朝目覚めるとわたしは普通の妖怪になっていた。
最初はむしろ浮遊感、空に溶けるその感じから始まり、次に毛布の暖かさだった。
わたしは頭まですっぽり毛布に包まりながら、ふわふわと寝惚けた頭で、今日はとっても寒い日だね、って思った。実際、あの朝に毛布の外はあまりにも寒すぎたんだよ。ぴしぴしと冷気がと肌を裂く音が聞こえるくらいだった。それだから逆に、わたしの体温とポリエステルの包温力が時間をかけて作り上げたその隙間、毛布と敷き布団の重ね合わせられた部分が、とてもとても暖かく感じられてわたしはいつまでもそこにいたいって思っていた。その場所にかすかに残る曖昧な夢の名残に浸りながら、このままずっと微睡みを想っていたいと思ったんだよ。微睡みは浮遊する感覚、じうと小さな音が鳴り溶け出して消えてしまう前の最期の触れ感、それは透明になって消えていく肌が、わたしたちの周りを覆い漂う暖かい空気との接触をちょっとずつ失っていって、その消失の間際に触れるか触れないかで触れていたかすかな柔らかい触感だった。その朝はとても冷たくて、だからとても暖かったのに、それは暖かすぎた。暖かさの中にいる、という確かな手ざわりがわたしにあった。それがあんまりにもはっきりした手ざわりだったからわたしは驚いて微睡みから覚めてしまったんだよ。そのあとで夢の続きを見たいと思った。そうして夢を夢を続きをもっと見たいと強く願えば願うほどにその思考の確かさによってわたしはどんどん現実に引き戻されていき、そんなふうに四苦八苦もがいてればやがて布団の中の暖かさも冷気と混じり合ってなくなって、そして最後には、いる、という実感だけが残った。わたしはいた。ここに。ひとりで。
そのあとには匂いを嗅いだ。卵の腐ったような、鼻の奥に貼り付けて消えないかすかな匂い。それはこの部屋に漂う匂いだった。わたしはそれを知らなかった。そんな匂いが自分の部屋からするなんてなんだかとても嫌だった。あまりにも嫌だったからそれは本当は気のせいなんじゃないかって、たとえば起きたばかりのわたしの鼻がばかになってるだけじゃないかなって、何度もふんふん鼻を鳴らして確かめてた。でも、それはしかたないことだったんだよ。この部屋には、里で盗んできたお弁当のゴミ、腐敗する食べ物、何日も洗ってないまま積み上げられた衣服たち。それらが視界に溢れ、足の踏み場もない。掃除をしたいって思った。ああ今すぐこの部屋を掃除したい、掃除をしなきゃ掃除をしなきゃ、今が寝起きじゃなかったらすぐにでも掃除をしたかったのに今は起きたばかりだから掃除ができなくて、だって寝起きですぐ掃除をするなんてできないよ。なんだか泣きたくなって目頭が痛くなってきたところに、血の匂い。それは部屋の片隅に吊るされた、半端な血抜きをされた、猫と小さな子供の死体だった。わたしは驚いちゃった。わぁ、とか言ってしまった。ちょっとだけ涙が出た。
そして、わたしは、もう二度と無意識に入り込むことがそれを操ることができないんだってこと知ったのだ。
★
知ったから、もう二度と忘れない。忘れられない。
★
それからわたしは里に降りてみることにした。
朝の澄んだ空気を切り裂いた。
わざと無邪気な感じを装いながら歩いていた。
別に理由なんかなかったんだよ。
その意味ではこのちょっと唐突なお散歩も無意識の産物だったけれど、でも、今までわたしを突き動かしてきた”無意識”とそれは全然違う。
今はこの理由ない散歩にも明確な論理があった。
わたしは混乱してた。
さとり妖怪の瞳を閉ざしてからというもの無意識の世界に入り込みそれからは無意識なりに好き勝手やっていたわたしはある日突然普通の妖怪になってしまい、ここで、こうして何もかもがわからなくなりどうしていいか途方に暮れとりあえず歩くことにしたのだ。
まるでルールのわからないスポーツ・ゲームに突然放り込まれたみたいだった。
その混乱をたしかなものとして今わたしは感じることができた。
わたしは混乱してると思うことができた。
今はぐるぐるがわたしの頭の中にある。
それは昔はわたしの目に映っていたぐるぐるだ。
昨日までは世界の方がぐるぐるだった。
世界があんまりにもぐるぐるだったから目を回してしまわないようにわたしは瞳を一つ閉じたのに今ではわたしの頭の中の方にそのぐるぐるがあって、むしろ世界ははっきりした形をしているのだった。
踏みしめる舗装された道、風呂桶を持って朝から銭湯に向かう人たち、のろのろと開店準備する露天の店員、その全てに堅牢な論理があった。
建物にはその構造と設計が、人々には動機と衝動があった。今はわたしにも同じのがある。似たような動機と衝動が。
わたしはつと八百屋の前で足を止めた。
お腹が空いたな、とわたしは思った。
それから、手を伸ばして、りんごの赤い山からりんごを一つ取って食べてみた。
じゃくじゃくと、甘い、酸っぱい、思ったよりずっと酸っぱいりんごだった。
八百屋の店主がわたしを見つめていた。
わたしはもう一口りんごを齧った。
八百屋の店主はまだわたしを見ていた。
いったいなんなんだろうこの嫌な感じは、あの不快な目は、今のこの時のじくじくと染み出すような時間の流れは。まるでお気に入りの服に、ジャム/ケチャップをこぼしちゃって拭き取るものもなくとりあえずあたりを右往左往するような気分だった。
八百屋の店主はまだわたしを見ていた。
それは慣れ親しんだ色合いの瞳、ただその形、きゅぅうと絞り込んで焦点をあわせた瞳孔の形だけが、なんだか知らなくて、そして少しだけ懐かしかった。
その瞳には困惑と怒り、そしてその対象があった。
八百屋の店主はわたしを見てた。
わたしは見られていたのだ。
八百屋の店主はその批難めいた強い視線によって開店前のお店の果物を勝手にむしゃむしゃと食べてしまうわたしのことを刺していた。
えへへ、とわたしは笑った。
ポケットを探ると少しばかりのお金があった。
それをすぐ横の台に置いて、何も言わずに、えへへへへへと曖昧な笑みを浮かべながら、二、三歩後ずさり、そして走って逃げた。
気がつくと里外れの河川敷までやってきていた。
顔が火照っていた。
その川面に顔を映してみると、わたしはまだ、えへへへと曖昧な笑みを浮かべていた。
あの人わたしがりんごを盗み食いしたと思ったのかな。そんなことするわけないじゃんよっぽど人が信用できないんだねきっと友だちとかもいないよあいつとか頭の中で言葉を綴りながら、怖かったと思った。
それから座り込み、たぶんお金は足りなかっただろうと思った。
ため息をついた。
あの目が脳裏に焼き付いて離れない。
あの八百屋の店主の、わたしを刺してばらばらにしてしまった目が。
それはこういう意味だった。
お前が そこにいるのを 俺は知っている。
どうして、わたしは急に在るようになったんだろう。
最後の夜に何かがあったとか。
思い出は泥のよう。
無意識に身を任せて過ごしているときの事は、スーパーカー・フェノメノンみたいにしか思い出せない。
昔、誰かから聞いたんだ。
別の世界の乗り物。
とっても速いから、その乗り物の中から外を眺めると、世界が色のついた線にしか見えなくなってしまう。
それがどんな感じかって、せいぜいが飛んで時速11kmのわたしにはわかんないけど、たくさんの空気抵抗で重い気がした。
まるで泥の中を飛ぶみたいにね。
そしたらお燐が笑ってた。
あはは。ねえ、こいし様、一度お空に乗せてもらって地上の空を飛ぶといいですよ。こいし様は空を飛んだことがないからそう思うんです。速いことは軽いことですよ。そう、それだからあんまりに速くなると、自分がなくなったような気がするんです。まるで空気の一部になったみたいにね。消えてしまう消えてしまう、と思いながら怖くなって、やがてそのことさえも考えられなくなる。あ、だからさ、逆にお空のやつはなんも考えてないからあんな速く飛べるんですかねえ?
でもさ、たとえば、早歩きしてると足が重くなるし速く走れば走るほど疲れて体は重くなるでしょ? だから、速いのは重い!ってわたしは思ったの。
そういうものですかねえ。あたいもけっこーばかだからわかんねえや。でも空を飛ぶのはすごく気持ちいいですよ。それは保証します。
そっか、じゃあお燐は消えたいの?
へぇ!?
大丈夫? 辛いこととかある? あ、もしかしてお姉ちゃんとかから虐められてる?
いや、いや、いや、大丈夫です。さとり様にもよくしてもらってますし。っていうか、なんで、そんなふうになっちゃうんですか。
だって、お燐さっき速く飛ぶのは消えちゃうみたいだって言ったから……。それなのに、飛ぶのは気持ちがいいとか言うからお燐は消えちゃいたいんだなあ、とか思って。それはわたしやだし。でも、お燐がどうしてもって言うならわたしいいよ。我慢する。
大丈夫、大丈夫、大丈夫ですって。それはなんていうか言葉の綾っていうか、消えちゃうのは怖いんですけど、飛ぶのは気持ちよくて、それは怖いから気持ちいいってわけじゃなくて、気持ちいいけど怖いみたいな。因果じゃなくて並列みたいな? いや、なんだろ。うまく言えないですけどあたい。でも、大丈夫です。
そう?
はい。でもこいし様は優しいですね。そんな心配をしてくれるなんて。
だって、わたし、お燐が消えちゃったらやだよ。ある日突然いなくなっちゃうとか。お燐は猫だから、とか思って……。
心配しないでください。わたしはもう牙を抜かれた飼い猫です。ほら、噛んでも全然痛くないです。がぶり。
あはは、いたいいたい、いたいってばお燐。
そうですかあ? えへへ。
たぶんそれはわたしが無意識の世界で暮らすよりも、もっと前の思い出。
それもやっぱり線になって溶けてしまった曖昧な記憶のひとつで。
だから、わたしの想像の中では、今もスーパーカーは泥の中を飛んでいる。
でも、その泥をかきわけて探しても、わたしが今こうなってしまった理由のようなものはどこにも見つからなかった。
あるいはそれは元々の予定みたいなものだったかもしれないね。
別に何かあったわけじゃない。
わたしは特に理由もなく普通の妖怪になっちゃった。
ううん、理由ならある。
あの第三の目を潰しちゃったことだ。
第一、心を読むことのできるさとり妖怪がその目を潰しただけで、無意識を操る妖怪になっちゃうなんてなんだか変な話だよ。
自分のことながら、納得がいかない。
心を読むことのできる妖怪がその力を失ったら、ただの心の読めない妖怪になる。
それが道理だよ。
ありきたりな生き物の考える道理。
もちろんわたしもその一人なので。
だから、あの期間、まるで夢を見ているようだった数年のことはなんていうか移行期間のようなものだったんだと思う。
それは、故障の夢。
目を潰して力を失うまで身体の不具合のせいで、今の形に神経が馴染むまでどこかがちょっとだけ狂ってしまって、違う自分になって生きる夢を見ていたのだ。
でも、もう大丈夫。
お姉ちゃん、わたしはすっかり元気だよ。
そんなことをとりとめもなく考えていると、頭の後ろのあたりがじいんと重く疼いているのに気がついた。
考えの内容で深く悩んでしまい頭が鈍く疼いてるわけじゃなかった。
考えると脳みそが疲れてじんじんする。
それは、考えることそのものの重さだった。
そういえば意識は痛みのない鈍痛だったんだ、とわたしは思い出した。
それからわたしは盗んだりんごをもう一度齧ってみた。
やっぱり、酸っぱい味。
こんなりんごでお金取るなんてひどいよね。潰れちゃえばいいんだ。もう二度とあんな八百屋に行くもんか。
っていうか、行けるわけないよね。
じゃくじゃくと、酸っぱい、ちょっと甘い味。
ため息をついた。
じゃくじゃくじゃく。
歯茎から血が出てた。
じゃくじゃくじゃくじゃくじゃく。
★
わたしはもう誰にも忘れられない。忘れてもらえない。
★
歯磨き、手洗い、うがい。
最近はわたしそればかりをやっている。
この前わたしは無意識を操れなくなった。
そのときついでに普通の人でも持っているような無意識さえもなくしてしまったみたいだった。
その無意識は習慣ともいうらしい。
最初の頃はかなり困った。
服の着方がわからなくなった。家出るときに半分の確率で鍵を閉め忘れた。鍋の熱い部分に思い切り触って火傷した。いろんなところに足をぶつけた。眠ることのできる姿勢がわからなくて眠れなかった。里に出て家に帰れなくなった。ばったり出会った知り合いの名前が出てこなかった。まばたきを忘れた。ぐちゃぐちゃに散らかった部屋の中から必要なものを見つけられなかった。
でも、ここのところ、わたしはわたしの無意識を取り戻しつつある。
ときどきは、調子に乗って、いつか昔みたいに戻れるかもしれない、とか思う。
昔みたいにまた無意識を操ることができるようになるんじゃないかなって。
そうだ、わたしは空っぽになってしまいたかった。
ひとつには生活のことがある。
とにかくまずお金のことだ。
部屋の中を探し回ったら、なんとか一ヶ月かそこらはそれなりに暮らせそうなくらいのお金がなぜか見つかった。
どこから持ってきたのかもう思い出せないけれど、それはそれとしてとにかくそれはもらうことにした。
それでもそのあとのことはなにも考えられなかったのだ。
なにせこれまでまともに暮らしたこともなかったんだもんね。
昨日までは、いつでも好きなものが好きなときに食べられた。
欲しいものは何でもバレずにうちまで持ってくることができた。
行きたいとこには誰にも気にされずどこにでも行くことができた。
そういえば、この前、ちょっと里に出ようと思ったら、着ていける下着が一つもなかった。
部屋中に脱ぎ散らかされたそれはみんなひどく汚れていた。
そんなわけでどこにも行けなくなってしまい、布団の上に横たわって白昼夢を見ていたら、空いたお腹がきゅうううと死にかけの子犬みたいに鳴いていた。
炊事、洗濯、家事、掃除。
生きとし生けるものはみんな生活をやらなきゃいけないことをわたしは忘れていた。
わたしは、お姉ちゃんに手紙を書こうと思って、やめた。
きっと、お姉ちゃんはわたしのことを心配しているだろうと思った。
『お姉ちゃんへ。今までたくさん迷惑をかけてごめんなさい』
お姉ちゃんはわたしのことを許してくれるだろうか?
