「さて、良い知らせと悪い知らせ、どちらから聞くかね?」
例えば、鉛色をした憂鬱な曇り空を、空のずっと上の方から押し込めて圧縮したとする。すると地上には、雰囲気だけで気が滅入ってしまうような、密度の高い憂鬱空間が完成するのでは、なんて。そんな他愛も無い妄想をする者も、ここ三途の川の河川敷にはいなかったけれど。
揺れているのか揺れていないのだか、止まったように凪いだ川面は鈍い燻し銀に輝いて、河と言うよりもどちらかと言うと、むしろ油膜の張った沼地に見える。河川敷さえも砂利の荒れ地で、この辺りには石を積む子供の霊も意地悪な獄卒もいないのか、カラカラと空虚に回る風車さえ見当たらない物哀しさを湛えていた。寂しい、という感想も遠退くくらいに、何も無い。ここ無縁塚近くには、孤立した魂が集まり易い。
ただ、赤い髪の渡し守、小野塚小町だけは、いつものように快活な表情で笑っていた。
そして、小町が声を掛けた幽霊にとっては、小町のことも周囲の景色のことも、認識の外だったろう。
「お約束を無視して、悪い方から知らせよう。お前さん、遠からず消えるよ? まず間違いなく河を渡るのは無理だね」
その幽霊というのが、ほとんど掠れていたからだ。
この三途の河のルールでは、死者は生前の縁や徳で河を渡る。具体的に言うと六文銭のこと。渡し賃も払えない死者を運ぶ殊勝な渡し守はいないし、心の狭い魂は旅路に耐えられまい。小町もそのように考えており、この幽霊のことを、大方、孤独に死んだ偏屈な老人か何かだろうと見立てていた。若い時はどうだったか知らないが、年経てからは文句を言うか威張り散らすか他人を妬み僻むことしか能が無く、疎まれ避けられ、ロクな死に方をしなかったと見た。最近、そんな死に方をする人間が異様に増えていて、小町のその辺りの考え方は、非常にドライだ。──つまり、こんな人間は、容赦なく見捨てても良い。哀れな、と思うにも、それ以前の同情に値しない。だったら声なんぞ掛けなければ良いのだが、小町は殊勝な渡し守かどうかはともかく、変わり者の渡し守ではあった。
そして幽霊の方はと言えば、意識があるとは言えない僅かな意識未満の認識を、砂嵐のようなノイズに占められていた。もし仮に生前のままの認識があれば、鼓膜に張り付いたような騒音に、頭皮を掻き毟ってしまいとか、感じていたかも知れない。
ザーーーーッ、と。
片時も絶えることなく、頭の中には砂嵐。まるで、柔らかいピンク色の脳味噌に砂粒がぺちぺちと吹き付けるみたい。
生きてる人間でもノイローゼになりそうな騒音は、実際の所、ただでさえ弱い魂を更に痛み付ける形で弱めていた。思考する力さえあれば、この苦痛から逃れるためならば地面に額を擦り付けて泣訴を垂れても良いと思いそうなものだが、ひどく薄くのっぺりとした魂にはそんな自発的な行為はできるわけもなく、ただひたすらのっぺりと、傍から見れば苦しんでいるのか喜んでいるのかも分からないくらい、うっすらのっぺり佇んでいるだけだった。放っておけば苦しみ抜いた末に消滅するだろう。
「次に、良い知らせだ。人の縁とは、どう繋がるのか分からんもんさ」
それだけ言い残して、小町は何の未練も無さそうにあっさりと立ち去ってしまった。
後には、鉛色の河川敷と、死者の頭蓋骨の内側に、うるさい砂嵐だけを残して──
一つだけ、訂正。
「うん? そう言えば、あれはここらの担当区域の人間だったか? なんだって、こんな辺鄙な所に流れて来たんだか」
小町はこうも呟いていた。
「まあ良いさ。知らんよ、どうせ私の管轄外だ」
◇
2011年7月24日。
当時まだ小学生だった宇佐見菫子は、既に周囲を見下し切って捻くれた性格になり、とりあえずの処世術と最低限の社交性も身に付ける前とあって、そんな性格のために孤立と孤高を極めていて、もし仮にたった今心臓麻痺か何かで死んでしまおうものなら、死後の懐に入る渡し賃はかなり寂しいものになるだろうね、という、まあそんな、こまっしゃくれの小娘だった。
