ゆっくりと息を吐く。肩の力を抜いて、それから目の前の本のページに意識を集中する。書かれた文字の羅列から浮かび上がる映像の切れ端に音がつき、ありもしない香りが漂い始める。時によっては肌寒くなったような錯覚に陥る。さらに深くのめり込んでいくと一つのシーンが脳内に組み立てられる。登場人物が私に話しかけてきて気がつけばその本の中に魂が呑み込まれたような感覚を味わう。読書の醍醐味ここに極まりというやつだ。
◇
用意された藤椅子に深く腰掛けて空気を吸い込む。日暮れの蒼暗さに指先が呑み込まれる。夕日が名残惜しそうに差し込む机の上で切り子細工のグラスが汗をかく。夏至が近くいつまでも居座っている昼間がようやく濃紺の色に蕩けてはじめている。
自分の輪郭もあやふやになるような薄暗さの中で涼しい風が山から下りてきてまぁこのまま溶けても良いかなんて考えも浮かぶ。くだらないと一人不気味に笑う前に阿求の声がした。
「もう少しまってね」
障子越しに阿求は紙を片付ける様子で、そのせわしなさからずいぶん慌てているのだなと感じておかしくなる。阿求でも慌てるんだ。かわいい。
阿求はこういう昼が長いときは昼間に仕事を片付けることができるから好きだと以前語っていて。確かに日が長い分明かりが無くても仕事ができるだろう。今日はどれくらい進んだのだろうか。そんな事、こちらから尋ねなくてもきっと教えてくれるだろう。
「こんばんは」
片手に煙管を挟んで、もう片方の手を振りながら阿求は現れた。煙管からは焼けた草木の香りがする。大人とは言えない身体だけど、その手慣れた仕草からして相当嗜んでいるんだろう。以前器用に火種を掌で転がしながら次の葉を煙管に詰め込んだりするなんていう芸当も見せてくれた。たぶん阿求は世界の楽しみ方は私の十倍は知っているだろう。それが見た目の年齢に応じた楽しみ方かどうかは私には分からない。
◇
阿求のそういうところを知ったのは最近のことだ。そもそも阿求のことを深く知ったこともつい最近だった。それまで私は彼女と話したことすらなかったし、漠然と「稗田」という名前からイメージされる記号の集合体を思い浮かべる事で稗田のことは知ったと言っても何も不自由しないほど私の生活からはほど遠い存在だった。
それがある日、彼女が店にやってきてのことでいろいろと教えてあげるわ。という言葉につられて彼女の家に通うようになった。日中は忙しいからと日暮れから集まり、しばらくとりとめのない色々な事を語り合う、
◇
たとえば私たちは本について語り合う。人々の記憶の霊廟とも言える本棚を褒める、なんて人並みな事はせず、
世の中の人々がいかに自意識過剰な冒険譚や、些末な経験を元にしたありもしないサクセスストーリーや、すぐに世界が愛する二人を中心に添える恋物語――端から見れば正気を失っている――などを求めるのか。
自分とはかけ離れた登場人物に誰それかまわず感情移入しては勝手に恨み辛みを感じた気になって何になるのか。
もう少しましなことは残せなかったのか。阿求曰くそういう本の中で精神的な湯治をして、その後現実での生活に戻っていくのだと言うことだった。なるほど。思い当たることはたくさんある。ただ阿求はそういったたぐいの本は書いた試しがないらしい。彼女の中には夢を見た記憶は無かったのだろうかと尋ねてみた。どうやらあるらしい。
彼女にとって蔵書にしたためていない知識はこの倉の中にある蔵書と同じ分ほど残っているらしい。その彼女が言うのだからまぁそれほど的外れだとは想わない。阿求の話し方はとても不思議だ。抑揚のない声で語るのに彼女の言葉は様々な情景を心の中に浮かばせる。たとえば彼女が冬について語ればそこがどこであれ森閑とした白一色の世界に変わる程だから。くだらない冗談を言い合いながらこの時間の価値をこんな無駄話に費やしても良い物かと考える。
だって彼女と話そうとする者はこの幻想郷には星の数ほど居るだろうから。
なんせこの夏が終わるころに阿求は転生するのだ。
◇
一般的にその人自身の身体が滅びるときは悲しむのだろう。でも本人は諸々の面倒ごとから解放されたとみえて遅れてやってきた我が世の春を謳歌するかのごとく楽しんでいる。
