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※物語の一部に『秘封ナイトメアダイアリー』のネタバレを含みます。ご注意ください。
Table of Contents
かつて少女だったあなたの物語 1
01 一缶の梅酒と午睡の話
快速列車から降りたあなたは切符を通して改札を抜け構内に設置されたコンビニエンス・ストアに入る。キャラメル・マキアートやハムとレタスのサンドイッチを買い求めてレジに行こうとしたときお酒のコーナーが眼に留まる。梅酒のチューハイを手に取り会計を済ませ右手にレジ袋をさげて店から出る。
その年の猛暑はあなたの部屋を天然のサウナに変えている。洗う時間がないままベッドに放り出されている寝間着から酸っぱい匂いが立ちのぼっている。あなたは窓辺に飾ってある古ぼけた水晶の髑髏に眼を留める。それから溜め息をついてレジ袋をテーブルに置きスーツを脱いで下着姿になる。エアコンがようやく効き始めたところで簡単な食事を済ませ梅酒缶のプルタブを開ける。
酒を飲みながらあなたは小説を読んでいたがそれはあなたが高校生の時分に繰り返し読んでいたJ・D・サリンジャーの『フラニーとズーイ』。ズーイが浴槽に浸かりながら兄・バディーからの手紙を読んでいる場面だ。あなたは眉間に指をあてて眼鏡を外し目薬をさしたがそれでも物語に集中することができない。やがて本に栞を挟んで部屋の照明を消すとパソコンのスイッチを入れる。そしてブックマークしたサイトの巡回を始める。暗い部屋のなかでパソコンから放たれる青白い光を見つめるあなたの瞳には絶望的なまでの倦怠感が浮かんでいる。そのような表情をあなたは十年前にも浮かべていたはずだ。覚えているだろうか?
やがて酒精がまわりあなたは人差し指で眼をこする。そしてベッドに横になる。最初は仰向けだったがすぐに寝返りをうって膝を丸め胎児のような恰好になる。そして枕を抱きしめて時間が過ぎ去るに任せる。午睡という甘美な潮の流れに意識を漂わせる。患いは消え去る。太陽の容赦ない熱線が水平線の向こうに遠ざかる。都会の喧騒さえも部屋の隅に押しやって。――そしてあなたは……。
そしてあなたは再び私の世界に足を踏み入れる。
02 夢見る朗読者の話
落ち着きましたか。
ドレミー・スイートが訊ねると宇佐見菫子はうなずいた。丸いテーブルにはカモミール・ティーが注がれたカップが置かれておりかすかな湯気が立ち昇っている。カップを両手で包みこむように持ちながら菫子は家の内装を眺め渡しほっと息をついた。ドレミーはカップを傾けてラベンダーの香りが染みた紅茶を口にした。そしてカップを置いて声をかけた。
あなたは小さいころ夏に家族旅行に出かけましたね。家族で泊まったのは吹き抜けの小綺麗なログハウス。避暑地である高原はエアコンなんて要らないくらいに涼しく乾いた風が吹いていて夜になっても蚊が姿を見せませんでした。その旅行であなたは初めてサリンジャーの物語を読み終えました。最後にフラニーが微笑みながらベッドに身を横たえる場面。覚えていますか。あなたは木椅子の背もたれに身体を預けて深い息を漏らしました。それは読後感を肺の奥深くまで味わうための吐息でした。太陽が届けてくれた優しい明かりが小川の水面を宝石のように輝かせていた。高原を吹き抜けるそよ風が本の頁をめくる音、――あなたは今でも覚えているはずです。
菫子は口を開いた。……ここは、あのときの?
そうです。細部は違っていますがね。
相変わらずだね、あなたは。
どういうことですか。
変なところで気が回る。
ドレミーは唇の端を上げた。覚えていてくださって幸いです。そして表情を元に戻して続けた。……あなたも、ずいぶん大きくなりましたね。今になって私に会いにきたのはなぜでしょう。あちらの世界で目覚めなくなってからずいぶん経ちますね。
菫子はうなずいた。私にも分からないの。最初に違和感を覚えたのは大学受験のときだった。やろうと思えばずっとあっちの世界にいられそうなくらいにどっぷり浸かっていたのに。なのに急に夢を視る時間が短くなってね。それでもしばらくはやり過ごせていた。大学生活は悪くなかったよ。でも現実が充実すればするほどに夢の密度は小さくなった。鉄のようにぎっしりしていたのにいつの間にか水蒸気みたいに指の隙間からすり抜けていってね。就職してからはもう夢を視なくなった。
ドレミーは眼を閉じて云った。――そして、あなたは不眠症になった。
菫子が再びうなずく。
病院にも行ったわ。原因は不明。心因性のものって曖昧な回答。それで薬をもらったよ。でも仕事はそれ以上は続けられなかった。あとはあんまり話したくない。話せるほどのこともないしね。しばらく身体を休めて。今は再就職のために暑いなかスーツを着て頑張ってる。それだけ。
気を悪くしないでいただきたいのですが。ドレミーは云った。私はあなたを直接あちらの世界に連れていくことはできません。あなたは幻想から締め出されたのです。平たく云えば、――あなたは普通の人間になってしまった。
普通。
あなたがあれほど毛嫌いしていた普通、です。
菫子はカップから手を離した。そして本棚に人差し指を向けて曲げ伸ばしした。本が抜き取られて部屋を横切り右手に収まった。紺色かつ無地の装丁でタイトルも記されていないその本をテーブルに置いて彼女は云った。
今だってこんなことができるのに。
それはここが夢の世界だからです。最近、現実の世界で能力を使ってみましたか。
菫子はうつむいた。……不思議だね。この家は幻なんでしょう。私の幼い記憶を基にした。なのにここにいるほうが現実のアパートで暮らしているよりもずっと生きてるって実感があるんだ。
あなたは忘れているだけです。夢は常に現実に従属するものではないのです。あなたが現実だと思っている世界こそ幻想の世界にとっての夢でもある。コインの裏表です。あなたは久々に還ってくることができた。切っ掛けは分かりませんが。とにかく事態は好い方向に進み始めたと云えるでしょう。
…………。
信じるか信じないかはお任せします。それよりも、とドレミーは云った。せっかく本を手に取られたのですから、ひとつ、物語など如何でしょうか。今のあちらの様子をお聞かせしましょう。ちょうど私も退屈していたところだったんです。
ドレミーは紺色の本を手に取り菫子の顔をじっと見つめた。眼鏡の奥の瞳は焦点が結ばれておらず砂漠の中心でさまよっているような印象を受けた。オアシスからオアシスへと旅を続ける巡礼者を思わせた。
ドレミーは本を開いた。手のひらで頁をさするような仕草をすると桜色の夢魂が浮かびあがって人の形をかたどり始めた。夢の欠片は髪を伸ばし衣服を形づくり顔のひとつひとつの器官を構成して菫子もよく知る少女たちの姿を映し出した。菫子は椅子の背もたれから身体を離して彼女たちを見つめた。ドレミーは微笑んで云った。私に、ズーイのようにあなたを癒すことができるだけの力があれば好いのですが。
夢の管理者は夢魂と共に語り始めた。
さあ、――長い航海に出かけましょう。
付喪神とさとり妖怪の物語
03 次なる幼年期の始まりの話
まだ雨季が続いていた時分のこと。こころの友人が突然ナメクジを飼おうと誘いかけてきました。こころはさとり妖怪の肩越しに虫かごのなかを覗きこんでさっと身を引きました。こいしが振り返って首を傾げてみせたのでこころは般若の面を掲げて声を荒げます。
おいなんだそれ。どこで拾ってきたんだ。
地底だよ。
地底のどこだ。
旧都ができるよりもずっと前からある遺構だよ。たぶん私しか知らないんじゃないかな。そこの地下室にあったの。
そっちには宝石で出来た虫がいるんだな。
ううん。綺麗だけど石じゃないよ。ぷよぷよしてるし。
真珠のように白く透き通った見た目をした巨大なナメクジたちは鉱石にへばりついて身をうごめかせていました。こころが虫かごに顔を近づけると一斉に触角をもたげて面(おもて)を上げてみせました。まるでこちらの視線に感づいたかのような動作でした。こころは無表情のまま舌を出しました。面は般若から猿に変わっていました。
見れば見るほど気持ち悪いし存在自体が何というか冒涜的だな。
こんなに可愛いのに。
悪いことは云わないから元の場所に戻してこいよ。こんなの白蓮に見られたらどうするんだ。
こころは寺の本堂を振り返りましたがお経は変わらない調子で続いていました。こいしは微笑みを浮かべながら周囲の様子にまったく気を払うことなく真珠ナメクジを熱心に見つめて云いました。
あのね。この子たちが云うにはこれはもしかしたら未来の私たちかもしれないの。
は?
お姉ちゃんは前に云ったわ。こんなに素晴らしい能力を棄ててしまうなんてあんたは分かってないって。でもおかげで気づけたこともたくさんあるのよ。たとえば私たちが生きていくのに感情なんて本当は必要ないんだって。
それは聞き捨てならないな。こころは答えます。感情がなくなったら私はどうなる。元の道具に戻ってしまうじゃないか。
もっと云うなら意識だって邪魔なのよ。
おい云って好いことと悪いことがあるぞ。
こころは付喪神である自分の身体を見下ろしてからまた顔を上げました。こいしはすでに虫かごを手に取って歩き始めていました。花に誘われる蝶のように足取りはふらふらしていて表情は上の空でした。こころは溜め息をつきます。
前から変な奴だと思ってたけど最近は輪をかけて意図が分からないな。
友人の背中に待てよと声をかけて肩に手を置きます。こいしは笑顔で振り返ってみせました。だが眼の焦点はこころを捉えていませんでした。しょうがない奴だなと笑ってやると彼女もえへへと髪の後ろに手をやりました。その手の輪郭はかすかに透けていました。彼女の肩に置いた手に力がこもります。こころは歩きながら呟きました。
別にお前のことを否定したいんじゃない。それでも云わせてほしい。
うん。
感情がないなら生きる喜びも味わえないってことだろ。
その代わり痛みもないのよ。
だったら我々は痛みの伴うほうを選ぶぞ。
こころならそう云うと思ってた。
だいたい意識をなくした先はどうなるんだ? そいつらはなんて云ってる?
