Coolier - 新生・東方創想話

死神ちゃん Chapter1

2018/12/15 20:09:35
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   †

 もう、保たない。
 どのくらい走り回っただろうか。「山」ってやつを一回りしちゃあいないだろうか。畑仕事と薪運びで鍛えた脚には自信があったが、そろそろへし折れそうだ。
 息を吸って吐くのももうままならない。ぜひぃ、ぜひぃ、とざらついた音がする。胸が痛い。今すぐにでもあぶくのように弾けそうだ。
 それでも息を止めるわけにはいかない。息の根を止められるわけにはいかない。俺は、俺はこんなところでくたばるわけにはいかないんだ。
 だが、くそったれめ。どんなに走っても走っても、あれはずっと後ろに付きまとってくるんだ。ちらと振り返って……ちくしょう、まだ来てやがる。
 犬のような形をしている。だがその大きさときたらそこらの野犬とは比較にならない。まるででっぷりと肥えたイノシシみたいだ。不気味なのはその面だけが、人間のそれになっていて、にっこり笑っていやがるんだ。
 妖怪。そりゃそうだ。
「山」に入ると決めたときに、覚悟も一緒に固めたんだ。妖怪が必ず出るだろうから、そうなったら走って山頂のほうへ向かおうって。
 だが、どうだ? いま俺は、下っているんだ。ぶるっちまってるんだ。あの優しそうな眼をして俺を追い詰める妖怪ってやつに。名前? 種族? 知ったことか。あれにつける名前なんざ「死」で十分だ。
 死が、次第に距離を詰めてくる。俺のほうが遅くなってるんだ。とうぬぼれもしたが、諦めがよぎった頭の冷静な部分で考えりゃ、あの巨躯で全力出して走ったら俺なんかとっくに追い抜いちまってるだろう。もてあそばれてんだ、俺は。あがけよ、もっと走ってみろよ、人間、と。
 我を楽しませて見せろよ、と。あの笑顔は愉悦のそれだ。
「……嘗めやがって」
 憤りが、頭の冷めた部分と、震えている部分を同時に熱して塗り替えた。どうせじり貧なら、今が最高潮だ。
 ぶっ殺してやる。
 足を止めて振り返った俺を見て、妖怪は意外そうな顔をした。だがそれはまるでひょっとこのようだった。俺をおちょくる気満々のゆとりだった。それは俺が薪割り鉈を抜いても変わらなかった。
「お、お前なんか――」
 悔しいことに俺の声は震えていた。それでも叫ばずにはいられなかった。

「――お前なんか怖かねぇッ!」
 鉈を振りかぶって、今までとは逆方向に走った。イカれちまったかと思っただろ? 後から思い返せば俺だってそう思うさ。でもその時は、その時ばっかりは、そうするしかやり方がなかったんだ。たとえそれが虎口に自ら飛び込むようなバカな真似だったとしても。
 実際のところ、その時あんたが出てきてくれなかったら。
 こうやって話をすることもなかったんだろうな。

「その意気だ人間……とほめてやりたいところだが、ちょいと生き急ぎすぎてやしないかねぇ?」

 あんたの声だ。そして気が付いたら、俺は山のふもとに立っていた。あんたのおかげか? ならあんたも妖怪の類か?
 まぁ、何でもいい。俺を取って食おうってわけじゃあなさそうだ。礼を言わなきゃなんねぇ。
 あんた、名前は?
 
   †

「アタイかい? あたしゃ小野塚小町ってんだ」
 男に問われて、小町が面倒くさそうに答えた。里のはずれ、誰も使わなくなった納屋の中であった。荒れ果てて穴の開いた天井、そこから差し込む光に、二人が舞い上げる綿埃が白く舞う。
「お察しの通り、化け物あやかしの類だよ」
 そりゃあそうだろうな、と男はうなずいた。男は自らを「以蔵」と名乗り、話をつづけた。
「妖にこんなベッピンさんがいたとは驚いたもんだ。しかもそれが、俺みてぇな男を助けてくれるときた。なぁ、いったいどんなからくりを使ったんだ。つがいはいるのか」
「つがいなんざいらないよ、めんどくさい。頼むから色目で見ないでおくれよ、人間」
「バカヤロウ、お前はとんでもないベッピンだが、ほかの女に鞍替えなんかできるかってんだ……」
 以蔵は即座に否定した。その毅然としたさまに小町が鼻を鳴らしたが、直後に後悔した。侮辱された、と憤ったかのように受け取られかねないと思ったからだ。小町の本心はそうではない。憐憫である。
「それで、小野塚小町とやら」
 以蔵は小町の過誤には言及しなかった。目の前の妖怪からわずかに距離を取って、そして問うた。

「じゃあ、なぜ俺を助けた」

「聞きたいかい」
「当たり前だ」
「どうして。命が助かったという結果だけあれば、お前さんは満足じゃあないのかい」
「そうでなければ、お前に礼を言っていいのかわからなくなる」
 以蔵は愚直な男だと、小町は改めて思った。
 事前に受け取った資料の通りだ。小町は懐から、それを取り出した。
「まだ、アタイが何物なのか。話していなかったね」
 紙の束であった。五枚ほどの綴りで、左上の隅を金属の留め具で押さえられている。以蔵には知る由もないが、それはステープラーと呼ばれる文具の針である。
「なんだ、その紙は」
「お前さん、字は読めるかい」
「いいや」
「なら安心だ。これからアタイが言うことを、よく胸に留めておくんだね」
 小町はけだるそうに、紙束の表紙をめくって、何度も読み返したその期日を読み上げた。

