その日の幻想郷は季節外れの長雨が降っていた。
長雨は人間はおろか妖怪までも鬱屈とした気分にさせるようで、外に出る者はほとんど居なかった。
古道具屋の香霖堂もその煽りを受けて早々に店を閉めていた。ここは普段から客が少ない活気の無い場所だが、暗い空気と閉鎖された空間により平素以上の静寂に満ちていた。
主の森近霖之助の誰に言うでもない言葉が空を切る。
「今日は以前仕入れた『車』と呼ばれる機械を解体しようと思っていたんだが……流石に屋内でやる作業ではないよなぁ」
溜息混じりに言葉は紡がれる。感情の起伏が基本的に少ない霖之助も予定が狂うと良い気はしない。
手元の古道具を遊ばせながら続ける。
「まぁやる事は大して変わらないが。それでもお客さんの来訪を全く期待できないのは堪えるな……」
するとその瞬間、目の前の空間が歪んだ。奥の壁さえ視認できなくなるほどの強い歪みだった。思わぬ事態に霖之助は反射的に勢いよく立ち上がる。
こんな場所で空間歪曲現象?体験したことのないその状況に、事態を見守るだけで動けないでいた。
やがてその歪みの中心から人の姿が現れる。それは少女の姿をしていて、霖之助にとっても見覚えのある者だった。
「はーい、ごきげんよう。可愛いお客さんが来ましたよっ」
予想だにしない軽口を叩く少女に最初は困惑したが、すぐに状況を理解し、言葉を返す。
「僕の知るお客さんは扉から入ってきてくれるんだけどね」
「細かいことはいいでしょう?こんな雨の中で来てくれるお客さんなんて貴重よ」
少女の名は八雲紫という。
霖之助にとっては以前ストーブの燃料が足りないとかで彼女に助けにきて貰ったり、知り合いの妖怪退治屋が世話になっていたりと、恩人と言っても差し支えのない存在である。
その正体は妖怪の賢者と呼ばれるほどの大妖怪のようだが、無駄に力を誇示したりはしない謙虚な人物……かもしれない。
何はともあれ、霖之助は紫があまり好きではない。あの言い様のない気味悪さや胡散臭い言動は、到底深い関わりを持ってはいけないと思えるからだった。
「さて、挨拶もこれぐらいにして……。森近霖之助、私についてきてもらいます」
「これはまた随分と唐突だね」
「従っていただけるかしら?」
「断らせてもらうよ」
霖之助は彼女の誘いを遮る。わざとらしく驚いた素振りを見せる紫はその理由を問いただす。
「あら、それは何故かしら?」
「君の言うことを聞いてもロクなことがない気がするんでね。それでいてそんな得体の知れない提案、とても乗れるものではないよ」
毅然とした態度で霖之助は少女にそう主張する。
大妖怪にも物怖じしない口振りは信念の強さゆえか、生への執着の薄さゆえか。
それを聞いた紫は不機嫌になるわけでもなく、むしろ上機嫌な様子で霖之助の顔を見る。
「随分と厳しいのねぇ。でもいいのかしら?せっかくあなたの大切な人が今まさに天に召されようとしていて、その人の最期に立ち会わせてあげようと思ったのに」
「何だって?」
僕の大切な人?天に召される?この少女は一体何を言っているんだ?
冗談を言うような語調ではないように思えた。まさか本当に誰かが……?