みんないっしょになるんだって。
なんだそりゃあ。
云ったとおりの意味よ。みんなひとつになるの。だからこの子たちは幸福なのよ。たとえそうは見えなくても。
こころは押し黙ります。愛おしそうに真珠色のナメクジたちを見つめる友人の瞳は見たことがないほど輝いていました。最後にこいしがバイバイと手を振って飛翔したときこころは手を差し伸ばしていっしょに飛び立とうとしました。でもできませんでした。気づいたときには彼女は姿を消していたからです。こころは両手を口の横に添えて大声で叫びました。また電話するからなこいし。ちゃんと出るんだぞ、と。
04 未来に果てしなく続くかくれんぼの話
それから年月が経ちました。こころがいつものように博麗神社に降り立つと霊夢が箒の手を止めました。かつての巫女はこころよりも頭ひとつ身長が高くなっています。彼女はすでにあなたと同じような大人になっていました。こころは姥の面を頭に引っかけたまま口を開きました。
ねえ。霊夢。
巫女は黙って首を振りました。
そっか。
霊夢は爪で頬をかいてから逆に訊ねます。さとりには相談したの。実家にも帰ってないわけ?
そうみたいだ。旧都のみんなも同じだ。誰もこの半年こいしの姿を見ていないらしい。
まぁ来るべきときが来たのかしらね。
どういうことだ。
気を悪くしたならごめんなさいね。あいつはもともと妖怪の理から外れた存在。本分を失った妖怪が存在を保ち続けるのは幻想郷でも至難の業。初めて会ったときあんたの感情が暴走してただの道具に戻りかけたときみたいにね。むしろ今までこいしが消えずに踏み止まれていたことのほうが不思議なくらいだった。
私たちがあいつのことを覚えてやっていたからだ。
かもしれないわ。
霊夢、お前までこいしを忘れてしまうのか?
巫女は箒の柄に置いた自分の指先をじっと見つめながら云いました。もちろんできる限り覚えているつもりよ。私は妖怪退治屋だもの。御阿礼の子が不在の今、退治屋が記憶せずして誰が妖怪を語り伝えるというのよ。……あんたにはうちで興行してくれた借りもあるしね。
ありがとう。
こころはそう云い残して飛び立ち山の麓に降りると黙って農道を歩き始めました。夏も終わりを迎え夕暮れもまた早し。こころはさまようように覚束ない足取りで林の奥から聴こえてくるかなかなというヒグラシの鳴き声に耳を澄ませました。晩夏にしては涼しすぎる風が農道を渡り穂を実らせた水田の稲海を波立たせては過ぎ去ってゆきました。
かくれんぼのつもりなら降参するからさっさと出てこいよ、古明地こいし。
こころはそう呟きました。その声は誰にも聴き取られることのないまま空に消えていきました。それでもこころは誰もいない道を振り返ってはそこにいるんだろと声をかけることを毎日欠かさず続けていましたし読書の際には隣にいてくれるはずの彼女のためにかならず声に出して読んでやるのでした。空っぽの道をなんども振り返ることになっても諦めることなく彼女はかくれんぼの鬼の役を来る日も来る日も務め続けるのです。
幻想郷の賢者たちの物語
05 ある夜の打ち合わせの話
八雲紫は懐中時計を取り出して時刻を確かめたのち頬杖をついてグラスから水を飲みました。氷のこすれる音が人気の少ない店の天井に吸いこまれてゆきます。店の敷地から出てゆく車のヘッドライトが紫の横顔を一瞬だけ照らします。眼を閉じるスキマ妖怪。リズムをとるようにかかとで床を叩いてはふたたび懐中時計に眼を落として溜め息をつきます。
店の入り口から来客を告げるベルが鳴りました。いらっしゃいませと声をかけた店員が立ち止まって客をじっと見つめます。ああ待ち人がいるんだ。あの窓際の女性。うん。そう。注文はあとでいい。ありがとう。女性の声に店員はかしこまりましたと返事して店の奥に引っこみましたが紫の席からは店員たちが顔を突き合わせて話しているようすが窺えました。
ああ。遅くなったな。
そう云って声をかけてきたのは摩多羅隠岐奈。腐れ縁の賢者を横目で睨みつける紫。隠岐奈は微笑みを崩さず見つめ返します。沈黙。もうひとつの新しい溜め息。そして紫は口を開きます。
何その恰好。
ジャージだ。見れば分かるだろう。
なんですって。
打ち合わせ通り。とびっきりカジュアルな服装だよ。
逆に目立つわよ。
そうかな。
あとその子たちはなに。
隠岐奈は振り返ります。ここまで車いすを押してきた舞と里乃。忠実な二童子。主人と同じように笑顔を浮かべながら揃って頭を下げます。お久しぶりです。八雲様。声もぴったり揃っていました。
こいつらの他に私の介添役なんていないだろう。隠岐奈が答えます。それともお前が車椅子を押してくれるのか。
普通に立って歩けるでしょうに。
疲れるじゃないか。
隠岐奈はテーブルに着くとさっそくメニューに手を伸ばしました。その手首を紫がつかみます。
なんだ。
あなたこの集まりの目的を分かっていらして?
ああ。会食だろう。
二人で内密なご相談をと念を押したはずだけど。
なるほど二人きりか。お熱いね。
話をはぐらかさないで。
なんだ。カリカリして。お前らしくない。
隠岐奈は店員を呼ぶと注文を書き連ねたメモを渡します。やがて運ばれてきたのはフライドポテトにソーセージの盛り合わせ。それに二童子の分のハンバーグ・ステーキとライスのセット。スープ・バーもついていたので二人は喜んで席を立ち手をつなぎながらコーン・ポタージュを拝領しに向かいました。
隠岐奈はポテトをつまんで云います。お前たしかケチャップやマスタードはつけないんだったか。
覚えていてくださって光栄ですわ。
そうか。じゃあ私がぜんぶ使うぞ。
チーズ・フォンデュのようにケチャップをたっぷり付けてポテトを口に放りこむ隠岐奈。紫はそろそろ本題に入って好いかしらと声をかけると彼女は上の空でうなずきます。テーブルを人差し指でとんとんと叩きながら紫は話します。
この前あなた妖怪化しかけた里の人間を逃がしたでしょう。
証拠でもあるのか。
天狗の情報網からは抜け出す。私でも感知できない。冥界にも痕跡がない。死んでいないとしたら隠し通せるのはあなただけよ。
あの場所は正確には里の領域ではないだろう。だったら私がお手つきしても文句あるまい。
やっぱりあなたじゃないの。
仮定の話だよ。ただの肉として提供されるにはあまりに惜しい逸材がいたとする。博麗に頭を割らせるには忍びない逸品があったとする。だからこちらで与かる。待っているのは私にとっても当人にとっても幸福な未来。誰も不幸にはならない。実に効率的だ。
二童子がポタージュを注いだカップを手にして席に戻ってきました。スプーンでかきまぜてからお互いの口に運び感想を伝えあいます。とろとろに煮こまれたその味わい。私も頼もうかなと主人が呟くと舞が店員さんを呼びましょうかと気をきかせます。紫はグラスから水を飲みましたがその視線は絶えず後戸の賢者と二童子に注がれておりそれはこの三人の間に結ばれた奇妙な絆を鋸歯のように断ち切りそうなくらいに鋭くそして荒いものでした。
あなたは残酷ね。
お前にそれを云われるとはね。
隠岐奈がポテトに大量の塩を振りかけると紫は口を挟みます。
身体に悪いわよ。
お前の煙管と似たようなものだ。
紫が諦めて今の幻想郷について簡潔に話を始めましたがそれが終わるころには隠岐奈はポテトを食べ終えてソーセージの始末に移っていました。彼女は肉を咀嚼して飲みこんでから口を開きます。
今に始まったことじゃない。結界の管理はお前の管轄。人妖の整理は私の仕事。ハード面とソフト面。互いに干渉はしない。それが取り決めだろう。天秤の均衡が崩れているならば重りを追加すべきだとお前は云う。だが重りを取り除く選択肢も考えてみるべきだよ。
それはしないって約束じゃない。
だが現にあの世界は狭すぎる。リソースは限られてくる。なら取れる手段もそれだけ狭まるということだ。まぁ昔はもっと酷い状況だってあった。月に侵略したときは結果的に大量の間引きになったがね。あの頃のお前のやり方は今よりずっと切れ味が好かったぞ。
状況が違うわ。強引なやり方ではなく緩やかに変えていかなければ。二の舞はご免だもの。
ソーセージを食べ終えると隠岐奈は皿にフォークを置いて長い吐息を漏らしました。
……なぁ。私たちが顔を合わせたらかならず泥の投げつけ合いになるのは分かっていたことだろう。以前にも私は云ったぞ。文通にしようと。書簡の形でなら不毛な云い争いにもならないと。
それで要領を得ない長ったらしい手紙を送ってきたのはどこの誰。
紫だな。
あなたに決まってんでしょ。
二童子が顔を見合わせてくすくすと笑いました。漫才のようですねと舞が無邪気に云います。隠岐奈はうなずきます。そしてデザートの注文まで始めてしまったので終いには紫も笑みを漏らしてまったくもうと嘆息しました。
車椅子の背に身体を預ける隠岐奈。店員が注文をとりにやってくると紫に視線を向けて云います。
お前は珈琲ブラックだったな。でも食後は紅茶のほうが好いんだったか。
お願いだからその記憶力を別のことに使ってちょうだい。あと私まだ何も食べてない。
そうこなくちゃね。パスタにするか。それともドリアか。
……ハンバーグ・ステーキで。
