屋で子供達に歴史や簡単な算術などを教えたり、幻想郷の歴史の編纂を行ったりしています」
「ご丁寧に有り難うございます。私も自己紹介を、と言いたいところなのですが……」
名前を始めとした記憶を失っていること、幻想郷に関する知識は知っていたらしいということ、そして異変解決の専門家ではないかと考えていることを伝えた。
幻想郷に詳しいのであれば、私を知っているはず。深層意識から期待が湧き上がる。
私が何者なのか。きっと漸く答えが得られるはず。話を進めるたびに期待が高まる。
全てを吐き出した時、私の口角は釣り上がっていた。
だが、それに反するかのように、慧音さんは困惑した表情を浮かべていて。
まさか、いや、でも。
「申し訳ないのですが、貴方のような方は私がここに住み始めてから見たことがないですね……」
期待を裏切る言葉だった。
奈落へ突き落とされたかのような、絶望感。世界の彩度が急激に変化したように感じ、めまいに襲われる。
「……ぁ」
段々と肩が震えてきた。
それを知ってか知らずか、慧音さんは説明を続ける。
「私は半人半獣、白沢。幻想郷の歴史を消したり作ったり出来ます。
そもそも歴史とは、人々が記憶した事実を過去のものとし、誰かの手によって歴史という形にする必要があります。そうでなければ、人間の殆どは、数日経てば細部を忘れ、数年もすればほぼ忘却してしまうでしょう。
何を幻想郷の――特に人里の歴史にするかは、基本的に私が、人間に利するかどうかで判断しています。
幻想郷と深く関わる出来事で、人間に利する行為といえば、それは異変の解決でしょう。
異変は、妖怪などが幻想郷規模で起こす異常現象のこと。それらは大抵、人間にとってはた迷惑な事。それを解決したのであれば、人々から称賛され、私の手によって歴史にされて然るべきです。
だが、私が編纂した中では、君が異変を解決したという歴史は、無い。無論、それを消したこともありません」
理路整然とした解説。わかり易く丁寧なさまは正に教師なのだと感じさせるには十分で。
しかし、それは、私の心に追撃を食らわせるに十分な威力を秘めていて。
この幻想郷の歴史を知る人物から否定されるということは、この世界から否定されている事と同じではないか、そう思えてならなかった。
「……私と似た能力を持ち、誰にも悟られずに君を歴史から抹消したのであれば、それこそ異変だ。残念ながら、私の手には負えない」
抹消。その単語が、妙に心に引っかかる。
話を区切るためか、咳払いをしてから、彼女は言った。
「この目に狂いがなければ、君は普通の人間……大方、外界の住民だろう。幻想入りする際に記憶に齟齬が発生したのかもしれない。よく見るパターンだ。違和感があるかもしれないが、心機一転、これから幻想郷に馴染むというのも」
「いや! 私は、私は元から幻想郷の住民、なんです……」
ほぼ無意識、いや心の奥底の声に乗っ取られたかのように私は食い気味に叫んだ。それでも、言葉尻は小さくなり。
「……急に大声を出してしまい、申し訳ありません」
視線をそらすように顔を伏せ、謝罪をする。
「こちらこそ無神経なことを言ってしまった。謝るよ」
居心地の悪い空気と、沈黙が流れる。
暫しの後、そうだ、と呟き、
「稗田阿求と呼ばれる、幻想郷の記憶と言っても過言ではない少女がいる。念の為そちらを当たってみると良い。確か今は命蓮寺にいるはずだ」
微笑みながら、別の案を提示してくれた。
精一杯の気遣いが伺え、とても辛かった。
◆
昔の私を思い出し、それを認めてもらいたいのに対し、世界は私を必要としていないと言わんばかりに、拒絶していく。
私と世界の考えが、根本から食い違っているかのような。
食い違いから生じる違和感は、焦りとなっていた。その焦燥感が、更に私を以前の私と世界へと向けられる。
別に時間制限があるわけでもないのに。いや、あるのか? 或いは、もしかすると、何かの拍子でまたもや記憶を失ってしまうかもしれないという危機感からきているのか?
もしも幻想郷に関する事実さえ忘れてしまったら。もう私は、以前の私に戻ることは出来なくなってしまうのでは?
