「………お前、背ぇ伸びたな」
久しぶりに会った親戚じゃないんだから、そんな感慨深げに言わないでくれない? 私から言わせれば、魔理沙、あなたが変わってないのよ。
「ひょっとして幻想郷って竜宮城なのか?あそこだけ時空が歪んでるとか?」
「たぶんそんな設定ないわよ」
「するとなんだ、ひょっとしてお前、また時間でも操れるようになったのか?」
時間を操る。
それはちょっとした軽口。けれど、言ってはいけない軽口。
そんなもの、さらりと流せばいいのに、口にした本人である魔理沙がこんなにも『しまった』みたいな顔で硬直してるから、いきなり空気がおかしくなった。あなたってそういうとこあるわよね。良しも悪しもすぐに顔に出ちゃう。ある意味で正直者。だからこそみんなに愛されるのかしら。
「すまん、咲夜」
「気にしてないわ。さっ、ちょっと散らかってるけど、どうぞ上がって」
このアパートを借りたのは、職場へのアクセスが簡単だから。そして、古くて安いから。だけど、この窓から見える景色はちょっとだけ好きじゃない。どうしてって、色々と思い出しちゃうのよね。
関東も都会からちょっとだけ離れると武蔵野の自然が広がっていて、かつて幻想郷で目にした風景に、少し重なる。きっとカーテンを開けばちょうど目の前に柿の実が色付いてる。そんな景色が見える。
「材料買ってきたぜ」
「ありがと。お金だったら後で払うからレシートくれる?」
「うふふふふふふふ」
「なによ気持ち悪い」
「ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、このあたりはお前に払ってもらうさ。でも、この特上の一品だけは私のおごりだ。そらっ見て驚け!神戸牛霜降りをマスター・スパークな量で買ってきたんだぜぇ!?」
今日、カレー作るのよ?
どうせカレーにしちゃうのに無駄に上等なお肉を入れるかしら?
あなたってこういうところあるわよね。勢いだけあるけれど色々と過剰なのよ。でも、旧友に再会するからって喜んじゃって無駄に奮発しちゃう子供っぽいところ、そういうところがあるからみんなに愛されるのかしらね。
「……まったく本当に」
「な、なんだよぅ」
「本当に素敵ね。ああっと、勘違いしないで、魔理沙を褒めてるんじゃなくて肉を褒めてるのよ。実にスターダスト・レヴァリエな牛肉ね」
「その肉をチョイスした私のことも褒めろよ!」なんて言ってふくれてるように見えるけど、たぶん内心喜んでいる。手に取るように分かる。そして私は、ほっとする。(今日、カレー作るのよ?)なんてツンツンしたことを言わないで、コドモをあやすようなオトナな対応を選んだ自分を、褒めたくなる。そう。これでいいの。これで世界は明るく楽しく不足なく回るんでしょう?
―――でも本当は、魔理沙とケンカしてみたかった。
幻想郷で暮らしていたときと同じように、本音をぶつけ合って、言い争いをしたかった私がいる。それはもうできないってことも分かってる。魔理沙のことがコドモに見えてしまうくらいに、私はオトナになってしまったのだから。
幻想郷を離れて何年経つのか、それすらも曖昧になるくらいに。
私は、この世界では『十六夜咲子』と名乗っていて、仕事場では『経理の咲子さん』と呼ばれている。だから魔理沙から『咲夜』って呼ばれたときには、ちょっとだけ心がドキッとしてしまった。
――――時間を操れなくなったのは、もう何年前だろう?
そもそも考えてみればおかしな話。
時間は流れて止まらないものなのだから人間である私が操っていいものじゃない。そんな『当たり前』のことに疑問を持たなかった私は幼かった。瀟洒だなんだと大人ぶってはいたけれど、今考えれば色んな面で子供だったのだろう。
思えば、そんな『当たり前』を『疑問』に思ったせいなのかもしれない。
時間は私の束縛からするりと逃れて、二度と止まることはなかった。
「時間が止められなくなった、ですって?」
はい。お嬢様。
私の主。レミリア・スカーレット様。
でも些末なことでしょう?だって私は所詮人間で、一介のメイド長なのですから。
「申し訳ございません」
霧が漂う湖面を向いて紅茶を啜るお嬢様の背で、私はそれだけ言った。些末だの、所詮だの、余計な言葉を入れるほど私は野暮ではないし、入れなくてもお嬢様には伝わると信頼していたから。
「それであなたはどうするのかしら」
「お嬢様とはお別れになります」
「そうね。さよなら咲夜」
それっきりだった。
お嬢様は振り返らなかった。だから、私も振り返らなかった。そう、『完全なる御主人様』であるレミリア・スカーレットの前で、私は『完全なるメイド』を演じきったのだ。それでいいと、思った。
時間が操れない時点で、私の『完全』にヒビが入ったのだから、ティーカップと同様、ひとたび毀れたなら不要。
お嬢様は壊れた私をいつまでも『使っている』ようではいけない。私だってグズグズと紅魔館に居座ろうとする惨めなマネはしたくない。簡素な挨拶だけを残してサッパリと去ろうと、はじめから決めていた。
幻想郷は黙って去ると決めていたのだけれど、同じ人間の身であり、腐れ縁と呼ぶべき関係だった魔理沙にだけは挨拶に行った。
でも、魔理沙はダメだった。完全ではなかった。「それくらいのことで何言ってるんだお前は!」などと、みっともなく泣きながら説教をする始末。
「だいたいお前はレミリアの気持ちを考えたことがあるのか?」だの、「ずっと寄り添っていて情が無いわけがないだろ?」だの、「別れを告げるときにどんな顔をしていたか確かめたのか?」だの。
ああ。分かり合えないひとって、いるわよね。
私とお嬢様の関係を理解しようともしないで、自分の価値観だけを一方的に押し付けて、それを愛だ情だと呼んで暑苦しく訴える種類のひと。そのとき私は魔理沙のことをひどく軽蔑したことを覚えている。二度と振り返らないと決めた私の背に、魔理沙は「向こうへ行っても絶対に会いに行くからな!約束だからな!忘れるなよ!」などと叫び続けていた。
――――それから何年が経ったのだろう?
