「こんなものが、我らの望んだ護国の獣であろうものか」
男は青ざめた顔で、目の前にうずくまるものを見下ろした。その拳には血管が浮き上がる。
それは背中を除けば、年端もいかない童子と大差ない。背から生えているものはどんな鳥獣とも似ても似つかないいびつな翼だった。
暗い部屋の中に、数人の男たちが新たに現れる。
「長殿、やはり間宮、橘音の姿が見えませぬ」
「やはり、あの二人の仕業か。龍の髭を持て参じたのはあやつらであったな」
男たちがざわめいた。
「あやつらの献上した髭は、まったくのまがいものであったということだ。それにも気づかず術式を進めるとは、なんたる失態であろう」
「いかにいたしますか、長殿」
男は腰に帯びた刀を、ずらりと抜き放った。
「これを世に出してはならぬ。護国の獣がかような姿で現れたと知れば、帝が心を乱されよう」
部屋の中で、白刃のきらめきが走る。それは刀の切っ先を見るや、赤い目を鋭く光らせた。刹那それの体は大きく膨れ上がり、部屋に集まった男たちの上背をも上回った。
「何事だ」「こやつ物の怪に変じたぞ」「滅ぼせ。あやかしを滅ぼし尽くせ」
残る男たちも武器を次々に抜き放って、怪物に挑みかかる。闇の中で何人もの悲鳴と怒号、そして血しぶきが乱れ飛んだ。
全ての喧騒が収まり、残された男たちが暗がりに目を凝らした。怪物の姿は影も形もない。代わりに居たのは、全身をひどく切り刻まれて無残な屍と化した同胞たちの姿。自らの手の中には、血糊で汚れ果て刃こぼれを起こした刀剣が握られている。
屍の中に、あの奇異な翼を生やした異形の姿が見つかることはなかった。
§
「鵺さん、一勝負お願いしたい!」
昼下がり、命蓮寺の境内に空気を叩くような声が響き渡る。封獣ぬえは庭石に腰かけたまま、耳たぶを幾度か叩いてから聞き返した。
「ええ、また? 懲りないねえ」
「懲りませんとも。納得がいくまでやります」
雲居一輪が金輪を構える。憑依異変がひと段落ついて以降、ずっとこの調子だ。ぬえは失笑を浮かべると、庭石からゆっくり足を地に下ろした。
「まあ退屈してたから、いいけれども。少しは進歩したところを見せてよね? さもないと、いつまで経っても聖から半人前扱いよ?」
一輪の背後に、もりもりと雲山が湧いて出た。巨体の雲入道を背景にして一輪の鼻息は荒い。
「見せますとも。今こそ捲土重来よ、雲山」
「そこまでボロクソにした覚えはないんだけど」
しかし上がり切った一輪のテンションは衰えを知らない。
「今日こそ雲の第一人者として、こっちの雲のほうが強いのを証明して見せるわ!」
「え、対抗心燃やすのそこなんだ」
§
境内で弾幕決闘が始まる。命蓮寺でもひいては幻想郷でも、ありがちな光景だった。奉公に勤しんでいた妖怪たちが、しばし手を休めて行き交う弾幕を見守る。
その一角、本堂の前に寅丸星の姿があった。手をかざして、弾幕を張る一輪の様子を眺めている。その隣からもう一人、ナズーリンの声がした。
「あいつもなかなか、頑張るね」
「聖の『練習相手』になかなか指名されないから、一輪も必死なのですよ」
「や、一輪もそうだが、問題はぬえのほうさ。あいつも勝負を拒まない」
雲山の腕が百足みたく増えて、ぬえの頭上に降り注ぐ。加えて一輪からは掃射じみた横殴りの弾幕雨。それらの立体的攻撃をぬえは涼しい顔で避け続けている。
「ふーむ、言われてみれば。よほど自身の腕前に自信があるのでしょうかね」
「確証はないが、それは多分ご主人の勘違いだな」
「そうでしょうか」
ぬえの周りに半球型の円盤が現れた。それらが彼女を守る盾になると同時に、応戦へ転じる。
「ぬえが人間に作られた、というのは本当なんだろうか?」
不意にナズーリンが新たな話題を投じた。星が目を丸くして、彼女の姿を見下ろす。
「本人はその当時のことを覚えていないようですから、あくまで推測にすぎませんが」
星は指でこめかみを突いた。敬愛する大僧侶、聖白蓮の言葉を思い出す。
「許されたものではありませんが。平安の時代に十二支の獣を集め、麒麟のような霊獣を作り出そうという試みがあったようです。しかしその中に『辰』が含まれなかったこと、代わりに狐や狸などを含めたことなどが災いして、あの子は何者でもない者になったのではないか。というのが、聖の見解です。あの子が平安の人々に見せた『鵺の怪物』のような」
ナズーリンは口を「へ」の字に曲げたまま、星の話を聞いていた。
「不公平だな」
「なにがですか」
「言うなれば、運命って奴さ」
胸元のペンデュラムを握りしめる。ナズーリンの手甲には、青筋すら浮いていた。
「千年の研鑽を積んでも実力が頭打ちになる者なんて、山ほどいるというのに。あいつはそのように作られたというだけで、容易にそれを飛び越えていくんだ」
星は目を細める。毘沙門天の正当な使者である、鼠の大妖を。千年代理人を勤め上げた星と比べても、ナズーリンの生まれはずっと早い。
弾幕戦の風向きは、変わりつつあった。ぬえが円盤使い魔の威を借りて、一輪の懐へと飛び込んだ。振り下ろしかけた雲山の拳が、震えて動きを止める。
「例えばあいつの使う正体不明のタネ。全ての飛倉の破片を正体不明の飛行物体に変えてしまう程度の動員力を持つ。我が軍団に匹敵するほどのね。加えてあの猛虎のごとき格闘能力だ」
「いきなり我々形無しになりますね」
手にした三叉の槍、そして背中の翼だか触手だかよくわからない物体を巧みに操り、ぬえが追い込みをかける。一輪も金輪を振るって攻撃を受け流すが、手数が段違いに多い。
「加えて牛の胆力、猪の突進、犬の嗅覚と勇猛さ、兎の聴力」
「まあ、まあ、パワーでは聖に負けますよ、多分」
一輪が相打ち覚悟で反撃の金輪を繰り出す。ぬえは足を振り上げてトゥーシューズで金輪の打撃を受け止めると、その反動で後ろに飛び退いた。
「ははーっ!」
星たちのところまで伝わるほどの咆哮が上がる。
「加えて馬の脚力、猿の模倣、鳥の威圧的鳴き声、蛇の恐怖を誘う外観。なんでもありだな」
「龍まで入るといかようなものになっていたでしょうかね」
ナズーリンは指を折りながら、戦闘の様子を見上げた。
「ああ、全部で十一。今まで挙がったものは子丑寅卯辰巳午」
指がはたと止まる。戦闘の様子をもう一度見て、指を見直した。
「ナズーリン?」
そこで初めて、ナズーリンの首が星のほうを向いた。
「ねえ、ご主人。あいつのどこに、羊要素があると思う?」
星はしばらくナズーリンの顔を眺めた。そこから顎に手を当ててもう一度弾幕決闘の様子を見上げ、指だけそちらに向けながら再びナズーリンを見た。
「羊というと、あれでは?」
ぬえが鵺符「アンディファインドダークネス」を宣言して、黒雲に包まれる様子が見える。一輪と雲山に向けて突っ込んでいく黒い羊を、ナズーリンは再び見上げた。
「そんなことを言ったら、雲山のがよほど羊に近かろう」
ナズーリンは腕を組んだ。星が見下ろす目の前で、歩いて小さな輪を描く。
「羊といえば亜細亜の高地に住まう獣で、気が小さく群れることで身を守る。あの孤独を愛し、雲山の猛攻をも恐れないぬえとは似ても似つかないぞ」
ついにナズーリンは星から離れ、門に向けて歩いていった。
「おや、帰りますか? 夕飯くらい食べていけばいいのに」
「毛は暖かく毛布の原料としても用いられると聞くが、あいつはそんなに毛深くないしなぁ」
ナズーリンは星の声など耳に入らぬ様子で、そのままどんどん離れていった。星が呼び止めようかと手を空中に泳がせていると、上空で派手な爆音が聞こえた。
「あ」
一輪が斜め上の方向へ吹っ飛ばされる様子が、小さく見えた。
§
一輪は石畳の上で、雲山をクッションがわりにして大の字になる。空は雲一点もない快晴で、弾幕決闘の名残を微塵も残していなかった。
「畜生、これでもう五連敗かー」
「もうしばらくは修行が必要だね?」
黒い影が青空に割り込んできた。一輪は目を細め、ぬえのにやけ面を見上げる。
「もう、そんなに強いんですから、たまには姐さんの異変解決に協力をですね」
「やーよ、もったいない。別に異変の解決ばかりが、信徒を増やすとは限らないでしょ? ま、そんなことより」
ぬえが一輪の前にしゃがみ込んだ。目線の高さが合う。
「今回も私の勝ち。負けたペナルティとして、手を貸してもらうよ?」
「げ。またですか」
ごろり起き上がって、あぐらをかいた。
「わかりました、わかりました協力します。ただ、さすがの聖も感づき始めてますからね? ごまかしきれなくなっても、恨まないでくださいよ」
ぬえは短い呻きみたいな声を上げて、一輪から目線を逸らした。
「うん、まあ。早く済ませられるように、努力はする」
§
ナズーリンは命蓮寺から無縁塚まで飛んでいくと、片隅にひっそりと建つ小屋、自らの住処に降り立った。小屋の一面に山積みしたガラクタが崩れてないのを確認してから、中に入る。
壁一面を占めるケージから絶え間なく聞こえてくる鳴き声が、ナズーリンを出迎えた。彼女は淡々と飼料の袋を引っ張り出し、部下たちへ平等に分け与える。体格差や能力差で差別をしないのが軍団を健全に維持するコツである。
しかしその間もナズーリンは、頭に焼きついた羊の謎を忘れられなかった。
(うむむ。考えれば考えるほど気になってきたぞ。奴のどこに羊の要素があるのやら)
全てのケージに餌を与え終えると、部屋の中央に置かれた机に目をやった。びっしりと書き込まれた地図、学校の教室でしかお目にかかれない大きさの定規やコンパスなどを片隅に追いやると、セピア色に染まりかけた白紙を引っ張り出した。
(奴の羊要素を突き詰めれば、こんな私でもとっかかる隙を見つけられるかもしれない。ああ、認めるまでもなく妬み半分だ。しかし平安の大妖怪の弱みを握れる機会なんて、滅多にない。やってやるぞ。まずは奴の身辺調査だが)
子丑寅卯巳午申酉戌亥。紙に書き下してみたところで、腕を組んだ。
(これらの動物の感覚を持つあいつに気づかれず調査を進めるのは、間違いなく至難の技だ。我が軍団でも圧倒的に分が悪い。どこぞの地底妖怪みたく完全に気配を消せるわけでもなし)
ナズーリンは、しばらく十文字を見下ろした。ケージの手下たちがキイキイいっている。
やがて顔を上げ、ようやく声を発した。
「うむ。やはりこの手しかあるまい」
§
翌日の命蓮寺。門前に幽谷響子が現れた。手ぶらで通用門を閉めると、脇に置かれた虎の張り子像の前に腰かける。
「ふぃー朝の勤行終了」
そのまま般若心経なども唱えずへたり込んでいると、命蓮寺のある小山の下界から一羽の鳥が飛んできた。それが響子に向けて、右手を挙げる。
「来たよー響子」
「やっほーみすちー」
響子もまたミスティア・ローレライに向けて手を振り返す。バンド仲間との再会を喜ぶのも束の間、再び通用門が開いた。黒い半纏を羽根の上から羽織ったぬえが顔を出す。
「おや、懲りずに鳥獣伎楽かい? 寺の前で待ち合わせとは大胆だね」
その声を聞くや否や、二人がいっせいに振り返った。逆三角形の目をぬえに向ける。
「もう別に迷惑かけてないし! 音楽に寛容なオーナーにも会えたし!」
「ぬえさんには私らの溢れるロックンロールはわかんないのさ」
二妖怪が凄む。しかしぬえは尻込みするどころか、笑顔を崩すことすらなかった。
「メロディーもクソもない、ただの青年の主張をロックと言うんならね?」
「なにをう!」
「行こうみすちー、ぬえさんには私らの反骨は伝わんないよ」
二人は仲良く鼻息を吹き出し、そっぽを向いた。ぬえはといえば、石段を一段飛ばしで駆け下りていく響子とミスティアを、ケラケラ笑いながら見送っている。
ナズーリンは石段の途中で、二人の妖怪とすれ違いになった。終点に立つぬえを見上げる。
「おや、どうしたの鼠大将。連日ご主人の見守りとは精が出るね」
「そちらの優先順位は、今日のところは低い。あんまり足しげく通っても、すねるからね」
「違いない。で、今日の優先事項は?」
ナズーリンは石段の頂上にたどり着くと、人差し指をぬえに突きつける。
「ずばり、君だよ」
§
ぬえはナズーリンの話を聞くと、目を瞬きさせて彼女の言葉を繰り返した。
「素行調査だって?」「ああ」
ナズーリンは手を後ろに回してぬえの顔を見上げた。
「前々から君の普段の行動には興味があったんだ。結束の強い命蓮寺にあってもなお、君には独立独歩の節がある。そのうちご主人が悪い方向に唆されないか、私は心配でね?」
と、その辺を歩き回りながらまくし立てる。あまり嘘は言っていない。
「そういうのって、調査対象に秘密でやらない?」
「まったく反論できないが、君に気づかれずに調査を続けるのは困難極まる。だったら、最初から堂々と宣言するべきだと思ったまでさ」
「ははーん、読めたぞ」
ぬえは急に笑みを浮かべると、ナズーリンに詰め寄った。
「さてはご主人を口実に、私の正体不明を暴こうって心算かな?」
「なにを馬鹿な」
ナズーリンは語気の調子を普段通りに保つのに躍起になった。
「それで、返答は? このまま堂々と調査されるか、それともこっそりと調査されるか」
ぬえの顔色をチラチラうかがう。
「いいよ。堂々と素行調査されてあげる」
その反応を推察するよりはるか前に、返事があった。
「いいのか」
「ただし、条件が二つある」
ぬえはナズーリンの目の前で、人差し指を立てた。
「一つめは、調査結果を全てお前の胸のうちに止めること。口外しても悟られてもいけないよ」
「む、それは」
「別にお前の個人的な目的なんだから、問題ないでしょ?」
ナズーリンは口ごもった。反論の言葉をとっさに考えるが、ぬえは余裕を与えない。彼女の周囲にどす黒いオーラが立ち上るのを幻視した。
「言っとくけど、私は裏切りには厳しいからね? 口外しようものなら、ただちに正体不明の暗殺者がお前に差し向けられることになるだろう」
「ど、努力はする」
「努力だけじゃ駄目よ。ちゃんと誓わないと」
ぬえのオーラが引いていくのが見えた。ひとまず大きく息を吐き出す。
「それで、もう一つの条件とは?」
「それはだね」
§
それから一時間後。ぬえの姿は、境内にあった。口笛など吹きながら、竹箒を動かしている。周囲には彼女以外に、誰もいない。
(あいつめ、いったいなにを企んでいるのやら)
ぬえから少し離れた植木の木陰に、ナズーリンの姿があった。しゃがみ込む彼女の腕には、蛇のような物体が巻きついている。
(わざわざ私に正体不明のタネを渡すなんて、親切すぎやしないか? 周りに私がいることを気づかれるな、か。確かに理には叶っているが)
ゆらり、と目の前を誰かが通り過ぎた。歯を食いしばって悲鳴を堪える。周りからは木陰にたたずむ正体不明のなにかだと思われるとしても、やはり気づかれるのは具合が悪い。
しかも、相手は知った顔だった。臙脂の上着に虎柄の腰巻は、ナズーリンがよく知る星のものだ。しかし顔は赤らみ足取りのおぼつかない様子には、どうにも違和感があった。
「ぬえ」「ん。どしたの寅さん」
ふう、となにかを押し殺すように吐息をつく。ナズーリンの口があんぐり開いた。
「いつもの奴を、お願いできませんか。私にはもう、耐えられそうにありません」
ぬえは星の様子を見てにやけた笑みを浮かべる。
「堪え性がないなぁ、毘沙門天の代理を務めるお方が。では、人目につかない場所へ行こうか」
ナズーリンは目の前を通り過ぎる二人組を、ただ口を半開きにして見守った。
(人目につかない場所で、いったいなにを?)