分からない。わからないことだらけ。深く考えてしまうと、また取り乱してしまいそうで。
陽がかなり傾き、赤くなった空を背に、トボトボと歩く。
「元気だしなって。はい、鯛焼き」
「……ありがと」
くすねたそれを受け取り、口に運ぶ。パサパサとしていて、しつこい甘さが舌に絡みついてきて、不愉快だったが、彼女の心遣いは有り難かった。
「稗田阿求ならきっと知ってると思う。なにせ、一度見たものや聞いたものを忘れない能力なんてのがあるんだから。きっと、二胡ちゃんのことも知っているはず。
……そろそろつくよ」
半ば呆然としながらこいしに連れられるまま歩いていると、目的地である命蓮寺に近づいていた。
大きさは、今まで里の中で見てきたどの施設よりも大きい。中からはお経が聞こえてきた。そこそこ賑わっているようである。
……だが、と思う。
このような施設は、幻想郷にあったか? という違和感が深層心理から湧き出てきた。
なんとも言えないズレに困惑しつつ、境内を掃除していた妖怪に声を掛ける。来客に会いたいと言うと、いま住職と話しているがそろそろ帰られる時間だからと言われて、その部屋まで通された。
縁側では白髪の少女と頭巾をかぶった少女が囲碁を打っており、部屋の中心では尼の格好をした女性と、着物を着た少女が向かい合っていた。
突然の来客に二人は驚いた様子だったが、稗田阿求という人に用があると話すと、尼は席を外した。こいしとともに少女と向き合う。
そして、慧音さんに話した事と同じ内容を、彼女に伝えた。
話している最中の私は、もはや縋るような思いだった。もう、十分苦しんだのだから。もう、助かってもいいでしょう。もう、楽にさせてくれてもいいでしょう。
何に対して懇願しているのかは、判らなかった。
「自己紹介と、現状説明、ありがとうございます。礼儀として、私も自己紹介させていただきます。
私の名前は稗田阿求。稗田阿礼から代々受け継いできた求聞持の能力を持っています。一度見たものは忘れませんし、先代以前の記憶も継承しています。
だからこそ、断言できます。貴方が異変解決の専門家というのは、単なる記憶違いである、と」
……そんな私の思いとは裏腹に、世界は、残酷だった。
あまりにも、あっさりと否定された。
あまりにも、簡単に突き放された。
私の願いを擦り潰すかのように、少女は続ける。
「異変を解決する者は、博麗霊夢、霧雨魔理沙、十六夜咲夜、最近では東風谷早苗などです。明確な制度や規則という確固たる定義があるわけではありませんが、彼女達の武勇伝は知られていますし、認知されています。いわば、異変を解決したという事実が周知されている者であれば、異変解決の専門家と言えるでしょう。
では、貴方は? 誰も知らない専門家なんて、存在するはずがないのです。それは、私の記憶が証明できます。異変を解決したという事実が周知されているのであれば、私の耳にも届きますし、記憶され、幻想郷縁起の英雄伝にも書いてあるはずですから」
そう言いながら、彼女は袖から一冊の本を取り出し、私に見せた。あれが、幻想郷縁起なのだろう。
「そもそも、貴方が解決したというのは、どのような異変なのですか? 最近の逆様異変? 神霊異変? 永夜異変? ……それとも、紅霧異変? 或いは、名前もついていない何か?」
幻想郷で起きたであろう異変の数々。その名前を聞き、なにかに突き上げられるかのような衝動により、立ち上がった。
「紅霧異変」
認識し、口にすると、朧気ながら記憶が蘇ってきた。
霧に包まれた世界を。
紅色の幻想郷を。
吸血鬼が起こした、異変を。
「そう、それだ、私は、紅霧異変を」
「紅霧異変を解決したのは博麗霊夢と霧雨魔理沙ですよ」
私の言葉を遮るように、少女は幻想郷縁起をめくりながら、彼女はそう答える。
ならば、私の名前は博麗霊夢? いや、違う。
では、霧雨魔理沙? 違う。違う!
だが、でも、私は解決したはずだ。いや、解決した? 立ち向かったか? 未だ解決していない?
重大な手がかりを得たにもかかわらず、疑問は止まらない。自分がわからない。世界もわからない。なにもわからないまま。
懐疑心は恐怖となり、凄まじい悪寒となり体を襲い、座ることも、動くことも出来ず、私は黙ったまま立ち尽くす。
すると、少女が口を切った。
「数代前の記憶まで遡ってみましたが、あなたの顔は見たことがありません。貴方は、人里どころか、幻想郷の住民であった事実すらありません」
私の確信を更に踏みにじるかのような事実を、さらに突きつけられる。
そんなのうそだ!