よしきた。
また乗せられてしまったと紫は独り言を漏らして後戸の賢者を見返します。隠岐奈はあくまで肩の力を抜いてこの会合を楽しんでいるように見えました。車椅子に座った少女は探偵よろしく理知的な表情を取り繕いますが口を開けば本題から脱線した世間話ばかり。紫はいつの間にか調子を崩されてしまい談笑に引きずり込まれてしまいます。それが二人の常でした。デザートを食べ終えたとき隠岐奈の口の端にクリームが付いているのに紫は気づきました。しょうがない人ねと云いながらナプキンで拭ってやったとき隠岐奈は面目ないなと笑っていましたが紫もそのとき確かに微笑みを浮かべていたのです。
かつて少女だったあなたの物語 2
06 夢と現実に託する話
翌日の朝、菫子はベッドから起き上がって水をコップ一杯飲んだ。エアコンのタイマー設定を忘れており点けっぱなしだったため肌寒ささえ感じた。顔を洗って鏡に向き合うと眼の下のくまが多少はマシになっていた。少なくとも化粧でごまかしきれないほどではない。ほっと息をついてからふと思い出して指先をコップに向けた。コップは一ミリたりとも動かなかった。安堵の息はたちまち溜め息に変わった。
スーツに着替えて真夏の日差しのなかを徒歩で移動しふたたび電車に乗って企業説明会を受けた。それが終わったときにはすでに午後四時だった。コンビニで買ったカフェ・オレを飲みながら木陰に包まれたベンチで休息する。ベンチの塗装にまだら模様のアートを描きながら落ちる木漏れ日。噴水が奏でる水音。親子連れの談笑。昨日よりもどこか優しく響いてくるように思える車のエンジン音。ようやく和らぎ始めた暑さ。菫子はストローから唇を離してカフェ・オレを口のなかで転がしその甘味を堪能した。一日の義務は果たされて穏やかな午後を過ごしているはずだった。大人になってから。特に最近はこうした改まった風景のなかで静かに過ごしていると訳もなく涙がこみ上げてくるのだった。菫子は背筋を伸ばすことも顔を上げることもできずにベンチに座り続けていた。誰にも見えないように薬指でそっと目尻を拭った。そしてカフェ・オレの空き容器をゴミ箱に捨てて家路についた。
今夜も無事に訪れていただけて安心しましたよ。
ドレミーは微笑みながらそう云った。想い出のログハウス。外の景色は夜だった。都会では考えられないような星空を体験できたあの夏。レンタルした天体望遠鏡を父といっしょに覗きこんでは星座の位置を教えてもらったものだった。菫子は窓辺に寄ってしばらく空を仰ぎ見てから振り向いた。
私もまた来れて嬉しい。
ずいぶん素直になったものですね。
もう子供じゃないから。
ドレミーは笑みを引っこめた。そうですね。もう幼子ではありません。ただあまり自分を決めつけすぎないほうがいいですよ。あなたが超能力を喪ってしまったのもあるいは自分で自分の限界を定めてしまったからなのかもしれません。
菫子は獏の帽子の先っぽをぼんやりと見ていた。
ええ。……そうかもしれない。
ドレミーは小さくうなずいた。説教がましい話は止めましょうか。よろしければ今夜は星空の下で物語を朗読しましょう。夜風が気持ち好いですよ。本当に。
菫子は獏に続いて外に出ながら訊ねた。昨日のお話のことなんだけど。
はい。なんでしょう。
幸せな結末じゃなかったりどこか不穏な空気だったり。私はもっと希望を持てるようなお話を期待してたんだけど。
現在の幻想郷についてお伝えするのも私の責務だと考えまして。
責務って……。
あなたが現実の世界で苦労していらっしゃるのと同じように幻想郷もあれから少なからず変化を続けています。そうした変遷を正直にお伝えするほうが却ってあなたのためになるのではないかと思いましてね。
なるほど。考えは分かったわ。
それでは。ドレミーは別の本を手にして語りかけた。気を取り直して次の物語に進みましょうか。
月の姉妹の物語
07 抑圧と処分、そして浄化の話
投げつけられた書類が綿月依姫の肩に当たって細雪のようにフロアに散らばりました。依姫は微動だにしませんでした。直立不動の姿勢。眉ひとつ傾けず男の顔を見つめ返していました。しかし腰に回された右手は骨が音を立てそうなほど強く左手で握りしめられていました。
それだけか。彼は口を開きました。淡々とした口調でした。報告はそれだけか。
はい。
不充分だ。
は。
あなたの捜査はまったくもって不充分だ。たったの二千羽だと。当初の割当は?
八千五百人です。
男はノックでもするかのように手の甲でテーブルを何度か叩きました。
部下の経歴をちゃんと確認したのか。地上の連中とのどんな些細な接点も見逃すなと指示が出ていただろうが。過去に戦闘で負傷した。妖怪どもの捕虜になった。奴らが遺棄した文物に指先一本でも触れた。地球からの信号を報告もせずに受信した。どのような経路で伝染するか特定できない以上虱潰しに処分するしかないんだ。
しかし――。
過去に追放した兎を処分するだけなら猿でもできる。あなたに与えられた責務はそんなことじゃないはずだ。いいか。スパイを殺せと云っているんだ。徹底的にやるんだよ。都のみならずこの星の隅々まで探し出して容赦なく狩り立てろ。ひとつひとつのクレーターの底まで確認しろ。毛一本も残さず焼き尽くせ。完全に浄化するためには肉体的に死滅させるだけでは足りんのだ。奴らが存在した痕跡を塵ひとつに至るまで根こそぎ洗い落とせ。スパイと戦うというのはそういうことだ。
依姫は冷静に答えました。かつて月のために戦った彼女たちに対してスパイとはあまりにも不名誉です。せめて穢れに侵されたと――。
その単語を出すな。彼は投げつけられずに生き残っていた書類を取り上げて目を走らせてから云いました。この自白調書もなんだ。これでは何も書いていないのと同じだ。奴らの持っている情報を吐き出させろ。口から心臓が飛び出るまで心の声を自白させろ。油断するな。手段を選ぶな。奴らに二度と月の大地を踏ませるな。生ぬるいやり方を続けているとあなたまで奴らの仲間入りをする羽目になるんだぞ。
依姫は眼を伏せました。……肝に銘じます。
08 クレーターの底に溜まった時間の話
依姫が屋敷に戻ったとき豊姫は桃の木に背を預けて黙々と読書を続けていました。依姫は姉の前に近づいて何をするでもなく棒切れのように立っていました。やがて豊姫が欠伸を漏らして顔を上げ妹の姿を認めます。傾げられる首。過ぎ去る時間。桃の花をさざめかせる人工の風。依姫が背骨を折られたように地面に膝をつくと豊姫はその手を取りました。
あらら。お疲れのようね。
姉さんは相変わらずですね。
また叱責を受けたの?
ええ。まあ。依姫は言葉を濁します。地上人の侵入を許して以来、私は信任を失ってしまいました。さらに都の凍結騒動から事態は悪化するばかりです。
問題が起こると上はいつもヒステリーを起こすからね。穢れに関することなら尚更。それも今回ばかりは度が過ぎているけれど。
伊豆能売神様がご健在でさえあれば……。
最初から最後までご尽力いただいたからね。二度とごめんだと云われるのも無理ないわ。それに内まで穢されてしまえば完全な浄化は不可能よ。本当に清められたか否かが重要なんじゃない。一度でも穢れたという事実そのものが今の上にとっては我慢ならないのよ。
豊姫は立ち上がって歩き始めました。依姫は後に従いながら呟きます。
神々からさえ見放されたこの都に大義はあるのですか。
豊姫は答えませんでした。
二人は屋敷を出ると豊姫の力で転移し静かの海の波打ち際に降り立ちました。そして無音のままに寄せては引いていく波を横目に流しながら散歩を続けました。近くにはいくつかのクレーターが大口を開けて横たわっています。クレーターの底では焼却されて炭と灰になった玉兎たちの骸が層を成しており生前の面影も姿形さえも定かでなく影の色合いと同化して悠久の時間の只中に忘れ去られたままになっていました。
依姫は話を続けます。監視の眼を光らせているにも関わらず穢れの流入は止まりません。まるで悪質な感染症のようです。これほど大規模な浄化作戦が遂行されれば普通は歯止めが掛かるはず。
もう見当はついているの。
残された経路は槐安通路しかありません。推測の域を出ませんが。
豊姫は歩く速度を緩めました。
つまり夢の世界を伝ってやってきているということ?
ええ。でも探女様は否定なさいました。あの獏の仕事は確か。間違っても私たち全員を敵に回すような失態は犯さないと。
そう……。
姉が浮かない顔つきで答えたのを見て依姫は話題を変えました。ところで先ほどは何を読まれていたのですか。
千夜一夜物語。
地上の書物ですか。
いけない?
見つかれば大変なことになります。しかも屋敷の庭で読むなんて。
まあ実際あの本の内容は上の云い分に従うならまさに穢れに溢れているわよ。それこそ一文字一文字から瘴気が立ち昇ってきそうだわ。逆に地上人はそれを活き活きとした描写だと讃えるのでしょうね。――バグダッドの軽子と三人の女の話。あなたは読んだ?
遠い昔。八意様に勧められて読みました。……当時は恥ずかしさと穢らわしさのあまり最後まで読み通せませんでしたが。
あら。どこまで読んだの?
