私は明晰な思考を保ったまま、夢の世界の片隅に設けられた小さな建物の前に辿り着く。
その内部は間仕切りの無い簡素な造りをしているが、一人あるいは二人用の住居としては十分な面積を有していて、奥に一組の机と椅子が、手前にローテーブルとソファーが備え付けられてある、と私は記憶している。
机の上には夢日記の写本の一つがあって、ときおり許されたごく一部のページだけが判読可能になる。少なくとも私はそのように理解している。もっとも、他人の夢の話――それも本当に見知らぬ誰かの――なんて、いくら読めたところで大差無いのだけれども。
椅子の背後の壁は全面が窓になっていて、そこからは宇宙のほんの一部を眺めることができる。暗いとも明るいとも言いがたい、闇と星との絶え間ない交差が広がっていて、無名の星座がしばしば明滅するのが分かる。私はその光景を容易に想像することができる。覚えているから。知っているから。ここでは現実とは逆のことが言える。つまり想像は経験の材料の地位にあって、日記を読むよりも夢そのものの観察に興味を引かれることの方がずっと多かった。
夜を過ごすための空間として、この住居は一点を除いて充足されていた。ここにはソファーが一つしかない。もちろん総体的な話をすれば他にも欠陥はいくらでもあるのだが。しかし、たとえばベッドが存在しないということは、夢の中ではまったく問題にはならないのだ。
「この家をもう一軒建てれば、ソファーは計二つになりますが」
初めて私が欠陥を指摘したとき、ドレミーは確かにそう答えた。
「一軒に二つ」と私は再び言った。
「それは結局、私の提案とさして変わりないことですよ」
そうして、ドレミーは私の追及をかわした。私は何度もそのことを思い出していた。今も。扉の前で深呼吸をして、内装を想像する。一組の机と椅子。断片的な写本。宇宙。ローテーブルを挟んで対面する、二つのソファー……。
そして私は扉を開けた。
「おはようございます」とドレミーが言った。部屋の中に一つだけ存在するソファーに腰掛けて。今回も私の夢、あるいはドレミーへのささやかな勝利は叶わなかったらしい。
「おはよう……?」
「今日はここに来てから開けるまでが早かった気がするので」とドレミーは目の前の壁面に据え付けられた戸棚を指した。
戸棚には幾種類もの時計が収められていたが、どれも湾曲していたり、逆転していたりして、一つたりともまともな尺度を与えてはくれなかった。だが、それで困ることはまったく無かった。ここで私たちに必要なのは、ただ時間を確認するという仕草の口実にすぎないからだ。
「そうかもしれない」と私は呟く。「もう何度もここに来ているから」
「慣れが進むと、余計に想像が難しくなりますが」
「うん」
「ソファーの対面にまたソファーを置こうだなんて、夢が無いとは思いませんか」
思わない。ドレミーの声を背中に受けながら、私はほとんど日課になっている(とはいえ、あくまでも夢の中の日課である)宇宙の観察をするために窓の側に駆け寄った。ドレミーはこの星々を見るだけでまさにこの世界の住民たちの様子が判然と理解できるらしい。 一般に住民たちは一夜ごとに異なる夢の位置を過ごす、と彼女は言っていた。そんなことを話してしまって良いのだろうか、と思ったけれども、「あなたは天邪鬼だから」とだけドレミーは答えた。
正直、私にはただの光の点にしか見えないのだが、仮にそういう信念を持って眺めてみると、星の動きや明滅すべてに意味があるという想像を楽しむことができるかもしれない。ある種のライフゲームだ。前の夜にドレミーと共に名付けたいくつかの星座を探してみたが、それらはすべて散り散りになっていた。基本的に、宇宙の観察はそうした空しい余暇の過ごし方である。ただ一つ、私にも判別可能な印を除いては。「分身のドレミー」と私は恒星の影にひそかに寄りそう惑星めいた彼女を見つけて言った。
「おかしな言い方ですね」とソファーのドレミーが答える。
「どうして?」
「私も分身かもしれないじゃないですか」
それは、なんというか結構な不意打ちだった。我ながら不思議なくらい驚いた。ドレミーが分身かもしれないという可能性に対して、ではない。そのような当然の考えをたやすく無視した自意識とその方向について、私は素早い自省を始めていた。その激流ですべてを曖昧にしてしまいたかった。