では、幻想郷に関する知識を覚えていたのは何故だ? 説明がつかないじゃないか!
「第三者による強制的な結界侵犯、それに起因する幻想入りでは、しばしば記憶の混濁が起こるとされていますし、貴方もその類でしょう。気にすることはありません」
ちがう、ちがう、ちがう……。そんな都合のいい話なんて無い、在るはずがないのだ……。
「記憶のことはさておいて、貴方は外来人として処理されるでしょう。まあ記憶喪失者を外の世界へそのまま放り出すのも憚られることですし、新たな幻想郷の住民としては迎えられると思いますよ」
「いやぁ! ちがう! それじゃ、ダメなんだ……」
叫んだ。叫んだって、世界の認識のズレが矯正されるわけでもないのに。それでも、絶叫しなければ、深層意識から膨れ上がる絶望感に押しつぶされて、どうにかなってしまいそうだった。
何が間違っているのだ? 私? 世界?
わたし?
ちがう! だから、違った形では受け入れられたくない。歪な形では認められたくない。
わたしはわたしなのだから。記憶を失う前のわたしという、存在があるのだから。
思わず、二胡を握りしめ、飛び出てしまった。
◆
茫然自失なまま、走る。なにかから逃げるために。何処かへたどり着くために。
彷徨うように走っていた所為か、ふと気がつくと、いつの間にか森の中に居た。辺りは、起きたときよりも遥かに暗く、木々の間から、辛うじて星の光が見えるくらいで。時刻は既に夜だった。
道はなかった。生い茂る草や根っこに足を取られ、転びかけても、私は走るのをやめなかった。やめられなかった。
だが、そんな私も、何かにぶつかり、尻餅をついてしまっては、止まらざるを得なかった。
ゆっくりと顔を上げる。マントを身に纏い、帽子を被った少女と、紫色の球体が見えた気がしたが、それらは唐突に消失してしまう。
幻覚かと思っていると、別の存在がいることに気がついた。
闇夜と溶け合っているかのような真っ黒な服。赤いリボンと共に揺れる黄色い髪。血のように真っ赤な瞳。そんな少女が、満月の下、両の手を真横へピンと伸ばし、宙に浮いて、
「こんな暗い暗い森の中をほっつき歩いているだなんて、命知らずな人間も居たものねぇ」
「……」
ぁ、
「まあ仕方ないわよね。こんな危ない所に一人でいる貴方が悪いのよ? こんな闇夜に一人でいる貴方の所為なのよ? 自業自得。だから……ね、貴方は、食べられても良い人類なのよ」
彼女が近づく。私の腕を掴まんと、手を伸ばす。私の首を噛み切らんと、口を開く。ほおずきみたいに紅い口腔が見えた。
「……ルーミア」
「本能『イドの解放』!」
あと数センチというところで、背後から声がしたかと思うと、青色の触手が私の体を引っ張り、ルーミアから引き剥がす。同時に彼女にハート型の弾幕が直撃し、吹っ飛んでいった。
「大丈夫!? 全くもう。突然何処かへ行っちゃうんだから、追いかけるのに苦労し――」
地面に倒れた私は、こいしに話しかけられていた。
でも、そんなの、どうでもいい。
「ルーミア! 私が解決すべき異変、そこに立ちふさがる第一の敵! 闇を操る人喰い妖怪!」
思い出した情報を吐露していく度、記憶が連鎖的に蘇る。敵の事。世界の事。そして――
「ど、どうしたの」
「まだだ、チルノ、美鈴、パチュリー、それから、それから……!」
私のことを。
「思い出した……」
やっと、やっと。私を取り戻すことが出来たのだ。
「……貴方、誰?」
呆然とするこいしを一瞥し、私は立ち上がり、口にする。真実を。絶対に揺るがない、真実を。
「私の名は……そう、冴月麟。
紅霧異変を解決する者。
そう、私は冴月麟なのよ。やっと思い出せた。漸く思い出せた!」
「でも紅霧異変はもう解決済みだって」