「以蔵とやら。お前さんは明日の丑三つに死ぬ。助かってホッとしているところ悪いんだが、アタイは死神だよ」

 それが、新しい職場における小町の役割だった。
 死神、営業部。地上に存在する魂の総量を管理し、地上と冥界の均衡を保つために働く組織。
 営業部の仕事は、一般的に知られている死神のイメージとは異なる。大鎌を持って命を刈り取るのは、ファンタジーの中だけの話だ。死神個人が魂を刈り取ることは固く禁じられている。
 人がいつまで生き、いつ死ぬべきか。それは出生の時点で、死神が手を下すまでもなく決まっているのだ。死神の仕事は見守るだけ。台帳にまとめられたその『運命』とでも呼ぶべきものを、忠実に履行すること。そして魂を回収し、渡し守に渡すこと。それが死神営業部の受け持つ真の仕事である。
 小町は新米営業として、初めての仕事に立った。回収対象、以蔵。そして今、最初のステップである『死期の宣告』を済ませた。

「……なん、だと?」
 以蔵が見せた困惑は、当然のものだった。二つの驚きが同時にあった。目の前の美人が、音に聞く死神であったということ。それから、自分の命が一日と数刻しか残っていないということ。
 どちらも信じるに値しない、世迷言のように思えた。
「俺が……死ぬ……?」
 しかし以蔵の口からこぼれ落ちたのは、そうしたごくありふれた困惑だった。
 無理もないことだった。人は自らの死を思い描けない。それを思うことは許されない。それを意識するのは、そうさせられるときだけだ。
 先ほどまで、人面狗体の妖怪に追い回されていたときのように、実体を持った死の危険ならば、目で見、肌で感じ、脈動の加速と共に認識できる。
 しかし、先ほどそれを告げた小町の口調はどうだ? まるで「今日の夕飯はイワナが釣れたのでイワナです」とでも言うように、淡々と、退屈そうに、まるでそうであることが自明であるかのように。
 お前は死ぬ、と告げられたのだ。
「……嘘だ、嘘だ!」
 次にやってくるのは激情だった。ヒトは誰でも、死にたくはないものだ。その理由はどうあれ、可能な限り死から逃れようとする。
小町は新人研修で、ここまでを学んだ。
「死ぬなんて嘘だろ……しかもあとたったの一日? おい、冗談だと言ってくれよ、なぁ!」
「初対面のお前さんにこんなキツい冗談飛ばせるほど、あたしゃヒトをおちょくっちゃいないよ」
 小町が淡々と答えた。その目は書類を眺めていて、何の感情もこもっていない。
 以蔵の方を見ようともしない。用は済んだ、後はご自由にどうぞ。とでも言いたげに、納屋の扉を指さしている。取り付く島もないというのはこのことだ。
「……死ぬのか?」
「ああ、死ぬ」
 以蔵は納屋の壁を蹴り飛ばした。畑仕事で鍛えた膂力が、古びた壁へ簡単に穴を穿つ。
 めき、と恐ろしい音が響いた。しかし小町が少しも狼狽えた様子を見せないのを見て、ようやく以蔵は悟ったのだった。
 俺は――死ぬのだ。
「ああ、くそ。死ぬのか……、さっきみたいに、妖怪に追い回されて死ぬのか」
「それは言えない規則になってんだ。すまないねぇ」
「お前に聞いてんじゃねぇ……! クソッタレめ。じゃあなんで助けた」
「今日死なれちゃ困るからさね」
「へっ、お前たち死神とやらにとっちゃ、人間なんかいつ死んだって同じなんじゃないのか」
「そうやってお前さんみたいに、死ぬ予定の人間全員が一日早まって死んだらどうなると思う? 地獄の釜か、極楽の門か――お前さんがどっちに行くのかは知らないが、そいつらが溢れかえっちまうのさ。輪廻転生もスケジュール管理が徹底されてんだよ。お前さんが逝く先の枠は、一日とちょっと後に空く。そういう話さ」
 小町は真実を話した。地獄も極楽も、人員は常にカツカツだ。少ない人員で大量の死者を裁かなければならないし、捌かなければならない。むやみやたらにヒトに死なれてしまっては、品物の量が多すぎて商売にならないと言うのが正直なところだ。
営業部の死神は、現世と冥府の間における魂のやりとりをバッファする役割を持っていると言える。故に時々、このように早まって死んでしまいそうになる人間を助けたりもする。それは小町の気まぐれなどでは決して無く、業務上必要だからだ。
 面倒なことに、業務上必要なのだ。
 この男が再び死地に赴かないよう、見張る必要がある。
「だからまぁ、残された日々はせいぜい大事に過ごすこったね。いるんだろう? つがいが」
 萎れてしまった以蔵へ、小町は意趣返しをする。すると以蔵が答える。
「ああ、いるとも。子もいる」
「だったら」
「だから……! 時間がねぇんだ!」
 以蔵渾身の叫びは、納屋全体を屋根の先まで震わせた。
 その真ん中にいた小町は、初めてこの以蔵という男に興味を持った。
 ヒトは死を忌むものだ。
 だが、それをおしてまで死地に挑もうとするこの男の動機は、いったい何だろう。