わたしのことを心配しているなら、許してくれるだろう。
そうだ、お姉ちゃんとわたしの間にはわたしたちだけの特別な言葉があった。
目を閉じてしまったあとでも、わたしはお姉ちゃんにとって世界で唯一の心の読めない相手、たった一人の妹だった。
でも、いまはちがう。
今わたしの心の反射は他の何千何万の人間や妖怪とまるきりおんなじだから、もうお姉ちゃんはわたしのことがわからないかもしれない。お姉ちゃんはもともと地上の人間や妖怪たちのことがそれほど好きじゃなかったから、今のわたしがお姉ちゃんのそばにいても疎ましいだけかもしれない。
お姉ちゃんが探しているのは、あの頃のわたし、わたしたちにしかわからない言葉を声には出さず交わしてた頃の、あるいは打ちのめされお姉ちゃんの前でうずくまり瞳からまるで涙みたいに血を流してた、いたいけなわたしのこと。すでに痛い目にあわせちゃった人やひどいことをしちゃった誰かに、ふと見つからないかしっぺ返しを食らわないかってびくびくしながら里に夕ご飯を買いに行くわたしじゃない。
まあ、もちろん、それはしょうがないことなんだよ。
お燐だったらわかってくれるかな。
お燐に会いたいな、って思ってた。
でもお燐は優しい子だし、わたしのことを心配して苦しんでたお姉ちゃんのことを一番近くで見てるはずだから、わたしがお燐に会ってほんとのことを話したら、お燐はお姉ちゃんに黙っていられないだろうと思った。
だから、ほんとのことは、言えない。
わたしはお姉ちゃんのこと好きだから、本当はいつでも立派なお姉ちゃんに憧れてたから、わたしはいつまでもお姉ちゃんの特別な妹でいたい。
お姉ちゃんに手紙を書こうと思ってはやめて、書こうと思ってやめて、書こうやめよう書こうやめよう、やっぱりまずは部屋の掃除でもしようかと思ってはやめて、これからはご飯を自分でつくろうと思ってはやめた。
わたしは、また特別な子になりたくて色々試してみた。
わざとフラフラ歩いてた。ご飯は朝昼晩全部チョコレートにした。雨樋へばりついた苔に恋してみた。毎日水をあげたりしてた。すぐに飽きてしまった。禅、ミニマルミュージック、タメ口。変な喋り方。「わたしぃ……、あー、そいうの全然わかんなくてさあ……きらきらが見える……そんで、うあー……宇宙が縮小して……音楽!」廃墟に遊びに行ったのは全然つまんなかった。
この前はお金もないのにちょっと奇抜な感じの高い服を買って着てみた。
みんながわたしのことじろじろ見てる気がして、最初はよかったけど、やっぱ恥ずかしくなってすぐに押入れにしまった。
煙草だって吸ったよ。
露店で売ってた濃いやつを買って、夕暮れを河川敷に沿って辿りながら、吸ったらむせた。
遠く、銭湯の煙が赤かった。
揺れていた。
天の高いところで溶けだして見えなくなってしまう。
それだから手元から昇る細い煙が、空まで届かなかった。
息を吸うと、すぐに咳き込む。
「こほ、こほっ、こほ……あは。」「最低」
いったい空はどれだけの煙を吸って日々を過ごすんだろう。
ヤニついた薄い橙色の夕暮れだった。
それに最近はわたし眠れない。
夜、布団に入って目をつぶるだけで、いろんな考えが浮かび上がってやまない。
考えることは、うるさいことだ。
こんなものが頭の中でぶんぶんと鳴っているんじゃ眠れるわけがない。
意識のある人々はいったいどのようにして眠ってるんだろうか。
あるいは何も考えてないのかもね、とか、わたしはどんどん自意識過剰になっている。
しかたないから、本とか読んで、色々やってみた。
ヨーガ・ストレッチ、屈伸運動、退屈で眠くなることで評判の『誰も知らない幻想郷の真実』の三部作。
寝る前はオナニーとかもしてみたし、必ず温めた牛乳を飲んだ。
枕も高くしたし、羊の数え方も覚えなおした。
起き続けて寝ないこと、それだけが唯一眠る方法だった。
病院に行ってお薬をもらいたかった。
でもわたしは妖怪だから、だめだった。
里にやってくる薬売りから薬を買うには誰かの紹介が必要らしかった。
わたしには信用がない。友だちがいない。
もっとイリーガルなお薬の話も聞いていた。
簡単に夢を見るこのできる薬の話。
でも手に入れる方法がわかんなかった。
どこで取引されているのか、どうすれば買うことができるのか。
それもやっぱり信用の輪の中に入らなければわからないことだった。
病院でもらえるよく眠れるお薬で夢を見ることのできる人、裏通りで買える空を飛ぶお薬で夢を見るのことできる人、その人たちはそれを手に入れるができる時点で、ちゃんと選ばれて特別なんだ、と思った。
わたしはそうじゃない。
生姜湯を飲んで、寝る。
寝れない。
お酒も試してみた。
里で買ってきた一升瓶を水道水で割って飲んだ。
わたしは透明だわたしは透明だ誰にも見つからないと思って外に出てあたりを駈けずってたら急に気持ち悪くなって、里向かう分かれ道の真ん中でおろおろと吐いた。
その場所に座り込み月明かりに煌めく吐瀉物をなんとなく眺めていたら、また吐いた。
今度はそのまま寝転んで、どこにも行けなくなり、空を見ていた。
雲がゆっくりと流れる。
冷たい風が肌を撫でる。
月の丸い装いがよく出来た夜、凍てついた空気の光る、完成された午前二時のことだった。
頭が痛くて、何一つまともに考えられず、その空白が本当は懐かしいはずなのにもう忘れてしまっていた。
そもそも思い出せないのだった。
わたしの特別だった過去は、覚えてないことがその証明だったから。
だから、それは、わたしのものじゃない。
わたしは誰かわたしだったわたしからわたしを盗んでしまって咎められてこんな苦しみの中にいるのだった。
別に欲しくもなかったわたしだったのに。
わたしはこのまま死んでしまうと思う。
すると、こころちゃんに会いたくなった。
それで、なんとか廟の側の、こころちゃんの住んでいる離れまで行った。
わたしは扉を手の甲で叩く。
どんっどんどんどんっ。
どんっどんどんどんっ。
叩く。
どんっどんどんどんっ。
どんっどんどんどんっ。
涙。
どんっどんどんどんっ。
どんっどんどんどんっ。
叩く
どんっどんどんどんっ。
どんっどんどんどんっ。
涙。
やがて、こころちゃんが現れて、わたしを見て言った。
「こいし、泣いてるの?」
こころちゃんはチェックのパジャマ。
少し大きめのそれはだぶだぶで、横縞の気の利いた黄緑色がうざかった。
「うん、そうだよ。いけないの? だって、ほら、こころちゃんは泣けないでしょ。こころちゃんは、いつでも仏頂面だから。こころちゃんは、ばかだから……。だから自慢しにきたんだよ。これ、いいでしょ。ねえ羨ましい? でも、あげないよ」
「入りなよ」
こころちゃんの部屋にあげてもらった。
そのまま床にごろんと倒れ込んでしまう。
冷えた床が心地よかった。
ねえこころちゃんわたしのために床を冷やしてくれてたんだねありがとう、ってわたしが言うと、こころちゃんは無視をしてコップに水道水を入れて戻ってきた。水を飲め、って言って座り込み寝転んだわたしの口元にそのまま押し込む。
水を飲め水を飲めってこころちゃんが言うたびにわたしは水浸しになった。
「こいしがそんなふうになるなんて珍しいな。何かあったの?」
「色々あったよ。そりゃもうさあ。この前は恐竜と戦ったの。お寺も建てたよ、髪型も変えたしね。こころちゃんに電話もしたのに。りん、りん、りん、ってね。留守だったけど。聞こえなかった? りん、りん、りん、りん、りん、ってさ」
「そう? 聞こえなかったな」
それからこころちゃんはわたしの首をもたげて、またコップで水を飲ませた。
ぷつぷつぷつと溢れてしまう。
わたしはそのままこころちゃんの膝の上に頭を乗せて、擦りよせた。
「ねえ、こころちゃんのお膝はあったかいね」
「なんのつもり?」
「ほんとのこと言ったら、だめなの? こころちゃんの太ももはあったかくてこうして枕にしてるととても幸せな気持ちになるって思ったから、それをそのまま言っただけじゃん」
「こいし、お前、恥ずかしくないの……」
「恥ずかしいよ? でも、こころちゃんは恥ずかしいがわからないから教えてあげようと思って。ねえ、こころちゃん、これが恥ずかしいだよ。わたし恥ずかしいの」
「わたし感情はわかる! 悲しいのも恥ずかしいのもわかるし、涙を流したことだって赤面したことだってある。そっちは仮面の力を借りてだけど……。でも今はどんな仮面をつけていいかさえわからない。笑顔でないのはたしかだけど。なあ、古明地こいし、今日のお前は憐れだぞ。とってもかわいそうだ」
「えーひどいなあ。そんな目で見ないでよ。こうしてこころちゃんの太ももに耳をくっつけてるとどくどくどくどくって流れるのが聞こえる……血液がさ……。わたし、こころちゃんのあったかいのはこころちゃんの体液なんだとか思って……。ねえ、こころちゃんはこんなにもあったかあったかなのに、そんな冷たい目で人を蔑んだりできちゃうんだね。えへ」
「気持ちわるい気持ちわるい。わたし、わかんないよ。助けて太子様」
こころちゃんの膝の上で横になっていると、眠くなる。
暖かく感じる部分が広がって、皮膚が膨張すると思う。
眠ることは破裂することなんだ、ってぼんやりと思って、冷たい空気を肺の中にたくさん吸い込んで吐いた。
こころちゃんがわたしの髪を撫でていた。
ねえ、こいし、と言う。
ねえ、こいし、お前、どうして目を閉じちゃったの?