転生が近づき誰もがこぞって阿求の言葉を聞きたがる昨今において、彼女の言葉を独り占めできることはほんのちょっぴりの優越感と不安をかき立てる。
◇
「魔理沙の八卦について形は知っていても彼女自身もあの意味を知らないでしょうね」
「そうかもね。あの子は使えたらいいでしょうから」
いくつかの異変とそれにまつわる魔理沙の活躍。全てを見てきたかのように語る阿求は手厳しい言葉を吐くことが多いけれど、解れた糸のように見えかくれする皮肉はどうしてだろうか私の心を和ませる。慧音先生のあの帽子の意味。そして冥界の姫が放つ青白く光る蝶についてなどなど、彼女が語れば私はその言葉から映像を思い浮かべる。見たことが無くても言葉の切れ端から様々な映像を思い浮かべようとする。
◇
私についてはどのような言葉で語るのだろう。
ハクタクや魔理沙の八卦炉や、語るべき異変の人々の象徴のように美しく光るだろうか。
できれば友人として語られることを望んでいる。
◇
「ねぇお酒を飲みましょう?」
いつものように書斎の本棚にもたれかかってから深呼吸をして阿求は呟く。
障子の隙間から流れ込んでくる夜の風は雨の香りをしっとりと含んでいて、ここに来てからずいぶん時間が過ぎたのだと気がつく。切り子細工のグラスにとくとくと注がれたお酒はずいぶんと冷たくて、私はちびちびと唇を湿らせることしかできないのに阿求は手慣れた様子でグラスを口に運んだ。大人のようだった。
「阿求はお酒飲むんだ」
「ずいぶん前には沢山飲んだわ」
多分彼女がいう「ずいぶん前」というのは前世のこともあるのだろうと考える。
部屋の隅では虫が障子にぶつかってとんとん、と静かに音を立てていた。
虫の様子を見ながら阿求は呟いた、
「来世は普通の百姓にでも生まれたいわ」
そう呟いた彼女はなんだか寂しそうで、でもそれを邪魔しないでと言っているようだった。阿求はそれから幻想郷の農民の姿を教えてくれた。太陽が出てきて、草を抜き、肥料を与え、すり切れたぼろを纏って田で泥まみれになる。彼女がそんなことをしている姿は――一生想像出来そうにない
阿求だって酔っ払う。畳の目に沿ってゆっくりと倒れ、死んだと笑う阿求に呆気にとられる。横目で私を見ながら阿求は呟いた。
「少し歩きましょう」
「歩けるの?」
「歩くのよ」
歩きたい気分なのだろうか。外に出ると月明かりも雲もなく空は星のきらめきで満ちていた。
「しばらくの間は、この星空を拝めないから」
「そう」
失われる事を大して気にしていないように取り繕っている。そう感じた。
◇
夜の道は行灯が無くても歩けるほど明るくて、山から吹き下ろしてくる冷たい風が昼間のぐにゃりとした感覚を直してくれるようで
「転生って怖い?」
「ううん、なんて言うか衣替えみたいな感じかしら」
煙管の中の灰をとんとんと捨ててから阿求は呟いた。衣替えのように着替えて、次に期待するのが百姓かと思った。
「私は寂しいかな。阿求が居ないと寂しい」
「私だって寂しいのでもそれは……どうしようもないことだから」
ねぇ。と阿求は話し始めた。折しも月を覆っていた雲が途切れ、湖に一筋の柔らかな光を描いていた。
「私のこと、あなたならどう書くかしら?」
「どういうこと?」
「ねぇ。私について書かれたものはどこにも無いの。ただ私が書いたものが残るだけ。
ねぇ私が生きていた事を覚えようとしている人って誰も居ないの」
「でもあなたの傍には沢山の人が居る」
「そう、でもそうじゃない。あなたのように私の友達としておぼえていてくれる人の話を聞いてみたいの」
阿求は白っぽい月明かりの中で静かに語った。
「あなたのお姉さんみたいになってみたかったの」
「お姉さん?」
「これまで何度も転生をしてきたけれど、ついぞ妹らしい人には出会えなくて。でもこうしてあなたに色々と教える事ができる。これはお姉さんじゃないと出来ないかな。なんて考えてるわ」
人里の合間を流れる川はてらてらと光を照り返していた
「自分がまだ人間だという確証が欲しいの」
「あなたは人間よ」
