側にいて。
私の影を踏んでなきゃダメ。
私を見て。
片時も目を離してはダメ。
私と来て。
でも、前に出てはダメ。
だってあんたはいつだって、なにをやってもダメダメで、そのくせ――――
――――――――――
―――――
†
前に喧嘩別れをしたときもそうだった。そのようなことを言ってしまって、彼女を傷つけたように思う。
依神女苑は、当座の主であるところの聖白蓮に助けを求めた。厳冬のなか、最も冷える明け方だと言うのに彼女は寺の縁側へこれ見よがしに座っていて、まるで女苑がやってくるのを予見していたと言わんばかりだった。
「どうしたの」
白々しくも白蓮が尋ねた。女苑からわざわざ問う事柄など、一つしか無いというのに。
「一体いつになったら、姉さんを止められるのよ」
鼻息も荒く女苑が尋ねた。白蓮の答えは淡泊だった。
「それを願うならば……、一層、ここで修行に励みなさい」
予想したとおりの答えが繰り返された。それ故に、苛立ちが勝った。
「じゃあ、いつになったら助けられんのよ。シュギョーとやら、効いてる気がしないわ」
「たとえ目に見える形で現れなくとも。積んだ功徳は必ず身を助けます」
「質問に答えて。”いつ”できんの」
「あなたの心がけ次第です」
「悟りを開いた人のお言葉は、重みが違うわねぇ。まるでのれんみたい。ひらひらしてあるんだかないんだかわかんない言葉ばっかり……いい加減にして!」
女苑が精一杯、皮肉と怒気をひねり出しても、白蓮の態度は変わらなかった。
「あなたがそうして慚愧のこころを露わにすること。まさにそのことこそが、お姉さまを傷つけるのよ」
冷たい風が女苑の縦巻きの髪と、それから心を揺らした。
それはその実ずっと緩やかに吹いていたのだが、白蓮の放った忠言が女苑の激情を急激に冷ましたせいでひび割れそうに収縮した敏感な心には、とてつもなく鋭く突き刺さるようだった。
「女苑。托鉢にでなさい」
それまで庭を眺めていた白蓮が、初めて女苑の方を見ていった。意外にも彼女の目には、うっすらと涙が湛えられていた。
「なに泣いてんのよ」
「泣いてなどいません。少しだけ……風が冷たかっただけ」
「バーカ。今更気付いたの。風なんてカンカン照りの真夏だって冷たいもんだわ」
「止めなさいと言っているのです。そうやってあなた自身を貶めるのは」
「托鉢ね。楽勝楽勝。日が暮れるまでに、あんたご自慢の飛倉がいっぱいになるくらいの財を集めてきてやるから、せいぜい場所を空けておくことね」
「女苑」
鋭く名を呼ばれ、女苑は言葉を切った。睨んでやると、白蓮は、これまでに無い圧を持った目をしていた。
「女苑。私の庇護のもとにあるかぎり、あなたは疫病神ではありません。ないのです。そのことを努々、忘れないように」
大真面目な顔でそんなことを言う物だから、女苑は馬鹿馬鹿しくなってしまって、
「たかだか悟りに至ったぐらいの人間風情が偉そうに。こちとら神よ。そうあれかしと産まれて、そのように信じられてきた。私の有り様はお前みたいにちっぽけな者が決めるんじゃない。人間どもの総意が決めんのよ。そう簡単に、変われてなるもんか!」
そう言い捨てて飛んだ。
まるで隼が獲物を狩るのを逆回しにしたかのような鋭い飛行で、見送る白蓮の目から瞬間、軌道が見失われるほどであった。
その速度を以てしても、ごまかしきれたかどうか。あの住職はああ見えて肉体派で、動体視力に長けている。
暁光にかがやいた涙の一粒くらい、見出すことは造作も無かっただろう。そうした涙を流した、という事実が。即ち白蓮の言葉にほだされたという事実が、氷面を割って進むような痛みを伴う飛行の最中にあって、涙線という罅を女苑の顔に与え、油断すればバラバラに砕けてしまいそうだった。
†
依神姉妹の関係は、相互に補完しあうもの――あるいは、相互に依存しあう物であると言える。
まずは、双子の姉妹であること。
次に、誰からも忌み嫌われる存在であること。
転じて、お互いにお互いしか、心の寄る辺を持たないこと。
即ち、決してお互いを失うことは出来ないと言うこと。
二人は二つで一つの運命共同体である。他の相方など望むべくもなく、また望むつもりもなかった。
このまま、いつか必要とされなくなり消えて無くなるまで、二人で過ごすつもりだった。
女苑が、あのことに気付くまでは。
托鉢は順調だった。椀を置き、立て膝付いて座っているだけで、道行く人はみな銭を落としていく。望んで入れていくのではなく、落としていくのだった。きっと誰も、金を女苑に渡したという認識すら持っていないだろう。
