『感受性が強くて純粋な子は、危ないの。そういう子達は、誰かが守ってあげないといけないお姫様。
誰にも守ってもらえないお姫様は自分が壊れて、それでも壊れなかったお姫様は、女王になって周囲を壊すの』
くるくるくる……
花籠を手に、少女は踊る。
赤と黒のゴシックドレス。ふわふわ軽い金髪の頭の中央に結わった赤いリボンは、光沢のあるシックな印象。さりげなくも凝っている刺繍の縁取りは、職人の丁寧な手仕事であろう。
少女は人形のように愛らしい?
いいえ。人形の少女は、お姫様のように愛らしい。
「こっちよ。案内してあげるわ」
「そう。何を見せてくれるの?」
傍らには、赤と青のツートンカラー。緩く編み込んだ銀髪は、粒子でも纏うように淡く輝いて。怜悧な美貌は無機質な印象でありながらも、目尻は穏やかに垂れ下がっている。聡明で、穏やかな印象の女性だった。
人が近付こうとしない山奥、幾つかの丘陵を越えた先に、突如として現れる鈴蘭の丘がある。
無名の丘、と呼ばれていたこの場所も、今ではもう、鈴蘭の丘と呼ぶ方が耳に馴染む。肌寒さ残る春の芽吹き、そして遠くに初夏の気配。鈴蘭はその小振りな鐘状の花を風に揺らし、つつましくも可憐に咲き誇っている。
なだらかな斜面に沿う鈴蘭の花の段々畑は、本当に、天上に続く階段にも思えるのだった。
その中に、ぽつん、ぽつんと、建造物。
突如として現れた鈴蘭の丘の中に、突如として現れた、──観覧車。
今までは無かったはずの物。けれど、例えば外の世界から電波塔が流れ着いた例を思えば、さしたる不思議も無い。幻想郷とは、そういう場所だ。
ただ、そういった予想を抜きにしても、果たして八意永琳の胸中に、疑問などあったかどうか。すっかり錆びて赤茶けた色の観覧車を見上げ、ふむ、と頷く。そして、メディスンに手を引かれるままに、その“遊園地”に足を踏み入れたのだった。
荒廃したフラワーパーク。
継ぎ接ぎだらけ、足りないものも多い、パッチワークの遊園地。
割れたコーヒーカップの遊具が一つ、地面に斜めになって埋もれている。ゴーカートが二台、事故を起こして停車中。児童向けの小さなジェットコースターは、捻じれて、ひしゃげて、レールが途中で切れている。他には、いかにも場末の侘しげな回転木馬とか。
丘陵の一角に寄せ集められた遊具の数々は、数も大して揃っていなければ、計画性も無く無秩序に点在しているだけ。
笑い声の残響も聴こえない。長い間風雨に晒されたことで酸化し、全体的にも赤茶けた色合いの遊園地の遺失物には、植物の根が張り、蔦が絡み、花と緑の中に埋もれている。遊園地の廃墟、と言うよりも、遊園地の廃墟の残骸を買い取って、空いているスペースに並べただけ。ほんのりと冷える高地の風は、大き過ぎる間隙を冷たく吹き抜けるのだった。
でも、鈴蘭の花だけは旺盛に咲き誇っていた。
寂しい印象のようでいて、郷愁を誘うだけのものでもない。荒れ果てた遊園地は、もうすっかりと、少し風変りな花壇に生まれ変わっていたのだ。二度と回らないコーヒーカップの遊具には土が詰められ、鈴蘭とは別の可憐な花が栽培されている。ゴーカートの座席も同様に。
「これが、貴方の見せたかったもの?」
「そうよ。でも、違うわ」
くるくるくる……と、メディスンは踊っている。だが、目は笑っていなかった。どこか倦んだような眼差しで、ガラスの瞳には希望の光が無い。
「ふむ」
永琳は頷く。何を考えているのか、その表情は、常人が見たとて、柔和な笑顔と無表情との区別が付かない。もしも親しい姫君が目にしたなら、比較的には笑顔っぽい、と評したかも知れない。けれども結局、何を考えているのかまでは読み取れないだろう。
「人形も、集まっているわね」
花の影に隠れるように、ぬいぐるみ。遊具は動かないけれど、幾つかのぬいぐるみは自立して動いていて、その様子は遊園地で遊んでいるようにも見える。
「ここは、人形達の楽園なのかしらね」
「そう見える? そんなはずが無いでしょう?」
テディーベア。恐竜さん。イルカさん。布製のぬいぐるみは、比較的最近のもの。
塩ビのキューピッド。ブリキのロボット。この辺りには、昭和らしい風情もある。
一番古そうなのは、赤いおべべを着て繭玉のように膨らんだオシラ様とか。
どれもこれも、持ち主に忘れられるか、捨てられるかした人形たち。外の世界から流れ着く人形は、ともすると、自然とこの丘に引き寄せられてくるものと思われた。人形同士が縁を結び合っているのなら、それも道理で自然なことと言えた。
古びたものではあったが、きっとメディスンが手入れをしているのだろう。どうしようもない部分こそあれ、目に付く汚れは取り除かれている。想像の中で、メディスンがその小さな手で甲斐甲斐しく丁寧に、拾った人形達の顔を撫でるように拭いている様子には微笑ましいものがあって、永琳の口元も、少し緩む。今度は、確かに笑っている、と誰が見ても思えただろう。
「ええ、楽園に見えるわ。そう評しても、差し支えないでしょう」
「……へぇ、そうなんだ? ごめんなさい、私は貴方のこと、誤解していたわ。てっきり機械みたいに冷たいのかと思っていたけれど……貴方の頭の中は、まるでお花畑ね」
「ありがとう。私、お花は好きよ」
「褒めてない」
「?」
「あのねぇ……ううん、何でもない」
人形は何も語らない。感情表現に乏しく、もぞもぞとした動きからは何も読み取れない。ただ、一定の受け皿として機能していることは確かなように見受けられる。行き場の無い人形にとって、この丘が居場所になるのなら、それは、楽園が言い過ぎだとしても、多少は安住の地と言えるのではないか、と。
永琳はそのように判断して、言ったのに。なのにメディスンは、どこか小馬鹿にしたような笑みに顔を歪める。
「ねぇ、永琳?」
「何かしら」
「ここが、兵隊の詰め所だとは考えなかった?」
特にどこに向かってでもなく、広い花畑の中を、ぐるぐるとそぞろ歩いていた。そんな折、ぽつりと、メディスンは小さく低く呟いたのだった。
永琳はきょとんと、首を傾げる。
考えなかったからだ。
思いもよらなかったからだ。
「ああ、成る程」
とは言え、永琳は即座に納得した。
そして素直に、こうも言うのだ。
「そうだったわ。そう言えば、貴方は人間を恨んでいたわね。で、十分な兵力は集まった?」
「早とちり。それって貴方の悪い癖よ?」
と、メディスンは胡乱げに。
鬱屈した棘々しさを滲ませていたガラスの瞳が、少しだけまろやかなジト目になった。
「自在に動ける人形なんて、私だけ。この子達なんて、何の足しにもならないってば。私は、貴方の考えを試す風な質問をしただけで、私自身は、兵隊の詰め所だなんて思っていないわ」
永琳には、意味が分からなかった。
何故って、メディスンの質問には意味が無い。だからその疑問を、そのままに訊ねる。
「じゃあ、その質問には何の意味があるの? ただの意地悪?」
「ええ、意地悪よ。ちょっとからかっただけ」
「意地悪するのは、いけないことよ」
「ごめんなさい。出来心なの」
「そう。分かったのなら、もう良いのよ」
永琳は終始、真面目な表情。その反対にメディスンはだんだんと頭の痛そうな顔になる。
「……はぁ、貴方と話していると、疲れちゃう」
「分かったわ。疲れの取れる薬が欲しいのね」
「そういう所が疲れるって言ってるの」
「ふふ。昔はよく言われたわ。でも最近は言われなくなったのよ」
「それって多分、色々と諦められたってことよ?」
「さて、と。毒は私のお友達。私の躰。私の手足。私の神経。ええ、そうね、兵隊と言うなら、こちらよね」
頃合い、とばかりにメディスンは振り返った。
そしていつの間にやら、丘を覆う霧が濃くなっている。
毒々しい紫色をした霧は、当然、毒の霧。
「鈴蘭だけの毒ではないわね」
「くれたのよ。お花のお姉さんが、色々な毒草を」
「成る程。それも尋常な毒性ではない」
「教えたくれたのよ。貴方が、抽出のやり方を」
「成る程。そう言えばそうだった」
「そして、これは、」
初めて、永琳は少しだけ驚いた顔をする。
もちろん毒が苦しいのでなく、別の理由。紫色の濃霧が視界を遮ると同時、方向感覚がおかしくなったのだ。一歩前に踏み出したはずの足が、何故か入り口まで戻されていてもおかしくないような、あの感じ。決して未知のものではなく、むしろ永琳はこの迷いの霧をよく知っている。
「成る程。てゐも、貴方のことを可愛がっていたわね」
