如月の朝の人里。
私が冬の冴え返るような空気の中を進んでいると、その先に見知った背中があった。小柄な私よりも頭二つ程高い背丈、虎柄ショートのくしゃっとした髪、その上にちょこんと載せられた花の飾り。
その凛とした佇まいは、しゃんと立ってさえいれば見るものに威厳と畏怖を感じさせる――はずなのだが、今日はその背中を猫の背のように丸め、彼女は道の端で佇んでいた。
――堂々と背筋を延ばしたまえよ。君は毘沙門天代理なのだから。
いつも、口を酸っぱくして忠言しているのに、仕方ない主人だ。
やれやれ。私はため息混じりに、その丸まった背中に、声をかけた。
「ご主人」
「わひゃあ!」
体を大げさに震わせ、私のご主人、寅丸星は、飛び上がった。
恐る恐るといった感じで、振り向く。
「ナ、ナズーリンですか」どぎまぎと、視線をさ迷わせるご主人。その姿は、ひどく落ち着きがなかった。
「何をビクビクしているんだ。借りてきた猫じゃないんだから」
「失礼な、私は虎です」
「ならば、堂々としていたまえ。虎らしく」
叱られて、しゅんと肩をすくめるご主人。
決して実力がないわけではないのだが、どうにも威厳がなくていけない。そろそろ毘沙門天様への定期報告の時期が迫っている、さてどんな評価を送ったらいいやら、と頭をかく。
そうこうしているうちに、やっと落ち着きを取り戻したのか、さっきよりもいくぶんかましな態度で、ご主人は言う。
「いえ、ナズーリンがこんなところにいるとは思わなかったので動揺してしまいました」
「なんだい、私が人里の通りを歩いてるのがそんなに可笑しいかい」
「そういうわけではないのですが。ほら、最近は寺とは別に居を構えているではないですか」
確かに、幻想郷に寺を建立してからというもの、意識してご主人とは距離を置いていた。今は、寺のある人里を離れて、無縁塚の近くに掘っ立て小屋を作り、そこで生活している。
聖の復活騒動も一段落し、ご主人の仕事ぶりも安定してきている。お目付け役だからといって、無理に一緒にいることはない、そう判断した。さすがに何もしないわけには行かないので、毘沙門天様への報告のために、月に一度くらいのペースで寺に顔を出してはいるのだが。
今日だって、これからご主人の監視を兼ねて、寺に顔を出すつもりだった。
「ああ、なに、たまには寺に顔を見せとこうと思ってね」
適当にぼかして、言う。
すると、疑うことを知らぬご主人は「ああ、そうでしたか。最近ご無沙汰でしたから、みな喜びますよ」なんて、花が咲くみたいに顔をほころばせた。
思わず顔を背ける。ご主人の純粋な笑顔は、なんと言うかその、苦手だ。
ご主人の真っ直ぐな笑顔や言葉は、日陰者のネズミには、少し、まぶしすぎる。
「ところで、ご主人こそこんなところで何をしてるんだい」
それとなく、話題の転換を促す。
珍しいと言えば、ご主人だってこんな時間に人里を出歩くなんて、相当に珍しい。
話の矛先を向けられたご主人は、また慌て始めた。
「いやっ! 特に用事があるわけでは、その、ないのですが! あの、そう! 散歩です! 散歩!」
「朝が弱くて、なかなか布団から起きられないご主人がかい?」
「し、失敬な! 最近は努めて早起きするようにしています!」
「まあ、努力してるのは認めるけども。ふぅん、寒がりなご主人が、こんな真冬の早朝を選んで散歩ねえ」
「ぎっくう!」
自分でギクッて言う人、初めて見たよ、ご主人。
「いやいや、知ってますかナズーリン! 冬の朝はとても空気が澄んで気持ちいいんですよ! いやあ、散歩のしがいがあるなあ!」
大げさな仕草で、深呼吸なんて始めるご主人。
怪しい。この上なく怪しい。
何かを隠してるに違いない。それは、賢将の洞察力が必要ないくらい、誰の目にも明らかだった。
彼女がこういう態度をとるときは、決まってろくでもないことをうじうじ思い悩んでいるときだ。長年の付き合いから、私は知っていた。
私は、訝しげな目をしながらご主人を上から下まで観察する。ついでに、怪しい臭いをまとってないか、注意深く臭いを嗅ぐ。すると、ふわり、甘い臭いが鼻をついた。
「ご主人、この臭いは――」
言いかけて、気づく。
ご主人の後ろ、壁に持たれるようにして、看板が立てかけられていた。
「うん? なんだい、この看板――」
「あっ! ダメです、ナズーリン!」
私が覗こうとすると、ご主人は、体の後ろに看板を隠そうとした。何やら、見られては困ることが、書いてあるらしかった。
――甘いよご主人。
ご主人のディフェンスを、自らの小回りのよさを生かした華麗なステップで容易くかいくぐると、看板の前に陣取り、そこにかかれている文言を読み上げていく。
「なになに……『新メニュー続々! 新春の味覚フェア! 特盛イチゴパフェにイチゴショート』……なんだいこりゃ」