それが彼女の力だった。
疫病神という彼女の性質。人の望まぬ事柄を引き起こし、女苑はその発生を糧にして生きる。集まった金やモノを湯水のように使うのは、それを続けるための手段に過ぎない。銭はただの金属でしかない。重く、無機質で、貯めれば貯めるほど気が重くなってくるし、端くれと言えど神格なので金気は毒だ。
ちゃりん、ちゃりん。
金が落ちる音だ。人が汗水流して得た金が、不幸にも女苑が見ている目の前へ落下する音。
胸の痛む音だ。
誰かが幸せになるために、必要だったもの。
誰かが苦境を脱するために、必死でかき集めたもの。
それは銭であったり、心持ちであったり、あるいは生命そのものの時もあった。そのことごとくを、奪ってきた。
疫病神である女苑は、拝領してきた。
立て膝を付いて座る女苑は、貯まっていく銭などにはまったく目もくれず、うっすらと雲のかかった空を見上げていた。
上を向いていなければ、嘔吐してしまいそうだった。
托鉢に出よ、と命じた白蓮の真意は、きっと彼女に抗ったことに対する罰か報復なのだろう。
女苑は歯を食いしばって耐えていた。こうして貯まった銭は命蓮寺を維持する為に使われる。無為な金ではない。
彼女が野放図に集めることのできる、意味を持たない金とは違う。死んだ金ではない。生きる金。そのことが彼女を苦しめる。
女苑が、集めた財を湯水のように使うのは贖罪だった。蘇生とも呼べた。女苑のもとにあるかぎり、金は死んだまま。循環することは永久にない。
故に散財する。自分の負った罪を吐き出すために。その瞬間の快楽はすさまじい。踏み倒してきた一切の罪業を忘れられるほどに。
忘れなければならないのだった。さもなくば。
「姉さん……。ごめん。もうしばらく耐えて」
修行の一つだなどと、よく言った物だった。
この胸の痛みを取り払った状態が悟りだというのなら、女苑には二つの答えが合った。
一つは、
「まっぴらごめんだわ、クソッタレ」
それから、
「姉さんのことを忘れるなんて、できるわけ無いじゃない」
修行を経て、悟りとやらに至って、いかに心が凪ごうとも、疫病神と貧乏神という姉妹のあり方は変わらない。
この銭を集め終わったら、修行を抜け出して姉さんに会いに行こう。会いに行かなくてはならない。
なぜならこの銭は生きる金だから、女苑には贖罪の術がなく。
故に姉のことが、心配でならないのだった。
†
「聖。あの女苑という娘、またいなくなってしまいました」
白蓮が瞑想を重ねる庵にて、狼狽えた声を上げたのは、寅丸星だった。命蓮寺の本尊でありながら、こうした不測の事態には弱い。換言するならば、そうなった経緯について思いを馳せることが出来る優しさを持ち合わせている、良き導き手であった。
「やっぱり、まだだめかしら」
白蓮が泰然と答えたのを聞いて、星の胸には痛みが走った。
「聖。私は……畏れながら、聖のやり方には賛同しかねます」
「なぜ?」
「あまりにむごいではありませんか。一見、野放図に金を集めてはばらまいているように見える彼女の本心を、聖もご存じのはずです。それなのになぜ……」
星は一度言葉を切ると、勇気を振り絞って言った。
「疫病神であることそのものを忌み嫌う彼女へ、そうであることと常に向き合わせて……一体どうされるおつもりですか」
「星、ほだされてしまっているわ。あの娘に」
詰め寄ろうとした星を、鋭く白蓮は制した。
「私たちが、あの子に出来る施しはなに?」
「疫病神の力を、意のままに抑える事ができるようにすることです。ですが聖。今の我々は、あの娘が我欲のために力を振るっているのでは無いことを知っています。ああしなければ生きられないから」
「から、放っておけと言うの」
「そうは言いません。ですが、あんな荒療治をとる必要もないでしょう。あれでは自分自身のことを、もっともっと嫌いになってしまうだけです。推察するに、お姉様のところへ飛んで行かれたのでしょう。そして……目の当たりにするのでしょう。むごいという言葉ですら生ぬるい。聖、あの娘に地獄を見せて、それでなんとかなるとお考えですか」
「ええ」
白蓮は短く答えた。星はその声に、聖が時折みせるある種の悲哀を見出した。
救われなかったホトケを見下ろすときに見せる、哀悼の色だった。
「あなたは間違っています。星。我々は妖怪である以前に仏徒であります。となれば一切衆生を輪廻の輪から解き放つのが……務めでしょう」
