「地霊殿のご当主、古明地さとり様とお見受けいたします」
さとりは、目の前に立つ奇抜な格好の女をしげしげと眺めた。全身に拳大のボンボンを散りばめたモノクロのワンピース。まぶたの重そうな眼差し。頭のナイトキャップとあいまって、いかにも眠そうなやつ。
「突然の訪問をお許しください。あなた様の妹君について、少々お聞きしたいのですが」
さとりは羽ペンを執務机のかたわらに追いやると、改めて珍客の姿を上から下まで眺めた。ここは地霊殿の最奥、さとりの私室兼仕事部屋。窓の外にはどこまでも続く真っ暗な岩壁と、それに比して真昼のように明るい庭園が広がる。
「どちら様? こんな場所まで如何様にして来たのかしら」
「おっと、名乗りがまだでした。私はドレミー・スイート。夢の支配者をやっております」
「ふむ」
さとりの第三の眼が彼女の心臓のあたりでうごめき、ドレミーの姿をギョロリと見上げた。
「なるほど、あなたは獏。この地霊殿のどこかで居眠りしているペットの夢をたどって、ここまでやって来たということですね」
「お話が早くて助かります」
「それで、妹のこととは? うちのペットになれば話は早いですよ」
「残念ながら、そのオファーは受けられませんね。ええ、私普段は夢の世界で誰かの悪夢など食べながら暮らしておりますが、先日妹君の夢に触れる機会がございましたもので。たしか、こいしさんとおっしゃいましたか」
さとりは頬杖を突いた。こいしから聞き出せる地上の異変は断片的だ。しかも彼女の主観が大いに混ざる。それを思い出すと、さとりはもう片一方の手で呼び鈴を探すのだった。
「聞きましょうか。夢のあの子が、何か失礼でも?」
「失礼どころか、お人形のように大人しい」
ドレミーが片手を広げた。手のひらの上では、桃色をしたペースト状の物体が、丸く大きくなっていく。さとりはその中に映ったこいしの姿を見た。
ベージュ色のシャツと黒い丸帽子はいつものこいしだ。しかし膝を抱え何も語らず、濁った目で虚空を眺める姿は普段とまるで似ても似つかない。
彼女が第三の眼を閉じる前のことを、なんとなく思い出せた気がした。
「私はありとあらゆる夢を、それこそ億の単位で見てきました。その中でもあの子の夢は大変稀有なものです。どんな生活をしていれば、あんなスカスカの夢になってしまうのでしょうか」
さとりは手のひらを上に向けて、ドレミーを見る。
「本人に説明させたほうがよいかと存じます。ただ、こいしは当分帰ってこないでしょうね。数日後かもしれないし、数ヶ月先かもしれません」
「そらまた、どうして」
「あの子がとびきりの気まぐれ、ということもありますけどね」
人差し指を持ち上げる。さとりの指先はドレミーの肩口を突き抜け、その後ろに向いていた。
「何より今は、閻魔様が逗留中ですので。あの子がまず近づきたがりません」
「えっ」
ドレミーは後ろを見て、両肩を震わせた。二人しかいないはずの部屋に、三人目がいた。
その人、四季映姫・ヤマザナドゥは応接用の長ソファーに自らの体を横たえていた。しかしその格好は是非曲直庁の詰め襟制服ではない。白いパーカーと黒いスエットパンツの、知人でなければ楽園の閻魔と気づくことすら難しい服装だ。それがソファーの上で手を軽く組んで、荼毘に伏された遺体のように乱れのない寝姿で目を閉じていた。
「本当にいるし。でも寝てませんね?」
「目を閉じて休んでいる、というだけですから」
ドレミーがのけ反り、二度驚愕した。遺体が声を発したのだ。
「しかしどうして閻魔様がこんな場所に?」
「是非曲直庁は、閻魔賽日に加えて長期休暇制度を導入したのです。人手不足だというのに」
映姫は整然とした動きで上体を起こし、目を開いた。
「労働者の良心を悪用し、過酷な労働環境や長時間労働を課す行為は『黒』に認定されました。是非曲直庁でもその思想に基づき、約一名を除いて輪番でこのような休暇が課されます」
「約一名は明らかに自業自得ですね」
さとりが付け加える。
「しかしその休暇を、どうしてこのような場所で?」
「寮にいると、馬鹿者がいろいろ理由をつけて遊びにくるんですよね」
映姫はソファーに座りなおし、両手を広げた。
「その点ここは、恐ろしい家主が面倒な連中を遠ざけてくれるので安心です」
「それを合理的に選べるのが、閻魔様のらしいところですわ」
「なんとでもどうぞ」
映姫は迷いなく立ち上がり、一直線にテラスへの通用口を目指した。
「そろそろ休憩時間は終わりです。庭仕事の手伝いに戻りますね」
「どうぞ」
そのまま簡素なスニーカーにはき替え、庭園に出ていく。さとりとドレミーは、無言でその背中を見送った。
「庭仕事、とは」
「文字通りの意味ですよ。宿賃の代わりだとか。義理堅いことです」
「いいんですか、やらせといて」
「庭師はよくだらける子が多いので。喝入れには重宝しますわ」
通路側の扉が開いて、何人かがいっせいに姿を現した。先頭を歩くのは家事ペットの一人。カートいっぱいにティーセットを載せている。その後ろに続くのは古馴染みのペット、火焔猫燐と霊烏路空の二人。
「おや、もしかしてこれからお茶ですかぁ? 報告に来ただけなのに、大した偶然ですわ」
「白々しい。閻魔様が出ていくのを待っていたのでしょう?」
さとりは微笑み、ドレミーに向き直る。
「あなたのお話には興味があります。時間がおありならば、ゆっくりとお話ししませんか? 地底イチゴのチーズケーキとカモミールがありますわ。夢見がよくなります」
「私はどっちかといや、見せる側ですがね」
§
空が口いっぱいにケーキを頬張り、満面の笑みを浮かべている。そこにお燐が手を伸ばし、頬についた食べかすをつまみ取った。
ドレミーはといえば薄黄色の茶が満たされたティーカップを手で回しながら、さとりの話に耳を傾けていた。
「サトリ妖怪の力を封じた?」
「その通り」
さとりは白磁のカップを傾けて、喉を潤した。りんごにも似た香りが口の中に広がる。
「あれはサトリの力を捨てて、妖怪ですらないものになり果てました。その際どういうわけか無意識を操る力を得て、以後は無意識のまま行動しております」
「無意識のまま、とは。珍しいこともあったものですね。ならば夢の世界のこいしさんに動きがないのも道理でしょうか」
「道理、とは?」
「今のこいしさんは夢の人格と入れ替わっているかもしれない、ということです」
「そんなことがあり得るのですか」
ドレミーは片手に夢魂を再び現した。夢魂の中で、目まぐるしく映像が移り変わっていく。最後に現れたのは、腕を大きく振り上げたさとり自身の姿だった。
「人間の夢や妄想というものは、幻想郷において簡単に実体化し得るものです。あなた自身もトラウマの想起という形で、その恩恵にあずかっているはず。夢の住人は、常に現実へと出ていく機会をうかがっております。ですからこいしさんが心を閉ざした隙に、夢のこいしさんが現の体を乗っ取ったとしてもおかしくありません」
「たしかに、あれの動きは夢遊病じみておりますわ。その夢のこいしを夢の世界に連れ戻して、元のこいしに戻すことはできないのかしら」
「難しいでしょうね。夢のこいしさんを捕まえることは、不可能ではないでしょう。しかし、元のこいしさんに現へ戻る意志を感じられません」
「残念です。あの子が読心の素晴らしさを思い出すにはまだ時間がかかるということかしら」
「まあ心配には及びません。夢であれ現であれ、あの子があなたの妹君であることには変わりありませんから。ともあれ、お陰で疑問の一つがが解けました。わざわざ地底までやって来た甲斐があったというものです。ぜひお礼をさせていただきたい」
「何もそんな。お礼を言いたいのはこちらもですわ」
夢魂の映像が溶けて、渦を巻く。
「美味しいお茶もいただけましたのでね。私は夢の支配者。どうでしょう、家主様の夢診断をして差し上げるというのはいかがです?」
さとりは頬杖で顎を支える。
「夢診断ねえ。そんなもん診断してもらわなくても、私には無用の長物に思えますが」
「そんなことはありません。きっとサトリ妖怪の能力よりも、多くの情報を読み取れますよ」
さとりの眉間の幅が、少し狭まった。
「うふふ、釈然としない顔をしていらっしゃる。対抗心を燃やすほどのものでもありません。夢の住人は、現の住人が意識せず隠している本音をさらけ出して生きています。私はそれらを容易に見ることができる。普段は思いもかけない、あなた自身の本心を」
さとりは二度三度と瞬きをした。
「そして何より、あなたはあなた自身の心をのぞけないのではありませんか?」
「一理あるわね」
さとりは姿勢を正し、ギラギラした目でドレミーの顔を見やった。
「がぜん興味が湧いてきました。その夢診断、披露していただけますか?」
「あ、ごめんなさい。すぐには無理です」
うっかり椅子から転がり落ちかけた。体勢を立て直しつつ、第三の眼でドレミーを見る。
「どうやら、嘘ではないみたいですね。夢の住人はそれこそ現と同じ数だけいるので、それを探すところから始めないといけないのですか」
「そういうことです。少々の時間が必要になるかと。当たりがつき次第、再び訪問することになりますが、よろしいでしょうか」
「私たちの時間はほとんど無限にあります。待ちましょう。待ちますけれども」
さとりの口の端が吊り上がる。
「せっかくだから、あいつも巻き込みましょう」
「と、いうと?」
「今ごろうちの庭師たちに説教しているであろう、あいつのことですよ」
「本人が同席するなら、いいですよ?」
§
数時間後。さとりの姿は食堂にあった。
元ヘルハウンド、元地獄伝書鳩など、数多のペットが入れ替わり立ち替わり、生きる活力を求めてやってくる。さとりは地獄野菜のミネストローネとバターロール、ジンジャーを主としたブレンドハーブティーを給仕に頼んでテーブルの一角に腰を下ろした。
(旧都行ってきたけどさ、どいつもこいつもかなりピリピリしてるよね)
(そろそろおっぱじまるんじゃないの? しばらく遊びにいかないほうがいいかもね)
食前の茶を口に運びながら、食堂に集まったペットたちの会話や心の声を盗み聞く。最近は鬼を中心とした旧都のならず者たちの、不穏な噂が大半を占める。
地獄の一部が鬼たちに割譲されて以降、地底は「鬼の四天王」の統治でもって長らく平穏が保たれてきた。しかし最近はその四天王が、大半地上へ遊びに出ているような有り様だ。旧都で派手な戦争ごっこが始まれば、地霊殿の被害は免れ得まい。
防衛力の強化、食料の備蓄。地霊殿の主として、さとりが手をつけなくてはならないことは数多い。ことによってはハーブ園の一部を農場に切り替えねばなるまいか。
考え事に勤しんでいると、ピンク色した夢魂の塊が目の前に現れた。それはむくむくと膨れ上がると、中からドレミーが顔を出した。
「どうも、お待たせしました」
「あら、意外とお早い」
「夢の特定には普段もっと時間をかけるのですがね。今日は少々当てがありました」
ドレミーは食堂の中をくまなく見回した。
「閻魔様はご一緒ではないので?」
「あのかたなら、あそこにいますわ」
さとりは食堂の一角を指差す。人混みの中には、たしかに映姫がいた。豆腐の味噌汁と三途魚の煮付けが入った小鉢を前に、茶碗と箸を手にしたまま入念な咀嚼を繰り返している。椅子がほぼ埋まるほどの混雑ぶりにもかかわらず彼女の正面、横に座る者はない。
「さもしい食事ですね?」
「ここに逗留以来、ずっとあんな感じですわ。気にも止めやしません」
「せめて家主様がご一緒してあげては?」
「ご冗談を。食事くらいゆっくり済ませたいわ」
給仕がトレイを抱えて、さとりのところにやってくる。
「だけど今日に限っては、面白いものが見られそうです。ちょっとあなた、閻魔様に声をかけてきてもらえないかしら」
ミネストローネに少し口をつけ、パンを一片ちぎる。そこに映姫が、片眉をずり下げながらやって来た。さとりとドレミーとを交互に見る。
「あなたから私を呼びつけるなど、珍しいこともあったものです。明日は雪でも降るかしら」
「あいにく地底には降りませんね」
「で、そちらのかたは先ほどの獏。夢診断と言いましたか」
映姫は片手を空けて、パーカーのポケットから八角形の手鏡、浄玻璃を取り出した。
「なるほど、普段はいたって真摯に夢の管理に取り組んでいるようです。しかし家主の酔狂に付き合うのは関心しませんね」
「成り行き上こうなっているというか。どうかご容赦を」
映姫がさとりの隣に座り、ドレミーと向かい合う。
「それで、見つかったのですか」
「ええ、どうにか交渉がつきましたので」
ドレミーの手のひらの上で、新たな夢魂が結ばれる。彼女はそこに片手を突っ込んだ。
いったい何を始めるつもりなのか。二人はドレミーの動きを凝視する。
やがて彼女は、手を引っ張り抜いた。数枚の紙束が手の中にある。
「はい。こちらが、夢のあなたがたが使った弾幕です」
「夢の私たちが?」
さとりは映姫と顔を見合わせる。最近に弾幕を撮影された記憶は、二人ともまるでない。
ドレミーは紙束を一枚ずつテーブルに並べる。たしかにそれは、葉書大の印画紙であった。それぞれさとりと映姫、その他の妖怪が弾幕を放っている様子が写っている。
映姫はその一枚を取り上げ、目を丸くして写真に写った自分自身と、もう一人の姿を眺めた。
「これは冥界管理人の西行寺幽々子。最近彼女との弾幕はとんとご無沙汰です」
「こちらには私とお空が写ってますね。いつ、こんなものを撮ったのですか?」
「お二人とも、記憶にないでしょう?」
ドレミーは両手で頭を支えて、笑顔を浮かべる。
「それはとある異変の被害者、宇佐見菫子が夢の世界で撮影したものです。その追っ手には、夢の世界のあなたがたも含まれていました」
さとりは今一度、自分と空の弾幕写真をしげしげと眺めた。
「つまり私たちは、二人がかりで菫子さんを追い詰めた、と? まるで覚えていませんが」
「夢の出来事は、覚めると大方忘れてしまいますから。閻魔様とて例外ではありません」
映姫は写真の一枚をドレミーに掲げ見せる。
「我々にこれを見せるということはです。この弾幕があなたの言うところの夢診断になると?」
「そういうことです。ではさっそくですが、家主様から見ていくことにしましょうか」
ドレミーは、さとりの写真を一枚取り上げる。さとりを中心に、ハート型をした弾丸が放射状に連なっている様子が写っていた。
「これが家主様の弾幕です。こう、弾幕があなたのほうへと押し寄せるような」
ハートの先端からさとりの方向へ、ドレミーの指先が動く。
さとりの額に、じんわりと汗が浮かび上がった。
「こんな弾幕普段は使いませんね。なのに、見覚えがあるなんて」
「興味深いですね。夢の世界のあなたは、縁者の弾幕を真似たというのでしょうか?」
「縁者どころか」
さとりは自分の写真を拾い上げ、ひらひらと振る。
「こいしの弾幕ですわ。あの子の、抑制の弾幕。それを私が想起したとでも?」
「スーパーエゴ、でしたか」
映姫が口を挟んできた。顔には笑みが浮いている。
「古明地こいしの『イドの解放』とセットで用いられる弾幕ですね。イドとはすなわち超自我。無意識のうちに出てくる欲望や衝動」
「よくご存知で。さらには私の抑え込みたいイドとはなんなのかと考えてますね?」
「まさに、そういうとこでは?」
「え」
さとりが凍りつく。映姫の喜色がさらに濃さを増していった。
「あなたは他人の考えていることをいちいち口に出しているうちに、それらが無意識のレベルにまで染み付いてしまっている。あなたは実際のところ、自身のそういった癖を抑制したいとお考えなのでは?」
「そんなはずは」
さとりは反論しかけたところで、周りがザワザワ騒がしいことに気がついた。ペットたちが周囲に人垣を作っている。食堂の一角で始まった謎の会合を、文字通り嗅覚の鋭い連中が嗅ぎつけたということか。
私室に戻ってから始めればよかった。さとりは自らの軽率さを恥じる。
「そんなことより閻魔様の夢診断をお願いします」
「あら、誤魔化しはよくないですよ?」
「私が自分でも気づかなかった本性を、白日の下に晒されたのです。あなた様も、同じ気分を味わってみたらよろしい」
「さて、そんなものが私にありますかどうか」
ドレミーはそんな映姫とさとりのやり取りを、黙って聞いていたのだが。
「ずいぶんと仲がよろしいようで」
「「誰と誰の仲がよろしいと?」」
「そういうとことかです。あと、閻魔様も油断は禁物ですよ。現にあなたはこれら弾幕の夢を、まるで覚えていらっしゃらない」
映姫が口ごもった。ドレミーはその隙に机の上の写真を漁る。
「では続いて、閻魔様の弾幕を見てみましょう。これなどよろしいのでは」
