肆
妖怪はおろか大半の人間ですら、この未曾有の大災害を「どうせ誰かがなんとかするのだろう」と思っていた。有り体に言うと危機感に欠けていた。絶望していても。自身は死に選ばれるとしても。幻想郷の滅びを信じている者など居なかった。「方舟」という人間のみで構成された新興宗教が力を付けているらしい。既にいくつもの家が水に押し潰されている。彼らが冷静でいられない事は想像に難くない。とはいえ、命蓮寺の改悪でしかないその教義が只の気休めに過ぎないことは、半歩下がって考えれば直ぐに判る事のように思えた。紅魔のバリアにしたって、考え様に拠ればいよいよ我々はアヤカシ共に慈悲で生かされているに過ぎないと考えるものも一定数居た。人間には、我々は自らの力で生きているという誇りが無ければならない。少なくとも大勢は。この災害で何割が生き残るかは知らないが、では終わったからまた明日から頑張りましょう、なんて単純な話ではなさそうだなと感じられるのは、私が特別穿った感性をしているからでない事は明らかだった。人間達は様々な環境、アヤカシ共の思惑、自らの考え、誇りに代わる代わる殴打され狂ってしまっている。終末症候群にでもなれれば楽だろうが、なまじ中途半端に生き残れそうな状況は精神性を殊更歪に変じさせている様な気がした。
だからと言って彼らを許すつもりは全く無い。ぼろ屑の様になって木に寄りかかっているルーミアを見つけられたのは虫の知らせと言う他無いが、叶うならばこうなる前に駆けつけたかったものだ。家に持ち帰ろうと胸ぐらを掴んで引き起こそうとすると小便の臭いが鼻をくすぐり、顔を顰めさせる。とにかく彼女を通り一遍の尊厳ある状態に戻さなければお互い口を効く気にもならない。死体の様に重く、紙切れの様に軽いその体は背負うのに苦労するようなものではかったが、それでも傘を持つ余裕は無く、後で取りに戻れれば良かろうと思ったら彼女が持ってくれていた。だが開いておく程の元気は無い様で、結局は濡れた分だけかさが増して難儀することになった。悪態をつく以外にする事がない。まあ、終末の狂乱、その渦中に置かれた人里を歩いていて後ろから鉈で頭をかち割られたとしても、それは只の自然現象に近い。酒があれば次の日には無くなるようなもので。しかしやはり、だからと言って彼らを許すつもりは全く無い。
「ああ、おかげで女の子に戻れたわ」
囲炉裏で猪鍋を煮ている。右鎖骨と両足の骨折やら体中、特に腹部の痣や裂傷、無くなった幾本かの指を大凡白い布に包まれて、肌が肌色に、髪が金色に戻ったルーミアは第一声で私にそう言った。寺小屋に向かう途中だったのだと言う。何事かを叫んでいる十数人の男達に轢かれるようにして、いわされた。暫く唸って考えていたら思い付きそうな悪逆非道の大体を体に刻まれた後、打ち捨てられたと。私は彼女よりも大分怒っている自覚があった。しかし、
-ここに来てからの何十年、この私が一体何処の誰を喰ったと言うんだ?