話が好きな少女そのものだった。もちろん言葉の端々には私では到底届かない深い深い洞察が絡みついていたけれど、
堅苦しい話をするときは大抵お酒を飲んでいたし、言葉じりもどこか丸まっていて私が困ることはあまりなかった。
他はどうか知らない。同じ時間を過ごしてくれる誰かを求めていたのかもしれないと思う。
「ありがとう。でも書き物に残せない記憶、記録に残らない記憶はあなたが持っておいて」
いつものように阿求は切り上げた。
「それじゃあ」
いつも通り。そうして阿求は転生を行ったのだった。
◇
阿求が居なくなって私はほんの少しだけ泣いた。
◇
春が暑さに溶けて終わり、夏が台風で吹き飛んで終わり、秋が冬の霜にやられて過ぎて行った。暦が移り変わり私の生活はいつの間にか平坦な日々へと戻ろうとしていた。でもその間私は一つの本を書き上げようと苦労していた。
あらゆる幽霊が出てくる西洋の屋敷、八卦、死についてを混ぜ合わせたものに皮肉をたっぷり振りかけた物語は完成しようとしていた。
「できたかな」
己の下手な文章の向こう側に居る阿求を見つけようと深く深く読み返す。そうすると次第にあの日々の事が蘇ってくる。八卦について、蝶について、歴史について、古い古い人々について。それを読めば楽しそうに語る阿求がそばに居るような気がする。そんな追憶の夜。あの日々の残滓。阿求との思い出が一冊の本から蘇ってくる。
阿求について私はこう記した。
「稗田阿求は本居小鈴の良き友であり、来世は百姓になりたいと言っている人間である。少し口が悪いがその奥にあるのは前向きさと気楽さだった」
肩の力を抜く、ゆっくりと息を吐いて心を落ち着ける。
それから目の前の本のページに意識を集中する。書かれた文字の羅列から浮かび上がる映像の切れ端に音がつき、香りが漂い始める。文字の流れによっては肌寒くなったような錯覚に陥る。さらに深くのめり込んでいくと一つのシーンが脳内に組み立てられる。登場人物が私に話しかけてきて気がつけばその本の中に魂が呑み込まれたような感覚を味わう。
この本を読むとき私は阿求が側に居てくれるような気がする。
それは最上の悦びではないだろうか。いつまでも続く幸せな記憶なのだから。
◇
用意された藤椅子に深く腰掛けて空気を吸い込む。日暮れの蒼暗さに指先が呑み込まれる。夕日が名残惜しそうに差し込む机の上で切り子細工のグラスが汗をかく。夏至が近くいつまでも居座っている昼間がようやく濃紺の色に蕩けてはじめている。
自分の輪郭もあやふやになるような薄暗さの中で涼しい風が山から下りてきてまぁこのまま溶けても良いかなんて考えも浮かぶ。くだらないと一人不気味に笑う前に阿求の声がした。
「もう少しまってね」
障子越しに阿求は紙を片付ける様子で、そのせわしなさからずいぶん慌てているのだなと感じておかしくなる。阿求でも慌てるんだ。かわいい。
阿求はこういう昼が長いときは昼間に仕事を片付けることができるから好きだと以前語っていて。確かに日が長い分明かりが無くても仕事ができるだろう。今日はどれくらい進んだのだろうか。そんな事、こちらから尋ねなくてもきっと教えてくれるだろう。
「こんばんは」
片手に煙管を挟んで、もう片方の手を振りながら阿求は現れた。煙管からは焼けた草木の香りがする。大人とは言えない身体だけど、その手慣れた仕草からして相当嗜んでいるんだろう。以前器用に火種を掌で転がしながら次の葉を煙管に詰め込んだりするなんていう芸当も見せてくれた。たぶん阿求は世界の楽しみ方は私の十倍は知っているだろう。それが見た目の年齢に応じた楽しみ方かどうかは私には分からない。
◇
阿求のそういうところを知ったのは最近のことだ。そもそも阿求のことを深く知ったこともつい最近だった。それまで私は彼女と話したことすらなかったし、漠然と「稗田」という名前からイメージされる記号の集合体を思い浮かべる事で稗田のことは知ったと言っても何も不自由しないほど私の生活からはほど遠い存在だった。