なに?
こんなときくらいしか教えてくれないだろうと思って……。
指で梳いて、すぐにくしゃくしゃにする。
「眼がさ……」
「め?」
「め、眼がさあ……痒かったの。それでね、痒くて痒くてつらくて我慢できなかったらからね、塗るタイプのお薬を目ん玉に塗ったんだ。そしたら痒いのはよくなったけど今度はとっても痛くなった。痛くて痛くて泣いちゃった。泣いても痛くて泣くほど痛くてそれでとにかく目を洗おうと思って鍋に張った水に入れてみたの。そしたらそれが沸騰したお湯だった。死ぬほど痛くてねえ、でもそれも一時の気分でね、そのあとは、わたし、何も感じなくなった。見えなくなった。そんなふうにしてわたし心がわからなくなった。恥ずかしくて家出しちゃったんだ」
「ふーん」
「怒ったの?」
「怒らないよ」
「やさしいね」
「なんで?」
「なんでって……そう。わかんない、けど」
「うん」
こころちゃんはまた、わたしの髪を指で梳いて、すぐにくしゃくしゃにする。
何度目かのどこかで、指がひっかかり、少しだけ痛かった。
それからこころちゃんは指を下ろして、わたしの剥き出しの視神経を握って持ち上げた。
「これ、服を着るとき不便そうだ」
「うん。……でもたいしたことじゃないと思うな」
「馴染む?」
「じゃなくて、じゃなくてね。目を潰しちゃった話」
「そう?」
「そうだね。ほら、こんなものを見るくらいならいっそのこと自分の目をつぶして見えなくしちゃいたいみたいなこと思うときって誰にでもあるでしょ? もちろんほんとにはやんないよ。でも、わたしは余分な目がたまたまひとつあったから、実際にやってみました、ってだけでね」
「うん」
「ときどきはすっごく悲しいこと辛いことがあったんだ、って思うときがある。そう思いたいの。だってわたしは実際目を潰したことでいろんなものを失くしちゃったし、いろんな人を傷つけちゃったでしょう。もしもそのことに深い理由があるのなら仕方ないってわけじゃないけど、わたし許してもらいたいわけじゃないけど、同情してもらいたいってわけじゃないけど、でもそれがたいした理由でもなかったら、それって、なんだかとってもやりきれないもん」
こころちゃんは何も言わない。
「でも、本当はきっとたいしたことじゃなかったんだよね」
わたしの髪ぼさぼさでくるくるだから触っても気持ちよくないでしょ、と言うとこころちゃんは、別にどうでもいい。気持ちいいからお前の髪を触るわけじゃない、と言う。
「えへへ、キューティクルが死んでんのわたし」
「うん」
「ねえ、こころちゃん」
「なに」
「こころちゃんがいてよかったな」
「はあ?」
「ほんとだよ。わたし、こころちゃんがいてよかったの」
「わたしはお前がいて全然よくない」
「うん、うん、うん。よかったよ、よかった」
こころちゃんがもう一度わたしの髪を指で梳いた。
くしゃくしゃにした。
★
最近はわたし、恥ずかしいことばかり覚える。すぐにでも忘れたいこと、思い出しては忘れたいと思うこと、忘れたいと思ってはまた思い出してしまうこと。無意識に身を任せているわけでもないのに、恥ずかしいと覚えることをしてしまうのはなんでなんだろう。これはなにかな。この、わたしをぐるぐるに向かわせる衝動は。
★
掃除をしたいという思い。
最近はどんどんその感情ばかりが募る。
とにかくまず部屋に吊るされた猫と子供の死体のことだ。
それがある限りは、嫌な匂いが日がな漂うし、陰気な感じが抜けない。
どこから持ってきたのか、あの頃のことはやっぱりちゃんと思い出せず、暗い夜道でつまづいたこと、すぐそばで水の流れる音、帰納するシンパシー、どこに返せばいいのか、そもそも返すべきものかどうかもよくわからなかった。
お墓を作ってあげようとずっと考えていた。
でも猫の死体はともかく子供の方は持ってどこかへ運ぶには重すぎるようだった。
だから、解体しなければ、と思っていたけれど、それができずしたくもなく、いっそのことこのまま軒先に捨ててしまおうかと思っても、やっぱりできずに、何もできずに、やがて馴染んで時だけが経つ。
最近はこころちゃんの離れで寝泊まりすることも多い。
こころちゃんは口ではああこう言っても、なんだかんだわたしのために色々してくれる。
わたしのことが好きだから。
でも、それは、もちろん無意識生きていた頃のわたしのことだ。
こころちゃんはいつもふらふらして好きなことばかりしてるわたしのことを人とは違って特別だとか言ってたまに会って好きだよとか言われればそれだけでなんだかいい気分になっちゃってほんとは単にいいように使われてるだけなのに人生のちょっと瞬間遊ばれてるだけなのにそれを認めなくないから自分に自分の愛が特別なんだって言い聞かせてそもそもの始まりがマイナスだから後ろ向きな現実を突きつけられても夢から醒めることもない。
こんなふうにこれ見よがしに死体を部屋に吊るしたりするのもばかだと今は思うけど、こころちゃんはわたしのそういうとこにもきゅんときちゃうので。
むかつく。
友達を剥製にする方法を教えてくれたのはお燐だった。
今度こころちゃんがわたしの家に来て掃除をしてくれるらしいから、そのときに向けて準備をしようと思った。
その時までにこの二つの死体をちゃんと供養してあげなきゃ、と思ってた。
普通のわたしは、普通に、こころちゃんが家に来るなら少しは部屋を片付けたいと思っていたのだった。
そうだ、友達を剥製にする方法をわたしに教えてくれたのはお燐だった。
ブルーシートを敷いた上で少年の肩にナイフを這わせると跳ね返り、人は硬い。
血が跳ねる。
ナイフを落としてしまう。
違いますよ、断つんじゃあない。もっと刃先を溶け込ますようなイメージで……。ほら、もう一度。
死体を解体する方法はなんどもお燐に教えてもらったはずなのにわたしはそれをもう思い出せない。
わたしは、もう、やめる。
こんなことは馬鹿げたことだ。
この家は丸ごと燃やしてしまおう。こころちゃんが来るから部屋を綺麗にしようと思って焼いたんだ。ほら、とっても、綺麗になってるでしょ? 物の一つもないよ。
きっと、特別な頃のわたしだったら、そうしたよ。
だめです。死体遊びをやってみたいをやってみたいって言ったのはこいし様でしょうが。そんな簡単に諦めてどうするんですか。解体は死体遊びの基本ですよ。それができなきゃ何もできないです。
わたしは泣いてしまう。
あーあ。全くこいし様は泣き虫ですね。そんなんじゃいつまでたっても友達なんかできないですよ。こいし様はいつもそうです。うまくいかないとすぐ泣いてしまう。子供のやる遊び、鬼ごっことかかくれんぼとかしても捕まるたびに見つかるたびに泣いてしまう。そんなんじゃ一緒に遊んだってきっとつまんないって思われますよ。あたいは、いいけど。あたいはこいし様のことをよく知ってるから。そういえば、覚えてます? 昔、二人で旧地底の誰も住まわない町の中でかくれんぼをしたとき、納屋の中でこいし様は泣いてた。見れば、死んだ猫か犬か忘れたけど死体の前で座ってうずくまってたんです。どうしたんですか、って、あたい聞いて、わかんない、って、こいし様は言った。わかんないのになんで泣いてるんですかって、あたい言って……ねえ、こいし様は、でもいなくなっちゃうのは悲しいよ、って言ったんですよ。お燐、お燐、わたし、どうしたらいいかわかんないよって。そのときあたいはまださとり様に頼まれて友達のいないこいし様の話し相手になってあげてただけだったけど、そのときあたい、こいし様のことが好きになったんです。それは、こいし様が優しいからでも、さとり様や他のさとり妖怪たちとも違ってるからでもない。こいし様が、あたいの名前を呼んでくれたから。しょーじきあたいはこんな仕事をしてるから生き物は死ぬと思うし死んだって亡霊になるだけだし、泣いてるこいし様のことはわかんなかったけど、こいし様は泣いてて、あたいって全然泣かないから、わざわざ泣くような日にあたいの名前を呼んでくれたこいし様のことが無性に嬉しかった。大丈夫。たしかにさとり妖怪は嫌われ者だけど、こいし様は優しいからすぐに友達ができますって。だからこそ死体の遊び方をこいし様は覚えなきゃ。こいし様はこれからたくさんの友達ができるでしょうけど、こいし様は偉大な妖怪だから、友達はみんなこいし様より先にいなくなっちゃいますよ。そのときにいちいち泣いてたら立ち止まってたらほんともうどこにも行けないから、日々は続くから、友達が死んだ後でもその死と遊ぶ方法を知らなくちゃいけないんです。あたいだってそうです。猫は死ぬときにいなくなるとか言うけど、それってほんとですかねえ? そんなのは人間たちの自己憐憫でね、ほんとは死んだからいなくなっただけだ、ってあたい思うな。あたいだったら死に顔を見られたい。こいし様にたくさん泣いてほしい。そのあとであたいの教えたやり方であたいを捌いてね、あたいを剥製にしてあたいの死体をこいし様の部屋の一番よく見えるところにいつまでも飾ってほしい。あたい絶対に死ぬ前に消えちゃったりなんかしないです。たとえ死んだって幽霊になっていつまでもこいし様のそばにいます。だから覚えてくださいよ。やり方は全部教えてあげるから。これはあたいの捌き方ですよ。そう、あたいをさ……。そのかわいいナイフで……。切り裂いて。ほら。その部分は結局捨てちゃうからざっくばらんにやっちゃってかまわないですよ、思い切り突き刺したっていいし……。大丈夫。震えない。見て……あたいが手を添えてる。
お燐の亡霊が隣でわたしの手に手を重ね、それがこの腐敗した肉に刃を走らせる。
「お燐、お燐、お燐、わかるよ。お燐がいる」
「そうですよ。言ったじゃないですか、消えたりしないって」
「お燐、お燐」
「なんですか?」
「ごめんね」
「ねえ、こいし様。あたいはこいし様が猫だったらいいなあってよく思ってたんです。さとり様とこいし様には二人だけの特別な言葉があったでしょう。おんなじ家族なのに、あたいなら何時間も話して理解りあうことを、二人は電撃の一触れで、瞬間で、理解ってしまう。それが羨ましくて、こいし様が猫だったらいいのにとかあたい思って。猫が人の姿をとるのに人は猫の姿を取れないのって本当は人よりも猫の方がずっと難しいからで、だから人より猫の方が偉いんだみたいなこと酔うたびに友達に喋ってさあ。へーそうってゆわれた。へーそっかそっかそうなんだね。全然そうじゃなかったのに。あたい、こいし様が猫だったらよかったな。あたいの言葉でこいし様と話してみたかった。あたい、こいし様の毛を繕ってみたかった。もっとたくさんの猫の遊びを教えてあげたかった。でも、大丈夫です。こいし様は猫じゃない」
わたしは友だちをバラバラにする方法をひとつずつ思い出す。
お燐がわたしの手を導くのに沿って肉に鉄を這わせて開いている。
指先が血に染まる。
赤色、赤色。
お燐の色。
その傷口を指で開くと、たしかにあたたかい。
わたしはまた泣いてしまう。
それを感じることができる。
こんなわたしにもそれが残っている。
お燐がくれたこの無意識が。
「そうです。やってみれば案外簡単ですよねなんでも」
「うん」
「すぐになんだってできるようになりますよ」
「うん」
「ああ、そこは逆刃にするといいですよ」
「うん」
「ほら、もっと深く。優しく」
「うん」