幼い董子にはライフワークと言って良い程の趣味がある。この年頃の少女ならクラスに一人はいるだろうオカルト趣味で、ゆくゆくはもっと本格的な研究を始めてみたいと思っている。定番所では学校の七不思議から、各種の都市伝説。他にも、交通事故があった、という現場などがあれば、必ずや現場をその目で確かめていた。そして董子の行動力はこの頃から、ほんの少々、常軌を逸し始めていた。
さて、この日の董子は隣町まで足を伸ばして、薄汚れた民家を訪れていた。たまに町で見かけるような、人が住んでいるのかどうかも分からない古い家だ。不法侵入の常習犯としては、念動力での鍵開けくらいお茶の子さいさい。目論見通り、民家はどうやら半ば廃屋と化しているようで、生々しくこびり付いた生活臭はあるものの、中に動く人間の気配は無い。
詳細は要領を得ないのだけれど、この民家は、主に地元の小中学生の口に上がる噂話の舞台になっていて、董子の訪問はまさにそういう理由から。煙たがられている董子にも、気持ち悪いオカルト少女としての奇妙なカリスマ故にか、その手の話は放っておいても舞い込んで来るのだった。
ところが。
異次元に繋がっているとか、貞子が這い出してくるとか、そういった下らない、しかし気の弱い女子であれば過剰に反応して男子が馬鹿にして冷やかすとか、精々がそのレベルの噂話を思い出しながら、居間に踏み込んだ董子は、スニーカーを履いたままの足を途中で止めた。
くすんだ蛍光灯がチカチカと明滅し、人間の体臭と腐臭と生活臭が充満した部屋の中で、高齢の男性が座椅子に凭れ掛かったまま死んでいる。脂染みで汚れた服が腐敗を始めた皮膚と半ば癒着した様は、本物の死体をどこかミイラの作り物めいて見せていた。
蛆虫が蠢き、蠅が飛び回る。コンビニ弁当のゴミや衣類が足の踏み場も無く散らかっていて、じめじめと澱んだ汚い部屋は、埃が積もっていただけと言えなくもない廊下や他の場所と比較して、老いて行動半径の狭まった人間の生活空間を押し込めたようで、不意の客にとっては入室を躊躇うものだった。
とは言え部屋に荒れた様子は無い所から、ひとまず事件性は無いように思える。素人目だが、十中八九、自然死として構わないだろう。
「…………いや、これは無いっしょ」
こんなつもりで来たのでは、ない。
けれどもそれは、軽はずみな悪戯から本物の死体を発見してしまったことを後悔するものではなかった。
董子は死体を見て怖がらない、その程度には、精神が歪んでいる。決して無感動なわけではないにしても、グロテスクやホラー等、刺激の強い娯楽作品を好んで鑑賞する董子にとっては見慣れたものだったし、いわゆる『検索してはいけない言葉』の類いもチェック済。ネットに出回るグロ画像には画面に喰い付くように見入った思い出があり、そして程無くして、そんなものは見飽きていた。
流石に本物の死体を見るのは初めてだったが、衰弱死体に董子の小さな胸を躍らせる猟奇性は無い。ついでにこの時の董子には、せめて黙祷するだけの良識も育っていない。触ると面倒な事になるという常識だけはあり、独居老人の遺体には、ただ一瞥をくれただけで済ませた。
哀れな、と思うにも、それ以前の同情にも値しない。しょっぱい人相からは陰険でケチな性格が容易に想像できる。大方、性格が悪く避けられていたのだろう。そうでもなければ周辺の誰かがすぐに孤独死という異常に気付いていたはずだ。まあ、人間関係に無関心な現代の闇と言えなくもない。ともあれ自然死だけどロクな死に方じゃないなー、と董子は他人事のように思った。
飛び交う蠅を払いのけながら滑らせた視線は、ザーッと音を立てて、白黒の斑点を散らした灰色の画面に吸い込まれた。
「テレビ、つけっぱなしじゃん」
現場保存のことを少しだけ気にしてから、まあこのくらいならと、董子はテレビの電源を切った。
ブチッ、という大袈裟な音の後、砂嵐は鳴り止む。どこか遠い場所でノイローゼから解放された死者がいたのだけれど、そんなことは董子の知ったことではなかった。
◇
「テレビの砂嵐と言えば都市伝説が絡んでくるわね。定番と言えば、普通の放送が終わった後の深夜に、テレビを点けっぱなしにしておくと、えっちぃ放送が始まるだとか、このパターンで、明日の犠牲者を放送します、だとか」