恐る恐る彼女に問い直す。
「どういう……意味だいそれは?」
「そのままの意味よ。私は貴方の大切な人が死の間際であることを知った。それを貴方に伝えて最後の会話くらいさせてあげようと思った。簡単でしょ?」
「簡単に言ってくれる。それで……誰が死にかけているって言うんだ?」
「あーら、話自体は信じてくれるのね?でも、今はまだ教えてあげないわ」
「何故」
「その方がサプライズで面白いから。あと私に冷たくしたから」
霖之助は心底眼前の少女は妖怪なんだと思わされた。
なんてふざけているんだ。自分にも半分は妖怪の血が流れているがここまで酷い趣味は持ち合わせていない。
「……分かった。行くよ。拒否しても結局強引に連れてかれそうな気がしてきたし」
「物分かりが良くて助かるわ。皆あなたみたいな人だったら良いのにねぇ」
……癪に障る言い方だった。聞き分けの良い馬鹿な犬とでも思われているのだろうか。
「でも勘違いしないでくれよ。僕は僕の意志で動くだけで、君に縛られるつもりはないからな」
「ふふふっ、つくづく長生きできなそうなことを言うのね。まぁ、とにかく行きましょ?」
紫はそう言うと、先程の空間の歪み……スキマを人一人通れるまでの大きさに拡張させ、霖之助を手招きする。
彼もそれに応じ、紫の後をついていく。
スキマの中、全方面から目のようなものがこちらを見つめる摩訶不思議な空間を二人は歩いていく。
居るだけで狂気を発現しかねない場所のように霖之助は感じ取ったが、それでも冷静でいられたのは紫が打って変わって真剣な顔をしていたからだろうか。
ある程度したところで紫は空間の一部分を指し示す。どうやらそこが目的地に繋がっているようだ。
空間をくぐり抜けると、そこは木々に囲まれた草原が広がっていて、中央には人が住んでいるらしい小屋があった。
そこがどこであるかは定かではないが、とりあえず幻想郷の一部分であることは間違いないらしい。
「さぁ、着きました。ここに貴方を待つ人がいるわ」
「……やはり何かの間違いなんじゃないか?見当さえつかない場所に知り合いが居るとは思えないのだが」
「まぁまぁ。ほら、小屋の扉を開けて。雨にも濡れちゃうし」
相変わらずまともに取り合ってくれないようなので霖之助は早々にこれ以上の詮索を諦めた。
扉を開くと、そこは一目で人が住んでいることが分かる生活感のある部屋に繋がっていた。
使い古された本棚、普段食事等をしているであろう机、仕事か趣味で使っているのか揃えられている工具の数々……何てことのない、普通の部屋に思えた。
しかし、部屋の隅の寝床で虫の息になっている女性の存在がその光景を異質なものに変容させていた。
思わず霖之助は女性に駆け寄った。
顔は真っ青で、必死に痛みに耐えている表情をしていた。身体も小さく震えていて、事態は急を要することを物語っている。
顔を見た霖之助だったが、やはりその人物には覚えが無かった。しかしそれでもどこか既視感が……。様々な思いが交錯する霖之助に女性は言葉を投げかける。
「霖之助……霖之助ね……?あぁ、そんなに大きくなって……」
霖之助は目を見開いた。たった一声だが、その声、その口調は、彼方の記憶を想起させるものだった。
名前が浮かばないだけで彼女とはどこかで出会っている……?驚嘆する霖之助を尻目に女性は続ける。
「風の噂で……森で道具屋を営んでいるって聞いたわ。上手くやってるかしら……?子供の時から蒐集や研究の類が好きだったものね……」
霖之助は半信半疑のある仮定を立てていた。
そんな事実はあるわけない、そう思っていたが最早疑う余地も無いような気がしてきた。耐えかねて遂にその疑念を吐露する。
「母さん……なのか……?」
「……えぇ。覚えていてくれて嬉しいわ……」
横たわるその女性は、霖之助の片親、妖怪の母だった。
半妖故に長く生きてきた上に、幼い頃の記憶だけで、いつどのようにして今のように生き別れたかは定かではない。
そんな母とこのような形で再会するなんて……。
「聞いてっ、私はもうじき死んでしまう……。だからその前に貴方に一言掛けたかったの」
「い、一体何なんだ。何もかも唐突すぎるよッ」
「詳しいことはそこの……紫さんから聞いて。それより、もっと顔を近くで見せて……」
そう言うと彼女は、力無く霖之助の顔に手を添える。
「ふ……ふふ……良かった……大きくなったけど子供の頃の優しい目はそのままね……」
「……」
彼女の声は次第に小さくなっていて、呼吸も乱れてきている。
もう無理して喋らなくて良い、頭ではそう思っているが必死の思いで動く彼女を制止させる勇気が霖之助には無かった。
「貴方は人間と妖怪の両方の血が流れ、どちらからも良い目では見られないかもしれないけど……どうか、恨んだりせず優しい貴方のままで……いて……」
絞るように言葉を投げかける彼女だが、それを最後に伸ばした両腕は糸が切れた人形のように落ちていく……。
「母さん……?母さん!!」
霖之助の母は、息子が見守る前で息を引き取った。
その顔は、どこか笑みを浮かべているようで、幸福な最期に思えた……。
「……彼女の死因は毒死よ」
霖之助の弱々しい背中の後ろで、紫は冷淡に事実を述べ始めた。
「どこの世界にも過激派というものは居ましてね、極端な人間主義……言ってしまえば妖怪を排除しようとする団体が彼女を騙し、毒を盛った。それが今回の顛末よ」
「……」
「その団体の活動を以前から監視していた私は彼女にまで行き着いたけど、遅かった。ならばせめてと思って彼女の『会いたい人が居る』という要望を聞き、それに応えた」
「それが僕、か……」
霖之助は紫に振り向くこと無く、言葉を噛み締める。
……何故少し前まで存在さえ忘却していた者の死でこんなにも悲しくなるのだろうか?それにこんな親不孝に、最後に会いたかった?