§
眼前にちらつく、てらてらと輝いた肉棒に舌なめずりをする。
星はそれに夢中でむしゃぶりつき、食いちぎった。噛みしめるごとに頬の筋肉が緩んでいく。
「もう少し綺麗に食べようよ。ハングリータイガーに戻りかけてる」
ぬえが差し出したちり紙で口を拭くのもほどほどに、再び串肉との格闘に取りかかる。
「この歯ごたえ。噛みしめるたびに溢れる油脂の感触と味わい。なんと背徳的か」
「その割にはずいぶんと、満ち足りた顔をしていらっしゃる。聖には見せらんないね」
星はなおクチャクチャと口を動かしながら、独りごちるように言った。
「まったくです。虎の本性などとうに忘れたはずなのに、今もなお肉の味に抗えない」
その一部始終を、ナズーリンは物陰から観測していた。満面の青筋を浮かべながら。
(もう、唆されてた! ていうか他の奴に見つからないようにって、こういうことかい!)
昔っから蟒蛇癖や大食癖はあったが、目を離すとすぐこれである。最近は白蓮たちと一緒に精進料理ばかり食べているので、リバウンドもなおさらなのか。
そんなナズーリンの憤りなど、知ってか知らずか。星の目の前には、もはや綺麗にしゃぶり尽くされた竹串が数本残るのみとなった。余韻に浸る星に、ぬえが声をかけた。
「存分に楽しんだ? 例の奴を出してもいいかな」
「ぜひにお願いします」
「はいはい、お願いされますよ」
ぬえが星に向けて手を差し出すと、ワンピースの袖の下から正体不明のタネがぬるりと這い出てきた。それは星の腕に飛びつき、そのまま絡みつく。
すると彼女はたちまちのうちに「寅丸星に似た正体不明のなにか」になった。彼女の知人、例えば白蓮も一輪もナズーリンですらも、命蓮寺に足しげく通う在家信者も彼女を寅丸星としか認識しないだろう。視覚も、聴覚も、触覚も、嗅覚も。
ぬえはそれを見て、乾いた笑みを浮かべた。
「生臭物の匂いを隠すのに正体不明のタネを使うのなんて、寅さんくらいなもんよ。朴念仁なあんたがよくこんな悪智恵を思いついたわね」
「狂おしいほどの極限状態にあると、毘沙門天様が思わぬ天啓を与えてくださるようです」
「どんだけ血肉に飢えてんのよあんた。どんだけ代理人に寛容なのよ毘沙門天。まあ、いいわ」
ぬえが竹串を片付けにかかる。
「たとえ境内の中でも、あまり大っぴらに出歩かないようにね。あんたのことをよく知らない奴には普通にバレるんだから。匂いが消えたのを見計らって、返してもらいに来るからね」
「わかってます、わかっております。今回も上手くやります」
今回もか。再犯なのか。ぬえから受けた制約が心底呪わしい。あとで偶然装ってでも破戒の現場を暴き出して、毘沙門天にチクってやろうと本気で誓うナズーリンであった。勝手に天啓にすんな。なにうちのシンご主人様の品格を貶めとるんだ。
現場では、ぬえが星を手を振って送り出したところである。
「さて、次は」
ブゥン、と空気が揺れた。ぬえの背後に青白いオーラが像をなし、セーラー服の水夫として実体化する。振り向いたぬえは薄笑いを浮かべた村紗水蜜と目を合わせると、そのまま二三歩の距離を取った。
「何、幽霊みたいな登場してんの村紗」
「船幽霊だからねえ。星さんの生臭食いを見逃してたわね? 聖が知ったらどうなるかなぁ」
「周知の事実みたいなもんでしょうに。聖を除いたらの話だけど」
水蜜の手が、ぬえの肩にバスンと乗った。
「細かいことは、どうでもよし。黙ってもらいたかったら、わかってるわね?」
「しょうがないなぁ」
ぬえと水蜜、二人が肩を並べてその場を去る。ナズーリンは首をかしげながら、それを追いかけるしかなかった。
(ご主人の次は船長か。今度はなにをやらせるつもりなんだ?)
§
深い深い湖の底を、一匹の魚が泳いでいた。体長は大人一人ほどもある。というか、その上半身は和服を着た女そのものだった。
わかさぎ姫は、霧の湖を根城とする人魚である。日々湖の底を気ままに泳ぎ、いい感じの石を探したりいい感じの土左衛門を探したりして暮らしている。
そんな彼女が、今日は珍しいものを見つけた。船ごと沈んできたそいつは、人間によく似ていた。しかし背中には、けったいな翼みたいなものを生やしている。
沈みゆく彼女はわかさぎ姫に向けて右手を挙げると、口から空気を吐きながらこう言った。
「よ゙ぉ゙、げん゙ぎぃ゙?」
§
同じころ霧の湖の岸辺には、なぜかロープを手にした水蜜が立っていた。ロープの先は湖に向かい、水底に消えた先では細かい泡が登ってきている。
その泡がなくなったのを機に、水蜜が動いた。水際に寄って、ロープをたぐり始める。
「ぬえー、生きてるー?」
手元のロープが長くなるにつれ、水面に黒い影が見えてきた。上がってきたのはまごうことなく、腰にロープを結わえつけた水死体である。
やがて水死体は身じろぎすると、激しく咳き込んで水をひとしきり吐き出した。
「普通は死んでるよこんなもん」
「死なない奴だとわかってなかったら、こんなことやらないったら」
ぬえが水苔まみれの顔を上げる。加害者は犯行前の血行三倍増しな顔色でニコニコしていた。
「いやー満たされるわ。やっぱり生身を水難事故で沈めないとやっぱりもの足りないわー」
「そんなわけわからん水難フェチを抱えてんのは村紗くらいだよ」
さてその二人から少し離れた木陰にて、ナズーリンはやはりそのやり取りを見守っていた。
「船長の水没事故起こし癖は未だに改善してないと聞いてたが、こりゃ想像以上だな。ぬえに被害者役まで頼んでいたとは。聖は当然、こんなこと知らないよなあ。しかし」
ナズーリンは顎を撫でて、これまでのぬえの行動を思い起こす。一輪との弾幕決闘。星の肉食隠蔽。水蜜の水難被害者役。ぬえが唆している、というよりぬえが寺の者の欲求不満解消へ積極的に協力しているという風ですらあった。
「大妖怪様が、ずいぶんと安請け合いをするものだ」
岸辺では水蜜が、なぜかぬえを捨て置き歩き出していた。
「じゃ、あとのことはいつも通りに頼んだよ」「おー」
水蜜が立ち去ったあとで、ぬえはゆっくり身を起こす。そこでなぜか、湖に向け声を上げた。
「人魚、まだいるー?」
「はいはいここに」
水面が波立って、わかさぎ姫が顔を出した。ぬえが体を引きずって、水辺に近づく。
「改めて船を出したいんで、船頭頼んでいい? 妖精に絡まれるのは面倒だし」
「え、まさかあそこに行くんですか?」
「その、まさか。大丈夫、あんたの安全は保証するから。後払いになるけど、チップも払うよ」
ナズーリンは顔を上げると、やり取りする二人の向こう側を見た。霧の湖は、沖合の様子を見通すのが難しい。そこに船を出して行く先といったら、たったの一つしかなかった。
「あそこって、あそこか? まさか、私にも着いて来いと?」
§
渡航には一刻を要した。ナズーリンはダウジングを駆使して、どうにか無傷で湖の中州に降り立った。湖岸には桟橋などなく、ただぬえの乗ってきたと思える小舟が引き揚げられていた。
「やはり、ここか。行き先は、あそこしかないだろうなぁ」
眉尻を下げて、中州の中心を見る。霧の中にたたずむ真っ赤な館。この紅魔館が幻想郷屈指の危険妖怪が住む場所であることを、ナズーリンはよく知っていた。
門番のいる正門を避けて塀に近づく。その向こうには、使用人の気配がいくつかあった。
「忍び込むのは間違いなく自殺行為だな。正体不明のタネでどこまでごまかせるか」
「じゃあ、堂々と入ってみる?」「!」
無邪気な声が、すぐ脇から聞こえてきた。たちどころに全身の毛が逆立つ。ペンデュラムを握りしめて、ゆっくりと首をひねった。
西洋傘を差した小さく恐ろしい気配が、ナズーリンの真横に立っていた。
しくじった。こんな簡単に接近を許すとは、なんたる不覚。
「き、貴君は」
「とっさに敬称へ言い換えるとは、育ちのよさが垣間見えるね」
レミリア・スカーレットが笑みの中に鋭い牙を見せた。
「ちょうど話し相手がほしかったところだ。家主権限で招待してあげよう」
「話し相手で済むのかな、それは」
「安心なさい。来客を取って食ったりやしないから。咲夜、案内してあげな」
「かしこまりました」
ナズーリンの背後に、気配がもう一つ現れる。振り向けば長身のメイドが、最初からそこにいた風で立っていた。瞬時に、逃げられないと悟る。
「私になにかあったら毘沙門天が黙っちゃいないぞ」
「くだんの神が、悪魔に手出しできるんならね?」
§
同じころ、ぬえは薄暗い階段を降り続けていた。終点にたどり着くと、突き当たりの大扉を開く。ダンスが踊れる程度の広さがある空間に、天蓋付きのベッドがあるだけの部屋だった。
「やあ、お姫様。調子はどう?」
ベッドに座り込む影が、赤い瞳をうごめかせた。
「相変わらず、退屈で死にそうよ。死なないけれど」
天蓋を覆う薄いカーテンが揺れる。同時に、ぬえの手には三叉槍が現れていた。
部屋に甲高い金属音が響き渡る。いびつに曲がった黒い杖が槍を大きく弾かせ、跳び離れた。
「ずいぶん不機嫌だね。そんなにご無沙汰してなかったはずだけど」
「ろくな話し相手がいないと、フラストレーションが溜まるのも早いものよ」
フランドール・スカーレットが剃刀みたいな目で、ぬえの顔を見上げた。
「前々から、あなたのことは気に食わなかったのよ。羽根変な形だし、BGMかぶってるし」
「メタな欲求不満をぶち込んできたわ」
フランドールが空いた左手を空中に掲げた。手のひらの上に、雷光を放つ光玉が現れる。
「おまけに、あなた。私のクランベリー、パクったでしょう?」
「それは単純に偶然の一致っていうか、ただ似てるだけっていうか」
左手の光玉を、握りしめた。
§
ずん、と地の底から突き上げられるような振動に襲われた。手にしたティーカップの紅茶が大きく波を打ち、ぎりぎりのところで決壊を免れて止まる。
ナズーリンには凶悪な妖気が二つ、館の地下深くでぶつかり合っているのがわかった。
「初耳だね。ぬえがここでアルバイトしていただなんて」
「そういうのが知りたくて、あいつをつけ回していたのでしょう?」
テラスの対面にレミリアが座り、笑顔を浮かべている。背後に十六夜咲夜を控えさせて。
「重宝してるわ。腕は確かだしタフでもある。普段は竹林の不死人にお願いしてるんだけど、たまには弾幕に変化をつけてやらないといけないからね」
「妹君の力を知った上で、あいつから志願を?」
地下からはなお、断続的な振動が続いている。
「なんなら、お前も同席していいんだよ?」
「謹んで遠慮申し上げる」
アフタヌーンティースタンドから、マカロンを一つ手に取った。人里じゃお目にかかれない上質な甘味が、口いっぱいに広がる。生の喜びを、どうにか取り戻す。
やがてひときわ大きな振動を最後に、喧騒は収まった。しばらくしてぬえがテラスに現れる。黒いワンピースのそこかしこに破れ目をこさえていた。
「やー、妹様どんどん面倒になって大変だわ」
ぬえはナズーリンに構わず空席に座ると、無造作にチョコレートを一つつかみ取った。
「世話をかけるね」
椅子にもたれかかるぬえを、レミリアが労う。
「バイト代をちゃんと支払ってくれるなら、問題ないわ」
「心配はいらない。ちゃんと約束は守る」
レミリアが指を鳴らすと、咲夜が進み出る。両手に赤い綿布の包みを抱えて。うやうやしく置かれたそれは、テーブルの上でゴトンと重量感のある音を鳴らした。
ナズーリンの体に、電撃が走る。レア物の気配は音や匂いでわかるのだ。
咲夜が綿布を開くと黄色い光が溢れ出た。手のひら大ほどある金の延べ棒が収まっている。混じり気のまるでない純金と、ナズーリンには一目でわかった。
「これを、毎回?」
「危険手当も込み込みなら、これくらいは妥当でしょう?」
ぬえが淀みなく金塊を懐に収める。ナズーリンはレミリアに顔を向けた。
「竹林の不死人にもこいつを?」
「渡そうとはしてるんだけど、あまり興味がないらしくてね」
§
「ねえ、このストーキングスタイル続ける意味あるのかい?」
「もう少し付き合って? 二人連れだと否応にも目立つから」
§
人里の中心地から少し離れた場所に、一軒の小さな商店があった。店先の暖簾には、木の葉を模した家紋が描かれている。
その店内。二ッ岩マミゾウは竿秤にぬえの持ち込んだ金塊を乗せて、念入りに分銅の位置を直していた。重さを測りとり、その値を台帳に記す。
「いつもながら見事な純金じゃの。出元があれじゃが、いい値で売れることは間違いあるまい」
「佐渡の二ッ岩の見立てなら、間違いないね」
マミゾウが元の綿布に金塊を包む。
「して、これをどうする?」
「いつも通り、換金と資金洗浄をお願い。溶かすなり伸ばすなりいかようにも」
「その話なんじゃがのう」
マミゾウはチラチラとぬえの顔を眺めながら、煙管を取り出し、新しい煙草を詰める。