洋風の菓子の名前と値段がずらずらと並び、横には可愛らしいケーキとコーヒーのイラスト。甘いものが得意でない私は、見ているだけで口の中が甘ったるくなりそうなラインナップだ。
看板から視線を外し、改めて周囲を見回す。
ご主人に気を取られて気づかなかった。今、私たちが立っているのは、洋菓子をメインにした茶房、いわゆるカフェーと呼ばれるような洋装の店の軒先であった。
先ほど読み上げたのは、そのカフェーのメニューであり、そしてご主人が道端で背中を丸めて熱心に見ていたのも、きっとこれに違いなかった。
「は、はぁん。なるほどね」
私は得心する。
なんのことはない、ご主人は寺を一人抜け出し、カフェーで甘いものをこっそり食べようというところで部下に見つかり、焦っているのだ。
私が、わざとにやにやと笑みを浮かべて見せると、ご主人は面白いくらいに動揺した。
「違うんです、これはその! たまたま散歩の途中で……」
「隠すことないじゃないか。ふと甘いものが無性に食べたい衝動に駆られるのは、よく聞く話。仏教の戒律だって、甘味の摂取を禁じているわけではあるまい」
「あう……いえ、そうではなくてですね……」
もごもご、と口ごもるご主人。
ふむ、変だな。いつもなら、観念して自白を始めるところなのに、今日のご主人は、いやに粘る。
甘味処で一服、なんてそんなに隠すことでもあるまい。
あまり頻繁に欲求に負けているようでは求道者として喜ばしいことではないが、そこは普段気を張って頑張ってるご主人のこと、たまには自分へのご褒美として甘いものを食べようと考えたって別に悪いことじゃない。すると――。
これは、何か他に隠していることがあるな。
(ふぅん、ご主人が私に隠し事、ねえ。何か癪だな)
ふむ、と唸り、しばし考え、口を開く。
「ご主人、何を隠してるのかは知らないが――中に入らないかい? こんな店先で話し込んでるのも回りの客に迷惑だろう」
私は視線で、辺りを見るようご主人に促す。
いつの間にか人里は活気を帯び始め、通りに面する商店たちは続々と店を開き始めていた。どうやらこのカフェーもそろそろ店を開く時間らしく、店員が開店準備をしながら、ずっと店先で話し込む私たちをガラス越しに怪訝そうに見ていた。
「あ、え? でも」
「ほら、お店も開くみたいだ。ここは私が持つから、さあ」
戸惑いを見せるご主人の手を引いて、半ば強引にカフェーの戸を開いた。
* * *
「ばれんたいんでー?」
「は、はい……」
顔を恥ずかしげにうつむかせながら、赤い顔でご主人が言う。
カフェー店内。一番乗りだった私たちは、通されるままに窓際の二人席に腰を落ち着けた。開放的なガラス窓に面したテーブル席で、通りの様子がよく見える。向かい合って座り、渡されたメニューから適当な商品を選んで注文し、注文の品を待っている間に私が問いただした結果、ご主人が白状したのが、先の『ばれんたいんでー』だった。
「あの、想い人がいる女子が、チョコレートとかを男子に送ったりする、その」
「知ってるよ。外の世界でも流行ってたアレだろ。それがどうしたのか、って聞いてるんだ」
私がさらに問い詰めると、ご主人は、始めは渋っていたものの、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
なんでもこの店は、幻想郷では珍しく洋菓子を取り扱っているカフェー兼洋菓子販売店で、イートインだけでなくテイクアウトも扱っているらしい。特にチョコレートは、毎年この季節になると、バレンタイン向けに大々的に広告を打って販売するのだそうだ。その噂をどこからか聞きつけたご主人は、そのチョコレートを買いにこうしてこの店に足を向けた、ということらしい。
「ふぅん。珍しいね、幻想郷でチョコか」
外の世界では珍しくもなんともない嗜好品であるチョコレート。だが、流通ルートがひどく限られた幻想郷においては、お目にかかる機会はめったにない。
「はい、このお店は、見ての通り洋風の菓子を中心に取り扱っているお店なんですが、毎年この季節になると独自ルートで取り寄せてきて店頭に並べるんだとか」
「独自ルートねえ。たかがイベントごと一つでそこまでするかね。ま、お金になりそうなイベントごとなら何でも食いつくという商売人の気質は、外の世界もこちらでも変わらないってことかな」
「そう世知辛いことばかり言うもんじゃありませんよ。そのおかげでこうしてみなが楽しくバレンタインデーというイベントごとに参加できるのですから」
「私は興味ないがね」
私は背もたれに深く腰掛けて、足を組む。
生まれてこの方、色恋話にはとんと縁がない。そんな私に、甘いチョコレートに贈り合って、甘い言葉をささやき合う、そんなイベントに興味を持てという方が難しいだろう。
いや、待てよ。
ふと、そこで気づく。逆に言えば、こういう話題に食いつくご主人は、そういう話題に縁があるということか――?