-喰ってるだろうがてめえらは。にちゃにちゃ血生臭えその口で。
一笑に付す。別に今回限りの話ではない。本当に仲良くしたい「人」からの信頼を裏切りたくなければ、それ以外の全ての「人」へ筋を通し続けなければならないのだった。たとえ相手がそこまでを求めていなかったとしても。もはや我々は厳密に言えば人を喰う必要がない。博麗大結界が我々に形を持たせて顕現させているその力は恐怖に限らないからだ。理論上可能レベルの話だが、確かにそれは事実だった。人食い妖怪がそれを実践する苦悩は私には想像できない。
「猪鍋煮えたから」
「食べたら大体治りそうなチョイスね」
「だから選んだ。感謝して」
「ありがとう」
いただきますと言って、まるで人間のように行儀よく私達は食事を始めた。彼女は衰えていた。人喰いジョークを言って襲いかかる振りをして遊ぶのには暇つぶし以上の意味がない。闇とは境が無く、紫様でもおいそれと手を出せないような深い処にあるものの筈。本来攻撃されて損傷を受けるような存在じゃない。その生き方を選ぶ意味が判らない。どいつもこいつも。
「なんて顔してるの。大丈夫、今回は特別だって。ここ数年はすれ違いざま憎まれ口すら叩かれなかったんだよ」
「でも、結局そうだからこうなった」
「それは私達にどうこう出来ることではなぁーい」
「殺すぞ」
「きゃあ怖い」
「・・・なんでだよ」
「そういうアンタはなんでなの?」
「私はお前らがそんなんだから仕方なく合わせてやってるだけさ」
「はは、皆そんなもんじゃない?人間も、私達も」
何故実際にボコられた彼女より私の方が傷付いているんだろう。ルーミアは鍋を喰い終わる頃には傷らしい傷がほぼ全快していた。からりとした笑みが私の前でちらついていた。彼女を甲斐甲斐しく看護したおかげで相当疲れていたのか、眠気を自覚し始めていた。囲炉裏の灯りがぼやけているのを感じる。人間も、私達もそんなもの?妖怪は妖怪だろう。私はお前が暴れると一言、一言言ってくれれば誰でも何人でも引き裂いてやるよ。いや。もう。お前らが何も言わなくたって、私一人でも。考えるのが面倒くさいんだ。人を喰って笑って、退治屋を殺して喰って笑って、格が上がってどいつもこいつも震え上がったある日、退治屋に殺されて断末魔上げて死ぬんじゃ駄目なのかよ。寺小屋で私と、皆と仲良くしてるあの男の子だって、明日にでも喉笛噛み千切れるさ、私は。妖怪は妖怪でも今は式神の癖にウダウダ下らない事を考えすぎだ。紫様と藍様のせいだ。もっと自主性を排除して欲しかった。私は人間みたいに悩みたくなんて無かったんだ。これじゃ終末の狂乱に当てられた人間共と、まるで同じ土俵じゃないか。
「まあ、一番若いしね、アンタは。よしよし、泣くな泣くな。橙は良い子だ、ねんねしな」
うるさい。嫌いだ。お前も私も。全部、皆。家が軋み水の音激しい最中、腹ただしい事にこの囲炉裏の灯りが届く範囲だけは彼女の私に対する慈しみに守られている。
妖怪はおろか大半の人間ですら、この未曾有の大災害を「どうせ誰かがなんとかするのだろう」と思っていた。有り体に言うと危機感に欠けていた。絶望していても。自身は死に選ばれるとしても。幻想郷の滅びを信じている者など居なかった。「方舟」という人間のみで構成された新興宗教が力を付けているらしい。既にいくつもの家が水に押し潰されている。彼らが冷静でいられない事は想像に難くない。とはいえ、命蓮寺の改悪でしかないその教義が只の気休めに過ぎないことは、半歩下がって考えれば直ぐに判る事のように思えた。紅魔のバリアにしたって、考え様に拠ればいよいよ我々はアヤカシ共に慈悲で生かされているに過ぎないと考えるものも一定数居た。人間には、我々は自らの力で生きているという誇りが無ければならない。少なくとも大勢は。この災害で何割が生き残るかは知らないが、では終わったからまた明日から頑張りましょう、なんて単純な話ではなさそうだなと感じられるのは、私が特別穿った感性をしているからでない事は明らかだった。人間達は様々な環境、アヤカシ共の思惑、自らの考え、誇りに代わる代わる殴打され狂ってしまっている。終末症候群にでもなれれば楽だろうが、なまじ中途半端に生き残れそうな状況は精神性を殊更歪に変じさせている様な気がした。
だからと言って彼らを許すつもりは全く無い。ぼろ屑の様になって木に寄りかかっているルーミアを見つけられたのは虫の知らせと言う他無いが、叶うならばこうなる前に駆けつけたかったものだ。家に持ち帰ろうと胸ぐらを掴んで引き起こそうとすると小便の臭いが鼻をくすぐり、顔を顰めさせる。とにかく彼女を通り一遍の尊厳ある状態に戻さなければお互い口を効く気にもならない。死体の様に重く、紙切れの様に軽いその体は背負うのに苦労するようなものではかったが、それでも傘を持つ余裕は無く、後で取りに戻れれば良かろうと思ったら彼女が持ってくれていた。だが開いておく程の元気は無い様で、結局は濡れた分だけかさが増して難儀することになった。悪態をつく以外にする事がない。まあ、終末の狂乱、その渦中に置かれた人里を歩いていて後ろから鉈で頭をかち割られたとしても、それは只の自然現象に近い。酒があれば次の日には無くなるようなもので。しかしやはり、だからと言って彼らを許すつもりは全く無い。
「ああ、おかげで女の子に戻れたわ」
囲炉裏で猪鍋を煮ている。右鎖骨と両足の骨折やら体中、特に腹部の痣や裂傷、無くなった幾本かの指を大凡白い布に包まれて、肌が肌色に、髪が金色に戻ったルーミアは第一声で私にそう言った。寺小屋に向かう途中だったのだと言う。何事かを叫んでいる十数人の男達に轢かれるようにして、いわされた。暫く唸って考えていたら思い付きそうな悪逆非道の大体を体に刻まれた後、打ち捨てられたと。私は彼女よりも大分怒っている自覚があった。しかし、
-ここに来てからの何十年、この私が一体何処の誰を喰ったと言うんだ?