「……それがたとえ、一柱の神であってもですか」
「救える者ならなんだって救うわ。たとえその表向きな形が……」
聖は目頭を押さえて俯いた。星も同じ気持ちだった。
あの妹は、力を呪う。
体を呪う。
出生を呪う。
命を呪う。
生くることの一切を呪うのならば、救済は何処にある。
仏徒として捻れている白蓮には、正しい悟りに至るまでの道筋が見えていなかった。
星はといえば、聖が呑み込んだその結末を思って、唇をかみしめるばかりだった。
†
博麗神社に降り立った女苑は、真っ直ぐに騒ぎの中心へと駆け出した。
中心、といっても騒いでいるのは一人――いや、一匹だけだった。やかましい狛犬だと来る度に胸の中で悪態をついていたが、姉の居場所がすぐに分かることだけはありがたい。
巫女が振り向いた。幣を構えて臨戦の構えだったが、女苑を見るなり気だるそうに溜息を吐いた。
「そうそう何度も、軒先で血ぃ噴かれちゃ適わないわ。掃除させてるつもりが、どんどん汚れてく。早く持って帰ってなんとかして」
「言われなくても分かってる。どけ!」
「はいはい」
止まらない女苑に対し、巫女がひらりと身を躱したその先に、姉が――紫苑が倒れていた。
貧乏神の紫苑。伸び放題の暗い色をした髪は鬱蒼としていて、毛先は野草のように好き勝手跳ね回り、丁寧に艶の出るよう縦巻きをしている女苑とは対照的だ。
その形質において、二人はなにもかもが対極に位置していた。衣服、佇まい、声質に声量。どれをとっても女苑の方は持てる者で、紫苑の方は貧しく持たざる者だった。
しかしそんな紫苑にも、女苑が持っていないモノが一つだけあった。
一つ、と言うのが適切かどうか。それは体中に遍在していて、借金のカタであることを示す惨めな札の数々によって、雑に隠されていたのだった。
傷である。
体中に刻まれた十円玉ほどの穿孔。それが「差押」の札を突き破って紫苑の細い腕を、平板な胸を、痩せさらばえた足を穿っていた。血が流れていた。それは嫌と言うほど見慣れた、貧乏神の紫苑らしいドブ川のような色をしていた。
「――姉さん!」
女苑は駆け寄ると、その豪奢な衣服が血に汚れるのも構わず、冷たい玉砂利の上から姉を抱き上げた。紫苑の体がピクリと震えて、女苑を見た。
「女苑。修行は?」
「してきたよ。してきたから飛んできたんじゃないの……! また、こうなってやしないかって」
「それじゃあ修行の意味が無い、ぞ」
どどめ色をした血液は、緩やかに流れている。
「疫病神……辞めたいんじゃなかったの。もう誰からも巻き上げないようにしようって、そう決めたんじゃなかったの」
「もちろんそうよ。でも、それを言うなら姉さんだって。いつまで私の引いた貧乏くじを、引き受け続けているわけ? もうやめてよ!」
女苑の悲痛な叫びが、境内にこだました。
それは女苑に端を発した、姉妹の悲願を言い表していた。
女苑は自らの力を呪ったのだった。知らず知らずのうちに他人を不幸にするその性質を。
認めたくなかったのであった。自らの権能が、ヒトという種族に対して不幸しかもたらさないということを。そうやって泣いたのは女苑だった。彼女の高い自尊心が、それを許さなかったのだった。
たとえ矮小であっても、神は神だ。その生命は信仰と、受ける信心によって決定づけられる。その神が、自らを定義する権能を否定しようとすれば、それは自身に刃を向けるのと同じである。
紫苑へ最初に刻まれた傷はその時に付いた物だった。
それはごく小さな物だったが足の甲を貫通していた。女苑はいたく驚いたが、しかし紫苑の方は、眉一つ動かさなかった。
貧乏神は、不幸の吹きだまりだ。まるで蟻地獄のように周囲の幸福度を徐々に低下させ自らへと落とし込み、その結果中心にいる自分自身が一番不幸になる。紫苑のありかたはそういうもので、彼女の方はそれを受け入れていた。
受け入れる不幸が、愛する妹の物ならば。なおさらだ。
「止めないぞ、女苑。珠みたいに綺麗な肌に、傷なんかつけてなるもんか」
紫苑が受けた傷は、そのまま女苑が行った悔悛の刻印だった。それが今や体中を余すところなく穿ち、新たな孔が何処に空いたのか、もはや紫苑にも女苑にも分からなかった。
これだけ傷を受けた今も、紫苑は顔色一つ変えずに女苑を庇っている。
「何でもすぐなくなっちゃう私には、持ち物って胸張って言えるのはこれくらいしかないんだ。これは、私のものだ……大丈夫、こいつを貼っとけば治る」