写真の一枚を前に出す。映姫が一人で写ったものだった。詰め襟の制服に冠を被り、三本の柱状弾を放っている。映姫はそれを見せられると、眉をしかめた。
「撃った記憶にないのはもちろんですが、ずいぶんと薄い弾幕に見えます」
「なかなか珍しい弾幕ですよ。このあたりをご覧ください」
ドレミーが指で差した場所には、柱状弾と誰かの弾幕が交錯しているところが見えた。奇妙なことに丸弾であったそれは、柱状弾を境としてより細かな米粒弾へと姿を変えている。
「これは」映姫の眉間に、しわが増えた。「弾幕裁判の一種でしょうか。弾幕を、対戦者相応の罪へと変じる」
「らしくない、と考えてらっしゃいますわね、閻魔様」
今度は、さとりのほうが口を挟む番になった。
「弾幕裁判なら、私も食らったことがあります。あれは元ある弾幕へ、さらに罪を継ぎ足すというえげつないものでした。対してこの写真では、別の弾幕に変えているというだけ。まるで弾幕を通せんぼしているようではありませんか」
映姫は依然、口を固く結んでいる。代わりにドレミーが口を開いた。
「そう。夢の閻魔様の弾幕は、私の目から見ても優しい弾幕でした。まるで対戦相手をいたわるかのような」
映姫がドレミーを上目遣いににらむ。
「相手の罪状によってはそのような弾幕になることもあると思いますが」
「そうですね。当時の菫子が置かれていた状況は、むしろ同情の余地すらあるものと言えます。それにしても閻魔様の弾幕が、有情に満ちていたことは明らかです。私の見立てでは、彼女を説教したくなかったようにすら見えましたよ」
映姫は目を伏せて、小さく息を吐いた。
「灰色決着ですね。この夢診断は、状況を鑑みた推測にすぎません。夢の世界は浄玻璃に映らないので、真偽を定める手段もない」
「やれやれ、先程は面白がって家主様の本心を推察していたというのに」
ドレミーは手の上で夢魂をもてあそんだ。
「夢の世界の住人は、現実よりちょっと情緒不安定で、また自分の本心に忠実でもあります。そんな住人が放つ弾幕こそ、あなたがたの偽らざる本音」
ずずい、と身を乗り出す。対する映姫とさとりは、姿勢を正していた。
「あなたがたが、この診断をただの推測と疑うのはもっともなこと。しかし夢のあなたがたが読心をもってしても、浄玻璃審判をもってしても見通せぬ振る舞いをしていたこともまた事実。ならばあなたがたの本心とは、いかなるものなのでしょうね?」
周囲のペットたちの、ザワザワ言う音ばかりがしばらく聞こえた。
再び口を開いたのは、映姫だった。ふ、という含み笑いとともに。
「どう推理したところで眉唾なことに変わりはありません。家主をご覧なさい。彼女が心を読んだ結果を一切口にしないなんて、考えられませんよ。三日と持たないのではないですか?」
くす、とさとりが笑う。
「心を読む能力は、口に出さずとも素晴らしいものですわ。閻魔様こそ、なにかにつけて重箱の隅をつついては説教をお始めになる。これはそう簡単には止められないのでは?」
映姫とさとりは椅子を互いの方向に向けて座りなおした。それは彼女らが同じ卓につくことを嫌う、いちばんの原因が始まってしまった瞬間だった。
「重箱の隅つつきではありません。豊かな死後を迎えるための教示です。せずば死後の罪状は、より重いものとなる。あなたのような減らず口はなおさらです」
「饒舌はサトリ妖怪なればこそ。そちらこそわざわざ此岸まで出てきて説法たれておりますがそんなことする閻魔なんてあなた様くらいですわ。あなた様のようなワーカーホリックに手を焼いたからこそ、是非曲直庁は長期休暇を導入したのでは?」
ペットたちが拳を作って口論の行く末を見守る。
「長くなりそうですか?」
ドレミーが二人の間で、そうつぶやいた。
「ドレミーさんの夢診断を立証する方法を、たった今思いつきました」
「面白そうですねえ。みなにわかるように、口に出して説明していただきましょうか」
映姫がさとりをにらむ。
「我慢比べをしましょうか。私は説教をしない。あなたは心を読んだ内容を口に出さない。より長く押さえることができた者を勝者とするということで」
「互いのイドとなっているかもしれないものを、どれだけ抑え込めるかということですね。いいですわ。その勝負、受けて立ちましょう」
ペットたちが大いに沸き立った。さとりは口許を思いっきり吊り上げる。
「閻魔様が負けた場合は、地霊殿の誰もが恐れる浄化槽の清掃をやっていただこうかしら」
ペットたちがどよめきに満たされる。四桁にのぼるペットの不浄が集まる、地霊殿屈指の凶悪スポットだ。清掃担当を輪番にしてもなお、拒絶反応を示す者があとを絶たない。
しかし映姫は動じない。
「それでは私が勝った場合は、あなたが死後受けるであろう責め苦の一部を負っていただきましょうか。是非曲直庁職員食堂特製『摩訶鉢特摩』の強制チャレンジ権を」
さとりの額に汗が浮いた。第三の眼を通して見えたのは、溶岩のように赤い液体で満たされた近づくことすらはばかられる丼である。
「十王様すら恐れる、伝説の蒙古タンメン。一口食しただけで全身に絶対零度の感覚を覚えるどころか、全身の穴という穴から血を吹き出し、一面に紅蓮の花が咲き乱れるという」
「怖気付きましたか? 取り下げるなら今のうちですが」
さとりはハンカチを素早く取り出し、額の汗を拭い取った。
「ご自分の心配をなさったほうがよいと思いますよ。この館には、懲りない素行不良ペットもいっぱいおりますからね。果たして閻魔様がどこまで説教抜きで耐えられますやら」
「あなたこそ、ホーム・ディシジョンにあぐらをかくべきではありませんよ」
映姫は浄玻璃に加え、悔悟の棒を取り出す。
「あなたは少し、私の審判を甘く見すぎている。この際ですから彼岸に立つ者の精神を、身をもって体験させてあげましょう」
「よいのですか? 開始となれば、そんな説法ですら飛ばすことはできませんよ」
そのまま二人して、にらみ合う。
ペットたちは、二人の間に立ち上るどす黒いオーラのようなものを見た。
「早くも戦闘態勢ですね。なんか私が煽ったようになってしまいましたが」
ドレミーが二人に声をかける。
「審判役とか必要です?」
映姫とさとりがいっせいに振り向いた。映姫は浄玻璃を、さとりは第三の眼を片手に持って。
「「必要だと思います?」」
「失礼しました。それで、いつから始めます? 開始の合図とか必要ですか?」
映姫とさとりは互いに目配せする。
「この食堂を出てから先、ということでいかがですか?」
「けっこう。せいぜい最後の食事を、ゆっくり楽しむことです。私は先に出てゆうゆうと待ち構えることにしますので」
「あなたこそゆっくり済ませればよろしい。それで負けたら言い訳がききませんけどね?」
映姫とさとりの間で、新たな火花が散ったように見えた。次の瞬間、二人は各々のトレイにかじりつき、残った食事の消化にとりかかる。
ドレミーは咀嚼を無言で続ける二人の姿をしばらく眺める。やがて彼女は、テーブルの上に散らした写真をかき集めた。
「まあ、私としては本来の目的を果たせましたし。どっちが勝とうと関係ないんですけどね」
§
その翌日、地霊殿の奥まった場所にある、さとりの私室。
お燐と、家畜担当のボーパルバニー、館内メンテナンス担当の殺戮ベアが肩を並べ、執務席に座るさとりの姿を見下ろしていた。
彼女は食事直後のハムスターみたいに頬を膨らまし、赤い顔を震わせる。
ペットたちの頬に、紅が浮いた。
(可愛い)(可愛い)(可愛い)
「さっきの話を聞いていたかしら?」
「ええ、もちろん(可愛い)」
「報告はしばらくの間、書類と口頭でよろしくお願いしたいのだけれど」
「「「了解しましたー(めっちゃ可愛い)」」」「早く」
早くも喉から「可愛い言うな」というツッコミが、うっかりまろび出ようとしている。条件反射的に相手の心中を口に出してしまう癖は、十分に自覚していたつもりだった。しかしここまで意識しないと我慢できないのは、正直予想外。
(あらあら、早くも家主様はギブアップかしら)
ペットたちの後ろから、挑発的な心の声が飛んできた。さとりは彼女らの肩越しに、それをにらむ。映姫が昨日と同じく、シエスタに興じている、ように見えた。
(ああうるさいうるさい。こんなものはじきに慣れますよ、慣れ)
強いて目前の報告に意識を集める。その間も何度かペットたちの心を反芻しそうになるので、なかなか頭に彼女らの言葉が入ってこない。
(不公平ですわ、私ばっかり。早いとこ説教タイムが来ればいいのに。こういうときにこそ、超絶鳥頭なあの子のうっかりが頼りなのだけれど)
と、さとりが思うが早いか。左右で音の異なる駆け足が、部屋に近づいてきた。
バターンと威勢のいい音とともに、空の長身が現れる。
「さとり様、すみません、遅れました!(寝坊しました!)」
さとりは空を執務席からにらみ上げた。多少の安堵を覚えながら。
「廊下は走らない。入る前に扉は二度軽くノック。何度注意したかしら、お空?」
「はっ、すみません! 何度目でしたっけ? (何度目だったっけ!)」
あたふたと指を折り始める。本来は両手じゃとても足りないのだが。さとりは顔面の筋肉が、いくぶんゆるむのを感じた。
「あなたを見てると気が楽になるわ」
「よ、よくわかんないけど、ありがとうございます! (ありがとうございます!)」
空の様子を眺めて微笑みながら、さとりは考える。
(ここで普段の閻魔様なら「甘いですね家主は。そう、あなたは少し物覚えが悪すぎる」って説教が始まってもおかしくないのだけれど)
一抹の期待をもって、映姫を見た。
映姫はソファーの上で、死体のように横になったままだった。
お燐が目を丸くして、映姫の様子をうかがっている。
一方のさとりには、驚きはなかった。
(やはり、その手できましたか)
さとりの第三の眼が、映姫の心をのぞいた。「嘘をついている」「叛意を持っている」などの文字が記された無数の四角形が、白い大地の上に整然と並ぶ。それらは「是」と記された白い矢印、「非」と記された赤い矢印でつながっている。ルートの一つが明滅し、その末端には「白」「黒」の文字。ルート最後の四角には「徳の説示が必要」と記され、赤い矢印でもって「黒」に通じる。
この途方もないイエスノー占いこそが、絶対にぶれないとされる「白黒はっきりつける能力」を心象風景化したものである。
(白黒の定義が増補されている。ぶれない白黒公式の外側に「説教は黒」という判断を新たに加えたことで、閻魔様はあらゆる罪をスルーすることができるようになったのだわ)
さとりの顔から、笑みが消え失せた。
(やはりこの勝負、能力でイドに干渉できる閻魔様が圧倒的に優位。だけどこの館には罪深いやつが、ごまんとひしめいているわ。どこまでイドに抗えるのかしらね?)
さとりはそこで、首に何かが巻きついているのに気がついた。同時に頭上から声がする。
「深刻そうな顔してるわー、お姉ちゃんてば」
さとりは息を軽く吐き出すと、首に巻きつくベージュ色の袖を握りしめた。
「こいし、部屋に入ってくるときはノックしなさいと言っているじゃない」
「ちゃんとしたよー? 誰も気づいてくれなかったけど」
ペットたちがガタガタとのけ反る。彼女らもようやくこいしがさとりに後ろから抱きついてるのに気がついた。
昨日のドレミーの話を信じるならば、今のこいしは情緒不安定で本音のままに行動する夢の住人ということになる。しかしいくらなんでも大胆に過ぎると、さとりは思う。普段だったら映姫から逃げ回って、滅多に出てこないくせに。
さとりは映姫を指し示した。
「ほら、お客様もいらっしゃるんですから。ちゃんと挨拶しなさい」
「こんにちは、閻魔様ー」
ペットたちは映姫に振り返って、本能的に震え上がった。ソファーで体を起こす彼女からは、憎悪の炎が立ち上っているようにすら見えた。
(黒黒黒黒黒黒黒黒こんなときに目ざとく出てくるとはいい根性してるわ黒黒黒黒)
サトリ妖怪の能力を捨てたこいしは、映姫からすれば全身罪の塊のようなものである。
(効果は抜群だわ。これはどうかしらね)
さとりは自身の心臓の高鳴りを感じながら、映姫の反応を待った。彼女はソファーから立ち上がると、さとりたちを見た。
「こんにちは、こいしさん。申し訳ありませんが時間なので、そろそろ庭仕事に向かいますね」
「えー、お話とかしないのー?」
さとりは舌打ちを押し殺した。映姫がスニーカーにはき替えてテラスから外に出る様子を、無言で見送る。サトリ妖怪を捨てた大罪妖怪を前にしても、映姫の白黒は歪まなかった。
首に巻きついた袖を軽く叩く。かすかな汗の匂いがした。
「ちゃんと着替えて、お風呂入っていらっしゃいね」
「はーい」
こいしの腕を解く。そこに燐が歩み寄ってきた。
「分が悪くないですか、この勝負」
「慣れれば大丈夫よ、多分。そしてそれは閻魔様にとっても必要なこと」
「そうですかね? どう見てもどこ吹く風って感じですけど」
「あなたにはそう見えるのかしら?」
燐は首を傾げる。その間もさとりは映姫の行動を思い返していた。さとりのペット放任主義に対して説教する映姫や、さとりの怠惰な引きこもり生活に対して説教する映姫やなどた。
(都度黒を白へ正すことに熱意を傾けてきたあなたが、その習性を捻じ曲げることなど簡単にできるわけがない。この勝負、あなたが思う以上に削り合いとなりますわ)
§
地霊殿の中庭は建屋の敷地を三桁集めた程度の広さがあって、全ての手入れにはまる一年を要する。基本的にここの庭師たちはみな怠慢で、その日も伐採担当鎌鼬や耕作担当土竜が脚立を椅子がわりにして煙草を吹かすなどしていた。
そこに軍手を装備した映姫が戻ってきた。ペットたちはピタリと動きを止め、動向を見守る。
映姫はペットたちの前を通り過ぎると、剪定鋏を手に取った。手近な地獄アカシヤの植木に陣取って「白、黒、白、白、黒」とつぶやきながら枝を落とし始める。
ペットたちは無言で見守っていたが、しばらくすると顔を見合わせ、煙管をしまい込んだ。彼女らは次々に仕事へと戻っていく。全員が働き出すまで、数分も要らなかった。
高枝切り鋏やスコップを動かしながら、声を潜める。
「今日の持ち回り分は終わったことを盾にするんじゃなかったの?」
「そうなんだけど。同調圧力ぱない」
「だよねえ」
彼女らはゆっくりと振り返り、映姫を見た。相変わらず順調に剪定を続けている。と。
「ふう」
何人かがガタガタと道具を取り落とした。その音に、映姫が振り返る。
「なにごとですか?」
「どどど、どうしたんですか、閻魔様」
映姫はしばらくの間、目を見開いてペットたちを見た。
「ん。いやその、失礼。思いの外、大きなため息が出てしまいましたか」
言って、映姫は再び剪定に戻った。ペットたちはしばし無言でそれを見守る。
かすかに首を傾げているようにも、見えないことはなかった。
§
その数刻後。食堂で燐は映姫の話を聞き、ポークソテーをつつくフォークを止めた。
「閻魔様の様子がおかしかったって?」
燐の向かいに座る庭師ペットたちが、しきりに頷いた。
「ため息、一回だけじゃないんだよ。本人にもその自覚がなさそうな感じで」
「ふーむ」
燐は顎をしゃくり上げた。
(表向きは平気にしているけれども、裏では説教したい欲が溜まり続けてるってことかい? さとり様も勝算めいたことをおっしゃってるし、もしかしたら気づいておられるのやも)
「どうしたの?」
ペットたちの呼び声に黙考を止められた。燐は彼女らを手招きして、肩を寄せる。
「お前たち、あたいらはさとり様のなんだ?」
「忠実なペット」
「閻魔様のお不浄掃除と、さとり様が激辛タンメンで悶絶するの、見たいのはどっち?」
「閻魔様がやっつけられてるとこ」「でも、さとり様がすごい顔してるとこもちょっと見てみたいかも」「おい」
「あたいも閻魔様が白黒つけられるところはぜひとも見てみたい。でもって今の話を聞くに、閻魔様につけ入る隙はあると見た」
燐は歯を見せて笑った。
「ちょいと、試してみようじゃないか。あんたらも手伝ってくれないかい?」
§
さとりは自室の天井を見上げ、大きく息をついていた。
(だいぶん我慢にも慣れてきたわね)
目線だけを室内にさまよわせる。ソファーの上では、昼食を終えた映姫が横になっていた。見かけ上の彼女に変調は見られない。当然、心の中も。
そこに、扉をノックする音が聞こえてきた。
「さとり様、お時間大丈夫です?」
「大丈夫よ、お燐」
燐はクリップボードを抱えて、さとりの前にやって来た。後ろ手に、ソファーの映姫を指す。
「聞いてますけど、どうします?」
「閻魔様に聞こえて都合の悪い話などあるのかしら?」
「では(さとり様、ちょいと無礼をさせてもらいます)」
燐がクリップボードを掲げる。気になる心の声とともに。
(え?)