「実のとこ吸血鬼の嬢ちゃんとこの金はいわくがつくからのう。臭い消しに少々手がかかる。手数料を割り増しにしたいんじゃが」
二人の悪徳妖怪が、張り付いた笑顔で互いを見つめ合った。
「意地汚い奴だね。私になにをさせたいの?」
「話が早くて助かるわい」
§
二ッ岩商店の店先に、ぬえが現れる。彼女は手にした紙を丸めると、路傍に投げ捨てた。
ナズーリンは足元に転がってきたそれを拾い上げた。略式の地図である。二ッ岩商店の位置と『ココ』と記された目印が書いてあった。
「この場所に行って、返済を滞らせている重債務者から借金を取り立ててこい、ということか。あの親分なら財産を木の葉とすり替えるくらい造作もないだろうに」
笠で鼠の耳を、外套で尻尾を隠し路地を出る。ぬえから少し離れ、通行人の体であとを追う。
やがてぬえがたどり着いたのは地図の場所。長屋街にある古びた住宅の一つだった。
ナズーリンも物陰に入って、ぬえの様子を見守る。
「今度は借金取りの真似事とは。どれだけの仕事をこなしてるんだ?」
ぬえは引き戸の前に立つと、おもむろに裏拳で戸を叩いた。
「毎度ー二ッ岩商店でーす」
待つこと数秒。ぬえが再び裏拳を掲げたところで、扉が開いた。
「おああああああああ!」
奇声が轟く。目を血走らせた男が日の元に姿を現し、そこからは一瞬の出来事だった。
端的にいえば、その男は柳刃包丁を手にしていた。
「なんだと!?」
ナズーリンが状況を理解できたのは、ぬえがふらりと戸から離れたあとだった。腹部に包丁が突き立っている。ぬえは数歩たたらを踏むと、向かいの壁に倒れて動かなくなった。
一方刺した男はといえば、包丁を放した手はそのままにブルブル震えながら後ずさった。
「あ、あ、あわわ」「きゃーっ!?」
狼狽を覆い隠す悲鳴。長屋の奥から現れた女が、洗濯物の入ったたらいを取り落とした。
「ひ、人殺し、人殺しよー!」
「ちが、違う、ちょっと脅かすつもりだっただけで」
両隣から長屋の住人たちもわらわらと顔を出す。男はあっという間に取り囲まれ、意味不明の叫び声を上げることしかできずにいた。
「なんてことを」
ナズーリンもまた、その場で固まっているしかない。しかし彼女はまだ、冷静さを失ってはいなかった。最初に現れた女の頭に木の葉が乗っているのを、彼女は確かに見た。
「一芝居打ったってことか? まさかあれで死んじゃいないだろうな」
§
「痛い痛い、本当に死んじゃう」
「まったく、元気そうな瀕死の重傷じゃて」
マミゾウがヘラヘラ笑いながら、ぬえの腹に包帯を巻きつけている。
「いやはや大変じゃったのう。おぬしに頼んで正解じゃったわい。手下にやらせてたら本当に死人が出かねんからのう」
「予想してたくせに、なにを白々しい」
上からワンピースを着直す。身繕いを終えたところで、マミゾウから封筒を差し出された。
「報酬込みの、綺麗な銭じゃ。吸血鬼の臭い消しは任せておけ」
「できれば今度は、もう少し楽な仕事を振ってもらいたいわ」
ぬえが再び、二ッ岩商店から出てくる。ナズーリンはその様子を、店の裏手から見ていた。
「奴はあれだけの荒事までして手に入れた金を、なにに使うつもりなんだ?」
ナズーリンが思い返すだに、命蓮寺では羽振りよく生活している様子などない。時おり白蓮から小遣いをせびってすらいる。どこかにヘソクリを隠しているとも思い難い。
ぬえの背中を追おうとした、そのときのこと。ナズーリンの目の前を、妙に目立つ風体の女が通り過ぎた。紫色の着物を身につけたツインテールの女だった。
ナズーリンはその背中を二度見する。前に見たときと風体は異なるが、派手目な容貌でその正体について大方の察しはついた。
「あれは寺抜けした疫病神の依神女苑。ぬえが持つ財に誘われて現れたか」
その女苑が足早にぬえへ近づいていって、肩を叩く。
「いよう、おひさ」
ぬえは女苑を一瞥するだけで、歩みを止めない。しかし女苑も易々とは引き下がらない。
「マミゾウ親分のとこから出てきたね? やたら羽振りがいいみたいだけれど」
「あいにく、使い道はもう決まってんの」
女苑はぬえの返事を聞くや否や、瞬時に彫像みたくなった。ぬえはそんな女苑に振り返る。
「悪いけど疫病神が取り憑く要素はびた一文もない。分け前は期待しないほうがいいよ」
ぬえはそのまま歩み去る。女苑もまたそれをしつこく追おうとせず、ただ舌打ちして見送るばかりとなった。ナズーリンはその一部始終を見ていた。
「あの疫病神を一蹴するとは、本当に財欲がないと見える。金をなにに使うつもりなんだ?」
§
上空で太陽がさんさんと輝き、南向きの丘陵地を照らす。そんな一見のどかな場所に、物騒な弾幕決闘の轟音が立て続けに響いていた。
ナズーリンのすぐ真上を、極太のレーザー光が薙いでいく。彼女はそれを、腹ばいになってしのぐしかない。周りの妖精たちがはしゃごうとするのを、口に指を当てて必死になだめる。
「正気か、あいつは。まさか太陽の畑に用があるなんて」
決闘者たちは丘陵のふもとにいた。空中にぬえが陣取り、ハリネズミのごとく襲い来る弾幕から回避行動を繰り返していた。ついさっき刺された奴の動きには到底見えない。
「信用していいんだな? あの妖怪の注意を君は引きつけていてくれるんだろうな?」
ぎりぎり顔を出せる場所を探し、下界を見る。地上にあって一歩も動かず無敵の城塞として君臨しながら、そのたたずまいは日傘を差して散歩に出た淑女のような妖怪がいる。
永劫枯れない幻想の花、風見幽香が。
ぬえは幾多の使い魔を犠牲にしながら、槍一本分の距離にまで肉薄する。幽香はゆっくり日傘を閉じると、無造作にそれを振るった。武器同士の衝突とは思えないレベルの爆音が鳴り、ぬえの体が十数メートルほど弾き返される。
ぬえは靴の跡を一メートルほど残して地上に降り立つ。幽香はその間に傘を開き直していた。
「よく花を傷つけずに戦っていられるわね。なかなか虐めがいがあるわ」
「それはどうも」
身を低くしたまま、槍を構え直す。
「だけど、そろそろあんたの庭を荒らさずに戦うのも面倒になってきたわ。そろそろ非暴力的交渉を提案したいんだけど」
「内容によるわね」
ぬえはワンピースのボタンを外すと、胸元から封筒を引っ張り出した。
「人里で取引可能な現金。もっともあなたはこれそのものには興味ないでしょうから、これで入手可能なものでこちらの言い分を聞いてもらいたいの」
「具体的には?」
「二ッ岩印の腐葉土、畑の敷地分。品質は折り紙つき。これから向日葵の季節を迎える前に、土を作っておく必要はあるでしょう?」
幽香は口に手を当て、しばらく考え込む仕草を見せた。
「魅力的な提案だわ。花を大切にする子は好きよ。でも、土があったところで太陽の畑は広大、入れ替えには大変な手間がかかるわよねえ」
「まあ、その辺も問題ないよ」
§
一時間後。ナズーリンは眼下の光景を、目を細めて眺めていた。
太陽の畑のそこかしこに、ぬえがいる。ざっと五十人のぬえが、猫車を押したりスコップを操ったり、土いじりに勤しんでいた。ただしその姿は、一人を除いて全員紫色をしていた。
「紫鏡って、そういう使い方ありなのかい?」
幽香はといえば丘陵の片隅にパラソルなど立てて、テーブルにティーセットなど広げ無数のぬえの仕事ぶりを観客じみて眺めていた。
「ずいぶん手慣れてるじゃない。寺では土仕事もするのかしら」
ぬえ本体が山になった腐葉土を、スコップで広げていた。
「昔取った杵柄って奴よ」
§
腐葉土の散布が終わったのは、太陽の傾きがだいぶん大きくなってからのことだった。一人に戻ったぬえが大の字になって、丘陵に転がる。
「どうにか終わったわね。そこら辺はさすがというか」
ぬえは両足を持ち上げると、バネ人形じみた動きで再び立ち上がった。
「じゃ、あとのことはお任せするよ」
「まあ、あの子たちに手は出さないわ。安心なさい」
ナズーリンは丘陵に伏せたまま、その会話を耳に入れる。
「あの子たち?」
すると、ぬえが走り出した。ナズーリンのほうに向けて、一直線に。
「ちょ」
「いやー、今回はずいぶん難儀だったわ」
そんなことを言いながら、ナズーリンと肩を並べて伏せる。
「今回は、だって? あの妖怪のご機嫌を取って毎回なにをしてると言うんだい?」
「じきに、わかる」
そのとき、遠くから近づいてくる人影があった。大きな三角形のケースをかついだ二人組だ。ついさっき、ナズーリンも会ったばかりの。
「あれは、幽谷とローレライ。鳥獣伎楽か」
その響子とミスティアは、幽香のところまでやってくると深々とお辞儀した。
「オーナーさん、今晩はー!」
「はいはい、今晩は。ステージは自由に使っていいわ。あとの注意は、いつも通り。ライブが終わったら、ちゃんと現状復帰すること。草花を荒らさないこと。いいわね?」
「オッケーでーす!」
「いつもありがとうございます!」
駆け足で二人が去る。ナズーリンはその様子を眺めてから、ぬえを見た。
「まさか、君が風見幽香の機嫌を取る理由、っていうかこれまでやってきた荒事やらなにやらは全部、あの二人のためってことかい?」
ぬえはナズーリンに首を向けて、歯を見せる。
「弱者には弱者のガス抜きってものが必要だからね」
§
丘陵地の片隅に建つ能楽堂を模した建物に、妖力のスポットライトが灯る。その灯りを目印として、妖怪妖精が次々に集まってきた。
ぬえと幽香はステージを一望できる丘の上で、椅子とテーブルを並べてその様子を見ていた。ちなみにナズーリンは再び近くの茂みに隠れている。幽香はタンポポコーヒーのカップを傾けながら、ぬえを見た。
「あなたも酔狂ね。平安の大妖怪とあろう者が、弱小妖怪の根回しだなんて」
「幻想郷でも実力のヒエラルキーは残酷だからねぇ。増してあいつらの力は場所を選ぶ」
ぬえもまた、コーヒーを一口飲んだ。
「ここなら好き放題叫んでも人里までは届かないし、あんまりおいたする奴は怖い地主にお仕置きされる。騒ぐにはうってつけだわ」
「私は花を荒らす奴が嫌いなだけよ。地主でもなんでもないわ」
舞台の上が、明るくなった。観客たちがいっせいに叫び声を上げる。
「みんな、叫んでるかー!」
大音量と共に現れたのは、揃いのレザースーツにサングラス。鳥獣伎楽がライブの主役だ。
「今日も日頃の鬱憤を歌って叫んで吐き出そうぜぇ。みんな音を出せ、声を上げろ!」
エレキギターのでたらめなディストーションが鳴り響き、そこに歓声が混ざる。
「寺の掃除が終わらない! いつまでやってもゴミが出る! 昨日私は理由を知った! 同じ掃除担当の鵺妖怪が! 掃除をサボってる!」
「オワラナイ! ゴミガデル! ヌエガ! ヌエガ! ソウジヲサボル!」
音程もリズムもまるでないシャウトに、観客が合いの手を入れている。
「掃除をサボるな! 掃除をサボるな! 掃除を! サ! ボ! る! なーーーーっ!」
「アベ一休のオマージュとはいただけないなー、幽谷君。おまけに私怨かよ」
当のぬえはテーブルに肘を乗せたままクスクスと笑った。
「ひどい言われようね、あなた」
「妖怪はディスられてなんぼよ。好きなだけ言わしとけば」
ぬえは不意に言葉を切って、立ち上がった。椅子を引きながら幽香に手を挙げる。
「どうやら出番みたい。コーヒーどうもね」
「お粗末様」
幽香もナズーリンも、無言でぬえを見送った。彼女は一直線にライブ会場へ向かっている。
(今度はなにを始めるつもりなんだろう。忙しいことだ)
ナズーリンもまたぬえを追って動き出す。
§
ライブ客たちが腕を振り上げ、響子の声に合わせて叫んでいる。その合間をモッシュに合わせてすり抜けていく影があった。ミニチュアシルクハットを頭に乗せた、ツインテールの。
それは客の一人に目星をつけると、ゆっくりと距離を詰めていった。
その手が客の肩に触れる寸前。反対側の腕をやにわに抱えられた。
「あんたも大概、懲りん奴だね」「げっ」
女苑は顔を引きつらせた。ぬえは客のムーブに合わせつつ、彼女の肩をがっちり抱えている。
「悪いけど、ライブ客の財欲は狙わせないよ? 悪い噂が立つからね」
女苑は腕に力を込めた。
「ちったあ大目に見なさいよ。私だってね、たまには奪わないと生命の危機なのよ。疫病神的にも、実益的な意味でも」
歓声の中の引っ張り合いが、しばらく続いた。
「じゃあこうしよう。素直に着いてきて鬱憤を晴らすか。この場で鬱憤を晴らしてオーナーに二人まとめてぶっ飛ばされるか。好きなほうを選ばしてあげるというのはどう?」
「第三の道はなさそうよね、それ」
ドスン、とモッシュに紛れてぬえの肩を突いた。
「前者で妥協してあげるわ。案内しなさい」
§
同じころ、命蓮寺宿坊の大部屋では、聖白蓮以下門徒たちが精進料理の夕食を取っていた。
白蓮の向かいに、一輪、ぬえ、水蜜の三人がいた。動かないぬえを挟んで、一輪水蜜が座る。
「鵺さんは、いつごろ戻ってくるのかな?」