僕は母さんに何をしてやれた?何もしていない、むしろこんな半端者を産んだことに恨みをぶつけたことだって……。
……しばらく沈黙が続いた。
そして霖之助はようやく紫にその腫れた目を向け、語り始める。
「貴重な瞬間に立ち会わせてくれて、どうもありがとう。僕はこれで帰らせてもらうよ」
「……もう良いのかしら?貴方さえ望めばこの事件の黒幕に一矢報いたり、色々協力するのだけれど……」
霖之助は首を横に振る。
「最初に言っただろう。僕は僕の意志だけで動く。もう……良いんだよ、そういう事は……」
「……分かったわ。貴方の意志を尊重します」
紫は再びスキマを展開すると、すぐに香霖堂に直通する道を構築する。
霖之助はそこに入り、今度は一人で香霖堂へと帰っていく。
もうスキマに怯えたり困惑したりする様子は無い。しかし、その歩みは鉛でも繋がれているかのように重くなっていた。
静寂に包まれた部屋に一人残された紫は、軽く咳払いをする。
「藍、そこにいるんでしょ?隠れてないで出てきなさいな」
「ありゃ、バレてましたか。まぁすぐに出ていくつもりでしたが……」
部屋の中央から、九尾の妖怪であり紫の従者である八雲藍が姿を現した。
結界を用いて潜伏していたらしく、事態の始終も把握しているようだ。
「紫様。いいんですか、あの男を行かせてしまって」
「何か気にかかることでも?」
「母親の死を目にしたんですよ。人の心は脆い。あのまま自殺でもしてしまったらどうするおつもりですか」
「それはきっと大丈夫よ。そんなヤワじゃないわ」
「本当ですか……」
藍をよそに紫は物言わぬ亡骸に向き直す。そして目を閉じて軽く手を合わせた。
「貴方もよく頑張りました。あなたが聡明で強健な母親でいてくれたからこそ今の彼が居ます。感謝を」
意見を聞き入れずに自由に振る舞う紫に藍は少し苛立つ。
せめて監視役として自分がここに来たことを悟って貰おうと、改めて紫に問い直す。
「……ところで紫様……その女は何人産んだんでしょうか?」
それを聞くと紫はこれまでに無い神妙な表情を見せる。少しの間を空けてそれに応える。
「正確な数は私にも分からないわ。でも一人ではないのは確かね」
亡骸を見つめたまま、紫は更に続ける。
「思い返せば貴方は本当に優秀だった……質の悪い『種』でも慈悲深き母のように受け入れる素晴らしい『畑』だった……。
それは一人の人間の母親としてもだった。最初にあの森近霖之助を産み、彼の基礎を築き上げた。……私が彼を引き取る時の貴方の顔は今でも覚えています」
「……外の世界では、かつて思想家や文豪と言われた存在が消えかけているわ。
最低限の生活は法によって守られ、人々は価値観を共有し、精神は変革を恐れている。生きることの意味を上辺でしか語ることのできない脆弱な者たちが外の世界には蔓延している……。
幻想郷が同じようになれば、もはやそこは幻想郷ではなくなってしまう……。
だから私は受難を与え、無意識に混沌に傾倒する人々を修正する導き手を作る。
受難、それは生命を貴び人生の在り方を真摯に見るための飢餓、虐待、孤独。
受難に耐え得る子は、選ばれた『種』と『畑』を次々に掛け合わせることで生成される。失敗は多かれどアダムとイヴは必ず結ばれる。導き手は必ず生まれる。
……すべては幻想郷がいつまでも楽園であるために」
一通り語ると紫は、熱が入り過ぎてしまったと我に返る。
黙って聞かせてしまった藍に言葉を求める。
「……藍、貴方は私を止めないかしら。このやり方で全幅の信頼を寄せて貰えるなんて思っていないのだけれど」
紫は藍に顔を向けない。
藍は、彼女を振り向かせるためであるかのように、主張を示す。
「貴方はこの楽園の王だ。そこにあるものは全て貴方の所有物であり、生かすも殺すも全ては貴方の権限だ。貴方が正しいと思えば、それは正しい。選ばれし楽園の導き手も自身に定められた使命の大きさを知れば喜びに打ち震えることでしょう」
迷いなく藍は答えた。