「詳しく、聞かせておくれよ」

 ひどく退屈で、ひどく面倒で。そのくせしくじれば一発で消滅の危険な綱渡り。
 そんな中で、少しくらいは楽しみがあってもいいんじゃないか。小町は軽々にそう思ったのだった。
 もっとも以蔵にとっては――小町の助力を得られることは、また別の意味を持っていたのだが。



 小町と以蔵は里へと下った。
 彼の住む里は栄えてもいなければ、ひなびてもいない。ほどほどに人が住み、ほどほどに人が産まれ、ほどほどに人が死ぬ、小町に言わせれば「調和の取れた良い里」だった。
 馬が荷車を引いて、里の外へと出て行く。荷車には米俵が山と積まれている。ヒトの主要な食糧と言えば稗や粟といった雑穀だったが、この里においてはコメが良く採れるようで、しかも外に売り出すほどに豊作だった。
 御者に軽く会釈をする。二人は荷車とすれ違うようにして、小屋が建ち並ぶ中を進む。
 里の人々は以蔵を認めると、「どこへ行っていた」「この大変なときに」「甲斐性なしめ」などと言って彼を責める。以蔵はそれに対して、憮然として答えようとしない。非難の声が高まる。以蔵は更に強情になる。いたちごっこだ。
 それを小町は傍目に眺めている。放蕩の末に女を連れ帰った形になるが、小町のことに言及する者は誰もいない。見えていないからだ。営業部の死神に授けられる術の一つに、『回収対象者以外には見えなくなる』と言うものがある。
 もちろんそんな術など無くても、距離を操る力を持つ小町は困らない。他の村人たちとの間の距離を限りなく大きくすれば、見えなくなることは出来るだろう。敢えてこの場にいる必要も無い。小町の目と耳を以蔵の近くに置きさえすれば、状況と事情は把握できる。
 そうしなかったのは、以蔵の頼みだったからだ。
「一緒にいてくれ。そうしないと、じぶんで首をかっきりかねない」
 小町は訝しんだ。おかしな申し出だった。これから家に帰ろうというのに、放って置いたら死にかねないというのだ。それでも回収対象者が、予定日よりも早く自ら死にかねないというのなら、それを保護してやらなければならないのが営業の仕事だ。
 自らの存在が消滅する期日が存在して、それを告げられることのどれだけ恐ろしいことか。死神である小町ですら、先日その恐怖に怯えたばかりなのだ。定命の人間が、それを聞かされて平静でいられるはずが無い。
 村人たちから解放されて前を歩く以蔵は、時々振り向く。小町を見て、怯えた様子を見せる。これがこの先何度も、何度も繰り返されるのかと思うと、気の遠くなる思いだ。いっそ遠くなるなら無くなるまで遠くなって欲しい。気を失っている間に魂の回収など終わってしまえばいい。
 渡し守の仕事は良かった。これから天国と地獄、どちらへ向かうのか分からずに不安がっている魂どもを端から船に押し込んで、声も出ないようなぎゅうぎゅう詰めにしてから運んでやるのだ。奴らは喋れば喋るほど不安になるのだから、それが正しい行いだった……小町は自らの仕事ぶりを振り返って、そういう屁理屈をつけていた。そうやっていまから目を逸らしたいくらいに、以蔵の見せる怯えた視線が不愉快だったのだ。
 お前さんが死ぬのはアタイのせいじゃない。アタイが殺しに来たんじゃない。さっき説明しただろう?
 そうぶちまけたくなるのを堪えるのも、きっと営業死神の仕事だった。
『いいですか、小町』
 小町をこの状況に押し込んだ、敬愛すべき上司である四季映姫・ヤマザナドゥの声が脳裏によぎる。
『あなたは少々、ものぐさなところが過ぎます。それでいてせっかちでもあります。いまのあなたのままでは、営業部に回されてもきっと使い物にならないとして、配属を取り消されてしまうでしょう。そこで、私から三つ。言葉を贈ります。拝聴しなさい』
「一つ……業務には絶対服従」
 その場で百回は暗唱させられたものだった。
「二つ……その範疇で、職務に――この場合、対象に愛着を持って」
 口の中が苦汁で満たされる様な言葉だ。