「面倒なこと考えていませんか」
「重要なことよ」
「じゃあ、面倒ですね」
ドレミーは続ける。「ことではなくて、者が」
「あなたは考えたことがない?」
ドレミーは少しもったいぶってから答えた。
「重要なことを考えています。今」
「そう」
冗談に対して私がひどくそっけない返事をしたためだろうか、彼女はあからさまに肩を落としてみせた。
仕方がないので代わりに「他のドレミーは?」と私は訊いた。
「ちょうど今、山を作っているのが千人ほどいますね」
「山?」
手招きするドレミーに従って、彼女の隣に座った。彼女が目の前の空中を指でなぞると、そこに様子が投影されはじめた。千人……かは不明だが、とにかく大勢のドレミーが輪になって、それぞれが大勢の羊を生み出しつづけては中心に向かって投げつづけている。あまりに夥しく存在するためにもはや白い毛玉にしか見えない羊たちが、その豊かな羊毛を密に絡ませ合いながら折り重なって山の稜線らしき輪郭を次第に描いていた。おそらく、五合目くらいだろうか。
「楽しそうで何よりね」
「まさか」とドレミーは大仰に驚いてみせた。「とても骨が折れます。意外と羊は重たいんですよ。こんな風に」
そう言うと、ドレミーはたちまち軟体になってそのまま私の肩に寄りかかってきた。
「少しは労ってくれたっていいじゃないですか。あなたはいつもそうです」
「いつもって……」
私は顔を背けた。ドレミーの頭がわずかに重たく感じられた。たぶん、嫌がらせだ。いつもは地に足なんて付いていないようにふわふわと暮らしているというのに。私は彼女に質量なんて必要ないのだろうと思っていた。だって……。
そうして思考が彼女の重力に引かれつつあったところで、ふと私は思い出した。あるいは、気が付いた。ドレミーの頭を持ち上げて私は尋ねる。
「ねえ、もしかして月の都のときも?」
「それを言ったらどうなりますか」
私は無言で彼女を睨んだ。
「冗談です。まあ、でも、月の都のときは私がいましたから」
私はひとまず安堵した。だが、ドレミーはすかさず続ける。
「つまり、私が一人で羊をたくさん作ったということです」
ドレミーがテーブルをノックすると、どこからともなく子羊たちが次々と湧き出てきては密集し、たちまち月の都のミニチュアに変化しはじめた。すかさず建造途中の都を手で払ってみると、それらは再び羊に分裂して私の手にまとわりついた。
「だめですよ。邪魔しちゃ」
ドレミーの言葉とともに、手首に硬く重い感触が発生する。見れば羊は手錠になっていた。反射的に私が顔をしかめたのを見てか、結局ドレミーはすぐにその冗談をやめたが。
「羊も分身も、いったいどれくらいいるのかしら」
混雑した奇妙な触覚の記憶のみが残された手首を握りながら私は呟く。彼女と知り合ってから、それこそ冗談のような物量を私は嫌というほど目にしてきたけれども、いくら夢だといっても限りがあるのではないかと私は思った。ここにおいて、彼女が特権的な地位を占めているとしても……いや、彼女がそうであるからこそ、私はそう確信しているのだ。彼女はおそらく、万能ではない――
「その本のページ数より多い?」
彼女の抱いている夢日記の原本を指す。彼女がそれを読んでいるところを私は見たことがない。
「普通に考えれば、そうではないでしょうね」
ドレミーの答えを聞くのとほとんど同時に私も同様の思考に至っていたため、落胆は二重になった。すぐそこにある謎を解明するための糸口が、既に潰えていたことへの落胆。
その落胆が彼女にとってどのように映ったかは分からないが、とにかく彼女は珍しい提案を私にくれた。「比べてみましょうか」
そうしてドレミーに誘われるまま外の宇宙へ出てみると、いつの間にか私たちは無限のドレミー・スイートに取り囲まれていた――正確に言うなら、取り囲まれていたと私は思った、だが。というのも、直線と無限の円周とを区別することは不可能だから。
私はちょうど正面に位置していた分身の目の前まで来て、それを観察した。右隣についても同様に。分身たちは、一点を除いてみな同じ要素から構成されているように見える。彼女たちはみな夢日記の一組の見開きを示して直立していた。すなわち、異なるのはその内容だけだった。富士、鷹、茄子……彼女たちは縁起の良いとされる初夢のカタログを司っていた。それぞれの夢を抱いたドレミーが、視界の左端から右方へ順に並んでいる。