向かいのご主人をそっと観察する。何やら思わしげにうつむいて、もじもじとしていた。これが恋する乙女の仕草だと言われたら、そう見えなくもない、ような。気がする。
「ナズーリンは……」
「うん?」
「ナズーリンには、その、いないのですか? そういう……」
「何がだい?」
「想い人、というか、その、そういう」
歯切れの悪いご主人の言葉は、だんだん尻すぼみに小さくなっていき、最後は聞こえなくなってしまった。
ううむ。これは、アレか。ガールズトークと言うやつか。いわゆる恋バナだ。
はぁ、とため息。正直、そういう色恋話を私に期待されても、困る。こんな私に話を振っても、膨らませようがないよ、ご主人。
「私のことはどうでもいいだろう。それよりもご主人。君だよ、君。こんなところまで朝早くわざわざ駆けつけてくるってことは、つまり、そこまで想い合ってる人がいるということだろう」
「なっ」顔をガバっと上げるご主人。その顔は、ゆでダコみたいに真っ赤だった。「その、別にっ、想い合ってるというか、その……片想いといいますか、私の想いに気づいてくれないというか、ごにょごにょ」
ほうほう。私は、自然と口角が上がっていくのを自覚していた。
やはりご主人は、からかうと面白い反応をする。そういう反応をするから、どんどん意地悪な言葉をかけたくなるのだ。
自らの恋愛経験の浅さを棚に上げ、私はにやにやと笑う。
「恥ずかしがることないじゃないか。それにしてもご主人が、ねえ。青春だねえ」
ご主人が口をパクパクさせて、なにか言おうとしていたが、それを遮るように給仕が注文の品を持ってきた。洋風の店内に合わせたシックなエプロンドレスの給仕は、ご主人の前にミルフィーユとレモンティー、私の前にはザッハトルテとブラックコーヒーを静かに置くと、「ごゆっくりどうぞ」という言葉とともに去っていく。
それを目で追ってから、私は再び口を開く。
「で、相手は誰なんだい。檀家の中に男前でもいたか」
「そ、そういうんじゃありません!」
ややすねた口調で、ご主人が言う。
長年この人の従者をやっているとわかる、この人がこういうきっぱりとした物言いをするときは、嘘を言わない(というよりも、きっぱりとした口調で嘘が吐けない、といったほうが正しい)。ということは、ご主人のお目当ての人は、檀家の誰かでない。とすると――。
「ふむ、ってことは身内か。命蓮寺の連中の誰かだろ」
「うぐ」
ご主人はミルフィーユを喉につまらせ、むせる。それから、流し込むようにレモンティーを慌ててすすった。
この反応、図星か。大方、聖あたりが意中の人だろう。日頃の感謝の気持ちも一緒に込めて、チョコレートを贈ろう、という魂胆か。
「はは、いいんじゃないか。私は女同士でも気にしないよ。人間と違って私たち妖怪は精神的な存在だ。子を残すことを第一に考えてつがいを選ばなきゃいけないなんて法はないさ」
「なっ、ナズーリン!」
噛みつかんばかりの勢いで、きっ、と睨みつけてくるご主人。しかし、顔を赤くしながら、目に涙をためているその姿にはあまり迫力が感じられなかった。
しかし、流石にからかいすぎたか。
これ以上詮索するのはよそう。大体の事情は飲み込めたし。
私はフォークでザッハトルテを一口分切り取ると、口の中に放り込む。ゆっくりと咀嚼すると、チョコレートの独特の甘みが口いっぱいに広がった。思わず、顔をしかめる。見た目から、もっとビターなケーキを想像していたが、思ったよりもずっと甘い。私にとって、やはり、チョコレートは甘すぎる。
顔をしかめながら、コーヒーで口直しをする。
私のそんな様子を観察していたのか、ご主人がぽそりと言う。
「ナズーリンは、チョコレート嫌いですか?」
「ん、まあね。甘い物が苦手なんだ。今食べてるこれも、ふだん甘味の店は来ないから物珍しさもあって思わず注文してしまったが、ちょっと私には甘すぎるようだ」
「そうですか」
そう言うと、ご主人は口に手を当て、考え込み始める。
何を考えているのだろう、と思ったが、すぐにピンときた。ご主人のバレンタインデーのお相手であるなにがしかが、甘いものが嫌いでなかったか、考えを巡らせているのだ。
さて、先程からかいすぎた詫びも兼ねて、ここらで一つ助け舟でも出してやろうか。