「三つ……その時を幸せに迎えられるよう、心計らいなさい」
 小町がどれだけ独り言を吐いても、隣にいるように見える以蔵には届かない。音波は距離の二乗に比例して減衰し、無限の距離を越えて到達する声は存在しない。小町はめちゃくちゃにわめき散らしたい気分だったが、そうしていたとしても以蔵には何も聞こえない。
 それが分かっていて、自制が効くと言うことは、四季映姫・ヤマザナドゥから賜ったお言葉が、体中に染み渡っていると言うことを意味していた。悔しいことだが。
 あのお方は全てを見通していらっしゃる。職務そのものにはうんざりだが、せっかく拾った命だ。それを浪費して、四季映姫・ヤマザナドゥを失望させるわけにはいかない。
 小町は頬を張った。みずみずしい音がした。その音は距離をいじらなかったので、以蔵を僅かに驚かせた。
「どうした、急に」
「何でもないよ。ちぃと気合い入れたくなっただけさね……それよりも、お前さんの家ってぇのは、随分遠くにあるんだねぇ」
 決して狭くはない里を、横断した形になる。以蔵は黙ったままだ。
 小町は頷く。事情がうっすらとだが、飲み込めてきた。しかし黙っていた。
 以蔵たちはついに里を出てしまった。道の先には掘っ立て小屋がある。夕の暮れのことだが、灯りは灯されていない。
「あれだ。あれがいまの俺の家だ。そしてお辰の家でもある」
「お辰……あんたのつがいの名だね」
「人間につがいなんて言うな――意趣返しってやつか。すまなかった」
「わかりゃいいのさ。さぁ、見せとくれ。その子のために『山』何ざに入ったんだろう」
「後生だから見えないようになっていておくれよ」
 引き戸に手をかけながら、以蔵は声を殺して言う。小町はやれやれと首を振る。
「分かってらぁ……。野暮と仕事は死ぬことの次に大嫌いさ」
 以蔵は分かったのか分かっていないのか、曖昧に頷いた。扉の向こうにいるお辰という女に、心を奪われてしまっているようだった。以蔵が引き戸を開ける。小町もそれにつづく。
 なんだ、誰もいやしないじゃないか……。真っ暗闇と言っても過言ではない屋内を眺め、小町はそうこぼしかけた。しかし直後、部屋の片隅も片隅、農具を立てかけてある棚の脇から、もぞり、と這い出たものがあった。
 目をこらし、小町は闇を遠ざける。
「……なるほど」
 それはうら若い娘だった。器量の良い娘だ。形の良い乳房に大きく広がった骨盤、いわゆる安産型の体をしている。申し分ない母になるだろう。
 しかしなぜその特徴を、小町が見て取ることが出来たのか。何のことはない。裸だったからだ。
 そしてその全身は、蛇の腹が這いずり回っているかのような模様で覆われていたのである。
 目の錯覚かと小町は疑ったが、その模様はゆっくりと動いていた。まるで見えない蛇が全身を締め付けているかのようだった。
「蛇の呪、か」
 そして実際の所、それに縛られているせいか、それとも呪いそのもののせいか、お辰と呼ばれるその娘は立ち上がることも手を差し出すことも出来ず、愛する夫の元へ近づくのに、まさしく蛇のように這いずることしか出来ないのだった。
 彼女の口から漏れたのは、「シュー」とざらざらした擦過音だった。凡そ人の喉から出る音ではない。呪いは進行していた。のっぴきならない程度に。
「おお、お辰……お辰! すまねぇ!」
 以蔵は、しかし異形と化しつつある妻を躊躇いもなく抱いて、お辰の鋭い牙が喉を捕えるのも構わず号泣した。
 体を締め付けるように、以蔵へ巻き付く肉感的な体つきをしたお辰と、喉笛をがっしり掴んで離さない彼女の唇。劣情を煽る光景であるが、その場にいる誰もそんな下世話な感情を持ち合わせていない。
「俺は今日も失敗した! また妖怪に見つかって、とっ捕まるのが怖くて逃げてきちまった……。すまねぇ、ふがいない俺で済まねぇ……!」
 小町にはそれで、全ての合点がいった。
 無謀としか言い様がないが、以蔵は山の神社を目指していたのだ。