「左に回ると怒る?」と私は好奇心のままに尋ねた。
「たぶんあなたの思っている通りになるだけです」
「どうだろう」
私は少なくとも二つの可能性を考えることができた。一方は、単にどちらへ行こうと一富士の後には二鷹が先回りをしているだろうというもの。そして他方は、悪夢のカタログが最悪から順に並んでいるだろうというもの……。もしかするとそれは無限の差の端的な証明になりうるのかもしれないが、私は臆病だった。
結局、私たちは分身の描く無限の円周をそのまま巡ることにした。
こう言うとまったく途方もない旅に思えたが、結論を言うと約数十万ページも過ぎれば現実的で単純な名詞の数も次第に尽きてくる。もちろん組み合わせれば容易に膨大になりうるのだろうが、カタログはあくまでも辞書的、百科事典的だった。
問題は、カタログの夢たちには無数のヴァリアントが存在しているということだった。つまり、一通り巡り終えたのではないかと思って振り返ってみても、すぐそこには富士のページを掲げるドレミーがいて、前方へ向き直ってみると可能な富士の諸形態を掲げたドレミーたちが無限の円周を象っているという事態である。輪郭が多少異なるとか、活動の度合いが異なるとかはまだいいが、中にはとても信じがたい変形を果たした富士の例もあった。
たとえば、蓬莱の薬を燃やした煙が雨によって土壌に浸透したために、永遠の養分を分有した植物たちが上方への成長を続けて緑の巨塔と化した富士、というヴァリアントを見たときには、流石に夢とはいえ滅茶苦茶だと思った。説明文によるとその富士の塔は、非常に迷惑なことに、しばしば月に衝突し砕けることで今のところ一定の全長を保っているらしい。しかし、もしまさに天文学的な確率で塔が太陽に至ったならば、それは地上に神の火を降ろす依代となるだろうという予言めいた一節で文は締め括られていた。私はそれに続く文章を容易に想像できた――「おそらく、それは実現する」
それからはより不吉な富士の形をいくつか見て回ってみたけれども、私の関心を占めつづけたのはつねにあの予言的な富士の塔の一節だった。あるいは後続する予言の想像。私はページを数えるのも忘れて、ただあの塔の外形と伝説とを留めるべく努めた。
「おそらく、それは実現する」と私は静かに口にして、目を閉じた。暗闇の中にあの地球の青い光が浮かび上がる。瞳の裏の水脈を伝って、地球の海の厭な匂いと味が喉の奥に錯覚された。そもそも私はそれらを経験したことがあっただろうか。
「……もし実現したら」とドレミーが言った。私のひそかな予言は彼女に聞こえていた。
「太陽と地球が交わるよりも、月と地球が交わる方がずっと早い」
「それはあなた方の信仰に反するのでは」
「私たちはとうに現実的な月に生きていない」と私は答えた。少なくとも、天津神たちはそう思っている……。まだ。
無数の富士のヴァリアントの最後は予想通り、太陽と地球を結ぶ炎の塔と化した富士だった。その右には、ごく平凡な鷹の異形のぺージがあるだけだ。
塔が炎となってから、太陽と地球の間に境は無くなった。地球と月についてもとうの昔に同じことが起きていた。私たちは一つの恒星の中に生きていた。だが、それは地上と月、現象と幻想が同じ夢の世界で混ざり合うという既にありふれた事態と、本質的には同じことだ。
私の両義性を象徴する片翼の一片を手に取って、異形の鷹を掲げるドレミーに渡した。彼女は理解したのか、それを本に挟んだ。夢も彼女も無限だったが、私の夜はそうではない。
左の瞼の裏に、再び地球の光が瞬くのを感じる。その生命に満ちた青に、私はなぜか懐かしさを覚えていた。それは良いことなのだろうか、と私は疑問に思う。現実的にも、倫理的にも。ふと光が一際強まり、私を咎めた。
「そろそろお目覚めのようですね」とドレミーが言った。目を擦って彼女と向き合う。すると、彼女の右手が空を掴むように緩慢に動きはじめるのが見えた。左手の夢日記のぺージが、目まぐるしい速度でひとりでにめくられつづけている。半ば呆気に取られながらも彼女の声にせめて頷きを返そうとしたが、それすら果たせないまま私は硬直してしまった。さらに驚くべき錯覚が私を襲った。