「本日の怨霊管理について報告します(副音声にて真の報告をさせていただきまーす)」
さとりは真顔を保つのに躍起になった。これは部外秘情報を彼女にだけ伝える高等伝達手段。数いるペットの中でも、お燐のように器用で頭も回る一部の者にしか使えない裏技だった。
(いったい何を始めるつもりなの?)
燐は涼しい顔をして、報告書を読み上げ始めた。さとりが顔をしかめてそれを聞く。
「新規怨霊の第七地獄釜への全百体の搬入が終わりました(しかし実態は百五十体です)」
さとりの頬がこわばった。
「今のとこ希少金属の抽出量は平均的。順調に産出を続けております(残り五十体については、オーバーホールの終わった第五地獄釜に移動。試験運用名目で抽出をやっとります)」
さとりのこめかみに汗が浮き上がった。
「抽出済み金属はいつも通り種類ごとに分類、鋳造部門に回しました(第五のほうも同様ですが個別に鋳造に回して旧都で売却。ペットの遊興費として使わしてもらいます)」
さとりはシャツの下にも汗の感触を覚えた。普段ならば絶対に許されない横領行為だ。燐は自分のやってることをわかっているのか。
第三の眼で真意は伝わっているが、口に出してないことを叱責するわけにはいかない。拳を握りしめて、燐の顔を見上げる。
「ほ、報告ご苦労様」
§
静まり返った室内の片隅で、映姫はソファーに横たわったまま薄目を開けて手元に浄玻璃を取り出していた。
(なるほど)
浄玻璃に映っているのは、燐がこれから犯そうとしている罪の実態である。
さとりの尋常ならざる様子を見て、察しがついた。同時に、燐の小賢しい策略にも。
(普段は絶対にできない悪事を私の前で見せることで、私の『黒』を誘おうという魂胆ですか)
しかし、無駄である。映姫がこの場での徳の説示を『黒』と定義した以上、不正を犯そうとしている燐を、それを見逃そうとしているさとりを説教することは絶対にない。
さとりもそのことをわかっているはずだ。彼女自身も燐の罪を見逃したことに対する嫌悪感に苛まれることになる。燐の小細工は諸刃の剣にも等しい。
ソファーから立ち上がる。さとりはゆるゆると、首をこちらに向けてきた。
「あら閻魔様、どちらへ?」
「そろそろ休憩時間も終わりですので。庭師の仕事に戻らせていただきます」
さとりと燐が無言で見守る側で、スニーカーをはく。
(ご安心なさい。あとであなたが降参してから、存分に説教して差し上げますから)
心の中でそうさとりに告げると、テラスに向けて歩き出す。
歩き出そうとした。
「え」
気がつくと、カーペットがすぐ近くに見えた。映姫はそこに膝をついている。
「えっ」
両手両肩に、かつてない重さを感じる。
「どうしました、閻魔様?」
燐の声が、ずいぶん遠くから聞こえたような気がした。
瞬きして、正気を保つ。
(これは、ダメージを受けている? 説教を制限することが私自身に、負担を?)
燐とさとりを見た。さとりが目を見開いて、こちらを見ている。
「なんでもありません」
強いて、体を起こした。休憩の直後とは思えないほど、体が重い。
(じきに慣れるわ。こんなことで倒れるなんて、閻魔の恥になる)
映姫は背後になお視線を感じながら、テラスへ出ていった。
§
さとりは映姫の背中を見送りながら、考えた。
(やはり。イドのレベルにまで到達した説教を、能力で無理矢理抑えつけるのにはそれなりのリスクがあったということ。でも、まさかあそこまでとは)
さとりは拳を握りしめた。
(しかしあのかたが、簡単に自らの戦術を曲げるとは到底思えない。この勝負、下手をするとどちらかが倒れるまで続くことになるかもしれないわ)
(こっ)
心の声に気がつき、顔を上げる。燐が窓の外に顔を向けたまま、小さく震えていた。
ひどくいやな予感がした。
(これはもしかして、そうとう有効なのでは?)
燐はくるりとさとりに向き直る。
「それではさとり様、あたいはちょいと席を外させてもらいます(待っててくださいねさとり様。みんなでさとり様に勝利を導いて差し上げますから)」
「お、お疲れ様」
馬鹿なことはやめろ。燐にはそう言ってやるべきだったのだろうか。
しかしさとりもまた、この勝負に勝ちたい気持ちが少なからず残ってしまっていた。代わりに出てきたのは、思いもかけない言葉である。
「ゆっくりと休んでちょうだいね?」
「了解いたしました(これから忙しくなりそうですがねー)」
扉から出ていく燐を無言で見送る。
(符丁が通じてない。これは、本当に大丈夫なのかしら?)
§
地霊殿の片隅にある食糧倉庫に、十数人のペットが集まっていた。小さなランプに燐の顔が照らされる。薄暗いが、夜目がきくペットが多い。
「みんな集まってるね? そんじゃざらっと作戦の要旨を説明するよ」
作り付けの黒板に指示棒を向けた。
「作戦と言っても、やるこたぁ単純さ。閻魔様が説教したくなるような罪を、あえて閻魔様の前で犯す。あくまでさとり様には内緒という体でね。さとり様も勝負がかかってるからまあ、しばらくは目をつむってくれるだろう」
「どんな罪を見せればいいのかな?」
「地獄に落ちる程度の罪は、わりと多い。代表的なのが殺生。食うために生き物を殺すとか、ハエや蚊を落とすのも殺生だ。他には盗み、邪婬、飲酒、嘘、その他諸々」
ペットたちは説明を聞くと、顔を見合わせた。
「わりとやってそうな話だよね」
「そういう小さいことから気をつけてないやつは極楽に行けないってことさ」
用水担当蛟が手を挙げた。
「質問。お空は呼ばなくてもいいの?」
燐が固まった。現在、あの忘れっぽい地獄鴉の姿は倉庫の中にない。今ごろ灼熱地獄の底で、火力調整に勤しんでいるところだろうか。
燐はしかめっ面を作って、指で頭をつついた。
「あー。お空は今回の作戦に向かないから」
「わりとわからんでもない」
ペットたちが失笑する。八咫烏と同化したことで凄まじい火力を得た彼女だが、肝心の鳥頭は今のところ全然改善されてない。
「よくも悪くも馬鹿正直だからねあいつ。悪気がないのはわかるんだけどさ」
「こちらの話に興味を持ってきたらどうする」
「あとであたいから謝っとく。長い付き合いだ、きっと許してくれるだろう」
どん、と燐は黒板を叩き、ペットたちを見すえた。
「そもこの勝負、閻魔様が降参すれば全ては丸く収まる。一刻も早くまいったを言わせるんだ。さとり様のために!」
「おお!」
そもペットたちは、特に人化した連中は、さとりに対する忠誠心がとても高い。「さとり様のために」という言葉は、殺し文句としてめっぽう効いた。
かくしてさとり自身の気持ちは伝わらないまま、ペットたちはエスカレートする。
致命的な勘違いを重ねたままで。
§
食堂の片隅で、ペットたちが何人か顔を寄せ合っていた。
給仕の一人がデキャンタを他の連中に掲げてみせる。いっぱいに詰まった、赤い液体。
「デデーン、無許可密造酒~」
「おおー」
「旧都じゃ度の低いワインはウケが悪いから、おろし場所がなくて困ってたのよね」
「ちょっと、あなたたち」
割り込んできた声。ペットたちが肩を縮み上がらせる。さとりは人垣へ強引に押し入ると、給仕のデキャンタを指し示した。
「それは何かしら?」
「ぶ、葡萄ジュースですぅ(本当はお酒ですが)」
「いいわね。試飲させてもらえる?」
給仕がワインをミニグラスに注ぐ。
(さとり様は、黙っててくれるかな?)
(きっと黙っててくれるよ。勝負のためだし)
そんなペットたちの心の声が、さとりにはひっきりなしに聞こえてきた。頭痛を覚える。
(つ、強く出られない。この子たちなりに私を思ってやってるんでしょうけれど)
ミニグラスの中身は、いくぶん渋味が強すぎた。口許をハンカチでぬぐって口を開く。
「仕事前の飲酒は許可されていないわ。生産性を損なうから。わかってるわね?」
「も、もちろん(迷惑にならないようにやりますんで!)」
不意に、外野が騒がしくなった。給仕が様子を察して、デキャンタを隠す。
映姫が若干体を引きずるようにして、食堂に入ってきた。顔色も心なしか、青白い。彼女はカウンターに歩み寄って、給仕たちに声をかけた。
「少し食欲がすぐれません。粥をお願いできますか」
「あ、はい」
さとりは映姫の様子を遠くから見守った。彼女は給仕から粥を受け取り、手近なテーブルについて少しずつそれらを口に運ぶ。
(じきに慣れる。普段滅多にやらないことに対して、体が驚いてるだけ。これは慣れる)
そんなことを心の中で言い聞かせているのが、さとりにもよく聞こえてきた。
(だいたい予想通りの展開になってきてしまったわ)
§
さとりは映姫と別に食事を終えた。
ペットたちは映姫の前で、あからさまな悪事を成しつつある。あくまでさとりに内緒という体なので、こちらから叱ることができない。
(これはもう、私の負けでいいのでは。あんな閻魔様を見ていたら、忍びなくなってきたわ。取り返しのつかないことが起こるくらいなら、私が激辛タンメン一杯我慢する程度のこと)
ふと、通路の片隅を見る。ペットたちが数人、顔を寄せ合い話し合っていた。
食堂で見た構図とまるで一緒だ。
(けっこう効果あるんじゃないの?)
(もっと悪いことでも試してみようか)
心の声を聞いたところで、脳天が熱くなるのを感じた。
次の瞬間には、その一団に向けて足早に詰め寄っていた。
「ちょっと、あなたたち!」
「は、はいい?」
人差し指を振り上げ、口を開けたままペットたちの顔を凝視する。不安に満ち満ちた顔を。
(え、どうして?)
(さとり様、喋ったら負けちゃいますよ?)
さとりの額から脂汗が再び流れて、モザイクタイルに雫を落とした。
「体に気をつけてね?」
「は、はーい」
ペットたちは急ぎ足でその場を立ち去った。さとりは手を振り上げたままの姿勢で固まる。
しばらくして、彼女はその場に崩れ落ちた。
(叱れて!? あの子たちを。あの子たちの心を私に裏切れと!?)
両手両足を床についたまま、無言の葛藤を続ける。
犬猫が何匹かさとりの姿を認めて、その手足をなめた。
§
翌日、倉庫では再び燐を始めとするペットたちが顔を合わせていた。
「閻魔様もだいぶんグロッキーになってるよ」
「あともう一押しすれば、いけるんじゃないかな?」
「うむ」
お燐は拳を握りしめる。実際映姫の憔悴は目に見えて明らかだ。
「でも、さとり様も辛そうにしてる」
「早く楽にして差し上げないと」
「ふーむ」
お燐は思案した。映姫はさておき、なぜさとりも様子をおかしくしているのか?
「さとり様もきっと、慣れないことを我慢してお辛いのだろうね。決着を急がんといけないよ」
「じゃあ、どうする? 悪事を続ける?」
「いや」
お燐はさらに考えた。
「あんまりさとり様が長く苦しむのはいけない。一気に決着をつけよう。そのためにはもっと派手な悪事を、どーんと起こさないといけないね」
「例えば、どんな?」
「ちょいと、耳貸しとくれ。例えばだね」
§
旧地獄街道に、提灯の列が並ぶ。
建屋のそこかしこから鬼が顔を出し、盃を手に笑い騒ぐ。しかしその様子は、空元気で単純に声を張り上げているだけのようにも見えた。
お燐たちが目指したのは、その旧都の中心部にあるひときわ大きな酒屋であった。
(あとしばらくのご辛抱です、さとり様。閻魔様へのもう一押しには、間違いなくもっと大きな「黒」が必要なんです)
飲み屋の最上階。屈強な鬼たちが燐たちの周りに円を作り、酒を酌み交わしていた。
「ほーう。地霊殿がそんな具合になってるとはねえ」
鬼の四天王が一人、星熊勇儀は盃を傾けながら燐たちの話を聞いていた。
「ついては、ぜひ姐さんの力も拝借したく。なんとしても閻魔様にまいったを言わせるために」
燐は勇儀に対して、頭を下げる。対する勇儀は盃を少しあおってから燐を見た。
「たしかに、そいつぁ見ものだ。よかろう、うちの手勢を『悪事』に加担させてやろう」
「おお、ありがたい」
「だが」
勇儀が顎をしやくり上げる。
「うちの連中に生半可な演技をさすわけにもいかん。嘘はつけないからね。だから、ちょいと段取りは仕切らせてもらうよ」
「へ?」
燐の頬がこわばった。次の瞬間、鬼数人が立ち上がって燐とペットたちを素早く取り囲んだ。
「へ?」
§
一方の地霊殿。さとりは執務机に突っ伏し、映姫はソファーでうつ伏せになっていた。双方、疲労の色が濃い。さとりは身を起こし、くまの浮いた目で映姫を見る。
「そろそろ音を上げちゃくれませんか、閻魔様」
「ご冗談を」
映姫もまたソファーの上で四肢をいっぱいに使い、体を持ち上げた。
「イドを抑制がかなりご負担になっているのでは? 無理をなさらぬほうが身のためです」
「あなたこそ、そうとうまいっておられるようですが?」
さとりと映姫は、据わり切った目で互いをにらみ合った。
(いい加減折れなさい。これ以上ペットたちに悪行を積ませるのを黙認していては、彼女たちを説教するだけでは済みませんよ?)