妖怪ポストでもあるのか、仕事帰りに新聞受けを覗くとチラシと一緒に一枚の葉書が入っていた。
差出人。霧雨魔理沙。幻想郷より。
あれから私も変わったのかしら。『カレーの材料でも買ってきて』とだけ書いて投函した。
差出人。十六夜咲夜。宛先。幻想郷へ。
「あなた器用ね」
「よく言われるぜ。指先の仕事は得意なんだ。タオル折ったりするのもプロ並みだぜ?」
タオルを折るプロなんているのかしら? 魔理沙は包丁を上手に扱い、ジャガイモの表面をしゃりしゃり音を立ててきれいに剥いてゆく。私は作業効率を考えているから細かいことを気にするよりもざっくりと。生活に慣れているのはどちらのほうなのか。普段、電車に揺られ帰宅してから作る食事だというのに、丁寧に皮を剥くだなんて面倒はしたくない。
「おいおい咲夜!なんじゃそりゃ!」
「ニンジンはピーラーでやっちゃうわ」
「ピーラー!ズルい!そんなんインチキだ!八百長だ!」
「インチキかもしれないけど八百長は違うわね」
「そんなアイテム、八百屋ばかりじゃなく八百万の神々もびっくりだ!」
「やめて魔理沙。頭おかしくなりそう」
「最近、韻を踏むのが楽しくてな」
「それってフリースタイルラップ?もう幻想入りしてるなんてブームも短かったわね」
「ラップ?私が言ってるのはそういうんじゃなくて漢文や和歌の韻だぜ?」
「ああ、そっちだったらとっくに幻想入りしてるわ」
ずいぶん世間に染まっちゃったみたいね、と私は苦笑いした。
職場で交わされる話題に抵抗無く触れられるようになったのはいつからか。男性社員のギャンブルやキャバクラの話。女性社員の恋愛や噂の話。下品で嫌だなぁ、と思っていたウブな私はもういないみたい。
「涙が出てくるぜ」
「顔近づけ過ぎよ」
「涙が止まらないぜ」
「タマネギ切った手で目なんて擦るからよ」
「ちくしょう。ちくしょう。そもそもタマネギって何なんだ。味も匂いもイマイチ好きになれない」
「カレーに入れれば何でも美味しく包み込んでくれるわ」
「どっからが皮でどっからが中身なんだ。そこんとこはっきりしろ。剥き続けると最後には何も無くなるじゃないか。涙が止まらないぜ」
「タマネギは人生と同じ、って誰かが言ってたわ」
魔理沙は驚いたような眼でこちらを見た。ああ、人生をそういうふうに捉えるのが、よほど奇妙なものに映ったのかしらね。それだけのことを理解するまでに、数秒かかるだなんて、私も色々な常識に汚れてしまったみたい。
お鍋はコトコトと音を立てて食材たちが煮込まれている。私はその中のニンジンのように周囲へ彩りを与えられているだろうか?
「ええい、こうなりゃ肉だ肉だ!神戸牛様の出番だ!控えい控えい!」
そして、ふと、忘れていた。
―――冷蔵庫を勢いよく閉めないで!
言おうとしたときには遅かった。
バンッ。
しばしの間を置いて返信かのように、ドンッ、と壁が鳴り、魔理沙はびっくりした様子で神戸牛を手に硬直してしまった。そりゃそうよね。おおらかで広々とした幻想郷にはそんな隣人なんていないものね。
「…………壁ドン?」
「言い忘れちゃってたわ。これは私のミス。魔理沙は気にしないで」
「この部屋の隣にはトロールでも棲んでるのか?」
「しーっ、聞こえちゃうからあまり大きな声出さないの」
「それかギガンテス」
「しっ!」
軽口を叩いているように見えても、その苦笑いは引き攣っていた。
幻想郷には妖怪がいる。魔法使いだっている。きっと探せばトロールもギガンテスも。でも、こうやって本気で怒るような人はいなかったから、魔理沙ってば、ちょっと怯えちゃってるみたい。
「………お隣の204号室よ。物音に限らないで色んなことに敏感なの。ゴミ捨てのルールとかもすごいうるさいし」
「咲夜、お前そいつにナイフ投げちゃえよ」
「バカッ。そんなのすぐに犯罪者よ」
「これが世知辛いってやつか」
「ま、色々な人がいるってことくらい分かってるけどね。こんなに狭い世界だと互いに肩がぶつからないように生活しなきゃいけないの」
「204号室のトロールはどんなツラしてるんだ」
「トロールは半分くらい正解。そんな見た目してる」
「マジか。まるっきりモンスターだな」
「そしてね、私、ずっと204号室の人をオジサンだと思ってたけど、オバサンだったのよ」
「なんだそりゃ!?」
「勘違いしてたのが分かっちゃって、それで怒らせちゃって、それっきり関係悪いのよね」
ヒソヒソと話して、クスクス笑い合って、それで空気をリセット。この世界で必要なのはナイフを操るスキルよりも雰囲気を壊さないスキル。それが『経理の咲子さん』が身に付けた、大切なスキル。
「あっちの世界に変わりは無い?」
「特に無いな。最近の出来事といえば、地盤沈下が起きて地霊殿が潰れてお燐やお空が地底人みたいに這い出てきたり、星蓮船が超音速で山肌に激突して砕け散ったくらいだよ」
「相変わらず気が狂ってるわね」
「通常営業ってところかな。でもよ、ニュースだったらこっちの世界のほうが事欠かないだろ?」
「幻想郷みたいにおかしな事件は起きたりしないわ」
たくさん起きている。
起きているけれど、日常に埋没してしまっている。だって、すべてを受け止めて悲しんだり怒ったりしたら、疲れちゃうでしょ?感情も省エネ生活。体力もコストカット。こうして煮込んでいる間だって、ゆっくりとソファに腰掛けてエネルギーを温存するのが良いに決まってるじゃない。無印良品のソファ。家具の中でもちょっとだけ奮発。
「カーテン開けていいか?」
「…………面白くないわよ。柿の木が橙色の実をつけているだけ。そんなの幻想郷にだってあるでしょ?」
「スカイツリーとか見えないのか?」
「そんなところいつか住んでみたいわね。それより、魔理沙はこっちのほうが気になるんじゃない?」
「はわわっ」
「じゃーん。現代人必須道具、スマートフォン」
「すげぇ!これ一台あればどんな異世界でも生活できる例のアイテムだな!」
こうして、魔理沙は金髪の可愛らしい猫ちゃんになった。
