久しぶりに書き記しておくべき事象と遭遇したので、筆を執る。
それは、中学校の図書館での出来事だった。
退屈な授業が終わり、片付けをしてから、私は図書館へと向かった。授業の課題に必要だった資料を返却するためである。
普段ならすぐにでも帰路につくのだが、その日は何の気なしに立ち寄ってみることにした。
図書館。本という知識の塊を収容する場所。知の拠点。そこに無い知識は存在しない。そんなもの、昔の話だ。
今現在は、インターネットにあらゆる情報が存在している時代。本でさえ電子書籍化が進み、煩わしい前置きを読む必要も、パラパラとページをめくる必要もない。検索をかければ、瞬時に知りたい情報を手に入れられる。
嵩張る本の寄せ集めなんて所を使う機会は、読みたいが電子書籍化されていない本か、授業で指定された資料を借りるぐらいだ。
そんな現代的な思考が同級生にも浸透しているのか、この学校の図書館も閑古鳥が鳴いている。図書委員が作ったのであろう模造紙からは、どうにか利用者を増やそうという思いは感じられるものの、現状を見れば虚しさを抱く。現に、ここを利用している生徒の数はまばらだ。視界に入るだけでも、五人。図書館では静かに、という標語だけは守られている。
ただ、静かな空間というのは嫌いではない。考え事をするのにはもってこいだ。
空いていた椅子に座り、荷物を床に置き、ペンを持ち、ノートを机に広げる。真っ白なノートを。
……私は、疑問を抱いている。この世界に。違和感と言ってもよいだろう。狭い空間に無理矢理押し込まれているかのような、居心地の悪さ。どうしてこう息苦しい思いをしなければならないのか、と。
だから私は、その空間を、隔てる壁を破壊したいのだ。そして、破壊した向こう側へと……いうなれば、異世界へ行きたいのだ。
その壁は太古から境界と呼ばれ、研究されて、破る方法もネットに書いてあった。どれも眉唾ものではあるが、私の特別な力と組み合わせ、アレンジすれば問題ないはずだ。
問題は、その境界を認識できないことである。
物理的に存在しない、論理の境界。世界を分かつ結界。それらをより明確にするものが、知識だ。世界を曝くことは、世界を識ることと相違ない。
そのために、別世界への手がかりを、情報を探していた。異世界の情報であれば何でも吸収した。天国のことも、地獄のことも、神域のことも。それらは宗教的な書物やオカルティックな雑誌に数多記述されていた。
それらには、教科書に書かれた落書きよりも説得力はある。だが、確証に至れる程ののそれらしさは感じられない。あと一歩、足りない。境界を強固に、鮮明に視るには、何かが欠落していたのだ。
私には、それが何かわからなくて。八方塞がりだった。
自分の知識や力が足りないのか、世界は今生きているこの場所しか存在しないのか。
如何にこの袋小路から脱出するか、打開策をああでもないこうでもないと思考を巡らせつつ無意識にペンを走らせていた所為か、真っ白なノートには、いつのまにかくねくねとした曲線が描かれていた。
その線はまるで、迷走している自分を浮き彫りにしているかのようで。
苛立ちをつのらせながら、だらしない落書きを消すために消しゴムに手を伸ばした、その時。視界の隅を、小さな黒い塊が音も立てずに横切った。
反射的に視線を向けると、そこには、猫がいた。
全身が黒い毛で覆われていて、頭部から上に向かって生えている耳、長い尻尾、軽やかな身のこなし。見間違いなどではない。黒猫である。
図書館に猫? と首を傾げたものの、素行の悪い生徒が勝手に連れ込んだのだろう。早々にそう結論付けた。
ああいうものは無視に限る。そんな事を考えていると、名も知らぬ生徒が猫に近づいていった。きっと彼の仕業だろう。
しかし彼は足元に注意を向けることなどせず、猫に向かって歩いている。そのままだと蹴り飛ばしかねない状況が、刻一刻と迫っていた。
思わず声を上げようとした、その瞬間。彼の足が、猫の体を素通りしたのだ。……いや、猫が、人間の体を素通りしたのだ。
驚愕のあまり立ち上がると、それに反応したかのように、黒猫は走るスピードを上げた。
何かある。本能がそう告げていた。私は慌ててあの猫を追いかけることにした。
黒猫は、障害物を物ともせず、空気抵抗や重力さえ感じさせない動きで、私を翻弄した。追いかけるだけで精一杯だった。