幻想郷の人里、董子からすると時代劇の世界に迷い込んだ街並みの、その中でも舶来の文化が混じり込んでいるらしき通りには、少し年代を進めて大正浪漫の趣がある。
茶屋の店先で、現代とは味の異なる珈琲で唇を湿らせながら、董子は景気良くお喋りに興じていたのだった。きっと、人好きのする話し上手な聞き手のおかげだろう。こんな話題になったのは、先に香霖堂で昔懐かしいブラウン管を発見したから。
「砂嵐……ああ、砂嵐、ね。成る程、人の縁とはどう繋がるのか分からんものさ。適当に言ったつもりだったんだが、まさか本当になるとは。知る由も無かろうがね、お前さんは一つ良いことをした」
「何の話?」
「こっちの仕事の話だ」
と、これ見よがしな鎌を脇に置いた渡し守は、何故だか董子の隣の席で同じく注文をしているわけだが。休憩時間なんだろう、多分。
董子の顔を見て目を細めた遠い眼差しは、顔と言うより、背後にある別の何かに目を凝らしているようだった。渡し守の特権で、人の縁とやらでも、見ていたのかも知れない。
「それより聞かせておくれよ。その話は興味深い」
「まあ、興味深い砂嵐なんだけど、放送手段が変わったことによって、実は段々と珍しいものになっていったのよね。思えば、私も現物を見た記憶は遠いもの……小学生の頃だったかなぁ」
今となっては怪しい都市伝説の放送は始まらず、ごく普通に深夜番組の時間だ。
「そのせいか、砂嵐を知らない世代の子供にとっては、砂嵐そのものがホラー的な演出で見たやつ、とでもなるようで、砂嵐の画面はあの世の光景が映るとか、貞子──えっと、人気のキャラクターね、が出て来るだとか。そういう別の種類の都市伝説が生まれて来たってっわけ」
「ほうほう。んで、珍しいものになってる、というのは?」
「その辺は私も詳しいわけじゃないんだけど、扱う電波の関係らしいわ。変調方式? ともかく従来のアナログ電波は通信環境が悪いと、なんかこう雑なノイズを拾ってしまって、このノイズが砂嵐の正体なの。で、これが新しいデジタル電波の場合だと、映らない時はきっぱりと映らない、もしくは映り方が変になるだけ。だから不調があっても砂嵐にはならないんだそうよ」
「……つまり、新しくなったのか。そもそもテレビを見たこともない私にゃ分からんけど、とりあえず要点だけは掴めたよ。良いね、これだから人と話すのは楽しいんだ」
董子も小町も、そこで一息をついた。
珈琲の芳醇な香りが風に乗り、色彩豊かな通りに温かな湯気と共に棚引いていく。
「外の世界には、もうテレビの砂嵐は無くなったのかい?」
「そうね、少なくとも一般的には。たしか、2011年の7月24日、だったかな。一部地域を除いて、その日にアナログ電波の放送が終わったのよ」
「そうかい。おかげで一つ得心がいったよ。余所の霊がこっちに流れて来た理由は、要するに引っ張られて来ただけってことだったか。すっきりしたな」
小町はそう言って、三色団子の最後の一個を器用に口に含んだ。「ごちそうさん」と席を立ち、思い出したように董子を振り返った。快活な渡し守の表情は、顔に逆光が差すだけで、途端に冷たく酷薄な翳りを帯びるのだった。
「ところでお前さん、ロクな死に方しないぞ? 他人と関わらないっていうのはさ、死後の渡し賃に関わってくる。自分は独りで良いとか思っているんなら、その捩じ曲がった性根、今の内に改めておくんだな」
「知っていますとも。陰険で狭量で他人を見下すロクでなしの死に様なら、実際に見たことがあるんだから」
「そう言うと思ったよ。ただ、これだけは言っておく。人の縁とは、どう繋がるか分からんもんさ」
「まったくね。生前のよしみで舟に乗せてもらえれば良いんだけど」
「何言ってんだ。タダ乗りなんて、私はさせないからな」
「それは残念」
まともに死ねないのかと思うと、ずっと昔に解き終わっていた問題集に答え合わせをしてもらったようで、董子は何故だか落ち着いた気分になって、口に含む珈琲の旨味が増したように感じられた。
「私はね、普通の人間みたい普通に死ぬなんて、絶対に嫌なのよ。だってそんなの馬鹿馬鹿しいじゃん」