ドレミーの親指と小指の距離が縮まるのに従って、私たちを無限に取り巻いていたはずのドレミーたちの輪の直径も急速に縮まりはじめているように感じられたのだ。
私は同時に二つのことを考えた。一つは当然、輪に押し潰されるのではないかという危機感。もう一つは、今なら少し周囲を見回すだけで無限の夢日記と分身たちの終端を知ることができるのではないかという、衝動的な好奇心だった。
私は後者に突き動かされて首を動かそうとしたが、すぐに傍らのドレミーの目が私を捉えた。私が、ではない。彼女が、だ。そして、彼女の指の速度は私よりも遥かに速いと私は悟った。
間もなく、二つの指の距離はゼロになった。同時に輪の直径も。そして、私とドレミーの距離も。
「良い年を」とドレミーが一瞬囁いた気がしたが、私は口を開くことすらできなかった。
私は目覚めた。
やけに鼓動がうるさい。呼吸も自分のものではないみたいに乱れている。情報が多すぎて疲れてしまったのだろう。元より明晰夢は決して健康的な現象ではない。
まずは冷静になるべきだ、と思った。そして私とドレミーの現実的な距離を測り直すべきだ、と。瞼はとうに開かれて離れているのだから、私も混乱から覚めてそうした距離を取り戻せているはずだ、と。
しかし、あの異常な夢の後だ。私はもう数なんてすっかりまともに数えられなくなっていた。過去の私とドレミー・スイートとの間に横たわる一つ一つの出来事を思い出そうとしてみたけれども、それは結局のところ無数の分身の影を追うのと同じことで、結果はあの夢の最後が端的に暗示していた。
思い出せない。知らない。想像できない。私には、無限の円周を一瞥することすら許されていない。
だから私は次の夜も同じ夢を見る。安眠枕に描かれた獏を一度指で弾いてから窓の側に寄った。月の空は暗く、いつでも判別できる名前の星々が永遠に輝いているけれども、今の私にとってはそんなものよりも、あの曖昧で劇的な宇宙の方がずっと興味深い世界になっていた。
その内部は間仕切りの無い簡素な造りをしているが、一人あるいは二人用の住居としては十分な面積を有していて、奥に一組の机と椅子が、手前にローテーブルとソファーが備え付けられてある、と私は記憶している。
机の上には夢日記の写本の一つがあって、ときおり許されたごく一部のページだけが判読可能になる。少なくとも私はそのように理解している。もっとも、他人の夢の話――それも本当に見知らぬ誰かの――なんて、いくら読めたところで大差無いのだけれども。
椅子の背後の壁は全面が窓になっていて、そこからは宇宙のほんの一部を眺めることができる。暗いとも明るいとも言いがたい、闇と星との絶え間ない交差が広がっていて、無名の星座がしばしば明滅するのが分かる。私はその光景を容易に想像することができる。覚えているから。知っているから。ここでは現実とは逆のことが言える。つまり想像は経験の材料の地位にあって、日記を読むよりも夢そのものの観察に興味を引かれることの方がずっと多かった。
夜を過ごすための空間として、この住居は一点を除いて充足されていた。ここにはソファーが一つしかない。もちろん総体的な話をすれば他にも欠陥はいくらでもあるのだが。しかし、たとえばベッドが存在しないということは、夢の中ではまったく問題にはならないのだ。
「この家をもう一軒建てれば、ソファーは計二つになりますが」
初めて私が欠陥を指摘したとき、ドレミーは確かにそう答えた。
「一軒に二つ」と私は再び言った。
「それは結局、私の提案とさして変わりないことですよ」
そうして、ドレミーは私の追及をかわした。私は何度もそのことを思い出していた。今も。扉の前で深呼吸をして、内装を想像する。一組の机と椅子。断片的な写本。宇宙。ローテーブルを挟んで対面する、二つのソファー……。
そして私は扉を開けた。
「おはようございます」とドレミーが言った。部屋の中に一つだけ存在するソファーに腰掛けて。今回も私の夢、あるいはドレミーへのささやかな勝利は叶わなかったらしい。
「おはよう……?」
「今日はここに来てから開けるまでが早かった気がするので」とドレミーは目の前の壁面に据え付けられた戸棚を指した。