軽子が三人の女に誘われて遊楽に興じる場面です。そこで限界でした。
まだ序盤も序盤じゃない。そこからが面白いのに。
具体的には。
豊姫は眼を細めて遠い想い出でも語るように話しました。運命に翻弄された王子が身の上話を語るところは特に好いものよ。予言の通りに美しい少年を誤って殺してしまったり。雲のように高い場所の屋敷で夢のような生活を送ったり。最後には開けてはいけない扉を開けてしまい、――まぁそんなところね。
雲のように高い場所……。
思い出すわね。
浦嶋子ですか。
そうね。懐かしい名前。
姉さんがまだあの人間を覚えていらっしゃったとは驚きです。
忘れたくても忘れられるものじゃないわよ。結局のところね、私たちがどれだけお高くとまっているつもりでも地球の重力からは逃げられないの。上が分かってないのもそこなのよ。たとえ身を滅ぼす結果になったとしても人間は好奇心に身を任せるわ。片目を喪うことになっても開いてはいけない扉を開いてしまうし、老人になってしまう危険を冒してでも開けてはいけない箱を開けてしまう。過去の物語は千年も前から予言してくれていた。地球の生命の力はきっと月にまで辿り着くと。現実と幻想の境界を越えうると。それはもう時間の問題だったの。
姉さんは。依姫は立ち止まって云いました。姉さんは必然だったと仰るのですか。この惨状も結局は防ぎようのないものだったと。
ええ。
豊姫はあっさりと答えてそのまま歩みを止めません。依姫は姉の背中を見つめていました。彼女は振り返らずに言葉を重ねます。
私はもう少し歩くわ。あなたはどうする?
……もう戻ります。仕事がありますから。
そう。どうか元気を出してね。
姉さん。転移をお願いします。
ああ。ごめんなさい。
豊姫は振り返って右手を胸の高さに挙げました。そして屋敷に戻されるまでのほんの一瞬の間、依姫の視線は月面のクレーターに注がれました。底で炭になって凍りついているはずの数多の死骸。蒸発した眼球。空洞になった眼窩が捉えている地球の青白い輪郭。そのあまりにも乾ききった不動の姿。依姫は彼女たちに手を差し伸べようとしましたが次の瞬間には屋敷の庭に立っており右手は空をつかみました。依姫は手のひらをじっと見つめてからその手を刀の柄に置くと足早に屋敷を後にしました。
化け猫と天邪鬼の物語
09 奇妙な肉の配達の話
ミッション式の軽トラックは土煙を上げながら郷の農道を走っていきました。その荷台は深緑の防水シートで覆われており積荷の様子は窺えません。運転しているのは鬼人正邪で助手席に座っているのは橙。二人とも眉間に皺を寄せながら無言でフロントガラスの向こうの景色を睨んでいました。
正邪が口を開きます。なぁ。
なに。
あの丁字路。どっちだ。
右。
あいよ。
正邪はハンドルを切りました。柳の運河に沿って道は続いておりやがて霧の湖に合流します。湖の島に建った紅いお屋敷。スカーレット・マンション。赤煉瓦の橋を渡って前進を続ける軽トラック。門まで辿り着くと美鈴が壁から身体を離してこちらに向けて手を振りました。橙が振り返すと彼女は頷いてから門柱に取りつけられた装置に何事か呼びかけます。
なんだあの四角いの。
正邪の質問に橙が答えます。インターフォン。
ああ。あれが。初めて見るな。
二人が話し終わる頃には門前に十六夜咲夜が姿を現していました。正邪が溜め息をついたので橙が視線を動かします。
どうしたの。
あいつとはあまり好い想い出がないんだ。
へえ。そう。橙が目線を戻します。奇遇ね。私もそうだよ。
屋敷裏の搬入口に車を止めて二人はシートを外しました。咲夜が複写式の伝票と荷台の木箱とを交互に見比べました。それから正邪に視線を移しました。蝉の音がまだ休まらない季節でしたが彼女は汗ひとつ浮かべずに両脚へ均等に体重をかけて立っていました。
その天邪鬼はどうしたの。最近姿を見かけなかったけど。バイトで軍資金でも貯めているのかしら。
正邪は無言のままなので橙が答えます。また悪さをやらかしたから紫様が懲罰を与えたの。要するに禁固刑。そして今は労役刑。私は指導係と監視役。これで満足?
何でも好いけど積荷は大丈夫なの。あなたの知らない間にそいつが猪の肉にすり替えていたなんてことはないでしょうね。
問題ないわよ。あんたみたいに時間を操りでもしない限り。
なら好いわ。
木箱の中には油紙で包まれた肉のほかにも塩や砂糖が詰まった袋が入っていました。咲夜はナイフの先で器用に油紙の封を外すと中の肉を検めました。そして匂いを嗅いでから視線だけを橙に向けました。
少し状態が悪いみたいね。量もいつもより少ないみたいだけど。
橙は帽子を脱ぐと胸の前に掲げるようにして両手で持ちました。ごめん。調達に必要な経路がひとつ使えなくなっちゃって。それで今月は精一杯なの。
あのスキマ妖怪に経路とか関係あるようには思えないのだけど。
橙の二叉に分かれた尻尾が丸まりました。こっちにも事情があるんだよ。
事情が何だろうと契約は守ってちょうだいね。お嬢様にも話しておくわ。
そのとき正邪が横槍を入れました。ここは缶詰じゃないのか。豪儀なもんだな。
余計な口をきかないの。橙が睨みます。あんたは黙ってて。
お前もしばらく見ないうちに大きくなったなぁ。咲夜の顔をじろじろと見上げながら正邪は続けます。前に私が暴れ回ったときはお前の姿を見かけなかったな。もう戦える状態じゃないのかい。
咲夜は口調を変えずに答えます。お嬢様のご命令もないのに異変騒ぎに首を突っこむわけないでしょう。それに弾幕ごっこはもう卒業したわ。
ごっこ呼ばわりか。巫女が哀しむな。
事実ごっこ遊びだったじゃない。その霊夢も今じゃ隠居中なんだから私も館のお勤めに専念してるだけよ。近頃じゃ弾幕で遊んでる妖怪もあまり見かけないしね。
そうか。正邪は言葉少なに答えました。まぁそうだな。
三人の間を沈黙が覆いました。搬入を終えて防水シートをかけ直したとき橙が咲夜に訊ねました。今日はなんだか静かね。
ええ。ちょっと問題が持ち上がっていて妖精メイドもホフゴブリンもみんなぴりぴりしてるの。
問題?
お嬢様とパチュリー様が喧嘩してるのよ。
そんな内部のこと私に話して大丈夫なの。
咲夜は微笑みを浮かべて首を振りました。
10 地の底への配送の話
今日はどこだ。
地底よ。
地底。
ええ。
どうすんだ。これだけの荷物を背負って蟻んこみたいに運べってか。
心配ないよ。いいから云った通りに運転して。
はいはい。
妖怪の山に続く林道はアスファルトで舗装されていました。トラックのタイヤが地面に食いこみ車体を軽快に前へと進ませます。正邪は前屈みになり両腕をハンドルに乗せるような格好で運転しながら云いました。
こんな僻地みたいな場所がしっかり舗装されてるってのに人里の通りには相変わらず土埃が舞ってるってのも何だか妙な感じだな。
橙は口に咥えた煙草にライターで火を点けながら答えます。舗装された道とただの砂利道。両者の境目が妖怪と人間の棲まう世界の境界線にもなってるのよ。今ではね。
なんだかな。
どうしたのさ。
別に。どう言葉にしたら好いのか分からないだけだよ。
あんたが紫様に閉じこめられてる間にこっちも色々あったの。
正邪は橙を横目で見ました。彼女は煙草を吸い続けていました。軽トラックの灰皿は煙草の吸い殻でいっぱいになっておりダッシュボードの上には口の開けられたカートンが放り出されていました。
橙が顔を上げます。あんたも吸いたいの?
別に要らん。というかお前が吸ってるってのが意外だよ。
今じゃ吸わない妖怪のほうが珍しいくらいだよ。配給に缶詰か煙草か選べるしね。
やれやれ。まるで人間の後追いだな。
山の麓の間欠泉センターに辿り着くと係の河童の誘導に従って正邪は軽トラを昇降台に乗せました。エレベーターが音を立てて起動し黄色いランプが点滅しました。軽トラの開いた窓から地下のひんやりとした空気が流れこんできました。太陽の光は遠ざかり温度のない照明が車内にあふれます。そうした光のなかでは橙の吸っている煙草の煙も表情を変えて正邪の鼻孔をくすぐりました。運転席の横を鈍色に塗装されたパイプが奇妙なアトラクションのように下から上へと流れ去っていきました。
正邪は車のサイド・ブレーキを引くと頭の後ろで手を組んでシートにもたれかかりました。そして呟くように云いました。
お前はさっき私がいない間に色々あったと云ったな。
ええ。
命名決闘は廃れる。見知った人間は引退。妖怪が軽トラを乗り回す。おまけに煙草を吸いまくる。他にはどんなサプライズがお待ちかねなんだ。
そうね。橙は煙草の先を灰皿に押しつけました。あまり多くは話せない。云っても信じないだろうし。要するに異変が立て続けに起きてあらゆる場所の境界が曖昧になってるの。地上と地底の関係もそう。現世と彼岸も然り。そして外の世界。他にも仙界。法界。地獄。山と里。地球と月。それに……。
大事なもの忘れてるだろ。
なに。
妖怪と人間の境界だよ。
ええそうね。
人間かぶれする妖怪に、妖怪に憧れる人間。まったく愉快なもんだ。あれだけ己の本分を弁えろだなんて口を酸っぱくして云い聞かされてきたのにこれだ。締めつけすぎれば停滞を招く。緩やかに統治すれば堕落。にっちもさっちもいかない。だから私は前から云ってたんだ。こんな危うい均衡なんて長続きするわけないってな。
…………。
お前のご主人様は本当にこのままで好いと思ってんのか。
私は紫様と藍様に従うだけだよ。
お前自身はどうなんだ。
何が云いたいの。
お前は疑うことを知らないなって私は云いたいんだ。ご主人様の意思は絶対。ご命令に従っていれば何もかもうまくいく。これこれこういう奴がお前にとって不倶戴天の敵。敵ならば背骨を粉砕して排除しなければならない。――それがお前の信じこまされているナラティヴだよ。
あんたの云うナラティヴって何。
耳障りのいい物語のことだよ。お前のような奴を体よく利用するためのね。
橙は鼻を鳴らすと次の煙草に火を点けました。
昇降台が停止し二人は地の底に辿り着きました。車は再び発進してコンクリートで補強されたトンネルの中を走り続けました。道が次々と合流し巨大な縦穴の真下を通過します。視界が開けるとそこは旧都の入口に通じる橋でした。橋姫のパルスィが欄干から身体を離して歩み寄ってきました。橙がトラックから降りて納品書を手渡します。パルスィは運転席の正邪をじっと見つめましたが何かを云うでもなく視線を戻しました。
橙が橋姫の尖った耳を眺めながら訊ねます。どうしたのそれ。
これ?
