「私は、貴女も私とは違うと思っている」
蓮子は、そう言って珈琲に口を付けた。その粘り気のない乾溜液を思わせる液体は、黒々とした光沢を放ち、彼女の表情を映している。レポートの仕上げの為に徹夜続きの蓮子は、それでも私との談笑の為に平日の昼間から時間を取ってくれている。蓮子曰く、平日の昼間はカフェを訪れる人も少なく談笑にはもってこいの場所なのだとか。周囲を見回すと成程確かに人影はまばらで物静かな有様である。これなら蓮子とも思う存分に会話を弾ませることができそう。
実際、蓮子は彼女と私の差異について語りたがっているような様子だった。普段からの付き合いで私は知っているのだけれど、頭脳明晰で智慧に溢れた蓮子は、日常会話であっても物事を唐突に結論から話す癖がある。お陰で、大抵の人間とは話が合わないと蓮子は自覚しているみたい。けれども、その癖を修正する様子が微塵も無いというのは、蓮子のどうしようもない科学者気質の所為だろうと私は踏んでいる。全く確信犯は質が悪い。
「ふむふむ、蓮子さん、してその心は何かしら?」
「いや、ただの事実を口に出してみただけよ。そこまで深い意味も無い言葉通りのお話し。でも、そんな当たり前のことを理解している人間がどれだけいるのだろうかと、私は最近訝しんでいるってだけのことなのよ。なにせ、私とメリーの間で同じことを見つける方が難しいぐらいよ。生れた場所が違う。生きてきた時間が違う。家族が違う。姿形が違う。考え方が違う。もっと上げることもできるけれど、ともかくとして私とメリーとはおんなじ所の方がとっても少ないのよ」
「そんな話し方をされると、少ないではなく無いという方が適切な気もしてくるわね。でも、少なくとも私も蓮子もHomo sapiensである点だけは、確実に共通していると思うのだけれど。そういう点を鑑みて少ないという表現を使ったのかしら?」
蓮子は、私の言葉を聞いて満足げな表情を浮かべた。寝不足で目の下にクマがあるさまで、少しばかりやつれた様子の蓮子だけれど、薄っすらと浮かんだ彼女の笑みは、何故か見惚れる程に美しかった。蓮子は、両手を組み合わせにして机の上に落ち着け、首を揺らしながら言葉を紡いだ。
「全く名答よメリー。私たちは人間であるという点以外には物質的な類似性しか――いや、それさえもあやしいけれど――存在しないのよ。私たちの間に共通点を見出そうとするのはそういう意味でどこまでいっても思弁的な幻想、いわば夢を視るような形でしか見出し得ない。違いを見出すのが所詮、人間の主観的な意識によるものでしかないのと同じようにね」
「それは極論に過ぎると思うわ。私たちの体を構成する物質以外は何もかも同じではないなんて。それに、人間という種族自体、生物の分類作業において作り出された範疇でしかないのだからとっても思考的な概念よ。種の概念、それらによる共通グループの括り付け、人間がその知性と意識で行い形作り体系化したあらゆる知的な概念や記号を悉く幻想だとでも宣うのかしら蓮子は?」
蓮子は、自分の主張に対しての批判を受けながらも益々笑みを深くしていた。寝不足なようでも、いつも通りな蓮子の様子に私は嬉しくなった。彼女は、いつだって自身の主張に同調してくれる人間など求めていない。蓮子が求めているのは、彼女自身の意見や主張を批判し修正しえる相手なのだ。蓮子はいつも正しい。間違いを指摘し修正してくれる天才たちを周囲に認めているから。彼女は常に正しくなるというほうが語弊が無いでしょう。そうした周囲に私が第一に含まれていることを、少しばかり嬉しく思うと同時に誇らしくもあった。
「確かにそうかもしれないわね。でも、幻想じゃないというのならそれを証明する物的な証拠が必要なのよ。歴史がその証明に古文書を必要とするのは、歴史が記された情報が必要なのではなく、その歴史によって生み出された物そのものが証拠として必要だからよ。幻想でないならば、机上や頭の中の思考だけでなくこの現実の世界に形を持ったモノが必要なの。つまり、概念や記号は思考の中では幻想だけれど言葉や記号として現実に形を与えられて記された途端に幻想ではなくなる、という考え方ができそう」
「なら、蓮子の考え方では現実に形を持って存在しないモノは全部幻想なのかしら? けれどそう考えると、現実に形を持っていないモノなんて確かに思いつかないわね。というのもそもそも順番が逆なのよ。現実に存在するものから概念や記号は生まれるのであって、概念や記号から現実が生れることは無いのでしょう」
蓮子は、私の意見に満足げに同意して珈琲を啜った。けれど、彼女は私と彼女との差異について話を戻した。何もかもが異なる私たちとは違って、例えばCryptomeria japonicaはどんな個体を見ても同一にみなせるのだと彼女は語った。森に生える木々がそれぞれの個体ごとに人間のような多様性を持ったりはしていないのだと。それぞれの個体はそのどれを見てもCryptomeria japonicaでしかないのだと。