水蜜は一輪の問いに答える代わりに、空になった小鉢をぬえのものとすり替えた。
「最悪、朝になるかもね。鳥獣伎楽は夜通しのライブになることが多いから」
一輪もまた空になった椀を、ぬえのものと取り替えた。
「なんだかんだで面倒見がいいよね、鵺さんは」
「天下の大妖怪を自称している割には、ね」
そうやって、二人は黙々と三人分の膳を片付けていく。
「鵺さんがいなかったら、私たちここに居られたかな?」
「すぎた話よ。もしもを語ってたら、きりがないわ」
「船長はやっぱり、忘れたいのかしら? 地底のことは。私は時々、思い出しちゃうから」
「鬼のパワハラアルハラはきついわ、天井が低くて聖輦船は飛ばせないわ。あんな場所を忘れたくないってほうが、どうかしてるわ」
「ですよね」
一輪は眉を寄せ、それでも笑う。
「でも、鵺さんが来て多少はマシになったでしょう。あの人が地底にやって来たのは私たちより少しあとだったけれど、あの人は鬼を相手に引かないし媚びなかった」
「だいぶん危ない橋を渡りもしたけれどね。でも、みんなあいつが勝手に選んだ道。あいつの突拍子もない思いつきにもずいぶん振り回されたし。あいつがいてもいなくても地底の封印は解けてただろうし、とっとと逃げ出して聖を探しに行きもしたわ」
「でも、もしもよ。封印が解ける前に私たちが駄目になってたら、命蓮寺はどうなってたかな」
「一輪」
「千年よ、千年。姐さんにとっても私たちにとっても、気が遠くなるような時間だわ。もしもその間に私たちが追い込まれてまいってたときに、鵺さんがあんな」
「一輪」
そこで一輪は自分を呼ぶ声音が変わったこと、ぬえの背中越しに水蜜に背を叩かれていることに初めて気がついた。すぐ目の前に白蓮が座ろうとしている。
「ぬえの食事が進んでいないようですが、どうかしましたか?」
法衣の下にどっと汗が吹き出た。ぬえに反応はない。
「そ、そんなことはないですよ。ねえ、鵺さん」
「こいつのことですから、なんかまた良からぬことでも企んでるんじゃないですかぁ?」
一輪と水蜜がいっせいに言いつくろう。
「そうでしょうか?」
「そうですって。なんか体の調子も悪いみたいですし」
一輪が大仰に手を振り上げた刹那、片手がぬえの頭に触れる。勢いがことのほか強く、ぬえの体が後ろにかしいだ。
「え」
スローモーションのような動きで、ぬえが仰向けに倒れる。瞬間、正体不明のタネがぬえの背中からまろび出て、ぬえの正体が明らかになった。
「あ」
一輪と水蜜が口を半開きにして、畳の上に転がる藁人形を見下ろす。
「あら? おかしいですね?」
二人は滝のように汗を流しつつ、正面を見た。白蓮の、満面の笑みを。
「いや、あの、これは」
「これは、どう見てもぬえではありませんね? しかしあなたたちはこれに対して、親しげに話しかけていたように見えたのですが」
「ど、どうしてでしょうね。あはは」
白蓮が右の拳を、左手で握りしめる。ゴギリ、としか形容できそうにない音が出た。
「あなたたち、ぬえがどこにいるのか知りませんか?」
白蓮の後ろで、星の汗も滝と化していた。
§
人里の片隅にある酒屋で、二人の妖怪が肩を並べる。見た目年端もいかない娘二人が酒屋に入るなど誰か咎めそうなものだが、店主も客も慣れたものでなにも言わない。
女苑はお猪口に注いだ酒を、一息に飲み干した。
「はあ。結局しみったれた奴と、しみったれた酒を飲むオチになんのねー。切ないわー」
「なに言ってんの。どうせ荒稼ぎしたところで、似たようなオチになるわ」
女苑は酒気を帯びた顔をぬえに向ける。彼女は申し訳程度に減らしたお猪口を手にしていた。
「だいたいあんたが、なんで木っ端妖怪の面倒なんて見てるわけ? 聖にほだされたの?」
「別にほだされてなんかいやしないわ。まあ、性分って奴かな。ああいういじらしい奴らを見てるとね、無性にちょっかい出したくなるんだよ」
「なんでまた」
ぬえはほんの一瞬だけ、すぐ背後の壁をちらりと見た。
「あいつらはみんな、好きで妖怪になったわけではないんだからね」
女苑が顔をしかめている。ぬえは構わず、言葉を続けた。
「正直なところ、あの寺で念仏唱えたところで救われない妖怪はごまんといる。命蓮寺で奉公してたときのあんたが、そうであったようにね」
お猪口の酒を一口、ちびりとあおる。
「山彦は、その最たるもんでね。ちょっと返事を面白くした程度じゃ、とても追いつかない。ああやって発散させるのは、妥当なのよ」
「そういう気遣いは私に向けちゃくれないわけ?」
女苑は空になったお猪口を、人差し指でいじり回した。
「あんたはまだ、ふんだくれる相手がいるんだからいいでしょうに」
「その相手がライブ支援の残りカスしか持ち合わせがないなんて、世知辛いにもほどがあるわ」
「ははは、あいにくだったね。今回の儲けはマミゾウがほぼ総取りだ」
女苑が空の徳利を振り上げて、吠える。
「親父ー、冷酒お代わりねー! こいつ持ちで!」
「残金にも限りがあんだから、ほどほどにね」
§
無論ナズーリンは居酒屋の外で、安普請の壁越しに二人のやり取りを聞いていた。
「私はそうではないとでも言いたいのかい、鵺妖怪よ」
言って壁から離れ、歩き出す。
「物心ついたころから毘沙門天に師事して、仮初めのご主人に仕えていたときでも毘沙門天の加護があると思えば多少の苦難は耐えられた。そんな私では、君らのジレンマなどわかりようもないということか。なんだか、嫉妬してたのが馬鹿馬鹿しくなってきたよ」
ナズーリンは一人路地を歩き出し、完全に立ち去ろうとしたところで、振り返った。
「結局、あいつのどこに『羊』が入り込んでるのか、わからずじまいだったな。まあ、今さらどうだっていいか」
§
それからぬえが命蓮寺に戻ってくるまでに、三時間を要した。当然門限はぶっちぎりで過ぎ去ってしまっている。
彼女はふらつく軌道を描いて命蓮寺の門前に降り立つと、迷わず塀を飛び越えにかかった。槍を足がかりにして唐破風に取り付くと、そのまま乗り越える。
乗り越えた先に、白蓮がいた。
「ずいぶんと遅かったですね」
ぬえは唐破風に抱きついたまま数秒ほど、白蓮の笑顔を眺める。
それからゆっくりと、視線を逸らした。
「あーその、聖? 面倒くさいのにちょっと絡まれててね? 帰るのが遅れて悪いとは思って」
「一輪と船長が白状しました」
ぬえの笑顔が、明後日の方角を向いたまま固まった。
視線だけを、白蓮のほうに向ける。笑顔が崩れる様子はない。
「二人はあなたに唆されたと言っています。事実でしょうか?」
事実ではないが、否定はしない。白蓮に問い詰められたらそのように言い訳すればいいと諭したのは、誰ならぬぬえ自身なのだから。
「あの、聖? 怒らずに聞いてほしいんだけど」
「別に怒ってないですよ、私は」
「悪いけど、怒ってるようにしか見えない」
「あなたがどうして、寺を長く空ける必要があったのかについても、あの二人から聞きました」
ぬえは冷や汗を流している。
「響子は入門して日の浅い子です。当初は存在すらも危ぶまれていました。そんな妖怪に手を差し伸べたいという、あなたの気持ちもわからなくはありません」
「じゃあお咎めなしというわけには」
「ですが」
白蓮が魔人経巻を開く。虹色の光彩を放つ幾何学模様が行き来し始めた。
「寺の者に破戒を唆すことには、大いに問題があります。匂いでわかる程度に飲んで帰ってくるのもそう。あなたには少し厳しい折檻が必要でしょうね」
「結局そうなるのね、やれやれ」
ぬえは唐破風から、境内のほうへと飛び降りた。後ずさりして白蓮との間合いを作る。
「しかしそれで、はいそうですかってやられてやるわけにはいかない。存分に抵抗してやる」
「すっかり千鳥足になってますが?」
「こんなものハンデにもなりゃーしない。せいぜい足元をすくわれないようにすることね」
かくして深夜の命蓮寺境内で、新たな弾幕戦闘が幕を開ける。
「ははは、今日の聖はなかなか面白い動きだね。始める前からもう三人に分かれて見えるよ!」
「なにを言ってるんですか、あなたは」
闇の中に、二人の姿が消える。
§
同じころ、紅魔館。テラスではレミリアが咲夜を脇に控えさせて、月光浴を楽しんでいた。彼女はティーカップの上に、紅い月を収めて微笑む。
「昔から、羊って生き物は可哀想な奴だった」
「なんのお話です?」
「あの妖怪もまた、羊に似てるなと思ったのさ」
「蛇だか鳥だかよくわからない奴が、ですか?」
レミリアはティーカップを弄んだ。浮かんだ紅い月が波に飲まれ、消えていく。
「羊は神の供物ってことで、血を抜かれたり焼いて食われたりしてたらしい。やってることが羊か人間かの違いなだけで、我が敵どものやってたことは私らと大して変わんないわよね」
「あの妖怪は羊というより、山羊のほうが近いのではありませんか?」
レミリアは咲夜の言葉を聞くと、クスクスと笑い出した。
「スケープゴートってわけだ。どんな宗教でもああいう弱々しい生き物は、生贄の立場にされやすいものらしい」
血のように紅い紅茶を飲む。
「あいつがどのように羊のごとき自己犠牲の精神を身につけたのかは、定かではないけれど。あいつはそれを逆手にとって格を上げてる類まれなる妖怪さ。本人がそれでいいなら、存分に使わせてもらうまでだわ」
咲夜は小首をかしげた。
「利用されてるとわかって、あれは腹を立てないのでしょうか?」
「なぁに、心配はいらない」
レミリアは笑顔を咲夜に向ける。
「あいつは間違いなく、押しも押されもしない大妖怪だわ。周りのわがままを受け入れられるだけの余裕があって、また受け切れる自信もあるからこそ、ああしていられる。本人がそうでありたいうちは、やらしておけばいいのよ」
霧の向こうに、一瞬閃光が走ったように見えた。
§
地面にクレーターをうがち、傷だらけの妖怪が一人突っ伏していた。
それでも彼女は、歯を食いしばって立ち上がろうとする。ふとクレーターの縁に、一つの影が立っていることに気がついた。首に巻きつけたチョーカーから鎖が延びて、ボーリング玉ほどある球体三つに繋がっているあいつがいる。
そいつは彼女と目が合うと、穏やかな微笑みを浮かべた。
「迷える子羊よ。私はジーザスじゃないけれど、いっくらでも祈っていいわよん」
「間に合ってます」
(封獣ぬえと謎の羊 完)
男は青ざめた顔で、目の前にうずくまるものを見下ろした。その拳には血管が浮き上がる。
それは背中を除けば、年端もいかない童子と大差ない。背から生えているものはどんな鳥獣とも似ても似つかないいびつな翼だった。
暗い部屋の中に、数人の男たちが新たに現れる。
「長殿、やはり間宮、橘音の姿が見えませぬ」
「やはり、あの二人の仕業か。龍の髭を持て参じたのはあやつらであったな」
男たちがざわめいた。
「あやつらの献上した髭は、まったくのまがいものであったということだ。それにも気づかず術式を進めるとは、なんたる失態であろう」
「いかにいたしますか、長殿」
男は腰に帯びた刀を、ずらりと抜き放った。
「これを世に出してはならぬ。護国の獣がかような姿で現れたと知れば、帝が心を乱されよう」
部屋の中で、白刃のきらめきが走る。それは刀の切っ先を見るや、赤い目を鋭く光らせた。刹那それの体は大きく膨れ上がり、部屋に集まった男たちの上背をも上回った。
「何事だ」「こやつ物の怪に変じたぞ」「滅ぼせ。あやかしを滅ぼし尽くせ」
残る男たちも武器を次々に抜き放って、怪物に挑みかかる。闇の中で何人もの悲鳴と怒号、そして血しぶきが乱れ飛んだ。
全ての喧騒が収まり、残された男たちが暗がりに目を凝らした。怪物の姿は影も形もない。代わりに居たのは、全身をひどく切り刻まれて無残な屍と化した同胞たちの姿。自らの手の中には、血糊で汚れ果て刃こぼれを起こした刀剣が握られている。
屍の中に、あの奇異な翼を生やした異形の姿が見つかることはなかった。
§
「鵺さん、一勝負お願いしたい!」
昼下がり、命蓮寺の境内に空気を叩くような声が響き渡る。封獣ぬえは庭石に腰かけたまま、耳たぶを幾度か叩いてから聞き返した。
「ええ、また? 懲りないねえ」
「懲りませんとも。納得がいくまでやります」
雲居一輪が金輪を構える。憑依異変がひと段落ついて以降、ずっとこの調子だ。ぬえは失笑を浮かべると、庭石からゆっくり足を地に下ろした。
「まあ退屈してたから、いいけれども。少しは進歩したところを見せてよね? さもないと、いつまで経っても聖から半人前扱いよ?」
一輪の背後に、もりもりと雲山が湧いて出た。巨体の雲入道を背景にして一輪の鼻息は荒い。
「見せますとも。今こそ捲土重来よ、雲山」
「そこまでボロクソにした覚えはないんだけど」
しかし上がり切った一輪のテンションは衰えを知らない。
「今日こそ雲の第一人者として、こっちの雲のほうが強いのを証明して見せるわ!」