か細い呼吸を繰り返しながら、紫苑が指先から取り出したのは、『差押』と書かれた小さな札。それを空いた孔へ、ぺたり、ぺたりと貼っていく。するとどす黒い血はぴたりと止まり、紫苑は溜息を吐く。
しかし止まらないのは女苑の憤りだ。
「まだ意固地になってんの。バカじゃないの!? だったら謝る。私が悪かった、ごめん……。姉さんは、姉さんはさ」
「――側にいて。私の影を踏んでなきゃダメ」
しかし紫苑は繰り返した。それは女苑の目を覚まさせるために。
「私を見て。片時も目を離してはダメ」
女苑は目線を切れない。紫苑の濁った瞳が、あまりにこちらを見つめてくるものだから。
「私と来て。でも、前に出てはダメ。分かってるよ、女苑。お前はそういうヤツだ」
ぬらりと血に塗れた手を、取ってみては。
「私はそれで満足だ。ダメダメで大丈夫だ。だから大丈夫――」
「ふざけないで! そのくせ何もかも自分でしようとするんだから! もう止めてよ……」
女苑は泣き崩れた。
「私の傷は、私が受けるよ……。お願い。もう止めて……」
「嫌だね」
「止めてって言ってるの。大事な姉さんじゃない。お願いよ」
「嫌だ」
「もう、私が!」
滑り落ちそうな手を握りしめて、額に召し上げて。
「私が、姉さんのことをずっと傷つけ続けるのなら……!」
事態を眺めていた霊夢が、はっとして戦いた。「止めろ!」と声を上げたが遅かった。
「こんな私なんか、生まれてこなければ良かった!」
炸裂した。女苑の生まれに対する怨恨が。その生涯に対する全ての拒絶が。
紫苑がその時、ふわっ、と、蓮の花が咲くような笑顔を見せた。
「そうだ、女苑。私はお前の、その言葉のために――」
破裂音と、土の色をした生ぬるい液体が女苑の顔を叩き、その続きは聞こえなかった。
握り合っていた手と手がずるりと離れるのを感覚した。博麗の巫女が何やら喚いている。狛犬もだ。
女苑は目を拭って、愛する姉の姿を見た。
見た、はずだった。
そこにあったのはこの世の全ての澱を集めて煮詰めたような、濁った色をした液体だけだった。それが玉砂利の下へ、じわじわと吸い込まれていく。
何が起きた。女苑は惑う。しかし博麗の巫女は、その瞬間を全て目撃していた。
破裂したのだった。
女苑が自らの生まれを否定した瞬間に、自らの礎をたたき壊した女苑の言葉は、女苑の代わりに紫苑を殺したのだった。
その事実を認識しているのかいないのか、女苑は動こうとしない。手の中にたまった泥のような姉の残滓を見つめて、瞬きもせずに、震えて。
そして油に火が付いたように、大粒の涙を流しながら絶叫したのだった。およそそ人の声とも、神々の唱和とも違う、地に這いつくばる獣のような咆吼だった。
痛ましい泣き声だった。
「……ちょっと、寺の連中に話つけてくるわ。女苑の方は残った……ってさ」
狛犬にそう言い残すと、霊夢は飛び立った。
紫苑の残滓は、もはや女苑の手の中にしか残っていない。
†
側にいて。
私を見て。
私と来て。
それは女苑から紫苑への、請願だった。
彼女の高い自尊心が邪魔をして、妙なかかり言葉をつけてしまったが、女苑から伝えたかった事はこれが全部だ。
「――結局、あんたは最期までダメダメだ」
地上と仙界の境目、人間界で最も高い場所。その高空で女苑は呟く。
「何のプライドもないくせに自分勝手で、自己満足で。人の気持ちをまるで考えない。バカじゃないの」
涙と共に、吐き捨てる。
「ねぇ、どうしたらもう一度会えるかな……もう一度、会えるかな……」
涙と共に、地上を見下ろす。
落涙が、凍る。
「この世で最高に不幸な人間を作ったら、貧乏神にならないかな、姉さん」
涙が止まる。
「この世を厄で満たしたら、また会えるかな。あんたは人の不幸が大好きだから。また生まれてくれないかな、姉さん」
頬が凍る。
「私の権能……初めて役立つね」
見下ろす下から、飛び上がってくるものがある。
博麗の巫女と、寺の住職。それから矮小十把、有象無象たち。
「止めようってワケね。……面白いじゃない。かかってきなさいよ」
もはや女苑には、その力を振るうことに迷いはない。
「特大の貧乏くじを引いた疫病神が、どれだけの厄災となるか……その目で確かめてみるが良い!」
私の影を踏んでなきゃダメ。
私を見て。
片時も目を離してはダメ。
私と来て。
でも、前に出てはダメ。
だってあんたはいつだって、なにをやってもダメダメで、そのくせ――――