見えないシッポを振って前足を操りテシテシとスマホの液晶をいじってる。そんなに目をキラキラさせちゃって、薄型のそれに夢がギッシリ詰まっているようにでも見えるのかしら。私にとっては現実的な道具でしかないというのに、人によって見える景色が違うだなんて、うらやましくなっちゃう。
「てしっ、てしっ、てしっ、」
「カレールー入れちゃうわよ」
「人類を支配する悪のAIめ、やっつけてくれるわ」
『すみません、聞き取れませんでした』
「ひゃあ」
『もう一度お願いします』
「な、な、なんて好戦的な奴だ!『もういっぺん言ってみやがれ』だってよ!」
「はいはい」
火を一旦消してからルーは入れるもの。それが大切なやり方。いつの間にか覚えた生き方で、今の私はできている。
「ご飯も適当に盛っちゃうわよ。足りなくなったら自分でおかわりしてね」
「てしっ、てしっ、てしっ、」
「まったくもう」
こうして出来上がったカレーは、意外にもすごくおいしかった。
「うまい!カレーはうまい!」
「そうねぇ。何が良かったのかしら」
「そんなもん私の買ってきた肉に決まってるだろうが!」
「かもしれないわね。カレーにしちゃえば何でも同じって思ったのに、ちゃんと自分の個性を主張して偉いわ、この子」
「えらい!お肉はえらい!」
くどい。しつこい。でも、これくらい肉の存在感を発揮されると逆にびっくりするほどおいしい。銀のスプーンですくい上げて、口に運んで、噛みしめている間は少しだけ幸せになれる。神戸牛は良い子だった。
「まったく、肉にしておくのが惜しいくらいだぜ」
「…………あはっ、おかしなことばっかり言わないでよ魔理沙」
久しぶりってくらいに自然な笑いがこぼれた。神戸牛のせいだろうか。いや、魔理沙のせい。幻想郷にいたころは別にここまで親しくもなかったのに、どうしてか、心地良い時間だけが流れてゆく。旧知の人と一緒に食事を作って、食べて、それでおいしくないわけがない。楽しくないわけがない。今まで二人の間にあった見えない壁を壊そうって、口に出さなくても、互いに分かるときというものはある。
無意識にしていた無理をやめると開放的な気分。時間は流れていった。
「洗い物手伝おうか?」
「いいわよ。こういうのって自分でやりたいタイプなの。食器一つにしても置き場が決まってるんだから」
「なんだかすまないな」
「お肉のお礼と思ってそこで横になってゴロゴロしてて。あなた調子に乗って何杯もおかわりして食べすぎちゃったでしょ」
ゴロン、と倒れ込んだ勢いで壁に魔理沙の足がぶつかった。
ゴンッ。ドンッ。204号室からの返信が返ってきた。
「悪い悪い」
それが気にならないくらいに私は上機嫌だった。これほど面倒くさい洗い物をしながら鼻唄だなんて、普段はしないこと。
うっかり食器を溜め込むと油が固まってしまい、おまけにお米のデンプンがかぴかぴになってしまう。そうするとなかなか落ちない。でも、こうして食べてすぐならスルリと落ちてゆく。いきなりスポンジを使うとカレーまみれになっちゃうから、水で軽くさらりと洗い流して、洗剤でモコモコして、キュキュキュと音がするまで擦る。
「スマホにパズルゲームなんて入ってる」
「電車の中での手遊びみたいなものよ。頭ではボーッと別のことを考えながらプレイしてるの。みんなそうしてるわ」
「弾幕みたいなのは無いのか」
「そんな集中するものプレイしてたら疲れちゃうでしょ」
「私がこっちに来た頃はガラケーしかなかったぜ。ずいぶん時間が経っちゃったんだなぁ」
「…………そうね」
「約束してたのに、遅くなっちゃったな」
キュッ、と手を止めた。
分かってた。覚悟はしていた。
心地良く流れる時間は終わって切り出された本題。
自分を落ち着かせるようにゆっくりとひとつ深呼吸。大丈夫。
今の私と魔理沙の関係ならきっと乗り越えられる。以前みたいに険悪になんて、ならない。
「本当はもっと早く会いに行くつもりだったんだけど、紫のヤツにな、反対されてたんだ。『一度向こうの世界へ帰って行った人間なんだから放っておきなさい』って。もちろん私は反発したよ。でも、冷静になって少しだけ分かってきた。それって『咲夜の決定を尊重しなさい』ってことなんだって、自分なりに解釈したよ」
「………ありがと。魔理沙」
「ひょっとしたら違うのかもしれない。幻想郷には私たち人間も知らないようなルールがあって、『放っておきなさい』っていうのは、それのせいなのかもしれない。そこのところを根掘り葉掘り聞き出すってのもちょっと怖いから、こうやって紫には黙って会いに来た。神戸牛を片手にな」
「……うん」
台所に立つ私の後ろで、いったい魔理沙はどんな表情で語っているのだろう。面と向かって話し合おうとは思わなかった。相手の感情を正面から受け止めるのは苦手なのだ。だから、シンクに蛇口からポタポタと水が音を立てて落ちるのを、じっと眺めていた。
「それでも私がこっちの世界に来たっていうのは、『会いたい』って気持ちと、『伝えたい』って気持ち。『会いたい』のは果たした。『伝えたい』っていうのは―――――レミリアのことなんだけどな」
「待って!」
「…………っ」
「それをあなたのほうから言わないで。お嬢様のことは私からあなたに質問するの。分かる?この違い?あなたは分かってくれる?」
遡らない時間が、私の中でだけ遡ってゆく。
『お嬢様』だなんて、とっくに遠い過去の話なんだから、こんなにも心を乱さなくてもいいはずなのに、なのに、声をひどく荒げてしまった。
「……分かったよ」
「ごめんなさいね。魔理沙」
「私が余計なマネしてるってことも分かってるよ。幻想郷でだって少しはオトナになれるんだ、私だって」
いつだってフラッシュバックするのは、霧が漂う湖面を向いて紅茶を啜るお嬢様の背中。別れの景色。私たちは最後まで、完全に、瀟洒に、主と従者を演じきった。それがたまらなく誇らしかった。
でも、ひょっとしたら、って、もしかしたら、って、心のどこかで思ってしまう。
―――――もしも、別れ際に、私とお嬢様が同時に振り向いたなら?