(閻魔様こそいっそ、そうなさってはいかが。あの子たちの振る舞いはいわば必要悪。それを無碍にすることは主人としてやってはならないこと)
文字通り無言の応酬を繰り広げる。意地の張り合い。千日手。誰かがこの様子を見ていたら、双方が倒れ伏すまでこの戦いが続くのではと思っただろうか。
均衡を崩したのは、さとりだった。突然に中空を見上げ、左右を見回す。その動きに映姫も目を見張った。どこかで、誰かが、まずいことを考えている証。
やがてさとりは、頭を抱えて震え始めた。片言のような言葉を吐き出しながら。
「ああ」「まさか」「いや」「そんな」
「家主?」
映姫がソファーから転がり落ちる。ポケットから浄玻璃を取り出し、さとりを鏡面に捉えた。
さとりが見た罪を、浄玻璃が映し出す。
§
旧都中心部に、殺気が集う。
屈強な鬼たちが十字路の四方から、無法者集団となって次々に押し寄せつつあった。武器と呼ぶにはあまりにも大雑把な金棒や大金槌、丸太などを抱えた者もいる。
十字路の角に建つ飲み屋の最上階、肘掛け縁に勇儀が腰掛け、盃を片手に戦場が形作られていく様子を見守っていた。背後に控えた鬼たちが、勇儀に尋ねる。
「姐さん。東西の勝敗が決したらどうします?」
「南北に組み分けし直してもっかいやりゃいいだろ」
「ちょっと、姐さん!」
さらに後ろから、畳を叩く音。燐を始め地霊殿のペットたちが、鬼に取り囲まれて身動きの取れない状態に追い込まれていた。
「なんでいきなり、戦争始めることになっちまってるんですかい! 誰もここまでやってくれなんて言っとらんでしょ?」
しかし勇儀は、燐のほうを見向きもしない。
「いいんだよ。いい加減やつらの欲求不満は限界なんだ。切っ掛けは、なんでもよかった」
燐は肩口にまで迫った鬼の金棒を握りしめた。鬼の怪力で押さえ込まれた金棒は、びくともしない。それらが檻のように連なって、燐とペットたちの動きを完全に封じ込めていた。一人の片手には燐の使い魔、ゾンビフェアリーが首根っこをつままれてジタバタしている。
「悪いが、さとりに知らせさせるわけにはいかん。しばらくやつらの喧嘩を観戦しててくれ」
「そんな」
燐は愕然とする。勇み足がすぎた。加減を間違えたのだと、今さらながら悟る。まさか自分の軽率な行動が、地獄大戦争の火蓋を切ってしまうなんて。
(なんてこった、絶対にやばい。これは閻魔様とさとり様のお説教どころじゃ済まないよ!?)
§
さとりは旧都から飛んでくる憎悪を聞き終えると、ゆっくりと立ち上がり呼び鈴を鳴らした。
「お空を呼びなさい。先に出るので、すぐに着いてくるようにと」
スリッパをブーツにはき替える。映姫は浄玻璃をしまい込むと、さとりを見た。
「どこへ行かれるのですか」
さとりは無造作に扉へ歩み寄る。
「少し外の空気を浴びたくなっただけですわ」
「万年引きこもりのあなたが、珍しいことです」
映姫もまた立ち上がって、さとりの背後に続いた。
「あなたが着いて来なくてもよろしいのですが?」
「私も少々体を動かしたくなったもので」
「なんか足がふらついてますが?」
映姫とさとりが、通路に出る。放し飼いの犬猫たちは彼女らを見て、そそくさと走り去った。二人のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか。
二人の足取りは、徐々に早まっていった。エントランスホールを通り抜け館を出るころには、それらは土煙を上げるほどのダッシュへと変わる。
((あの馬鹿者どもがっ!))
土煙の晴れたあとに、棒立ちの空が残された。
「あのさとり様、着いて来いって、どこへー?」
§
再び、旧都。二群に分かれた鬼たちが、道の両脇にずらりと並ぶ。彼らは殺意剥き出しで、すぐ向かいの相手同士にらみ合っていた。
殺気は酒屋の階上にも伝わってくる。燐はそれをひしひしと感じた。苦し紛れに勇儀へ問う。
「あの、本当に始めちまうつもりですかい?」
「なんなら加わってもかまわんのだが?」
「いや、それは」
勇儀は肘掛け縁からひときわ身を乗り出した。号令じみて右手を上げる。
「では、みなのし「ちょっと待ったああああ!」
二群の間を割るように、映姫とさとりが一直線にやってきた。彼女らは猛然と飲み屋の前まで来ると、急ブレーキをかけて背中合わせに鬼たちをにらみ回す。
「私たちの私的な小競り合いに便乗するのはやめていただけませんか!?」
「あなたがたは少し、軽率すぎる!」
たった二人の小さな乱入者が、巨躯の鬼たちをも縮み上がらせた。かたや地底一の嫌われ者、かたや誰もが恐れる地獄の裁判長である。
さとりは第三の眼を掲げ、鬼たちを見回した。
「なるほど、揃いも揃って喧嘩する口実が欲しいだけですか。鬱憤を溜め込む理由を、端から全部読んで差し上げましょうか?」
場の鬼たちが尻込みした。燐は鬼の動揺を突いて金棒をすり抜け、出窓から顔を出した。
「さ、さとり様。んなことやったら、勝負は」
「おー、りー、んー?」
燐もまた、さとりの声に肩をすくめる。
「私が口を出さないのをいいことに、チョーシこきましたねー?」
「よ、よかれと思ったんですぅ」
「あなたもです、星熊勇儀!」
映姫が悔悟の棒を上空に向けた。勇儀が自分を指差す。
「こんなことで旧地獄に破局をもたらすものではありません。頭を冷やしなさい!」
「あくまでそうなるかもっていう話だろう?」
「とにかく、戦争は中止です。よいですね!」
すると、萎縮していた鬼たちが再びいきり立った。腕を振り上げ、怒鳴り声を上げる。
「そんな一方的に決められてたまるか」
「そうだ。今さら拳骨を下ろすわけにはいかんぞ」
街道の方々から、次々怒号が上がる。それを聞くさとりの口が、徐々に吊り上がっていった。
「ほう、あくまでも戦争開始を望みますか」
指を口に差し込み、笛を鳴らす。地霊殿の方角から、黒い影が飛び来たった。
「お空、やって」
「了解!」
空は上空に停止すると、左手を天に掲げた。指先に光が集まり、徐々に膨れ上がる。その光は地上にまで届き、旧都全体をまぶしく照らした。
見上げる鬼たちが、口をあんぐり開けている。さとりは真顔を取り戻すと、言い放った。
「どうしても戦争がしたいというのなら、始めさせてあげます。ただしその火蓋を切るのは、全てを焼き尽くす核の炎ですがね」
「冗談だろ?」
「大マジです」
映姫もさとりの背後で、神妙な顔をしている。
「因果応報です。あなたがたが焼き尽くされた荒野で、旧地獄は再生されることになる」
「あんたらも焼かれることになるぞ!」
「こういう事態を招いたのは私たちの落ち度でもある。ともに罰を受けてしかるべきでしょう」
人工太陽の輝きはいっそう激しさを増し、全てが旧都を白く染めようとしていた。
そのとき、ガランと金属音が響く。勇儀が鬼たちを蹴散らし、場へ強引に割り入った。
「ようし、そこまでだお前ら。全員今日は私の顔に免じて引け」
「あ、姐さん」
「文句ならあとで私が聞いてやろう。戦争はお開きだ」
さとりと映姫は、小さく胸をなで下ろした。
§
かくして、閻魔とサトリ妖怪による不毛な我慢大会はうやむやのまま決着を迎えた。
ことを大きくしたペットたち、便乗した鬼たちには、映姫とさとりから平等に説教が与えられた。まとめて地面に正座させて、とつとつとお小言を並べる。
「まったく、少し心を読み上げなくなっただけで、こんなことになるなんて。心を読む程度の力の素晴らしさを再認識できましたよ本当」
お燐は正座の列の中から、おずおずと手を挙げた。
「ところで、あの勝負。結局勝ち負けはどうなるんですかね?」
「あら、まだそんなことにこだわるの?」
鬼どもの説教をひと段落した映姫がやって来て、さとりと肩を並べる。
「私と家主が戦争を止めに入ったのはほぼ同時。ならば、禁を破ったのもほぼ同時です。引き分けということでよいかと思います」
「閻魔様がそう言うなら、仕方がないですね」
燐はまだ腑に落ちていないが、二人ともそれをあえて無視した。
((まあ、そういうことにしておかないと収まりがつきませんから))
§
映姫とさとりはペットたちを連れて地霊殿に戻ると、誰の同伴も許すことなくさとりの私室に入った。さとりは内側から鍵をかける。
「まったく、ペットたちの暴走にも困ったものですわ」
「まあ、あれも飼い主を思ってのことでしょう。まだ情状酌量の余地はあります」
映姫はさとりの目の前を通り過ぎた。悔悟の棒を掲げ直して、向き直る。
晴れやかな笑顔をさとりに向けて、映姫は言った。
「というわけで、次は我々の番です」
「あー、そうきますよね、やっぱり」
さとりの第三の眼は、映姫の本気をいやというほど読み取った。さとりはおろか自分自身ですらも、これから徹底的に裁く気満々である。
若干顔を引きつらせながら、彼女の心変わりを願った。駄目元である。
「今日はもう遅いですし、明日ではいけませんか」
「鉄は熱いうちに打てといいます。それにこれは、あなた一人の問題では」
と、人差し指を立てたところで、映姫が固まる。
さとりもまた凍りついた。第三の眼に映る映姫の意識が、ぷっつりと途絶えた。
次の瞬間、さとりは第三の眼を映姫に向けて投げていた。さとり自身に巻きつくチューブが次々解け、崩れ落ちようとする映姫の体を捉える。
さとりは、チューブを全力でたぐり寄せた。映姫のほうが体格もあり、重い。それでも床と映姫の鼻先が五センチほどに迫ったところで、映姫の体は転倒を免れた。
映姫の体を担ぎ上げ、引きずっていく。さとりはひとまずの目標を、自身のベッドに定めた。
「まったくもう、ダメージを溜め込みすぎですわ。日々の審判よりも重労働だったのかしら」
「私は、この白黒をつけ切るまで倒れるわけには」
映姫はさとりに肩を預けてなお、うわごとめいたつぶやきを漏らした。
「休憩したら思う存分聞いてあげますから、まずは休んで」
さとりは瞬きした。ベッドが幾重にもぶれて見える。彼女自身もまた、体力の限界だった。残り十数センチとなったところで、さとりは何もない床につまづいた。
「やば」
幸いにも柔らかい感触が、さとりの顔面を受け止めた。もはや映姫に結わえつけたチューブを解く体力すら残っていない。二人仲良くベッドに突っ伏した格好だ。
「こんな形で落ちたくないって? 私もですわ」
すぐ横に映姫の熱を感じながら、さとりの意識は闇に落ちた。
§
「もしもし?」
その問いかけが聞こえたとき、さとりは沼より深い暗闇の中に落ちていた。両手両足が重い。
「もしもーし」
声がはっきりしてくるにつれ、自身が今どのような状態か、把握できるようになってきた。何かに顔を伏せている。なぜそうだったのかは、よく覚えていない。
薄目を開けて、正面を見る。よく見知った頭が目の前にあった。
「どうも、お疲れ様でーす」
身を起こすと見慣れない空間だった。グラスやボトルの並んだ棚を持つカウンターが見える。それらを背後にして、あの眠そうな目をした獏が笑っていた。
さとりの目の前で映姫が身を起こし、薄い目で左右を見回した。なぜか彼女の心の声を聞くことができなかったが、それが疑問とすら思えない。
「二人ともお疲れ様でした。どうですか一杯。奢りますので」
ドレミーがカウンターへ戻っていく。そこでさとりは察しがついた。これは現実ではない。
映姫はテーブル席から立ち上がり、カウンターに移る。さとりもそれに続いた。
「夢の世界で奢りも何も」
「どのツラ下げて出てこられたものやら」
「ははは」
ドレミーは平然と笑いながら、夢魂を手のひらでもてあそんでいた。
「勝手に勝負を始めて大騒ぎを起こしたのは、あくまで自己責任でしょう? まあお陰で私は、面白いものを見せていただきましたけどね」
さとりと映姫がうなる。ドレミーはもう片手にシェイカーを取り出し、夢魂を注ぎ込んだ。
「まあー、見物料と言ってはなんですが。あなたがたの疲労が見せるであろう悪夢は私が全て処理しておきますので」
七色に光る得体の知れないリキュールと氷をさらに放り込むと、テキパキと振り始めた。
映姫とさとりは無言でそれを眺める。
「それよりどうです。夢の中なら能力に振り回されることもありません。エゴも通し放題です。とことんイド抜きで語らってみてはいかが」
ドレミーがシェイカーの中身をカクテルグラスに注ぐ。元の材料がなんだかわからなくなるほどの、透き通った青色をしたカクテルだった。
「美味しいお酒でも飲みながら、ね」
映姫とさとりは軽く顔を見合わせると、破顔した。
「まあ、それも」
「悪くはないですか」
二人はドレミーから差し出されたカクテルグラスを手に取ると、軽くカチンと合わせた。
§
翌朝。地霊殿の食堂は、平穏を取り戻していた。勝負が終わったことでもって、給仕たちもこっそり酒を出すことをぴったり自粛した。
さとりは食堂に入ると、周囲を軽く見回した。映姫がカウンターで、給仕からご飯と豆腐の味噌汁を受け取るのが見える。
さとりは視線をさまよわせ、空席を探す。しばらくの逡巡があった。やがて彼女は歩き出し、ペットの列をすり抜け、一つの空席についた。
向かいには、茶碗を前に手を合わせる映姫の姿があった。彼女は顔を上げたところで向かいに座るさとりの姿に気がつく。
「珍しいですね。あなたから座りに来るなんて」
「ただの気まぐれですよ。いつも一人ぼっちで寂しくないのかと思いまして」
さとりは現れた給仕に、オニオンスープとトースト、ヨーグルトを頼む。
「閻魔とは、そういう立場を受け入れるべき者です。あなただって、他者を率先的に寄せ付けないじゃないですか」
「結果的にそうなっているというだけです。孤独を好んでいるわけではありませんよ。そうでもなければペットをこんなに集めやしません」
映姫は、さとりを待たずに食事を始める。
「あら、食事中だからとだんまりを決め込むおつもり? 私相手にそれは無理だとわかってらっしゃいますよね? 勝手にしなさいですか? そうします」
給仕がさとりの食事を運んできた。
§
燐と空はテーブルで向かい合う二つの影を、遠い場所から眺めていた。燐は自分の肩を抱く。
「こいつぁ、槍の雨が降るね」
「地底には雨は降らないよ?」
燐は片手を空中にさまよわせた。
「そうではなく。滅多じゃないことが起こってるってことさ」
「そうかなぁ?」
「何があっても別の机で別にご飯を食べてたあの二人が、今は同じ机で、顔突き合わせて食べている。これはもう、もはや凶兆としか思えないねえ」
我慢比べを通じてどんな心境の変化があったのか。
あの夢のカウンターバーで、二人は何を話したのか。
それは今や、映姫とさとり自身もあずかり知らぬ夢の中に埋もれていた。
さとりは、目の前に立つ奇抜な格好の女をしげしげと眺めた。全身に拳大のボンボンを散りばめたモノクロのワンピース。まぶたの重そうな眼差し。頭のナイトキャップとあいまって、いかにも眠そうなやつ。
「突然の訪問をお許しください。あなた様の妹君について、少々お聞きしたいのですが」
さとりは羽ペンを執務机のかたわらに追いやると、改めて珍客の姿を上から下まで眺めた。ここは地霊殿の最奥、さとりの私室兼仕事部屋。窓の外にはどこまでも続く真っ暗な岩壁と、それに比して真昼のように明るい庭園が広がる。
「どちら様? こんな場所まで如何様にして来たのかしら」
「おっと、名乗りがまだでした。私はドレミー・スイート。夢の支配者をやっております」
「ふむ」
さとりの第三の眼が彼女の心臓のあたりでうごめき、ドレミーの姿をギョロリと見上げた。
「なるほど、あなたは獏。この地霊殿のどこかで居眠りしているペットの夢をたどって、ここまでやって来たということですね」
「お話が早くて助かります」
「それで、妹のこととは? うちのペットになれば話は早いですよ」
「残念ながら、そのオファーは受けられませんね。ええ、私普段は夢の世界で誰かの悪夢など食べながら暮らしておりますが、先日妹君の夢に触れる機会がございましたもので。たしか、こいしさんとおっしゃいましたか」