「いい感じです。なかなか上手じゃないですか。才能がありますよ」
「うん」
「あとは思い切りだけですね。まだ躊躇いがありますよ。揺らいだら断てないし、震えたら刺さらないから……」
「うん」
「慣れますよ、いつでもそばにいますから。慣れる、慣れる」
「うん」
「そう、慣れる、慣れる、慣れる。わかる、覚える…………
ふと気がつけば、ブルーシートの上には、バラバラになった子供の死体。
それがちゃんとあった。
慣れたあの頃に比べたら、ずいぶん下手くそになってしまったけど。
麻の袋に詰めて、外に出てみると、夕暮れだった。
家から少し離れた林の入り口の木々の傘を抜けて陽のあたるところ、あまりにも見え透いて恥ずかしくなってしまうその場所に彼らを埋めた。
手頃の高さの枝を二つ折って柔らかい土の上に突き立てた。
りんご三つと煙草七箱と魚の骨を一つと赤い半纏と。
線香を立ててマッチで火をつけた。
向き合わず、背にして、地べたに尻をつけたまま疲労感に身を任せて目を閉じる。
お腹が減った気がして、りんごをひとつ取って食べた。
じゃく、じゃく、じゃく、と鳴る。
そうしていると、二人に出会った時のことをなんだか思い出せそうだった。
わたしが殺してしまったのだと思ったのだけれど、それは単なる気分で、わたしはそれを盗んできただけだった。
「ありがとね。色々とご面倒をおかけしました」
呟き、ふっと浮くような気持ちが去来したと思ったら、すぐに消えてしまい、あとには何か脱力感だけが残る。
それは地底温泉の外れの方、旧地霊殿のそばの、維持費もばかにならないからねえと言っていつかお姉ちゃんが潰してしまった温水プールの最後の日、プールサイドでお燐の裸足の足がぷちゃぷちゃと水を跳ねさせながら、あたいはさ水とかやだから濡れんのもっていうか地底のやつならみんなそうですよ水とかさ……温泉は別だけど……、わたしは潜行し……水面から上がったあとでお燐の横に座りふかふかとした大きなバスタオルに包まって揺れる水面を見つめ暖かな水がどこかから流れこみまた流れ出していくかすかな音を聞き、お燐が触れ弄ぶ指先にわたしの視神経の水にふやけることを感じた、その紐がたしかな身体の一部だと感じていた、その脱力感。
見れば、わたしの第三の目が開いていた。
そこに流れこむ感情はない。
だからわたしは未だ盲のまま、ただ筋肉の機械的な痙攣によって瞼がぱちぱちと鳴る。
どうやらわたしは無意識に力を込めてあの瞼をずっと閉じていたらしかった。
わたしはわたしの中にあった無意識の名残みたいなものがすっかりなくなっていることに気がついた。
わたしはもう無意識だったあの頃の気持ちがちっとも思い出せない。
第三のまぶたの端にべったりとこびりついた目やにを指で拭う。
地面に擦り付けて消す。
夢の終わりは線香のにおい、誰彼構わず喋り散らしたくなる気分、火曜日の午後、顔も思い出せない友達の訃報だった。
まばたくと、その新鮮さに涙が出る。
でも、すぐに慣れるんだろう。
次の日には、こころちゃんが朝から家に来た。
家の中を一見して、うえー、と呟いたあと、流してしまおう!と言う。
曰く、こんなに汚いのなら床を水で流して洗うしかない。
血とかもあるし。
それで二人で部屋の中の家具を外に出した。
元々それほど物のない部屋だ。
足の踏み場もないのは、物以前の、精神の働きでいうなら無意識の物体たちのせいなので。
なぜかこころちゃんは家に来たところからやけに気合が入っていて、白い手ぬぐいを頭にきゅっと巻きつけてはたき棒でわたしの頭をなんどもパタパタと叩きながら大掃討作戦だこいしをひとつ残らず消してやるみたいなことを喋っているのでうざかった。
お掃除が好きなの、と聞くと、御託はいいからその椅子を外に運べ!と言う。
仕方なくわたしは運んだ。
脚の二本折れた椅子だった。
そんながらくたはわたしの部屋にはたくさんあった。
片っぽだけのスニーカ、錆びついた何かの車輪、知らない機械。
どこから持ってきたのかなんのためにあるのかわからない物体たち。
それをひとつひとつ運ぶたびに、これはなんだこれはなんなんだ、とこころちゃんは聞いた。
いちいち答えるのも面倒くさいし、そもそもが思い出せないので、わたしは嘘を言った。
これは天界に行った時の思い出。これは盗んできたの。これは料理道具。これは地底の人なら一家に一台置いてる。これはお姉ちゃんの八重歯だよ。これはオナニーするときに使うの。これは里の福引大会でもらったんだよ。これは身につけるのが当時は流行ってたんだった。これは食べるの。これは塗る。これは投げる。これは羽織る。これは……わかんない。
わたしが答えるたびにこころちゃんは、まったくこいしはまったくなあって呟いてた。
そんなふうにして部屋中の物をあらかた外に出してしまうと、あとは床に残るばかりになった。
今度はこころちゃんは二つ袋を持ってきて、こっちがいらない、こっちがいる、と言う。
床に落ちていた紙のお弁当箱を拾い上げて、これはいらない、と言って片方の袋に投げ入れた。
それから今度はノートを拾って見せて、これは?と聞く。
「いらない」
「これは?」
「いる」
「これは」
「うーん、あー……いる」
「いらないだろう」
「うん、いらない!」
「これは?」
「いらない」
「これは?」
「いらない」
「うわー、虫だ!」
「ほんとだ」
「わたしは、わたしは、わたしは虫がだめなんだ!」
「それ、いるから、袋の中に入れといて」
「いらないいらないいらない」
「いるよ。こころちゃんが決めないで」
「やだ、やだ、やだ。殺して」
「だめだよ。友だちだもん」
「それならわたしがお前を殺してやる!」
「なんで?」
「これを、これを、これを、見ろ」
すると、こころちゃんはどこからかお面を取り出して見せた。
それは木板を掘り抜いて作ったらしい。かろうじてささくれだち波打った凸凹の中から表情のようなものが伺える。
「なにそれ?」
「これは虫が怖いの仮面だよ。部屋に虫が出るたび慌てて太子様やみんなのとこ行くの全然危急のほどが伝わらないから、この前自分で作ったんだ。モチーフは西暦で799年。インドネシアの王族が半島から当時最も厳格のされていたシャガラクラーナの寺院に半年かけて歩いたその後で、性暴力と子どもたちと拝金主義、その放蕩と腐敗を目の当たりにしたときの絶望だよ」
「下手くそだから、よくわかんないや」
仕方ないからわたしは虫を手で掬って顔を近づけて、ごめんねお別れだよずっと一緒に暮らしてきたのにねほんとはわたしあなたがいたこと今日まで知らなかったけどこころちゃんがお前なんか死んじゃえ生まれてこない方がよかったんだって言うからひどい目に会う前に逃がしてあげるこんなにもかわいいのにね、玄関から外に投げた。
飛んでいくかと思ったけど、庭先の草の上でことんとんと跳ねた。
「お前、素手。素手で……。古明地こいし、お前は本当に気持ち悪いな! そんなこいしにはこの顔をあげよう」
そう言ってこいしちゃんが宙にたくさんのお面を現出させたかと思ったら、そこから三つ選んで掴んでわたしの方へ、ずいと見せつける。
そのうちひとつはよくこころちゃんが使ってるのを見る悲しそうなお面だった。
「え、なに?」
「この前こいしが夜に急にうちに来て散々気持ちわるかっただろう。どんな顔をしていいかわからなかった。わたしには一応これだけの仮面があるのにそのどれもお前の気持ち悪さに対応できなかったんだ。でも、それはしかたない。だって、このお面たちはどれもずいぶん昔に作られたものだから、きっと感情だって昔から今になれば増えてるんだろう、こいしがきもいのは発明なんだって思って……。さっきみたいに新しくお面を作るのもいいけど、やっぱ大変だから、考えて。組み合わせればいいな、ってこと、見つけたの。今のお面とお面を合わせて新しい表情ってことにすれば、とってもたくさんの表情をわたしは浮かべられるだろう。だから、この三つで、古明地こいしが気持ち悪いの感情の組み合わせだ。こいしのためだけに発明したわたしの表情だよ」
「そう? まあ、ありがと」
「べつに、いいさ。表現できる感情は無数にある。70ちょっとのお面から恣意の数を抽出する組み合わせだ。いい考えだと思わないか?」
「まあね」
「そうだろうそうだろう。もうわたし、38も表情を発明したよ」
「そうなの?」
「うん。たとえば、これとこれとこれとこれで、今日なんだかいいことありそう!な顔」
「あ、そうなの」
「これとこれは、心から痛みいるけど結局何もしてあげられないから言われても困っちゃうなあの顔」
「ふーん」
「これとこれとこれでなんだと思う?」
「え、知らないよ」
「見た目はあれだけど結構おいしいじゃん!の顔」
「へー」
「じゃあ、これとこれとこれとこれでなんだと思う?」
「わかんないよ。ギリギリアウトのたこ足配線を見たときの表情とか?」
「これは、Don't mind!」
「どんまいの気持ち?」
「そうだぞ!」
「ふーん、そうなんだね」
そうだそうだ、とこころちゃんはなんどもしきりに肯いて。
「てか、こころちゃん。根本いい、根本」
「なんだ」
「それ表情ではなくない?」
「なんで?」
「だって、そう、お面はさ一応それが顔にフィットする形になってるから表情の代わりになるわけでしょ。それが二つあったら、単に二つの表情の二つの顔ってだけで、それはなんか話が違くない、とか思う」
「べつにいいじゃん。だめ?」
「だめとか、では、ないけど……」
「ふふふー。ねー、こいし、ひょっとすると、もうわたしは表情なんて学ばなくていいのかもしれない。今までわたしはお面がなければ笑うことさえできないと思ってたけど、逆に今はお面さえあればどんな表情だって再現できるんだってそう思って……人間ならたった人生で一度しか浮かべられないような最良の笑顔だって、わたしはなんどもできる。その表情さえ浮かべればそのときの気分だって全部思い出せるし、なんたって、えーと、今は71のお面で、それで、その組み合わせが……えーと……」
「19804通り」
「それ本当か?」
「わかんない。てきとー」
「なんだよー!わかんないのかよーー!」
「え、うるさ。なに?」
中空に浮かぶお面たちから、今度は二つを取ってこころちゃんは言う。
「これが、なんだよー!わかんないのかよーー!の時の表情セットだよ」
あ、そう。
わたしたちは水を撒いた。
外の蛇口にホースを繋いで部屋の中にまで持ってきて全部開いて流した。
家の中を思い切り水浸しにしてしまうのは楽しかった。
「ね、ね、こころちゃん」
「なんだ?」
「水」
「あばばばば……やめ、やめろ、古明地こいし! いきなり人の顔に水をかけばばばば」
「どうしたのこころちゃん楽しそうだね?」
「楽しいわけあるもんか!」
「でも怒ってはないでしょ? いつもと同じ表情だし」
「怒ってる!おこだぞ! ちょっと待ってろ、えーと……これとこれ、うーん、これで、この3つでいきなり水をかけられて……」
「水」
「あばばばば、やめ、お面が水にばばば」
「ごめんね。せっかくの表情なのにもう二度と浮かべられないね」
「ふん! これはすごいお面だから水に濡れたってあばばばば」
「水でした」
「せめて水って言ってから水をかけろ!」
「水」
「あばばばば」