「私が苦手なだけで、大体の女の人は甘い物好きだから、気にしなくても大丈夫だよ。万一お相手が甘いものが苦手な人だとしても、ビターチョコレートを贈るという手もある」
「な、なるほど」
神妙にうなずくご主人。
「それにご主人は見た目はいいんだから、ご主人に想いのこもった贈り物を手渡されて、喜ばない人はいないよ」
「そ、そうでしょうか」
まんざらでもなさそうな、はにかんだ顔をしながら、指先で前髪を弄るご主人。
多少冗談めかしてはいるが、嘘は言っていない。ご主人は端的に言って美人だ。背も高くスラッとしていて、スタイルもいい。目鼻立ちも整っており、特にしゅっと引かれた力強い柳眉と、その下の切れ長で力強い色をたたえる瞳は、中性的であるが、それゆえある種の妖艶さを持って見る人の心に訴えかけてくる。
――普段がなよっとしているせいで、あまり注目されないだけで。
だけどとにかく、人に好かれる素質が確かにあるのだ。
私は、身を乗り出して、続ける。
「そうだよ、それで相手の腰に手を回して、逃げられなくする」
「相手の腰に……手を」
「それから顎に手をやって、クイ、ってやってごらん。そこらの女も男もイチコロさ」
「あ、顎をクイッと……」ごくり。生唾を飲み込む音。
「それから、相手の瞳を覗き込みながら、決め台詞。そうだな……『君だけを考えて作ったんだ。私の気持ち、受け取って貰えるかな』。うーん、ちょっとパンチが弱いか?」
「……」想像しているのか、神妙な顔で黙り込むご主人。
「うーん、まあいいか。それからおもむろに、顔を近づけて……」
「顔を!? あわわわ」
軽く助け船、のつもりがいつの間にかノリノリで話している私。私の話を、頭の中でシミュレーションしているのか、面白いくらいあわあわと慌てるご主人。
――そこでふと我に返る。
うん、どう見ても熱が入りすぎだ。落ち着こう。
ごほん、とごまかすように咳をする。
でも、うん、結構楽しいな、恋バナ。
まあ、さっきのは恋愛トークというより、興に乗りすぎて、もりにもった単なる与太話になってしまったが。
「まあ、とにかくだ。君のことだから、どうせ直前になって逃げ出したり萎縮したりするんだろ。だからこそ君は、意識して大胆に行動するように心がけるべきなんだよ。なんだったら、チョコレートを渡す相手を、大衆の面前に呼び出すといい。そうすればお互い逃げ道がなくなって、ぶつかるしかなくなる。自分を、やるしかない状況に追い込むんだ。そうすれば自ずと体は動く。やるしかないんだから」
私の言葉を受け、ご主人は数秒、沈黙する。
そうして、十分咀嚼したあと、「そう、ですね」とぽつりと言って、窓の外を見やった。ガラス窓の向こうでは、どこから来てどこへ行くのか、今日も道行く人が飽きもせず往来を闊歩している。そんな様子を、どこか心あらずな表情でご主人は見ていた。綺麗な横顔だった。
(ふうん。これが恋する表情、って奴かな)
恋は女を美しくする。陳腐な表現だが、ご主人を見ていると、なるほどそのとおりなのかもしれない、なんて、そんなことを思った。
彼女を観察する。あまり見たことがない表情。お互いもうとっくに大人のはずなのに、先に大人の階段を昇られてしまったような、一抹の寂しさが胸をよぎった。
それから、じくじくとうずくような痛みを、胸の奥で感じた。なんとなく、複雑な気持ちだった。
私はそれを振り切るように、一口大にザッハトルテを切り取ると、大口を開けて放り込んだ。噛みしめると、一瞬にして口の中が甘さで満たされる。心の中の複雑な気持ちも、痛みも、その強烈な甘さに押し流されるような気がした。
やれやれ。私は、嘆息する。
――やっぱり、私にチョコレートは、甘すぎる。
* * *
それから数日後、如月の十四日の、早朝。
私は命蓮寺を訪れていた。ご主人の監視――というのは当然、建前だ。ご主人のバレンタインデーの顛末が気になっていた。自分が発破をかけた手前、どういう結果になるか、やはりどうしても気になってしまう。
それにご主人のことだ。やはり、土壇場になって逃げ出してしまうようなことがあるのではないか、という心配もあった。そういうときにこそ、背中を押してやるのが従者の役割のはずだ。