運命はどこかで変わっていたかもしれない。そんな可能性の分岐点。私はここにいないで、あそこにいるかもしれない。今更、たしかめても仕方ないのかもしれない。それでも、たしめないではいられない。
「ひとつだけ聞くわ魔理沙」
「うん」
「あのとき、お嬢様は――――私のために一粒でも涙を零していたかしら?」
ポタ、ポタ、静まり返った部屋に、閉まりきらない蛇口から落ちる水だけが音を立てている。
「そのことなんだけどな……レミリアは………」
我慢できなくて振り返った先に―――――魔理沙は、いなかった。
どこにもいなかった。
初めから誰もいなかったかのように。
さっきまでカレーを食べていたはずのテーブルには電源の切れたスマホだけが置いてあった。
使い終わった食器はすでに洗い流し終わっている。
まるで痕跡を自分で消してしまったかのように。
ポタ、ポタ、静まり返った部屋に、閉まりきらない蛇口から落ちる水だけが音を立て続けた。
ポタ、ポタ、ポタ。
まだ鍋にはカレーが残っていた。
煮込んだ神戸牛から出た油が冷えて、表面に白くワックスのように固まっている。どうしてこんな肉を使ったのか次第にぼんやりと思い出せなくなってきた。疲れていたせいかもしれない。
久しぶりにカーテンを開けて窓辺に身を乗り出すと、冬の風が吹き込んできて頬を冷たく撫でた。ベランダの下に広がる雑木林には落ち葉がカサカサと舞っている。
――――――あれから、もう何年が経っただろう?
時間は停まることなく流れてゆき、あの日の出来事から、遠く遠く離れて、やがては景色の彼方へ消えてゆく。
橙色した柿は枝に付いたまま熟れていて、いつの間にか季節がまた移ろってゆくのを実感する。だから、ここから見る風景は嫌だ。
生活するには足りている。仕事だってこのまま続けられそう。面倒臭いと思いつつも、あの場所で、この場所で、きちんと役割を演じ切ることができる器用さも持っている。うっかり誰かとぶつかれば角が取れて丸くなる。そして河原の石のようにつるつるになってゆく。でも、自分を偽っているというのとは、少しだけ違って、自分がそういうふうに柔軟な形へ変化しているのだろう。
この世界で生きるのが簡単になってゆくのを感じる一方で、パズルゲームみたいになんとなく毎日をこなしている自分に気付く。
なのに、何を注ぎ込んでも満たされることがないのは、どうしてだろうか?
心のどこかにポッカリと開いた穴があって、その空白をどうしても埋めることができないでいる。時折、こうしてナイフを手に取ってみる。そして銀色の反射を見つめる。この刃物は、乱雑にジャガイモを切るためだけに使っていたのだろうか?たしか、大切な誰かのために使っていたような気がするのだけれど。
「…………?」
まだ夕方だというのに陽が傾き、差し込む西日がスマホを照らしていた。真っ黒な画面にうっすらと小さな指紋が残っている。ひょっとしたら見間違いかもしれない程度に、うっすらと。
「……私は、ずうっと誰かと一緒だった気がする」
腰掛けた窓辺から見上げた秋の空は、高く青く、そして澄んでいた。
(――――ここから飛び立てば、失った何かを取り戻せるかしら?)
きっとそんなわけもないのに、手を窓枠から離した。
宙ぶらりんになった脚は一旦、室内へ戻す。私の日常がぎっしりと詰まっている部屋へ。妙な気さえ起こさなければいつだって戻れる日常の世界へ――――ふらりと別れを告げるかのように、私は身体を窓の向こうへ。
背中から倒れ込むように、ゆらり。
上下が反転する視界に、くらり。
次にまた目を開けたとき、私の目には誰が映っている?
見上げた秋の空は、高く青く、そして澄んでいた。
――――――――――――――おいっ
――――――――おいっ、てば
―――あんた大丈夫かい
「う………ん…………」
――――――落ちちゃったのかい
「……は……い………」
―――――――――すぐに動いちゃダメ
――――――――――――――そのまま横になってな
「どすんって音がしたから見に来たんだ。あんた、なんであんなとこから落ちたの」
私の顔を覗き込んでいたのは、204号室の住人だった。
「……腕を伸ばして柿を取ろうとしたんです。でも手が滑っちゃって」
「柿だったらあたしが取ってやるから、あまり危ないマネするんじゃないよ」
「すいませんでした」
どれだけ寝ていたのか。地面から仰ぐ夕暮れの空は、グラデーションを描くように青から茜へと染まっていた。トロールみたいな姿の女性は私が起きるまでずっと見守っていたのだろう。
「それにしても良かったよ。つもった落ち葉が上手いことクッションになってたから大事にならなかったんだね」
「そうみたいですね」
「これも運命ってやつだろうね。あんたのこと守ってくれたんだよ」
「…………………」
いったいは運命は誰が操っているのか、どうやら私はまだこの世界で生きてゆくらしい。
「だからまだ動いちゃダメだって。気を失ってたってことは頭打ってるかもしれないだろう。救急車呼んだからそのまま安静にしてな」
「ありがとうございます。怖い人かと思ってたけど、優しいんですね」
「まあ大きな物音だけは勘弁な。あたし警備員の仕事してるから昼夜逆転してるんだよ」
「すいません気を付けます。あとで、このアパートのゴミ捨てのルールも教えてくれますか?」
「なんだあんた知らなかったの。知らないのは仕方ないよね。あんた、名前なんていうんだい?」
「十六夜です。十六夜…………咲子っていいます………」
「よろしくね咲子さん」
「はい」
「泣かなくていいんだよ」
「はい」
また一枚、柿の木から葉が舞い落ちて、はらりと私の頬へ。落葉はすっかり色付いて紅色をしていた。スカーレットの絨毯に寝転んで冷たい空を見上げる。冬が近づいている。またひとつ季節が移ろってゆく。
時間は停まることなく流れ続けてゆく。この世界で私は生きてゆく。時間は停まることなく、どこまでもどこまでも流れ続けてゆく。
久しぶりに会った親戚じゃないんだから、そんな感慨深げに言わないでくれない? 私から言わせれば、魔理沙、あなたが変わってないのよ。
「ひょっとして幻想郷って竜宮城なのか?あそこだけ時空が歪んでるとか?」
「たぶんそんな設定ないわよ」
「するとなんだ、ひょっとしてお前、また時間でも操れるようになったのか?」
時間を操る。
それはちょっとした軽口。けれど、言ってはいけない軽口。
そんなもの、さらりと流せばいいのに、口にした本人である魔理沙がこんなにも『しまった』みたいな顔で硬直してるから、いきなり空気がおかしくなった。あなたってそういうとこあるわよね。良しも悪しもすぐに顔に出ちゃう。ある意味で正直者。だからこそみんなに愛されるのかしら。
「すまん、咲夜」
「気にしてないわ。さっ、ちょっと散らかってるけど、どうぞ上がって」
このアパートを借りたのは、職場へのアクセスが簡単だから。そして、古くて安いから。だけど、この窓から見える景色はちょっとだけ好きじゃない。どうしてって、色々と思い出しちゃうのよね。
関東も都会からちょっとだけ離れると武蔵野の自然が広がっていて、かつて幻想郷で目にした風景に、少し重なる。きっとカーテンを開けばちょうど目の前に柿の実が色付いてる。そんな景色が見える。
「材料買ってきたぜ」
「ありがと。お金だったら後で払うからレシートくれる?」
「うふふふふふふふ」
「なによ気持ち悪い」
「ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、このあたりはお前に払ってもらうさ。でも、この特上の一品だけは私のおごりだ。そらっ見て驚け!神戸牛霜降りをマスター・スパークな量で買ってきたんだぜぇ!?」
今日、カレー作るのよ?