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†
前に喧嘩別れをしたときもそうだった。そのようなことを言ってしまって、彼女を傷つけたように思う。
依神女苑は、当座の主であるところの聖白蓮に助けを求めた。厳冬のなか、最も冷える明け方だと言うのに彼女は寺の縁側へこれ見よがしに座っていて、まるで女苑がやってくるのを予見していたと言わんばかりだった。
「どうしたの」
白々しくも白蓮が尋ねた。女苑からわざわざ問う事柄など、一つしか無いというのに。
「一体いつになったら、姉さんを止められるのよ」
鼻息も荒く女苑が尋ねた。白蓮の答えは淡泊だった。
「それを願うならば……、一層、ここで修行に励みなさい」
予想したとおりの答えが繰り返された。それ故に、苛立ちが勝った。
「じゃあ、いつになったら助けられんのよ。シュギョーとやら、効いてる気がしないわ」
「たとえ目に見える形で現れなくとも。積んだ功徳は必ず身を助けます」
「質問に答えて。”いつ”できんの」
「あなたの心がけ次第です」
「悟りを開いた人のお言葉は、重みが違うわねぇ。まるでのれんみたい。ひらひらしてあるんだかないんだかわかんない言葉ばっかり……いい加減にして!」
女苑が精一杯、皮肉と怒気をひねり出しても、白蓮の態度は変わらなかった。
「あなたがそうして慚愧のこころを露わにすること。まさにそのことこそが、お姉さまを傷つけるのよ」
冷たい風が女苑の縦巻きの髪と、それから心を揺らした。
それはその実ずっと緩やかに吹いていたのだが、白蓮の放った忠言が女苑の激情を急激に冷ましたせいでひび割れそうに収縮した敏感な心には、とてつもなく鋭く突き刺さるようだった。
「女苑。托鉢にでなさい」
それまで庭を眺めていた白蓮が、初めて女苑の方を見ていった。意外にも彼女の目には、うっすらと涙が湛えられていた。
「なに泣いてんのよ」
「泣いてなどいません。少しだけ……風が冷たかっただけ」
「バーカ。今更気付いたの。風なんてカンカン照りの真夏だって冷たいもんだわ」
「止めなさいと言っているのです。そうやってあなた自身を貶めるのは」
「托鉢ね。楽勝楽勝。日が暮れるまでに、あんたご自慢の飛倉がいっぱいになるくらいの財を集めてきてやるから、せいぜい場所を空けておくことね」
「女苑」
鋭く名を呼ばれ、女苑は言葉を切った。睨んでやると、白蓮は、これまでに無い圧を持った目をしていた。
「女苑。私の庇護のもとにあるかぎり、あなたは疫病神ではありません。ないのです。そのことを努々、忘れないように」
大真面目な顔でそんなことを言う物だから、女苑は馬鹿馬鹿しくなってしまって、
「たかだか悟りに至ったぐらいの人間風情が偉そうに。こちとら神よ。そうあれかしと産まれて、そのように信じられてきた。私の有り様はお前みたいにちっぽけな者が決めるんじゃない。人間どもの総意が決めんのよ。そう簡単に、変われてなるもんか!」
そう言い捨てて飛んだ。
まるで隼が獲物を狩るのを逆回しにしたかのような鋭い飛行で、見送る白蓮の目から瞬間、軌道が見失われるほどであった。
その速度を以てしても、ごまかしきれたかどうか。あの住職はああ見えて肉体派で、動体視力に長けている。
暁光にかがやいた涙の一粒くらい、見出すことは造作も無かっただろう。そうした涙を流した、という事実が。即ち白蓮の言葉にほだされたという事実が、氷面を割って進むような痛みを伴う飛行の最中にあって、涙線という罅を女苑の顔に与え、油断すればバラバラに砕けてしまいそうだった。
†
依神姉妹の関係は、相互に補完しあうもの――あるいは、相互に依存しあう物であると言える。
まずは、双子の姉妹であること。
次に、誰からも忌み嫌われる存在であること。
転じて、お互いにお互いしか、心の寄る辺を持たないこと。
即ち、決してお互いを失うことは出来ないと言うこと。
二人は二つで一つの運命共同体である。他の相方など望むべくもなく、また望むつもりもなかった。
このまま、いつか必要とされなくなり消えて無くなるまで、二人で過ごすつもりだった。
女苑が、あのことに気付くまでは。
托鉢は順調だった。椀を置き、立て膝付いて座っているだけで、道行く人はみな銭を落としていく。望んで入れていくのではなく、落としていくのだった。きっと誰も、金を女苑に渡したという認識すら持っていないだろう。
それが彼女の力だった。