私は、早朝の廊下を歩く。染み入るような寒さだ。こんな日はまだご主人はきっと布団にくるまって、ぐーすか寝息を立てているに決まっている。
ご主人の自室にたどり着き、ノックもそこそこにふすまを開け放った。
「ご主人、朝だよ。寒くて起きるのがつらいのはわかるが、今日が決戦の日だろう? さっさと――」
言いかけて、やめる。必要なかった。
ご主人の布団は隅の方に綺麗に畳んで置かれており、当のご主人は居なかった。
思わず、その場に立ち尽くす。
「お、ネズミじゃん。おはー」
背後から声がかかる。
振り向くと、寝ぼけ眼の村紗船長が手をひらひらさせていた。寝起きらしく、水色のシンプルなパジャマ姿だった。
「ネズミ言うな」
「星を探してるの?」
「ああ、どこに行ったか知らないか?」
村紗はその言葉を聞くと、にまーといやらしい笑みを浮かべる。「そっかそっか」と一人、何かを納得していた。
「気になるんだ?」
「……何が」
「星が、誰にチョコレートをあげるか」
にまにまと気色悪い笑顔をしながら、村紗が言う。ほんと、腹が立つことこの上ない。昨日ご主人をさんざんからかった私が言うのもなんだが、この手の話で囃し立てられるのは、非常に不快だな。ご主人、悪かった。
それにしてもバレンタインのこと、村紗にもバレてるとは。隠してるような素振りは何だったのか。いろんな人に筒抜けじゃないか、ご主人。
「今回の件には私も一枚噛んでるんでね。自分の立てた計画が吉と出るか凶と出るか、それを見届けたいし、何よりもしトラブルが発生したら部下としてフォローに回る必要があるだろう」
「あーはいはい。そーいうことにしといたげる」
へらっと笑いながら、頭をぽんぽんと叩く村紗船長。
こいつホントに腹立つな。
苛立ちをできる限り抑えつつ、平静を保って、私は問いかける。
「で、ご主人はどこにいるんだい」
「しゃーないな。私とネズーミンの中だからね」
「ネズーミン言うな」
私のツッコミも何のその、寝起きの村紗船長は「こっちだよー」なんて言いながら、ふらふらした足取りで、目的地へと
* * *
船頭に先導されて辿り着いたのは炊事場の前だった。
ここに、ご主人がいるらしい。朝っぱらから何をしてるのやら、と思いながら扉の取っ手に手をかけるが、それを村紗が手で制した。
彼女を見れば、口元に人差し指を当て、静かに、というジェスチャーをしている。音を立てず、こっそり覗け、ということらしい。
言われるがまま、そっと扉を開くと、そこにあったのはご主人のうしろ姿だった。ふだんの服装の上から割烹着を来て、背中を丸めて作業台に向かっている。何をしているのかはわからないが、その真剣さは、背中からでも伝わるほどだった。
彼女が右へ左へ慌ただしく移動するたび、その手元がちらちら見えた。金属のボウル、開封した跡らしき菓子の包み紙、木のへら、泡立て器。かたわらには、何やら本が、開いたまま置かれている。ここまで来れば何をやってるか、自ずと想像がついた。チョコレートを作っているのだ。きっと、想い人とやらにあげるために。
昨日の、カフェーの帰りを思い出す。一服し終えた我々は、予定通り、チョコレートを購入して帰った。あれは確か、そのまま渡しても差し支えないような既製品ではなかったか。それを、一度溶かし、味と形を整え直そうと言うのだから、相当な手間に違いない。ご主人はつまり、そのくらい手間がかかっても構わない、と思っているのか。手間をかける価値があると、信じているのか。
――そんなにもその人を想っているのか、ご主人は。
じわりと胸の奥がまた痛むのを感じた。自然と、乾いた笑みがこぼれた。
――ご主人にチョコレートをもらう人は、相当な幸せ者だな。こんなに健気に真っ直ぐに、思ってもらえるのだから。
私は、じっと彼女のせわしなく動く姿を観察する。その背中は、作業に没頭するあまり、いつぞやのように猫背になって丸まっていた。
――ふん、あれほど背筋を伸ばしてしゃんと立てと言ってるのに。
そんないつものお小言をかけようかと一瞬思ったが、やめた。その代わりに、何か助言を、とも思ったが、それもいらない気がした。背中を押すために、助言するためにここにやってきたつもりだったが、ご主人の背中を見ていると、それは必要ないような気がした。
真剣にやってる彼女に、それはきっと野暮だ。