「森に生える同一種の木々を見た時、メリーは不思議に思ったことは無いかしら? 私はあるわ。果たしてこの木と、向こう側に根付いている木は異なる個体なのかと。生息できる場所も、分布している場所も、生長の仕方もおんなじ。おんなじように芽を出して、おんなじように生長して、おんなじように枯れる。まるで定規で製図したみたいに同一の性質を示すこの二本の個体が別個体だなんて考えられるかしら? 私に言わせればこれは別個体ではなくてある個体の複製物か、神様か何かが規格化して生産した道具のようにしか見えないわ。けれど不思議な事に人間をそう捉えることは私にはできなかったのよ。人間は個体間の差異があまりにも多い。正直な話、私とメリーが同じ種族である事自体信じられない程の差異が存在しているわ」
「人間にはそれ以外の種族よりも甚だしい文化的な多様性が存在するからかしら? 個体間の差異はその個体の属する文化と環境によって形作られ、同じ種族なのに属する文化が異なるだけでまるで別種族かと見紛うほどの差異を生ずるのだと私は思っているわ。それは、人間以外の文化発達の未熟な種と比べると際立って見えるかもね。Euglenaなんかどの個体を見ても、全くおんなじで区別が付かないもの。だからこそ、蓮子は同じHomo sapiensである私と蓮子の間の差異を不思議がっている?」
「いや、愛おしんでいるのよメリー」
「私は、貴女も私とは違うと思っている」
蓮子は、私の手を取って言った。
「だから私、宇佐見蓮子は貴女が、マエリベリー・ハーンが好きです」
そう言って、蓮子は酷く赤面している私を、ニッコリと見つめていた。なんなのかしら、この酷く遠回りな感情表現は――。私は、私と蓮子の間に横たわっていた埋め難き溝がキライだった。常に私の視界に映る蓮子と私の「彼我の境界」が、私と彼女をどうしようもない程に引き裂いているようで。だから私は、この眼を自ら瞑ろうと何度も考えたこともあった。けれど蓮子は、この境界を愛おしんでいると言ってくれた。ならば私も、蓮子とおんなじようにこの彼我の境界を愛でて視るのも――。
「これを、こんな境界を、貴女は――愛してくれるの?」
「えっ?」
「こんな彼我の境界を……愛してくれるの?」
「これがメリーの訳が分からないところなんだけれど……」
蓮子は困ったように、はにかみながら、私の頬を拭った。
「どうして急に訳が分からないことを言いながら泣き出しちゃうのかなぁ……」
私にだって……分からないわよ……。
蓮子は、そう言って珈琲に口を付けた。その粘り気のない乾溜液を思わせる液体は、黒々とした光沢を放ち、彼女の表情を映している。レポートの仕上げの為に徹夜続きの蓮子は、それでも私との談笑の為に平日の昼間から時間を取ってくれている。蓮子曰く、平日の昼間はカフェを訪れる人も少なく談笑にはもってこいの場所なのだとか。周囲を見回すと成程確かに人影はまばらで物静かな有様である。これなら蓮子とも思う存分に会話を弾ませることができそう。
実際、蓮子は彼女と私の差異について語りたがっているような様子だった。普段からの付き合いで私は知っているのだけれど、頭脳明晰で智慧に溢れた蓮子は、日常会話であっても物事を唐突に結論から話す癖がある。お陰で、大抵の人間とは話が合わないと蓮子は自覚しているみたい。けれども、その癖を修正する様子が微塵も無いというのは、蓮子のどうしようもない科学者気質の所為だろうと私は踏んでいる。全く確信犯は質が悪い。
「ふむふむ、蓮子さん、してその心は何かしら?」
「いや、ただの事実を口に出してみただけよ。そこまで深い意味も無い言葉通りのお話し。でも、そんな当たり前のことを理解している人間がどれだけいるのだろうかと、私は最近訝しんでいるってだけのことなのよ。なにせ、私とメリーの間で同じことを見つける方が難しいぐらいよ。生れた場所が違う。生きてきた時間が違う。家族が違う。姿形が違う。考え方が違う。もっと上げることもできるけれど、ともかくとして私とメリーとはおんなじ所の方がとっても少ないのよ」
「そんな話し方をされると、少ないではなく無いという方が適切な気もしてくるわね。でも、少なくとも私も蓮子もHomo sapiensである点だけは、確実に共通していると思うのだけれど。そういう点を鑑みて少ないという表現を使ったのかしら?」
蓮子は、私の言葉を聞いて満足げな表情を浮かべた。寝不足で目の下にクマがあるさまで、少しばかりやつれた様子の蓮子だけれど、薄っすらと浮かんだ彼女の笑みは、何故か見惚れる程に美しかった。蓮子は、両手を組み合わせにして机の上に落ち着け、首を揺らしながら言葉を紡いだ。
「全く名答よメリー。私たちは人間であるという点以外には物質的な類似性しか――いや、それさえもあやしいけれど――存在しないのよ。私たちの間に共通点を見出そうとするのはそういう意味でどこまでいっても思弁的な幻想、いわば夢を視るような形でしか見出し得ない。違いを見出すのが所詮、人間の主観的な意識によるものでしかないのと同じようにね」