あまりにも従者然とした言葉に紫は思わず笑ってしまう。しかし同時に安堵もした。絶対的な味方が居るということほど心強いものはないのだから。
するとその時、どこからか赤子の泣き声が響いてきた。
藍が焦って背中に手を回す。どうやら赤子をおぶっていたようだ。
「おぉ、よしよし……もう少しだから泣くんじゃないぞ……っと」
「藍、その子は?」
「服に付けられたこのタグに見覚えがありませんか。特別な子にはタグを付けています。この色のタグは……」
「……もしかして」
「えぇ、あの男の父方の子孫……ということになりますかね」
紫は藍から赤子を受け取り、抱き上げる。
そして安らかな表情で、赤子に話し始める。
「血族が一人旅立ったところに新たな血族が生を受ける……これも天命でしょうか。
貴方に実りある受難を与えることを約束いたします。大丈夫、貴方は『森近』の名を冠する者なのですから……」
……やりとりを交わす二人の立つ場所には、窓から雨の終わりを示す陽の光が燦燦と射してきた。
窓からは、雨上がりの美しい幻想郷がその姿を覗かせていた……。
長雨は人間はおろか妖怪までも鬱屈とした気分にさせるようで、外に出る者はほとんど居なかった。
古道具屋の香霖堂もその煽りを受けて早々に店を閉めていた。ここは普段から客が少ない活気の無い場所だが、暗い空気と閉鎖された空間により平素以上の静寂に満ちていた。
主の森近霖之助の誰に言うでもない言葉が空を切る。
「今日は以前仕入れた『車』と呼ばれる機械を解体しようと思っていたんだが……流石に屋内でやる作業ではないよなぁ」
溜息混じりに言葉は紡がれる。感情の起伏が基本的に少ない霖之助も予定が狂うと良い気はしない。
手元の古道具を遊ばせながら続ける。
「まぁやる事は大して変わらないが。それでもお客さんの来訪を全く期待できないのは堪えるな……」
するとその瞬間、目の前の空間が歪んだ。奥の壁さえ視認できなくなるほどの強い歪みだった。思わぬ事態に霖之助は反射的に勢いよく立ち上がる。
こんな場所で空間歪曲現象?体験したことのないその状況に、事態を見守るだけで動けないでいた。
やがてその歪みの中心から人の姿が現れる。それは少女の姿をしていて、霖之助にとっても見覚えのある者だった。
「はーい、ごきげんよう。可愛いお客さんが来ましたよっ」
予想だにしない軽口を叩く少女に最初は困惑したが、すぐに状況を理解し、言葉を返す。
「僕の知るお客さんは扉から入ってきてくれるんだけどね」
「細かいことはいいでしょう?こんな雨の中で来てくれるお客さんなんて貴重よ」
少女の名は八雲紫という。
霖之助にとっては以前ストーブの燃料が足りないとかで彼女に助けにきて貰ったり、知り合いの妖怪退治屋が世話になっていたりと、恩人と言っても差し支えのない存在である。
その正体は妖怪の賢者と呼ばれるほどの大妖怪のようだが、無駄に力を誇示したりはしない謙虚な人物……かもしれない。
何はともあれ、霖之助は紫があまり好きではない。あの言い様のない気味悪さや胡散臭い言動は、到底深い関わりを持ってはいけないと思えるからだった。
「さて、挨拶もこれぐらいにして……。森近霖之助、私についてきてもらいます」
「これはまた随分と唐突だね」
「従っていただけるかしら?」
「断らせてもらうよ」
霖之助は彼女の誘いを遮る。わざとらしく驚いた素振りを見せる紫はその理由を問いただす。
「あら、それは何故かしら?」
「君の言うことを聞いてもロクなことがない気がするんでね。それでいてそんな得体の知れない提案、とても乗れるものではないよ」
毅然とした態度で霖之助は少女にそう主張する。
大妖怪にも物怖じしない口振りは信念の強さゆえか、生への執着の薄さゆえか。
それを聞いた紫は不機嫌になるわけでもなく、むしろ上機嫌な様子で霖之助の顔を見る。
「随分と厳しいのねぇ。でもいいのかしら?せっかくあなたの大切な人が今まさに天に召されようとしていて、その人の最期に立ち会わせてあげようと思ったのに」
「何だって?」
僕の大切な人?天に召される?この少女は一体何を言っているんだ?