頑張れよ、ご主人。私は心の中で、その背中にそっとエールを送った。
「健気だねえ、星ってば。早起きして、朝から張り切って料理なんかしちゃって」
村紗が、私の頭に腕を乗せながら、呑気に言う。私の背が低いから、腕を置くのにちょうどいい、とでも言いたいのだろうが、鬱陶しい。私はそれを払い除ける。
「ああ、一度腹を決めたら真っ直ぐなのが、うちの主人のいいところだ」
「でもさあ」
「うん?」
「チョコレートって、当日に作り始めて間に合うものなの? なんか前日に作って冷やしたりしておくイメージなんだけど」
「……」
確かに。今から溶かして混ぜて、ってやって間に合うのか、チョコレートって。
「大丈夫、夜までには間に合うさ。きっと」
まあ、そういう抜けてるところも、愛嬌ってことで。
私は、もう一度、彼女の背中に投げかける。
頑張れよ、ご主人。
* * *
そして、日が暮れて、夕餉も済んで。
私たちは、まったりと座卓を囲んで談笑していた。寺から離れて暮らすようになった私ではあるが、やはり仲間と語らう時間はいいものだ。それに、今日は珍しく、ぬえやマミゾウや響子といった、いたりいなかったりしてなかなか揃わない連中が、一堂に会していた。そうなれば当然、離れていた間に積もる話も多々出てくる。語らいに語らい、気づけば深夜に片足を突っ込みかける時間帯になっていた。
長居しすぎた。今日は泊まる予定はないので、そろそろお暇しよう。腰を浮かせたところで、一輪が声をかけてきた。
「そういえばネズッミー、星知らない?」
「ネズッミー言うな。――ご主人かい? さて、さっきまでそこに居たと思うけど」
ご主人の先ほどまで座っていた席を見るが、一輪の言う通り、いつの間にやらもぬけの殻だった。
「さあ、厠じゃないのかい?」
「そうだったらいいんだけど。なにか思いつめたような顔をしてた気がしたから」
「思いつめた顔、ねえ」
心当たりはあった。
例の、チョコレートのこと。アレは結局、完成したのか。そして、想い人とやらにちゃんと渡したのだろうか。渡そうとして、でも踏ん切りがつかなくて、そこら辺で頭を抱えてうんうん思い悩んでいたりしないだろうか。
想像していたら、だんだん不安になってきた。今朝は炊事場で声をかけずにそっと立ち去ったが、ここはやはり従者として、背中を押すべきだ、と強く思った。
よし、と気合を一つ入れて、立ち上がる。
「ちょっと探して――」
「ナズーリン!!!」
突然。すっぱあああん、という音が、後ろの襖から響き、居間を震わす大音声が響いた。
私は、びくりと大きく身を震わせる。尻尾がぴん、と跳ね、耳がびくり踊った。周りのみんなも、何事かとざわざわし始める。
振り返る。そこには、今から探しに行こうとしていた当のご主人が、息を弾ませて仁王立ちで立っていた。
「きゅ、急にどうしたんだいご主人。どこに行ったのかと思えば、帰ってきて、突然、大声で」
あまりに唐突な展開に、しどろもどろになりながら、ご主人に話しかける。
しかし、聞いているのかいないのか。ご主人は立ちすくんだまま、荒く息を吐いて、私を見据えていた。目が爛々と光り、野生の虎のような凄みを感じさせた。
「ご主人?」
再度、問いかけ。しかし、ご主人はそれにも答えず、つかつかと私の方へ歩み寄ってきた。
荒い息遣い、上気した頬、ぎらりと光る眼光。正直、怖い。まるで、蛇に睨まれた蛙ならぬ、虎に睨まれたネズミだ。そう、今や彼女は虎だった。獲物を真っ直ぐに見据え、喉元に喰らいつかんとする虎。ハングリータイガーだ。
ご主人は、私の目の前で止まる。ご主人は私よりもだいぶ背が高いので、自然、見上げる体勢になる。そうしてしばらく、向かい合って静止した。いつの間にやら、ざわついていたギャラリーはしんと静まり返って、私たちを見守っていた。
「ごしゅ――」
三度の問いかけを遮って、ご主人が手を突きつけた。
私の目の前に、ご主人のすらっと綺麗な手が差し出される。その手にはきつく何か握られていた。ピンク色の包み紙に包まれた箱に、さらに赤いリボンが巻かれている。それは、そうプレゼントのような、何か。そしてそれは、あろうことか、ハート型と呼ばれる、こっ恥ずかしい形をしていた。
思考が停止する。これはなんだ。これは――?