あんたがお洒落なんて珍しい。
パルスィは薄い微笑みを浮かべました。彼女の耳に飾られたイヤリングが瞳と同じ翡翠色の輝きを地底の天井に投げかけていました。
勇儀の奴から貰ったの。地上見物のお土産だって。見物と云っても今じゃ上にいる時間のほうがずっと長いんだけどね。ここ最近多いのよ。そういう地上かぶれ。
星熊の大将さんが贈り物なんてこれまた珍妙ね。
橙は自身の耳飾りに手を触れました。パルスィはその手つきを眼で追いながら話を続けます。ノンホールだから痛くないし是非つけてみろってうるさくてね。大方旧都にも地上にも染まれない私に対する憐れみからくれたんでしょうよ。
素直にお礼のひとつくらい云ってあげたら。
感謝はしたわよ。しないと拗ねるから。
大人ね。ちゃんと付けてあげてるんだ。
まぁね。あいつにしては珍しく品が好かったし。
正邪は二人の会話に聞き耳を立てるのを止めて荷台を振り返りました。満載された木箱に所狭しと詰めこまれているのは缶詰でした。パッケージはなく鈍色の表面に製造番号だけが刻印された缶が敷き詰められている様は必要以上に無機質に見えました。
帰りの道中。橙は眼をつむって車の振動に身を任せておりもう煙草を吸うこともありませんでした。正邪はハンドルを握りながら訊ねました。
ここの連中も今じゃすっかり餌付けされちまったわけだ。
これも取引よ。地底じゃ缶詰の肉だって貴重だしね。
代わりにお前たちは何を得ているんだ。
それってあんたに答える必要あるの。
正邪は少し考えてから云いました。少なくとも物々交換の類いじゃない。大方紅い館の連中と同じだろう。必要なもんはやるから大人しくしてろとか。もっと踏みこんで云うなら公には出せないことに協力させてるとかな。
橙は答えませんでした。
正邪は続けて云います。さっき伝えたことは頭の片隅にでも留めておいてくれよ。お前のご主人様はお前が思ってるような聖人君子じゃない。私が反逆騒ぎを起こした理由はそのうち厭でも思い知るだろうがそうなったときにはすでに手遅れなんだ。
勧誘ならお断り。今日はもう話しかけないで。私は寝るから。お疲れ様。
……どうぞご自由に。
正邪はハンドルを握り直しました。そして橙からライターを借りて煙草に火を点けました。吐き出された煙が開いた窓から逃げてゆきトンネルの中空を漂って消えていきます。軽トラックのフロント・ライトは薄暗い道を頼りなく照らしており道のりは永遠に続いていそうなほど暗く闇に閉ざされていて先が見えることはありませんでした。
かつて少女だったあなたの物語 3
11 変わりゆくものと変わらないものについての話
菫子は病院から処方された薬を飲むと部屋の照明のスイッチを切った。そしてベッドスタンドの明かりに照らされた新しい枕をしげしげと眺めた。それは獏のデフォルメされた絵柄がプリントされたドレミー印の安眠枕だった。童話に出てくる白雲のようにふかふかで材質不明の手触りは菫子の頭の重みを優しく受け止めた。その心地の好さは薬などもう必要ないのではないかと思ってしまうほど安らかにそして速やかに意識を夢の世界に連れていってくれた。菫子は何とも云えない間の抜けた表情を浮かべた獏の絵を見つめてから微笑みを浮かべた。そして明かりを消してベッドに身を横たえた。
ようこそ。よく眠れましたか。
ドレミーは夢魂の上にうつ伏せになり頬杖をついた格好で菫子を出迎えた。菫子は首を巡らせ前後左右に視線を配った。そして獏に向き直って云った。
――ここは教室?
ええ。
東深見高校?
あなたの母校です。
どうしてまた。
想い出の場所だからですよ。鏡を見てください。
菫子は渡された手鏡を覗きこんだ。次に自分の身体を見下ろした。そして目線の高さが幾分か低まっていることにようやく気づいた。ドレミーは頬杖を解いて頭を下げると手の甲に顎を乗せた。彼女は云う。どうです。懐かしい制服でしょう。そのままだと小さいのであなたの身体も当時に戻ってもらいました。
ご親切にどうも。
いろいろ思い出してきましたか、と獏は続けて語った。今のあなたは幻想の世界から遠ざかりすぎて記憶が曖昧になっている節があります。無意識に忘れようとしたのかもしれません。ご自分の可能性について正直に信じていられた時分のことを。夢がまだ夢として力を持っていた時分のことをです。
私は具体的に何を忘れちゃったのよ。
大切なものですよ。あなたはずっと前にもう一人の自分と戦いました。成り行き上、仕方なくです。そして倒してしまった。自分の影なる存在を永久に消してしまったんです。私はあの時、あなたを止めることができなかった。でもあなたは再び私の前に現れてくれた。
そのように話しているあいだドレミーは菫子から眼をそらし続けていた。菫子は何を云えば好いか分からず手近な椅子に腰かけた。それはかつて座っていた窓際の席だった。窓の外には記憶にある街並みはなくただ緑の草原が広がるばかりだった。
きのう朗読してくれた物語なんだけど。菫子は話題を変えた。ねえ。なんであんな雰囲気が暗くなってるの。幻想郷はどうなっちゃったのさ。私の記憶にあるのは牧歌的だけど刺激に満ちた世界だよ。それが不毛な虐殺だの気味の悪い缶詰だの、……気の滅入る一方よ。
ご心配なさらずとも見た目はそれほど変わっちゃいませんよ。ドレミーは顔を上げて答えた。変わったのは人びとの内側です。長寿の妖怪でさえ時の流れには逆らえずにその在り方を変えていきます。それは夢の世界で暮らす私だってそうです。
獏はそこまで云ってから再び顔を伏せた。長いまつげが憂いを秘めた瞳に差しかかった。海の色をした瞳。震えるように動いた目蓋。開いたり閉じたりを繰り返す唇。夢の支配者の疲れた表情を菫子が見つけたのは初めてのことだった。
ドレミーは語った。あなたが去ってから夢の世界にもようやく平穏が訪れると思っていましたがそれは大きな間違いでした。現実と幻想の境界が崩れ去るときその狭間で均衡を保っていた夢の世界もまた大きく揺さぶられるのです。物語にもあったでしょう。ボーダーレス化する幻想はあらゆる境界を乗り越えて浸食を始めそれは同時に現実世界の波紋がよりいっそう強く幻想の故郷に流れこむ結果にも繋がりました。賢者にすら止めようのない世界の潮流です。人格が入れ替わり。暴走し。修繕も追い付かず。夢魂は蝶のように好き勝手に行きかう。あれからずいぶんと駆けずりまわりましたよ。
菫子は呟いた。……私のせいなの?
ドレミーは首を振った。すみません。ちょっとした愚痴です。あなたが直接の原因ではありませんよ。あの世界を彗星のように駆け抜けてやがて燃え尽きてしまったあなたは、――あなたは、ただちょっと不思議なだけの女の子でした。
ドレミーは席に座っている菫子の傍まで中空を泳いでいった。そして身を乗り出すと右手を伸ばして菫子の前髪をよけると自身の額と彼女の額をくっつけた。菫子の全身から力が抜けた。おでこから頭の中に暖かい血潮のような液体が流れこんでくる感覚を覚えた。菫子は瞳を閉じた。彼女の営為を受け容れた。
今はこれが精いっぱいです。ドレミーが身体を離して云った。あれから数え切れないくらい辛い目に遭いましたね。可哀想に。でも。ドレミーは云う。でも、……強く生きてくださいね。私も手助けします。変わりゆく世界の中でいつまでも変わらないものを抱きしめ続けてください。次に語るお話があなたの静かな力になるでしょう。そして忘れてしまったものを再び思い出す手助けになるはずです。変わりゆくものとそれでも変わらないものの両方を知ったとき。――そのときあなたはきっとあなた自身の物語を見つけ出すことでしょう。
菫子は眼を開いた。ドレミーと見つめ合った。そして次なる航海を待ち受けた。
旧都の鬼と橋姫の物語
12 地底の虹鱒と携挙の話
水橋パルスィは釣り竿を引き上げて慣れた手つきで釣果を検めました。旧地獄の渓流に棲息している虹鱒でした。眼は光を取り入れるため地上のものよりひと回り大きく育ち刃物のように尖った尾をしきりにくねらせていました。橋に掲げられた提灯の明かりに照らされて鱗が複雑な模様を輝かせていました。パルスィは魅入るようにその模様を見つめていましたがやがて釣り針を取り外して暴れる魚の尾をしっかりとつかみました。そして鞭のように振り上げて橋の欄干に頭蓋を叩きつけました。虹鱒は口を大きく開けて震えていましたがまもなく動かなくなりました。包丁で顎の先から肛門まで切り開いて臓腑を取り出したのち桶に入った塩水で魚を洗うと他の釣果といっしょに筵に並べました。いずれも立派に育った鱒でした。
パルスィが鼻唄を歌いながら炭火で魚を焼いているといつの間にか隣に古明地こいしがいました。両膝を折り曲げて腰を落とし膝頭に頬杖を立てていました。彼女は小首を傾げながら焼かれた魚の白く硬化した目玉をじっと見つめていました。二人の間に横たわるのは炭火の熾きが弾けるぱちぱちという音だけでした。
久しぶりね。パルスィは口を開きました。さとりの奴が心配していたわよ。半年も屋敷に戻らないなんてさすがに不孝じゃないかしら。
こいしはわずかに微笑みを浮かべたほかは何も語りませんでした。薄暗い地の底で炭火に照らされた赤い頬。黄緑の混じった灰色の髪。翡翠のように透き通った瞳。身体の輪郭は最後に見たときよりもずっと曖昧になり肩に至っては向こうの景色が透けて見えていました。
パルスィは続けます。待ち人は他にも居るわよ。あんたが可愛がっていたペット。それに地上の友人。面霊気だったか。あいつ週に一回は訪ねてくるのよ。落ち着いて橋守もできやしない。顔くらい見せてやりなさいな。
こいしは首だけを動かしてこちらをじっと見ました。パルスィの指先に力がこもりました。咳払いして眼をそらし仕上がった虹鱒をトングで取り上げます。さとり妖怪の妹は魚だった物体に視線を移しました。
パルスィは片方の眉を上げて云いました。……なに。あんたも欲しいの。
あなたにも待ち人がいるのね。
は?