戸棚には幾種類もの時計が収められていたが、どれも湾曲していたり、逆転していたりして、一つたりともまともな尺度を与えてはくれなかった。だが、それで困ることはまったく無かった。ここで私たちに必要なのは、ただ時間を確認するという仕草の口実にすぎないからだ。
「そうかもしれない」と私は呟く。「もう何度もここに来ているから」
「慣れが進むと、余計に想像が難しくなりますが」
「うん」
「ソファーの対面にまたソファーを置こうだなんて、夢が無いとは思いませんか」
思わない。ドレミーの声を背中に受けながら、私はほとんど日課になっている(とはいえ、あくまでも夢の中の日課である)宇宙の観察をするために窓の側に駆け寄った。ドレミーはこの星々を見るだけでまさにこの世界の住民たちの様子が判然と理解できるらしい。 一般に住民たちは一夜ごとに異なる夢の位置を過ごす、と彼女は言っていた。そんなことを話してしまって良いのだろうか、と思ったけれども、「あなたは天邪鬼だから」とだけドレミーは答えた。
正直、私にはただの光の点にしか見えないのだが、仮にそういう信念を持って眺めてみると、星の動きや明滅すべてに意味があるという想像を楽しむことができるかもしれない。ある種のライフゲームだ。前の夜にドレミーと共に名付けたいくつかの星座を探してみたが、それらはすべて散り散りになっていた。基本的に、宇宙の観察はそうした空しい余暇の過ごし方である。ただ一つ、私にも判別可能な印を除いては。「分身のドレミー」と私は恒星の影にひそかに寄りそう惑星めいた彼女を見つけて言った。
「おかしな言い方ですね」とソファーのドレミーが答える。
「どうして?」
「私も分身かもしれないじゃないですか」
それは、なんというか結構な不意打ちだった。我ながら不思議なくらい驚いた。ドレミーが分身かもしれないという可能性に対して、ではない。そのような当然の考えをたやすく無視した自意識とその方向について、私は素早い自省を始めていた。その激流ですべてを曖昧にしてしまいたかった。
「面倒なこと考えていませんか」
「重要なことよ」
「じゃあ、面倒ですね」
ドレミーは続ける。「ことではなくて、者が」
「あなたは考えたことがない?」
ドレミーは少しもったいぶってから答えた。
「重要なことを考えています。今」
「そう」
冗談に対して私がひどくそっけない返事をしたためだろうか、彼女はあからさまに肩を落としてみせた。
仕方がないので代わりに「他のドレミーは?」と私は訊いた。
「ちょうど今、山を作っているのが千人ほどいますね」
「山?」
手招きするドレミーに従って、彼女の隣に座った。彼女が目の前の空中を指でなぞると、そこに様子が投影されはじめた。千人……かは不明だが、とにかく大勢のドレミーが輪になって、それぞれが大勢の羊を生み出しつづけては中心に向かって投げつづけている。あまりに夥しく存在するためにもはや白い毛玉にしか見えない羊たちが、その豊かな羊毛を密に絡ませ合いながら折り重なって山の稜線らしき輪郭を次第に描いていた。おそらく、五合目くらいだろうか。
「楽しそうで何よりね」
「まさか」とドレミーは大仰に驚いてみせた。「とても骨が折れます。意外と羊は重たいんですよ。こんな風に」
そう言うと、ドレミーはたちまち軟体になってそのまま私の肩に寄りかかってきた。
「少しは労ってくれたっていいじゃないですか。あなたはいつもそうです」
「いつもって……」
私は顔を背けた。ドレミーの頭がわずかに重たく感じられた。たぶん、嫌がらせだ。いつもは地に足なんて付いていないようにふわふわと暮らしているというのに。私は彼女に質量なんて必要ないのだろうと思っていた。だって……。
そうして思考が彼女の重力に引かれつつあったところで、ふと私は思い出した。あるいは、気が付いた。ドレミーの頭を持ち上げて私は尋ねる。
「ねえ、もしかして月の都のときも?」
「それを言ったらどうなりますか」
私は無言で彼女を睨んだ。
「冗談です。まあ、でも、月の都のときは私がいましたから」
私はひとまず安堵した。だが、ドレミーはすかさず続ける。
「つまり、私が一人で羊をたくさん作ったということです」
ドレミーがテーブルをノックすると、どこからともなく子羊たちが次々と湧き出てきては密集し、たちまち月の都のミニチュアに変化しはじめた。すかさず建造途中の都を手で払ってみると、それらは再び羊に分裂して私の手にまとわりついた。