そのあとで、こころちゃんはバケツいっぱいの水を何も言わずにわたしに投げた。
わたしはずぶ濡れになった。
わたしたちは水を掛け合ったのだ。
冷たい水を掛け合うことで床を水浸しにし、デッキブラシで擦って汚れを落としたのだけれど、水を撒くのに比べてブラシで床を擦る作業は退屈でわたしはこころちゃんに全部やってもらいたかったのにあんなやる気いっぱいだったこころちゃんはこんな時ばかり不良少女になって部屋の隅に椅子を二つ並べて作った退避地帯に膝を抱え込んで座って裸足の足を突き出して、はやく擦れよ古明地こいし、と言う。
わたしはこころちゃんの足の裏をブラシで擦った。
あ、ふあ、ひあ、やめ、やめろよ、古明地こいし。
それでも黙って床を擦れば十数分もしないうちに落とせる汚れはなくなってしまう。
真昼間の鋭い陽光がうまく流れず床の上に溜まった水模様の上で乱反射して白色、なんだか気怠かった。
わたしたちは水の国みたいだった。
「水の国?」
「ヴェネツィアだよ」
「ヴェネツィアなんか知らない」
だからそれはわたしだけのヴェネツィアで、知らず迷い込んだこころちゃんは水面に浮かぶ椅子の上でずぶ濡れになった服を脱ぎ捨てて裸のまま震えていた。
不健康そうな肌が蛍光灯のように白く発光しこちら側では妙にくっきりと翳って、こころちゃんは街角みたいだった。
その無機質なはずなのに、やけに生活感のある、仕草が、顔の動きが、時々目の端に浮かぶ皺の形が全部。
光と水の国。
わたしたちは少しの間、黙ってしまう。
お外に干している洗濯物のうちタオルと上下灰色のスウェットを取ってきて、こころちゃんにあげたら、着た。
わたしは”いる”の袋の中から同じようなスウェットを持ってきて、着る。
それ着たやつだろう匂いがしたよ、とこころちゃんが言う。
大丈夫、スウェットは二週間は着れるよ。
まったくこいしはまったくなあ。
椅子の上、退避地帯に二人並んで座りながら、わたしたちはなんとなく眠いみたいだった。
ぽかぽかと差し込む陽光が水面で無数に飛び散るから何重にもなって余計に暖かい気持ち、眠い気持ち。
ひぃああああ……ん。
鏡面の向こう側でこころちゃんがあくびをしていた。
わたしは言った。
「これって水浸しのままだから床とかだめになっちゃわない?」
「知らないわかんないどうでもいい」
「ま……いっか」
こころちゃんは床を眺めながら、でもあんまり綺麗にならなかったねと言う。
「これでも綺麗になったんだよ」
わたしが呟くと、こころちゃんはわたしの顔をじっと覗いた。
それから、言った。
「あのさあのさ、あのさ、ねえこいし、もう二度とわたしの前で意味深なこととか言わないで! わたしお前の友だちじゃん」
「うん、言わないよ」
「うそつき!」
こころちゃんがいきなりわたしに飛びかかりわたしは態勢を崩して転げ落ち二人で濡れた床を転がりながら、庭に飛び出し芝生の上で未だぴちゃぴちゃぴちゃと放水を続けるホースを目がけて手を伸ばし声を出した。
「水!」「水!」
二人で同時にホースを持ち上げて、二人とも掴みそこね、ホースの口が中空でのたうつと、わたしたちは空から降る水をかぶった。
こころちゃんは濡れて黒色に染まってしまった着替えたばっかりのスウェットを見下ろして静かに首を振る。
それからたくさんのお面を浮かべてそこから三つ選んで取った。
そのうちひとつは憂いのお面で。
それはよく見たことがあったからわかったけど残りの二つはわからないまま、こころちゃんは口を開いて何か言いかけたけれど、ふと動きを止めてお面を元に戻して言い直した。
「あ、やっぱ、これはだめだ。これはコーラを飲んだと思ったら烏龍茶だったの気分だった」
そのあとで、こころちゃんはしばし逡巡して。
やがてひとつだけのお面を取って被ったら(笑って)言った。
「さいてー」
★
そうだよ、最低。
嫌なことはみんな覚えるのに、やらなきゃいけないことはいつでも忘れてしまう。
★
この前、命蓮寺の和尚様からお話を頼まれていたのに、わたしは忘れてしまった。
今度里の妖怪を集めて特別説法会を開くからそのゲストとして無意識で生きることについて話して欲しいということだった。
最近はどうも命蓮寺さんのところにお世話になることが多い。
遊びに行ったり一緒に修行に参加すれば夜ご飯とかありつくこともできるしこっそり倉庫から生活備品を取って来ることもできる。
在家信者のわたしは特別扱いだ。
曰く、貴方は、空の心の体現です。
別にそんなことないよって思うし、別にそんなことないよと言うのに、言えば、それこそがまさに空の実践の一つですなぜならば空を行う者が空の心を覚えたらそれは空ではないのですからと言う。
でも、本当に、別にそんなことないよ。
この前は、こころちゃんの舞台のファンだとかいう男が踊りについて色々話したいとか言いこころちゃんとデートをしているところをたまたま見かけて、嫉妬で狂いそうだった。
こころちゃんがまるで無表情でちっとも楽しそうじゃないのがせめてもの救いだった。
全然救いじゃなかった。
あいつもやっぱ、おれがこころさんを笑わせたいんだよ、とか言うのかな。
こころちゃんに言いよるやつは全員が全員そういうことを言う。
わたしだって言うもの。
わたしは、わたしだけの、わたしだけが、こころちゃんを笑わせたい。
それが叶わないなら、こころちゃんは愛想がないからみんなに嫌われて、最終的には巨大な虫と交雑することになればいいなと思う。
犬でもたぶん笑うときは笑うからこころちゃんは畜生以下で、虫なら笑ったりしない。
こころちゃんが虫が嫌いなのは同族嫌悪だよね。
今度たくさんの友達を家に連れてきてあげる。
ねえ、冗談だよ。
わたしはそんなことはちっとも思いません。
なぜなら、わたしは空なので。
空を行う者が空の心を覚えたらそれは空ではないのです。
まあ、そう。
わたし本当は全然空じゃない。
そういうわけで、この前わたしは命蓮寺の和尚様からお話をお願いされていたのに行かなかった。
面倒くさくて行かなかったとかそもそもそんなことしたくなかったとか直前に急に行きたくなくなったとかそういうんじゃない。
ただ忘れてしまったのだ。
起き抜けに思い出したのが、お昼過ぎ。
燦燦と輝く太陽が泣き出しそうな目に痛かった。
力を失ってもう飛べなくもなったわたしだけど、飛んで行っても間に合わない。
それでどこにも行けなくなってしまい、子猫と少年のお墓の前で座ってた。
「ねえ、フィリッピーウィルとリバーサイドはどう思う?」
「うん、うん。そうだよねー。ちゃんと謝った方がいいよねえ」
「でも、謝るなんてできないよ」
「だって、だって、だってね、古明地こいしちゃんは謝らないんだよ。そしたらわたしが本当はこいしじゃないってことがみんなにバレちゃうもん。無意識で生きてる人はその行動だって無意識なんだから良いも悪いも思わないんだよ。でも今わたしはとっても悪いことしちゃったと思ってるの」
「逆にもしかしたらみんなもうわたしが普通のこいしに戻っちゃったこと知ってるのかもしれないよね。知ってて陰で笑ってるんだよ。なんでみんなそんな酷いことするんだろう? なんでみんなそんなに性格が悪いんだろう? もっとわたしを見習ってほしいよ。わたしはこんなにも優しくて慈愛なのに」
「わたしが一番さいてーだって?」
「そうだよ。うるさいな」
「わたし、みんなに会いたくないなー」
「みんなに嫌われてるんだもんわたし」
「そうだよね、別に嫌われてなんかないよね。好かれてもないし。今のわたしって、いてもいなくてもおんなじなの。無意識を操ってそこにいてもいなかったあの頃はみんなはわたしのこと嫌ったり迷惑がったりしてたけど、それでもなんていうか一目置かれてたのに、こうやってちゃんと真面目に在るようになった途端、いてもいなくてもおなじになっちゃうのってずるいよねーーー」
「ずるくないよね」
「わたし、別に、真面目でもないし」
「ただ、いるだけだもん」
「いまはこうしているのに、いてもいなくてもおなじ」
「あーあ」
「ねえ、わたし消えちゃいたいの」
「溶けだしたいな。透明にさ……。空気に混ざって見えなくなっちゃいたいよ、色のない水になって低いところに向かって流れるの。暖かいほうへ昇っていくんだよ」
「二人もさ、やっぱ、いてもいなくても同じだったのかな? だから死んじゃってもそのまま放って置かれたのかなあ。それともいない方がよかった? そうだね、いない方が良かったからきっとリバーサイドで殺されちゃったんだよ」
「ねえ、なんで無視するのー? 怒った?怒ったの?」
「あ、そっか、ふたりはもう死んじゃってるんだっけ。えへ」
「でも、わたしはっ、生きてるよー。いいでしょー?」
「ごめんね」
「わたし、がんばるよ」
夕方頃に和尚様のところにやっと行くと、和尚様は怒る風でも残念がる風でもなく淡々と事実を述べる風だった。
貴方が来なかったのでわたしたちは少しだけ困ってしまったのですよ。代わりにわたしが空についての話をしました。正直なんどもした話ですし、わたしはすぐ前にも話をしたので、あまり聴衆の受けはよくなかったですが。
「どこに行っていたのですか。まさかすっぽかしてデートにでも行ってたんじゃないでしょうね」
「えへへへ」
わたしは曖昧な笑顔を浮かべる。
和尚様がわたしの目の中をじっと覗き込む。
わたしはまたえへへへと笑った。
わたしは空のふりをしてた。
曇りない澄んだ瞳がわたしを刺して。
わたしのこのたくさんの感情が、講演をすっぽかして本当にごめんなさいって思いが、バレてしまうんじゃないかと思う。
「どうして来なかったのですか?」
「えーとね、忘れちゃったんだ」
「それは本当ですか?」
「どう思います? えへへ」
「どうって……わたしにはわかりませんよ」
「修行を極めた立派な和尚様にもわからないことがあるんだね」
「そんなことはたくさんありますよ。仏の懐は深くそして暗いのです。それにわたしはまだまだ修行の身。過つこともありますし、もちろんわからないことだってたくさんある」
「じゃあさ、知ったらさ、あとでこっそりわたしにも教えてね!」
「それはいけませんよ。仏の教えとは自ら体得するものなのですから」
「身体で覚えさすの? 仏様ってけっこースパルタだ。えっちだし」
ため息。
和尚様が言う。
「全く貴方という者は……。時々貴方が単なる未熟な子供のように思えることがあります。実際そうなのかもしれません。もしも貴方のことを無意識の子供と予め知らなければわたしは貴方に空を見ることができなかったのかもしれない。ああ、空の心とは難しい」
「えへへ、まあ、色々あるけど、がんばってよ」
わたしは古明地こいしを演じるのが、少しずつ上手になっている。
でも、気のせいだよね。
次の日にはこころちゃんに会いたくなかった。
その特別説法の日の午後にこころちゃんの舞台があるから見に来てねと言われていたけど、結局わたしは行けなかった。
これはわたしのいわば第一期の総決算って感じの舞台になると思う。テーマは信仰の喪失とその回復。難しいテーマだよ。色々と考えて……。でもいいものができたと思う。練習もたくさんしたし。こんなにもたくさんの人の前で踊るのははじめてだ。やっぱり不安あるけど、こいしが来てくれるならがんばれると思うんだ。だから絶対見にきてね!
うん、うん、うん、約束!