恐らく、紅霧異変と関わりのあるルーミアを見たことで、記憶が完全に蘇ったのだ。偶然とはいえ、彼女には感謝しなければ。
だが、良いことばかりではない。急に記憶を取り戻してしまった弊害か、猛烈な頭痛に襲われていたのだ。悪寒は相変わらず続いている。視界も歪んで見える。
それでも、成し遂げなければならないことが在る。
それは、紅霧異変を解決し、世界から私の存在を認めてもらう事。
こいしに構っている暇などなかった。この倦怠感に飲み込まれてしまう前に、異変を解決しなければ。
冴月麟として。
既に、私にはわかっていた。異変の首謀者は今、この付近に――博麗神社にいると。
気配がするのだ。禍々しくて、幼い妖気が。
その気配に向かって、体を引きずりながら走り出す。
博麗神社に近づくに連れて、騒音が大きくなり、鼓膜を乱暴に叩く。何人居ようが関係ない。私のターゲットは一人だ。
数分もせず、私は博麗神社の裏庭にでた。
どうやら、宴会中のようで。人妖が入り乱れながら酒を酌み交わしている。
有象無象を掻き分けながら、奴を探すと、すぐに見つかった。
見たことのない顔が騒がしくしている最中、目標は、活気づいている空間から一歩離れたところに座っていたのだ。
堂々と。異変の首謀者たる風格を漂わせながら。
「レミリア……!」
頭を抑えながら、敵の名を呟く。
レミリア・スカーレット。紅魔館の主にして、運命を操る能力を有する、吸血鬼。
私が解決するべき、紅霧異変の主犯。
彼女を、視界に捉える。
奴もこちらに気が付いたようだ。羽をぴくりと震わせ、双眸が私を睨みつける。
先手必勝だ。
袖からカードを取り出す。
スペルカードを。
そして、宣言する。彼奴を倒すために。紅霧異変を終わらせるために。
私が、異変を解決するために。
私が、世界に居るのだと知らしめるために。
「風符『――――」
刹那、世界が暗転した。
◆
博麗神社の境内で催される、夜桜見物を兼ねた宴会は、今日も賑わっていた。
人と妖とが入り混じり、酒を酌み交わし、食べ物を貪る。
共に笑いあい、にらみ合い、分かち合う。
その様は、まさに幻想郷の縮図のように見えて。
いつもどおりで、普段どおりで、有り触れた宴会の光景。
博麗霊夢もまたご多分に漏れず、茣蓙に座り込み、盃を呷っていた。
注がれた酒をぐいと飲み干し、酒気の混じった吐息を吐く。
そんな彼女の視界に、何かがちらりと映り込んだ。
勘が何かを訴えていた。再び捉えんと、霊夢は何かが居た方向へ視線を向ける。
「ん、どうしたんだ? 霊夢。変な方向をじろじろとみて」
隣で酒を飲んでいた魔理沙が、訝しげな目線を浮かべる彼女に問いかける。
暫く唸っていたものの、霊夢は諦めたのか、盃にお酒を注ぎながら答えた。
「誰かが歩いていたんだけど、そいつ、なーんか、どっかで見たことがあるような顔だった……気がするのよ。巫女服っぽい服を着た奴でさ。でも、名前も何も思い出せない」
「私の姿に化けた狐かなんかが、お前の巫女服を盗んで着てたんじゃないか?」
以前に自分自身に化けていたという化け狐を想起しながら、アルコールで曖昧となった思考から適当な推理をでっち上げた。
霊夢もまた、適当な相槌を打つ。
「きっとそれだわ。あとでとっ捕まえて狐鍋にしなきゃ」
「それか、妖精のイタズラか」
「妖精鍋って美味しいのかしら?」
「そんなゲテモノより、人の血の方が美味しいわよ」
二人の背後から声がする。振り返ると、そこにはレミリア・スカーレットがワイングラスと赤ワインの瓶を手に悠々と立っていた。
「じゃあ人間だったのかな?」
「じゃあって何だよ。ていうかレミリア、何の用だ?」
魔理沙がそう訊くと、レミリアは二人の正面に座り込み、嘲笑いながら答える。
「随分と、懐かしい運命を見たような気がしてね」