パルスィは訊ね返しましたがこいしは意に介さず続けます。あなたはどこに行きたいの。
どこにってなに。私は何百年もここでお役目を果たしているの。あんたみたいな家出娘と違ってここでやることがあるのよ。
こんなところにいるんじゃひとつになれないよ。
――なんだって?
高く昇るためには空と太陽が必要なの。進化のために入り用なのは新鮮な空気なのよ。だからここじゃだめなの。
パルスィは鱒が食べ頃の温度になっていることにも気づかずトングを手に持ったままこいしを見つめ返していました。……あんた、しばらく見ないうちにますます訳が分からないことになってるわね。
こいしは笑みを深めました。そして瞬きのうちに姿を消していました。パルスィは立ち上がりかけましたが首を振って座り直しました。どいつもこいつも、という呟きが空しく木霊しました。
13 せせらぎと泡沫、そして鱗の地図の話
それからパルスィは焼き上がった虹鱒を食べ始めました。お箸で身をほぐして残った内臓や小骨を取り除きます。地上からはるばる配送されてきた醤油を皿に垂らし身を湿らせてから口に運びます。パルスィは時どきうなずきを挟みながら一匹目の鱒をまたたく間に平らげました。口の中が片づかないうちに二本目に手を伸ばしたとき背中を平手で叩かれて椅子から転げ落ちました。
やあ失敬したね。星熊勇儀は手を挙げた姿勢のまま固まっていました。そんなに驚かなくても好いじゃないか。橋姫さん。あんたよほど夢中で食べてたんだね。
やかましいわよこの馬鹿力。パルスィは右手で後頭部を押さえながら勇儀の手を借りて身を起こしました。なんで今日に限って足音も立てずに忍び寄ってくるわけ。いつもは橋桁を踏み抜きかねないほど騒々しくやってくるくせに。
悪かったよ。あんまり美味しそうに食べてるもんだから声をかける隙を計りかねてたんだ。あと口の周りに魚の脂がついてるよ。
パルスィは服の袖で口元を隠しました。勇儀がハンカチを差し出してくれたので礼を述べて汚れを拭き取ります。洗って返すと伝えると別にいいよと答えが放られてきます。鬼の大将は吊り上げた唇の端をなかなか改めてはくれません。
久々に釣れたんだね。
ええ。本当に。
だから夢中で食べてたわけだ。
うるさいったらもう。充分からかったでしょう。
勇儀は欄干に寄りかかって云いました。そういや前より水位が下がってるね。
まあ。そうね。環境が変わったのかしら。このままだと涸れてしまうかもって黒谷は云ってたわ。このせせらぎを聴けなくなるのは正直残念ね。
お情けとはいえ三途の川の分流がそう簡単に涸れるもんじゃない。あいつら未だに財政難みたいだね。むしろ悪化したのか。こりゃ川の流域を縮小したのかもしれん。
世知辛いわね。
地上も似たようなもんさ。
そう云って勇儀は断りもなく焼いた虹鱒を食べ始めました。お箸を使わずに腹から丸かじりにします。勢いで長い金髪が翻りました。その様子は鮭のはらわたをむさぼる飢えた熊を思い起こさせました。そのくせ口を離したときによく見ると唇の周りに汚れは少しもついていませんでした。パルスィは親指の爪を噛みました。
あんた器用なのか不器用なのか分からないわね。
お前さんの箸遣いが下手くそなだけさ。
この野郎。
だからそのハンカチはお土産。返してくれる必要もないわけだ。勇儀はパルスィの顔をしげしげと眺めてから付け加えました。うん。好く似合ってる。さすが私。
あっ。パルスィはイヤリングに手を触れました。しまった。外すの忘れてた。
なんで外すんだ。
あんたが調子に乗るから。
似合うことは最初から分かってたよ。少しも驚かないね。
……憎らしく思えばいいのか呆れるべきなのか。
少しくらいは喜んでくれても好いだろう。
パルスィは欄干に右手を乗せて一歩前に踏み出しました。お情けは止めて。土産話もごめんよ。私は地上のことなんてこれっぽっちも興味ないの。とうに失せたわ。
勇儀は爪の先でこめかみをかきました。下駄を履いた足を上下させてわざとらしく音を立てました。それもまた見慣れた動作でした。その様子を見てパルスィは畳みかけました。私は嫉妬を司る妖怪。だから分かるのよ。あんた伊吹の奴に妬いてるんでしょう。新しい風を取り入れようだの見聞を広めようだのぜんぶ建前。本音のところは思ってたよりも地上を楽しんできたあいつが羨ましかったってだけなんだから。――どう、当たってるでしょう。正直に自分の気持ちを認めなさいな鬼の大将さん――。
勇儀は足を三歩前に踏み出しました。パルスィの眼には一歩で瞬間的にこちらに近づいたように見えました。気がついたときには両脇の下に手を入れられパルスィの身体は幼子のように空中に持ち上げられていました。
だったら正直になろうか。勇儀は静かに云いました。お前さんの云う通りさ。萃香が正しかった。私は間違っていた。……これで満足か。
…………。
あんたは何が不満なんだ。
パルスィは持ち上げられた状態のまま溜め息をついて語りました。……どいつもこいつも地上にかぶれて旧都を去っていくのが憎いのよ。十年前。この橋は地上と地底を隔てる大事な境界であり結界だった。それが今はどうなの。地上からの配送トラックが我が物顔で往来する。きらびやかな鍾乳洞は無機質なコンクリートで塗り固められる。地上から物見遊山でやってきた酔っ払いが橋から川に向かってゲロを吐く。その川の水は減る一方だし魚だって滅多に釣れやしない。最後にはあんたまで地上から土産物を買ってきてはへらへら笑いやがる始末。――これじゃ私の存在意義ってなんなの。――いっそここで殺しなさいよ!