わたしは行かなかった。
そんなわけで、そのデートの日は朝に心地よい目覚めからはじまってお昼が近づくつれて憂鬱が増し、こころちゃんに会いたい会いたくないと思いながら、シャワーを浴びて上がった後につくったお弁当が色がなくて、これはわたしの気分だよ、って思ったけど、やっぱりそれは単に技術的な問題だったから。
着て行こうと決めていた服を着ようかなやめようかな違うのにしようかなやっぱやめよう着よう着よう。
どうせそれ以外には選べないので。
ぼさぼさの髪だってなんども櫛を通してまっすぐにしたけど、鏡を通してはにかんでみた、その自信なさげな面が最低で、また自分で掴んでくしゃくしゃにした。
わたしはこころちゃんに会いたくなかった。
里外れ、待ち合わせ場所のパーマネントピース・シンボルには五分遅れた。
少し遠くからこころちゃんの様子を眺めていた。
幾何学の変死体みたいな大理石の下で、こころちゃんは俯いてなにやら爪をいじってた。
白いワンピースに麦わら帽子を被ったこころちゃんはなんだか幽霊みたいだった。
顔を出したわたしの顔を見て、あ、と言う。
「あ。来た」
「来たよ」
「そっかそっか」
「もしかして来ないと思った?」
「なんで?」
「だって遅れちゃってごめんねってわけで……」
「別にいいとも」
こころちゃんは爪を噛んだ。
それからおんなじとこを別の指で弾いた。
おはよ、って言う。
わたしは、うん、って肯いた。
「あ、そうだ、こいし、見た?」
「なあに?」
「わたしの舞台!」
「見なかったよ」
「まじで? どうしてだよ」
「いやだって……っていうかわかんなかったの? わたしいなかったじゃん。ほら、喋る予定になってて」
「ああ、そうだけど。そういや、みんな困ってたぞ。こいしはどこだこいしはどこだって言ってみんなお前を探してたんだ。わたしはおもしろかった。こいしがみんなの前で仏教について喋るなんて馬鹿だと思って一昨日夜に一人でくくくと笑って、いやわたし笑うとかしないけど、でもほんとにこいしがみんなの前で喋るとか一人でおかしくて、実際喋ってるとこ見ても笑えただろうけど、結局お前来なくて、やっぱなあとか思ってそれもおもしろかった」
「寝坊しちゃったんだ」
「ふふふー。またまた。どうせ最初から行くつもりなんかなかったんだろう。お前のことだからお前が来なくて慌てふためくみんなをそばで見てて笑ってたんだよ。あの辺でこいし見てんのかなと思ってわたしも笑っちゃった。お面を被ったよ。まったくこいしは嫌なやつだ。さいてーだな、さいてー」
「ほんとだもん。起きれなくて。それでこころちゃんの舞台も見れなかった」
「まじでこいしいなかった?」
「気づかなかったの?」
「こいしはいても見えないこと多いからなあ」
「ごめんね。怒ってる?」
「ううん。それよりさお前はもったいないことをしたぞ。この前の舞台は過去最高に近い出来だった。みんな感動してくれてすごいすごいって言ってくれたんだ。仏とは何かを知ったってな。まったくお前はなあまったくさあそんな時に限ってほんとにいないだなんてかわいそうなやつだよ」
「こころちゃんは自意識過剰だなあ」
「なんだとー」
「ひたいひたいほっぺたひふはらないで」
どこに行こうかとわたしが聞くと、こころちゃんは歩こうと言う。
わたしたちは歩いた。
「生きること死ぬこと、食べることやセックスやそれに音楽だな」
「ふうん」
「彼の生涯の物語なんだ。それを能楽で表現するんだよ」
「大作って感じだね」
「まあね」
「できるの?」
「まあね」
「すごい」
「でもやってる人はみんなできるよ」
「そう?」
「うん」
「あ、そういや、電話は?」
「電話?」
「鳴るやつ。」「りん、りん、りん」
「壊れた」
「ほんとに?」
「鳴らないし」
「あれ回線ないからね」
「回線?」
「ひも」
「ひもならうちにもあるぞ」
「もっと長くて電気の通るやつ」
「お化け電気鰻みたいなものか」
「うん、そう。ちがうけど」
「ふーん。あ、どう? 部屋は」
「部屋? あるよ」
「うん。いや、じゃなくて、どう、綺麗にしてる?」
「わりと」
「へえ」
「わりと汚い」
「まじで?」
「えへへ。うん」
「まったくお前はなあ」
「溜まるねえ、ゴミとか。捨てよう捨てようと思って。最近あの辺ルールできてゴミ出せるの週一でね」
「また綺麗にしてやる」
「ほんと?」
「うん」
「嬉しい。もっといっぱい汚くしとこっかな」
「今度はいきなり水流すから」
「それは困るなあ」
「じゃあ綺麗にして」
「する、する。するよもう」
「して」
「うん、うん、する。っていうか」
「なに?」
「それ服どこで買ったの?」
「どこ……。普通の、里で。ブランドとかじゃなくて普通の……」
「ふーん。かわいいね」
「まじで」
「うん、うん」
「いえーい」
「はいはい。かわいいかわいい」
「服?」
「こころちゃん」
「やったー」
そうだ、わたしたちピクニックに来たはずなのにわたしたちは二人ともピクニックについてなにも知らず、野掛けって言うくらいだから、野を駆ければいいのかもしれないと言ったわたしにこころちゃんのため息。
走るのは疲れるのでわたしたちは歩いた。どこまでも。
知らない景色、風景。
油絵みたいにがさがさした緑色がたくさん。
花を見るんだと思う、とこころちゃんが言った。
わたしたちは座って花を見た。
「見たけど、なに?」
「知らない。見るの」
「この花なんて言うのかな?」
「わかんない」
「花言葉は?」
「花に言葉なんかあるもんか」
「まあ、そう」
「うん」
「ねえ、こころちゃん?」
「なに」
「これ楽しい?」
「楽しいよ」
「うそつき」
わたしはそのまま寝転がってしまう。
空には太陽。
じりじりと日暮れに傾けて動いていくような気がする。
でもそれはそんな気がするだけのことで、ほんとは雲が動くから太陽の方もその反対に動いているように見えるだけのことだった。
わたしは目をつむる。
顔についた目を閉じると連動して第三の目も一緒につぶってしまう。
顔の目をさらに深くつぶって遠いところにある瞼だけを持ち上げようとしてみた。
重い。
鉛のように重くてこの瞼は永遠に開くことはないんだと思ってしまう。
そうしていると閉じた心の目の気分になれる。
わたしの心の目がまだ閉じたままでわたしはまだ無意識でわたしはまだ特別なんだと思うことができる。
わたし、死にたいときにはいつもウインクの練習をする。
あとは丘でご飯を食べるんだ、とこころちゃんが立ち上がり言った。
「丘?」
「うん」
「丘ってどこにあるの」
「知らない」
「丘って物語にはあるけど実際には見たことなくない?」
「あるよ。ある、ある、ある。あるだろう。丘ってそんな大きくないから遠くから見ても山みたいに綺麗な形として現れないし、そんなに小さいわけでもないからそのそばに行った時には形のないただの斜面にしか見えなくなる。だから丘って存在するけど、見えないんだ」
ねえ、ねえ、ねえ、こころちゃん、それってさ何か深い意味のある言葉?
わたしたちはまた歩いた。
光の差さない暗い森の中を抜け、猪たちが闊歩する遊歩道を辿り、飛べなかった雲たちがたむろする湖のそばを通り過ぎ、真昼の太陽のした浅い川を渡り、怯えた表情の人々が住む村を駆け、有刺鉄線を乗り越えて、打ち捨てられた器械、知らない言葉、砂まみれのソバショップ・アロング・ザ・ロード、西部劇みたいな言葉遣いをする男、午後三時のあぜ道で田植えする老人の背中に声を投げ、時折手を繋ぎ、ぬかるんだ道にスニーカーの底を汚し、夕焼けをお互いの顔の中に見た。ねえねえあれいちばん星だよねえ、……金星! わたしたちはやっぱり話をした。
「疲れるね、疲れる。こころちゃんは疲れない?」
「疲れた」
「うん、そうだよねえ。疲れる」
「足が棒のようだ」
「うん」
「というか足が棒ってどういう状態?」
「疲労して曲げるのも一苦労だから棒みたいってそういう……」
「あ、そっか」
「うん」
「あ、そういえば、この前部屋に虫出たの」
「え。ほんと?」
「ほんと、ほんと」
「やばいじゃん」
「そうだよ。めちゃくちゃでかいやつだ」
「どのくらい?」
「んーこのくらい」
「ちっちゃ!」
「ちっちゃくないよ。大きいだろう。わたしの中では1cm越えたらめちゃでかい。2cmあったら化け物だ」
「えーそんなこころちゃんってそんな虫だめなんだ」
「言ってるだろう。なぜ理解しないの」
「蟻とかは触れるでしょ?」
「蟻はまあ平気」
「蛙は?」
「蛙はだめ!」
「蛙は虫じゃないよ」
「虫じゃないけどきもいだろう」
「かわいいよ」
「きもい」
「えーそう? わたしベランダにいるやつとかふつーに掴んで田んぼ投げたりするよ」
「投げるの? やんちゃだ!」
「じゃなくてベランダにいると干からびちゃうでしょ」
「そうなんだ」
「そう……あ、てか、てか、話の腰折っちゃってごめんね。なんだっけ?」
「うん。夜にね寝ようと思ったら壁と壁がぶつかるとこにそいつが出たの。部屋の隅の上に行ったとこ、あ、いやあそこも部屋の隅か……。普通、床とかなんか家具の下とかそういうらへんに出るじゃん。でも、そんな壁のなにもないとこに出て、卑怯だろう。床とか物陰とかに出るのはいいけど。よくないけど。虫のくせにわたしより高いとこに出ないで欲しい。全員土の中にいて欲しい」
「ごきぶり?」
「ちがう。なんか茶色だけどもっと角ばったやつ。きもいやつ」
「それでそれで?」
「いつもみたいに太子様に取ってもらおうと思ったんだけど、でもみんないなくて、旅行行ってたの」
「どうしたの?」
「やめた」
「やめた?」
「生きてくのやめた」
「ふふ、なにそれ」
「そのまま離れを捨てて外で暮らしていくことにしたの」
「外の方が虫いるでしょ!」
「そう、そう、そう。公園のベンチで寝ようと思ったらそこにも虫いた。声出たよ」
「あはは。こころちゃんはばっかだねえ」
「結局次の日のお昼に太子様が帰ってくるまで外うろうろしてたよ」
「ほんとに? やば。そんなんならうち来ればよかったのに」
「行ってよかった?」
「うん、うん。住んでもいいよ。虫出たら取ってあげるし」
「まじで!?」
「でもうちめっちゃ出るけどね」
「それじゃだめだ」
「もうこころちゃんはどこでも生きていけないね」
「さいてー」
そして、最終的にわたしたちが辿り着いたのはわたしの家だった。
どうしてか、そこに戻ってきてしまった。
家の裏手の林のなかを歩いているときもわたしは気がつかなかった。
かすかな違和感、それでいてなんだか懐かしい安心する感じ、それはなんだろうとわたしは思ったけれど、わたしたちはひどく疲れ切っていたしそれにわたしたちが歩いていたのはいつも通る林の中の道でもなかったからその正体は結局わからないままに終わってしまった。
林を抜けて、光の中に出たあとで、わたしが見たのは、小さな家。
わたしの住んだ家。
どうしてわたしはこんなところに一人で住むことになったんだろう。
そのときのことは、もちろん、もうちゃんと思い出せないのだ。
泥の中のかすかな記憶。
何もないまっさらな家の床の上に座り、見回した、部屋の隅に張られた大きな蜘蛛の巣の糸が割れた窓ガラスが壁に空いた穴がそそくさと逃げ出してしまう虫たちの背中が、全て黒い泥に溶け出して沈んでしまったあとで、その中にかすかに鈍く輝くもの、それは新しい生活への高揚感みたいなものだったかもしれないけれど、結局のところそれだってわたしがあとから勝手に作り上げてしまった気分に違いなかった。
丘、とこころちゃんが言う。
そこから見える景色をぐるっと指差して。
よく見える。
そうだ、わたしは丘の上に住んでいた。
わたしは今の今までそんなことさえ知らなかったのだ。
ぽつりぽつり遍在する家々の四角い屋根、横切る川の青、空を映した草木の青、田植えの終えたばかりの田園の青、くねくねと曲がりながら里まで繋がる道なり、河童たちが発明したTVとかいう新しい力を発動させるのために必要な電波塔の建設中。
それは毎日気にもとめずに眺めた景色だ。
無意識だったあの頃もそうじゃなくなった今も。
わたしはそんなこと気にもしなかった。
たしかにこの場所は他の場所よりも少し高くなり、里に降りるのにも坂道の上り下りが一苦労だなあ、とは思っていたけれど。
こころちゃんが言う。
「こいし、お前、丘の上の家に住んでたんだ」
「うん」
「たしかにそうだ、そうだった、どうしてわかんなかったんだろう」
「わたしも気付かなかった」
「言えよ」
「知らなかったんだってば」
「言ってよ。そういうの全部ひとつも隠さないで」
「だから知らなかったってもう」
「言ってね」