吸血鬼が指を鳴らす。すると、瞬時に十六夜咲夜が現れ、主のグラスに手際よくワインを注いだかと思うと、忽然と消えてしまった。
「私と霊夢は無視かよ」
魔理沙はそうぼやきながら、自分と霊夢の分を盃に注ぐ。
「乾杯」
彼女達の口から自然と漏れた言葉は重なり、器同士がカチリと音をたてる。
レミリアはグラスを軽く回し、その芳醇な香りを堪能していたが、霊夢と魔理沙はそのままぐいと一気に飲み干してしまう。
「風情がないわね」
「眼の前に酒があるなら、さっさと飲むに限るもんだ」
魔理沙はそう返し、皿に盛られた料理をつまむ。今日はアリスが幹事を務めている影響か、料理は洋食に偏っていた。
一方の霊夢は、盃から面を上げ、そういえば、と呟く。
「変な奴って、結局なんだったんだろう」
「まあ、最近の動向からして、都市伝説の何かだろ。トイレの花子さんとか、口裂け女とか?」
冬頃から、幻想郷では怪奇現象が多数発生していた。
桜が咲き誇る春となっても収まる兆しが無いものの、影響は微々たるもので、住民の殆どは既に気にすることも無くなっていたのだった。
「都市伝説?」
レミリアは黒い羽をぴくりと動かし、首を傾げた。
「最近ちょくちょく発生してるんだが、レミリアは知らないのか? 遅れてるぜ」
ニィと口元を歪ませて、魔理沙は軽く煽る。
「生憎、最近は深窓令嬢だからねぇ」
「じゃじゃ馬の間違いだな、それは」
「こういう減らず口を効く奴と顔を合わせないようにするために、最近はゆっくりしているの」
「隠しすぎると、腐るぜ。元々無い脳以外な」
短い掛け合いの後、二人は同時に立ち上がる。
レミリアは両の手を胸の前に当てながら。
魔理沙は箒を手にし、帽子のつばを弾きながら。
「月は紅くないけれど、久しぶりに暑い夜になりそうね」
「まだまだ涼しい夜が続くぜ、春だからな」
奇妙な魔法使いと永遠に紅い幼き月が飛び立つ。数秒後、弾が飛び交う音とレーザーが空気を切り裂く音が境内を支配し、夜空が血と星屑に染まった。宴会の席からはあちこちから歓声が上がっている。
それはまさしく、幻想郷の縮図だった。
いつもどおりで、普段どおりで、有り触れた宴会の光景。
その様子を見ながら、永遠の巫女はほんの少しだけ、口元を緩ませて、また酒を飲んだ。
……幻想郷の住民は、見かけた少女の事を有耶無耶にし、霧散させてしまった。
当たり前だ。見知らぬ少女がどうなろうと、大したニュースでは無いのだから。
◆
気がつくと、私は教会のような建物の中、その中心に立っていた。
壁一面にはめ込まれたステンドグラスから光が差し込んでいるものの、中は薄暗い。
左右対称に並べられた長椅子には、誰も座っていない。
そして、周囲には十字架があちこちに散乱していた。
「……貴方のお陰で助かった」
「全く、完全に思い込む前に介入できてよかったよ」
祭壇と思しき場所の壁には、ステンドグラスの代わりに丸窓があり、その目前には、二人の少女が並んで立っていた。
一人は、黒い帽子を被り、ブロンドヘアで、黒い服を着てスカートを穿いた少女。
もう一人は、赤い帽子を被り、緑の黒髪で、巫女装束に似た服を着ている少女。
彼女達は互いに言葉を交わしたかと思うと、黙ったまま私をじいと睨みつけてきた。
一瞬だけ困惑するも、私の成すべきことを思い出し、彼女達に問い質す。
「ここはどこだ? お前達は誰だ? 私は今すぐレミリア・スカーレットを倒さなければ!」
距離を詰めるために彼女達の方へと歩き始めると、ブロンドヘアの少女が黒髪の少女の前に立ち、口を開いた。
「落ち着きなよ」
「落ち着いていられるか! 私は、異変を解決しなければ!」
どうして私は博麗神社から移動したのだ? まさか紅魔館の住民による仕業? そうだ、確か時を止めることが出来る存在が、十六夜咲夜が居たではないか。彼女によって別の場所へ移動させられたに違いない。