パルスィの声は最後にはかすれていました。勇儀はパルスィの歪んだ表情を眺めながらなお動きませんでした。ですが持ち上げる指先に力がこもったのでパルスィは悲鳴を上げそうになりました。
鬼の大将は首を小さく振ってから云います。……だったら橋姫さん。あんたがそいつを身につけてくれた理由はなんなんだい。お前さんにとってはそんな装飾品、天より憎い代物だろう。
パルスィは答えないままうつむきました。勇儀の視界からは前髪に隠された橋姫の瞳の色は窺えません。翡翠の宝石と同じ潤いを帯びた緑の輝き。微かに震えている肩。尖った耳からぶら下がっているノンホールのイヤリング。それは細かい周期で揺れていました。勇儀は角が刺さらないよう注意しながら橋姫を抱き寄せました。それは高さもあって抱きしめるというよりは担ぎ上げるような格好になりましたが。
勇儀はパルスィの背中をさすりながら云いました。好むと好まざるとにかかわらず地上も地底も変化の時を迎えている。それは私たち全員が認めなくちゃならない事実だ。でも変わらないものもある。今だって旧都の居酒屋は提灯の明かりで彩られている。ヤマメの奴は相変わらず食えない性格してるし古明地だって薄気味悪い小説を出版し続けてる。そんでもって橋姫さんの陰気で仲間想いなところも変わらんね昔から。
ばかっあんた誰が仲間想いって――。
だからこそ私は安心して地上に出かけられるんだよ。私の故郷はいつでもそこにあるって信じられるからな。とにかく私が云いたいのはそう悲観しなさんなってことだ。一度でも旧都の味を気に入ってしまった奴はそう簡単に離れられやしないよ。ここは歴史の掃き溜めだ。ずっと世界から取り残され続ける。でもだからこそ愛おしくなるもんだ。
勇儀はパルスィを降ろしました。パルスィは足踏みして倒れないよう欄干にもたれかかり上目遣いで鬼の大将を睨みつけました。
……あんたは本当に人を丸めこむのがお上手ね。
勇儀は涼しい顔で笑うのでした。
彼女が旧都の方へ立ち去ってからもパルスィは川の流れを見つめ続けていました。岩にぶつかって結んでは消えていく泡沫(うたかた)。太古の世界地図を写し取ったかのように複雑な模様を持つ虹鱒の泳ぐ影。千年以上も昔から空間を満たし続けてきたせせらぎの木霊。それらのすべてにパルスィは五感を澄ませていました。まるで初めて目撃しその音を聴いたかのように。そして右手を挙げて長く伸ばした爪の先でイヤリングをちりんと弾いたのです。
吸血鬼と魔法使いの物語
14 皮なめしの白昼夢の話
まだ幻想郷を訪れる前にレミリア・スカーレットは河原のそばで暮らす一家が皮なめしの作業を行っている様子を観察したことがありました。なめされていたのは立派な角を有した牡鹿でした。父親と息子は研いだ骨を使って皮の表層部分や肉片を丁寧に剥がしていました。骨の柄にあたる部分に紐を通して輪っかにし肘のところで固定していました。それは機械のように精密ですが同時に荒々しい動作でした。灰に漬けこんで処理された皮から脂肪や肉が溜まり溜まった垢のように次々と削ぎ落とされていくさまはある種の小気味よささえ感じられるほどでした。二人が作業を続けているあいだ母親は鮮やかな赤色をした物体を鍋で煮こんでいました。蝙蝠になったレミリアは眼を凝らして鍋の中を見つめていました。それは鹿の脳でした。脳漿(のうしょう)や燻煙を用いることで驚くほど柔軟になりそして穏やかな色彩を帯びた処理済の皮が洗濯物のように木の枝で干されて乾燥されていました。楡(にれ)の木にかけられたベージュのカーテン。そよぐ風。流れる川の音。血なまぐささを感じさせないほど洗練され自然に繰り返される営み。時間は緩やかに過ぎてゆきました。レミリアは木陰に隠れて陽光を避けながらじっとその光景を見守っていたのです。
レミィ。
少女の声に肩を叩かれてレミリアは白昼夢から目覚めました。隣に座ったパチュリー・ノーレッジが横目でこちらを睨みつけていました。レミリアは組んでいた足を解いて思い切り背伸びをしました。
ねえ。レミィ。話をもちかけてきたのはあなたじゃない。読書を中断してまで応じてあげたのにその態度は如何なものかしら。
悪かったよ。レミリアは小悪魔が淹れたカモミール・ティーを口にしました。ちょっと昔のことを思い出してたんだ。
話が仕舞いなら書見に戻らせて欲しいんだけど。
だから悪かったって。
パチュリーは開きかけた魔導書を閉じました。レミリアは本の装丁に用いられている革を見つめました。そして訊ねました。
それなんの皮だっけ。
人間よ。決まってるじゃない。
タンニングには人間の脳が使われているのかな。
何の話。
珍味が勿体ないって話さ。
悪趣味ね。
魔女様がそれを云うのか。
レミィの悪食には敵わないってことよ。
レミリアは微笑みを浮かべて紅茶のカップを置くと靴を脱いで姿勢を崩しパチュリーの膝に頭を横たえました。魔女が眉間に皺を寄せます。
ねえ。重いんだけど。いつも云ってるでしょう。
吸血鬼には脳がないんだ。人間よりもよほど軽い。
重いものは重いのよ。
――それで何の話をしてたんだっけ。
呆れた。パチュリーはレミリアのおでこに本の角をぶつけて云いました。図書館の整理の話でしょう。冊数を減らせとかなんとか。正気を疑う提案ね。
そうそう。パチェが猛反対するのは分かってた。屋敷にある他のものは少しずつ手を付け始めてるんだけどね。ここはどうしたもんか。どう切り出すか迷ってたんだ。
……私に拒否権はないわけ。
あると云いたいところなんだけどね。レミリアは頭を横に向けて魔女のお腹に顔を沈めました。でもあまり時間がないんだな。
整理するとして棄てる基準はどうするの。魔導書だけを残してあとは湖の埋め立て工事にでも使うつもり? レミィのお気に入りの漫画本は? 美鈴直筆の大陸健康法大全は? まだ一度も目を通してない本だってたくさんあるのに。
そう困らせないでくれないか。パチェ。決心が鈍る。
なによ今更。必要なことなんでしょう。
ああ。レミリアはゴンドラが必要なほど高くまでそびえる本棚の森を見やりました。何だか昔の物語を思い出してしまうな。司祭と床屋が出てきて棄てるべき書物の詮議をおこなう。でもって焚書刑に処する哀れな本を手当たり次第に二階の窓から裏庭に放り落とすんだ。
ドン・キホーテじゃない。
そうだっけな。
よく憶えていたわね。
初めて読んだ本格的なロマンだったからなぁ。今でも印象に残ってるよ。ごっこ遊びもしたっけな。風車に突撃したりさ。まあドン・キホーテが風車に跳ね返されたのに対して私は突き破って倒壊させてしまったがね。
レミィの突拍子もない性格はラ・マンチャの騎士からきてるのね。
そうかも。だとしたらパチェはサンチョ・パンサになるのかな。
私がいつあなたの従者になったのよ。
でもうちの魔女様にはサンチョみたいな愛嬌がないからなぁ。
黙んなさいよ。
そう怒るなよ。
パチュリーは沈黙してから云いました。……私はこれまでずっとあなたの我が儘や無茶ぶりを叶えてきたわ。サンチョよりも役に立つわよ。
レミリアは頭を戻して魔女の顔を見上げました。彼女は本で表情を隠していました。レミリアは起き上がってカモミール・ティーを飲みほしました。そこへ十六夜咲夜が図書館の大扉を開けて入ってきたのです。
お嬢様。こちらにいらっしゃったのですか。咲夜は云いました。お夕食の時刻です。
ありゃ。もうそんな時間か。……あまり食欲がないな。
時間を遅らせますか。
いや。今夜はいいよ。紅茶だけいただこう。
かしこまりました。
咲夜が立ち去るとレミリアはパチュリーと顔を見合わせてうつむきました。まあ。繰り返すようだけど時間が惜しいのは確かだ。
あの子もすっかり人間らしくなったわね。
それだけ成長したのさ。丸くなったとも云える。霊夢の奴もそうだった。私からしてみれば今の咲夜は切れ味不足だけどね。
たまには異変解決のひとつでもさせてみたら?
あいつが乗り気じゃないんだよ。子供の遊びは卒業しましたみたいな風情でね。弾幕ごっこの流行りも今は昔。最初に命名決闘で戦った私らが今では古参扱いだ。妙な気持ちになるよ。
老人みたいな云い草ね。レミィもそろそろ引退――。
そこまで話したときパチュリーが激しく咳きこみました。
おいおい。喋りながら紅茶を飲むなってあれほど――。
パチュリーがカップを取り落としソファの肘掛けにしがみつくようにしてぜいぜいと息を荒げ始めるとレミリアは素早く立ち上がりました。そしてライティング・デスクの引き出しから薬の容器を取り出すと友人の手に握らせました。粉剤を吸引してしばらくするとパチュリーは落ち着きを取り戻しました。レミリアは魔女の背中をさすってやりながら語りかけました。
たまには外に出なよ。埃っぽい書斎にいたんじゃ治るものも治らない。
パチュリーが首を左右に振ったので真似をするようにレミリアも顎を動かします。
しょうがない魔女様だな。
パチュリーを抱え上げて寝室に運んでいこうとすると彼女は抵抗しました。真紅の瞳で睨みつけて大人しくさせます。痩せた身体を割れ物でも取り扱うように寝台に横たえたとき友人は云いました。
……レミィ。ごめんなさい。
いいよ別に。でも謝罪よりかはお礼の方が欲しいかな。
ありがとう。
うん。おやすみ。
――本の整理のことだけど。
なに。
私は居候。館の主はあなた。だから決定に従うわ。明日から始めましょう。
そういう云い方は嫌いなんだけど。分かってるだろ。
ええそうね。
身体が弱ってるからって卑屈になるなよ。ただでさえ陰気なんだから。
うるさい。
そうこなくちゃ。
……おやすみなさい。
ああ。
15 月夜で育まれる時間の話
次の日の夕食は前日を抜いていたこともあり豪勢になりました。フランベで上品に香りづけされた新鮮なステーキがメイン・ディッシュでした。レミリアの希望によりソースにはトマトをベースに甘く煮こまれた脳が隠し味に加えられておりコクが増していました。それをカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインと共にいただくのです。血や肉、内臓をケーシングしたブルート・ヴルストもまた美味でした。夜空は晴れ渡っていたのでバルコニーで食事をとることになり珍しくパチュリーも同席していました。
給仕を続けていた咲夜がレミリアに訊ねられてその日の出来事を報告しました。
例の天邪鬼が八雲の化け猫と?
はい。確かに。
天邪鬼が運んできた肉か。傑作だな。
お気に召しませんでしたか。
まさか。お前が最終的に味を確認して食卓に出してきたんだ。その時点で満足のいく出来映えなのは明らかだよ。
よく云うわねレミィ。パチュリーが本から顔を上げて云いました。しょっちゅう紅茶に怪しげな隠し味を入れられて酷い目に遭ってるくせに。
レミリアは笑いました。そういやそうだった。最近はそうした悪戯もなかったから忘れていたよ。たまにはドクダミでも混ぜたらどうだ咲夜。
……熟考しておきますわ。お嬢様。
それから食事は黙々と進みました。レミリアが話をしなければ咲夜もパチュリーも自分から口を開くことはありません。メイドは影に控えており魔女は本から顔を上げませんでした。
眼の冴えるような満月を見上げながらレミリアは云います。
咲夜。
はい。
レミリアは口を開きかけてから閉じました。
……悪い。忘れた。
そして話頭を変えました。
食べ終えたらまた呼ぶよ。それまで休んでいてくれ。
かしこまりました。
咲夜が去ったあとパチュリーが本を閉じました。
レミィ。さっきは何を云いかけたの。図書館のこと?
それも関係してる。
そう?
あとどれだけの間、屋敷の空間を維持できるのか。時を刻む能力に変調はないか。仕事のスケジューリングに無理が生じていないか。訊ねたいことなんてそれこそ砂粒みたいにたくさんある。
友人はうなずきました。咲夜の能力は唯一無二よ。空間をねじ曲げることは宇宙の法則に干渉すること。私がやっても膨大な時間をかけてようやくといったところね。――喪われる時が近づいているのなら少なくとも準備だけはしておかないと。そういうことでしょう?