「ええ、くれたのよ。兎さんが、この不可思議な特性を」
この丘は迷いの竹林の飛び地だった。土から養分を吸い上げる花が、あの迷路と似た性質を獲得したとしても不思議ではない。
「愛されているのね。様々な存在が、貴方のことを気にかけている」
「……そうかもね。閻魔大王様もお説教に来るのよ。暇ってことは無いでしょうにね」
「これも、見せたかったもの?」
「そんなところね」
そうでもなさそうな、反応の薄い返事。
メディスンの声までも、霧に反響して出処が分からない。だけども永琳は永琳なので、これまでと同じようにメディスンの後ろに着いて、てくてくと歩いていく。足に重く絡み付く霧のことも、特に気にならない。
辺りには生き物の気配が無くとても静かで、永琳はのほほんと歩きながら、静穏を感じていた。月面、とまでは言わないし、趣とはしては全く真逆なのだが、死んだ空気には古巣を偲ばせるものがある。メディスンも月の民の一期生達と同じで、命とか生きるとか、そういう面倒なことにうんざりしているのだろうか。
「……むぅ」
ちょっと不満そうな吐息が聴こえたけれど、何なのだろう。
突如として、毒の霧が凝集して形を成し、永琳に襲い掛かってきた。永琳はおもむろに指をパチンと鳴らしたりとか、そういう演出もせずに、ちょっと描写できない系の何かで、毒霧の怪物を消し飛ばした。
永琳は首を傾げると、声に一片の冷ややかを滲ませて、問い掛ける。
「これは、何のつもり? 貴方は私に敵意があるの?」
「何って。ダンジョンにはザコ敵を配置するものでしょう? それだけで、敵意は無いわ」
「そう。なら良いの」
永琳は納得して頷いた。
「よろしい、聞き分けの良い子ね。なでなでしてあげましょうか?」
「そうね、お願いするわ」
「嫌よ。冗談だってば」
「……そう、残念ね」
永琳は本気で残念に思っていた。
メディスンは毒霧の向こうで色々と言いたそうな顔。だけどその色々は、メディスンの本当に言いたいこととは何の関係も無い。
「って、この流れはさっきやったでしょう。疲れるんだから、やめてよね」
などと言われても、永琳は永琳なので仕方ないのです。
「そこ、見て」
不意に短く呟いて、メディスンは一つの鉢植えを指差した。
人間の頭蓋骨だ。
だけど、それがどうかしたのか。永琳でなくても、ただそれが転がっているだけでは、大抵の人外が特に反応を示さないもの。
「顔色一つ変えないのね」
「動揺するべきだった?」
「別に良いんじゃない? でも、会話は楽しむべきよ? これ、どうしたんだと思う?」
永琳は少し考えた。
骨の状態から、永琳には大体のことが分かる。だから、分かれと言われれば即座に事情を分かっても良いが、質問されたのは、どうしたと思うのかという感想だった。
「さあ、どうしたのかしらね」
「探し出して、殺したわ。この人間は、人形を捨てたの」
あっさりとメディスンは、どうでもいいことのように言った。実際、どうでもいいのだろう。
「里の中の人を殺すのは、いけないことらしいわよ」
「ご法度? バレなきゃ良いんでしょ? これでも上手くやったわ。もう一か月以上経つけど、誰も私を叱りに来ないもの。ほんと、神経毒って便利よねぇ」
これは済んだ話だ。永琳は何も言わない。
「ああ、そうだ。ちなみにね、ここにある人形の記憶を通じて外の世界の事情も知っているわ。ついでに言うなら、私が手に掛けたことがあるのは手近な人間だけじゃない」
「そう」
「人を殺したことがある。一度や二度じゃない」
「そう」
永琳は繰り返し頷く。
特に、思う所が無かったからだ。
その様子をメディスンは一瞥し、
「まあ良いわ。あれを見て」
と、次なるものを指し示す。
緞帳を上げるようにして、霧が開けた場所がある。
まるで舞台みたいな、と永琳が思ったかどうかはともかく、拙い人形劇が上演されているのだった。
小さな女の子役で、黒く丸い目を布の顔に縫い付けた女の子の人形が、泣いている、ように見えないこともない大袈裟なジェスチャーをしているのだけれど、短い手では顔を覆うには届いていない。
演目の内容はシンプルなものだった。その女の子は大きくなっても人形離れができず、見かねた親が、お気に入りのぬいぐるみを取り上げてしまった。だから女の子は泣いている。
「貴方が殺したのは、その親御さん?」
「いいえ。これは、それとは別件よ」
とのことで。
「あまり急がずに、続きを見てね。何でもすぐに答えを出しちゃうのは、貴方の悪い癖よ。永琳ってさ、ちゃんと問題文を読まずに解答しちゃうタイプでしょ」
泣いている仕草を続ける女の子の人形の元に、また別のぬいぐるみがトコトコとやってきた。そして二人は抱き合った。それで終わりだった。
「届けてあげたのね。そう、それはきっと、良いことをしたのよ」
「ええ、そうよ。だからその人形は、この丘には無くて、あの子は代役なの」
「ところで、その親は殺さなかったの? どうして? 貴方の論理なら、殺す方が自然でしょう?」
「いや、何を当然のように殺そうとしているのよ。そんなことをしたら、折角人形を届けてあげた女の子が、また泣いちゃうでしょうが」
ガチトーンのツッコミが入りました。
「成る程」
そんなこと、永琳には思いもよらなかった。メディスンの見地からすれば、殺してしまって当然だと思っていた。
殺さなかったと言うのなら、本当にどうして殺してしまわなかったんだろう? 永琳には、自分以外の生き物の行動が非合理的に思えて、よく分からないのです。
「人を殺さなかったことがある。一度や二度じゃない」
あちらこちらで、ぽつぽつと幕が上がる。
似たり寄ったりな、人形達による稚拙な無音劇が演じられているのだった。
「例えば、イチゴが冬に実るからと言って、他の全ての果実まで同じ季節に実ると思い込んでいるのなら、それってブドウのことを何一つ知らないのと同じなのです」
永琳ではない。口にしたのは、メディスンだ。
「ええ、上から目線の説教は本当に煩かった。だいたいにしてさ、私に世話を焼いてくれるお節介さんは……ええ、この手の説教だと主に閻魔だけれど、ともかくっ、私の心が小さいだとか、視野が狭いだとか、好き勝手なことを言ってくれたものよ。鈴蘭の外の世界を知りなさいって」
その時のことを思い出したのか、メディスンは少し頬を膨らませて。そして受け入れるように、ふっと溜め息を吐いた。
「でもきっと、その通りだったのね。独りよがりで人形解放を謳う私は、人間と人形の幸福な関係を引き裂いてしまうかも、なんて思いもよらなかった。私がイチゴなら、人間と一緒が良いブドウの子だっているのよね。つまり昔の私は、人形のことなんて何一つ知らなかった、ということね」
「そう」
その説教をしたのは永琳ではない。が、そこからちゃんと何かを受け取って、自分のものとして噛み砕いて理解しているなら、それは良い方向性だろう。
永琳は、思う。
メディスンは素直で善良な子に育っている。それは、喜ばしいことだ。
他でもない永琳が、そう思っている。
「これでもね、色々と試してみたのよ」
「そうみたいね」
演目の内容が、きっとそうなのだろう。
「人形の喜びって、何かしら? 愛されること?」
「さあ、どうかしら。答えろと言われれば、答えるわ」
「じゃあ、答えて」
「道具の喜びは、真っ当に使われることよ。使われたがっている道具は、使ってあげるのが持ち主の甲斐性だわ」
永琳は、そう答えた。この世界観において正しいとされる文章を検索して引用したような、そんな言い方だった。
そうかもねと、メディスン。
「人形は人に愛してもらうために作られた道具。子供の頃だけの遊び相手で、大きくなったら、お人形さんとはお別れ。だってこれからは、お姉さんになるんだものね? ちゃんとありがとうを言って、さようならをしましょう? ……おめでとう、貴方はもう大人になったのね? もう私は必要無いのね? ……へぇ」
ここで若干、引き攣った唇を、指先で無表情の形に抑えて。
「怒りを飲み下して、嘘だけど、祝福しましょう。お人形遊びからの卒業、おめでとう。だってそれは、寂しいけれど、そういうものだもの。私も同意見だわ」
そしてここまで言い切る時には、指で無表情を形作る必要は無くなっていた。
「でも、役割に殉じることなく捨てられてしまった時、人形は、どうしたら良いのかしら? いいえ、いいえ、殉じたのだとしても、もう要らないからと捨てられてしまった時、人形は、私は、どうしたら良いのかしら?」