でも、考えるまでもなかった。心当たりがありすぎる。
これは、あれだ。バレンタインデーに想い人に贈る、なんかそういう――。
え、私に? ご主人が? これを?
その考えに思い立った瞬間、顔から火が出た。
心臓が跳ねる、呼吸が荒くなる。体中を子ねずみたちが走り回ったみたいに、一斉にぞわわっとした感触が体を包んだ。
何を言えばいいのか、どう反応すべきなのか。
頭が真っ白になって、呆然とした。いつの間にやら、ギャラリーが興味深げに私たちを見ていた。聖が頬に手を当ててたおやかに微笑んでいる、村紗と一輪が腹の立つ顔でにやにやしている、響子が目を丸くして驚いている。何見てる、見世物じゃないぞ、と怒鳴りつけたい気持ちはあったが、正直そんな余裕もなかった。
「あの、ご主人? なんだいこれは、ああ、日頃の感謝の気持ちとかそういうアレかい。いやあ悪いな、こんな、そう、こんな気持ちのこもった『義理』チョコもらっちゃって」
義理、の部分を強調しつつ、早口でまくし立てる。
そう、何も恥ずかしがることなんてない。義理チョコという文化がある、そうご主人のこれも、そういうアレに違いない。ハハ、ご主人ってば大げさなんだから――
「違います」きっぱりと。ご主人が否定する。
「え」私は呆然とする。ごくり、と誰かが生唾を飲む音が聞こえた。
ご主人は、そっと恥ずかしげに目を伏せる。そして、ゆっくりと告げる。
「ほ、本命、です」
また、顔から火が出た。
ギャラリーから歓声が上がる。誰かが高らかに指笛を鳴らし、ぬえが正体不明のトラツグミのような鳴き声でそれとセッションし、マミゾウはここぞとばかりに腹太鼓で8ビートを刻み、いつの間にか入り込んでいた子分狸たちも真似して腹太鼓を叩きまくり、響子が「ほ、本命、です」をアンプリファイエコーして勝手にリピートし続け、どさくさに紛れて一輪と村紗が酒を酌み交わし、怒った雲山がそれにげんこつを落とし、外を飛んでいた小傘が騒ぎに驚いて墜落して寝ていた芳香と頭をぶつけ、聖はあらあらと微笑んだ。
ああもうギャラリーうるせえ!
喧騒の中心で、私は嘆いた。なんだってこんなしっちゃかめっちゃかなことになってるんだ!
そこで、ふと思い出す。
――なんだったら、チョコレートを渡す相手を、大衆の面前に呼び出すといい。そうすればお互い逃げ道がなくなって、ぶつかるしかなくなる。
そんなことを言った無責任なやつが、どこかにいたような。
くそっ誰だ、ご主人に悪乗りで変な助言をしたやつは!
――私じゃないか!
頭をチョコレートの角にぶつけて死にたい気分だった。私の仕掛けた策に、今や私自身が囚われているのだ。何たる不覚。
いやでも落ち着け。ご主人は、私のアドバイスに従って動いている。だとすれば、このあとのご主人の行動も予測できるはずだし、それとなく回避できるのでは?
このままでは、みんなの前で公開処刑されてしまう。このまま行くと寺の連中に後々まで面白おかしく冷やかされ、酒の肴にされてしまうことは必定だった。
考えろ、ナズーリン。私は他に、彼女に何をアドバイスした? 確か――。
「ナズーリン!」
「ひゃいっ!?」
思考を巡らせている間に、ご主人が次の行動に出た。
大胆にも私の腰に右腕を回すと、逃さんとばかりにぐいっと引き寄せる。距離が縮まる。ふわり、とご主人から甘い香りがした。胸の鼓動が、さらに加速した。
――そうだよ、それで相手の腰に手を回して、逃げられなくする。
自分のセリフを思い出す。言った。確かに、そうしろって。言った。
だからって、だからってこんなの! 律儀に再現しなくても!