どうせカレーにしちゃうのに無駄に上等なお肉を入れるかしら?
あなたってこういうところあるわよね。勢いだけあるけれど色々と過剰なのよ。でも、旧友に再会するからって喜んじゃって無駄に奮発しちゃう子供っぽいところ、そういうところがあるからみんなに愛されるのかしらね。
「……まったく本当に」
「な、なんだよぅ」
「本当に素敵ね。ああっと、勘違いしないで、魔理沙を褒めてるんじゃなくて肉を褒めてるのよ。実にスターダスト・レヴァリエな牛肉ね」
「その肉をチョイスした私のことも褒めろよ!」なんて言ってふくれてるように見えるけど、たぶん内心喜んでいる。手に取るように分かる。そして私は、ほっとする。(今日、カレー作るのよ?)なんてツンツンしたことを言わないで、コドモをあやすようなオトナな対応を選んだ自分を、褒めたくなる。そう。これでいいの。これで世界は明るく楽しく不足なく回るんでしょう?
―――でも本当は、魔理沙とケンカしてみたかった。
幻想郷で暮らしていたときと同じように、本音をぶつけ合って、言い争いをしたかった私がいる。それはもうできないってことも分かってる。魔理沙のことがコドモに見えてしまうくらいに、私はオトナになってしまったのだから。
幻想郷を離れて何年経つのか、それすらも曖昧になるくらいに。
私は、この世界では『十六夜咲子』と名乗っていて、仕事場では『経理の咲子さん』と呼ばれている。だから魔理沙から『咲夜』って呼ばれたときには、ちょっとだけ心がドキッとしてしまった。
――――時間を操れなくなったのは、もう何年前だろう?
そもそも考えてみればおかしな話。
時間は流れて止まらないものなのだから人間である私が操っていいものじゃない。そんな『当たり前』のことに疑問を持たなかった私は幼かった。瀟洒だなんだと大人ぶってはいたけれど、今考えれば色んな面で子供だったのだろう。
思えば、そんな『当たり前』を『疑問』に思ったせいなのかもしれない。
時間は私の束縛からするりと逃れて、二度と止まることはなかった。
「時間が止められなくなった、ですって?」
はい。お嬢様。
私の主。レミリア・スカーレット様。
でも些末なことでしょう?だって私は所詮人間で、一介のメイド長なのですから。
「申し訳ございません」
霧が漂う湖面を向いて紅茶を啜るお嬢様の背で、私はそれだけ言った。些末だの、所詮だの、余計な言葉を入れるほど私は野暮ではないし、入れなくてもお嬢様には伝わると信頼していたから。
「それであなたはどうするのかしら」
「お嬢様とはお別れになります」
「そうね。さよなら咲夜」
それっきりだった。
お嬢様は振り返らなかった。だから、私も振り返らなかった。そう、『完全なる御主人様』であるレミリア・スカーレットの前で、私は『完全なるメイド』を演じきったのだ。それでいいと、思った。
時間が操れない時点で、私の『完全』にヒビが入ったのだから、ティーカップと同様、ひとたび毀れたなら不要。
お嬢様は壊れた私をいつまでも『使っている』ようではいけない。私だってグズグズと紅魔館に居座ろうとする惨めなマネはしたくない。簡素な挨拶だけを残してサッパリと去ろうと、はじめから決めていた。
幻想郷は黙って去ると決めていたのだけれど、同じ人間の身であり、腐れ縁と呼ぶべき関係だった魔理沙にだけは挨拶に行った。
でも、魔理沙はダメだった。完全ではなかった。「それくらいのことで何言ってるんだお前は!」などと、みっともなく泣きながら説教をする始末。
「だいたいお前はレミリアの気持ちを考えたことがあるのか?」だの、「ずっと寄り添っていて情が無いわけがないだろ?」だの、「別れを告げるときにどんな顔をしていたか確かめたのか?」だの。
ああ。分かり合えないひとって、いるわよね。
私とお嬢様の関係を理解しようともしないで、自分の価値観だけを一方的に押し付けて、それを愛だ情だと呼んで暑苦しく訴える種類のひと。そのとき私は魔理沙のことをひどく軽蔑したことを覚えている。二度と振り返らないと決めた私の背に、魔理沙は「向こうへ行っても絶対に会いに行くからな!約束だからな!忘れるなよ!」などと叫び続けていた。
――――それから何年が経ったのだろう?
妖怪ポストでもあるのか、仕事帰りに新聞受けを覗くとチラシと一緒に一枚の葉書が入っていた。
差出人。霧雨魔理沙。幻想郷より。
あれから私も変わったのかしら。『カレーの材料でも買ってきて』とだけ書いて投函した。
差出人。十六夜咲夜。宛先。幻想郷へ。
「あなた器用ね」
「よく言われるぜ。指先の仕事は得意なんだ。タオル折ったりするのもプロ並みだぜ?」
タオルを折るプロなんているのかしら? 魔理沙は包丁を上手に扱い、ジャガイモの表面をしゃりしゃり音を立ててきれいに剥いてゆく。私は作業効率を考えているから細かいことを気にするよりもざっくりと。生活に慣れているのはどちらのほうなのか。普段、電車に揺られ帰宅してから作る食事だというのに、丁寧に皮を剥くだなんて面倒はしたくない。
「おいおい咲夜!なんじゃそりゃ!」
「ニンジンはピーラーでやっちゃうわ」
「ピーラー!ズルい!そんなんインチキだ!八百長だ!」
「インチキかもしれないけど八百長は違うわね」
「そんなアイテム、八百屋ばかりじゃなく八百万の神々もびっくりだ!」
「やめて魔理沙。頭おかしくなりそう」
「最近、韻を踏むのが楽しくてな」
「それってフリースタイルラップ?もう幻想入りしてるなんてブームも短かったわね」
「ラップ?私が言ってるのはそういうんじゃなくて漢文や和歌の韻だぜ?」
「ああ、そっちだったらとっくに幻想入りしてるわ」
ずいぶん世間に染まっちゃったみたいね、と私は苦笑いした。
職場で交わされる話題に抵抗無く触れられるようになったのはいつからか。男性社員のギャンブルやキャバクラの話。女性社員の恋愛や噂の話。下品で嫌だなぁ、と思っていたウブな私はもういないみたい。
「涙が出てくるぜ」
「顔近づけ過ぎよ」
「涙が止まらないぜ」
「タマネギ切った手で目なんて擦るからよ」
「ちくしょう。ちくしょう。そもそもタマネギって何なんだ。味も匂いもイマイチ好きになれない」
「カレーに入れれば何でも美味しく包み込んでくれるわ」
「どっからが皮でどっからが中身なんだ。そこんとこはっきりしろ。剥き続けると最後には何も無くなるじゃないか。涙が止まらないぜ」
「タマネギは人生と同じ、って誰かが言ってたわ」
魔理沙は驚いたような眼でこちらを見た。ああ、人生をそういうふうに捉えるのが、よほど奇妙なものに映ったのかしらね。それだけのことを理解するまでに、数秒かかるだなんて、私も色々な常識に汚れてしまったみたい。
お鍋はコトコトと音を立てて食材たちが煮込まれている。私はその中のニンジンのように周囲へ彩りを与えられているだろうか?