人目も憚らず、走る。
図書館では静かに、なんて言葉が頭の中から零れ落ちるくらい、夢中で走る。
随分と長く走っていたら、気がつくと、普段人があまりこなさそうな、図書館の角に迷い込んでいた。
天井からは蛍光灯の光が届いているはずなのに、どこか暗さを感じさせる、薄気味悪い空間。しかも、ここに駆け込んだはずの黒猫は忽然と消えてしまっていて。
明らかに、普段とは異なる空気が漂っていた。異なる雰囲気が支配していた。
今まで感じたことのない居心地の悪さに苛まれ、私はすぐに立ち去ろうとした、その時だった。
ふと足元に目を向けると、傍に本が落ちていたのだ。いつもなら、誰かが落としたのであろうとでも思っていたに違いない。だがその本は、様子がおかしかった。
この図書館の所有物であると示すラベルが貼られていない。保存状態も芳しくない。そして何より……妖気だ。その本が醸し出していた、オカルテイックな雰囲気。
どうしてそんなものが学校に、なんて些細なことは気にも留めず、この世のものとは思えない異彩を放つ本を拾い上げる。表紙にはタイトルと思しき文字列が並んでいるが、経年劣化の影響か、「×××風土記」とだけ認識できた。
震える手で、慎重にページをめくる。そこには、妖怪と人間が住む楽園での不思議な出来事が記録されていた。
◆
年末ということで大掃除をしていたら、数年前の日記が出てきた。独白めいた文章に、我ながら苦笑してしまう。どれだけ興奮していたのだろうか。
今思えば、これが、私と幻想郷との初めての出逢い。……ということになるのか。
結局の所、私を幻想へと導いたあの猫の行方は分からないままである。
確かに再び見つけ、捕まえてみたいとも思う。だが、それは恐らく叶わぬ願いだろう。
あの黒猫はきっと、量子の隙間に棲む妖怪猫なのだ。私に観測され初めて、この世界に存在を確定させたのだろう。今頃は、遠い別の世界で、もしかしたら別の時代にて、誰かの目の前をぴょこんと跳ね回り、異世界へ誘っているに違いない。
何処かに行ってしまったシュレディンガーの化猫に思いを馳せながら、私はとっちらかった部屋と再び向き合った。
それは、中学校の図書館での出来事だった。
退屈な授業が終わり、片付けをしてから、私は図書館へと向かった。授業の課題に必要だった資料を返却するためである。
普段ならすぐにでも帰路につくのだが、その日は何の気なしに立ち寄ってみることにした。
図書館。本という知識の塊を収容する場所。知の拠点。そこに無い知識は存在しない。そんなもの、昔の話だ。
今現在は、インターネットにあらゆる情報が存在している時代。本でさえ電子書籍化が進み、煩わしい前置きを読む必要も、パラパラとページをめくる必要もない。検索をかければ、瞬時に知りたい情報を手に入れられる。
嵩張る本の寄せ集めなんて所を使う機会は、読みたいが電子書籍化されていない本か、授業で指定された資料を借りるぐらいだ。
そんな現代的な思考が同級生にも浸透しているのか、この学校の図書館も閑古鳥が鳴いている。図書委員が作ったのであろう模造紙からは、どうにか利用者を増やそうという思いは感じられるものの、現状を見れば虚しさを抱く。現に、ここを利用している生徒の数はまばらだ。視界に入るだけでも、五人。図書館では静かに、という標語だけは守られている。
ただ、静かな空間というのは嫌いではない。考え事をするのにはもってこいだ。
空いていた椅子に座り、荷物を床に置き、ペンを持ち、ノートを机に広げる。真っ白なノートを。
……私は、疑問を抱いている。この世界に。違和感と言ってもよいだろう。狭い空間に無理矢理押し込まれているかのような、居心地の悪さ。どうしてこう息苦しい思いをしなければならないのか、と。
だから私は、その空間を、隔てる壁を破壊したいのだ。そして、破壊した向こう側へと……いうなれば、異世界へ行きたいのだ。
その壁は太古から境界と呼ばれ、研究されて、破る方法もネットに書いてあった。どれも眉唾ものではあるが、私の特別な力と組み合わせ、アレンジすれば問題ないはずだ。
問題は、その境界を認識できないことである。
物理的に存在しない、論理の境界。世界を分かつ結界。それらをより明確にするものが、知識だ。世界を曝くことは、世界を識ることと相違ない。