   †

 小町と以蔵はいったん、表に出た。月のない夜だった。お互いの顔も見えないような漆黒の帳が降りる中、以蔵の懺悔が始まる。
「ちょうどひと月前のことだ……お辰のやつがああなっちまったのは。その時にはもう、あいつは俺の子を孕んでた。だから止めろって俺は止めたんだ。止めたんだよ。それでもあれは勤めに出るって聞かなくて。少しでも体を動かしていないとお産に触るからとか……産婆の野郎がなにか吹き込んだに違いねぇ、くそ、許さねぇからな。
 それでその日帰って、一晩明けてみたら、あの可哀想な姿になっちまってた。きっと田んぼか何かで、お蛇様を踏んづけちまったに違いないんだ」
 以蔵が語った顛末は、ごくありふれたものだった。少なくとも小町にとってはそうだった。農民百姓の類いが農作業に出て、気付かぬうちに小蛇でも、大蛇でも構わないが、鋤や鍬や、自分の足で踏んづけて殺してしまう。殺された蛇の側は人間側の事情など知ったことではないから容赦なく祟る。今回の事例も、まさにその通りだと思われた。
「お気の毒だねぇ。それで、山の神社を頼ろうって言うのかい」
「八方手を尽したさ」
 以蔵は怒りに満ちた顔になる。
「まずは命蓮寺とかいう寺に行ってみた。だが奴らときたら……クソ。半刻ほど説教を受けたが、結果何と言われたと思う。それが衆生の定めならば致し方ないでしょう、輪廻が巡るのを受け入れなさい――だとさ。何でも救ってくれるって言うのが仏様の教えじゃなかったのかよ、クソッタレめ!」
 以蔵が足元の土を抉るように蹴り飛ばす。
 小町は相づちを打って頷いたが、彼の抱く誤謬については指摘せずにいた。仏徒の言う救いとは、輪廻転生の輪から外れ解脱に至ることである。故に彼らは、今生の苦しみは全てそのための徳だと考えている。それが、蛇を殺したという殺生の結果だとしたら尚更だ。仮に解呪の方法を持っていたとしても、寺の連中はお辰を見殺しにしただろう。
「それで? 他には」
「思い出すだけでむかっ腹が立ってきやがった。里の巫女の所にも頼み込みに行ったんだ。こういう呪いの類いは専門だろう? 巫女って奴は」
「そうかも知れないねぇ」
「だってのに、あの野郎……。蛇の呪は自業自得なんだから、受け入れなさい――だとさ。……だとさ!」
 憤りを何処にぶつけていいのか分からなくなったのか、以蔵は頭をかきむしり始めた。
「何が自業自得だぁ? 同じ人間とは思えねぇ。俺のお辰が死にかけてるんだぞ。奴は人間の味方じゃなかったのか!」
 その勘違いについても、小町は口を閉ざすことにした。博麗の巫女はあくまでも人間と妖怪の『調停者』であり、どちらに肩入れすることもない。今回の話は、妖怪の領分に人間が踏み込み、そのしっぺ返しを食らったと言うだけの話。妖怪側からの一方的な蹂躙ではない。それでは、博麗の巫女は動きようがない。
「それで……山の巫女に頼ろうとしたわけだ」
「ああ。藁にもすがる思いさ」
「藁に手を伸ばすために、川に飛び込むようなもんだと思うがね」
「やかましい。とにかく俺は、山の神社に行かなきゃならない。一刻の猶予もないんだ」
 以蔵の頭からはふけが散っている。それは、村人達の反応からも推察されるように、山に入っていた時間がそれ相応に長いことを意味している。恐らくは山というものの性質を、何度も入って確かめて、より奥深くへと分け入ることが出来るようになっていったのだろう。
 はっきり言って、蛮勇だった。小町は白狼天狗の存在を彼に伝えるべきか、大いに逡巡した。彼がもう少し深く山へ分け入ったならば――それは彼の目的である、神社の領域へ至ることを意味する――どんな小さな異変も見逃さない白狼天狗が彼を捉え、一刀のもとに斬り捨てるだろう。山に入るという行為は、それそのものが自殺行為だ。
「東風谷の巫女は、時々里に下りてきているようだよ。それを待ったらどうかねぇ」
「俺があと一日で死ぬって言ったのは、小町、お前の方だぞ」
「こりゃあ失敬。お前さん、そうするとこれから山に入るつもりだね」
「当たり前だ。このままお辰を化け物にしてたまるかってんだ……」
 以蔵の顔は紅い。それは命の刻限を前にして発憤したせいだろうか。
 否。小町だけが、その理由を知っている。
「お辰を……助けなきゃ。お辰を……」
 呂律の回らなくなっていく舌。繰り返される無意味な言葉。
 熱が頭を焼いている証拠だった。その由来は何か。
 小町は手元の台帳に目を落とす。同時に、以蔵がその場に倒れる。
「人間、以蔵。蛇により落命……。丑の刻まで、あと一日足らずか。遅効性の毒は苦しむねぇ」
 他人事のように小町は言ってのけたが、その心中は複雑な思いでいっぱいだった。
 以蔵の思いの丈を、聞いてしまったから。
 しかし職務には、忠実であらねばならないから。
 しかし四季映姫・ヤマザナドゥはこう言った。
『三つ……その時を幸せに迎えられるよう、心計らいなさい』
「……どうしろって言うんだい、映姫様。アタイに何が出来るって言うんだい」
 夜は更ける。次第に冷え込んでくる。小町はさしあたって、以蔵を家の中に運ぶことにした。