疫病神という彼女の性質。人の望まぬ事柄を引き起こし、女苑はその発生を糧にして生きる。集まった金やモノを湯水のように使うのは、それを続けるための手段に過ぎない。銭はただの金属でしかない。重く、無機質で、貯めれば貯めるほど気が重くなってくるし、端くれと言えど神格なので金気は毒だ。
ちゃりん、ちゃりん。
金が落ちる音だ。人が汗水流して得た金が、不幸にも女苑が見ている目の前へ落下する音。
胸の痛む音だ。
誰かが幸せになるために、必要だったもの。
誰かが苦境を脱するために、必死でかき集めたもの。
それは銭であったり、心持ちであったり、あるいは生命そのものの時もあった。そのことごとくを、奪ってきた。
疫病神である女苑は、拝領してきた。
立て膝を付いて座る女苑は、貯まっていく銭などにはまったく目もくれず、うっすらと雲のかかった空を見上げていた。
上を向いていなければ、嘔吐してしまいそうだった。
托鉢に出よ、と命じた白蓮の真意は、きっと彼女に抗ったことに対する罰か報復なのだろう。
女苑は歯を食いしばって耐えていた。こうして貯まった銭は命蓮寺を維持する為に使われる。無為な金ではない。
彼女が野放図に集めることのできる、意味を持たない金とは違う。死んだ金ではない。生きる金。そのことが彼女を苦しめる。
女苑が、集めた財を湯水のように使うのは贖罪だった。蘇生とも呼べた。女苑のもとにあるかぎり、金は死んだまま。循環することは永久にない。
故に散財する。自分の負った罪を吐き出すために。その瞬間の快楽はすさまじい。踏み倒してきた一切の罪業を忘れられるほどに。
忘れなければならないのだった。さもなくば。
「姉さん……。ごめん。もうしばらく耐えて」
修行の一つだなどと、よく言った物だった。
この胸の痛みを取り払った状態が悟りだというのなら、女苑には二つの答えが合った。
一つは、
「まっぴらごめんだわ、クソッタレ」
それから、
「姉さんのことを忘れるなんて、できるわけ無いじゃない」
修行を経て、悟りとやらに至って、いかに心が凪ごうとも、疫病神と貧乏神という姉妹のあり方は変わらない。
この銭を集め終わったら、修行を抜け出して姉さんに会いに行こう。会いに行かなくてはならない。
なぜならこの銭は生きる金だから、女苑には贖罪の術がなく。
故に姉のことが、心配でならないのだった。
†
「聖。あの女苑という娘、またいなくなってしまいました」
白蓮が瞑想を重ねる庵にて、狼狽えた声を上げたのは、寅丸星だった。命蓮寺の本尊でありながら、こうした不測の事態には弱い。換言するならば、そうなった経緯について思いを馳せることが出来る優しさを持ち合わせている、良き導き手であった。
「やっぱり、まだだめかしら」
白蓮が泰然と答えたのを聞いて、星の胸には痛みが走った。
「聖。私は……畏れながら、聖のやり方には賛同しかねます」
「なぜ?」
「あまりにむごいではありませんか。一見、野放図に金を集めてはばらまいているように見える彼女の本心を、聖もご存じのはずです。それなのになぜ……」
星は一度言葉を切ると、勇気を振り絞って言った。
「疫病神であることそのものを忌み嫌う彼女へ、そうであることと常に向き合わせて……一体どうされるおつもりですか」
「星、ほだされてしまっているわ。あの娘に」
詰め寄ろうとした星を、鋭く白蓮は制した。
「私たちが、あの子に出来る施しはなに?」
「疫病神の力を、意のままに抑える事ができるようにすることです。ですが聖。今の我々は、あの娘が我欲のために力を振るっているのでは無いことを知っています。ああしなければ生きられないから」
「から、放っておけと言うの」
「そうは言いません。ですが、あんな荒療治をとる必要もないでしょう。あれでは自分自身のことを、もっともっと嫌いになってしまうだけです。推察するに、お姉様のところへ飛んで行かれたのでしょう。そして……目の当たりにするのでしょう。むごいという言葉ですら生ぬるい。聖、あの娘に地獄を見せて、それでなんとかなるとお考えですか」
「ええ」
白蓮は短く答えた。星はその声に、聖が時折みせるある種の悲哀を見出した。
救われなかったホトケを見下ろすときに見せる、哀悼の色だった。
「あなたは間違っています。星。我々は妖怪である以前に仏徒であります。となれば一切衆生を輪廻の輪から解き放つのが……務めでしょう」
「……それがたとえ、一柱の神であってもですか」
「救える者ならなんだって救うわ。たとえその表向きな形が……」