-喰ってるだろうがてめえらは。にちゃにちゃ血生臭えその口で。
一笑に付す。別に今回限りの話ではない。本当に仲良くしたい「人」からの信頼を裏切りたくなければ、それ以外の全ての「人」へ筋を通し続けなければならないのだった。たとえ相手がそこまでを求めていなかったとしても。もはや我々は厳密に言えば人を喰う必要がない。博麗大結界が我々に形を持たせて顕現させているその力は恐怖に限らないからだ。理論上可能レベルの話だが、確かにそれは事実だった。人食い妖怪がそれを実践する苦悩は私には想像できない。
「猪鍋煮えたから」
「食べたら大体治りそうなチョイスね」
「だから選んだ。感謝して」
「ありがとう」
いただきますと言って、まるで人間のように行儀よく私達は食事を始めた。彼女は衰えていた。人喰いジョークを言って襲いかかる振りをして遊ぶのには暇つぶし以上の意味がない。闇とは境が無く、紫様でもおいそれと手を出せないような深い処にあるものの筈。本来攻撃されて損傷を受けるような存在じゃない。その生き方を選ぶ意味が判らない。どいつもこいつも。
「なんて顔してるの。大丈夫、今回は特別だって。ここ数年はすれ違いざま憎まれ口すら叩かれなかったんだよ」
「でも、結局そうだからこうなった」
「それは私達にどうこう出来ることではなぁーい」
「殺すぞ」
「きゃあ怖い」
「・・・なんでだよ」
「そういうアンタはなんでなの?」
「私はお前らがそんなんだから仕方なく合わせてやってるだけさ」
「はは、皆そんなもんじゃない?人間も、私達も」
何故実際にボコられた彼女より私の方が傷付いているんだろう。ルーミアは鍋を喰い終わる頃には傷らしい傷がほぼ全快していた。からりとした笑みが私の前でちらついていた。彼女を甲斐甲斐しく看護したおかげで相当疲れていたのか、眠気を自覚し始めていた。囲炉裏の灯りがぼやけているのを感じる。人間も、私達もそんなもの?妖怪は妖怪だろう。私はお前が暴れると一言、一言言ってくれれば誰でも何人でも引き裂いてやるよ。いや。もう。お前らが何も言わなくたって、私一人でも。考えるのが面倒くさいんだ。人を喰って笑って、退治屋を殺して喰って笑って、格が上がってどいつもこいつも震え上がったある日、退治屋に殺されて断末魔上げて死ぬんじゃ駄目なのかよ。寺小屋で私と、皆と仲良くしてるあの男の子だって、明日にでも喉笛噛み千切れるさ、私は。妖怪は妖怪でも今は式神の癖にウダウダ下らない事を考えすぎだ。紫様と藍様のせいだ。もっと自主性を排除して欲しかった。私は人間みたいに悩みたくなんて無かったんだ。これじゃ終末の狂乱に当てられた人間共と、まるで同じ土俵じゃないか。
「まあ、一番若いしね、アンタは。よしよし、泣くな泣くな。橙は良い子だ、ねんねしな」
うるさい。嫌いだ。お前も私も。全部、皆。家が軋み水の音激しい最中、腹ただしい事にこの囲炉裏の灯りが届く範囲だけは彼女の私に対する慈しみに守られている。
やっちまえ橙