それがある日、彼女が店にやってきてのことでいろいろと教えてあげるわ。という言葉につられて彼女の家に通うようになった。日中は忙しいからと日暮れから集まり、しばらくとりとめのない色々な事を語り合う、
◇
たとえば私たちは本について語り合う。人々の記憶の霊廟とも言える本棚を褒める、なんて人並みな事はせず、
世の中の人々がいかに自意識過剰な冒険譚や、些末な経験を元にしたありもしないサクセスストーリーや、すぐに世界が愛する二人を中心に添える恋物語――端から見れば正気を失っている――などを求めるのか。
自分とはかけ離れた登場人物に誰それかまわず感情移入しては勝手に恨み辛みを感じた気になって何になるのか。
もう少しましなことは残せなかったのか。阿求曰くそういう本の中で精神的な湯治をして、その後現実での生活に戻っていくのだと言うことだった。なるほど。思い当たることはたくさんある。ただ阿求はそういったたぐいの本は書いた試しがないらしい。彼女の中には夢を見た記憶は無かったのだろうかと尋ねてみた。どうやらあるらしい。
彼女にとって蔵書にしたためていない知識はこの倉の中にある蔵書と同じ分ほど残っているらしい。その彼女が言うのだからまぁそれほど的外れだとは想わない。阿求の話し方はとても不思議だ。抑揚のない声で語るのに彼女の言葉は様々な情景を心の中に浮かばせる。たとえば彼女が冬について語ればそこがどこであれ森閑とした白一色の世界に変わる程だから。くだらない冗談を言い合いながらこの時間の価値をこんな無駄話に費やしても良い物かと考える。
だって彼女と話そうとする者はこの幻想郷には星の数ほど居るだろうから。
なんせこの夏が終わるころに阿求は転生するのだ。
◇
一般的にその人自身の身体が滅びるときは悲しむのだろう。でも本人は諸々の面倒ごとから解放されたとみえて遅れてやってきた我が世の春を謳歌するかのごとく楽しんでいる。
転生が近づき誰もがこぞって阿求の言葉を聞きたがる昨今において、彼女の言葉を独り占めできることはほんのちょっぴりの優越感と不安をかき立てる。
◇
「魔理沙の八卦について形は知っていても彼女自身もあの意味を知らないでしょうね」
「そうかもね。あの子は使えたらいいでしょうから」
いくつかの異変とそれにまつわる魔理沙の活躍。全てを見てきたかのように語る阿求は手厳しい言葉を吐くことが多いけれど、解れた糸のように見えかくれする皮肉はどうしてだろうか私の心を和ませる。慧音先生のあの帽子の意味。そして冥界の姫が放つ青白く光る蝶についてなどなど、彼女が語れば私はその言葉から映像を思い浮かべる。見たことが無くても言葉の切れ端から様々な映像を思い浮かべようとする。
◇
私についてはどのような言葉で語るのだろう。
ハクタクや魔理沙の八卦炉や、語るべき異変の人々の象徴のように美しく光るだろうか。
できれば友人として語られることを望んでいる。
◇
「ねぇお酒を飲みましょう?」
いつものように書斎の本棚にもたれかかってから深呼吸をして阿求は呟く。
障子の隙間から流れ込んでくる夜の風は雨の香りをしっとりと含んでいて、ここに来てからずいぶん時間が過ぎたのだと気がつく。切り子細工のグラスにとくとくと注がれたお酒はずいぶんと冷たくて、私はちびちびと唇を湿らせることしかできないのに阿求は手慣れた様子でグラスを口に運んだ。大人のようだった。
「阿求はお酒飲むんだ」
「ずいぶん前には沢山飲んだわ」
多分彼女がいう「ずいぶん前」というのは前世のこともあるのだろうと考える。
部屋の隅では虫が障子にぶつかってとんとん、と静かに音を立てていた。
虫の様子を見ながら阿求は呟いた、
「来世は普通の百姓にでも生まれたいわ」
そう呟いた彼女はなんだか寂しそうで、でもそれを邪魔しないでと言っているようだった。阿求はそれから幻想郷の農民の姿を教えてくれた。太陽が出てきて、草を抜き、肥料を与え、すり切れたぼろを纏って田で泥まみれになる。彼女がそんなことをしている姿は――一生想像出来そうにない
阿求だって酔っ払う。畳の目に沿ってゆっくりと倒れ、死んだと笑う阿求に呆気にとられる。横目で私を見ながら阿求は呟いた。
「少し歩きましょう」
「歩けるの?」