さとりは頬杖を突いた。こいしから聞き出せる地上の異変は断片的だ。しかも彼女の主観が大いに混ざる。それを思い出すと、さとりはもう片一方の手で呼び鈴を探すのだった。
「聞きましょうか。夢のあの子が、何か失礼でも?」
「失礼どころか、お人形のように大人しい」
ドレミーが片手を広げた。手のひらの上では、桃色をしたペースト状の物体が、丸く大きくなっていく。さとりはその中に映ったこいしの姿を見た。
ベージュ色のシャツと黒い丸帽子はいつものこいしだ。しかし膝を抱え何も語らず、濁った目で虚空を眺める姿は普段とまるで似ても似つかない。
彼女が第三の眼を閉じる前のことを、なんとなく思い出せた気がした。
「私はありとあらゆる夢を、それこそ億の単位で見てきました。その中でもあの子の夢は大変稀有なものです。どんな生活をしていれば、あんなスカスカの夢になってしまうのでしょうか」
さとりは手のひらを上に向けて、ドレミーを見る。
「本人に説明させたほうがよいかと存じます。ただ、こいしは当分帰ってこないでしょうね。数日後かもしれないし、数ヶ月先かもしれません」
「そらまた、どうして」
「あの子がとびきりの気まぐれ、ということもありますけどね」
人差し指を持ち上げる。さとりの指先はドレミーの肩口を突き抜け、その後ろに向いていた。
「何より今は、閻魔様が逗留中ですので。あの子がまず近づきたがりません」
「えっ」
ドレミーは後ろを見て、両肩を震わせた。二人しかいないはずの部屋に、三人目がいた。
その人、四季映姫・ヤマザナドゥは応接用の長ソファーに自らの体を横たえていた。しかしその格好は是非曲直庁の詰め襟制服ではない。白いパーカーと黒いスエットパンツの、知人でなければ楽園の閻魔と気づくことすら難しい服装だ。それがソファーの上で手を軽く組んで、荼毘に伏された遺体のように乱れのない寝姿で目を閉じていた。
「本当にいるし。でも寝てませんね?」
「目を閉じて休んでいる、というだけですから」
ドレミーがのけ反り、二度驚愕した。遺体が声を発したのだ。
「しかしどうして閻魔様がこんな場所に?」
「是非曲直庁は、閻魔賽日に加えて長期休暇制度を導入したのです。人手不足だというのに」
映姫は整然とした動きで上体を起こし、目を開いた。
「労働者の良心を悪用し、過酷な労働環境や長時間労働を課す行為は『黒』に認定されました。是非曲直庁でもその思想に基づき、約一名を除いて輪番でこのような休暇が課されます」
「約一名は明らかに自業自得ですね」
さとりが付け加える。
「しかしその休暇を、どうしてこのような場所で?」
「寮にいると、馬鹿者がいろいろ理由をつけて遊びにくるんですよね」
映姫はソファーに座りなおし、両手を広げた。
「その点ここは、恐ろしい家主が面倒な連中を遠ざけてくれるので安心です」
「それを合理的に選べるのが、閻魔様のらしいところですわ」
「なんとでもどうぞ」
映姫は迷いなく立ち上がり、一直線にテラスへの通用口を目指した。
「そろそろ休憩時間は終わりです。庭仕事の手伝いに戻りますね」
「どうぞ」
そのまま簡素なスニーカーにはき替え、庭園に出ていく。さとりとドレミーは、無言でその背中を見送った。
「庭仕事、とは」
「文字通りの意味ですよ。宿賃の代わりだとか。義理堅いことです」
「いいんですか、やらせといて」
「庭師はよくだらける子が多いので。喝入れには重宝しますわ」
通路側の扉が開いて、何人かがいっせいに姿を現した。先頭を歩くのは家事ペットの一人。カートいっぱいにティーセットを載せている。その後ろに続くのは古馴染みのペット、火焔猫燐と霊烏路空の二人。
「おや、もしかしてこれからお茶ですかぁ? 報告に来ただけなのに、大した偶然ですわ」
「白々しい。閻魔様が出ていくのを待っていたのでしょう?」
さとりは微笑み、ドレミーに向き直る。
「あなたのお話には興味があります。時間がおありならば、ゆっくりとお話ししませんか? 地底イチゴのチーズケーキとカモミールがありますわ。夢見がよくなります」
「私はどっちかといや、見せる側ですがね」
§
空が口いっぱいにケーキを頬張り、満面の笑みを浮かべている。そこにお燐が手を伸ばし、頬についた食べかすをつまみ取った。
ドレミーはといえば薄黄色の茶が満たされたティーカップを手で回しながら、さとりの話に耳を傾けていた。
「サトリ妖怪の力を封じた?」
「その通り」
さとりは白磁のカップを傾けて、喉を潤した。りんごにも似た香りが口の中に広がる。
「あれはサトリの力を捨てて、妖怪ですらないものになり果てました。その際どういうわけか無意識を操る力を得て、以後は無意識のまま行動しております」
「無意識のまま、とは。珍しいこともあったものですね。ならば夢の世界のこいしさんに動きがないのも道理でしょうか」
「道理、とは?」
「今のこいしさんは夢の人格と入れ替わっているかもしれない、ということです」
「そんなことがあり得るのですか」
ドレミーは片手に夢魂を再び現した。夢魂の中で、目まぐるしく映像が移り変わっていく。最後に現れたのは、腕を大きく振り上げたさとり自身の姿だった。
「人間の夢や妄想というものは、幻想郷において簡単に実体化し得るものです。あなた自身もトラウマの想起という形で、その恩恵にあずかっているはず。夢の住人は、常に現実へと出ていく機会をうかがっております。ですからこいしさんが心を閉ざした隙に、夢のこいしさんが現の体を乗っ取ったとしてもおかしくありません」
「たしかに、あれの動きは夢遊病じみておりますわ。その夢のこいしを夢の世界に連れ戻して、元のこいしに戻すことはできないのかしら」
「難しいでしょうね。夢のこいしさんを捕まえることは、不可能ではないでしょう。しかし、元のこいしさんに現へ戻る意志を感じられません」
「残念です。あの子が読心の素晴らしさを思い出すにはまだ時間がかかるということかしら」
「まあ心配には及びません。夢であれ現であれ、あの子があなたの妹君であることには変わりありませんから。ともあれ、お陰で疑問の一つがが解けました。わざわざ地底までやって来た甲斐があったというものです。ぜひお礼をさせていただきたい」
「何もそんな。お礼を言いたいのはこちらもですわ」
夢魂の映像が溶けて、渦を巻く。
「美味しいお茶もいただけましたのでね。私は夢の支配者。どうでしょう、家主様の夢診断をして差し上げるというのはいかがです?」
さとりは頬杖で顎を支える。
「夢診断ねえ。そんなもん診断してもらわなくても、私には無用の長物に思えますが」
「そんなことはありません。きっとサトリ妖怪の能力よりも、多くの情報を読み取れますよ」
さとりの眉間の幅が、少し狭まった。
「うふふ、釈然としない顔をしていらっしゃる。対抗心を燃やすほどのものでもありません。夢の住人は、現の住人が意識せず隠している本音をさらけ出して生きています。私はそれらを容易に見ることができる。普段は思いもかけない、あなた自身の本心を」
さとりは二度三度と瞬きをした。
「そして何より、あなたはあなた自身の心をのぞけないのではありませんか?」
「一理あるわね」
さとりは姿勢を正し、ギラギラした目でドレミーの顔を見やった。
「がぜん興味が湧いてきました。その夢診断、披露していただけますか?」
「あ、ごめんなさい。すぐには無理です」
うっかり椅子から転がり落ちかけた。体勢を立て直しつつ、第三の眼でドレミーを見る。
「どうやら、嘘ではないみたいですね。夢の住人はそれこそ現と同じ数だけいるので、それを探すところから始めないといけないのですか」
「そういうことです。少々の時間が必要になるかと。当たりがつき次第、再び訪問することになりますが、よろしいでしょうか」
「私たちの時間はほとんど無限にあります。待ちましょう。待ちますけれども」
さとりの口の端が吊り上がる。
「せっかくだから、あいつも巻き込みましょう」
「と、いうと?」
「今ごろうちの庭師たちに説教しているであろう、あいつのことですよ」
「本人が同席するなら、いいですよ?」
§
数時間後。さとりの姿は食堂にあった。
元ヘルハウンド、元地獄伝書鳩など、数多のペットが入れ替わり立ち替わり、生きる活力を求めてやってくる。さとりは地獄野菜のミネストローネとバターロール、ジンジャーを主としたブレンドハーブティーを給仕に頼んでテーブルの一角に腰を下ろした。
(旧都行ってきたけどさ、どいつもこいつもかなりピリピリしてるよね)
(そろそろおっぱじまるんじゃないの? しばらく遊びにいかないほうがいいかもね)
食前の茶を口に運びながら、食堂に集まったペットたちの会話や心の声を盗み聞く。最近は鬼を中心とした旧都のならず者たちの、不穏な噂が大半を占める。
地獄の一部が鬼たちに割譲されて以降、地底は「鬼の四天王」の統治でもって長らく平穏が保たれてきた。しかし最近はその四天王が、大半地上へ遊びに出ているような有り様だ。旧都で派手な戦争ごっこが始まれば、地霊殿の被害は免れ得まい。
防衛力の強化、食料の備蓄。地霊殿の主として、さとりが手をつけなくてはならないことは数多い。ことによってはハーブ園の一部を農場に切り替えねばなるまいか。
考え事に勤しんでいると、ピンク色した夢魂の塊が目の前に現れた。それはむくむくと膨れ上がると、中からドレミーが顔を出した。
「どうも、お待たせしました」
「あら、意外とお早い」
「夢の特定には普段もっと時間をかけるのですがね。今日は少々当てがありました」
ドレミーは食堂の中をくまなく見回した。
「閻魔様はご一緒ではないので?」
「あのかたなら、あそこにいますわ」
さとりは食堂の一角を指差す。人混みの中には、たしかに映姫がいた。豆腐の味噌汁と三途魚の煮付けが入った小鉢を前に、茶碗と箸を手にしたまま入念な咀嚼を繰り返している。椅子がほぼ埋まるほどの混雑ぶりにもかかわらず彼女の正面、横に座る者はない。
「さもしい食事ですね?」
「ここに逗留以来、ずっとあんな感じですわ。気にも止めやしません」
「せめて家主様がご一緒してあげては?」
「ご冗談を。食事くらいゆっくり済ませたいわ」
給仕がトレイを抱えて、さとりのところにやってくる。
「だけど今日に限っては、面白いものが見られそうです。ちょっとあなた、閻魔様に声をかけてきてもらえないかしら」
ミネストローネに少し口をつけ、パンを一片ちぎる。そこに映姫が、片眉をずり下げながらやって来た。さとりとドレミーとを交互に見る。
「あなたから私を呼びつけるなど、珍しいこともあったものです。明日は雪でも降るかしら」
「あいにく地底には降りませんね」
「で、そちらのかたは先ほどの獏。夢診断と言いましたか」
映姫は片手を空けて、パーカーのポケットから八角形の手鏡、浄玻璃を取り出した。
「なるほど、普段はいたって真摯に夢の管理に取り組んでいるようです。しかし家主の酔狂に付き合うのは関心しませんね」
「成り行き上こうなっているというか。どうかご容赦を」
映姫がさとりの隣に座り、ドレミーと向かい合う。
「それで、見つかったのですか」
「ええ、どうにか交渉がつきましたので」
ドレミーの手のひらの上で、新たな夢魂が結ばれる。彼女はそこに片手を突っ込んだ。
いったい何を始めるつもりなのか。二人はドレミーの動きを凝視する。
やがて彼女は、手を引っ張り抜いた。数枚の紙束が手の中にある。
「はい。こちらが、夢のあなたがたが使った弾幕です」
「夢の私たちが?」
さとりは映姫と顔を見合わせる。最近に弾幕を撮影された記憶は、二人ともまるでない。
ドレミーは紙束を一枚ずつテーブルに並べる。たしかにそれは、葉書大の印画紙であった。それぞれさとりと映姫、その他の妖怪が弾幕を放っている様子が写っている。
映姫はその一枚を取り上げ、目を丸くして写真に写った自分自身と、もう一人の姿を眺めた。
「これは冥界管理人の西行寺幽々子。最近彼女との弾幕はとんとご無沙汰です」
「こちらには私とお空が写ってますね。いつ、こんなものを撮ったのですか?」
「お二人とも、記憶にないでしょう?」
ドレミーは両手で頭を支えて、笑顔を浮かべる。
「それはとある異変の被害者、宇佐見菫子が夢の世界で撮影したものです。その追っ手には、夢の世界のあなたがたも含まれていました」
さとりは今一度、自分と空の弾幕写真をしげしげと眺めた。
「つまり私たちは、二人がかりで菫子さんを追い詰めた、と? まるで覚えていませんが」
「夢の出来事は、覚めると大方忘れてしまいますから。閻魔様とて例外ではありません」
映姫は写真の一枚をドレミーに掲げ見せる。
「我々にこれを見せるということはです。この弾幕があなたの言うところの夢診断になると?」
「そういうことです。ではさっそくですが、家主様から見ていくことにしましょうか」
ドレミーは、さとりの写真を一枚取り上げる。さとりを中心に、ハート型をした弾丸が放射状に連なっている様子が写っていた。
「これが家主様の弾幕です。こう、弾幕があなたのほうへと押し寄せるような」
ハートの先端からさとりの方向へ、ドレミーの指先が動く。
さとりの額に、じんわりと汗が浮かび上がった。
「こんな弾幕普段は使いませんね。なのに、見覚えがあるなんて」
「興味深いですね。夢の世界のあなたは、縁者の弾幕を真似たというのでしょうか?」
「縁者どころか」
さとりは自分の写真を拾い上げ、ひらひらと振る。
「こいしの弾幕ですわ。あの子の、抑制の弾幕。それを私が想起したとでも?」
「スーパーエゴ、でしたか」
映姫が口を挟んできた。顔には笑みが浮いている。
「古明地こいしの『イドの解放』とセットで用いられる弾幕ですね。イドとはすなわち超自我。無意識のうちに出てくる欲望や衝動」
「よくご存知で。さらには私の抑え込みたいイドとはなんなのかと考えてますね?」
「まさに、そういうとこでは?」
「え」
さとりが凍りつく。映姫の喜色がさらに濃さを増していった。
「あなたは他人の考えていることをいちいち口に出しているうちに、それらが無意識のレベルにまで染み付いてしまっている。あなたは実際のところ、自身のそういった癖を抑制したいとお考えなのでは?」
「そんなはずは」
さとりは反論しかけたところで、周りがザワザワ騒がしいことに気がついた。ペットたちが周囲に人垣を作っている。食堂の一角で始まった謎の会合を、文字通り嗅覚の鋭い連中が嗅ぎつけたということか。
私室に戻ってから始めればよかった。さとりは自らの軽率さを恥じる。
「そんなことより閻魔様の夢診断をお願いします」
「あら、誤魔化しはよくないですよ?」
「私が自分でも気づかなかった本性を、白日の下に晒されたのです。あなた様も、同じ気分を味わってみたらよろしい」
「さて、そんなものが私にありますかどうか」
ドレミーはそんな映姫とさとりのやり取りを、黙って聞いていたのだが。
「ずいぶんと仲がよろしいようで」
「「誰と誰の仲がよろしいと?」」
「そういうとことかです。あと、閻魔様も油断は禁物ですよ。現にあなたはこれら弾幕の夢を、まるで覚えていらっしゃらない」
映姫が口ごもった。ドレミーはその隙に机の上の写真を漁る。
「では続いて、閻魔様の弾幕を見てみましょう。これなどよろしいのでは」
写真の一枚を前に出す。映姫が一人で写ったものだった。詰め襟の制服に冠を被り、三本の柱状弾を放っている。映姫はそれを見せられると、眉をしかめた。
「撃った記憶にないのはもちろんですが、ずいぶんと薄い弾幕に見えます」
「なかなか珍しい弾幕ですよ。このあたりをご覧ください」
ドレミーが指で差した場所には、柱状弾と誰かの弾幕が交錯しているところが見えた。奇妙なことに丸弾であったそれは、柱状弾を境としてより細かな米粒弾へと姿を変えている。
「これは」映姫の眉間に、しわが増えた。「弾幕裁判の一種でしょうか。弾幕を、対戦者相応の罪へと変じる」
「らしくない、と考えてらっしゃいますわね、閻魔様」
今度は、さとりのほうが口を挟む番になった。