メディスンは、かくんと首を傾げる。
頭が落ちてしまうのではないかと、永琳は的外れな心配をした。
「怨んで、良いのよね?」
「そうね」
相槌を打って頷く永琳には、事の重大さが今一つ分かっていなかった。
「冷静になって考えた時、私は自分の言っていることがおかしいことに気付いた。人形解放? ……そんなんじゃ、生温いわよ。祟り殺すくらいのことをしなくて、どうするの?」
何処かで何かの砕け散る音がした。先程の頭蓋骨だろう。
「ねぇ、貴方はどう思う? 答えて」
霧のカーテンの中から躍り出て、メディスンは昏い瞳で永琳の整った顔を見上げる。嘘は許さないと、そんな視線。
どう思うかと問うなら、答えよう。答えてと入力されれば、永琳は何だって答える。
「自然な流れね。でも、私は貴方にそうなって欲しくないと思っているわ。私は、貴方が善良な良い子に育ったことを喜んでいるのだもの」
「温かみのある答えを、どうもありがとう。でもそんな思いを踏み躙ってしまうことを許してね。ごめんなさい、人を殺すことは楽しかったわ」
それは決して、晴れやかな笑顔ではなかった。
メディスンは蔑むように嗤笑しているが、それだけだ。心の底から楽しんでいる笑顔ではない。そこそこの面白味と、多少の爽快感があって、他には何も無い。
永琳は実例として知っている。復讐を永く続けることは稀有な才能であって、限られた生粋の復讐鬼のみにしか、自他共に救われることのない不毛な地獄は許されていない。
楽しさだけで傷が癒される事は無く、癒しを求めずに突き進む事は、とても難しい。そして大抵の者が途中で折れる道無き荒野に、メディスンは早くも折れたのだ。一度や二度ではないとは言うが、十回や二十回まで殺したろうか。
所詮、復讐心はその程度だったのだ。なんて安っぽい。
「楽しかった……でも、あまりにも早く飽きちゃった。私は自分で自分が恥ずかしい。あの決意は何だったのかって」
「それは、恥ずべきことではないわ」
苦々しげに呻くメディスンの言葉を最後まで聞かないほどに速く、永琳は否定の言葉を差し込んだ。
「善良に生きるのは、とても尊いことよ」
言い含めるように言ったわけでも、説教臭く言ったわけでもない。ただ、永琳は普通に言っただけ。
往年のSF映画の高性能コンピューターが結果だけを表示しているように、それ以上でもそれ以下でもない、それだけのこと。だからこれを、喩えて言うなら、なんて言ったら、あまりにもそのまま過ぎて比喩になっていない。
人間ではないのだから人間らしい反応なんて期待すべきでないことは確かなのだけれど、永琳の場合、もっと大きな括りで、真っ当な生き物と会話をしている感じではない。人間味が無いのではなく、生物味が無い。
だけど──いいえ、だからこそ、嘘も混じりけもない言葉。計算機の答えと同様に正確な言葉。
「貴方が良い子でいてくれるのなら、私はそれを嬉しく思うわ」
永琳は、本気でそう思っていた。もしかしたら、あの永琳の胸の内にも、心にも似た何か温かいものの芽生えがあるのかも知れない。ついそんな空想をしてしまうほどの、優しい言葉だった。
「人に感謝されたことがある。一度や二度じゃない。感謝されて、正直に吐露すると、少しだけ嬉しかった」
「それはきっと喜ばしいことよ。そういう気持ちを、これからたくさん覚えていくことができたら良いわね」
祈るように? 願うように? いいえ、無理です無理です。永琳には、そんな風に言うことはできません。できないけれど、聡いメディスンは、永琳の思いと、他でもない永琳がそう口にすることの事実を、過たずに理解していた。
だけど結局……それは、無神経にも程がある暴言だったのだろう。
「……ねぇ、そんなことで、許せ、と? たった少しの嬉しさで、他の全てのことを?」
別に、声を荒げていたわけじゃない。
メディスンは不思議そうに言っただけ。
「──私は、絶対に、許さないよ?」
目を見開いて、静かに。
乾いた声は、消えそうに掠れて。
「不可能よ」
と、無慈悲な断言。
他愛のない復讐心なんて、いつか必ず、時間が解決する。付け加えて言うなら、メディスンの場合、もう既に時間が解決した後だ。本当はもう疲れているのに、絶対に許さないと口先で言っているだけのこと。それはただ単に、意地を張っているだけだ。
「そうね。絶対に許さないと誓った。でもそれは、許しちゃいけないのだと理性的に判断して誓っただけ。理屈と本心は別のものだわ」
事実としてメディスンの声音には憎悪の炎が灯っていない。
むしろどこか、寂しげにすら見える。
「……最初から、大して怨んでなかったのかな?」
「ええ、そうでしょうね」
知人と比較して、永琳はそう言った。
貴方の恨みなんて大したことが無いと、そう言った。
少し考えるような間があってから、メディスンは何かを確認するように。
「そう言えば少し前に、私は貴方に敵意が無いと言ったわね」
「そうね。言っていたわね。無いんでしょう?」
「本当に敵意が無いと思っているの?」
「あるの?」
「無いわ」
「ほら、やっぱり無いんじゃない」
「私の言葉を、本気にしたの?」
そしてメディスンは、何か尊いものでも見るような眼差しをしながら、言ったのだ。
「根底からして猜疑心が欠如している。貴方ってまるで、人を疑うことを知らない、頑是ない無垢な子供のようね」
永琳はちょっと驚いて、それから、ちょっとだけ照れた。
「ええ、ありがとう。褒められることは、嬉しいものよね」
「そうね。貴方ってとっても素敵よ。話さえ噛み合えば、何も文句は無いのだけれど」
「言葉なら通じているじゃないの」
「……じゃあ、続けましょうか」
永琳の態度には何も言わない。もう本当に疲れ切った態度だった。
「……ねぇ、私はどうして人形解放なんて夢を見たのだと思う?」
くるくるくる……と。
観覧車もコーヒーカップも回らない遊園地の中を、メディスンはくるくると踊っている。その様子は、控え目に言っても楽しそうには見えない。
ガチャンッ、と。遠くのような近くのような場所で、致命的な金属音。
毒で金属が腐食したことにより、ジェットコースターのネジが弾けて、全体が危うく傾いだ音だった。永琳が霧の影響を無視して周囲を見渡せば、一層濃くなった霧の中で、つい先程まで劇を演じていた人形達がバタリバタリと倒れていた。メディスンの仲間ならば毒への耐性はある程度まで備えているはずだが、いよいよ強烈な毒に耐え切れなくなってきたようだ。
「やめた方が良いんじゃないかしら」
ぽつりと呟いたって止まらない。
あれほど手入れを欠かさなかった人形達への手加減も無しに濃度を増した毒の霧は、もうほとんど物理的な脅威となって、荒廃した遊園地を滅ぼしにかかる。あちらこちらから、地獄の窯で煮られるような、人形達の声無き悲鳴が聴こえていた。
それなのに、怒りに我を忘れて、と言うには、メディスンの声音が明瞭に過ぎた。自分の気持ちを冷静に伝えるだけの落ち着きと知性を備えている者の物腰で、安いヒステリーを起こしたそれではない。
「きっと私は、それなりに幸せな人形だったんだわ。だって本当は、人間のことも、さほど怨んでいないのだもの。ただ、捨てられるのは悲しいから、それならいっそ、最初から人間と人形が袂を分かってしまえば良いと思っただけ」
悲哀の滲む言葉と、その内容と釣り合いの取れていない、冷め切った顔。
本当なら悲鳴のように叫ばなければいけない言葉さえ、少しも関心の無い文章を読み上げるみたいに。もう何度も何度も何度も繰り返し考え抜いた事柄には、感情を籠めるには今更過ぎたから。
「コドモはすぐにオトナになる。急行列車に飛び乗るような忙しい社会の中では、小さい頃の思い出なんて忘れてしまう。この思い出というのがつまり、例えば小さい時に一緒に遊んだ人形よね」
──あのいたるところ煌めくクリスマスの森や、透き通ったマジパンのお城を。
汚れた大人になれば忘れてしまう、賞味期限にして、たった10年くらいの甘いお菓子たち。
少女はやがて知るでしょう。
無邪気に信じていた綺麗な世界。夢や魔法、白馬の王子様も何もかも、みんなみんな、嘘だった、って。
誰に言われるまでもなく。いいえあるいは、後ろ指を指されながら。頭ごなしの説教を受けながら。お前のことを思って言っているのだと諭されながら。そうやって、大人になることを強要される。
だってもう、いい大人なんだから──
──そんな理由で、何を捨てたの?