「え、対抗心燃やすのそこなんだ」
§
境内で弾幕決闘が始まる。命蓮寺でもひいては幻想郷でも、ありがちな光景だった。奉公に勤しんでいた妖怪たちが、しばし手を休めて行き交う弾幕を見守る。
その一角、本堂の前に寅丸星の姿があった。手をかざして、弾幕を張る一輪の様子を眺めている。その隣からもう一人、ナズーリンの声がした。
「あいつもなかなか、頑張るね」
「聖の『練習相手』になかなか指名されないから、一輪も必死なのですよ」
「や、一輪もそうだが、問題はぬえのほうさ。あいつも勝負を拒まない」
雲山の腕が百足みたく増えて、ぬえの頭上に降り注ぐ。加えて一輪からは掃射じみた横殴りの弾幕雨。それらの立体的攻撃をぬえは涼しい顔で避け続けている。
「ふーむ、言われてみれば。よほど自身の腕前に自信があるのでしょうかね」
「確証はないが、それは多分ご主人の勘違いだな」
「そうでしょうか」
ぬえの周りに半球型の円盤が現れた。それらが彼女を守る盾になると同時に、応戦へ転じる。
「ぬえが人間に作られた、というのは本当なんだろうか?」
不意にナズーリンが新たな話題を投じた。星が目を丸くして、彼女の姿を見下ろす。
「本人はその当時のことを覚えていないようですから、あくまで推測にすぎませんが」
星は指でこめかみを突いた。敬愛する大僧侶、聖白蓮の言葉を思い出す。
「許されたものではありませんが。平安の時代に十二支の獣を集め、麒麟のような霊獣を作り出そうという試みがあったようです。しかしその中に『辰』が含まれなかったこと、代わりに狐や狸などを含めたことなどが災いして、あの子は何者でもない者になったのではないか。というのが、聖の見解です。あの子が平安の人々に見せた『鵺の怪物』のような」
ナズーリンは口を「へ」の字に曲げたまま、星の話を聞いていた。
「不公平だな」
「なにがですか」
「言うなれば、運命って奴さ」
胸元のペンデュラムを握りしめる。ナズーリンの手甲には、青筋すら浮いていた。
「千年の研鑽を積んでも実力が頭打ちになる者なんて、山ほどいるというのに。あいつはそのように作られたというだけで、容易にそれを飛び越えていくんだ」
星は目を細める。毘沙門天の正当な使者である、鼠の大妖を。千年代理人を勤め上げた星と比べても、ナズーリンの生まれはずっと早い。
弾幕戦の風向きは、変わりつつあった。ぬえが円盤使い魔の威を借りて、一輪の懐へと飛び込んだ。振り下ろしかけた雲山の拳が、震えて動きを止める。
「例えばあいつの使う正体不明のタネ。全ての飛倉の破片を正体不明の飛行物体に変えてしまう程度の動員力を持つ。我が軍団に匹敵するほどのね。加えてあの猛虎のごとき格闘能力だ」
「いきなり我々形無しになりますね」
手にした三叉の槍、そして背中の翼だか触手だかよくわからない物体を巧みに操り、ぬえが追い込みをかける。一輪も金輪を振るって攻撃を受け流すが、手数が段違いに多い。
「加えて牛の胆力、猪の突進、犬の嗅覚と勇猛さ、兎の聴力」
「まあ、まあ、パワーでは聖に負けますよ、多分」
一輪が相打ち覚悟で反撃の金輪を繰り出す。ぬえは足を振り上げてトゥーシューズで金輪の打撃を受け止めると、その反動で後ろに飛び退いた。
「ははーっ!」
星たちのところまで伝わるほどの咆哮が上がる。
「加えて馬の脚力、猿の模倣、鳥の威圧的鳴き声、蛇の恐怖を誘う外観。なんでもありだな」
「龍まで入るといかようなものになっていたでしょうかね」
ナズーリンは指を折りながら、戦闘の様子を見上げた。
「ああ、全部で十一。今まで挙がったものは子丑寅卯辰巳午」
指がはたと止まる。戦闘の様子をもう一度見て、指を見直した。
「ナズーリン?」
そこで初めて、ナズーリンの首が星のほうを向いた。
「ねえ、ご主人。あいつのどこに、羊要素があると思う?」
星はしばらくナズーリンの顔を眺めた。そこから顎に手を当ててもう一度弾幕決闘の様子を見上げ、指だけそちらに向けながら再びナズーリンを見た。
「羊というと、あれでは?」
ぬえが鵺符「アンディファインドダークネス」を宣言して、黒雲に包まれる様子が見える。一輪と雲山に向けて突っ込んでいく黒い羊を、ナズーリンは再び見上げた。
「そんなことを言ったら、雲山のがよほど羊に近かろう」
ナズーリンは腕を組んだ。星が見下ろす目の前で、歩いて小さな輪を描く。
「羊といえば亜細亜の高地に住まう獣で、気が小さく群れることで身を守る。あの孤独を愛し、雲山の猛攻をも恐れないぬえとは似ても似つかないぞ」
ついにナズーリンは星から離れ、門に向けて歩いていった。
「おや、帰りますか? 夕飯くらい食べていけばいいのに」
「毛は暖かく毛布の原料としても用いられると聞くが、あいつはそんなに毛深くないしなぁ」
ナズーリンは星の声など耳に入らぬ様子で、そのままどんどん離れていった。星が呼び止めようかと手を空中に泳がせていると、上空で派手な爆音が聞こえた。
「あ」
一輪が斜め上の方向へ吹っ飛ばされる様子が、小さく見えた。
§
一輪は石畳の上で、雲山をクッションがわりにして大の字になる。空は雲一点もない快晴で、弾幕決闘の名残を微塵も残していなかった。
「畜生、これでもう五連敗かー」
「もうしばらくは修行が必要だね?」
黒い影が青空に割り込んできた。一輪は目を細め、ぬえのにやけ面を見上げる。
「もう、そんなに強いんですから、たまには姐さんの異変解決に協力をですね」
「やーよ、もったいない。別に異変の解決ばかりが、信徒を増やすとは限らないでしょ? ま、そんなことより」
ぬえが一輪の前にしゃがみ込んだ。目線の高さが合う。
「今回も私の勝ち。負けたペナルティとして、手を貸してもらうよ?」
「げ。またですか」
ごろり起き上がって、あぐらをかいた。
「わかりました、わかりました協力します。ただ、さすがの聖も感づき始めてますからね? ごまかしきれなくなっても、恨まないでくださいよ」
ぬえは短い呻きみたいな声を上げて、一輪から目線を逸らした。
「うん、まあ。早く済ませられるように、努力はする」
§
ナズーリンは命蓮寺から無縁塚まで飛んでいくと、片隅にひっそりと建つ小屋、自らの住処に降り立った。小屋の一面に山積みしたガラクタが崩れてないのを確認してから、中に入る。
壁一面を占めるケージから絶え間なく聞こえてくる鳴き声が、ナズーリンを出迎えた。彼女は淡々と飼料の袋を引っ張り出し、部下たちへ平等に分け与える。体格差や能力差で差別をしないのが軍団を健全に維持するコツである。
しかしその間もナズーリンは、頭に焼きついた羊の謎を忘れられなかった。
(うむむ。考えれば考えるほど気になってきたぞ。奴のどこに羊の要素があるのやら)
全てのケージに餌を与え終えると、部屋の中央に置かれた机に目をやった。びっしりと書き込まれた地図、学校の教室でしかお目にかかれない大きさの定規やコンパスなどを片隅に追いやると、セピア色に染まりかけた白紙を引っ張り出した。
(奴の羊要素を突き詰めれば、こんな私でもとっかかる隙を見つけられるかもしれない。ああ、認めるまでもなく妬み半分だ。しかし平安の大妖怪の弱みを握れる機会なんて、滅多にない。やってやるぞ。まずは奴の身辺調査だが)
子丑寅卯巳午申酉戌亥。紙に書き下してみたところで、腕を組んだ。
(これらの動物の感覚を持つあいつに気づかれず調査を進めるのは、間違いなく至難の技だ。我が軍団でも圧倒的に分が悪い。どこぞの地底妖怪みたく完全に気配を消せるわけでもなし)
ナズーリンは、しばらく十文字を見下ろした。ケージの手下たちがキイキイいっている。
やがて顔を上げ、ようやく声を発した。
「うむ。やはりこの手しかあるまい」
§
翌日の命蓮寺。門前に幽谷響子が現れた。手ぶらで通用門を閉めると、脇に置かれた虎の張り子像の前に腰かける。
「ふぃー朝の勤行終了」
そのまま般若心経なども唱えずへたり込んでいると、命蓮寺のある小山の下界から一羽の鳥が飛んできた。それが響子に向けて、右手を挙げる。
「来たよー響子」
「やっほーみすちー」
響子もまたミスティア・ローレライに向けて手を振り返す。バンド仲間との再会を喜ぶのも束の間、再び通用門が開いた。黒い半纏を羽根の上から羽織ったぬえが顔を出す。
「おや、懲りずに鳥獣伎楽かい? 寺の前で待ち合わせとは大胆だね」
その声を聞くや否や、二人がいっせいに振り返った。逆三角形の目をぬえに向ける。
「もう別に迷惑かけてないし! 音楽に寛容なオーナーにも会えたし!」
「ぬえさんには私らの溢れるロックンロールはわかんないのさ」
二妖怪が凄む。しかしぬえは尻込みするどころか、笑顔を崩すことすらなかった。
「メロディーもクソもない、ただの青年の主張をロックと言うんならね?」
「なにをう!」
「行こうみすちー、ぬえさんには私らの反骨は伝わんないよ」
二人は仲良く鼻息を吹き出し、そっぽを向いた。ぬえはといえば、石段を一段飛ばしで駆け下りていく響子とミスティアを、ケラケラ笑いながら見送っている。
ナズーリンは石段の途中で、二人の妖怪とすれ違いになった。終点に立つぬえを見上げる。
「おや、どうしたの鼠大将。連日ご主人の見守りとは精が出るね」
「そちらの優先順位は、今日のところは低い。あんまり足しげく通っても、すねるからね」
「違いない。で、今日の優先事項は?」
ナズーリンは石段の頂上にたどり着くと、人差し指をぬえに突きつける。
「ずばり、君だよ」
§
ぬえはナズーリンの話を聞くと、目を瞬きさせて彼女の言葉を繰り返した。
「素行調査だって?」「ああ」
ナズーリンは手を後ろに回してぬえの顔を見上げた。
「前々から君の普段の行動には興味があったんだ。結束の強い命蓮寺にあってもなお、君には独立独歩の節がある。そのうちご主人が悪い方向に唆されないか、私は心配でね?」
と、その辺を歩き回りながらまくし立てる。あまり嘘は言っていない。
「そういうのって、調査対象に秘密でやらない?」
「まったく反論できないが、君に気づかれずに調査を続けるのは困難極まる。だったら、最初から堂々と宣言するべきだと思ったまでさ」
「ははーん、読めたぞ」
ぬえは急に笑みを浮かべると、ナズーリンに詰め寄った。
「さてはご主人を口実に、私の正体不明を暴こうって心算かな?」
「なにを馬鹿な」
ナズーリンは語気の調子を普段通りに保つのに躍起になった。
「それで、返答は? このまま堂々と調査されるか、それともこっそりと調査されるか」
ぬえの顔色をチラチラうかがう。
「いいよ。堂々と素行調査されてあげる」
その反応を推察するよりはるか前に、返事があった。
「いいのか」
「ただし、条件が二つある」
ぬえはナズーリンの目の前で、人差し指を立てた。
「一つめは、調査結果を全てお前の胸のうちに止めること。口外しても悟られてもいけないよ」
「む、それは」
「別にお前の個人的な目的なんだから、問題ないでしょ?」
ナズーリンは口ごもった。反論の言葉をとっさに考えるが、ぬえは余裕を与えない。彼女の周囲にどす黒いオーラが立ち上るのを幻視した。
「言っとくけど、私は裏切りには厳しいからね? 口外しようものなら、ただちに正体不明の暗殺者がお前に差し向けられることになるだろう」
「ど、努力はする」
「努力だけじゃ駄目よ。ちゃんと誓わないと」
ぬえのオーラが引いていくのが見えた。ひとまず大きく息を吐き出す。
「それで、もう一つの条件とは?」
「それはだね」
§
それから一時間後。ぬえの姿は、境内にあった。口笛など吹きながら、竹箒を動かしている。周囲には彼女以外に、誰もいない。
(あいつめ、いったいなにを企んでいるのやら)
ぬえから少し離れた植木の木陰に、ナズーリンの姿があった。しゃがみ込む彼女の腕には、蛇のような物体が巻きついている。
(わざわざ私に正体不明のタネを渡すなんて、親切すぎやしないか? 周りに私がいることを気づかれるな、か。確かに理には叶っているが)
ゆらり、と目の前を誰かが通り過ぎた。歯を食いしばって悲鳴を堪える。周りからは木陰にたたずむ正体不明のなにかだと思われるとしても、やはり気づかれるのは具合が悪い。
しかも、相手は知った顔だった。臙脂の上着に虎柄の腰巻は、ナズーリンがよく知る星のものだ。しかし顔は赤らみ足取りのおぼつかない様子には、どうにも違和感があった。
「ぬえ」「ん。どしたの寅さん」
ふう、となにかを押し殺すように吐息をつく。ナズーリンの口があんぐり開いた。
「いつもの奴を、お願いできませんか。私にはもう、耐えられそうにありません」
ぬえは星の様子を見てにやけた笑みを浮かべる。
「堪え性がないなぁ、毘沙門天の代理を務めるお方が。では、人目につかない場所へ行こうか」
ナズーリンは目の前を通り過ぎる二人組を、ただ口を半開きにして見守った。
(人目につかない場所で、いったいなにを?)