 毒に苦しむ以蔵を、小町は放っておけなかった。
 建前は、期日より前に死なれては困るということだ。しかし小町が行う介助は本心から来るものだった。
 以蔵という男を襲った定めは、恐ろしいほどに非情なものだった。愛する妻と、生まれてくる子どもを失おうというところだ。気の狂いそうな焦燥のあまり、入れば必ず死ぬと言われる山に挑み続ける。そして満身創痍で帰ってきたところを、そうまでして守ろうとした妻の毒牙にかかって死ぬのだ。
 神はいない。死神である小町はそう思った。幻想郷において神の肩書きを持つ人物は枚挙にいとまが無いが、その誰も彼を救おうとはしなかった。ならばいないのと同じ事だ。少なくとも、御利益でしか神というものを認識できない人間にとっては。
 蛇と化した妻をかし抱いて、以蔵は熱にうなされている。
 小町の熱心な介助の甲斐あってか、以蔵はその晩から一日よく耐えた。月の明るい晩だった。あばら屋のてっぺんから、漏れ出る優しい光のヴェールは、あたかもその時が来るのを祝福しているかのようだった。小町は腹立ち紛れに天井の穴を全て塞いだ。
 そして、濡れ布巾を絞るのに疲れて力の入らなくなった手を握り、開きしてほぐす。次に胸元から取り出した以蔵の資料に目を落とす。
 今日、丑の刻。蛇に倒れ死亡。彼を呑み込もうとする定めに、変更はない。
 なんてこった。小町は思った。この紙を見たその時は、間抜けな百姓が、青大将にでも咬まれてぽっくり逝くものだと気軽に構えていたのに。ふたを開けてみれば、ヒトの死とはたしかにあっけなかった。しかし、あまりにも無情だった。彼の切望が天に届くことはない。彼女がヒトに戻ることはない。死とはつまり、一切の絶望なのだった。
 小町は後悔の念に襲われた。彼女が船に押し込んでは流してきた、かつて人であった魂たち。それらの中にも、以蔵ほどではないにしろ、このような苦渋の別れを経験してきたものがいたかも知れない。
死神として生を受けながら、この光景を目の当たりにして始めて、小町は人の死というものを理解した。死とは機械的に発生するものだが、その内容は決して均質化されてはいない。満足の中安らかに逝く者もいれば、以蔵のように全ての望みを絶たれ苦しんで死ぬ者もいる。
四季映姫・ヤマザナドゥの言葉が、再び蘇る。
 最期の時を、心安らかに。刻限まで、あと幾ばくも無い。
「……ちっ」
 舌打ち一つ。この状況で小町が以蔵のために出来ることなど、たった一つしか無いではないか。
 小町はいびつに縮めた距離で、小町の口元と以蔵の耳元を繋いだ。逆もそうした。
 そして、以蔵に囁く。
「以蔵、まだ話せるかい」
 熱にうなされていた以蔵は、はっと体を震わせた。そして小声で憤りを顕した。
「……おい、お辰が寝てるんだ」
「その通り。だが聞こえちゃいない。詳しいことは省くが、お前さんとアタイは糸電話で繋がってるようなもんだ。アタイにはそれが出来る。距離をいじくれるんだ」
「距離、を」
「その通り。だからアタイにとっては造作も無いことさ。お前さんをこれから山の神社まで連れて行ってやる事くらいねぇ」
 以蔵が跳ね起きた。いまにも死にそうな病体だというのに、何処にそんな力が残っていたのか。小町は学んでいる。それが人間というものの、希望に縋る力なのだ。
「いまの話、本当か」
「この土壇場で嘘なんかつけるほど、あたしゃ人間を舐めちゃいないよ……。さぁ、どうする以蔵。行くかい」
「行くとも」
 即答。
「それがたとえ、自らの身を滅ぼすことになってもかい。それに、結局無駄足に終わるかも知れない。最期の時まで嫁と一緒にいなくて、本当にいいのかい」
「ぬかせ。どうせくたばるんだ。お辰を助けられるかも知れないなら、何処にだっていくさ」
 以蔵の意識は熱によって朦朧としているはずだった。足許もふらふらとおぼつかない。しかし彼の心だけは、一本の芯が通っていてしゃんと立っていた。それはともすれば楔のようだった。以蔵をこの世につなぎ止める最期の楔だ。
「……筋の通った男は、嫌いじゃないよ」
「そりゃあ、どうも。じゃあ手早く頼む」
 以蔵がふらふらと小町に歩み寄ると、足をもつれさせて転んだ。小町はそれを抱きかかえるようにして受け止めた。
 回収対象者、と一絡げにはもう呼べなかった。この熱を、肌で感じてしまったなら。
「なぁ、三途の川ってのは、本当にあるのか」
「あるとも」
「そっから先も、あんたと一緒に行けるのか」
「いいや。三途の川の担当は、別の死神さね」
 苦い気持ちが小町の胸を走る。
「……そうかい。そりゃ、残念だ」
「無駄口叩いてる暇はないんだろう。いくよ、以蔵」
 心中をごまかすように以蔵を遮って、小町は能力を起動した。周囲が暗転する。それは一瞬のことで、すぐに山門と大きな鳥居が小町たちの前に姿を現した。
 しかし時は丑三つに迫る深夜。東風谷の巫女は起きているはずもなく。
 代わりに小町と以蔵を迎え撃ったのは。
 祟り神の元締め。洩矢諏訪子であった。