そんな問い掛けも、急行列車の日常に葬られていく。
優しい世界は全部嘘。大きな争いは他人事で、小さな嫌がらせが日常茶飯事、そんな感じの、だいたい普通の嫌な世界。
優しい人間から損をするんだから、早く優しくなくならないと。清濁併せて呑み込んで、それが大人になるっていうこと。でも大丈夫だよ。そうしたらその内、醜いと思った世界が実は普通で、普通のことを悩む必要なんて無いということに気付くから。そうしたら貴方も、立派な大人の仲間入り!
抉られた傷跡は、仮に人間の成長を素晴らしいものだと定義した場合、きっと必要になる、誰しもが抱えるはずの心の疼痛。
優しさや思いやりという元から存在しない器官を切除したって、そんな痛みは幻肢痛。命に別状はありません。
「でもね、私、気付いちゃったの。私は本当は、何がしたかったの? 他の人形なんて知らない。ただ一個の私として、何が望みだったの?」
現実を生きなさい。
大人になりなさい。
それができない者に居場所は無い。発言権も無い。「何かおかしいよ」って訴えたって、「甘えてる」と言われて、はいおしまい。
真っ黒とまでは言わないけれど、世界の色は灰色で。生きるのが辛いなんて当たり前のこと。世の中のそこかしこに悲しいことは転がっている。だから、大変なのは貴方だけじゃない。
そう言われて、ふと、気付くのだ。
もしも本当に、みんなが同じように辛い思いをして、苦労という名目で自分の身を切り裂いているのなら、その社会は、社会を構築する全ての人間の失望の上に成り立っているということだ。そんなものに、一人一人の心を犠牲にする価値などあるのでしょうか? はっきり言って、惰性で続けているだけなのでは?
傷だらけの少女は、そんな世界を愛することができるのでしょうか?
無理だろう。だけど、たとえそれでも。
愛せるのなら、それで良かったはずだった。愛し合いたいはずだった。
「本当は、愛されたかったんじゃないの?」
メディスンは自分を捨てた人間を恨まない。
でも、子供達に自分達人形を捨てることを強要する『現実という強制力』のことは、壮絶に憎んでいる。
「だって私は、人間に見捨てないで欲しかっただけなんだもの」
たとえ、いずれ捨てられてしまう運命だとしてもだ。なりふり構わずにそう思ってしまうほどに、もう一回だけでも、人に愛されてみたかった。もう手繰り寄せようにも遠くなってしまった人の温もりを思い出したいと、痛い程に強く願っていた。
「──そして私は、絶望を呑み込んだ。毒の躰では、もう二度と、人間に抱かれることはできない」
淡々と、淡々と、果てしなく広がった白い砂漠のように抑揚に欠ける、仄昏い激情の独白。
「さて、前提の狂いに気付いてしまった私は、どうしたら良いのかしら?」
今度こそ、この世界を祟っても良いのかしら?
「それなりに見識は広めたつもり。そしてこれが、結論。私という存在は最初から破綻していた」
静かな断言。
ぞっとするような低い声に込められたものは、確信と、痛烈な敵意。
ガラスの瞳を濁らせるのは、この世界への猜疑と、嫌悪と、侮蔑。
「八意永琳。貴方なら、私の毒をどうにでもできるでしょう」
「ええ。どうにでもできるわ」
「都合良く毒素だけ浄化することも? 毒は私の命そのものなんだから、一歩間違えれば物言わぬ人形に逆戻りよ?」
「できるわ」
永琳は即答した。
メディスンは悲しげに憫笑した。憎悪を撒き散らしても涙は見せなかったメディスンの、初めての泣きそうな笑顔だった。でもそれも一瞬。きゅっと唇を噛み締めて、永琳のことを睨み付ける。
「そう言うと思った。でも、ふざけないで。生まれ変わりたいと思う気持ちなんて、極論を言えば自殺願望と同じだわ」
「成る程。そういうものなのね」
「そうよ、そういうものなの。私は認めない、毒の無い私なんて私じゃない。明確過ぎる思考の断絶は、一般に死と呼ばれるものよ」
「じゃあ、どうするの?」
「……言った通りに、なるのでしょうね」
「なるわ」
永琳は表情一つ変えずに、事実を告げる。
言った通りになるのだから、そのように告げた。永琳にとっては、できることをできると言っただけのことだ。
「……それで?」
永琳は、平素通りの口調で問い掛ける。
八意永琳は万能だ。こうして欲しいと言われた事柄を、その通りにして見せよう。
「それで、何? どうしたいの? 言ってごらん。そうするから」
繰り返そう。八意永琳は万能だ。こうして欲しいと言われた事柄を、即座に最短最適な手段で実行して見せよう。
八意永琳はメディスン・メランコリーにそれなりの好意を抱いていた。だからそれなりには何だってする。本当の本当に、何だって。だって何でもできるから。
くすんだガラスの眼球が、永琳を見つめる。
一点の曇りもない宝珠の瞳が、メディスンを見つめる。
「……とっても、簡単なことよ」
メディスンは、むしろ清々しいと開き直った顔で笑いながら、永琳にして欲しいことを告げる。
こんなこと、永琳にしか頼めない。他の誰に頼んでも、絶対に断られるし、きっと怒られるだろうから。
くるくるくる……
空っぽになった花籠を手に、少女は踊る。
例えばの話、人類滅亡のスイッチがあったとして。
誰も知らない世界の危機が過ぎ去って、新しい朝陽が白く咲き誇った鈴蘭畑を爽やかに照らしている。さあ、世界が平穏無事であることを喜べば良い。
観覧車もジェットコースターも、他の残骸も何も無い、綺麗に片付けられた谷間の花畑の中で、少女はくるくると踊っている。その愛らしい表情からは、廃遊園地と一緒に昨日までの屈託までも消え去って、無垢な少女そのものの笑顔だった。
女王にならずに壊れてしまったお姫様は、また最初から、こつこつと毒を溜めるのでしょう。
誰にも守ってもらえないお姫様は自分が壊れて、それでも壊れなかったお姫様は、女王になって周囲を壊すの』
くるくるくる……
花籠を手に、少女は踊る。
赤と黒のゴシックドレス。ふわふわ軽い金髪の頭の中央に結わった赤いリボンは、光沢のあるシックな印象。さりげなくも凝っている刺繍の縁取りは、職人の丁寧な手仕事であろう。
少女は人形のように愛らしい?