例えば、鉛色をした憂鬱な曇り空を、空のずっと上の方から押し込めて圧縮したとする。すると地上には、雰囲気だけで気が滅入ってしまうような、密度の高い憂鬱空間が完成するのでは、なんて。そんな他愛も無い妄想をする者も、ここ三途の川の河川敷にはいなかったけれど。
揺れているのか揺れていないのだか、止まったように凪いだ川面は鈍い燻し銀に輝いて、河と言うよりもどちらかと言うと、むしろ油膜の張った沼地に見える。河川敷さえも砂利の荒れ地で、この辺りには石を積む子供の霊も意地悪な獄卒もいないのか、カラカラと空虚に回る風車さえ見当たらない物哀しさを湛えていた。寂しい、という感想も遠退くくらいに、何も無い。ここ無縁塚近くには、孤立した魂が集まり易い。
ただ、赤い髪の渡し守、小野塚小町だけは、いつものように快活な表情で笑っていた。
そして、小町が声を掛けた幽霊にとっては、小町のことも周囲の景色のことも、認識の外だったろう。
「お約束を無視して、悪い方から知らせよう。お前さん、遠からず消えるよ? まず間違いなく河を渡るのは無理だね」
その幽霊というのが、ほとんど掠れていたからだ。
この三途の河のルールでは、死者は生前の縁や徳で河を渡る。具体的に言うと六文銭のこと。渡し賃も払えない死者を運ぶ殊勝な渡し守はいないし、心の狭い魂は旅路に耐えられまい。小町もそのように考えており、この幽霊のことを、大方、孤独に死んだ偏屈な老人か何かだろうと見立てていた。若い時はどうだったか知らないが、年経てからは文句を言うか威張り散らすか他人を妬み僻むことしか能が無く、疎まれ避けられ、ロクな死に方をしなかったと見た。最近、そんな死に方をする人間が異様に増えていて、小町のその辺りの考え方は、非常にドライだ。──つまり、こんな人間は、容赦なく見捨てても良い。哀れな、と思うにも、それ以前の同情に値しない。だったら声なんぞ掛けなければ良いのだが、小町は殊勝な渡し守かどうかはともかく、変わり者の渡し守ではあった。
そして幽霊の方はと言えば、意識があるとは言えない僅かな意識未満の認識を、砂嵐のようなノイズに占められていた。もし仮に生前のままの認識があれば、鼓膜に張り付いたような騒音に、頭皮を掻き毟ってしまいとか、感じていたかも知れない。
ザーーーーッ、と。
片時も絶えることなく、頭の中には砂嵐。まるで、柔らかいピンク色の脳味噌に砂粒がぺちぺちと吹き付けるみたい。
生きてる人間でもノイローゼになりそうな騒音は、実際の所、ただでさえ弱い魂を更に痛み付ける形で弱めていた。思考する力さえあれば、この苦痛から逃れるためならば地面に額を擦り付けて泣訴を垂れても良いと思いそうなものだが、ひどく薄くのっぺりとした魂にはそんな自発的な行為はできるわけもなく、ただひたすらのっぺりと、傍から見れば苦しんでいるのか喜んでいるのかも分からないくらい、うっすらのっぺり佇んでいるだけだった。放っておけば苦しみ抜いた末に消滅するだろう。
「次に、良い知らせだ。人の縁とは、どう繋がるのか分からんもんさ」
それだけ言い残して、小町は何の未練も無さそうにあっさりと立ち去ってしまった。
後には、鉛色の河川敷と、死者の頭蓋骨の内側に、うるさい砂嵐だけを残して──
一つだけ、訂正。
「うん? そう言えば、あれはここらの担当区域の人間だったか? なんだって、こんな辺鄙な所に流れて来たんだか」
小町はこうも呟いていた。
「まあ良いさ。知らんよ、どうせ私の管轄外だ」
◇
2011年7月24日。
当時まだ小学生だった宇佐見菫子は、既に周囲を見下し切って捻くれた性格になり、とりあえずの処世術と最低限の社交性も身に付ける前とあって、そんな性格のために孤立と孤高を極めていて、もし仮にたった今心臓麻痺か何かで死んでしまおうものなら、死後の懐に入る渡し賃はかなり寂しいものになるだろうね、という、まあそんな、こまっしゃくれの小娘だった。
幼い董子にはライフワークと言って良い程の趣味がある。この年頃の少女ならクラスに一人はいるだろうオカルト趣味で、ゆくゆくはもっと本格的な研究を始めてみたいと思っている。定番所では学校の七不思議から、各種の都市伝説。他にも、交通事故があった、という現場などがあれば、必ずや現場をその目で確かめていた。そして董子の行動力はこの頃から、ほんの少々、常軌を逸し始めていた。