「だめですよ。邪魔しちゃ」
ドレミーの言葉とともに、手首に硬く重い感触が発生する。見れば羊は手錠になっていた。反射的に私が顔をしかめたのを見てか、結局ドレミーはすぐにその冗談をやめたが。
「羊も分身も、いったいどれくらいいるのかしら」
混雑した奇妙な触覚の記憶のみが残された手首を握りながら私は呟く。彼女と知り合ってから、それこそ冗談のような物量を私は嫌というほど目にしてきたけれども、いくら夢だといっても限りがあるのではないかと私は思った。ここにおいて、彼女が特権的な地位を占めているとしても……いや、彼女がそうであるからこそ、私はそう確信しているのだ。彼女はおそらく、万能ではない――
「その本のページ数より多い?」
彼女の抱いている夢日記の原本を指す。彼女がそれを読んでいるところを私は見たことがない。
「普通に考えれば、そうではないでしょうね」
ドレミーの答えを聞くのとほとんど同時に私も同様の思考に至っていたため、落胆は二重になった。すぐそこにある謎を解明するための糸口が、既に潰えていたことへの落胆。
その落胆が彼女にとってどのように映ったかは分からないが、とにかく彼女は珍しい提案を私にくれた。「比べてみましょうか」
そうしてドレミーに誘われるまま外の宇宙へ出てみると、いつの間にか私たちは無限のドレミー・スイートに取り囲まれていた――正確に言うなら、取り囲まれていたと私は思った、だが。というのも、直線と無限の円周とを区別することは不可能だから。
私はちょうど正面に位置していた分身の目の前まで来て、それを観察した。右隣についても同様に。分身たちは、一点を除いてみな同じ要素から構成されているように見える。彼女たちはみな夢日記の一組の見開きを示して直立していた。すなわち、異なるのはその内容だけだった。富士、鷹、茄子……彼女たちは縁起の良いとされる初夢のカタログを司っていた。それぞれの夢を抱いたドレミーが、視界の左端から右方へ順に並んでいる。
「左に回ると怒る?」と私は好奇心のままに尋ねた。
「たぶんあなたの思っている通りになるだけです」
「どうだろう」
私は少なくとも二つの可能性を考えることができた。一方は、単にどちらへ行こうと一富士の後には二鷹が先回りをしているだろうというもの。そして他方は、悪夢のカタログが最悪から順に並んでいるだろうというもの……。もしかするとそれは無限の差の端的な証明になりうるのかもしれないが、私は臆病だった。
結局、私たちは分身の描く無限の円周をそのまま巡ることにした。
こう言うとまったく途方もない旅に思えたが、結論を言うと約数十万ページも過ぎれば現実的で単純な名詞の数も次第に尽きてくる。もちろん組み合わせれば容易に膨大になりうるのだろうが、カタログはあくまでも辞書的、百科事典的だった。
問題は、カタログの夢たちには無数のヴァリアントが存在しているということだった。つまり、一通り巡り終えたのではないかと思って振り返ってみても、すぐそこには富士のページを掲げるドレミーがいて、前方へ向き直ってみると可能な富士の諸形態を掲げたドレミーたちが無限の円周を象っているという事態である。輪郭が多少異なるとか、活動の度合いが異なるとかはまだいいが、中にはとても信じがたい変形を果たした富士の例もあった。
たとえば、蓬莱の薬を燃やした煙が雨によって土壌に浸透したために、永遠の養分を分有した植物たちが上方への成長を続けて緑の巨塔と化した富士、というヴァリアントを見たときには、流石に夢とはいえ滅茶苦茶だと思った。説明文によるとその富士の塔は、非常に迷惑なことに、しばしば月に衝突し砕けることで今のところ一定の全長を保っているらしい。しかし、もしまさに天文学的な確率で塔が太陽に至ったならば、それは地上に神の火を降ろす依代となるだろうという予言めいた一節で文は締め括られていた。私はそれに続く文章を容易に想像できた――「おそらく、それは実現する」
それからはより不吉な富士の形をいくつか見て回ってみたけれども、私の関心を占めつづけたのはつねにあの予言的な富士の塔の一節だった。あるいは後続する予言の想像。私はページを数えるのも忘れて、ただあの塔の外形と伝説とを留めるべく努めた。