では、彼奴らも紅魔館の協力者に違いない。
敵であるならば、倒すのみ。
「ほんとうのことを教えてあげなよ」
黒髪の少女がぶっきらぼうに呟くと、ブロンドヘアの少女は頭を抱えながら、言葉を発し始める。
「単刀直入に言ってあげよう」
聞くだけ無駄だ。時間の無駄だ。さっさと倒して、レミリアの元へ戻るだけ。
歩き、走り、距離を詰める。
少女達は、私を見据え、動かない。無防備だ。
「キミは」
さっさと勝負をつけるために、スペルカードを取り出し、
突きつけ、
「冴月麟ではない」
「…………ぇ」
突きつけられなかった。
カードが握られているはずの手は、空だった。
「いま、キミの意識を支配している情報や役割そのものが冴月麟なのさ。彼女は情報だけの存在だから、実体がない。だから、スペルカードも名前だけ。発動することもできやしない」
「……いや、うそ、なんで」
急に体から力が抜け、膝から崩れ落ち、倒れる。
天井には何故か、夜空が広がっていた。星が瞬き、私を見下ろしていた。
「反対に、キミ……そう、その二胡を握りしめているキミは、姿しか存在しないモノだった」
ブロンドヘアの少女は、淡々と述べる。嘘を。偽りを。
騙されるな。嘘つきめ。誑かすな! 私は、わたしは! わたし、は……。
……いや、嘘なんかじゃない。
彼女の言うことは本当だ。真実だ。
私は朧気ながら思い出していた。
世界と溶け合っていた時の事を。
「冴月麟には実体がない。だから世界から認識されることはなかった。
対するキミは、名前も記憶も、役割も、運命もない。ただそこに在るだけの存在だったから、世界と溶け合っていた」
そうだ、そして、出会ったのだ、彼女と。
名前と役割以外、何も持っていない少女と。
いま、私の心の中にいる、少女と。
「キミが世界と同化しているところに、偶然にも冴月麟という実体のない情報が憑依した。お互いの欠けた部分を補完するかのように、ね。そして、幻想郷内に出現できた。
そこでの体験から、キミは自分自身を冴月麟だと思いこんでしまった」
私を突き動かす衝動は、ほぼ決まって深層意識から湧き上がっていた。それはつまり、私自身の想いではなく、冴月麟の想いだったのだ。
「でもそれは、自分自身に嘘をつくことになる。
何故なら、冴月麟は冴月麟であり、キミはキミだ。キミが冴月麟になってしまえば、キミは消えてしまう」
そうであろうとなかろうと、私は彼女の意思に――冴月麟の声に従った。
どんな形であれ、一つの存在として、名前があるものとして、世界という大枠から切り離され、受け入れられたかったのだ。
たとえ、私の意思を失ったとしても。
私もまた――認められたかったのだ。
幻想郷の住民として。
だが、それももう叶わぬ願いとなってしまったらしい。
私を形作っていた冴月麟という情報が溶け出ていく。私が私であり、冴月麟ではないことを認識させられてしまったからだ。
名前も役割もないモノは、存在しないモノと同じ。他のモノと区別が付かず、世界と同化してしまうから。
ならば、また、曖昧な存在になってしまうのか?
自分を根本から失う恐ろしさが、波のように襲いかかる。消えていく感覚が、奥底から押し寄せる。体の震えが、止まらない。
世界に溶けていく。個を失う恐怖。
逃れる術は、もう無かった。
抵抗する熱量も、無かった。
押し潰されかけた心から溢れた感情は、冷たい涙となり、外へと零れ落ちてゆく。
視界が、星空が、光が、歪む。
「いやぁ……」
いやだ。嗚咽を漏らし、呟く。
「わたしはたしかにここにいるのに、だれも、わたしをみてくれない……。わたしをみとめてくれない……」
なぜ? わたしだけ、名前を与えられなかったの?
どうして? わたしだけ、役割を得られなかったの?