いいえ。人形の少女は、お姫様のように愛らしい。
「こっちよ。案内してあげるわ」
「そう。何を見せてくれるの?」
傍らには、赤と青のツートンカラー。緩く編み込んだ銀髪は、粒子でも纏うように淡く輝いて。怜悧な美貌は無機質な印象でありながらも、目尻は穏やかに垂れ下がっている。聡明で、穏やかな印象の女性だった。
人が近付こうとしない山奥、幾つかの丘陵を越えた先に、突如として現れる鈴蘭の丘がある。
無名の丘、と呼ばれていたこの場所も、今ではもう、鈴蘭の丘と呼ぶ方が耳に馴染む。肌寒さ残る春の芽吹き、そして遠くに初夏の気配。鈴蘭はその小振りな鐘状の花を風に揺らし、つつましくも可憐に咲き誇っている。
なだらかな斜面に沿う鈴蘭の花の段々畑は、本当に、天上に続く階段にも思えるのだった。
その中に、ぽつん、ぽつんと、建造物。
突如として現れた鈴蘭の丘の中に、突如として現れた、──観覧車。
今までは無かったはずの物。けれど、例えば外の世界から電波塔が流れ着いた例を思えば、さしたる不思議も無い。幻想郷とは、そういう場所だ。
ただ、そういった予想を抜きにしても、果たして八意永琳の胸中に、疑問などあったかどうか。すっかり錆びて赤茶けた色の観覧車を見上げ、ふむ、と頷く。そして、メディスンに手を引かれるままに、その“遊園地”に足を踏み入れたのだった。
荒廃したフラワーパーク。
継ぎ接ぎだらけ、足りないものも多い、パッチワークの遊園地。
割れたコーヒーカップの遊具が一つ、地面に斜めになって埋もれている。ゴーカートが二台、事故を起こして停車中。児童向けの小さなジェットコースターは、捻じれて、ひしゃげて、レールが途中で切れている。他には、いかにも場末の侘しげな回転木馬とか。
丘陵の一角に寄せ集められた遊具の数々は、数も大して揃っていなければ、計画性も無く無秩序に点在しているだけ。
笑い声の残響も聴こえない。長い間風雨に晒されたことで酸化し、全体的にも赤茶けた色合いの遊園地の遺失物には、植物の根が張り、蔦が絡み、花と緑の中に埋もれている。遊園地の廃墟、と言うよりも、遊園地の廃墟の残骸を買い取って、空いているスペースに並べただけ。ほんのりと冷える高地の風は、大き過ぎる間隙を冷たく吹き抜けるのだった。
でも、鈴蘭の花だけは旺盛に咲き誇っていた。
寂しい印象のようでいて、郷愁を誘うだけのものでもない。荒れ果てた遊園地は、もうすっかりと、少し風変りな花壇に生まれ変わっていたのだ。二度と回らないコーヒーカップの遊具には土が詰められ、鈴蘭とは別の可憐な花が栽培されている。ゴーカートの座席も同様に。
「これが、貴方の見せたかったもの?」
「そうよ。でも、違うわ」
くるくるくる……と、メディスンは踊っている。だが、目は笑っていなかった。どこか倦んだような眼差しで、ガラスの瞳には希望の光が無い。
「ふむ」
永琳は頷く。何を考えているのか、その表情は、常人が見たとて、柔和な笑顔と無表情との区別が付かない。もしも親しい姫君が目にしたなら、比較的には笑顔っぽい、と評したかも知れない。けれども結局、何を考えているのかまでは読み取れないだろう。
「人形も、集まっているわね」
花の影に隠れるように、ぬいぐるみ。遊具は動かないけれど、幾つかのぬいぐるみは自立して動いていて、その様子は遊園地で遊んでいるようにも見える。
「ここは、人形達の楽園なのかしらね」
「そう見える? そんなはずが無いでしょう?」
テディーベア。恐竜さん。イルカさん。布製のぬいぐるみは、比較的最近のもの。
塩ビのキューピッド。ブリキのロボット。この辺りには、昭和らしい風情もある。
一番古そうなのは、赤いおべべを着て繭玉のように膨らんだオシラ様とか。
どれもこれも、持ち主に忘れられるか、捨てられるかした人形たち。外の世界から流れ着く人形は、ともすると、自然とこの丘に引き寄せられてくるものと思われた。人形同士が縁を結び合っているのなら、それも道理で自然なことと言えた。
古びたものではあったが、きっとメディスンが手入れをしているのだろう。どうしようもない部分こそあれ、目に付く汚れは取り除かれている。想像の中で、メディスンがその小さな手で甲斐甲斐しく丁寧に、拾った人形達の顔を撫でるように拭いている様子には微笑ましいものがあって、永琳の口元も、少し緩む。今度は、確かに笑っている、と誰が見ても思えただろう。
「ええ、楽園に見えるわ。そう評しても、差し支えないでしょう」
「……へぇ、そうなんだ? ごめんなさい、私は貴方のこと、誤解していたわ。てっきり機械みたいに冷たいのかと思っていたけれど……貴方の頭の中は、まるでお花畑ね」
「ありがとう。私、お花は好きよ」
「褒めてない」
「?」
「あのねぇ……ううん、何でもない」
人形は何も語らない。感情表現に乏しく、もぞもぞとした動きからは何も読み取れない。ただ、一定の受け皿として機能していることは確かなように見受けられる。行き場の無い人形にとって、この丘が居場所になるのなら、それは、楽園が言い過ぎだとしても、多少は安住の地と言えるのではないか、と。
永琳はそのように判断して、言ったのに。なのにメディスンは、どこか小馬鹿にしたような笑みに顔を歪める。
「ねぇ、永琳?」
「何かしら」
「ここが、兵隊の詰め所だとは考えなかった?」
特にどこに向かってでもなく、広い花畑の中を、ぐるぐるとそぞろ歩いていた。そんな折、ぽつりと、メディスンは小さく低く呟いたのだった。
永琳はきょとんと、首を傾げる。
考えなかったからだ。
思いもよらなかったからだ。
「ああ、成る程」
とは言え、永琳は即座に納得した。
そして素直に、こうも言うのだ。
「そうだったわ。そう言えば、貴方は人間を恨んでいたわね。で、十分な兵力は集まった?」
「早とちり。それって貴方の悪い癖よ?」
と、メディスンは胡乱げに。
鬱屈した棘々しさを滲ませていたガラスの瞳が、少しだけまろやかなジト目になった。
「自在に動ける人形なんて、私だけ。この子達なんて、何の足しにもならないってば。私は、貴方の考えを試す風な質問をしただけで、私自身は、兵隊の詰め所だなんて思っていないわ」
永琳には、意味が分からなかった。
何故って、メディスンの質問には意味が無い。だからその疑問を、そのままに訊ねる。
「じゃあ、その質問には何の意味があるの? ただの意地悪?」
「ええ、意地悪よ。ちょっとからかっただけ」
「意地悪するのは、いけないことよ」
「ごめんなさい。出来心なの」
「そう。分かったのなら、もう良いのよ」
永琳は終始、真面目な表情。その反対にメディスンはだんだんと頭の痛そうな顔になる。
「……はぁ、貴方と話していると、疲れちゃう」
「分かったわ。疲れの取れる薬が欲しいのね」
「そういう所が疲れるって言ってるの」
「ふふ。昔はよく言われたわ。でも最近は言われなくなったのよ」
「それって多分、色々と諦められたってことよ?」
「さて、と。毒は私のお友達。私の躰。私の手足。私の神経。ええ、そうね、兵隊と言うなら、こちらよね」
頃合い、とばかりにメディスンは振り返った。
そしていつの間にやら、丘を覆う霧が濃くなっている。
毒々しい紫色をした霧は、当然、毒の霧。
「鈴蘭だけの毒ではないわね」
「くれたのよ。お花のお姉さんが、色々な毒草を」
「成る程。それも尋常な毒性ではない」
「教えたくれたのよ。貴方が、抽出のやり方を」
「成る程。そう言えばそうだった」
「そして、これは、」
初めて、永琳は少しだけ驚いた顔をする。
もちろん毒が苦しいのでなく、別の理由。紫色の濃霧が視界を遮ると同時、方向感覚がおかしくなったのだ。一歩前に踏み出したはずの足が、何故か入り口まで戻されていてもおかしくないような、あの感じ。決して未知のものではなく、むしろ永琳はこの迷いの霧をよく知っている。
「成る程。てゐも、貴方のことを可愛がっていたわね」
「ええ、くれたのよ。兎さんが、この不可思議な特性を」
この丘は迷いの竹林の飛び地だった。土から養分を吸い上げる花が、あの迷路と似た性質を獲得したとしても不思議ではない。
「愛されているのね。様々な存在が、貴方のことを気にかけている」
「……そうかもね。閻魔大王様もお説教に来るのよ。暇ってことは無いでしょうにね」