「弾幕裁判なら、私も食らったことがあります。あれは元ある弾幕へ、さらに罪を継ぎ足すというえげつないものでした。対してこの写真では、別の弾幕に変えているというだけ。まるで弾幕を通せんぼしているようではありませんか」
映姫は依然、口を固く結んでいる。代わりにドレミーが口を開いた。
「そう。夢の閻魔様の弾幕は、私の目から見ても優しい弾幕でした。まるで対戦相手をいたわるかのような」
映姫がドレミーを上目遣いににらむ。
「相手の罪状によってはそのような弾幕になることもあると思いますが」
「そうですね。当時の菫子が置かれていた状況は、むしろ同情の余地すらあるものと言えます。それにしても閻魔様の弾幕が、有情に満ちていたことは明らかです。私の見立てでは、彼女を説教したくなかったようにすら見えましたよ」
映姫は目を伏せて、小さく息を吐いた。
「灰色決着ですね。この夢診断は、状況を鑑みた推測にすぎません。夢の世界は浄玻璃に映らないので、真偽を定める手段もない」
「やれやれ、先程は面白がって家主様の本心を推察していたというのに」
ドレミーは手の上で夢魂をもてあそんだ。
「夢の世界の住人は、現実よりちょっと情緒不安定で、また自分の本心に忠実でもあります。そんな住人が放つ弾幕こそ、あなたがたの偽らざる本音」
ずずい、と身を乗り出す。対する映姫とさとりは、姿勢を正していた。
「あなたがたが、この診断をただの推測と疑うのはもっともなこと。しかし夢のあなたがたが読心をもってしても、浄玻璃審判をもってしても見通せぬ振る舞いをしていたこともまた事実。ならばあなたがたの本心とは、いかなるものなのでしょうね?」
周囲のペットたちの、ザワザワ言う音ばかりがしばらく聞こえた。
再び口を開いたのは、映姫だった。ふ、という含み笑いとともに。
「どう推理したところで眉唾なことに変わりはありません。家主をご覧なさい。彼女が心を読んだ結果を一切口にしないなんて、考えられませんよ。三日と持たないのではないですか?」
くす、とさとりが笑う。
「心を読む能力は、口に出さずとも素晴らしいものですわ。閻魔様こそ、なにかにつけて重箱の隅をつついては説教をお始めになる。これはそう簡単には止められないのでは?」
映姫とさとりは椅子を互いの方向に向けて座りなおした。それは彼女らが同じ卓につくことを嫌う、いちばんの原因が始まってしまった瞬間だった。
「重箱の隅つつきではありません。豊かな死後を迎えるための教示です。せずば死後の罪状は、より重いものとなる。あなたのような減らず口はなおさらです」
「饒舌はサトリ妖怪なればこそ。そちらこそわざわざ此岸まで出てきて説法たれておりますがそんなことする閻魔なんてあなた様くらいですわ。あなた様のようなワーカーホリックに手を焼いたからこそ、是非曲直庁は長期休暇を導入したのでは?」
ペットたちが拳を作って口論の行く末を見守る。
「長くなりそうですか?」
ドレミーが二人の間で、そうつぶやいた。
「ドレミーさんの夢診断を立証する方法を、たった今思いつきました」
「面白そうですねえ。みなにわかるように、口に出して説明していただきましょうか」
映姫がさとりをにらむ。
「我慢比べをしましょうか。私は説教をしない。あなたは心を読んだ内容を口に出さない。より長く押さえることができた者を勝者とするということで」
「互いのイドとなっているかもしれないものを、どれだけ抑え込めるかということですね。いいですわ。その勝負、受けて立ちましょう」
ペットたちが大いに沸き立った。さとりは口許を思いっきり吊り上げる。
「閻魔様が負けた場合は、地霊殿の誰もが恐れる浄化槽の清掃をやっていただこうかしら」
ペットたちがどよめきに満たされる。四桁にのぼるペットの不浄が集まる、地霊殿屈指の凶悪スポットだ。清掃担当を輪番にしてもなお、拒絶反応を示す者があとを絶たない。
しかし映姫は動じない。
「それでは私が勝った場合は、あなたが死後受けるであろう責め苦の一部を負っていただきましょうか。是非曲直庁職員食堂特製『摩訶鉢特摩』の強制チャレンジ権を」
さとりの額に汗が浮いた。第三の眼を通して見えたのは、溶岩のように赤い液体で満たされた近づくことすらはばかられる丼である。
「十王様すら恐れる、伝説の蒙古タンメン。一口食しただけで全身に絶対零度の感覚を覚えるどころか、全身の穴という穴から血を吹き出し、一面に紅蓮の花が咲き乱れるという」
「怖気付きましたか? 取り下げるなら今のうちですが」
さとりはハンカチを素早く取り出し、額の汗を拭い取った。
「ご自分の心配をなさったほうがよいと思いますよ。この館には、懲りない素行不良ペットもいっぱいおりますからね。果たして閻魔様がどこまで説教抜きで耐えられますやら」
「あなたこそ、ホーム・ディシジョンにあぐらをかくべきではありませんよ」
映姫は浄玻璃に加え、悔悟の棒を取り出す。
「あなたは少し、私の審判を甘く見すぎている。この際ですから彼岸に立つ者の精神を、身をもって体験させてあげましょう」
「よいのですか? 開始となれば、そんな説法ですら飛ばすことはできませんよ」
そのまま二人して、にらみ合う。
ペットたちは、二人の間に立ち上るどす黒いオーラのようなものを見た。
「早くも戦闘態勢ですね。なんか私が煽ったようになってしまいましたが」
ドレミーが二人に声をかける。
「審判役とか必要です?」
映姫とさとりがいっせいに振り向いた。映姫は浄玻璃を、さとりは第三の眼を片手に持って。
「「必要だと思います?」」
「失礼しました。それで、いつから始めます? 開始の合図とか必要ですか?」
映姫とさとりは互いに目配せする。
「この食堂を出てから先、ということでいかがですか?」
「けっこう。せいぜい最後の食事を、ゆっくり楽しむことです。私は先に出てゆうゆうと待ち構えることにしますので」
「あなたこそゆっくり済ませればよろしい。それで負けたら言い訳がききませんけどね?」
映姫とさとりの間で、新たな火花が散ったように見えた。次の瞬間、二人は各々のトレイにかじりつき、残った食事の消化にとりかかる。
ドレミーは咀嚼を無言で続ける二人の姿をしばらく眺める。やがて彼女は、テーブルの上に散らした写真をかき集めた。
「まあ、私としては本来の目的を果たせましたし。どっちが勝とうと関係ないんですけどね」
§
その翌日、地霊殿の奥まった場所にある、さとりの私室。
お燐と、家畜担当のボーパルバニー、館内メンテナンス担当の殺戮ベアが肩を並べ、執務席に座るさとりの姿を見下ろしていた。
彼女は食事直後のハムスターみたいに頬を膨らまし、赤い顔を震わせる。
ペットたちの頬に、紅が浮いた。
(可愛い)(可愛い)(可愛い)
「さっきの話を聞いていたかしら?」
「ええ、もちろん(可愛い)」
「報告はしばらくの間、書類と口頭でよろしくお願いしたいのだけれど」
「「「了解しましたー(めっちゃ可愛い)」」」「早く」
早くも喉から「可愛い言うな」というツッコミが、うっかりまろび出ようとしている。条件反射的に相手の心中を口に出してしまう癖は、十分に自覚していたつもりだった。しかしここまで意識しないと我慢できないのは、正直予想外。
(あらあら、早くも家主様はギブアップかしら)
ペットたちの後ろから、挑発的な心の声が飛んできた。さとりは彼女らの肩越しに、それをにらむ。映姫が昨日と同じく、シエスタに興じている、ように見えた。
(ああうるさいうるさい。こんなものはじきに慣れますよ、慣れ)
強いて目前の報告に意識を集める。その間も何度かペットたちの心を反芻しそうになるので、なかなか頭に彼女らの言葉が入ってこない。
(不公平ですわ、私ばっかり。早いとこ説教タイムが来ればいいのに。こういうときにこそ、超絶鳥頭なあの子のうっかりが頼りなのだけれど)
と、さとりが思うが早いか。左右で音の異なる駆け足が、部屋に近づいてきた。
バターンと威勢のいい音とともに、空の長身が現れる。
「さとり様、すみません、遅れました!(寝坊しました!)」
さとりは空を執務席からにらみ上げた。多少の安堵を覚えながら。
「廊下は走らない。入る前に扉は二度軽くノック。何度注意したかしら、お空?」
「はっ、すみません! 何度目でしたっけ? (何度目だったっけ!)」
あたふたと指を折り始める。本来は両手じゃとても足りないのだが。さとりは顔面の筋肉が、いくぶんゆるむのを感じた。
「あなたを見てると気が楽になるわ」
「よ、よくわかんないけど、ありがとうございます! (ありがとうございます!)」
空の様子を眺めて微笑みながら、さとりは考える。
(ここで普段の閻魔様なら「甘いですね家主は。そう、あなたは少し物覚えが悪すぎる」って説教が始まってもおかしくないのだけれど)
一抹の期待をもって、映姫を見た。
映姫はソファーの上で、死体のように横になったままだった。
お燐が目を丸くして、映姫の様子をうかがっている。
一方のさとりには、驚きはなかった。
(やはり、その手できましたか)
さとりの第三の眼が、映姫の心をのぞいた。「嘘をついている」「叛意を持っている」などの文字が記された無数の四角形が、白い大地の上に整然と並ぶ。それらは「是」と記された白い矢印、「非」と記された赤い矢印でつながっている。ルートの一つが明滅し、その末端には「白」「黒」の文字。ルート最後の四角には「徳の説示が必要」と記され、赤い矢印でもって「黒」に通じる。
この途方もないイエスノー占いこそが、絶対にぶれないとされる「白黒はっきりつける能力」を心象風景化したものである。
(白黒の定義が増補されている。ぶれない白黒公式の外側に「説教は黒」という判断を新たに加えたことで、閻魔様はあらゆる罪をスルーすることができるようになったのだわ)
さとりの顔から、笑みが消え失せた。
(やはりこの勝負、能力でイドに干渉できる閻魔様が圧倒的に優位。だけどこの館には罪深いやつが、ごまんとひしめいているわ。どこまでイドに抗えるのかしらね?)
さとりはそこで、首に何かが巻きついているのに気がついた。同時に頭上から声がする。
「深刻そうな顔してるわー、お姉ちゃんてば」
さとりは息を軽く吐き出すと、首に巻きつくベージュ色の袖を握りしめた。
「こいし、部屋に入ってくるときはノックしなさいと言っているじゃない」
「ちゃんとしたよー? 誰も気づいてくれなかったけど」
ペットたちがガタガタとのけ反る。彼女らもようやくこいしがさとりに後ろから抱きついてるのに気がついた。
昨日のドレミーの話を信じるならば、今のこいしは情緒不安定で本音のままに行動する夢の住人ということになる。しかしいくらなんでも大胆に過ぎると、さとりは思う。普段だったら映姫から逃げ回って、滅多に出てこないくせに。
さとりは映姫を指し示した。
「ほら、お客様もいらっしゃるんですから。ちゃんと挨拶しなさい」
「こんにちは、閻魔様ー」
ペットたちは映姫に振り返って、本能的に震え上がった。ソファーで体を起こす彼女からは、憎悪の炎が立ち上っているようにすら見えた。
(黒黒黒黒黒黒黒黒こんなときに目ざとく出てくるとはいい根性してるわ黒黒黒黒)
サトリ妖怪の能力を捨てたこいしは、映姫からすれば全身罪の塊のようなものである。
(効果は抜群だわ。これはどうかしらね)
さとりは自身の心臓の高鳴りを感じながら、映姫の反応を待った。彼女はソファーから立ち上がると、さとりたちを見た。
「こんにちは、こいしさん。申し訳ありませんが時間なので、そろそろ庭仕事に向かいますね」
「えー、お話とかしないのー?」
さとりは舌打ちを押し殺した。映姫がスニーカーにはき替えてテラスから外に出る様子を、無言で見送る。サトリ妖怪を捨てた大罪妖怪を前にしても、映姫の白黒は歪まなかった。
首に巻きついた袖を軽く叩く。かすかな汗の匂いがした。
「ちゃんと着替えて、お風呂入っていらっしゃいね」
「はーい」
こいしの腕を解く。そこに燐が歩み寄ってきた。
「分が悪くないですか、この勝負」
「慣れれば大丈夫よ、多分。そしてそれは閻魔様にとっても必要なこと」
「そうですかね? どう見てもどこ吹く風って感じですけど」
「あなたにはそう見えるのかしら?」
燐は首を傾げる。その間もさとりは映姫の行動を思い返していた。さとりのペット放任主義に対して説教する映姫や、さとりの怠惰な引きこもり生活に対して説教する映姫やなどた。
(都度黒を白へ正すことに熱意を傾けてきたあなたが、その習性を捻じ曲げることなど簡単にできるわけがない。この勝負、あなたが思う以上に削り合いとなりますわ)
§
地霊殿の中庭は建屋の敷地を三桁集めた程度の広さがあって、全ての手入れにはまる一年を要する。基本的にここの庭師たちはみな怠慢で、その日も伐採担当鎌鼬や耕作担当土竜が脚立を椅子がわりにして煙草を吹かすなどしていた。
そこに軍手を装備した映姫が戻ってきた。ペットたちはピタリと動きを止め、動向を見守る。
映姫はペットたちの前を通り過ぎると、剪定鋏を手に取った。手近な地獄アカシヤの植木に陣取って「白、黒、白、白、黒」とつぶやきながら枝を落とし始める。
ペットたちは無言で見守っていたが、しばらくすると顔を見合わせ、煙管をしまい込んだ。彼女らは次々に仕事へと戻っていく。全員が働き出すまで、数分も要らなかった。
高枝切り鋏やスコップを動かしながら、声を潜める。
「今日の持ち回り分は終わったことを盾にするんじゃなかったの?」
「そうなんだけど。同調圧力ぱない」
「だよねえ」
彼女らはゆっくりと振り返り、映姫を見た。相変わらず順調に剪定を続けている。と。
「ふう」
何人かがガタガタと道具を取り落とした。その音に、映姫が振り返る。
「なにごとですか?」
「どどど、どうしたんですか、閻魔様」
映姫はしばらくの間、目を見開いてペットたちを見た。
「ん。いやその、失礼。思いの外、大きなため息が出てしまいましたか」
言って、映姫は再び剪定に戻った。ペットたちはしばし無言でそれを見守る。
かすかに首を傾げているようにも、見えないことはなかった。
§
その数刻後。食堂で燐は映姫の話を聞き、ポークソテーをつつくフォークを止めた。
「閻魔様の様子がおかしかったって?」
燐の向かいに座る庭師ペットたちが、しきりに頷いた。
「ため息、一回だけじゃないんだよ。本人にもその自覚がなさそうな感じで」
「ふーむ」
燐は顎をしゃくり上げた。
(表向きは平気にしているけれども、裏では説教したい欲が溜まり続けてるってことかい? さとり様も勝算めいたことをおっしゃってるし、もしかしたら気づいておられるのやも)
「どうしたの?」
ペットたちの呼び声に黙考を止められた。燐は彼女らを手招きして、肩を寄せる。
「お前たち、あたいらはさとり様のなんだ?」
「忠実なペット」
「閻魔様のお不浄掃除と、さとり様が激辛タンメンで悶絶するの、見たいのはどっち?」
「閻魔様がやっつけられてるとこ」「でも、さとり様がすごい顔してるとこもちょっと見てみたいかも」「おい」
「あたいも閻魔様が白黒つけられるところはぜひとも見てみたい。でもって今の話を聞くに、閻魔様につけ入る隙はあると見た」
燐は歯を見せて笑った。
「ちょいと、試してみようじゃないか。あんたらも手伝ってくれないかい?」
§
さとりは自室の天井を見上げ、大きく息をついていた。
(だいぶん我慢にも慣れてきたわね)
目線だけを室内にさまよわせる。ソファーの上では、昼食を終えた映姫が横になっていた。見かけ上の彼女に変調は見られない。当然、心の中も。
そこに、扉をノックする音が聞こえてきた。
「さとり様、お時間大丈夫です?」
「大丈夫よ、お燐」
燐はクリップボードを抱えて、さとりの前にやって来た。後ろ手に、ソファーの映姫を指す。
「聞いてますけど、どうします?」
「閻魔様に聞こえて都合の悪い話などあるのかしら?」
「では(さとり様、ちょいと無礼をさせてもらいます)」
燐がクリップボードを掲げる。気になる心の声とともに。
(え?)