   †

「死神。そして人間。こんな時間にアポ無しの登場とは、もし神奈子に出くわしていたら、その場で食い散らかされても文句は言えないぞ」
 諏訪子は頭上、鳥居の高さに浮いていて、くすくすと笑った。
 小町は狼狽えなかった。神格と対峙するのは初めてではない。なにせこれまでずっと、四季映姫・ヤマザナドゥとの上下関係にあったのだから。
「生憎と急用でね。本当なら物わかりのいい巫女様にお目通り願いたかったんだが……お前様が出てくるならちょうどいい」
「ふぅん。いまは何の力も無いことになっている引きこもりの私に用があるなんて、奇特な人もいたもんだ。それで、どういう用向きだい」
 諏訪子は上空から二人を睥睨する。そしてにやりと笑う。
「さぁ、言ってごらんよ」
 小町の額から脂汗がにじむ。こちらの事情は全て把握されたのだろう。その上で諏訪子は問うている。神霊と契約を交わせ、と迫っているのだ。
 しかし小町は、この土壇場で躊躇ってしまう。契約を交わせば、それ相応の対価が求められる。それを抱えたとき、小町自身がどうなってしまうのか見当も付かない。業務が継続可能かどうかも分からない。神格としての格が違いすぎる相手を前に、小町は動けない。
 しかし、人間は違った。
「お辰を……!」
 熱と痛みに苛まれ、いまにも崩れ落ちそうな体を精一杯膝立ちに立て、以蔵は声の限り叫んだ。それは思いの丈に比して非常に小さなものだったが、小町と諏訪子の耳には届いていた。
「どうか、お辰を……助けてやってくだせぇ」
「蛇の呪を解け。そう言うんだね」
「そのとおりでごぜぇます。それが叶うなら、俺なんざどうなっても構わねぇ。何とぞ……どうか……どうか……」
 以蔵は激しく咳き込んだ。血痰こそ吐かなかったが、命の灯火を吹き消しかねない勢いだった。
「どうなっても構わない。その言葉に偽りはないね」
「ああ」
 諏訪子は深く頷いた。
「ならばそうしてやろう。祟り神と化したその蛇、鎮めるための祭儀を執り行おうじゃないの、この場で」
 小町はこのやりとりを聞いていて、ふと疑念を覚えたのだった。
 このまま以蔵が呪を解いたなら、以蔵を苛む毒も消え去るのだろうか。
 そうなれば、以蔵が死ぬことはなく。回収対象者を所定の日時に回収することが出来なくなる。
 一人の人間にまつわる、非業の運命を変えた。情にほだされたと言えばその通りだ。小町の処遇は、考えるまでもない。しかし小町は、まぁそれでもいいかという思いになっていた。
 叶うなら、もう少しだけ。このような救われぬ結末を変えてやりたかったが――――
「一匹の蛇を贖うには、一匹の蛇が必要だ」
 しかし諏訪子が無情にもそう言った。
 小町ははっと目を上げた。すると目の前には、荘厳だが禍々しい光景が展開されていた。
 蛇玉、とでも呼ぶべきだろうか。無数の蛇たちだ。それが燐光を帯びながら相剋し合い、絡み合いながら、球形に丸まって、擦過音を立てながらこすれ合っている。
 蛇と蛇とが織りなす無限大の牢獄。それを指さして諏訪子が言う。
「以蔵、お前にはこの中に入ってもらうよ。そうするとお前は次の生を蛇として受ける。そうして那由他の果てまで、蛇として過ごすんだ」
「な……」
 唖然としたのは、しかし小町だけだった。
「ああ、分かった」
 以蔵は躊躇いもなく頷き、立ち上がった。それすらも死力を尽してのことだったのに、以蔵は更に、決然と歩き出したのだった。
 以蔵の口の端から血がこぼれ出た。眼球の端からもそうだ。体が悲鳴を上げている。それでも以蔵は前に進む。自らが、生まれてきた意味がここにあると言わんばかりに。
 この命は徒花ではなかったと、示威するかのように。
「以蔵!」
 小町は叫んだ。
「ああ、構わねぇさ」
 以蔵は短く答えた。きっぱりとした宣言だった。
 小町はそれ以上、何も言えなかった。以蔵が蛇玉に歩み寄っていく。諏訪子が難しい顔をしている。
 蛇玉の中の一匹が、以蔵を見つける。鎌首をもたげる。以蔵が近づく。首の長さに入る。
 蛇の頭が、猛烈な速度で以蔵に迫る。
 それから先は、直視できなかった。「終わったよ」と諏訪子に声を掛けられるまで、小町は瞼を固く閉ざして耐えることしか出来なかった。
 命の絶える瞬間を、初めて目の当たりにした小町は。
 うっすらと涙してすらいた。



 お辰の病態は、諏訪子が約束したとおりにめっきり良くなった。
 呪いが解けたとして里に戻ることも許され、子も無事に生まれ、母子共に健康。不出来な旦那が帰ってこない可哀想な未亡人として、食べ物、飲み物も恵んでもらっている。順風満帆とはいかないが、二人最低限生きられるだけの食い扶持はある。
 それから三年が経った。
 幼い盛りであぜ道を走り回る娘を追いかけながら、お辰はふと、視界の端に何かを認める。
 目をこらしてみればそれは一匹の蛇だった。緑色をした蛇だ。お辰の腕ほどの太さがある。大蛇と呼んでも過言ではないだろう。
 それがじっと、こちらを見つめているのだった。
 恐れが先に走り、お辰は娘を慌てて抱きかかえ、ゆっくりと後ずさる。蛇は追っては来なかった。しかしじっと、こちらを見つめている。
 その視線に愁いを――たとえるなら、郷愁のような物を感じて、お辰は後ずさるのを止める。
 あの茶色をした目。あの優しい目には、覚えがあった。
 お辰はその名を呼ぼうとする。しかしそのすんでの所で、大蛇は鎌首を降ろして、草むらの中へと消えてしまったのだった。
 お辰はその場に泣き崩れた。娘は心配そうにお辰を励ましている。
 以蔵の行方は、以降誰も知らない。