「これも、見せたかったもの?」
「そんなところね」
そうでもなさそうな、反応の薄い返事。
メディスンの声までも、霧に反響して出処が分からない。だけども永琳は永琳なので、これまでと同じようにメディスンの後ろに着いて、てくてくと歩いていく。足に重く絡み付く霧のことも、特に気にならない。
辺りには生き物の気配が無くとても静かで、永琳はのほほんと歩きながら、静穏を感じていた。月面、とまでは言わないし、趣とはしては全く真逆なのだが、死んだ空気には古巣を偲ばせるものがある。メディスンも月の民の一期生達と同じで、命とか生きるとか、そういう面倒なことにうんざりしているのだろうか。
「……むぅ」
ちょっと不満そうな吐息が聴こえたけれど、何なのだろう。
突如として、毒の霧が凝集して形を成し、永琳に襲い掛かってきた。永琳はおもむろに指をパチンと鳴らしたりとか、そういう演出もせずに、ちょっと描写できない系の何かで、毒霧の怪物を消し飛ばした。
永琳は首を傾げると、声に一片の冷ややかを滲ませて、問い掛ける。
「これは、何のつもり? 貴方は私に敵意があるの?」
「何って。ダンジョンにはザコ敵を配置するものでしょう? それだけで、敵意は無いわ」
「そう。なら良いの」
永琳は納得して頷いた。
「よろしい、聞き分けの良い子ね。なでなでしてあげましょうか?」
「そうね、お願いするわ」
「嫌よ。冗談だってば」
「……そう、残念ね」
永琳は本気で残念に思っていた。
メディスンは毒霧の向こうで色々と言いたそうな顔。だけどその色々は、メディスンの本当に言いたいこととは何の関係も無い。
「って、この流れはさっきやったでしょう。疲れるんだから、やめてよね」
などと言われても、永琳は永琳なので仕方ないのです。
「そこ、見て」
不意に短く呟いて、メディスンは一つの鉢植えを指差した。
人間の頭蓋骨だ。
だけど、それがどうかしたのか。永琳でなくても、ただそれが転がっているだけでは、大抵の人外が特に反応を示さないもの。
「顔色一つ変えないのね」
「動揺するべきだった?」
「別に良いんじゃない? でも、会話は楽しむべきよ? これ、どうしたんだと思う?」
永琳は少し考えた。
骨の状態から、永琳には大体のことが分かる。だから、分かれと言われれば即座に事情を分かっても良いが、質問されたのは、どうしたと思うのかという感想だった。
「さあ、どうしたのかしらね」
「探し出して、殺したわ。この人間は、人形を捨てたの」
あっさりとメディスンは、どうでもいいことのように言った。実際、どうでもいいのだろう。
「里の中の人を殺すのは、いけないことらしいわよ」
「ご法度? バレなきゃ良いんでしょ? これでも上手くやったわ。もう一か月以上経つけど、誰も私を叱りに来ないもの。ほんと、神経毒って便利よねぇ」
これは済んだ話だ。永琳は何も言わない。
「ああ、そうだ。ちなみにね、ここにある人形の記憶を通じて外の世界の事情も知っているわ。ついでに言うなら、私が手に掛けたことがあるのは手近な人間だけじゃない」
「そう」
「人を殺したことがある。一度や二度じゃない」
「そう」
永琳は繰り返し頷く。
特に、思う所が無かったからだ。
その様子をメディスンは一瞥し、
「まあ良いわ。あれを見て」
と、次なるものを指し示す。
緞帳を上げるようにして、霧が開けた場所がある。
まるで舞台みたいな、と永琳が思ったかどうかはともかく、拙い人形劇が上演されているのだった。
小さな女の子役で、黒く丸い目を布の顔に縫い付けた女の子の人形が、泣いている、ように見えないこともない大袈裟なジェスチャーをしているのだけれど、短い手では顔を覆うには届いていない。
演目の内容はシンプルなものだった。その女の子は大きくなっても人形離れができず、見かねた親が、お気に入りのぬいぐるみを取り上げてしまった。だから女の子は泣いている。
「貴方が殺したのは、その親御さん?」
「いいえ。これは、それとは別件よ」
とのことで。
「あまり急がずに、続きを見てね。何でもすぐに答えを出しちゃうのは、貴方の悪い癖よ。永琳ってさ、ちゃんと問題文を読まずに解答しちゃうタイプでしょ」
泣いている仕草を続ける女の子の人形の元に、また別のぬいぐるみがトコトコとやってきた。そして二人は抱き合った。それで終わりだった。
「届けてあげたのね。そう、それはきっと、良いことをしたのよ」
「ええ、そうよ。だからその人形は、この丘には無くて、あの子は代役なの」
「ところで、その親は殺さなかったの? どうして? 貴方の論理なら、殺す方が自然でしょう?」
「いや、何を当然のように殺そうとしているのよ。そんなことをしたら、折角人形を届けてあげた女の子が、また泣いちゃうでしょうが」
ガチトーンのツッコミが入りました。
「成る程」
そんなこと、永琳には思いもよらなかった。メディスンの見地からすれば、殺してしまって当然だと思っていた。
殺さなかったと言うのなら、本当にどうして殺してしまわなかったんだろう? 永琳には、自分以外の生き物の行動が非合理的に思えて、よく分からないのです。
「人を殺さなかったことがある。一度や二度じゃない」
あちらこちらで、ぽつぽつと幕が上がる。
似たり寄ったりな、人形達による稚拙な無音劇が演じられているのだった。
「例えば、イチゴが冬に実るからと言って、他の全ての果実まで同じ季節に実ると思い込んでいるのなら、それってブドウのことを何一つ知らないのと同じなのです」
永琳ではない。口にしたのは、メディスンだ。
「ええ、上から目線の説教は本当に煩かった。だいたいにしてさ、私に世話を焼いてくれるお節介さんは……ええ、この手の説教だと主に閻魔だけれど、ともかくっ、私の心が小さいだとか、視野が狭いだとか、好き勝手なことを言ってくれたものよ。鈴蘭の外の世界を知りなさいって」
その時のことを思い出したのか、メディスンは少し頬を膨らませて。そして受け入れるように、ふっと溜め息を吐いた。
「でもきっと、その通りだったのね。独りよがりで人形解放を謳う私は、人間と人形の幸福な関係を引き裂いてしまうかも、なんて思いもよらなかった。私がイチゴなら、人間と一緒が良いブドウの子だっているのよね。つまり昔の私は、人形のことなんて何一つ知らなかった、ということね」
「そう」
その説教をしたのは永琳ではない。が、そこからちゃんと何かを受け取って、自分のものとして噛み砕いて理解しているなら、それは良い方向性だろう。
永琳は、思う。
メディスンは素直で善良な子に育っている。それは、喜ばしいことだ。
他でもない永琳が、そう思っている。
「これでもね、色々と試してみたのよ」
「そうみたいね」
演目の内容が、きっとそうなのだろう。
「人形の喜びって、何かしら? 愛されること?」
「さあ、どうかしら。答えろと言われれば、答えるわ」
「じゃあ、答えて」
「道具の喜びは、真っ当に使われることよ。使われたがっている道具は、使ってあげるのが持ち主の甲斐性だわ」
永琳は、そう答えた。この世界観において正しいとされる文章を検索して引用したような、そんな言い方だった。
そうかもねと、メディスン。
「人形は人に愛してもらうために作られた道具。子供の頃だけの遊び相手で、大きくなったら、お人形さんとはお別れ。だってこれからは、お姉さんになるんだものね? ちゃんとありがとうを言って、さようならをしましょう? ……おめでとう、貴方はもう大人になったのね? もう私は必要無いのね? ……へぇ」
ここで若干、引き攣った唇を、指先で無表情の形に抑えて。
「怒りを飲み下して、嘘だけど、祝福しましょう。お人形遊びからの卒業、おめでとう。だってそれは、寂しいけれど、そういうものだもの。私も同意見だわ」
そしてここまで言い切る時には、指で無表情を形作る必要は無くなっていた。
「でも、役割に殉じることなく捨てられてしまった時、人形は、どうしたら良いのかしら? いいえ、いいえ、殉じたのだとしても、もう要らないからと捨てられてしまった時、人形は、私は、どうしたら良いのかしら?」
メディスンは、かくんと首を傾げる。
頭が落ちてしまうのではないかと、永琳は的外れな心配をした。
「怨んで、良いのよね?」
「そうね」