そのために、別世界への手がかりを、情報を探していた。異世界の情報であれば何でも吸収した。天国のことも、地獄のことも、神域のことも。それらは宗教的な書物やオカルティックな雑誌に数多記述されていた。
それらには、教科書に書かれた落書きよりも説得力はある。だが、確証に至れる程ののそれらしさは感じられない。あと一歩、足りない。境界を強固に、鮮明に視るには、何かが欠落していたのだ。
私には、それが何かわからなくて。八方塞がりだった。
自分の知識や力が足りないのか、世界は今生きているこの場所しか存在しないのか。
如何にこの袋小路から脱出するか、打開策をああでもないこうでもないと思考を巡らせつつ無意識にペンを走らせていた所為か、真っ白なノートには、いつのまにかくねくねとした曲線が描かれていた。
その線はまるで、迷走している自分を浮き彫りにしているかのようで。
苛立ちをつのらせながら、だらしない落書きを消すために消しゴムに手を伸ばした、その時。視界の隅を、小さな黒い塊が音も立てずに横切った。
反射的に視線を向けると、そこには、猫がいた。
全身が黒い毛で覆われていて、頭部から上に向かって生えている耳、長い尻尾、軽やかな身のこなし。見間違いなどではない。黒猫である。
図書館に猫? と首を傾げたものの、素行の悪い生徒が勝手に連れ込んだのだろう。早々にそう結論付けた。
ああいうものは無視に限る。そんな事を考えていると、名も知らぬ生徒が猫に近づいていった。きっと彼の仕業だろう。
しかし彼は足元に注意を向けることなどせず、猫に向かって歩いている。そのままだと蹴り飛ばしかねない状況が、刻一刻と迫っていた。
思わず声を上げようとした、その瞬間。彼の足が、猫の体を素通りしたのだ。……いや、猫が、人間の体を素通りしたのだ。
驚愕のあまり立ち上がると、それに反応したかのように、黒猫は走るスピードを上げた。
何かある。本能がそう告げていた。私は慌ててあの猫を追いかけることにした。
黒猫は、障害物を物ともせず、空気抵抗や重力さえ感じさせない動きで、私を翻弄した。追いかけるだけで精一杯だった。
人目も憚らず、走る。
図書館では静かに、なんて言葉が頭の中から零れ落ちるくらい、夢中で走る。
随分と長く走っていたら、気がつくと、普段人があまりこなさそうな、図書館の角に迷い込んでいた。
天井からは蛍光灯の光が届いているはずなのに、どこか暗さを感じさせる、薄気味悪い空間。しかも、ここに駆け込んだはずの黒猫は忽然と消えてしまっていて。
明らかに、普段とは異なる空気が漂っていた。異なる雰囲気が支配していた。
今まで感じたことのない居心地の悪さに苛まれ、私はすぐに立ち去ろうとした、その時だった。
ふと足元に目を向けると、傍に本が落ちていたのだ。いつもなら、誰かが落としたのであろうとでも思っていたに違いない。だがその本は、様子がおかしかった。
この図書館の所有物であると示すラベルが貼られていない。保存状態も芳しくない。そして何より……妖気だ。その本が醸し出していた、オカルテイックな雰囲気。
どうしてそんなものが学校に、なんて些細なことは気にも留めず、この世のものとは思えない異彩を放つ本を拾い上げる。表紙にはタイトルと思しき文字列が並んでいるが、経年劣化の影響か、「×××風土記」とだけ認識できた。
震える手で、慎重にページをめくる。そこには、妖怪と人間が住む楽園での不思議な出来事が記録されていた。
◆
年末ということで大掃除をしていたら、数年前の日記が出てきた。独白めいた文章に、我ながら苦笑してしまう。どれだけ興奮していたのだろうか。
今思えば、これが、私と幻想郷との初めての出逢い。……ということになるのか。
結局の所、私を幻想へと導いたあの猫の行方は分からないままである。
確かに再び見つけ、捕まえてみたいとも思う。だが、それは恐らく叶わぬ願いだろう。
あの黒猫はきっと、量子の隙間に棲む妖怪猫なのだ。私に観測され初めて、この世界に存在を確定させたのだろう。今頃は、遠い別の世界で、もしかしたら別の時代にて、誰かの目の前をぴょこんと跳ね回り、異世界へ誘っているに違いない。
何処かに行ってしまったシュレディンガーの化猫に思いを馳せながら、私はとっちらかった部屋と再び向き合った。
面白かったです
猫を追いかけて幻想に出会うという展開に少し不思議な雰囲気を感じました