   †††

 蛇の中に呑まれ、死んだ以蔵の魂を運ぶ途中、こんな会話があった。
「お前さんはこれで、満足かい」
 小町がたどたどしく尋ねた。
以蔵は頷くと、遠く離れていく幻想郷を、お辰と腹の子が安らかに眠っているだろうあばら屋の方を向いて言う。
「これ以上の幸せはないさ。お辰が助かるなら、俺の命なんて安いもんだ」
「そうは言うが」
 小町は追求しようとして、止めた。体二つに女一人、これからどんな苦労が待っているかも分からない。彼女らを残していくのは、口惜しくはないのかと。
 無論、口惜しいに決まっているのだ。以蔵の目の端に浮かぶ、こぼれそうな涙がその証左。帰れるものなら帰りたい。しかしそれは叶わない。死者は死者の領分へと向かうものだ。生者の領域に踏み入ってはならない。
 悔しいことに、小町よりも以蔵の方が、そのことについては割り切れているのだった。
「……何でもないよ」
「歯切れが悪いじゃねぇか、小野塚小町。最初の方はまるで、冬場の用水路に流れる水みたいな冷たさだったのに」
「やかましいわ。アタイにだって色々あるんだよ」
 顔を背けたのは、後ろめたさのためだった。小町は自らの消滅、即ち死が恐ろしくて仕方が無かった。この職務への配置換えも、四季映姫・ヤマザナドゥからの命令とはいえ、自ら選んだものだ。
 自分自身が、生き残るために。それは良く呼べば生存本能であり、悪く言えばエゴだった。
 他の生物も皆、そのように考えるのだと思っていた。
 以蔵のように、他人(ヒト)のために命を捨てる存在など、想像も付かなかったのだ。彼の霊魂がはなつ淡い光が、とてつもなく眩しく見えた。
 小町は渡し守に以蔵の魂を渡した後、四季映姫・ヤマザナドゥを尋ねた。彼女は何もかもを分かった風な顔をして、開口一番こう言った。
「分かりましたか、小町。ヒトの魂というものが、いかに高潔でありうるか」
 小町は頷くほか無かった。
「はい」
「もっと相好を崩してもいいのよ。私とあなたは部署違い。上司と部下ではないのだから」
「いえ。落ち着かないんで……しばらくこのままで」
「そう。残念」
 四季映姫・ヤマザナドゥは肩をすくめると、温かそうな茶を一口すすった。音は立たなかった。しかしカップがソーサーに着地する瞬間、微細な振動があったことを小町は聞き逃さなかった。
「映姫様。手ぇ震えてますぜ」
「これは……」
 何でも白と黒に即断する四季映姫・ヤマザナドゥが、口ごもるというのは珍しいことだった。
「……小町が気にすることではありません。あなたは営業死神。私は地獄の閻魔様。こうして面会の場を設けていることすら、私がオフの時間をどう使おうか検討した、気まぐれの結果なのですから」
 いやに饒舌になる元上司を小町は疑いの目で見た。しかしそれ以上のことは、閻魔様が説教をする時に作る鉄面皮のようなポーカーフェイスからは読み取れなかった。
「ともあれ……これで小町にも、魂の重みが何たるかが理解できたはずです。良いですか、あなたは少々ものぐさに過ぎた。それは人の死というものを十把一絡げに考えてきたからでしょう。小町、あなたに問います。いま、死というものは、均質なものですか」
 答えなど、一つしか無い。
「いいえ」
「ならばもう一つ。蛇の毒で死ぬはずだった以蔵をああした結末に導いた結果、あなたはいま、どう思っていますか」
 小町は一切の逡巡なく答えた。
「後悔はありません」
 以蔵の運命を僅かにいじったこと。その結果以蔵が満足げに逝ったこと。後ろ暗いことなど何もない。それに結果として指示書の通りにもなった。
 四季映姫・ヤマザナドゥが満足げに頷いた。そしてあくびを一つかみ殺した。
「ならばよし。あなたは人の死が最上の結果をもたらすよう、心を砕いたそうですね。何よりです。さぁ、仕事に戻りなさい。あなたのことを待っている魂が、ごまんといるはずですよ」
 この元上司はやはり、何でもお見通しなのだ。ただ、見ているだけで助言はしてくれないけれども。
 四季映姫・ヤマザナドゥは椅子にどっぷりと背中を預け、眠り始めた。小町はそこに、自宅から取り出した綿布団を掛けてやった。
 ここのところ、そういう日が多い。労務の間以外、四季映姫・ヤマザナドゥはほとんど眠っている。
 小町がそのことについて言及する事は無かった。魂の重みについてははっきりと理解したし、非番の日には出来るだけ眠っていたい、というのもまた、小町にとっては現実味のある主張だったからだ。
 小町は元上司の部屋を後にする。すこしだけ、軽い足取りで。
春の例大祭で、こういう話を集めた短編集「死神ちゃん」を頒布する予定です。続報はTwitterにて。
@ONO_Keyboard
小野秋隆
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コメント



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2.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100サク_ウマ削除
見事ですね。とても良い短編でした。
4.100ばかのひ削除
いやあ面白かったです
色々と含まれている情報がありそうなので例大祭楽しみです
5.100南条削除
とても面白かったです
迷わず突き進む人間を見て自分の今までしてきた仕事の重大さを再認識する小町は、根っこの部分では誠実なのだと思いました
なんだかんだ部下想いな映姫さまもよかったです
6.90モブ削除
非常に興味深いお話でした。小町がどうして先導死神から外れたのか、気になるお話です。御馳走様でした
7.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです
10.100ヘンプ削除
命が軽いものでもあり、重いものでもあるのですね……
とても、良かったです!