冗談を言うような語調ではないように思えた。まさか本当に誰かが……?
恐る恐る彼女に問い直す。
「どういう……意味だいそれは?」
「そのままの意味よ。私は貴方の大切な人が死の間際であることを知った。それを貴方に伝えて最後の会話くらいさせてあげようと思った。簡単でしょ?」
「簡単に言ってくれる。それで……誰が死にかけているって言うんだ?」
「あーら、話自体は信じてくれるのね?でも、今はまだ教えてあげないわ」
「何故」
「その方がサプライズで面白いから。あと私に冷たくしたから」
霖之助は心底眼前の少女は妖怪なんだと思わされた。
なんてふざけているんだ。自分にも半分は妖怪の血が流れているがここまで酷い趣味は持ち合わせていない。
「……分かった。行くよ。拒否しても結局強引に連れてかれそうな気がしてきたし」
「物分かりが良くて助かるわ。皆あなたみたいな人だったら良いのにねぇ」
……癪に障る言い方だった。聞き分けの良い馬鹿な犬とでも思われているのだろうか。
「でも勘違いしないでくれよ。僕は僕の意志で動くだけで、君に縛られるつもりはないからな」
「ふふふっ、つくづく長生きできなそうなことを言うのね。まぁ、とにかく行きましょ?」
紫はそう言うと、先程の空間の歪み……スキマを人一人通れるまでの大きさに拡張させ、霖之助を手招きする。
彼もそれに応じ、紫の後をついていく。
スキマの中、全方面から目のようなものがこちらを見つめる摩訶不思議な空間を二人は歩いていく。
居るだけで狂気を発現しかねない場所のように霖之助は感じ取ったが、それでも冷静でいられたのは紫が打って変わって真剣な顔をしていたからだろうか。
ある程度したところで紫は空間の一部分を指し示す。どうやらそこが目的地に繋がっているようだ。
空間をくぐり抜けると、そこは木々に囲まれた草原が広がっていて、中央には人が住んでいるらしい小屋があった。
そこがどこであるかは定かではないが、とりあえず幻想郷の一部分であることは間違いないらしい。
「さぁ、着きました。ここに貴方を待つ人がいるわ」
「……やはり何かの間違いなんじゃないか?見当さえつかない場所に知り合いが居るとは思えないのだが」
「まぁまぁ。ほら、小屋の扉を開けて。雨にも濡れちゃうし」
相変わらずまともに取り合ってくれないようなので霖之助は早々にこれ以上の詮索を諦めた。
扉を開くと、そこは一目で人が住んでいることが分かる生活感のある部屋に繋がっていた。
使い古された本棚、普段食事等をしているであろう机、仕事か趣味で使っているのか揃えられている工具の数々……何てことのない、普通の部屋に思えた。
しかし、部屋の隅の寝床で虫の息になっている女性の存在がその光景を異質なものに変容させていた。
思わず霖之助は女性に駆け寄った。
顔は真っ青で、必死に痛みに耐えている表情をしていた。身体も小さく震えていて、事態は急を要することを物語っている。
顔を見た霖之助だったが、やはりその人物には覚えが無かった。しかしそれでもどこか既視感が……。様々な思いが交錯する霖之助に女性は言葉を投げかける。
「霖之助……霖之助ね……?あぁ、そんなに大きくなって……」
霖之助は目を見開いた。たった一声だが、その声、その口調は、彼方の記憶を想起させるものだった。
名前が浮かばないだけで彼女とはどこかで出会っている……?驚嘆する霖之助を尻目に女性は続ける。
「風の噂で……森で道具屋を営んでいるって聞いたわ。上手くやってるかしら……?子供の時から蒐集や研究の類が好きだったものね……」
霖之助は半信半疑のある仮定を立てていた。
そんな事実はあるわけない、そう思っていたが最早疑う余地も無いような気がしてきた。耐えかねて遂にその疑念を吐露する。