「ええい、こうなりゃ肉だ肉だ!神戸牛様の出番だ!控えい控えい!」
そして、ふと、忘れていた。
―――冷蔵庫を勢いよく閉めないで!
言おうとしたときには遅かった。
バンッ。
しばしの間を置いて返信かのように、ドンッ、と壁が鳴り、魔理沙はびっくりした様子で神戸牛を手に硬直してしまった。そりゃそうよね。おおらかで広々とした幻想郷にはそんな隣人なんていないものね。
「…………壁ドン?」
「言い忘れちゃってたわ。これは私のミス。魔理沙は気にしないで」
「この部屋の隣にはトロールでも棲んでるのか?」
「しーっ、聞こえちゃうからあまり大きな声出さないの」
「それかギガンテス」
「しっ!」
軽口を叩いているように見えても、その苦笑いは引き攣っていた。
幻想郷には妖怪がいる。魔法使いだっている。きっと探せばトロールもギガンテスも。でも、こうやって本気で怒るような人はいなかったから、魔理沙ってば、ちょっと怯えちゃってるみたい。
「………お隣の204号室よ。物音に限らないで色んなことに敏感なの。ゴミ捨てのルールとかもすごいうるさいし」
「咲夜、お前そいつにナイフ投げちゃえよ」
「バカッ。そんなのすぐに犯罪者よ」
「これが世知辛いってやつか」
「ま、色々な人がいるってことくらい分かってるけどね。こんなに狭い世界だと互いに肩がぶつからないように生活しなきゃいけないの」
「204号室のトロールはどんなツラしてるんだ」
「トロールは半分くらい正解。そんな見た目してる」
「マジか。まるっきりモンスターだな」
「そしてね、私、ずっと204号室の人をオジサンだと思ってたけど、オバサンだったのよ」
「なんだそりゃ!?」
「勘違いしてたのが分かっちゃって、それで怒らせちゃって、それっきり関係悪いのよね」
ヒソヒソと話して、クスクス笑い合って、それで空気をリセット。この世界で必要なのはナイフを操るスキルよりも雰囲気を壊さないスキル。それが『経理の咲子さん』が身に付けた、大切なスキル。
「あっちの世界に変わりは無い?」
「特に無いな。最近の出来事といえば、地盤沈下が起きて地霊殿が潰れてお燐やお空が地底人みたいに這い出てきたり、星蓮船が超音速で山肌に激突して砕け散ったくらいだよ」
「相変わらず気が狂ってるわね」
「通常営業ってところかな。でもよ、ニュースだったらこっちの世界のほうが事欠かないだろ?」
「幻想郷みたいにおかしな事件は起きたりしないわ」
たくさん起きている。
起きているけれど、日常に埋没してしまっている。だって、すべてを受け止めて悲しんだり怒ったりしたら、疲れちゃうでしょ?感情も省エネ生活。体力もコストカット。こうして煮込んでいる間だって、ゆっくりとソファに腰掛けてエネルギーを温存するのが良いに決まってるじゃない。無印良品のソファ。家具の中でもちょっとだけ奮発。
「カーテン開けていいか?」
「…………面白くないわよ。柿の木が橙色の実をつけているだけ。そんなの幻想郷にだってあるでしょ?」
「スカイツリーとか見えないのか?」
「そんなところいつか住んでみたいわね。それより、魔理沙はこっちのほうが気になるんじゃない?」
「はわわっ」
「じゃーん。現代人必須道具、スマートフォン」
「すげぇ!これ一台あればどんな異世界でも生活できる例のアイテムだな!」
こうして、魔理沙は金髪の可愛らしい猫ちゃんになった。
見えないシッポを振って前足を操りテシテシとスマホの液晶をいじってる。そんなに目をキラキラさせちゃって、薄型のそれに夢がギッシリ詰まっているようにでも見えるのかしら。私にとっては現実的な道具でしかないというのに、人によって見える景色が違うだなんて、うらやましくなっちゃう。
「てしっ、てしっ、てしっ、」
「カレールー入れちゃうわよ」
「人類を支配する悪のAIめ、やっつけてくれるわ」
『すみません、聞き取れませんでした』
「ひゃあ」
『もう一度お願いします』
「な、な、なんて好戦的な奴だ!『もういっぺん言ってみやがれ』だってよ!」
「はいはい」
火を一旦消してからルーは入れるもの。それが大切なやり方。いつの間にか覚えた生き方で、今の私はできている。
「ご飯も適当に盛っちゃうわよ。足りなくなったら自分でおかわりしてね」
「てしっ、てしっ、てしっ、」
「まったくもう」
こうして出来上がったカレーは、意外にもすごくおいしかった。
「うまい!カレーはうまい!」
「そうねぇ。何が良かったのかしら」
「そんなもん私の買ってきた肉に決まってるだろうが!」
「かもしれないわね。カレーにしちゃえば何でも同じって思ったのに、ちゃんと自分の個性を主張して偉いわ、この子」
「えらい!お肉はえらい!」
くどい。しつこい。でも、これくらい肉の存在感を発揮されると逆にびっくりするほどおいしい。銀のスプーンですくい上げて、口に運んで、噛みしめている間は少しだけ幸せになれる。神戸牛は良い子だった。
「まったく、肉にしておくのが惜しいくらいだぜ」
「…………あはっ、おかしなことばっかり言わないでよ魔理沙」
久しぶりってくらいに自然な笑いがこぼれた。神戸牛のせいだろうか。いや、魔理沙のせい。幻想郷にいたころは別にここまで親しくもなかったのに、どうしてか、心地良い時間だけが流れてゆく。旧知の人と一緒に食事を作って、食べて、それでおいしくないわけがない。楽しくないわけがない。今まで二人の間にあった見えない壁を壊そうって、口に出さなくても、互いに分かるときというものはある。