「それは極論に過ぎると思うわ。私たちの体を構成する物質以外は何もかも同じではないなんて。それに、人間という種族自体、生物の分類作業において作り出された範疇でしかないのだからとっても思考的な概念よ。種の概念、それらによる共通グループの括り付け、人間がその知性と意識で行い形作り体系化したあらゆる知的な概念や記号を悉く幻想だとでも宣うのかしら蓮子は?」
蓮子は、自分の主張に対しての批判を受けながらも益々笑みを深くしていた。寝不足なようでも、いつも通りな蓮子の様子に私は嬉しくなった。彼女は、いつだって自身の主張に同調してくれる人間など求めていない。蓮子が求めているのは、彼女自身の意見や主張を批判し修正しえる相手なのだ。蓮子はいつも正しい。間違いを指摘し修正してくれる天才たちを周囲に認めているから。彼女は常に正しくなるというほうが語弊が無いでしょう。そうした周囲に私が第一に含まれていることを、少しばかり嬉しく思うと同時に誇らしくもあった。
「確かにそうかもしれないわね。でも、幻想じゃないというのならそれを証明する物的な証拠が必要なのよ。歴史がその証明に古文書を必要とするのは、歴史が記された情報が必要なのではなく、その歴史によって生み出された物そのものが証拠として必要だからよ。幻想でないならば、机上や頭の中の思考だけでなくこの現実の世界に形を持ったモノが必要なの。つまり、概念や記号は思考の中では幻想だけれど言葉や記号として現実に形を与えられて記された途端に幻想ではなくなる、という考え方ができそう」
「なら、蓮子の考え方では現実に形を持って存在しないモノは全部幻想なのかしら? けれどそう考えると、現実に形を持っていないモノなんて確かに思いつかないわね。というのもそもそも順番が逆なのよ。現実に存在するものから概念や記号は生まれるのであって、概念や記号から現実が生れることは無いのでしょう」
蓮子は、私の意見に満足げに同意して珈琲を啜った。けれど、彼女は私と彼女との差異について話を戻した。何もかもが異なる私たちとは違って、例えばCryptomeria japonicaはどんな個体を見ても同一にみなせるのだと彼女は語った。森に生える木々がそれぞれの個体ごとに人間のような多様性を持ったりはしていないのだと。それぞれの個体はそのどれを見てもCryptomeria japonicaでしかないのだと。
「森に生える同一種の木々を見た時、メリーは不思議に思ったことは無いかしら? 私はあるわ。果たしてこの木と、向こう側に根付いている木は異なる個体なのかと。生息できる場所も、分布している場所も、生長の仕方もおんなじ。おんなじように芽を出して、おんなじように生長して、おんなじように枯れる。まるで定規で製図したみたいに同一の性質を示すこの二本の個体が別個体だなんて考えられるかしら? 私に言わせればこれは別個体ではなくてある個体の複製物か、神様か何かが規格化して生産した道具のようにしか見えないわ。けれど不思議な事に人間をそう捉えることは私にはできなかったのよ。人間は個体間の差異があまりにも多い。正直な話、私とメリーが同じ種族である事自体信じられない程の差異が存在しているわ」
「人間にはそれ以外の種族よりも甚だしい文化的な多様性が存在するからかしら? 個体間の差異はその個体の属する文化と環境によって形作られ、同じ種族なのに属する文化が異なるだけでまるで別種族かと見紛うほどの差異を生ずるのだと私は思っているわ。それは、人間以外の文化発達の未熟な種と比べると際立って見えるかもね。Euglenaなんかどの個体を見ても、全くおんなじで区別が付かないもの。だからこそ、蓮子は同じHomo sapiensである私と蓮子の間の差異を不思議がっている?」
「いや、愛おしんでいるのよメリー」
「私は、貴女も私とは違うと思っている」
蓮子は、私の手を取って言った。
「だから私、宇佐見蓮子は貴女が、マエリベリー・ハーンが好きです」
そう言って、蓮子は酷く赤面している私を、ニッコリと見つめていた。なんなのかしら、この酷く遠回りな感情表現は――。私は、私と蓮子の間に横たわっていた埋め難き溝がキライだった。常に私の視界に映る蓮子と私の「彼我の境界」が、私と彼女をどうしようもない程に引き裂いているようで。だから私は、この眼を自ら瞑ろうと何度も考えたこともあった。けれど蓮子は、この境界を愛おしんでいると言ってくれた。ならば私も、蓮子とおんなじようにこの彼我の境界を愛でて視るのも――。
「これを、こんな境界を、貴女は――愛してくれるの?」
「えっ?」
「こんな彼我の境界を……愛してくれるの?」
「これがメリーの訳が分からないところなんだけれど……」
蓮子は困ったように、はにかみながら、私の頬を拭った。
「どうして急に訳が分からないことを言いながら泣き出しちゃうのかなぁ……」
私にだって……分からないわよ……。
面白かったです。