「母さん……なのか……?」
「……えぇ。覚えていてくれて嬉しいわ……」
横たわるその女性は、霖之助の片親、妖怪の母だった。
半妖故に長く生きてきた上に、幼い頃の記憶だけで、いつどのようにして今のように生き別れたかは定かではない。
そんな母とこのような形で再会するなんて……。
「聞いてっ、私はもうじき死んでしまう……。だからその前に貴方に一言掛けたかったの」
「い、一体何なんだ。何もかも唐突すぎるよッ」
「詳しいことはそこの……紫さんから聞いて。それより、もっと顔を近くで見せて……」
そう言うと彼女は、力無く霖之助の顔に手を添える。
「ふ……ふふ……良かった……大きくなったけど子供の頃の優しい目はそのままね……」
「……」
彼女の声は次第に小さくなっていて、呼吸も乱れてきている。
もう無理して喋らなくて良い、頭ではそう思っているが必死の思いで動く彼女を制止させる勇気が霖之助には無かった。
「貴方は人間と妖怪の両方の血が流れ、どちらからも良い目では見られないかもしれないけど……どうか、恨んだりせず優しい貴方のままで……いて……」
絞るように言葉を投げかける彼女だが、それを最後に伸ばした両腕は糸が切れた人形のように落ちていく……。
「母さん……?母さん!!」
霖之助の母は、息子が見守る前で息を引き取った。
その顔は、どこか笑みを浮かべているようで、幸福な最期に思えた……。
「……彼女の死因は毒死よ」
霖之助の弱々しい背中の後ろで、紫は冷淡に事実を述べ始めた。
「どこの世界にも過激派というものは居ましてね、極端な人間主義……言ってしまえば妖怪を排除しようとする団体が彼女を騙し、毒を盛った。それが今回の顛末よ」
「……」
「その団体の活動を以前から監視していた私は彼女にまで行き着いたけど、遅かった。ならばせめてと思って彼女の『会いたい人が居る』という要望を聞き、それに応えた」
「それが僕、か……」
霖之助は紫に振り向くこと無く、言葉を噛み締める。
……何故少し前まで存在さえ忘却していた者の死でこんなにも悲しくなるのだろうか?それにこんな親不孝に、最後に会いたかった?
僕は母さんに何をしてやれた?何もしていない、むしろこんな半端者を産んだことに恨みをぶつけたことだって……。
……しばらく沈黙が続いた。
そして霖之助はようやく紫にその腫れた目を向け、語り始める。
「貴重な瞬間に立ち会わせてくれて、どうもありがとう。僕はこれで帰らせてもらうよ」
「……もう良いのかしら?貴方さえ望めばこの事件の黒幕に一矢報いたり、色々協力するのだけれど……」
霖之助は首を横に振る。
「最初に言っただろう。僕は僕の意志だけで動く。もう……良いんだよ、そういう事は……」
「……分かったわ。貴方の意志を尊重します」
紫は再びスキマを展開すると、すぐに香霖堂に直通する道を構築する。
霖之助はそこに入り、今度は一人で香霖堂へと帰っていく。
もうスキマに怯えたり困惑したりする様子は無い。しかし、その歩みは鉛でも繋がれているかのように重くなっていた。
静寂に包まれた部屋に一人残された紫は、軽く咳払いをする。
「藍、そこにいるんでしょ?隠れてないで出てきなさいな」
「ありゃ、バレてましたか。まぁすぐに出ていくつもりでしたが……」
部屋の中央から、九尾の妖怪であり紫の従者である八雲藍が姿を現した。
結界を用いて潜伏していたらしく、事態の始終も把握しているようだ。
「紫様。いいんですか、あの男を行かせてしまって」
「何か気にかかることでも?」
「母親の死を目にしたんですよ。人の心は脆い。あのまま自殺でもしてしまったらどうするおつもりですか」
「それはきっと大丈夫よ。そんなヤワじゃないわ」