無意識にしていた無理をやめると開放的な気分。時間は流れていった。
「洗い物手伝おうか?」
「いいわよ。こういうのって自分でやりたいタイプなの。食器一つにしても置き場が決まってるんだから」
「なんだかすまないな」
「お肉のお礼と思ってそこで横になってゴロゴロしてて。あなた調子に乗って何杯もおかわりして食べすぎちゃったでしょ」
ゴロン、と倒れ込んだ勢いで壁に魔理沙の足がぶつかった。
ゴンッ。ドンッ。204号室からの返信が返ってきた。
「悪い悪い」
それが気にならないくらいに私は上機嫌だった。これほど面倒くさい洗い物をしながら鼻唄だなんて、普段はしないこと。
うっかり食器を溜め込むと油が固まってしまい、おまけにお米のデンプンがかぴかぴになってしまう。そうするとなかなか落ちない。でも、こうして食べてすぐならスルリと落ちてゆく。いきなりスポンジを使うとカレーまみれになっちゃうから、水で軽くさらりと洗い流して、洗剤でモコモコして、キュキュキュと音がするまで擦る。
「スマホにパズルゲームなんて入ってる」
「電車の中での手遊びみたいなものよ。頭ではボーッと別のことを考えながらプレイしてるの。みんなそうしてるわ」
「弾幕みたいなのは無いのか」
「そんな集中するものプレイしてたら疲れちゃうでしょ」
「私がこっちに来た頃はガラケーしかなかったぜ。ずいぶん時間が経っちゃったんだなぁ」
「…………そうね」
「約束してたのに、遅くなっちゃったな」
キュッ、と手を止めた。
分かってた。覚悟はしていた。
心地良く流れる時間は終わって切り出された本題。
自分を落ち着かせるようにゆっくりとひとつ深呼吸。大丈夫。
今の私と魔理沙の関係ならきっと乗り越えられる。以前みたいに険悪になんて、ならない。
「本当はもっと早く会いに行くつもりだったんだけど、紫のヤツにな、反対されてたんだ。『一度向こうの世界へ帰って行った人間なんだから放っておきなさい』って。もちろん私は反発したよ。でも、冷静になって少しだけ分かってきた。それって『咲夜の決定を尊重しなさい』ってことなんだって、自分なりに解釈したよ」
「………ありがと。魔理沙」
「ひょっとしたら違うのかもしれない。幻想郷には私たち人間も知らないようなルールがあって、『放っておきなさい』っていうのは、それのせいなのかもしれない。そこのところを根掘り葉掘り聞き出すってのもちょっと怖いから、こうやって紫には黙って会いに来た。神戸牛を片手にな」
「……うん」
台所に立つ私の後ろで、いったい魔理沙はどんな表情で語っているのだろう。面と向かって話し合おうとは思わなかった。相手の感情を正面から受け止めるのは苦手なのだ。だから、シンクに蛇口からポタポタと水が音を立てて落ちるのを、じっと眺めていた。
「それでも私がこっちの世界に来たっていうのは、『会いたい』って気持ちと、『伝えたい』って気持ち。『会いたい』のは果たした。『伝えたい』っていうのは―――――レミリアのことなんだけどな」
「待って!」
「…………っ」
「それをあなたのほうから言わないで。お嬢様のことは私からあなたに質問するの。分かる?この違い?あなたは分かってくれる?」
遡らない時間が、私の中でだけ遡ってゆく。
『お嬢様』だなんて、とっくに遠い過去の話なんだから、こんなにも心を乱さなくてもいいはずなのに、なのに、声をひどく荒げてしまった。
「……分かったよ」
「ごめんなさいね。魔理沙」
「私が余計なマネしてるってことも分かってるよ。幻想郷でだって少しはオトナになれるんだ、私だって」
いつだってフラッシュバックするのは、霧が漂う湖面を向いて紅茶を啜るお嬢様の背中。別れの景色。私たちは最後まで、完全に、瀟洒に、主と従者を演じきった。それがたまらなく誇らしかった。
でも、ひょっとしたら、って、もしかしたら、って、心のどこかで思ってしまう。
―――――もしも、別れ際に、私とお嬢様が同時に振り向いたなら?
運命はどこかで変わっていたかもしれない。そんな可能性の分岐点。私はここにいないで、あそこにいるかもしれない。今更、たしかめても仕方ないのかもしれない。それでも、たしめないではいられない。
「ひとつだけ聞くわ魔理沙」
「うん」
「あのとき、お嬢様は――――私のために一粒でも涙を零していたかしら?」
ポタ、ポタ、静まり返った部屋に、閉まりきらない蛇口から落ちる水だけが音を立てている。
「そのことなんだけどな……レミリアは………」
我慢できなくて振り返った先に―――――魔理沙は、いなかった。
どこにもいなかった。
初めから誰もいなかったかのように。
さっきまでカレーを食べていたはずのテーブルには電源の切れたスマホだけが置いてあった。
使い終わった食器はすでに洗い流し終わっている。
まるで痕跡を自分で消してしまったかのように。
ポタ、ポタ、静まり返った部屋に、閉まりきらない蛇口から落ちる水だけが音を立て続けた。
ポタ、ポタ、ポタ。
まだ鍋にはカレーが残っていた。
煮込んだ神戸牛から出た油が冷えて、表面に白くワックスのように固まっている。どうしてこんな肉を使ったのか次第にぼんやりと思い出せなくなってきた。疲れていたせいかもしれない。
久しぶりにカーテンを開けて窓辺に身を乗り出すと、冬の風が吹き込んできて頬を冷たく撫でた。ベランダの下に広がる雑木林には落ち葉がカサカサと舞っている。
――――――あれから、もう何年が経っただろう?