§
眼前にちらつく、てらてらと輝いた肉棒に舌なめずりをする。
星はそれに夢中でむしゃぶりつき、食いちぎった。噛みしめるごとに頬の筋肉が緩んでいく。
「もう少し綺麗に食べようよ。ハングリータイガーに戻りかけてる」
ぬえが差し出したちり紙で口を拭くのもほどほどに、再び串肉との格闘に取りかかる。
「この歯ごたえ。噛みしめるたびに溢れる油脂の感触と味わい。なんと背徳的か」
「その割にはずいぶんと、満ち足りた顔をしていらっしゃる。聖には見せらんないね」
星はなおクチャクチャと口を動かしながら、独りごちるように言った。
「まったくです。虎の本性などとうに忘れたはずなのに、今もなお肉の味に抗えない」
その一部始終を、ナズーリンは物陰から観測していた。満面の青筋を浮かべながら。
(もう、唆されてた! ていうか他の奴に見つからないようにって、こういうことかい!)
昔っから蟒蛇癖や大食癖はあったが、目を離すとすぐこれである。最近は白蓮たちと一緒に精進料理ばかり食べているので、リバウンドもなおさらなのか。
そんなナズーリンの憤りなど、知ってか知らずか。星の目の前には、もはや綺麗にしゃぶり尽くされた竹串が数本残るのみとなった。余韻に浸る星に、ぬえが声をかけた。
「存分に楽しんだ? 例の奴を出してもいいかな」
「ぜひにお願いします」
「はいはい、お願いされますよ」
ぬえが星に向けて手を差し出すと、ワンピースの袖の下から正体不明のタネがぬるりと這い出てきた。それは星の腕に飛びつき、そのまま絡みつく。
すると彼女はたちまちのうちに「寅丸星に似た正体不明のなにか」になった。彼女の知人、例えば白蓮も一輪もナズーリンですらも、命蓮寺に足しげく通う在家信者も彼女を寅丸星としか認識しないだろう。視覚も、聴覚も、触覚も、嗅覚も。
ぬえはそれを見て、乾いた笑みを浮かべた。
「生臭物の匂いを隠すのに正体不明のタネを使うのなんて、寅さんくらいなもんよ。朴念仁なあんたがよくこんな悪智恵を思いついたわね」
「狂おしいほどの極限状態にあると、毘沙門天様が思わぬ天啓を与えてくださるようです」
「どんだけ血肉に飢えてんのよあんた。どんだけ代理人に寛容なのよ毘沙門天。まあ、いいわ」
ぬえが竹串を片付けにかかる。
「たとえ境内の中でも、あまり大っぴらに出歩かないようにね。あんたのことをよく知らない奴には普通にバレるんだから。匂いが消えたのを見計らって、返してもらいに来るからね」
「わかってます、わかっております。今回も上手くやります」
今回もか。再犯なのか。ぬえから受けた制約が心底呪わしい。あとで偶然装ってでも破戒の現場を暴き出して、毘沙門天にチクってやろうと本気で誓うナズーリンであった。勝手に天啓にすんな。なにうちのシンご主人様の品格を貶めとるんだ。
現場では、ぬえが星を手を振って送り出したところである。
「さて、次は」
ブゥン、と空気が揺れた。ぬえの背後に青白いオーラが像をなし、セーラー服の水夫として実体化する。振り向いたぬえは薄笑いを浮かべた村紗水蜜と目を合わせると、そのまま二三歩の距離を取った。
「何、幽霊みたいな登場してんの村紗」
「船幽霊だからねえ。星さんの生臭食いを見逃してたわね? 聖が知ったらどうなるかなぁ」
「周知の事実みたいなもんでしょうに。聖を除いたらの話だけど」
水蜜の手が、ぬえの肩にバスンと乗った。
「細かいことは、どうでもよし。黙ってもらいたかったら、わかってるわね?」
「しょうがないなぁ」
ぬえと水蜜、二人が肩を並べてその場を去る。ナズーリンは首をかしげながら、それを追いかけるしかなかった。
(ご主人の次は船長か。今度はなにをやらせるつもりなんだ?)
§
深い深い湖の底を、一匹の魚が泳いでいた。体長は大人一人ほどもある。というか、その上半身は和服を着た女そのものだった。
わかさぎ姫は、霧の湖を根城とする人魚である。日々湖の底を気ままに泳ぎ、いい感じの石を探したりいい感じの土左衛門を探したりして暮らしている。
そんな彼女が、今日は珍しいものを見つけた。船ごと沈んできたそいつは、人間によく似ていた。しかし背中には、けったいな翼みたいなものを生やしている。
沈みゆく彼女はわかさぎ姫に向けて右手を挙げると、口から空気を吐きながらこう言った。
「よ゙ぉ゙、げん゙ぎぃ゙?」
§
同じころ霧の湖の岸辺には、なぜかロープを手にした水蜜が立っていた。ロープの先は湖に向かい、水底に消えた先では細かい泡が登ってきている。
その泡がなくなったのを機に、水蜜が動いた。水際に寄って、ロープをたぐり始める。
「ぬえー、生きてるー?」
手元のロープが長くなるにつれ、水面に黒い影が見えてきた。上がってきたのはまごうことなく、腰にロープを結わえつけた水死体である。
やがて水死体は身じろぎすると、激しく咳き込んで水をひとしきり吐き出した。
「普通は死んでるよこんなもん」
「死なない奴だとわかってなかったら、こんなことやらないったら」
ぬえが水苔まみれの顔を上げる。加害者は犯行前の血行三倍増しな顔色でニコニコしていた。
「いやー満たされるわ。やっぱり生身を水難事故で沈めないとやっぱりもの足りないわー」
「そんなわけわからん水難フェチを抱えてんのは村紗くらいだよ」
さてその二人から少し離れた木陰にて、ナズーリンはやはりそのやり取りを見守っていた。
「船長の水没事故起こし癖は未だに改善してないと聞いてたが、こりゃ想像以上だな。ぬえに被害者役まで頼んでいたとは。聖は当然、こんなこと知らないよなあ。しかし」
ナズーリンは顎を撫でて、これまでのぬえの行動を思い起こす。一輪との弾幕決闘。星の肉食隠蔽。水蜜の水難被害者役。ぬえが唆している、というよりぬえが寺の者の欲求不満解消へ積極的に協力しているという風ですらあった。
「大妖怪様が、ずいぶんと安請け合いをするものだ」
岸辺では水蜜が、なぜかぬえを捨て置き歩き出していた。
「じゃ、あとのことはいつも通りに頼んだよ」「おー」
水蜜が立ち去ったあとで、ぬえはゆっくり身を起こす。そこでなぜか、湖に向け声を上げた。
「人魚、まだいるー?」
「はいはいここに」
水面が波立って、わかさぎ姫が顔を出した。ぬえが体を引きずって、水辺に近づく。
「改めて船を出したいんで、船頭頼んでいい? 妖精に絡まれるのは面倒だし」
「え、まさかあそこに行くんですか?」
「その、まさか。大丈夫、あんたの安全は保証するから。後払いになるけど、チップも払うよ」
ナズーリンは顔を上げると、やり取りする二人の向こう側を見た。霧の湖は、沖合の様子を見通すのが難しい。そこに船を出して行く先といったら、たったの一つしかなかった。
「あそこって、あそこか? まさか、私にも着いて来いと?」
§
渡航には一刻を要した。ナズーリンはダウジングを駆使して、どうにか無傷で湖の中州に降り立った。湖岸には桟橋などなく、ただぬえの乗ってきたと思える小舟が引き揚げられていた。
「やはり、ここか。行き先は、あそこしかないだろうなぁ」
眉尻を下げて、中州の中心を見る。霧の中にたたずむ真っ赤な館。この紅魔館が幻想郷屈指の危険妖怪が住む場所であることを、ナズーリンはよく知っていた。
門番のいる正門を避けて塀に近づく。その向こうには、使用人の気配がいくつかあった。
「忍び込むのは間違いなく自殺行為だな。正体不明のタネでどこまでごまかせるか」
「じゃあ、堂々と入ってみる?」「!」
無邪気な声が、すぐ脇から聞こえてきた。たちどころに全身の毛が逆立つ。ペンデュラムを握りしめて、ゆっくりと首をひねった。
西洋傘を差した小さく恐ろしい気配が、ナズーリンの真横に立っていた。
しくじった。こんな簡単に接近を許すとは、なんたる不覚。
「き、貴君は」
「とっさに敬称へ言い換えるとは、育ちのよさが垣間見えるね」
レミリア・スカーレットが笑みの中に鋭い牙を見せた。
「ちょうど話し相手がほしかったところだ。家主権限で招待してあげよう」
「話し相手で済むのかな、それは」
「安心なさい。来客を取って食ったりやしないから。咲夜、案内してあげな」
「かしこまりました」
ナズーリンの背後に、気配がもう一つ現れる。振り向けば長身のメイドが、最初からそこにいた風で立っていた。瞬時に、逃げられないと悟る。
「私になにかあったら毘沙門天が黙っちゃいないぞ」
「くだんの神が、悪魔に手出しできるんならね?」
§
同じころ、ぬえは薄暗い階段を降り続けていた。終点にたどり着くと、突き当たりの大扉を開く。ダンスが踊れる程度の広さがある空間に、天蓋付きのベッドがあるだけの部屋だった。
「やあ、お姫様。調子はどう?」
ベッドに座り込む影が、赤い瞳をうごめかせた。
「相変わらず、退屈で死にそうよ。死なないけれど」
天蓋を覆う薄いカーテンが揺れる。同時に、ぬえの手には三叉槍が現れていた。
部屋に甲高い金属音が響き渡る。いびつに曲がった黒い杖が槍を大きく弾かせ、跳び離れた。
「ずいぶん不機嫌だね。そんなにご無沙汰してなかったはずだけど」
「ろくな話し相手がいないと、フラストレーションが溜まるのも早いものよ」
フランドール・スカーレットが剃刀みたいな目で、ぬえの顔を見上げた。
「前々から、あなたのことは気に食わなかったのよ。羽根変な形だし、BGMかぶってるし」
「メタな欲求不満をぶち込んできたわ」
フランドールが空いた左手を空中に掲げた。手のひらの上に、雷光を放つ光玉が現れる。
「おまけに、あなた。私のクランベリー、パクったでしょう?」
「それは単純に偶然の一致っていうか、ただ似てるだけっていうか」
左手の光玉を、握りしめた。
§
ずん、と地の底から突き上げられるような振動に襲われた。手にしたティーカップの紅茶が大きく波を打ち、ぎりぎりのところで決壊を免れて止まる。
ナズーリンには凶悪な妖気が二つ、館の地下深くでぶつかり合っているのがわかった。
「初耳だね。ぬえがここでアルバイトしていただなんて」
「そういうのが知りたくて、あいつをつけ回していたのでしょう?」
テラスの対面にレミリアが座り、笑顔を浮かべている。背後に十六夜咲夜を控えさせて。
「重宝してるわ。腕は確かだしタフでもある。普段は竹林の不死人にお願いしてるんだけど、たまには弾幕に変化をつけてやらないといけないからね」
「妹君の力を知った上で、あいつから志願を?」
地下からはなお、断続的な振動が続いている。
「なんなら、お前も同席していいんだよ?」
「謹んで遠慮申し上げる」
アフタヌーンティースタンドから、マカロンを一つ手に取った。人里じゃお目にかかれない上質な甘味が、口いっぱいに広がる。生の喜びを、どうにか取り戻す。
やがてひときわ大きな振動を最後に、喧騒は収まった。しばらくしてぬえがテラスに現れる。黒いワンピースのそこかしこに破れ目をこさえていた。
「やー、妹様どんどん面倒になって大変だわ」
ぬえはナズーリンに構わず空席に座ると、無造作にチョコレートを一つつかみ取った。
「世話をかけるね」
椅子にもたれかかるぬえを、レミリアが労う。
「バイト代をちゃんと支払ってくれるなら、問題ないわ」
「心配はいらない。ちゃんと約束は守る」
レミリアが指を鳴らすと、咲夜が進み出る。両手に赤い綿布の包みを抱えて。うやうやしく置かれたそれは、テーブルの上でゴトンと重量感のある音を鳴らした。
ナズーリンの体に、電撃が走る。レア物の気配は音や匂いでわかるのだ。
咲夜が綿布を開くと黄色い光が溢れ出た。手のひら大ほどある金の延べ棒が収まっている。混じり気のまるでない純金と、ナズーリンには一目でわかった。
「これを、毎回?」
「危険手当も込み込みなら、これくらいは妥当でしょう?」
ぬえが淀みなく金塊を懐に収める。ナズーリンはレミリアに顔を向けた。
「竹林の不死人にもこいつを?」
「渡そうとはしてるんだけど、あまり興味がないらしくてね」
§
「ねえ、このストーキングスタイル続ける意味あるのかい?」
「もう少し付き合って? 二人連れだと否応にも目立つから」
§