聖は目頭を押さえて俯いた。星も同じ気持ちだった。
あの妹は、力を呪う。
体を呪う。
出生を呪う。
命を呪う。
生くることの一切を呪うのならば、救済は何処にある。
仏徒として捻れている白蓮には、正しい悟りに至るまでの道筋が見えていなかった。
星はといえば、聖が呑み込んだその結末を思って、唇をかみしめるばかりだった。
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博麗神社に降り立った女苑は、真っ直ぐに騒ぎの中心へと駆け出した。
中心、といっても騒いでいるのは一人――いや、一匹だけだった。やかましい狛犬だと来る度に胸の中で悪態をついていたが、姉の居場所がすぐに分かることだけはありがたい。
巫女が振り向いた。幣を構えて臨戦の構えだったが、女苑を見るなり気だるそうに溜息を吐いた。
「そうそう何度も、軒先で血ぃ噴かれちゃ適わないわ。掃除させてるつもりが、どんどん汚れてく。早く持って帰ってなんとかして」
「言われなくても分かってる。どけ!」
「はいはい」
止まらない女苑に対し、巫女がひらりと身を躱したその先に、姉が――紫苑が倒れていた。
貧乏神の紫苑。伸び放題の暗い色をした髪は鬱蒼としていて、毛先は野草のように好き勝手跳ね回り、丁寧に艶の出るよう縦巻きをしている女苑とは対照的だ。
その形質において、二人はなにもかもが対極に位置していた。衣服、佇まい、声質に声量。どれをとっても女苑の方は持てる者で、紫苑の方は貧しく持たざる者だった。
しかしそんな紫苑にも、女苑が持っていないモノが一つだけあった。
一つ、と言うのが適切かどうか。それは体中に遍在していて、借金のカタであることを示す惨めな札の数々によって、雑に隠されていたのだった。
傷である。
体中に刻まれた十円玉ほどの穿孔。それが「差押」の札を突き破って紫苑の細い腕を、平板な胸を、痩せさらばえた足を穿っていた。血が流れていた。それは嫌と言うほど見慣れた、貧乏神の紫苑らしいドブ川のような色をしていた。
「――姉さん!」
女苑は駆け寄ると、その豪奢な衣服が血に汚れるのも構わず、冷たい玉砂利の上から姉を抱き上げた。紫苑の体がピクリと震えて、女苑を見た。
「女苑。修行は?」
「してきたよ。してきたから飛んできたんじゃないの……! また、こうなってやしないかって」
「それじゃあ修行の意味が無い、ぞ」
どどめ色をした血液は、緩やかに流れている。
「疫病神……辞めたいんじゃなかったの。もう誰からも巻き上げないようにしようって、そう決めたんじゃなかったの」
「もちろんそうよ。でも、それを言うなら姉さんだって。いつまで私の引いた貧乏くじを、引き受け続けているわけ? もうやめてよ!」
女苑の悲痛な叫びが、境内にこだました。
それは女苑に端を発した、姉妹の悲願を言い表していた。
女苑は自らの力を呪ったのだった。知らず知らずのうちに他人を不幸にするその性質を。
認めたくなかったのであった。自らの権能が、ヒトという種族に対して不幸しかもたらさないということを。そうやって泣いたのは女苑だった。彼女の高い自尊心が、それを許さなかったのだった。
たとえ矮小であっても、神は神だ。その生命は信仰と、受ける信心によって決定づけられる。その神が、自らを定義する権能を否定しようとすれば、それは自身に刃を向けるのと同じである。
紫苑へ最初に刻まれた傷はその時に付いた物だった。
それはごく小さな物だったが足の甲を貫通していた。女苑はいたく驚いたが、しかし紫苑の方は、眉一つ動かさなかった。
貧乏神は、不幸の吹きだまりだ。まるで蟻地獄のように周囲の幸福度を徐々に低下させ自らへと落とし込み、その結果中心にいる自分自身が一番不幸になる。紫苑のありかたはそういうもので、彼女の方はそれを受け入れていた。
受け入れる不幸が、愛する妹の物ならば。なおさらだ。
「止めないぞ、女苑。珠みたいに綺麗な肌に、傷なんかつけてなるもんか」
紫苑が受けた傷は、そのまま女苑が行った悔悛の刻印だった。それが今や体中を余すところなく穿ち、新たな孔が何処に空いたのか、もはや紫苑にも女苑にも分からなかった。
これだけ傷を受けた今も、紫苑は顔色一つ変えずに女苑を庇っている。
「何でもすぐなくなっちゃう私には、持ち物って胸張って言えるのはこれくらいしかないんだ。これは、私のものだ……大丈夫、こいつを貼っとけば治る」