「言う言う言うゆーよもうさあ。やくそく……約束するから」
「うん。なら、いい」
それからわたしたちはそこでお弁当を食べることにした。
こいしのためにつくってきたんだ、とこころちゃんが朝色の風呂敷に包まれたお弁当箱を渡してくれた。
そうなのと受け取って肯き、なにか旧わたし風の軽口を叩こうと思ったのに何一つ言葉が思い浮かばず、ありがと嬉しいよ蓋を開けば、その色、色。卵焼きやウインナーやミニトマトのその色が……遍いて。そんなふうに食べ物を綺麗に発色させる秘密を知りたいと思ったけれど、聞いたら特別な色合いまでなくなっちゃいそうで、聞かずに食べた。
風吹く丘でわたしはなんだか嬉しいおいしい惨めな気持ち。
だって、わたしのつくってきたお弁当はほとんどの場所がくすんだ茶色だったから。
箸でウインナーを一つとって口のなかに放り込むと、甘い。
おいしいものは全て、辛いものも苦いものの酸っぱいものもその口のなかで甘い味がする。
「わぁ、美味しい! こころちゃん、こころちゃん、これおいしいよ。えへへ」
「そうか。よかったよかった」
「おいしい、おいしい」
「そうかそうか」
「もぐもぐ」
「……」
「ね、なんか変?」
「なんで?」
「だって、真顔でこっち見てるから」
「仕方ないだろう。わたしはいつもこんな顔だ」
「そう? でもわたしもほんとは無意識だから味とかよくわかんないよ」
「嘘つき!さっきバカみたいな顔でおいしいって言ってただろう!」
「昔からひとのつくったものを食べたら笑顔でおいしいって言うように教育されてたから、無意識にそうしちゃうんだよ。育ちがいいんだね」
「じゃあ本当はどんな味なの?」
「どんな味って……もぐ。えへへ、美味しい。もぐもぐもぐ。美味しい美味しい。こころちゃんのは美味しい味だ。やばいやばいやばい美味しい。ああ、でも、これは習慣が言わせるやつで、ほんとは味は全然わからないや。えへ。無意識だから」
「このー!なんだとー」
こころちゃんは至極どうでもよさそうな顔でそんなことを言う。
わたしはわたしの作ったお弁当をこころちゃんに食べてもらった。
本当はチョコレートのお弁当を作ろうと思ってた。
こころちゃんとピクニック行くからお弁当を作ろうと思って、一週間も前からどんなお弁当を作ろうかと考えて里に降りて貸本屋でお料理のレシピの本を借りては読まず、寝て、天井の木目模様が時間に沿って蠢いていくのをなんとなしに眺めながら、そうだチョコレートのお弁当を作ろうと冗談交じりに考えたのが、こころちゃんの好きなこころちゃんの友だちになれた無意識の頃のわたしだったらきっとこんなふうに悩まずにお手軽な冗談ですましてしまっんだろうそしてそういうわたしがこころちゃんは好きなんだって繋がったときに、わたしは最低な気分になった。
いまはそんな冗談だって、ちっとも面白く無いから。
結局わたしは普通のへたくそなお弁当を作ってきてしまったのだ。
「どう?」
「美味しい!」
「顔がおいしそうじゃないよ」
「言ってるだろ。わたしはいつもこんな顔だから」
「おいしいのお面を被ってよ」
「そんなものはない」
「じゃあおいしいのダンスを踊って?」
「いやだ」
「どうして? ほんとは美味しくないからだ!」
「ちがう。そんな舞を踊る暇があるくらいならもっともっとこいしのお弁当を食べてたいんだ」
「えへ、こころちゃんってばもう」
「あーおいしーなーおいしー」
「でも、全然美味しいそうな顔じゃないじゃん」
そんな顔で食べる人にはあげません、と言うと、わたしだって味がわからないやつなんかに食べて欲しくないとこころちゃんがわたしからお弁当を取り上げる。
それでわたしたちはそれぞれに自分の作ったお弁当を食べることになった。
チョコレートのお弁当を作らなくてよかったな、とわたしは思った。
そのままお弁当を食べ終わってしまうと、わたしたちは黙ってしまう。
そよ風が通り過ぎてこころちゃんのアメリカのお菓子風のピンク色の長い髪を浚う。
たなびいて、ばらばらになる。
「最近のわたしはどう?」
「最近のこいし?」
「変わったところとか気がつかない?」
「これはあれだろう」
「なに」
「めんどくさいやつ!」
「うん、わたしはめんどくさい奴だよ」
「拗ねるなよ。わたしがちゃんとお前を見つけてやるから」
「そう?」
「うん。えーと、こいしの変わったところ……んーー。右向いて。もっとよく見せて。もっと。上、下、左、右……。うーーん。触ってもいい? ん、ん。んーーー? ここも触らせて。あ、すごい。変わったところ……あ! いや。 変わったところ、変わった、うーん……わからない!」
「ほんとに?」
「うん。ごめん」
「そっか。よかったよ」
「よかったの?」
「うん」
「こいごころは難しい……」
「恋心?なんで?」
「だって、こいしはわたしのことが大好きだから」
「えーー? なんで、なんで、なんでそうなるの? まったくもーこころちゃんは自意識過剰だなー。恥っずかしいー」
「そりゃあこいしは無意識だから自分の思いがわからないだろう。でも、お前はわたしのことが好きだよ」
いったいどんな顔でそんなこと言うんだろうって覗いたこころちゃんの顔は、いつもとちっとも変わらない冷たい三月の白だった。
その季節の外れに降る雪の色の。
じっと虚空を見つめて何も感じないってふりをしている。
まるでちょっとした秘密を隠しているからわざと無表情にしてるっていうみたいな無表情だった。
そうだ、こころちゃんはいつでも嘘をついているみたいだ。
ふわふわと中空をたくさんのお面が漂っている。
数えてみたら十七あった。
その笑顔が、泣き顔が、困った顔が、恥ずかしそうな顔が、全てこころちゃんの可愛い嘘で。
これもやっぱりわたしのためだけの表情なのって聞きたいと思ったけれど、別にそんなに知りたいわけでもなくて、やっぱいいや。
わたしはいつの間にかこころちゃんの感情がわからなくなっている。
昔は、たとえ心なんか読めなくたってこころちゃんならそのお面を見れば、すぐにどんな気持ちかなんてわかったのに。
わたしたちは少しずつ複雑になっていく。
楽しい!悲しい!だったものがいつの日にか混じり合いたった一言で表すことができなくなって、やがては嬉しいような寂しいような気持ちでもなくなって、これだけたくさんの仮面を重ね合わせても届かなくて、むしろあまりにも多く重ね合わせたせいでその元々の形が見えなくなってしまう。あとには形のない何かだけが残り、その見えないものを指して、それはなんだか気分だね、なんだか悲しい寂しい嬉しい楽しい恥ずかしい泣きたい気分だよ、とか言うことはできるけれど、やっぱりそれは見えない何かで触れることのできないどこかで、だからそこには何もない。
わたしたちには感情がない。
ねえ、その通りだよ、こころちゃん。
今だってわたしはこころちゃんへの思い一途でこんなにも空っぽなんだよ。
無意識だったあの頃よりずっと。
わたしは安心する。
これから先ずっと生きていけると思う。
こころちゃんは言う。
「お前はわたしのことが大好きだから、いつもわたしの側にいるだろう。わたしにはわかるんだ。わたしはいつでもこいしのことを感じるの。死にたい朝に、緊張して座り込んでしまう舞台の幕開けの寸前に、雲間から差し込むオレンジが天国からの光に見える夕暮れに。夜には見えないお前が布団の中に忍び込みその息の音を聞く。道でふと理由もないのに振り向いてしまったらやっぱり何もなくて、真実そうやって振り向いてしまったのはこいしがわたしの肩を叩いたからだったんだってこと後から思い出す。どこにいても何をしててもこいしがいるんだ。お前はまるで空気のようにあらゆる時瞬間にわたしにまとわりついて、わたしは何をしてもお前をかきまぜる! なあ、こいし、こいし、今だけは覚えてね。どうせ忘れちゃうんだろうけど……。お前はわたしのことをこんなにも愛してるの」
太陽。
赤い夕暮れの光が急斜面を撫でながら、滑空し、”幻想郷TV塔第一号建設予定地”にぶつかって、日溜まる。
ビニールの尻尾をつけた鉄骨が滑車によって運ばれて斜面を上り乱雑に捨て置かれ、たむろする河童たちの煙草の煙、あれは空まで届くだろうかと思いつつ、拡声器越しの声はここまで聞こえない。
工事現場とかってわたし好きだな。
やっぱ嫌いだけど。
どんな手つきで組み上げられるものだっていつかは完成しちゃうし、でもいつまでたっても出来上がらないのはもっと寂しいもんね。
愛しいもの。
完成に近づく加速度で磨耗して失われるもの。
こころちゃんの71乗の全部おんなじ無表情。
「こころちゃんはここ最近もそう思ったの?」
「うん。いやってほど」
じゃあ、こころちゃんが感じてたのは最初からわたしじゃなかったんだねって、こころちゃんは本当はわたしのことがわからないんだねって、こころちゃんはわたしのいない場所でわたしの知らない誰かに愛撫されて感じちゃうんだねって、そんなこと言わないよ。
わたしは、いつか、お姉ちゃんに全てのことを謝りたいと思ってた。
お姉ちゃんにちゃんと今までのことみんな謝って、実家に帰って、食卓を囲んでいろんな話をして、いつかお空の背中には絶対乗せてもらう、お燐は……お燐には自慢したいことだってたくさんあるんだよ。
地底の人の住まわないがらんどうの町、未成熟な建築技術と明るい未来をひたすらに信じてやまなかった非計画性によって建ち上がりもはや過ぎ去ってしまった"旧市街"で、乾いた隙間風の吹き抜けるその斜めの町並みをうろつきながら、駄菓子屋の腐ることのない原色のチューブ・ゼリー、もう沸き出ることのない温泉の底にこびりついた硫黄のイエロー、旧地霊殿の開口の日にその高いところに掲げられて今も垂れ下がったまま白くたなびく布地の”地底の新しい生活”、眺めながら横切りながら、架空の友だちたちに再会しては少しだけ思い出話をして、やっと慣れはじめた煙草をふかしては、そうだ空のないあの地の底の町でなら煙が消えずに未だここにあることを信じることができるから、無意識だったあの頃に出会った全部のことを忘れずに懐かしまずにただ時折思い出すことができると思うから。
そしたら、もう一度、家族みんなで暮らすことだって、できると思うから。
「でもさ、でもさ、でもさ、そんなの無理だよねえ」
「なにが?」
「わたしね、この前死ぬまでにやりたいことを全部リストにして書いてみたの。そしたら、それがみんな出来たらこんな人生だって少しはって思ったけど、でもやっぱ無理だよなあ、とか思ってねえ」
「それって、たとえば、どんなこと?」
「見せてあげるよ」
「ほんと?」
「いつかね、いつか」
お姉ちゃんに手紙を書こうと思ってはやめて、書こうと思っては書けなくて、書こうやめよう書こうやめよう書こう、やっぱやめよう、それでも書こうとは思って書けなくて、書いてみては消して、書いて「はろう、はろう、おねえちゃん。ごめんね!」破り捨てて、そうだ、手紙を書こうやめよう書こうやめよう書こう、やっぱやめよ。もうやめよう。書こう……「お姉ちゃん、わたし、たくさん反省しました。これからはちゃんと毎日皿洗いだってトイレ掃除だって洗濯物畳むのだってするからまた家に置いておいて欲しいんです。でも家族ってそういうことじゃないよねえ。もうわたしお姉ちゃんのお手伝いさんにしかなれないね。でもね、それでも……」書いてみては消せなくて、読み返しては破り捨てて、お姉ちゃんに手紙を書こうと思ってはそのたびに里まで降りてかわいいけどそれよりもずっと慎ましく見えるような便箋を選んで買ってきて、書こうやめよう書こうやめよう、書こう。やめよう、やめよう、やめよう、言葉のない便箋だけが空っぽの部屋に溜まってもう呼吸さえできないよ。
だから代わりにこれからは毎日こころちゃんにお手紙を出そうと思った。
それは、たとえば、こんなふう。
『こころちゃんへ』
『ごめんね。』
『こころちゃんへ』
『果たし状 三月十一日、午後三時半ちょっと過ぎ刻に地底前平原前で待つ』
『最近はわたし、ふつーの子なんてどこにもいない、みたいなことが書いてある本ばっか読んでるの。』
『クイズです。近づけば近づくほど見えなくなっちゃうものはなんでしょ〜か?(正解はウラの右下!)』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『愛してる。』