「歩くのよ」
歩きたい気分なのだろうか。外に出ると月明かりも雲もなく空は星のきらめきで満ちていた。
「しばらくの間は、この星空を拝めないから」
「そう」
失われる事を大して気にしていないように取り繕っている。そう感じた。
◇
夜の道は行灯が無くても歩けるほど明るくて、山から吹き下ろしてくる冷たい風が昼間のぐにゃりとした感覚を直してくれるようで
「転生って怖い?」
「ううん、なんて言うか衣替えみたいな感じかしら」
煙管の中の灰をとんとんと捨ててから阿求は呟いた。衣替えのように着替えて、次に期待するのが百姓かと思った。
「私は寂しいかな。阿求が居ないと寂しい」
「私だって寂しいのでもそれは……どうしようもないことだから」
ねぇ。と阿求は話し始めた。折しも月を覆っていた雲が途切れ、湖に一筋の柔らかな光を描いていた。
「私のこと、あなたならどう書くかしら?」
「どういうこと?」
「ねぇ。私について書かれたものはどこにも無いの。ただ私が書いたものが残るだけ。
ねぇ私が生きていた事を覚えようとしている人って誰も居ないの」
「でもあなたの傍には沢山の人が居る」
「そう、でもそうじゃない。あなたのように私の友達としておぼえていてくれる人の話を聞いてみたいの」
阿求は白っぽい月明かりの中で静かに語った。
「あなたのお姉さんみたいになってみたかったの」
「お姉さん?」
「これまで何度も転生をしてきたけれど、ついぞ妹らしい人には出会えなくて。でもこうしてあなたに色々と教える事ができる。これはお姉さんじゃないと出来ないかな。なんて考えてるわ」
人里の合間を流れる川はてらてらと光を照り返していた
「自分がまだ人間だという確証が欲しいの」
「あなたは人間よ」
話が好きな少女そのものだった。もちろん言葉の端々には私では到底届かない深い深い洞察が絡みついていたけれど、
堅苦しい話をするときは大抵お酒を飲んでいたし、言葉じりもどこか丸まっていて私が困ることはあまりなかった。
他はどうか知らない。同じ時間を過ごしてくれる誰かを求めていたのかもしれないと思う。
「ありがとう。でも書き物に残せない記憶、記録に残らない記憶はあなたが持っておいて」
いつものように阿求は切り上げた。
「それじゃあ」
いつも通り。そうして阿求は転生を行ったのだった。
◇
阿求が居なくなって私はほんの少しだけ泣いた。
◇
春が暑さに溶けて終わり、夏が台風で吹き飛んで終わり、秋が冬の霜にやられて過ぎて行った。暦が移り変わり私の生活はいつの間にか平坦な日々へと戻ろうとしていた。でもその間私は一つの本を書き上げようと苦労していた。
あらゆる幽霊が出てくる西洋の屋敷、八卦、死についてを混ぜ合わせたものに皮肉をたっぷり振りかけた物語は完成しようとしていた。
「できたかな」
己の下手な文章の向こう側に居る阿求を見つけようと深く深く読み返す。そうすると次第にあの日々の事が蘇ってくる。八卦について、蝶について、歴史について、古い古い人々について。それを読めば楽しそうに語る阿求がそばに居るような気がする。そんな追憶の夜。あの日々の残滓。阿求との思い出が一冊の本から蘇ってくる。
阿求について私はこう記した。
「稗田阿求は本居小鈴の良き友であり、来世は百姓になりたいと言っている人間である。少し口が悪いがその奥にあるのは前向きさと気楽さだった」
肩の力を抜く、ゆっくりと息を吐いて心を落ち着ける。
それから目の前の本のページに意識を集中する。書かれた文字の羅列から浮かび上がる映像の切れ端に音がつき、香りが漂い始める。文字の流れによっては肌寒くなったような錯覚に陥る。さらに深くのめり込んでいくと一つのシーンが脳内に組み立てられる。登場人物が私に話しかけてきて気がつけばその本の中に魂が呑み込まれたような感覚を味わう。
この本を読むとき私は阿求が側に居てくれるような気がする。
それは最上の悦びではないだろうか。いつまでも続く幸せな記憶なのだから。
こういうのいいなぁ
あんまり湿っぽくならずにただ側にいる二人がよかったです
阿求のことを後世に残すべく頑張る小鈴が健気でした