さて、この日の董子は隣町まで足を伸ばして、薄汚れた民家を訪れていた。たまに町で見かけるような、人が住んでいるのかどうかも分からない古い家だ。不法侵入の常習犯としては、念動力での鍵開けくらいお茶の子さいさい。目論見通り、民家はどうやら半ば廃屋と化しているようで、生々しくこびり付いた生活臭はあるものの、中に動く人間の気配は無い。
詳細は要領を得ないのだけれど、この民家は、主に地元の小中学生の口に上がる噂話の舞台になっていて、董子の訪問はまさにそういう理由から。煙たがられている董子にも、気持ち悪いオカルト少女としての奇妙なカリスマ故にか、その手の話は放っておいても舞い込んで来るのだった。
ところが。
異次元に繋がっているとか、貞子が這い出してくるとか、そういった下らない、しかし気の弱い女子であれば過剰に反応して男子が馬鹿にして冷やかすとか、精々がそのレベルの噂話を思い出しながら、居間に踏み込んだ董子は、スニーカーを履いたままの足を途中で止めた。
くすんだ蛍光灯がチカチカと明滅し、人間の体臭と腐臭と生活臭が充満した部屋の中で、高齢の男性が座椅子に凭れ掛かったまま死んでいる。脂染みで汚れた服が腐敗を始めた皮膚と半ば癒着した様は、本物の死体をどこかミイラの作り物めいて見せていた。
蛆虫が蠢き、蠅が飛び回る。コンビニ弁当のゴミや衣類が足の踏み場も無く散らかっていて、じめじめと澱んだ汚い部屋は、埃が積もっていただけと言えなくもない廊下や他の場所と比較して、老いて行動半径の狭まった人間の生活空間を押し込めたようで、不意の客にとっては入室を躊躇うものだった。
とは言え部屋に荒れた様子は無い所から、ひとまず事件性は無いように思える。素人目だが、十中八九、自然死として構わないだろう。
「…………いや、これは無いっしょ」
こんなつもりで来たのでは、ない。
けれどもそれは、軽はずみな悪戯から本物の死体を発見してしまったことを後悔するものではなかった。
董子は死体を見て怖がらない、その程度には、精神が歪んでいる。決して無感動なわけではないにしても、グロテスクやホラー等、刺激の強い娯楽作品を好んで鑑賞する董子にとっては見慣れたものだったし、いわゆる『検索してはいけない言葉』の類いもチェック済。ネットに出回るグロ画像には画面に喰い付くように見入った思い出があり、そして程無くして、そんなものは見飽きていた。
流石に本物の死体を見るのは初めてだったが、衰弱死体に董子の小さな胸を躍らせる猟奇性は無い。ついでにこの時の董子には、せめて黙祷するだけの良識も育っていない。触ると面倒な事になるという常識だけはあり、独居老人の遺体には、ただ一瞥をくれただけで済ませた。
哀れな、と思うにも、それ以前の同情にも値しない。しょっぱい人相からは陰険でケチな性格が容易に想像できる。大方、性格が悪く避けられていたのだろう。そうでもなければ周辺の誰かがすぐに孤独死という異常に気付いていたはずだ。まあ、人間関係に無関心な現代の闇と言えなくもない。ともあれ自然死だけどロクな死に方じゃないなー、と董子は他人事のように思った。
飛び交う蠅を払いのけながら滑らせた視線は、ザーッと音を立てて、白黒の斑点を散らした灰色の画面に吸い込まれた。
「テレビ、つけっぱなしじゃん」
現場保存のことを少しだけ気にしてから、まあこのくらいならと、董子はテレビの電源を切った。
ブチッ、という大袈裟な音の後、砂嵐は鳴り止む。どこか遠い場所でノイローゼから解放された死者がいたのだけれど、そんなことは董子の知ったことではなかった。
◇
「テレビの砂嵐と言えば都市伝説が絡んでくるわね。定番と言えば、普通の放送が終わった後の深夜に、テレビを点けっぱなしにしておくと、えっちぃ放送が始まるだとか、このパターンで、明日の犠牲者を放送します、だとか」
幻想郷の人里、董子からすると時代劇の世界に迷い込んだ街並みの、その中でも舶来の文化が混じり込んでいるらしき通りには、少し年代を進めて大正浪漫の趣がある。