か細い呼吸を繰り返しながら、紫苑が指先から取り出したのは、『差押』と書かれた小さな札。それを空いた孔へ、ぺたり、ぺたりと貼っていく。するとどす黒い血はぴたりと止まり、紫苑は溜息を吐く。
しかし止まらないのは女苑の憤りだ。
「まだ意固地になってんの。バカじゃないの!? だったら謝る。私が悪かった、ごめん……。姉さんは、姉さんはさ」
「――側にいて。私の影を踏んでなきゃダメ」
しかし紫苑は繰り返した。それは女苑の目を覚まさせるために。
「私を見て。片時も目を離してはダメ」
女苑は目線を切れない。紫苑の濁った瞳が、あまりにこちらを見つめてくるものだから。
「私と来て。でも、前に出てはダメ。分かってるよ、女苑。お前はそういうヤツだ」
ぬらりと血に塗れた手を、取ってみては。
「私はそれで満足だ。ダメダメで大丈夫だ。だから大丈夫――」
「ふざけないで! そのくせ何もかも自分でしようとするんだから! もう止めてよ……」
女苑は泣き崩れた。
「私の傷は、私が受けるよ……。お願い。もう止めて……」
「嫌だね」
「止めてって言ってるの。大事な姉さんじゃない。お願いよ」
「嫌だ」
「もう、私が!」
滑り落ちそうな手を握りしめて、額に召し上げて。
「私が、姉さんのことをずっと傷つけ続けるのなら……!」
事態を眺めていた霊夢が、はっとして戦いた。「止めろ!」と声を上げたが遅かった。
「こんな私なんか、生まれてこなければ良かった!」
炸裂した。女苑の生まれに対する怨恨が。その生涯に対する全ての拒絶が。
紫苑がその時、ふわっ、と、蓮の花が咲くような笑顔を見せた。
「そうだ、女苑。私はお前の、その言葉のために――」
破裂音と、土の色をした生ぬるい液体が女苑の顔を叩き、その続きは聞こえなかった。
握り合っていた手と手がずるりと離れるのを感覚した。博麗の巫女が何やら喚いている。狛犬もだ。
女苑は目を拭って、愛する姉の姿を見た。
見た、はずだった。
そこにあったのはこの世の全ての澱を集めて煮詰めたような、濁った色をした液体だけだった。それが玉砂利の下へ、じわじわと吸い込まれていく。
何が起きた。女苑は惑う。しかし博麗の巫女は、その瞬間を全て目撃していた。
破裂したのだった。
女苑が自らの生まれを否定した瞬間に、自らの礎をたたき壊した女苑の言葉は、女苑の代わりに紫苑を殺したのだった。
その事実を認識しているのかいないのか、女苑は動こうとしない。手の中にたまった泥のような姉の残滓を見つめて、瞬きもせずに、震えて。
そして油に火が付いたように、大粒の涙を流しながら絶叫したのだった。およそそ人の声とも、神々の唱和とも違う、地に這いつくばる獣のような咆吼だった。
痛ましい泣き声だった。
「……ちょっと、寺の連中に話つけてくるわ。女苑の方は残った……ってさ」
狛犬にそう言い残すと、霊夢は飛び立った。
紫苑の残滓は、もはや女苑の手の中にしか残っていない。
†
側にいて。
私を見て。
私と来て。
それは女苑から紫苑への、請願だった。
彼女の高い自尊心が邪魔をして、妙なかかり言葉をつけてしまったが、女苑から伝えたかった事はこれが全部だ。
「――結局、あんたは最期までダメダメだ」
地上と仙界の境目、人間界で最も高い場所。その高空で女苑は呟く。
「何のプライドもないくせに自分勝手で、自己満足で。人の気持ちをまるで考えない。バカじゃないの」
涙と共に、吐き捨てる。
「ねぇ、どうしたらもう一度会えるかな……もう一度、会えるかな……」
涙と共に、地上を見下ろす。
落涙が、凍る。
「この世で最高に不幸な人間を作ったら、貧乏神にならないかな、姉さん」
涙が止まる。
「この世を厄で満たしたら、また会えるかな。あんたは人の不幸が大好きだから。また生まれてくれないかな、姉さん」
頬が凍る。
「私の権能……初めて役立つね」
見下ろす下から、飛び上がってくるものがある。
博麗の巫女と、寺の住職。それから矮小十把、有象無象たち。
「止めようってワケね。……面白いじゃない。かかってきなさいよ」
もはや女苑には、その力を振るうことに迷いはない。
「特大の貧乏くじを引いた疫病神が、どれだけの厄災となるか……その目で確かめてみるが良い!」
聖の言動にめっちゃ腹が立ちました
すごいです
自己否定に巻き込まれて消えてしまう紫苑も、それを見て立ち上がる女苑も悲しくてよかったです
姉に引導を渡してしまった時の女苑のように、己の存在意義を見失う苦悩に苛まれながら。