時間は停まることなく流れてゆき、あの日の出来事から、遠く遠く離れて、やがては景色の彼方へ消えてゆく。
橙色した柿は枝に付いたまま熟れていて、いつの間にか季節がまた移ろってゆくのを実感する。だから、ここから見る風景は嫌だ。
生活するには足りている。仕事だってこのまま続けられそう。面倒臭いと思いつつも、あの場所で、この場所で、きちんと役割を演じ切ることができる器用さも持っている。うっかり誰かとぶつかれば角が取れて丸くなる。そして河原の石のようにつるつるになってゆく。でも、自分を偽っているというのとは、少しだけ違って、自分がそういうふうに柔軟な形へ変化しているのだろう。
この世界で生きるのが簡単になってゆくのを感じる一方で、パズルゲームみたいになんとなく毎日をこなしている自分に気付く。
なのに、何を注ぎ込んでも満たされることがないのは、どうしてだろうか?
心のどこかにポッカリと開いた穴があって、その空白をどうしても埋めることができないでいる。時折、こうしてナイフを手に取ってみる。そして銀色の反射を見つめる。この刃物は、乱雑にジャガイモを切るためだけに使っていたのだろうか?たしか、大切な誰かのために使っていたような気がするのだけれど。
「…………?」
まだ夕方だというのに陽が傾き、差し込む西日がスマホを照らしていた。真っ黒な画面にうっすらと小さな指紋が残っている。ひょっとしたら見間違いかもしれない程度に、うっすらと。
「……私は、ずうっと誰かと一緒だった気がする」
腰掛けた窓辺から見上げた秋の空は、高く青く、そして澄んでいた。
(――――ここから飛び立てば、失った何かを取り戻せるかしら?)
きっとそんなわけもないのに、手を窓枠から離した。
宙ぶらりんになった脚は一旦、室内へ戻す。私の日常がぎっしりと詰まっている部屋へ。妙な気さえ起こさなければいつだって戻れる日常の世界へ――――ふらりと別れを告げるかのように、私は身体を窓の向こうへ。
背中から倒れ込むように、ゆらり。
上下が反転する視界に、くらり。
次にまた目を開けたとき、私の目には誰が映っている?
見上げた秋の空は、高く青く、そして澄んでいた。
――――――――――――――おいっ
――――――――おいっ、てば
―――あんた大丈夫かい
「う………ん…………」
――――――落ちちゃったのかい
「……は……い………」
―――――――――すぐに動いちゃダメ
――――――――――――――そのまま横になってな
「どすんって音がしたから見に来たんだ。あんた、なんであんなとこから落ちたの」
私の顔を覗き込んでいたのは、204号室の住人だった。
「……腕を伸ばして柿を取ろうとしたんです。でも手が滑っちゃって」
「柿だったらあたしが取ってやるから、あまり危ないマネするんじゃないよ」
「すいませんでした」
どれだけ寝ていたのか。地面から仰ぐ夕暮れの空は、グラデーションを描くように青から茜へと染まっていた。トロールみたいな姿の女性は私が起きるまでずっと見守っていたのだろう。
「それにしても良かったよ。つもった落ち葉が上手いことクッションになってたから大事にならなかったんだね」
「そうみたいですね」
「これも運命ってやつだろうね。あんたのこと守ってくれたんだよ」
「…………………」
いったいは運命は誰が操っているのか、どうやら私はまだこの世界で生きてゆくらしい。
「だからまだ動いちゃダメだって。気を失ってたってことは頭打ってるかもしれないだろう。救急車呼んだからそのまま安静にしてな」
「ありがとうございます。怖い人かと思ってたけど、優しいんですね」
「まあ大きな物音だけは勘弁な。あたし警備員の仕事してるから昼夜逆転してるんだよ」
「すいません気を付けます。あとで、このアパートのゴミ捨てのルールも教えてくれますか?」
「なんだあんた知らなかったの。知らないのは仕方ないよね。あんた、名前なんていうんだい?」
「十六夜です。十六夜…………咲子っていいます………」
「よろしくね咲子さん」
「はい」
「泣かなくていいんだよ」
「はい」
また一枚、柿の木から葉が舞い落ちて、はらりと私の頬へ。落葉はすっかり色付いて紅色をしていた。スカーレットの絨毯に寝転んで冷たい空を見上げる。冬が近づいている。またひとつ季節が移ろってゆく。
時間は停まることなく流れ続けてゆく。この世界で私は生きてゆく。時間は停まることなく、どこまでもどこまでも流れ続けてゆく。
ピーターパンのような無邪気で無垢で、美しい残酷な世界。
逸勢さんは、それをミケランジェロのように大理石から掘り出しているようです。
楽園というものは常に地獄であり、仮面舞踏会であり、宴会だとこの物語は教えてくれているようです。だから、いつか醒める時がきて、咲夜さんは去ったのでしょう。
カレーは現実性の象徴だと考えてしまいます。平凡で、ありきたりだけれど、二度と戻ってこない時間を費やして作るカレー。
魔理沙と咲夜さんがいっしょに食べてすごした短いひとときは大切な思い出になるはずでしたが、非情にも喪われてしまう。楽園の仕業ですね。
日常は帰還して、咲夜さんはその中でサバイブしなくてはいけない。
最後の偶然はレミリアの愛情かきまぐれか、それとも?
ずっと読みたかった話で、とても甘い幸福をもらいました。ありがとう。
作者様へ、口に苦く腹に甘い運命が訪れますように。
特に魔理沙が本題に入る場面の緊張、言葉と言葉の間の沈黙、魔理沙が消えた後の部屋の空気感、鬱エンドかと思った末のまさかの救いがステキでした。
逸勢さんの作品を全て読んだわけではありませんが、キャラが現代社会ですり減っていくだけではなく、寂しさや葛藤を抱えつつも社会に適応し、人々の小さな優しさに救われる展開は、もしかしたら、逸勢さん自身の環境や心理の変化もあるのかも知れないと邪推したりして。
原作やMMDドラマやらをみるに東方界隈は無垢なピーターパンよりこの話の現実よろしく自分の演じるべきを演じる魔理沙たちを選んだ感が多々ありますがだからこそこの話の魔理沙にはピーターパン的な魅力を感じました
大変良かったです
タオル問屋を乗り越えた魔理沙ちゃんは、色々と考えてるみたいです適役ですね
カレーと違い、この手の作品は繊細な味付けが求められるので色々と大変でしたが、作ってて楽しかったです。
ただ、レミリアに関してはもう少し描いて前景化したほうが良かったかな、と反省。どこまで風味を出すかはかなり悩みましたけど、最後はカンで書いてしまった。
お召し上がり戴き、ありがとうございます。
咲夜さんから幻想が失われていくようで辛かったです
それでも現実を生きていこうとするところにグッときました
漂った男風にしても?