「おそらく、それは実現する」と私は静かに口にして、目を閉じた。暗闇の中にあの地球の青い光が浮かび上がる。瞳の裏の水脈を伝って、地球の海の厭な匂いと味が喉の奥に錯覚された。そもそも私はそれらを経験したことがあっただろうか。
「……もし実現したら」とドレミーが言った。私のひそかな予言は彼女に聞こえていた。
「太陽と地球が交わるよりも、月と地球が交わる方がずっと早い」
「それはあなた方の信仰に反するのでは」
「私たちはとうに現実的な月に生きていない」と私は答えた。少なくとも、天津神たちはそう思っている……。まだ。
無数の富士のヴァリアントの最後は予想通り、太陽と地球を結ぶ炎の塔と化した富士だった。その右には、ごく平凡な鷹の異形のぺージがあるだけだ。
塔が炎となってから、太陽と地球の間に境は無くなった。地球と月についてもとうの昔に同じことが起きていた。私たちは一つの恒星の中に生きていた。だが、それは地上と月、現象と幻想が同じ夢の世界で混ざり合うという既にありふれた事態と、本質的には同じことだ。
私の両義性を象徴する片翼の一片を手に取って、異形の鷹を掲げるドレミーに渡した。彼女は理解したのか、それを本に挟んだ。夢も彼女も無限だったが、私の夜はそうではない。
左の瞼の裏に、再び地球の光が瞬くのを感じる。その生命に満ちた青に、私はなぜか懐かしさを覚えていた。それは良いことなのだろうか、と私は疑問に思う。現実的にも、倫理的にも。ふと光が一際強まり、私を咎めた。
「そろそろお目覚めのようですね」とドレミーが言った。目を擦って彼女と向き合う。すると、彼女の右手が空を掴むように緩慢に動きはじめるのが見えた。左手の夢日記のぺージが、目まぐるしい速度でひとりでにめくられつづけている。半ば呆気に取られながらも彼女の声にせめて頷きを返そうとしたが、それすら果たせないまま私は硬直してしまった。さらに驚くべき錯覚が私を襲った。
ドレミーの親指と小指の距離が縮まるのに従って、私たちを無限に取り巻いていたはずのドレミーたちの輪の直径も急速に縮まりはじめているように感じられたのだ。
私は同時に二つのことを考えた。一つは当然、輪に押し潰されるのではないかという危機感。もう一つは、今なら少し周囲を見回すだけで無限の夢日記と分身たちの終端を知ることができるのではないかという、衝動的な好奇心だった。
私は後者に突き動かされて首を動かそうとしたが、すぐに傍らのドレミーの目が私を捉えた。私が、ではない。彼女が、だ。そして、彼女の指の速度は私よりも遥かに速いと私は悟った。
間もなく、二つの指の距離はゼロになった。同時に輪の直径も。そして、私とドレミーの距離も。
「良い年を」とドレミーが一瞬囁いた気がしたが、私は口を開くことすらできなかった。
私は目覚めた。
やけに鼓動がうるさい。呼吸も自分のものではないみたいに乱れている。情報が多すぎて疲れてしまったのだろう。元より明晰夢は決して健康的な現象ではない。
まずは冷静になるべきだ、と思った。そして私とドレミーの現実的な距離を測り直すべきだ、と。瞼はとうに開かれて離れているのだから、私も混乱から覚めてそうした距離を取り戻せているはずだ、と。
しかし、あの異常な夢の後だ。私はもう数なんてすっかりまともに数えられなくなっていた。過去の私とドレミー・スイートとの間に横たわる一つ一つの出来事を思い出そうとしてみたけれども、それは結局のところ無数の分身の影を追うのと同じことで、結果はあの夢の最後が端的に暗示していた。
思い出せない。知らない。想像できない。私には、無限の円周を一瞥することすら許されていない。
だから私は次の夜も同じ夢を見る。安眠枕に描かれた獏を一度指で弾いてから窓の側に寄った。月の空は暗く、いつでも判別できる名前の星々が永遠に輝いているけれども、今の私にとってはそんなものよりも、あの曖昧で劇的な宇宙の方がずっと興味深い世界になっていた。
新年早々良い夢を見せてもらえました
サグメの、ドレミ―という他者との距離感もまた無限と同様に伸び縮みしているようで、良かったです
これも幻想郷のヴァリアントの一つ?
夢特有のあいまいさと奇妙な整合性が味わえたような気がしました
サグメ様に高い教養を感じられたのもよかったです