「本日の怨霊管理について報告します(副音声にて真の報告をさせていただきまーす)」
さとりは真顔を保つのに躍起になった。これは部外秘情報を彼女にだけ伝える高等伝達手段。数いるペットの中でも、お燐のように器用で頭も回る一部の者にしか使えない裏技だった。
(いったい何を始めるつもりなの?)
燐は涼しい顔をして、報告書を読み上げ始めた。さとりが顔をしかめてそれを聞く。
「新規怨霊の第七地獄釜への全百体の搬入が終わりました(しかし実態は百五十体です)」
さとりの頬がこわばった。
「今のとこ希少金属の抽出量は平均的。順調に産出を続けております(残り五十体については、オーバーホールの終わった第五地獄釜に移動。試験運用名目で抽出をやっとります)」
さとりのこめかみに汗が浮き上がった。
「抽出済み金属はいつも通り種類ごとに分類、鋳造部門に回しました(第五のほうも同様ですが個別に鋳造に回して旧都で売却。ペットの遊興費として使わしてもらいます)」
さとりはシャツの下にも汗の感触を覚えた。普段ならば絶対に許されない横領行為だ。燐は自分のやってることをわかっているのか。
第三の眼で真意は伝わっているが、口に出してないことを叱責するわけにはいかない。拳を握りしめて、燐の顔を見上げる。
「ほ、報告ご苦労様」
§
静まり返った室内の片隅で、映姫はソファーに横たわったまま薄目を開けて手元に浄玻璃を取り出していた。
(なるほど)
浄玻璃に映っているのは、燐がこれから犯そうとしている罪の実態である。
さとりの尋常ならざる様子を見て、察しがついた。同時に、燐の小賢しい策略にも。
(普段は絶対にできない悪事を私の前で見せることで、私の『黒』を誘おうという魂胆ですか)
しかし、無駄である。映姫がこの場での徳の説示を『黒』と定義した以上、不正を犯そうとしている燐を、それを見逃そうとしているさとりを説教することは絶対にない。
さとりもそのことをわかっているはずだ。彼女自身も燐の罪を見逃したことに対する嫌悪感に苛まれることになる。燐の小細工は諸刃の剣にも等しい。
ソファーから立ち上がる。さとりはゆるゆると、首をこちらに向けてきた。
「あら閻魔様、どちらへ?」
「そろそろ休憩時間も終わりですので。庭師の仕事に戻らせていただきます」
さとりと燐が無言で見守る側で、スニーカーをはく。
(ご安心なさい。あとであなたが降参してから、存分に説教して差し上げますから)
心の中でそうさとりに告げると、テラスに向けて歩き出す。
歩き出そうとした。
「え」
気がつくと、カーペットがすぐ近くに見えた。映姫はそこに膝をついている。
「えっ」
両手両肩に、かつてない重さを感じる。
「どうしました、閻魔様?」
燐の声が、ずいぶん遠くから聞こえたような気がした。
瞬きして、正気を保つ。
(これは、ダメージを受けている? 説教を制限することが私自身に、負担を?)
燐とさとりを見た。さとりが目を見開いて、こちらを見ている。
「なんでもありません」
強いて、体を起こした。休憩の直後とは思えないほど、体が重い。
(じきに慣れるわ。こんなことで倒れるなんて、閻魔の恥になる)
映姫は背後になお視線を感じながら、テラスへ出ていった。
§
さとりは映姫の背中を見送りながら、考えた。
(やはり。イドのレベルにまで到達した説教を、能力で無理矢理抑えつけるのにはそれなりのリスクがあったということ。でも、まさかあそこまでとは)
さとりは拳を握りしめた。
(しかしあのかたが、簡単に自らの戦術を曲げるとは到底思えない。この勝負、下手をするとどちらかが倒れるまで続くことになるかもしれないわ)
(こっ)
心の声に気がつき、顔を上げる。燐が窓の外に顔を向けたまま、小さく震えていた。
ひどくいやな予感がした。
(これはもしかして、そうとう有効なのでは?)
燐はくるりとさとりに向き直る。
「それではさとり様、あたいはちょいと席を外させてもらいます(待っててくださいねさとり様。みんなでさとり様に勝利を導いて差し上げますから)」
「お、お疲れ様」
馬鹿なことはやめろ。燐にはそう言ってやるべきだったのだろうか。
しかしさとりもまた、この勝負に勝ちたい気持ちが少なからず残ってしまっていた。代わりに出てきたのは、思いもかけない言葉である。
「ゆっくりと休んでちょうだいね?」
「了解いたしました(これから忙しくなりそうですがねー)」
扉から出ていく燐を無言で見送る。
(符丁が通じてない。これは、本当に大丈夫なのかしら?)
§
地霊殿の片隅にある食糧倉庫に、十数人のペットが集まっていた。小さなランプに燐の顔が照らされる。薄暗いが、夜目がきくペットが多い。
「みんな集まってるね? そんじゃざらっと作戦の要旨を説明するよ」
作り付けの黒板に指示棒を向けた。
「作戦と言っても、やるこたぁ単純さ。閻魔様が説教したくなるような罪を、あえて閻魔様の前で犯す。あくまでさとり様には内緒という体でね。さとり様も勝負がかかってるからまあ、しばらくは目をつむってくれるだろう」
「どんな罪を見せればいいのかな?」
「地獄に落ちる程度の罪は、わりと多い。代表的なのが殺生。食うために生き物を殺すとか、ハエや蚊を落とすのも殺生だ。他には盗み、邪婬、飲酒、嘘、その他諸々」
ペットたちは説明を聞くと、顔を見合わせた。
「わりとやってそうな話だよね」
「そういう小さいことから気をつけてないやつは極楽に行けないってことさ」
用水担当蛟が手を挙げた。
「質問。お空は呼ばなくてもいいの?」
燐が固まった。現在、あの忘れっぽい地獄鴉の姿は倉庫の中にない。今ごろ灼熱地獄の底で、火力調整に勤しんでいるところだろうか。
燐はしかめっ面を作って、指で頭をつついた。
「あー。お空は今回の作戦に向かないから」
「わりとわからんでもない」
ペットたちが失笑する。八咫烏と同化したことで凄まじい火力を得た彼女だが、肝心の鳥頭は今のところ全然改善されてない。
「よくも悪くも馬鹿正直だからねあいつ。悪気がないのはわかるんだけどさ」
「こちらの話に興味を持ってきたらどうする」
「あとであたいから謝っとく。長い付き合いだ、きっと許してくれるだろう」
どん、と燐は黒板を叩き、ペットたちを見すえた。
「そもこの勝負、閻魔様が降参すれば全ては丸く収まる。一刻も早くまいったを言わせるんだ。さとり様のために!」
「おお!」
そもペットたちは、特に人化した連中は、さとりに対する忠誠心がとても高い。「さとり様のために」という言葉は、殺し文句としてめっぽう効いた。
かくしてさとり自身の気持ちは伝わらないまま、ペットたちはエスカレートする。
致命的な勘違いを重ねたままで。
§
食堂の片隅で、ペットたちが何人か顔を寄せ合っていた。
給仕の一人がデキャンタを他の連中に掲げてみせる。いっぱいに詰まった、赤い液体。
「デデーン、無許可密造酒~」
「おおー」
「旧都じゃ度の低いワインはウケが悪いから、おろし場所がなくて困ってたのよね」
「ちょっと、あなたたち」
割り込んできた声。ペットたちが肩を縮み上がらせる。さとりは人垣へ強引に押し入ると、給仕のデキャンタを指し示した。
「それは何かしら?」
「ぶ、葡萄ジュースですぅ(本当はお酒ですが)」
「いいわね。試飲させてもらえる?」
給仕がワインをミニグラスに注ぐ。
(さとり様は、黙っててくれるかな?)
(きっと黙っててくれるよ。勝負のためだし)
そんなペットたちの心の声が、さとりにはひっきりなしに聞こえてきた。頭痛を覚える。
(つ、強く出られない。この子たちなりに私を思ってやってるんでしょうけれど)
ミニグラスの中身は、いくぶん渋味が強すぎた。口許をハンカチでぬぐって口を開く。
「仕事前の飲酒は許可されていないわ。生産性を損なうから。わかってるわね?」
「も、もちろん(迷惑にならないようにやりますんで!)」
不意に、外野が騒がしくなった。給仕が様子を察して、デキャンタを隠す。
映姫が若干体を引きずるようにして、食堂に入ってきた。顔色も心なしか、青白い。彼女はカウンターに歩み寄って、給仕たちに声をかけた。
「少し食欲がすぐれません。粥をお願いできますか」
「あ、はい」
さとりは映姫の様子を遠くから見守った。彼女は給仕から粥を受け取り、手近なテーブルについて少しずつそれらを口に運ぶ。
(じきに慣れる。普段滅多にやらないことに対して、体が驚いてるだけ。これは慣れる)
そんなことを心の中で言い聞かせているのが、さとりにもよく聞こえてきた。
(だいたい予想通りの展開になってきてしまったわ)
§
さとりは映姫と別に食事を終えた。
ペットたちは映姫の前で、あからさまな悪事を成しつつある。あくまでさとりに内緒という体なので、こちらから叱ることができない。
(これはもう、私の負けでいいのでは。あんな閻魔様を見ていたら、忍びなくなってきたわ。取り返しのつかないことが起こるくらいなら、私が激辛タンメン一杯我慢する程度のこと)
ふと、通路の片隅を見る。ペットたちが数人、顔を寄せ合い話し合っていた。
食堂で見た構図とまるで一緒だ。
(けっこう効果あるんじゃないの?)
(もっと悪いことでも試してみようか)
心の声を聞いたところで、脳天が熱くなるのを感じた。
次の瞬間には、その一団に向けて足早に詰め寄っていた。
「ちょっと、あなたたち!」
「は、はいい?」
人差し指を振り上げ、口を開けたままペットたちの顔を凝視する。不安に満ち満ちた顔を。
(え、どうして?)
(さとり様、喋ったら負けちゃいますよ?)
さとりの額から脂汗が再び流れて、モザイクタイルに雫を落とした。
「体に気をつけてね?」
「は、はーい」
ペットたちは急ぎ足でその場を立ち去った。さとりは手を振り上げたままの姿勢で固まる。
しばらくして、彼女はその場に崩れ落ちた。
(叱れて!? あの子たちを。あの子たちの心を私に裏切れと!?)
両手両足を床についたまま、無言の葛藤を続ける。
犬猫が何匹かさとりの姿を認めて、その手足をなめた。
§
翌日、倉庫では再び燐を始めとするペットたちが顔を合わせていた。
「閻魔様もだいぶんグロッキーになってるよ」
「あともう一押しすれば、いけるんじゃないかな?」
「うむ」
お燐は拳を握りしめる。実際映姫の憔悴は目に見えて明らかだ。
「でも、さとり様も辛そうにしてる」
「早く楽にして差し上げないと」
「ふーむ」
お燐は思案した。映姫はさておき、なぜさとりも様子をおかしくしているのか?
「さとり様もきっと、慣れないことを我慢してお辛いのだろうね。決着を急がんといけないよ」
「じゃあ、どうする? 悪事を続ける?」
「いや」
お燐はさらに考えた。
「あんまりさとり様が長く苦しむのはいけない。一気に決着をつけよう。そのためにはもっと派手な悪事を、どーんと起こさないといけないね」
「例えば、どんな?」
「ちょいと、耳貸しとくれ。例えばだね」
§
旧地獄街道に、提灯の列が並ぶ。
建屋のそこかしこから鬼が顔を出し、盃を手に笑い騒ぐ。しかしその様子は、空元気で単純に声を張り上げているだけのようにも見えた。
お燐たちが目指したのは、その旧都の中心部にあるひときわ大きな酒屋であった。
(あとしばらくのご辛抱です、さとり様。閻魔様へのもう一押しには、間違いなくもっと大きな「黒」が必要なんです)
飲み屋の最上階。屈強な鬼たちが燐たちの周りに円を作り、酒を酌み交わしていた。
「ほーう。地霊殿がそんな具合になってるとはねえ」
鬼の四天王が一人、星熊勇儀は盃を傾けながら燐たちの話を聞いていた。
「ついては、ぜひ姐さんの力も拝借したく。なんとしても閻魔様にまいったを言わせるために」
燐は勇儀に対して、頭を下げる。対する勇儀は盃を少しあおってから燐を見た。
「たしかに、そいつぁ見ものだ。よかろう、うちの手勢を『悪事』に加担させてやろう」
「おお、ありがたい」
「だが」
勇儀が顎をしやくり上げる。
「うちの連中に生半可な演技をさすわけにもいかん。嘘はつけないからね。だから、ちょいと段取りは仕切らせてもらうよ」
「へ?」
燐の頬がこわばった。次の瞬間、鬼数人が立ち上がって燐とペットたちを素早く取り囲んだ。
「へ?」
§
一方の地霊殿。さとりは執務机に突っ伏し、映姫はソファーでうつ伏せになっていた。双方、疲労の色が濃い。さとりは身を起こし、くまの浮いた目で映姫を見る。
「そろそろ音を上げちゃくれませんか、閻魔様」
「ご冗談を」
映姫もまたソファーの上で四肢をいっぱいに使い、体を持ち上げた。
「イドを抑制がかなりご負担になっているのでは? 無理をなさらぬほうが身のためです」
「あなたこそ、そうとうまいっておられるようですが?」
さとりと映姫は、据わり切った目で互いをにらみ合った。
(いい加減折れなさい。これ以上ペットたちに悪行を積ませるのを黙認していては、彼女たちを説教するだけでは済みませんよ?)