相槌を打って頷く永琳には、事の重大さが今一つ分かっていなかった。
「冷静になって考えた時、私は自分の言っていることがおかしいことに気付いた。人形解放? ……そんなんじゃ、生温いわよ。祟り殺すくらいのことをしなくて、どうするの?」
何処かで何かの砕け散る音がした。先程の頭蓋骨だろう。
「ねぇ、貴方はどう思う? 答えて」
霧のカーテンの中から躍り出て、メディスンは昏い瞳で永琳の整った顔を見上げる。嘘は許さないと、そんな視線。
どう思うかと問うなら、答えよう。答えてと入力されれば、永琳は何だって答える。
「自然な流れね。でも、私は貴方にそうなって欲しくないと思っているわ。私は、貴方が善良な良い子に育ったことを喜んでいるのだもの」
「温かみのある答えを、どうもありがとう。でもそんな思いを踏み躙ってしまうことを許してね。ごめんなさい、人を殺すことは楽しかったわ」
それは決して、晴れやかな笑顔ではなかった。
メディスンは蔑むように嗤笑しているが、それだけだ。心の底から楽しんでいる笑顔ではない。そこそこの面白味と、多少の爽快感があって、他には何も無い。
永琳は実例として知っている。復讐を永く続けることは稀有な才能であって、限られた生粋の復讐鬼のみにしか、自他共に救われることのない不毛な地獄は許されていない。
楽しさだけで傷が癒される事は無く、癒しを求めずに突き進む事は、とても難しい。そして大抵の者が途中で折れる道無き荒野に、メディスンは早くも折れたのだ。一度や二度ではないとは言うが、十回や二十回まで殺したろうか。
所詮、復讐心はその程度だったのだ。なんて安っぽい。
「楽しかった……でも、あまりにも早く飽きちゃった。私は自分で自分が恥ずかしい。あの決意は何だったのかって」
「それは、恥ずべきことではないわ」
苦々しげに呻くメディスンの言葉を最後まで聞かないほどに速く、永琳は否定の言葉を差し込んだ。
「善良に生きるのは、とても尊いことよ」
言い含めるように言ったわけでも、説教臭く言ったわけでもない。ただ、永琳は普通に言っただけ。
往年のSF映画の高性能コンピューターが結果だけを表示しているように、それ以上でもそれ以下でもない、それだけのこと。だからこれを、喩えて言うなら、なんて言ったら、あまりにもそのまま過ぎて比喩になっていない。
人間ではないのだから人間らしい反応なんて期待すべきでないことは確かなのだけれど、永琳の場合、もっと大きな括りで、真っ当な生き物と会話をしている感じではない。人間味が無いのではなく、生物味が無い。
だけど──いいえ、だからこそ、嘘も混じりけもない言葉。計算機の答えと同様に正確な言葉。
「貴方が良い子でいてくれるのなら、私はそれを嬉しく思うわ」
永琳は、本気でそう思っていた。もしかしたら、あの永琳の胸の内にも、心にも似た何か温かいものの芽生えがあるのかも知れない。ついそんな空想をしてしまうほどの、優しい言葉だった。
「人に感謝されたことがある。一度や二度じゃない。感謝されて、正直に吐露すると、少しだけ嬉しかった」
「それはきっと喜ばしいことよ。そういう気持ちを、これからたくさん覚えていくことができたら良いわね」
祈るように? 願うように? いいえ、無理です無理です。永琳には、そんな風に言うことはできません。できないけれど、聡いメディスンは、永琳の思いと、他でもない永琳がそう口にすることの事実を、過たずに理解していた。
だけど結局……それは、無神経にも程がある暴言だったのだろう。
「……ねぇ、そんなことで、許せ、と? たった少しの嬉しさで、他の全てのことを?」
別に、声を荒げていたわけじゃない。
メディスンは不思議そうに言っただけ。
「──私は、絶対に、許さないよ?」
目を見開いて、静かに。
乾いた声は、消えそうに掠れて。
「不可能よ」
と、無慈悲な断言。
他愛のない復讐心なんて、いつか必ず、時間が解決する。付け加えて言うなら、メディスンの場合、もう既に時間が解決した後だ。本当はもう疲れているのに、絶対に許さないと口先で言っているだけのこと。それはただ単に、意地を張っているだけだ。
「そうね。絶対に許さないと誓った。でもそれは、許しちゃいけないのだと理性的に判断して誓っただけ。理屈と本心は別のものだわ」
事実としてメディスンの声音には憎悪の炎が灯っていない。
むしろどこか、寂しげにすら見える。
「……最初から、大して怨んでなかったのかな?」
「ええ、そうでしょうね」
知人と比較して、永琳はそう言った。
貴方の恨みなんて大したことが無いと、そう言った。
少し考えるような間があってから、メディスンは何かを確認するように。
「そう言えば少し前に、私は貴方に敵意が無いと言ったわね」
「そうね。言っていたわね。無いんでしょう?」
「本当に敵意が無いと思っているの?」
「あるの?」
「無いわ」
「ほら、やっぱり無いんじゃない」
「私の言葉を、本気にしたの?」
そしてメディスンは、何か尊いものでも見るような眼差しをしながら、言ったのだ。
「根底からして猜疑心が欠如している。貴方ってまるで、人を疑うことを知らない、頑是ない無垢な子供のようね」
永琳はちょっと驚いて、それから、ちょっとだけ照れた。
「ええ、ありがとう。褒められることは、嬉しいものよね」
「そうね。貴方ってとっても素敵よ。話さえ噛み合えば、何も文句は無いのだけれど」
「言葉なら通じているじゃないの」
「……じゃあ、続けましょうか」
永琳の態度には何も言わない。もう本当に疲れ切った態度だった。
「……ねぇ、私はどうして人形解放なんて夢を見たのだと思う?」
くるくるくる……と。
観覧車もコーヒーカップも回らない遊園地の中を、メディスンはくるくると踊っている。その様子は、控え目に言っても楽しそうには見えない。
ガチャンッ、と。遠くのような近くのような場所で、致命的な金属音。
毒で金属が腐食したことにより、ジェットコースターのネジが弾けて、全体が危うく傾いだ音だった。永琳が霧の影響を無視して周囲を見渡せば、一層濃くなった霧の中で、つい先程まで劇を演じていた人形達がバタリバタリと倒れていた。メディスンの仲間ならば毒への耐性はある程度まで備えているはずだが、いよいよ強烈な毒に耐え切れなくなってきたようだ。
「やめた方が良いんじゃないかしら」
ぽつりと呟いたって止まらない。
あれほど手入れを欠かさなかった人形達への手加減も無しに濃度を増した毒の霧は、もうほとんど物理的な脅威となって、荒廃した遊園地を滅ぼしにかかる。あちらこちらから、地獄の窯で煮られるような、人形達の声無き悲鳴が聴こえていた。
それなのに、怒りに我を忘れて、と言うには、メディスンの声音が明瞭に過ぎた。自分の気持ちを冷静に伝えるだけの落ち着きと知性を備えている者の物腰で、安いヒステリーを起こしたそれではない。
「きっと私は、それなりに幸せな人形だったんだわ。だって本当は、人間のことも、さほど怨んでいないのだもの。ただ、捨てられるのは悲しいから、それならいっそ、最初から人間と人形が袂を分かってしまえば良いと思っただけ」
悲哀の滲む言葉と、その内容と釣り合いの取れていない、冷め切った顔。
本当なら悲鳴のように叫ばなければいけない言葉さえ、少しも関心の無い文章を読み上げるみたいに。もう何度も何度も何度も繰り返し考え抜いた事柄には、感情を籠めるには今更過ぎたから。
「コドモはすぐにオトナになる。急行列車に飛び乗るような忙しい社会の中では、小さい頃の思い出なんて忘れてしまう。この思い出というのがつまり、例えば小さい時に一緒に遊んだ人形よね」
──あのいたるところ煌めくクリスマスの森や、透き通ったマジパンのお城を。
汚れた大人になれば忘れてしまう、賞味期限にして、たった10年くらいの甘いお菓子たち。
少女はやがて知るでしょう。
無邪気に信じていた綺麗な世界。夢や魔法、白馬の王子様も何もかも、みんなみんな、嘘だった、って。
誰に言われるまでもなく。いいえあるいは、後ろ指を指されながら。頭ごなしの説教を受けながら。お前のことを思って言っているのだと諭されながら。そうやって、大人になることを強要される。
だってもう、いい大人なんだから──
──そんな理由で、何を捨てたの?