人里の中心地から少し離れた場所に、一軒の小さな商店があった。店先の暖簾には、木の葉を模した家紋が描かれている。
その店内。二ッ岩マミゾウは竿秤にぬえの持ち込んだ金塊を乗せて、念入りに分銅の位置を直していた。重さを測りとり、その値を台帳に記す。
「いつもながら見事な純金じゃの。出元があれじゃが、いい値で売れることは間違いあるまい」
「佐渡の二ッ岩の見立てなら、間違いないね」
マミゾウが元の綿布に金塊を包む。
「して、これをどうする?」
「いつも通り、換金と資金洗浄をお願い。溶かすなり伸ばすなりいかようにも」
「その話なんじゃがのう」
マミゾウはチラチラとぬえの顔を眺めながら、煙管を取り出し、新しい煙草を詰める。
「実のとこ吸血鬼の嬢ちゃんとこの金はいわくがつくからのう。臭い消しに少々手がかかる。手数料を割り増しにしたいんじゃが」
二人の悪徳妖怪が、張り付いた笑顔で互いを見つめ合った。
「意地汚い奴だね。私になにをさせたいの?」
「話が早くて助かるわい」
§
二ッ岩商店の店先に、ぬえが現れる。彼女は手にした紙を丸めると、路傍に投げ捨てた。
ナズーリンは足元に転がってきたそれを拾い上げた。略式の地図である。二ッ岩商店の位置と『ココ』と記された目印が書いてあった。
「この場所に行って、返済を滞らせている重債務者から借金を取り立ててこい、ということか。あの親分なら財産を木の葉とすり替えるくらい造作もないだろうに」
笠で鼠の耳を、外套で尻尾を隠し路地を出る。ぬえから少し離れ、通行人の体であとを追う。
やがてぬえがたどり着いたのは地図の場所。長屋街にある古びた住宅の一つだった。
ナズーリンも物陰に入って、ぬえの様子を見守る。
「今度は借金取りの真似事とは。どれだけの仕事をこなしてるんだ?」
ぬえは引き戸の前に立つと、おもむろに裏拳で戸を叩いた。
「毎度ー二ッ岩商店でーす」
待つこと数秒。ぬえが再び裏拳を掲げたところで、扉が開いた。
「おああああああああ!」
奇声が轟く。目を血走らせた男が日の元に姿を現し、そこからは一瞬の出来事だった。
端的にいえば、その男は柳刃包丁を手にしていた。
「なんだと!?」
ナズーリンが状況を理解できたのは、ぬえがふらりと戸から離れたあとだった。腹部に包丁が突き立っている。ぬえは数歩たたらを踏むと、向かいの壁に倒れて動かなくなった。
一方刺した男はといえば、包丁を放した手はそのままにブルブル震えながら後ずさった。
「あ、あ、あわわ」「きゃーっ!?」
狼狽を覆い隠す悲鳴。長屋の奥から現れた女が、洗濯物の入ったたらいを取り落とした。
「ひ、人殺し、人殺しよー!」
「ちが、違う、ちょっと脅かすつもりだっただけで」
両隣から長屋の住人たちもわらわらと顔を出す。男はあっという間に取り囲まれ、意味不明の叫び声を上げることしかできずにいた。
「なんてことを」
ナズーリンもまた、その場で固まっているしかない。しかし彼女はまだ、冷静さを失ってはいなかった。最初に現れた女の頭に木の葉が乗っているのを、彼女は確かに見た。
「一芝居打ったってことか? まさかあれで死んじゃいないだろうな」
§
「痛い痛い、本当に死んじゃう」
「まったく、元気そうな瀕死の重傷じゃて」
マミゾウがヘラヘラ笑いながら、ぬえの腹に包帯を巻きつけている。
「いやはや大変じゃったのう。おぬしに頼んで正解じゃったわい。手下にやらせてたら本当に死人が出かねんからのう」
「予想してたくせに、なにを白々しい」
上からワンピースを着直す。身繕いを終えたところで、マミゾウから封筒を差し出された。
「報酬込みの、綺麗な銭じゃ。吸血鬼の臭い消しは任せておけ」
「できれば今度は、もう少し楽な仕事を振ってもらいたいわ」
ぬえが再び、二ッ岩商店から出てくる。ナズーリンはその様子を、店の裏手から見ていた。
「奴はあれだけの荒事までして手に入れた金を、なにに使うつもりなんだ?」
ナズーリンが思い返すだに、命蓮寺では羽振りよく生活している様子などない。時おり白蓮から小遣いをせびってすらいる。どこかにヘソクリを隠しているとも思い難い。
ぬえの背中を追おうとした、そのときのこと。ナズーリンの目の前を、妙に目立つ風体の女が通り過ぎた。紫色の着物を身につけたツインテールの女だった。
ナズーリンはその背中を二度見する。前に見たときと風体は異なるが、派手目な容貌でその正体について大方の察しはついた。
「あれは寺抜けした疫病神の依神女苑。ぬえが持つ財に誘われて現れたか」
その女苑が足早にぬえへ近づいていって、肩を叩く。
「いよう、おひさ」
ぬえは女苑を一瞥するだけで、歩みを止めない。しかし女苑も易々とは引き下がらない。
「マミゾウ親分のとこから出てきたね? やたら羽振りがいいみたいだけれど」
「あいにく、使い道はもう決まってんの」
女苑はぬえの返事を聞くや否や、瞬時に彫像みたくなった。ぬえはそんな女苑に振り返る。
「悪いけど疫病神が取り憑く要素はびた一文もない。分け前は期待しないほうがいいよ」
ぬえはそのまま歩み去る。女苑もまたそれをしつこく追おうとせず、ただ舌打ちして見送るばかりとなった。ナズーリンはその一部始終を見ていた。
「あの疫病神を一蹴するとは、本当に財欲がないと見える。金をなにに使うつもりなんだ?」
§
上空で太陽がさんさんと輝き、南向きの丘陵地を照らす。そんな一見のどかな場所に、物騒な弾幕決闘の轟音が立て続けに響いていた。
ナズーリンのすぐ真上を、極太のレーザー光が薙いでいく。彼女はそれを、腹ばいになってしのぐしかない。周りの妖精たちがはしゃごうとするのを、口に指を当てて必死になだめる。
「正気か、あいつは。まさか太陽の畑に用があるなんて」
決闘者たちは丘陵のふもとにいた。空中にぬえが陣取り、ハリネズミのごとく襲い来る弾幕から回避行動を繰り返していた。ついさっき刺された奴の動きには到底見えない。
「信用していいんだな? あの妖怪の注意を君は引きつけていてくれるんだろうな?」
ぎりぎり顔を出せる場所を探し、下界を見る。地上にあって一歩も動かず無敵の城塞として君臨しながら、そのたたずまいは日傘を差して散歩に出た淑女のような妖怪がいる。
永劫枯れない幻想の花、風見幽香が。
ぬえは幾多の使い魔を犠牲にしながら、槍一本分の距離にまで肉薄する。幽香はゆっくり日傘を閉じると、無造作にそれを振るった。武器同士の衝突とは思えないレベルの爆音が鳴り、ぬえの体が十数メートルほど弾き返される。
ぬえは靴の跡を一メートルほど残して地上に降り立つ。幽香はその間に傘を開き直していた。
「よく花を傷つけずに戦っていられるわね。なかなか虐めがいがあるわ」
「それはどうも」
身を低くしたまま、槍を構え直す。
「だけど、そろそろあんたの庭を荒らさずに戦うのも面倒になってきたわ。そろそろ非暴力的交渉を提案したいんだけど」
「内容によるわね」
ぬえはワンピースのボタンを外すと、胸元から封筒を引っ張り出した。
「人里で取引可能な現金。もっともあなたはこれそのものには興味ないでしょうから、これで入手可能なものでこちらの言い分を聞いてもらいたいの」
「具体的には?」
「二ッ岩印の腐葉土、畑の敷地分。品質は折り紙つき。これから向日葵の季節を迎える前に、土を作っておく必要はあるでしょう?」
幽香は口に手を当て、しばらく考え込む仕草を見せた。
「魅力的な提案だわ。花を大切にする子は好きよ。でも、土があったところで太陽の畑は広大、入れ替えには大変な手間がかかるわよねえ」
「まあ、その辺も問題ないよ」
§
一時間後。ナズーリンは眼下の光景を、目を細めて眺めていた。
太陽の畑のそこかしこに、ぬえがいる。ざっと五十人のぬえが、猫車を押したりスコップを操ったり、土いじりに勤しんでいた。ただしその姿は、一人を除いて全員紫色をしていた。
「紫鏡って、そういう使い方ありなのかい?」
幽香はといえば丘陵の片隅にパラソルなど立てて、テーブルにティーセットなど広げ無数のぬえの仕事ぶりを観客じみて眺めていた。
「ずいぶん手慣れてるじゃない。寺では土仕事もするのかしら」
ぬえ本体が山になった腐葉土を、スコップで広げていた。
「昔取った杵柄って奴よ」
§
腐葉土の散布が終わったのは、太陽の傾きがだいぶん大きくなってからのことだった。一人に戻ったぬえが大の字になって、丘陵に転がる。
「どうにか終わったわね。そこら辺はさすがというか」
ぬえは両足を持ち上げると、バネ人形じみた動きで再び立ち上がった。
「じゃ、あとのことはお任せするよ」
「まあ、あの子たちに手は出さないわ。安心なさい」
ナズーリンは丘陵に伏せたまま、その会話を耳に入れる。
「あの子たち?」
すると、ぬえが走り出した。ナズーリンのほうに向けて、一直線に。
「ちょ」
「いやー、今回はずいぶん難儀だったわ」
そんなことを言いながら、ナズーリンと肩を並べて伏せる。
「今回は、だって? あの妖怪のご機嫌を取って毎回なにをしてると言うんだい?」
「じきに、わかる」
そのとき、遠くから近づいてくる人影があった。大きな三角形のケースをかついだ二人組だ。ついさっき、ナズーリンも会ったばかりの。
「あれは、幽谷とローレライ。鳥獣伎楽か」
その響子とミスティアは、幽香のところまでやってくると深々とお辞儀した。
「オーナーさん、今晩はー!」
「はいはい、今晩は。ステージは自由に使っていいわ。あとの注意は、いつも通り。ライブが終わったら、ちゃんと現状復帰すること。草花を荒らさないこと。いいわね?」
「オッケーでーす!」
「いつもありがとうございます!」
駆け足で二人が去る。ナズーリンはその様子を眺めてから、ぬえを見た。
「まさか、君が風見幽香の機嫌を取る理由、っていうかこれまでやってきた荒事やらなにやらは全部、あの二人のためってことかい?」
ぬえはナズーリンに首を向けて、歯を見せる。
「弱者には弱者のガス抜きってものが必要だからね」
§
丘陵地の片隅に建つ能楽堂を模した建物に、妖力のスポットライトが灯る。その灯りを目印として、妖怪妖精が次々に集まってきた。
ぬえと幽香はステージを一望できる丘の上で、椅子とテーブルを並べてその様子を見ていた。ちなみにナズーリンは再び近くの茂みに隠れている。幽香はタンポポコーヒーのカップを傾けながら、ぬえを見た。
「あなたも酔狂ね。平安の大妖怪とあろう者が、弱小妖怪の根回しだなんて」
「幻想郷でも実力のヒエラルキーは残酷だからねぇ。増してあいつらの力は場所を選ぶ」
ぬえもまた、コーヒーを一口飲んだ。
「ここなら好き放題叫んでも人里までは届かないし、あんまりおいたする奴は怖い地主にお仕置きされる。騒ぐにはうってつけだわ」
「私は花を荒らす奴が嫌いなだけよ。地主でもなんでもないわ」
舞台の上が、明るくなった。観客たちがいっせいに叫び声を上げる。
「みんな、叫んでるかー!」
大音量と共に現れたのは、揃いのレザースーツにサングラス。鳥獣伎楽がライブの主役だ。
「今日も日頃の鬱憤を歌って叫んで吐き出そうぜぇ。みんな音を出せ、声を上げろ!」
エレキギターのでたらめなディストーションが鳴り響き、そこに歓声が混ざる。
「寺の掃除が終わらない! いつまでやってもゴミが出る! 昨日私は理由を知った! 同じ掃除担当の鵺妖怪が! 掃除をサボってる!」
「オワラナイ! ゴミガデル! ヌエガ! ヌエガ! ソウジヲサボル!」
音程もリズムもまるでないシャウトに、観客が合いの手を入れている。
「掃除をサボるな! 掃除をサボるな! 掃除を! サ! ボ! る! なーーーーっ!」
「アベ一休のオマージュとはいただけないなー、幽谷君。おまけに私怨かよ」
当のぬえはテーブルに肘を乗せたままクスクスと笑った。
「ひどい言われようね、あなた」
「妖怪はディスられてなんぼよ。好きなだけ言わしとけば」
ぬえは不意に言葉を切って、立ち上がった。椅子を引きながら幽香に手を挙げる。
「どうやら出番みたい。コーヒーどうもね」
「お粗末様」