『お金、貸してください。』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんがこの手紙を読んでいる頃にはわたしはもうこの世にいないでしょう。勝手にいなくなってごめんなさい。どうして死んでしまうのかってこころちゃんは気になるよね。でも教えてあげないよ。代わりにこのあのわたしの家にあるものは好きなものをこころちゃんのものにしてください。でも、棚の一番下の布で包んでる箱の中のきらきらのピアスはお空に、わたしのいつも被ってる帽子はお姉ちゃんに、この身体はお燐に渡してください。お願いします。最後まで色々と迷惑かけてごめんね。また、いつかこころちゃんがみんなに忘れられちゃってどっか幻想郷のまた幻想郷みたいな場所で会えたら、二人で遊ぼうね!』
『お前のせいだお前のせいだお前のせいだお前のせいだ』
『昨日はありがとー。めっっちゃ楽しかった! あのあとちゃんと帰れた?笑 わたし朝死にかけてた笑 てか、昨日変なこと言ってなかったよね?? 言ってたら忘れてねまじで! 今度新しくできた甘味処とか水族館とか服屋さんとか全部行こうねみたいな話してたじゃん? まじでちゃんと行こうね、約束だよ。あ、そうだ、今日の舞台がんばってね! いつかわたしも絶対見にいくー笑』
『(朝八時、アルコールの抜けない頭で)』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『この前死ぬまでにやりたいことリストを作ってる話をしたよね。やりたいことがとってもたくさんあったから今度は色のついたペンを持ってきてその中に優先順位をつけてみた。でも途中で行き詰まっちゃったの。たとえばそれはこっちを叶えたらこっちが叶わなくなっちゃうみたいなやつで、そんなんがいっぱいあって、紙の裏側で祈りの視神経みたいなものがこんがらがってその一つを引き抜いたら全部が見えなくなってしまうと思う。それでリストに書いてある祈りを一つも叶えることができないなって思って、でも叶えたら見えなくなるから、こうして”死ぬまでにわたしのしたいこと”が全部ちゃんとここにあって見えること、それだけで幸せだった。スイッチをつけたまま、明るいところに、今、わたしいる。永遠の命なんだよ。完全に満たされてわたしにはもう動機が何もないの。』
『うそだよ。わたし、こころちゃんとえっちがしたい。』
『べいべー。こころちゃん、べいべー。』
『(午後五時、夕日と甘すぎるお団子と虫の声と)』
『こころちゃんへ』
『人生がどうしようもなくなった時にだけこの続きを読んでください。』
『この前商店街の安くなるクーポンいっぱいもらったから送ります。(3月末まで)』
『今日は命蓮寺に修行に行こうと思ったけど昨日は禅の座るやつをやって脚が今もめっちゃ痛いから行くのやめた。それで一日中だらだらしながら無意識だった頃のこと思い出そうとしてたの。そうだ、無意識だった頃、わたしはたくさんの男の人や女の人と寝たんだけど、その時のことってもうあんまよく覚えてないし、だから良かったも悪かったもなくて……とか感傷に浸ってたら、ふと、そういうのって月刊幻想郷縁結びの”わたしの上を通り過ぎた男たち”のコーナーみたいな感じだなあって思って、やっばー最低じゃんってなってさあ、でも、もしかしたら、その中にわたしと全く同じ人を見つけられるかも!とか思って、家に溜まってるやつを読んでたら、わたしなんかよりもずっと透明な人を見つけてはなんていうか妬ましい気持ちになっちゃった。わたしは無意識で生きてたはずだけど、たとえば月刊幻想郷縁結びに”無意識にしでかした体験談”みたいなコーナーがあったら、そのときのエピソードとかしたためて送っても、採用されないんじゃないの、とか思って……。でも本当にわたしは無意識の世界を生きてたんだよ、こころちゃんは信じてくれる?』
『こいしより』
『こころちゃん、ハッピーバースデー!』
『おめでとう』
『それで、何歳になった?笑』
『わたしはもう古明地こいしじゃないから、こんなにもわたしのことを大好きなこころちゃんがわたしのこと嫌いだったらいいなって思うの。こころちゃんが誰とでも寝る女の子だったらよかったなって。ね、いつか、こころちゃんが寝た全ての男の子の話を聞かせてよ。』
『こころちゃんへ』
『おやすみ。』
『こころちゃんへ』
『そういえば、一昨日のこころちゃんの舞台見たよ。サイテーだった。全然伝わんないねもう。踊りの技術とかそういうのは色々あるんだけど、単純に無表情なんだもん。映画なら役者の表情まで見れるのに顔が見えない! 見ててつまんないし、それじゃあ踊りによって表現される感情も伝わんないよ。めっちゃ退屈だった! いや、たぶんこころちゃんは言うよね。表情なんか通さなくたってその舞加減によって感情が伝わるのが本物の能なんだって。ねえ、やっぱこころちゃんもさ、わかる人にだけわかればいいとか、思ったりするのかな? それならもう何も言わないけど……。でも、伝わる人にだけ伝わる踊りって、結局最初から同じ価値観を持った人だけに伝わるから、はじめから伝わったみんなが、色のついた旗の元に集って友だちになるってだけのことでしょ。そんなん何もやってないとおんなじだなとか思ってね……。ねえ、こころちゃんは友だちを見つけるために踊ってるの? 別にそれはいいけど、そんなの全然いいんだけど、だけど、わたし友だち作るの下手だから、友だちなんていないから、友だちなんて一生できないから、わたしはこころちゃんの踊りを好きにはなれないよね。寂しくって泣いちゃった。つまんなくて欠伸が出たよ。わたし、寂しくって泣いちゃったんだ。』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『開けないで』
『こころちゃんへ』
『今日わたしまた泣いたの。カーテンを閉め切った部屋に緩んだ水道管から水の滴る音が、してて、(でもそんなのただのくだらない比喩でね、立って歩いてわたし蛇口を硬く閉めた)』
『お姉ちゃん今までたくさん迷惑をかけてごめんなさい。わたしたちが普通の家族だったらよかったのにな。よく里に降りた時にちょっとしたことで喧嘩してる姉妹なんか見て、わたしもまたお姉ちゃんと昔みたいな姉妹に戻れたらなとか思ったりするの。でもあの時でさえわたしはお姉ちゃんにいっぱいの迷惑をかけていたのかな。たとえばお姉ちゃんが最初から最後までわたしのことを疎ましいんだって思っていたとしてもわたしはやっぱりお姉ちゃんの妹でいたい。いたいっていうか、そうなんだよね。わたしたちって今もずっと普通の家族で、わたしはお姉ちゃんの妹だからこんな日にもお姉ちゃんと話をしたいと思うんだよ。よくさ映画とかで偽物の両親に育てられた子供が本当の両親に会いたがる、みたいなプロットあるじゃん? ああいうの見て、本当の家族みたいな精神ってちょっとうざいし身も蓋もないなあ、とか普通の家庭で育ったわたしはそう思っちゃうんだけど、ものの本に書いてあるように家族なんて単なる最初の共同体にすぎないってわりきれるほどわたしドライになれなくて……言えば言い方でなんだって言えるしとか思うし、お姉ちゃんだったらそういうこともっとうまくわかる? お姉ちゃんがそういうことについてどう考えるのか知りたいと思う。それはわたしたちが姉妹だから? それとも単にお姉ちゃんが物知りだからそう思うだけかな。とにかくわたしお姉ちゃんに聞いてみたいことがたくさんある。謝りたいことがたくさんある。ずっと考えてた言い訳がたくさんある。わたし、お姉ちゃんに会いたいな。近々帰ります。』
『半年で! 決めたんだ、そしたらわたしはいなくなっちゃおうと思う。』
『From こいしより』
『Dear こころちゃんへ』
『わたし、メリーさん。いま、あなたの後ろにいるの。』
『わたし、メリーさん。いま、深爪したとこがめっちゃ痛い。』
『わたし、メリーさん。きょうは一日中ごろごろしてた。あしたはあなたのところに遊びに行くね!』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『こころちゃんへ』
『わたしのことはこころちゃんだけがわかってくれればいいんだーとか思ってね。』
『夢でもいいからいつでも食べたいな、キャビア、メレンゲ、こころちゃんの手料理。』
『わたしまたみんなに恐れられる妖怪になりたくていろんな計画を立ててみた。ここには書けないこともたくさん。その中でも一番最低なのは幼い子供を殺すことだった。それをやろうやろうと思っては布団に入るたびに妄想をたくましくしてたら、いつしか残された人のこと考えて泣いちゃった。消えちゃった誰かじゃなくて死んじゃった誰かじゃなくていつも残された人のことだけしか思えない気分が、最低で……』
『自我!』
『時間だから、行くね。また明日もお手紙書きます』
『こいしより』
『こいしより』
『こいしより』
『わたしは最低だよね。そうだよ?』
『ぶた!(ニワトリの絵)』
『こころちゃんへ』
『今はわたしこころちゃんへの思いをはっきりと意識できるからこうしてお手紙を書いているだけでもこんなにもドキドキするのに、わたしはこころちゃんが大好きなことを知っているわたしのことが好きじゃないから、きっとこころちゃんもこころちゃんのことが大大大好きなわたしのことを好きじゃないんじゃないかと思うのです。結局こころちゃんだってその心は普通の女の子だから普通の子よりSpecialな子が好きだよね。ねえ、こころちゃんはこころちゃんのことが好きなわたしのことが好きですか?』
『ねこ!(猫の絵)』
『(朝に、湖畔にて澄み渡る冷たい空気の中で)』
『(朝に、名前も知らない友だちのお墓の前で)』
『(朝に、なにもかもが治りそうな気分の中で)』
『こころちゃんへ』
『おはよう!』
『おはよう!』
『おはよう!』
『こいしより』
でも、やっぱそんなの書けなくて、わたし何一つ言葉を形にできなくて、想像の便箋→文字列だけが頭の中に溜まって雪のように降る。
つまらないアイデアばかりを覚える。
それでも、わたし、いつでもこころちゃんに手紙を書きたいと思ってた。
わたしには今しかないんだから。
こころちゃんがまだわたしのことを特別だと思ってくれてるうちに、こころちゃんの全部を見たい。
こころちゃんを笑わせたい泣かせたい怒らせたい恥ずかしがらせたい。
そして、特別なわたしのまま、特別なわたしだったらきっとしたようにある日突然こころちゃんの前から、ふいと消えてしまいたい。
そうだよ、わたしはもうすぐこころちゃんの前から消えてしまうんだ。
目の前で、こころちゃんが手を振りながら遠くなり、最期の言葉を言った。
「じゃ、ここで。ばいばい!古明地こいし!」
でも、わたし、本当はいつか、こころちゃんにもほんとのことが言えたらいいなって、そう、思ってた。
「あ、待って」
「なんだ?」
「えーとね」
「うん」
「また明日!」
★
こころちゃんがわたしを覚えてなくなっちゃっても、わたしがわたしを覚えて失くなっちゃっても、わたしはこころちゃんのことずっと忘れたくはない。忘れない。
★
「それだけ言いたかったの、さよなら!」
凄いな、凄い。
こんなにも曖昧な感情を誰かに伝える方法があるなんて、私は知りませんでした。ありがとうございます。
けれどもこいしが何かを、しようとしていて、こころがこいしのことが大好きで。
上手く言えないのですけれど本当に良かったです。
一回では全部は理解するのは難しかったけれど何回か読むと比喩の感覚が掴めてきてそのまま感触が置き換わっていくようでした
空想の手紙のシーンで久々に創想話で目がしらが熱くなりました
こんなものは絶対に自分には書けません 恐れいった そして特別に好きなキャラクターではなかったこいしがすこし好きになれた気がしました
こいしちゃんのアイデンティティクライシス。無意識が無くなったこいしは何が自身をこいしとたらしめているか模索する。しかしそれは一番身近に初めからと存在していた! 自分が自分を見る目は変わっても他人は自分を見る目は簡単には変わらない。それは幸せなことなのだ!
脳内で考えていることは曖昧だがその曖昧さ、説明の際に無理やり論理的にしないといけない思考プロセスをそのまま文章にしている。とんでもない実験作。そして最後の怒涛のダム決壊。
きっとこいしだからできる芸当なのだろう。しかしこれを書いているのは人間の筈である。これは何なんだ!!!!
わたしはあなたが好きだからあなたもわたしを好きでいてほしい、ということについてあなたはどのくらい意識していますか?とこちらの心を覗き込まれたようで。歳月が経って読んだときに、抱く感想はまた別のものになるような気もします。ゆえに、自分はいつか時間を見つけて再読しなければならない、という義務感すら感じました。
素敵な作品をありがとうございました。