(閻魔様こそいっそ、そうなさってはいかが。あの子たちの振る舞いはいわば必要悪。それを無碍にすることは主人としてやってはならないこと)
文字通り無言の応酬を繰り広げる。意地の張り合い。千日手。誰かがこの様子を見ていたら、双方が倒れ伏すまでこの戦いが続くのではと思っただろうか。
均衡を崩したのは、さとりだった。突然に中空を見上げ、左右を見回す。その動きに映姫も目を見張った。どこかで、誰かが、まずいことを考えている証。
やがてさとりは、頭を抱えて震え始めた。片言のような言葉を吐き出しながら。
「ああ」「まさか」「いや」「そんな」
「家主?」
映姫がソファーから転がり落ちる。ポケットから浄玻璃を取り出し、さとりを鏡面に捉えた。
さとりが見た罪を、浄玻璃が映し出す。
§
旧都中心部に、殺気が集う。
屈強な鬼たちが十字路の四方から、無法者集団となって次々に押し寄せつつあった。武器と呼ぶにはあまりにも大雑把な金棒や大金槌、丸太などを抱えた者もいる。
十字路の角に建つ飲み屋の最上階、肘掛け縁に勇儀が腰掛け、盃を片手に戦場が形作られていく様子を見守っていた。背後に控えた鬼たちが、勇儀に尋ねる。
「姐さん。東西の勝敗が決したらどうします?」
「南北に組み分けし直してもっかいやりゃいいだろ」
「ちょっと、姐さん!」
さらに後ろから、畳を叩く音。燐を始め地霊殿のペットたちが、鬼に取り囲まれて身動きの取れない状態に追い込まれていた。
「なんでいきなり、戦争始めることになっちまってるんですかい! 誰もここまでやってくれなんて言っとらんでしょ?」
しかし勇儀は、燐のほうを見向きもしない。
「いいんだよ。いい加減やつらの欲求不満は限界なんだ。切っ掛けは、なんでもよかった」
燐は肩口にまで迫った鬼の金棒を握りしめた。鬼の怪力で押さえ込まれた金棒は、びくともしない。それらが檻のように連なって、燐とペットたちの動きを完全に封じ込めていた。一人の片手には燐の使い魔、ゾンビフェアリーが首根っこをつままれてジタバタしている。
「悪いが、さとりに知らせさせるわけにはいかん。しばらくやつらの喧嘩を観戦しててくれ」
「そんな」
燐は愕然とする。勇み足がすぎた。加減を間違えたのだと、今さらながら悟る。まさか自分の軽率な行動が、地獄大戦争の火蓋を切ってしまうなんて。
(なんてこった、絶対にやばい。これは閻魔様とさとり様のお説教どころじゃ済まないよ!?)
§
さとりは旧都から飛んでくる憎悪を聞き終えると、ゆっくりと立ち上がり呼び鈴を鳴らした。
「お空を呼びなさい。先に出るので、すぐに着いてくるようにと」
スリッパをブーツにはき替える。映姫は浄玻璃をしまい込むと、さとりを見た。
「どこへ行かれるのですか」
さとりは無造作に扉へ歩み寄る。
「少し外の空気を浴びたくなっただけですわ」
「万年引きこもりのあなたが、珍しいことです」
映姫もまた立ち上がって、さとりの背後に続いた。
「あなたが着いて来なくてもよろしいのですが?」
「私も少々体を動かしたくなったもので」
「なんか足がふらついてますが?」
映姫とさとりが、通路に出る。放し飼いの犬猫たちは彼女らを見て、そそくさと走り去った。二人のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか。
二人の足取りは、徐々に早まっていった。エントランスホールを通り抜け館を出るころには、それらは土煙を上げるほどのダッシュへと変わる。
((あの馬鹿者どもがっ!))
土煙の晴れたあとに、棒立ちの空が残された。
「あのさとり様、着いて来いって、どこへー?」
§
再び、旧都。二群に分かれた鬼たちが、道の両脇にずらりと並ぶ。彼らは殺意剥き出しで、すぐ向かいの相手同士にらみ合っていた。
殺気は酒屋の階上にも伝わってくる。燐はそれをひしひしと感じた。苦し紛れに勇儀へ問う。
「あの、本当に始めちまうつもりですかい?」
「なんなら加わってもかまわんのだが?」
「いや、それは」
勇儀は肘掛け縁からひときわ身を乗り出した。号令じみて右手を上げる。
「では、みなのし「ちょっと待ったああああ!」
二群の間を割るように、映姫とさとりが一直線にやってきた。彼女らは猛然と飲み屋の前まで来ると、急ブレーキをかけて背中合わせに鬼たちをにらみ回す。
「私たちの私的な小競り合いに便乗するのはやめていただけませんか!?」
「あなたがたは少し、軽率すぎる!」
たった二人の小さな乱入者が、巨躯の鬼たちをも縮み上がらせた。かたや地底一の嫌われ者、かたや誰もが恐れる地獄の裁判長である。
さとりは第三の眼を掲げ、鬼たちを見回した。
「なるほど、揃いも揃って喧嘩する口実が欲しいだけですか。鬱憤を溜め込む理由を、端から全部読んで差し上げましょうか?」
場の鬼たちが尻込みした。燐は鬼の動揺を突いて金棒をすり抜け、出窓から顔を出した。
「さ、さとり様。んなことやったら、勝負は」
「おー、りー、んー?」
燐もまた、さとりの声に肩をすくめる。
「私が口を出さないのをいいことに、チョーシこきましたねー?」
「よ、よかれと思ったんですぅ」
「あなたもです、星熊勇儀!」
映姫が悔悟の棒を上空に向けた。勇儀が自分を指差す。
「こんなことで旧地獄に破局をもたらすものではありません。頭を冷やしなさい!」
「あくまでそうなるかもっていう話だろう?」
「とにかく、戦争は中止です。よいですね!」
すると、萎縮していた鬼たちが再びいきり立った。腕を振り上げ、怒鳴り声を上げる。
「そんな一方的に決められてたまるか」
「そうだ。今さら拳骨を下ろすわけにはいかんぞ」
街道の方々から、次々怒号が上がる。それを聞くさとりの口が、徐々に吊り上がっていった。
「ほう、あくまでも戦争開始を望みますか」
指を口に差し込み、笛を鳴らす。地霊殿の方角から、黒い影が飛び来たった。
「お空、やって」
「了解!」
空は上空に停止すると、左手を天に掲げた。指先に光が集まり、徐々に膨れ上がる。その光は地上にまで届き、旧都全体をまぶしく照らした。
見上げる鬼たちが、口をあんぐり開けている。さとりは真顔を取り戻すと、言い放った。
「どうしても戦争がしたいというのなら、始めさせてあげます。ただしその火蓋を切るのは、全てを焼き尽くす核の炎ですがね」
「冗談だろ?」
「大マジです」
映姫もさとりの背後で、神妙な顔をしている。
「因果応報です。あなたがたが焼き尽くされた荒野で、旧地獄は再生されることになる」
「あんたらも焼かれることになるぞ!」
「こういう事態を招いたのは私たちの落ち度でもある。ともに罰を受けてしかるべきでしょう」
人工太陽の輝きはいっそう激しさを増し、全てが旧都を白く染めようとしていた。
そのとき、ガランと金属音が響く。勇儀が鬼たちを蹴散らし、場へ強引に割り入った。
「ようし、そこまでだお前ら。全員今日は私の顔に免じて引け」
「あ、姐さん」
「文句ならあとで私が聞いてやろう。戦争はお開きだ」
さとりと映姫は、小さく胸をなで下ろした。
§
かくして、閻魔とサトリ妖怪による不毛な我慢大会はうやむやのまま決着を迎えた。
ことを大きくしたペットたち、便乗した鬼たちには、映姫とさとりから平等に説教が与えられた。まとめて地面に正座させて、とつとつとお小言を並べる。
「まったく、少し心を読み上げなくなっただけで、こんなことになるなんて。心を読む程度の力の素晴らしさを再認識できましたよ本当」
お燐は正座の列の中から、おずおずと手を挙げた。
「ところで、あの勝負。結局勝ち負けはどうなるんですかね?」
「あら、まだそんなことにこだわるの?」
鬼どもの説教をひと段落した映姫がやって来て、さとりと肩を並べる。
「私と家主が戦争を止めに入ったのはほぼ同時。ならば、禁を破ったのもほぼ同時です。引き分けということでよいかと思います」
「閻魔様がそう言うなら、仕方がないですね」
燐はまだ腑に落ちていないが、二人ともそれをあえて無視した。
((まあ、そういうことにしておかないと収まりがつきませんから))
§
映姫とさとりはペットたちを連れて地霊殿に戻ると、誰の同伴も許すことなくさとりの私室に入った。さとりは内側から鍵をかける。
「まったく、ペットたちの暴走にも困ったものですわ」
「まあ、あれも飼い主を思ってのことでしょう。まだ情状酌量の余地はあります」
映姫はさとりの目の前を通り過ぎた。悔悟の棒を掲げ直して、向き直る。
晴れやかな笑顔をさとりに向けて、映姫は言った。
「というわけで、次は我々の番です」
「あー、そうきますよね、やっぱり」
さとりの第三の眼は、映姫の本気をいやというほど読み取った。さとりはおろか自分自身ですらも、これから徹底的に裁く気満々である。
若干顔を引きつらせながら、彼女の心変わりを願った。駄目元である。
「今日はもう遅いですし、明日ではいけませんか」
「鉄は熱いうちに打てといいます。それにこれは、あなた一人の問題では」
と、人差し指を立てたところで、映姫が固まる。
さとりもまた凍りついた。第三の眼に映る映姫の意識が、ぷっつりと途絶えた。
次の瞬間、さとりは第三の眼を映姫に向けて投げていた。さとり自身に巻きつくチューブが次々解け、崩れ落ちようとする映姫の体を捉える。
さとりは、チューブを全力でたぐり寄せた。映姫のほうが体格もあり、重い。それでも床と映姫の鼻先が五センチほどに迫ったところで、映姫の体は転倒を免れた。
映姫の体を担ぎ上げ、引きずっていく。さとりはひとまずの目標を、自身のベッドに定めた。
「まったくもう、ダメージを溜め込みすぎですわ。日々の審判よりも重労働だったのかしら」
「私は、この白黒をつけ切るまで倒れるわけには」
映姫はさとりに肩を預けてなお、うわごとめいたつぶやきを漏らした。
「休憩したら思う存分聞いてあげますから、まずは休んで」
さとりは瞬きした。ベッドが幾重にもぶれて見える。彼女自身もまた、体力の限界だった。残り十数センチとなったところで、さとりは何もない床につまづいた。
「やば」
幸いにも柔らかい感触が、さとりの顔面を受け止めた。もはや映姫に結わえつけたチューブを解く体力すら残っていない。二人仲良くベッドに突っ伏した格好だ。
「こんな形で落ちたくないって? 私もですわ」
すぐ横に映姫の熱を感じながら、さとりの意識は闇に落ちた。
§
「もしもし?」
その問いかけが聞こえたとき、さとりは沼より深い暗闇の中に落ちていた。両手両足が重い。
「もしもーし」
声がはっきりしてくるにつれ、自身が今どのような状態か、把握できるようになってきた。何かに顔を伏せている。なぜそうだったのかは、よく覚えていない。
薄目を開けて、正面を見る。よく見知った頭が目の前にあった。
「どうも、お疲れ様でーす」
身を起こすと見慣れない空間だった。グラスやボトルの並んだ棚を持つカウンターが見える。それらを背後にして、あの眠そうな目をした獏が笑っていた。
さとりの目の前で映姫が身を起こし、薄い目で左右を見回した。なぜか彼女の心の声を聞くことができなかったが、それが疑問とすら思えない。
「二人ともお疲れ様でした。どうですか一杯。奢りますので」
ドレミーがカウンターへ戻っていく。そこでさとりは察しがついた。これは現実ではない。
映姫はテーブル席から立ち上がり、カウンターに移る。さとりもそれに続いた。
「夢の世界で奢りも何も」
「どのツラ下げて出てこられたものやら」
「ははは」
ドレミーは平然と笑いながら、夢魂を手のひらでもてあそんでいた。
「勝手に勝負を始めて大騒ぎを起こしたのは、あくまで自己責任でしょう? まあお陰で私は、面白いものを見せていただきましたけどね」
さとりと映姫がうなる。ドレミーはもう片手にシェイカーを取り出し、夢魂を注ぎ込んだ。
「まあー、見物料と言ってはなんですが。あなたがたの疲労が見せるであろう悪夢は私が全て処理しておきますので」
七色に光る得体の知れないリキュールと氷をさらに放り込むと、テキパキと振り始めた。
映姫とさとりは無言でそれを眺める。
「それよりどうです。夢の中なら能力に振り回されることもありません。エゴも通し放題です。とことんイド抜きで語らってみてはいかが」
ドレミーがシェイカーの中身をカクテルグラスに注ぐ。元の材料がなんだかわからなくなるほどの、透き通った青色をしたカクテルだった。
「美味しいお酒でも飲みながら、ね」
映姫とさとりは軽く顔を見合わせると、破顔した。
「まあ、それも」
「悪くはないですか」
二人はドレミーから差し出されたカクテルグラスを手に取ると、軽くカチンと合わせた。
§
翌朝。地霊殿の食堂は、平穏を取り戻していた。勝負が終わったことでもって、給仕たちもこっそり酒を出すことをぴったり自粛した。
さとりは食堂に入ると、周囲を軽く見回した。映姫がカウンターで、給仕からご飯と豆腐の味噌汁を受け取るのが見える。
さとりは視線をさまよわせ、空席を探す。しばらくの逡巡があった。やがて彼女は歩き出し、ペットの列をすり抜け、一つの空席についた。
向かいには、茶碗を前に手を合わせる映姫の姿があった。彼女は顔を上げたところで向かいに座るさとりの姿に気がつく。
「珍しいですね。あなたから座りに来るなんて」
「ただの気まぐれですよ。いつも一人ぼっちで寂しくないのかと思いまして」
さとりは現れた給仕に、オニオンスープとトースト、ヨーグルトを頼む。
「閻魔とは、そういう立場を受け入れるべき者です。あなただって、他者を率先的に寄せ付けないじゃないですか」
「結果的にそうなっているというだけです。孤独を好んでいるわけではありませんよ。そうでもなければペットをこんなに集めやしません」
映姫は、さとりを待たずに食事を始める。
「あら、食事中だからとだんまりを決め込むおつもり? 私相手にそれは無理だとわかってらっしゃいますよね? 勝手にしなさいですか? そうします」
給仕がさとりの食事を運んできた。
§
燐と空はテーブルで向かい合う二つの影を、遠い場所から眺めていた。燐は自分の肩を抱く。
「こいつぁ、槍の雨が降るね」
「地底には雨は降らないよ?」
燐は片手を空中にさまよわせた。
「そうではなく。滅多じゃないことが起こってるってことさ」
「そうかなぁ?」
「何があっても別の机で別にご飯を食べてたあの二人が、今は同じ机で、顔突き合わせて食べている。これはもう、もはや凶兆としか思えないねえ」
我慢比べを通じてどんな心境の変化があったのか。
あの夢のカウンターバーで、二人は何を話したのか。
それは今や、映姫とさとり自身もあずかり知らぬ夢の中に埋もれていた。
(地霊殿に降る雨は何色? 完)
ドレミーがその為にさとりと映姫に我慢比べをさせる理由が良く分からず
ペットの暴走は面白いですが
と思ったけど、そうでもなかった。
とても面白かったです。