幽香もナズーリンも、無言でぬえを見送った。彼女は一直線にライブ会場へ向かっている。
(今度はなにを始めるつもりなんだろう。忙しいことだ)
ナズーリンもまたぬえを追って動き出す。
§
ライブ客たちが腕を振り上げ、響子の声に合わせて叫んでいる。その合間をモッシュに合わせてすり抜けていく影があった。ミニチュアシルクハットを頭に乗せた、ツインテールの。
それは客の一人に目星をつけると、ゆっくりと距離を詰めていった。
その手が客の肩に触れる寸前。反対側の腕をやにわに抱えられた。
「あんたも大概、懲りん奴だね」「げっ」
女苑は顔を引きつらせた。ぬえは客のムーブに合わせつつ、彼女の肩をがっちり抱えている。
「悪いけど、ライブ客の財欲は狙わせないよ? 悪い噂が立つからね」
女苑は腕に力を込めた。
「ちったあ大目に見なさいよ。私だってね、たまには奪わないと生命の危機なのよ。疫病神的にも、実益的な意味でも」
歓声の中の引っ張り合いが、しばらく続いた。
「じゃあこうしよう。素直に着いてきて鬱憤を晴らすか。この場で鬱憤を晴らしてオーナーに二人まとめてぶっ飛ばされるか。好きなほうを選ばしてあげるというのはどう?」
「第三の道はなさそうよね、それ」
ドスン、とモッシュに紛れてぬえの肩を突いた。
「前者で妥協してあげるわ。案内しなさい」
§
同じころ、命蓮寺宿坊の大部屋では、聖白蓮以下門徒たちが精進料理の夕食を取っていた。
白蓮の向かいに、一輪、ぬえ、水蜜の三人がいた。動かないぬえを挟んで、一輪水蜜が座る。
「鵺さんは、いつごろ戻ってくるのかな?」
水蜜は一輪の問いに答える代わりに、空になった小鉢をぬえのものとすり替えた。
「最悪、朝になるかもね。鳥獣伎楽は夜通しのライブになることが多いから」
一輪もまた空になった椀を、ぬえのものと取り替えた。
「なんだかんだで面倒見がいいよね、鵺さんは」
「天下の大妖怪を自称している割には、ね」
そうやって、二人は黙々と三人分の膳を片付けていく。
「鵺さんがいなかったら、私たちここに居られたかな?」
「すぎた話よ。もしもを語ってたら、きりがないわ」
「船長はやっぱり、忘れたいのかしら? 地底のことは。私は時々、思い出しちゃうから」
「鬼のパワハラアルハラはきついわ、天井が低くて聖輦船は飛ばせないわ。あんな場所を忘れたくないってほうが、どうかしてるわ」
「ですよね」
一輪は眉を寄せ、それでも笑う。
「でも、鵺さんが来て多少はマシになったでしょう。あの人が地底にやって来たのは私たちより少しあとだったけれど、あの人は鬼を相手に引かないし媚びなかった」
「だいぶん危ない橋を渡りもしたけれどね。でも、みんなあいつが勝手に選んだ道。あいつの突拍子もない思いつきにもずいぶん振り回されたし。あいつがいてもいなくても地底の封印は解けてただろうし、とっとと逃げ出して聖を探しに行きもしたわ」
「でも、もしもよ。封印が解ける前に私たちが駄目になってたら、命蓮寺はどうなってたかな」
「一輪」
「千年よ、千年。姐さんにとっても私たちにとっても、気が遠くなるような時間だわ。もしもその間に私たちが追い込まれてまいってたときに、鵺さんがあんな」
「一輪」
そこで一輪は自分を呼ぶ声音が変わったこと、ぬえの背中越しに水蜜に背を叩かれていることに初めて気がついた。すぐ目の前に白蓮が座ろうとしている。
「ぬえの食事が進んでいないようですが、どうかしましたか?」
法衣の下にどっと汗が吹き出た。ぬえに反応はない。
「そ、そんなことはないですよ。ねえ、鵺さん」
「こいつのことですから、なんかまた良からぬことでも企んでるんじゃないですかぁ?」
一輪と水蜜がいっせいに言いつくろう。
「そうでしょうか?」
「そうですって。なんか体の調子も悪いみたいですし」
一輪が大仰に手を振り上げた刹那、片手がぬえの頭に触れる。勢いがことのほか強く、ぬえの体が後ろにかしいだ。
「え」
スローモーションのような動きで、ぬえが仰向けに倒れる。瞬間、正体不明のタネがぬえの背中からまろび出て、ぬえの正体が明らかになった。
「あ」
一輪と水蜜が口を半開きにして、畳の上に転がる藁人形を見下ろす。
「あら? おかしいですね?」
二人は滝のように汗を流しつつ、正面を見た。白蓮の、満面の笑みを。
「いや、あの、これは」
「これは、どう見てもぬえではありませんね? しかしあなたたちはこれに対して、親しげに話しかけていたように見えたのですが」
「ど、どうしてでしょうね。あはは」
白蓮が右の拳を、左手で握りしめる。ゴギリ、としか形容できそうにない音が出た。
「あなたたち、ぬえがどこにいるのか知りませんか?」
白蓮の後ろで、星の汗も滝と化していた。
§
人里の片隅にある酒屋で、二人の妖怪が肩を並べる。見た目年端もいかない娘二人が酒屋に入るなど誰か咎めそうなものだが、店主も客も慣れたものでなにも言わない。
女苑はお猪口に注いだ酒を、一息に飲み干した。
「はあ。結局しみったれた奴と、しみったれた酒を飲むオチになんのねー。切ないわー」
「なに言ってんの。どうせ荒稼ぎしたところで、似たようなオチになるわ」
女苑は酒気を帯びた顔をぬえに向ける。彼女は申し訳程度に減らしたお猪口を手にしていた。
「だいたいあんたが、なんで木っ端妖怪の面倒なんて見てるわけ? 聖にほだされたの?」
「別にほだされてなんかいやしないわ。まあ、性分って奴かな。ああいういじらしい奴らを見てるとね、無性にちょっかい出したくなるんだよ」
「なんでまた」
ぬえはほんの一瞬だけ、すぐ背後の壁をちらりと見た。
「あいつらはみんな、好きで妖怪になったわけではないんだからね」
女苑が顔をしかめている。ぬえは構わず、言葉を続けた。
「正直なところ、あの寺で念仏唱えたところで救われない妖怪はごまんといる。命蓮寺で奉公してたときのあんたが、そうであったようにね」
お猪口の酒を一口、ちびりとあおる。
「山彦は、その最たるもんでね。ちょっと返事を面白くした程度じゃ、とても追いつかない。ああやって発散させるのは、妥当なのよ」
「そういう気遣いは私に向けちゃくれないわけ?」
女苑は空になったお猪口を、人差し指でいじり回した。
「あんたはまだ、ふんだくれる相手がいるんだからいいでしょうに」
「その相手がライブ支援の残りカスしか持ち合わせがないなんて、世知辛いにもほどがあるわ」
「ははは、あいにくだったね。今回の儲けはマミゾウがほぼ総取りだ」
女苑が空の徳利を振り上げて、吠える。
「親父ー、冷酒お代わりねー! こいつ持ちで!」
「残金にも限りがあんだから、ほどほどにね」
§
無論ナズーリンは居酒屋の外で、安普請の壁越しに二人のやり取りを聞いていた。
「私はそうではないとでも言いたいのかい、鵺妖怪よ」
言って壁から離れ、歩き出す。
「物心ついたころから毘沙門天に師事して、仮初めのご主人に仕えていたときでも毘沙門天の加護があると思えば多少の苦難は耐えられた。そんな私では、君らのジレンマなどわかりようもないということか。なんだか、嫉妬してたのが馬鹿馬鹿しくなってきたよ」
ナズーリンは一人路地を歩き出し、完全に立ち去ろうとしたところで、振り返った。
「結局、あいつのどこに『羊』が入り込んでるのか、わからずじまいだったな。まあ、今さらどうだっていいか」
§
それからぬえが命蓮寺に戻ってくるまでに、三時間を要した。当然門限はぶっちぎりで過ぎ去ってしまっている。
彼女はふらつく軌道を描いて命蓮寺の門前に降り立つと、迷わず塀を飛び越えにかかった。槍を足がかりにして唐破風に取り付くと、そのまま乗り越える。
乗り越えた先に、白蓮がいた。
「ずいぶんと遅かったですね」
ぬえは唐破風に抱きついたまま数秒ほど、白蓮の笑顔を眺める。
それからゆっくりと、視線を逸らした。
「あーその、聖? 面倒くさいのにちょっと絡まれててね? 帰るのが遅れて悪いとは思って」
「一輪と船長が白状しました」
ぬえの笑顔が、明後日の方角を向いたまま固まった。
視線だけを、白蓮のほうに向ける。笑顔が崩れる様子はない。
「二人はあなたに唆されたと言っています。事実でしょうか?」
事実ではないが、否定はしない。白蓮に問い詰められたらそのように言い訳すればいいと諭したのは、誰ならぬぬえ自身なのだから。
「あの、聖? 怒らずに聞いてほしいんだけど」
「別に怒ってないですよ、私は」
「悪いけど、怒ってるようにしか見えない」
「あなたがどうして、寺を長く空ける必要があったのかについても、あの二人から聞きました」
ぬえは冷や汗を流している。
「響子は入門して日の浅い子です。当初は存在すらも危ぶまれていました。そんな妖怪に手を差し伸べたいという、あなたの気持ちもわからなくはありません」
「じゃあお咎めなしというわけには」
「ですが」
白蓮が魔人経巻を開く。虹色の光彩を放つ幾何学模様が行き来し始めた。
「寺の者に破戒を唆すことには、大いに問題があります。匂いでわかる程度に飲んで帰ってくるのもそう。あなたには少し厳しい折檻が必要でしょうね」
「結局そうなるのね、やれやれ」
ぬえは唐破風から、境内のほうへと飛び降りた。後ずさりして白蓮との間合いを作る。
「しかしそれで、はいそうですかってやられてやるわけにはいかない。存分に抵抗してやる」
「すっかり千鳥足になってますが?」
「こんなものハンデにもなりゃーしない。せいぜい足元をすくわれないようにすることね」
かくして深夜の命蓮寺境内で、新たな弾幕戦闘が幕を開ける。
「ははは、今日の聖はなかなか面白い動きだね。始める前からもう三人に分かれて見えるよ!」
「なにを言ってるんですか、あなたは」
闇の中に、二人の姿が消える。
§
同じころ、紅魔館。テラスではレミリアが咲夜を脇に控えさせて、月光浴を楽しんでいた。彼女はティーカップの上に、紅い月を収めて微笑む。
「昔から、羊って生き物は可哀想な奴だった」
「なんのお話です?」
「あの妖怪もまた、羊に似てるなと思ったのさ」
「蛇だか鳥だかよくわからない奴が、ですか?」
レミリアはティーカップを弄んだ。浮かんだ紅い月が波に飲まれ、消えていく。
「羊は神の供物ってことで、血を抜かれたり焼いて食われたりしてたらしい。やってることが羊か人間かの違いなだけで、我が敵どものやってたことは私らと大して変わんないわよね」
「あの妖怪は羊というより、山羊のほうが近いのではありませんか?」
レミリアは咲夜の言葉を聞くと、クスクスと笑い出した。
「スケープゴートってわけだ。どんな宗教でもああいう弱々しい生き物は、生贄の立場にされやすいものらしい」
血のように紅い紅茶を飲む。
「あいつがどのように羊のごとき自己犠牲の精神を身につけたのかは、定かではないけれど。あいつはそれを逆手にとって格を上げてる類まれなる妖怪さ。本人がそれでいいなら、存分に使わせてもらうまでだわ」
咲夜は小首をかしげた。
「利用されてるとわかって、あれは腹を立てないのでしょうか?」
「なぁに、心配はいらない」
レミリアは笑顔を咲夜に向ける。
「あいつは間違いなく、押しも押されもしない大妖怪だわ。周りのわがままを受け入れられるだけの余裕があって、また受け切れる自信もあるからこそ、ああしていられる。本人がそうでありたいうちは、やらしておけばいいのよ」
霧の向こうに、一瞬閃光が走ったように見えた。
§
地面にクレーターをうがち、傷だらけの妖怪が一人突っ伏していた。
それでも彼女は、歯を食いしばって立ち上がろうとする。ふとクレーターの縁に、一つの影が立っていることに気がついた。首に巻きつけたチョーカーから鎖が延びて、ボーリング玉ほどある球体三つに繋がっているあいつがいる。
そいつは彼女と目が合うと、穏やかな微笑みを浮かべた。
「迷える子羊よ。私はジーザスじゃないけれど、いっくらでも祈っていいわよん」
「間に合ってます」
(封獣ぬえと謎の羊 完)
ぬえのことはよく知りませんが、読んでいて楽しかったです
ただ力で君臨するだけじゃないぬえの在り方がなんというか凄く好みです。