そんな問い掛けも、急行列車の日常に葬られていく。
優しい世界は全部嘘。大きな争いは他人事で、小さな嫌がらせが日常茶飯事、そんな感じの、だいたい普通の嫌な世界。
優しい人間から損をするんだから、早く優しくなくならないと。清濁併せて呑み込んで、それが大人になるっていうこと。でも大丈夫だよ。そうしたらその内、醜いと思った世界が実は普通で、普通のことを悩む必要なんて無いということに気付くから。そうしたら貴方も、立派な大人の仲間入り!
抉られた傷跡は、仮に人間の成長を素晴らしいものだと定義した場合、きっと必要になる、誰しもが抱えるはずの心の疼痛。
優しさや思いやりという元から存在しない器官を切除したって、そんな痛みは幻肢痛。命に別状はありません。
「でもね、私、気付いちゃったの。私は本当は、何がしたかったの? 他の人形なんて知らない。ただ一個の私として、何が望みだったの?」
現実を生きなさい。
大人になりなさい。
それができない者に居場所は無い。発言権も無い。「何かおかしいよ」って訴えたって、「甘えてる」と言われて、はいおしまい。
真っ黒とまでは言わないけれど、世界の色は灰色で。生きるのが辛いなんて当たり前のこと。世の中のそこかしこに悲しいことは転がっている。だから、大変なのは貴方だけじゃない。
そう言われて、ふと、気付くのだ。
もしも本当に、みんなが同じように辛い思いをして、苦労という名目で自分の身を切り裂いているのなら、その社会は、社会を構築する全ての人間の失望の上に成り立っているということだ。そんなものに、一人一人の心を犠牲にする価値などあるのでしょうか? はっきり言って、惰性で続けているだけなのでは?
傷だらけの少女は、そんな世界を愛することができるのでしょうか?
無理だろう。だけど、たとえそれでも。
愛せるのなら、それで良かったはずだった。愛し合いたいはずだった。
「本当は、愛されたかったんじゃないの?」
メディスンは自分を捨てた人間を恨まない。
でも、子供達に自分達人形を捨てることを強要する『現実という強制力』のことは、壮絶に憎んでいる。
「だって私は、人間に見捨てないで欲しかっただけなんだもの」
たとえ、いずれ捨てられてしまう運命だとしてもだ。なりふり構わずにそう思ってしまうほどに、もう一回だけでも、人に愛されてみたかった。もう手繰り寄せようにも遠くなってしまった人の温もりを思い出したいと、痛い程に強く願っていた。
「──そして私は、絶望を呑み込んだ。毒の躰では、もう二度と、人間に抱かれることはできない」
淡々と、淡々と、果てしなく広がった白い砂漠のように抑揚に欠ける、仄昏い激情の独白。
「さて、前提の狂いに気付いてしまった私は、どうしたら良いのかしら?」
今度こそ、この世界を祟っても良いのかしら?
「それなりに見識は広めたつもり。そしてこれが、結論。私という存在は最初から破綻していた」
静かな断言。
ぞっとするような低い声に込められたものは、確信と、痛烈な敵意。
ガラスの瞳を濁らせるのは、この世界への猜疑と、嫌悪と、侮蔑。
「八意永琳。貴方なら、私の毒をどうにでもできるでしょう」
「ええ。どうにでもできるわ」
「都合良く毒素だけ浄化することも? 毒は私の命そのものなんだから、一歩間違えれば物言わぬ人形に逆戻りよ?」
「できるわ」
永琳は即答した。
メディスンは悲しげに憫笑した。憎悪を撒き散らしても涙は見せなかったメディスンの、初めての泣きそうな笑顔だった。でもそれも一瞬。きゅっと唇を噛み締めて、永琳のことを睨み付ける。
「そう言うと思った。でも、ふざけないで。生まれ変わりたいと思う気持ちなんて、極論を言えば自殺願望と同じだわ」
「成る程。そういうものなのね」
「そうよ、そういうものなの。私は認めない、毒の無い私なんて私じゃない。明確過ぎる思考の断絶は、一般に死と呼ばれるものよ」
「じゃあ、どうするの?」
「……言った通りに、なるのでしょうね」
「なるわ」
永琳は表情一つ変えずに、事実を告げる。
言った通りになるのだから、そのように告げた。永琳にとっては、できることをできると言っただけのことだ。
「……それで?」
永琳は、平素通りの口調で問い掛ける。
八意永琳は万能だ。こうして欲しいと言われた事柄を、その通りにして見せよう。
「それで、何? どうしたいの? 言ってごらん。そうするから」
繰り返そう。八意永琳は万能だ。こうして欲しいと言われた事柄を、即座に最短最適な手段で実行して見せよう。
八意永琳はメディスン・メランコリーにそれなりの好意を抱いていた。だからそれなりには何だってする。本当の本当に、何だって。だって何でもできるから。
くすんだガラスの眼球が、永琳を見つめる。
一点の曇りもない宝珠の瞳が、メディスンを見つめる。
「……とっても、簡単なことよ」
メディスンは、むしろ清々しいと開き直った顔で笑いながら、永琳にして欲しいことを告げる。
こんなこと、永琳にしか頼めない。他の誰に頼んでも、絶対に断られるし、きっと怒られるだろうから。
くるくるくる……
空っぽになった花籠を手に、少女は踊る。
例えばの話、人類滅亡のスイッチがあったとして。
誰も知らない世界の危機が過ぎ去って、新しい朝陽が白く咲き誇った鈴蘭畑を爽やかに照らしている。さあ、世界が平穏無事であることを喜べば良い。
観覧車もジェットコースターも、他の残骸も何も無い、綺麗に片付けられた谷間の花畑の中で、少女はくるくると踊っている。その愛らしい表情からは、廃遊園地と一緒に昨日までの屈託までも消え去って、無垢な少女そのものの笑顔だった。
女王にならずに壊れてしまったお姫様は、また最初から、こつこつと毒を溜めるのでしょう。
退廃的な雰囲気が好き。
とても良かったです。