わからない、わからない。わからない……。
「きえたくないよ……」
空へ手を伸ばし、希う。
誰にも届くはずのない、か細い言葉。
「ここならキミも、冴月麟も、大丈夫だ」
しかし、予想に反して、想いは誰かに汲まれていて。
誰かは私の手を握りしめ、抱き起こすと、指でつぅと頬を撫で、涙を拭った。
視界が鮮明となる。眼の前には、ブロンドヘアの少女が微笑んでいた。
わたしは、消えていなかった。
「どう、して?」
少女は口を歪ませ、赤子に聞かせるかのような優しい口調で話しだした。
「……楽園も、そしてその住民も、不変ではない。在るモノ達から絶えず影響を受け、或いは互いに影響しあい、変化している。
ここに来るまでに出逢った人妖や場所のうち、ひどく懐かしい想いに駆られるモノは無かったかい? それらが、形を変え遺された旧き幻想だ。彼等は、ボク達とは事情が似て非なる者さ。
そう、変化する事が出来るモノも在れば、変化する事が出来無いモノも在る。
楽園から取残された幻想。
楽園から見放された幻想。
楽園から突放された幻想。
楽園から棄てられた幻想。
楽園から忘れられた幻想。
そういった幻想が萃まる、もう一つの楽園。それが、ここさ」
「もう一つの、らくえん……」
うっとりするほど甘美で、魅力的で、魅惑的で、素敵な響きだった。
「名前もない、役割もない、変化もない、閉じた、完全な存在。そして、想いで安易に何もかもが変容してしまう、曖昧な存在。それはまるで――人形のような。それが、ここにいる私達」
また別の声がする。目線を動かすと、黒髪の少女がブロンドヘアの少女の後ろに立ち、私を見下ろしていた。
「ちなみに、私も貴方と同じ。名前も役割も、繋がりもない。或いは、既に失われてしまった」
「ま、名前も役割も無いのは、在る種の強みなんだけどね。何者でも無いということは、何者にもなれる。そして、その性質はとあるものの本来の姿と同じで……この話はまた今度にでも」
彼女達の言っていることは、筋が通っていた。どうやら確からしいとも思えた。
でも、どこか信じきれていなかった。
それは、幻想郷でずっと期待を裏切られ続けてきた結果だろう。
願望が失望へと変わる、絶望。それを、何度も何度も経験してきたからだろう。
だから私は、問うた。
「ほんとうに、私を、受け入れてくれるの……?」
私の体を抱きかかえている腕にしがみつきながら、唇を震わせ、言葉を発する。
ブロンドヘアの少女は、顔をほころばせながら私の髪を撫で、答えた。
「そのままのキミを受け入れよう。ありのままのキミを認めよう。
ここでは、キミの在りたい様に在っていいんだ。髪の色だって、ブロンドでなくてもいい。リボンや服の色だって、紅白でなくてもいい。見ず知らずの人間の言葉に――想いに、振り回される必要はないのよ」
彼女はそう優しく言い切ると、私の体を力強く抱きしめた。
甘酸っぱい匂いが、私の鼻孔を擽る。
彼女の鼓動が、私の鼓膜を打つ。
黄金の髪が、私の視界を奪う。
彼女の熱は、確かに本物で。
それを受け止める私も本物で。
実体があって。
世界に――楽園から認められていて。
楽園に受け入れられていて。
「貴方は何者なの? 何でも知っていて、こんな私をも受け入れる、貴方は」
思わず溢してしまった、疑問。
ブロンドヘアの少女はそれを聞くと、クスクスと笑いながら私から離れた。そして、その場をくるりと回ってから、両手を広げ、楽しそうに答える。
その姿はまさに、何者からも縛られていない、自由を感じさせるもので。
「正直者かもしれない。最も美しいボクかもしれない。鳥人間かもしれない。U.N.オーエンかもしれない。或いは、全く無関係な人間かもしれない。
だが、いずれも、仮説だ。演繹たり得るものではない。ボクはボク、それだけでしかない。
ボクはその想いの隙間を突くことで、幻想郷とこことを行き来出来る。だから現に、こうしてキミ達を救い出せたのさ」
「君達……? 私の他には、誰が」
「冴月麟さ。キミの隣に居るだろう? 彼女も救出対象さ。姿はなくとも、ボクらと境遇は同じだからね」
ハッとなり、隣に意識を集中させる。
そして、確かに感じた。目に見えなくとも、確実に存在する、少女の事を。
……思えば、彼女のお陰で幻想郷に現れることが出来たのだ。こうして在るのは、彼女無くしては在り得なかった。
途端、私の心は冴月麟に対する感謝の想いで一杯となっていた。
同時に、目の前の少女にも感謝していた。
彼女の純粋な想いに。嘘偽りの無いその想いに、感謝をして――惹かれていた。
「……ありがとう。貴方も、冴月麟も。本当に、本当に……」
想いは言葉となり、暖かい涙となり、世界にこぼれ落ちていく。それさえも、消えることは無かった。
今、私はここに居る。
その幸せを噛み締めていると、ブロンドヘアの少女は、笑い、嗤い、嘲笑いながら、私に手を差し伸べた。
何者でもない、彼女が。
何者でもない、私へと。
「名付けられざる者、名前のみの存在。歓迎するよ、この蓬莱の地へ!」
ちょっとこいしのいる理由が少し分かりづらかったので90点で。
構想はとても面白かったです。
麟ちゃん良かったね…