茶屋の店先で、現代とは味の異なる珈琲で唇を湿らせながら、董子は景気良くお喋りに興じていたのだった。きっと、人好きのする話し上手な聞き手のおかげだろう。こんな話題になったのは、先に香霖堂で昔懐かしいブラウン管を発見したから。
「砂嵐……ああ、砂嵐、ね。成る程、人の縁とはどう繋がるのか分からんものさ。適当に言ったつもりだったんだが、まさか本当になるとは。知る由も無かろうがね、お前さんは一つ良いことをした」
「何の話?」
「こっちの仕事の話だ」
と、これ見よがしな鎌を脇に置いた渡し守は、何故だか董子の隣の席で同じく注文をしているわけだが。休憩時間なんだろう、多分。
董子の顔を見て目を細めた遠い眼差しは、顔と言うより、背後にある別の何かに目を凝らしているようだった。渡し守の特権で、人の縁とやらでも、見ていたのかも知れない。
「それより聞かせておくれよ。その話は興味深い」
「まあ、興味深い砂嵐なんだけど、放送手段が変わったことによって、実は段々と珍しいものになっていったのよね。思えば、私も現物を見た記憶は遠いもの……小学生の頃だったかなぁ」
今となっては怪しい都市伝説の放送は始まらず、ごく普通に深夜番組の時間だ。
「そのせいか、砂嵐を知らない世代の子供にとっては、砂嵐そのものがホラー的な演出で見たやつ、とでもなるようで、砂嵐の画面はあの世の光景が映るとか、貞子──えっと、人気のキャラクターね、が出て来るだとか。そういう別の種類の都市伝説が生まれて来たってっわけ」
「ほうほう。んで、珍しいものになってる、というのは?」
「その辺は私も詳しいわけじゃないんだけど、扱う電波の関係らしいわ。変調方式? ともかく従来のアナログ電波は通信環境が悪いと、なんかこう雑なノイズを拾ってしまって、このノイズが砂嵐の正体なの。で、これが新しいデジタル電波の場合だと、映らない時はきっぱりと映らない、もしくは映り方が変になるだけ。だから不調があっても砂嵐にはならないんだそうよ」
「……つまり、新しくなったのか。そもそもテレビを見たこともない私にゃ分からんけど、とりあえず要点だけは掴めたよ。良いね、これだから人と話すのは楽しいんだ」
董子も小町も、そこで一息をついた。
珈琲の芳醇な香りが風に乗り、色彩豊かな通りに温かな湯気と共に棚引いていく。
「外の世界には、もうテレビの砂嵐は無くなったのかい?」
「そうね、少なくとも一般的には。たしか、2011年の7月24日、だったかな。一部地域を除いて、その日にアナログ電波の放送が終わったのよ」
「そうかい。おかげで一つ得心がいったよ。余所の霊がこっちに流れて来た理由は、要するに引っ張られて来ただけってことだったか。すっきりしたな」
小町はそう言って、三色団子の最後の一個を器用に口に含んだ。「ごちそうさん」と席を立ち、思い出したように董子を振り返った。快活な渡し守の表情は、顔に逆光が差すだけで、途端に冷たく酷薄な翳りを帯びるのだった。
「ところでお前さん、ロクな死に方しないぞ? 他人と関わらないっていうのはさ、死後の渡し賃に関わってくる。自分は独りで良いとか思っているんなら、その捩じ曲がった性根、今の内に改めておくんだな」
「知っていますとも。陰険で狭量で他人を見下すロクでなしの死に様なら、実際に見たことがあるんだから」
「そう言うと思ったよ。ただ、これだけは言っておく。人の縁とは、どう繋がるか分からんもんさ」
「まったくね。生前のよしみで舟に乗せてもらえれば良いんだけど」
「何言ってんだ。タダ乗りなんて、私はさせないからな」
「それは残念」
まともに死ねないのかと思うと、ずっと昔に解き終わっていた問題集に答え合わせをしてもらったようで、董子は何故だか落ち着いた気分になって、口に含む珈琲の旨味が増したように感じられた。
「私はね、普通の人間みたい普通に死ぬなんて、絶対に嫌なのよ。だってそんなの馬鹿馬鹿しいじゃん」
スマートでした。
ちょっとしたことで別の何かが影響を受けるのは面白いですね
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