ご主人の腕から逃れようと、身を捩らせる。しかし、離すまいとするご主人は、腕の力をより一層込めて、ぎゅうっと私を抱き締めた。悲しいかな、ネズミの膂力では虎には敵いそうにない。
――それから顎に手をやって、クイ、ってやってごらん。そこらの女も男もイチコロさ。
ハッとする。やばい、このまま流されるのはいけない。
なんとか、ここから逃げ出さねば、取り返しの付かないことになる!
そうやって抵抗している間にも、ご主人は次の所作に移っていた。私の顎にそっと手を添える。
心臓が、もう一回大きく跳ねた。
ギャラリーがさらに湧き、会場のボルテージは最高潮に達しつつあった。
「バッ」私は、なんとかせねば、という一心で思いつくままに声を上げる。「バッッッカじゃないのかい、君は! 私なんかを好きになってどうする! もっと――君に相応しい人がいるだろう! 私なんかじゃなくて、ネズミなんかじゃなくて、もっとこう華やかな――」
精一杯の悪態をつく。逃げられないこの状況、それくらいしかやることがなかった。
しかしその抵抗も虚しく。
ご主人は、そっと私の耳元に口を寄せると、息がかかるくらいの距離で、ささやく。
「なんかではありませんよ。私はナズーリンが良いんです。ナズーリンでなきゃ、駄目なんです。ナズーリン、貴方にそばにいて欲しい。ずっとずっとそばにいて、支えて欲しい。だから――」
ささやかれるたび、耳元に吐息がかかるたび。
足から、腕から、腰から、そして悪態をつく喉から。ふにゃ、と力を抜けていくのを感じた。
そして、ご主人は私の真正面に向き直り、私の目をじっと見据えて。
「――だから、ナズーリン。どうか、このチョコレートを受け取って欲しい。ナズーリンが食べられるように、できるだけビターにしました。それと、ナッツを砕いて練り込んであります。貴方だけを考えて作ったんです」
また、周りから歓声が上がる。
馬鹿じゃないのか、ホントに。
私は心の中で悪態をついた。こんなの、受け取れないわけないじゃないか。チョコレートも、込められた彼女の想いも。
顎に添えられたご主人の手に、力がこもったのを感じた。ぼんやり霞んだ頭の中で、考える。あれ、このあと、どうなるんだっけ。なんてアドバイスしたっけ……。
――それからおもむろに、顔を近づけて……
くわっと目を見開く。
ならん、それだけはならん! なんというか、そこを超えたら戻れなくなる気がする!
「バカご主人! いったい何をする気だ! 公衆の面前で! この破廉恥!」
私は、火がついたように暴れた。
案外力が残ってるもんだ、と自分で感心した。しかし、ご主人は困ったように眉をひそめるだけで力を緩めもしなかった。何だこの虎、馬鹿力か。
「は、破廉恥って……私はただ、愛の接吻を」
「それが破廉恥だって言ってるんだ! 大勢の前でやるもんじゃないだろう、キスなんて! そういうのはこう、二人っきりのときとか……」
私は抵抗するが、依然としてご主人は、抱き寄せた腕を離そうとしなかった。
そうこうしているうちにギャラリーに火が付き、そこかしこから「そこじゃ、ちゅうじゃ!」だの「はよやれー」だの囃し立てる声が上がる。
そうしていつの間にか、観衆の野次は、声を揃えての「キス」コールになった。
さざなみのようなやかましいその歓声に、やがて私の抵抗の声もかき消された。
身を捩る、が、余計に抱き締められた。ご主人が、そっと目を閉じる。そして、顔を私に近づけていく。近い。近い近い。まつ毛が長い、肌のきめが細かくて綺麗、いい匂いがする。頭が混乱し始め、何も考えられなくなっていく。もういいや、と諦めの気持ちで、すっと目を閉じる。
ぼんやりとした意識の中、それでも強く思うことがある。
バレンタインデーとか、チョコレートとか、色恋沙汰とか。
――やはりそういうのは、ネズミには、甘すぎる!
<おわり>
おい
しい
ナズーリンの鈍感ぶりよ。面白かったです。ごちそうさまでした。
ニヤニヤが止まんないです……
ここまで甘い話をよくぞ
ネズミだけでなく読者にも甘すぎました