「本当ですか……」
藍をよそに紫は物言わぬ亡骸に向き直す。そして目を閉じて軽く手を合わせた。
「貴方もよく頑張りました。あなたが聡明で強健な母親でいてくれたからこそ今の彼が居ます。感謝を」
意見を聞き入れずに自由に振る舞う紫に藍は少し苛立つ。
せめて監視役として自分がここに来たことを悟って貰おうと、改めて紫に問い直す。
「……ところで紫様……その女は何人産んだんでしょうか?」
それを聞くと紫はこれまでに無い神妙な表情を見せる。少しの間を空けてそれに応える。
「正確な数は私にも分からないわ。でも一人ではないのは確かね」
亡骸を見つめたまま、紫は更に続ける。
「思い返せば貴方は本当に優秀だった……質の悪い『種』でも慈悲深き母のように受け入れる素晴らしい『畑』だった……。
それは一人の人間の母親としてもだった。最初にあの森近霖之助を産み、彼の基礎を築き上げた。……私が彼を引き取る時の貴方の顔は今でも覚えています」
「……外の世界では、かつて思想家や文豪と言われた存在が消えかけているわ。
最低限の生活は法によって守られ、人々は価値観を共有し、精神は変革を恐れている。生きることの意味を上辺でしか語ることのできない脆弱な者たちが外の世界には蔓延している……。
幻想郷が同じようになれば、もはやそこは幻想郷ではなくなってしまう……。
だから私は受難を与え、無意識に混沌に傾倒する人々を修正する導き手を作る。
受難、それは生命を貴び人生の在り方を真摯に見るための飢餓、虐待、孤独。
受難に耐え得る子は、選ばれた『種』と『畑』を次々に掛け合わせることで生成される。失敗は多かれどアダムとイヴは必ず結ばれる。導き手は必ず生まれる。
……すべては幻想郷がいつまでも楽園であるために」
一通り語ると紫は、熱が入り過ぎてしまったと我に返る。
黙って聞かせてしまった藍に言葉を求める。
「……藍、貴方は私を止めないかしら。このやり方で全幅の信頼を寄せて貰えるなんて思っていないのだけれど」
紫は藍に顔を向けない。
藍は、彼女を振り向かせるためであるかのように、主張を示す。
「貴方はこの楽園の王だ。そこにあるものは全て貴方の所有物であり、生かすも殺すも全ては貴方の権限だ。貴方が正しいと思えば、それは正しい。選ばれし楽園の導き手も自身に定められた使命の大きさを知れば喜びに打ち震えることでしょう」
迷いなく藍は答えた。
あまりにも従者然とした言葉に紫は思わず笑ってしまう。しかし同時に安堵もした。絶対的な味方が居るということほど心強いものはないのだから。
するとその時、どこからか赤子の泣き声が響いてきた。
藍が焦って背中に手を回す。どうやら赤子をおぶっていたようだ。
「おぉ、よしよし……もう少しだから泣くんじゃないぞ……っと」
「藍、その子は?」
「服に付けられたこのタグに見覚えがありませんか。特別な子にはタグを付けています。この色のタグは……」
「……もしかして」
「えぇ、あの男の父方の子孫……ということになりますかね」
紫は藍から赤子を受け取り、抱き上げる。
そして安らかな表情で、赤子に話し始める。
「血族が一人旅立ったところに新たな血族が生を受ける……これも天命でしょうか。
貴方に実りある受難を与えることを約束いたします。大丈夫、貴方は『森近』の名を冠する者なのですから……」
……やりとりを交わす二人の立つ場所には、窓から雨の終わりを示す陽の光が燦燦と射してきた。
窓からは、雨上がりの美しい幻想郷がその姿を覗かせていた……。
面白かったです。御馳走様でした
短いながらも各人のバックボーンや性格の違いがしっかり描かれていたことが印象的でした
こんな裏設定あったらきっと楽しいと思います