ああ。でもね。レミリアはグラスを揺らしてワインを薫(くゆ)らせながらその液面をじっと見つめました。云わなくてもあいつはきちんと理解しているよ。完璧すぎるからね。私よりもずっとこの館のことを理解している。日々手入れし語らっているんだから。私たちが昨日なにを相談してたかってことまでお見通しだろう。だから野暮な質問は止めにしたんだ。時がきたら然るべきところに運命が導いてくれるとね。
パチュリーは黙って話に耳を傾けていました。レミリアは続けます。
最近考えるんだ。紅魔館が昔みたいにこじんまりとして古びた洋館に戻る日のことをね。そうなると大勢の人手もいらないから妖精メイドもホフゴブリンも今ほどの数はいらなくなる。そこには咲夜もいないわけだ。私はその時どう感じるのだろう。屋敷が狭くなったと想うのか。それとも逆に広くなったと憶えるのか。
魔女は何も語りませんでした。ただ本は栞を挟んで閉じられたままでその藤色の瞳はレミリアに向けられたままでした。レミリアが咲夜を呼んで食卓を片づけさせるまでパチュリーは読書に戻ることなく話を聴いていたのです。
夜も更けて山の端が白みはじめた頃になってレミリアは寝室に引き上げました。その隣にはレミリアに請われて付いてきたパチュリーの姿がありました。ワインの酒精で紅潮した頬の色合いは生来の白い肌も相まって化粧でもしているように鮮やかでした。レミリアが寝台に横になり魔女は枕元の椅子に座って読書を続けています。その様子を眺めていたレミリアはふと口を開きました。
……パチェ。
なに。
お前だけは変わってくれるなよ。
いきなりどうしたの。
何でもない。
そんな勿体ぶって引かれても。困るのは宙ぶらりんにされた私の方なんだけど。
辛辣だなぁ。
親愛なる魔女は話題を変えました。
こうして夜に連れ添うのもいつ以来かしら。
さあね。この世界に来てからはないかな。
多くが変わっていくわね。人間も。妖怪も。紅魔館も。
…………。
レミィ?
……今は何を読んでるんだ。
ドン・キホーテ。昨日のやり取りで懐かしくなって。
読み聞かせてくれないかな。昔みたいにさ。
途中からでいいかしら。
最初から頼むよ。
ええ……。
私が寝るまでの間だけでいいから。
しょうがないわねもう。
ありがとう。
今日のあなたは素直ね。
いいから読んでよ。
――パチュリーの痩せた繊細な指が物語の頁をたぐります……。
……それほど昔のことではない、その名は思い出せないが、ラ・マンチャ地方のある村に、…………。
レミリアが寝息を立て始めるとパチュリーは声の音量を徐々に小さくしてゆきそして唇を結びました。本を閉じて立ち上がり部屋をあとにしかけたときレミリアが何かを呟きました。それは寝言でした。パチュリーは振り返って寝台で横になっている永遠に幼い吸血鬼を見つめていました。溜めていた息を吐き出してから音を立てないように歩み寄っていき膝を折って姿勢を低めました。そして親友の額に短く口づけすると立ち上がり今度は止まることなくドアを閉めて出ていきました。窓のないはずの館の廊下にも秋の訪れを奏でる鈴虫の音が確かに漂っておりそれは旧い時代から変わることなくこの土地で育まれてきた歴史の証明であり軌跡でもあったのです。
かつて少女だったあなたの物語 4
16 神亀の始まりと幻想の再興の話
七通目の不採用通知を受け取ったときには夏も終わりを迎えていた。菫子は寝間着姿のまま合成皮革の安物ソファに寝そべってぼうっと過ごしていた。薬を切らしており病院に通うのも止めていたがドレミー印の枕のおかげか睡眠はとれていた。テレビが見たくなってリモコンで電源を入れた。ちょうど改元のニュースをやっていた。新しい元号が発表されたのだ。それは神亀といった。菫子は眼鏡の奥から神亀という二文字のテロップをぼんやりと見ていた。
語るべき物語は全て語り終えましたね。
本棚の前に立っていたドレミーは振り返ってそう云った。
最近はしっかり安眠できていらっしゃるようで何よりですよ。
その代わり現実の生活に支障が出てきたわ。面接の時間を寝過ごすなんてもうこの先生きのこれるかどうか自信がなくなってきた。
ですが思い出してください。あなたは昔も寝ぼすけでした。あの世界へと短い旅行に出かけるため授業中だろうとお構いなしに。
勉強さえできればやり過ごせる学校とは違うわよ。社会人だもの。今は無職だけど。菫子は周囲を見渡した。……それで、今夜はどこに。
あなたはこの場所を好くご存じのはずです。
ドレミーは両腕を広げた。そこは竹林だった。秋の夜風に吹かれてこすれた葉がひぐらしの鳴き声のように涼しい音を立てていた。
菫子はうなずいた。ええ。覚えてる。覚えてるはずなんだけど。
ならば踏み出すことです。私から差し上げられる夢はこれで最期になります。あなたは忘れていた想い出を取り返す。そしてもう一人の自分を取り戻すことです。
質問いいかしら。
なんでしょう。
昨日の物語のことよ。結末で得られたものは大きかったかもしれない。でもそれは過去に喪ってしまったもの、あるいはこれから喪うものの大きさに果たして釣り合うものなのかな。
それは受け取るあなた次第という答えでは拙(つたな)いですか。
ええ。
ドレミーが深呼吸して続ける。この世界で老いていくということは同時に変化を続けるということでもあります。新しいものを得るたびにあなたは何かを喪くしていきます。避けられない喪失を経てもなお変わらないものを抱きしめて回転を続けるたったひとつの世界。かけがえのない理想郷。その美しさと残酷さを知ったでしょう。あなたが忘れ去ってしまってからも確かにそこは存在を続けてきました。身体の成熟と共に心から喪われてしまった幻想の欠片。それは夢の結晶そのものです。誰でも決して喪ってしまってはならないものをひとつは持っているものです。たとえどれだけ時が移ろうとも。あなたはまさにその大切なものを忘れてしまっていました。物語の人物たちとあなたの決定的な違いはそこなのです。
菫子は顔を伏せた。……じゃあどうすればいいのよ。
今度はあなたの番ですよ。ドレミーは云った。あなた自身の物語を紡ぎなさい。
獏は菫子の背中を優しい力で押した。菫子は歩き始めた。ゼラチンで出来た薄い膜をくぐり抜けるような感触と共に竹林の湿気に満ちた匂いや肌寒い外気、鈴虫の音といった情報が頭に流れこんできた。菫子が振り返ったときには膜は閉じかけていた。ドレミーがその向こうで小さく手を挙げた。
夢の世界が閉ざされてしまうと菫子は独りぼっちになった。それでも不思議と気持ちは落ち着いていた。今ではそこが何処なのか痛いほど分かっていたからだった。菫子は両手を重ねて胸に引き寄せた。そして竹林の奥へと歩み出した。
あなたが紡いでゆく物語
17 永遠に変わることのない尺度の話
道順はまるで毎日通い詰めてきたかのように覚えていた。目線の高さが上がっただけ。こちらからは数えるほどしか訪れたことがないはずなのに足は勝手に動いてくれる。陽の光を遮るほどに成長しきった竹の群れ。その一本一本の感触を指先が覚えているような気がした。落ち葉を踏みしめる音さえも。
目的の荒ばら家に辿り着いたが彼女はいなかった。燃え尽きた囲炉裏の炭の微かな匂いが家の外に漏れていた。軒先には干し柿が連なって吊されている。数世紀の間そのまま置き去られてきたかのように景色に馴染んでおり菫子はそのうちのひとつを手に取って皺だらけの果肉を見つめていた。
竹で作られたお手製のベンチに座って待っていると藪をかき分ける音が聞こえてきた。菫子は立ち上がって胸に手を引き寄せたまま前に踏み出した。彼女は荒ばら屋の前で佇んでいる菫子に眼を留めた。他に何の反応も示さなかった。菫子とすれ違ってから手に持っていた山刀をベンチの上に放り出し筍でいっぱいになった籠を地面に降ろした。そして両手を組み合わせてぐっと伸びをした。菫子が何か云おうと口を開きかけたとき彼女は云ったのだ。
よう。今日は何しにきたんだ。藤原妹紅は振り返ることさえせずに淡々とそう述べた。けっこう久しぶりじゃないか。学校の調子はどうだ。前に会ったときは進路について悩んでたな。――お前の道は、決まったのか。
菫子の口からふっという笑い声が漏れた。だがそれは厳密には笑いではなかった。嗚咽だった。菫子は妹紅に飛びつくことも笑い飛ばすこともできずにただ立っていた。
なんだ。どうした。妹紅がようやく振り返ってくれた。泣いてるのか菫子。
……ばか。ほんとぜんぜん変わってない。
あ?
変わってなさすぎて泣けてきたのよ。
というか。大きくなったなお前。私より頭ひとつでかいじゃないか。なんか変なものでも食ったのか。魔理沙の妙な茸とか――。そこまで云ってから彼女も口をつぐんだ。……そっか。そうだよな。
蓬莱人は記憶通りの姿だった。地面まで届きそうなほどに長い白髪をリボンでまとめて。札を貼った紅い袴をサスペンダーで吊し。女の子とは思えないようなルーズなシャツの着こなしに。焔の色を宿した瞳。そのシニカルな輝きに至るまで。
妹紅は声の調子を落とした。で、何年ぶりだ。
十年だよ馬鹿。
もうそんな経ってたのか。ほんの一か月かそこらくらいかと。
あんたの時間感覚ほんとどうなってんのよ。
これがあるから怖いんだよな。妹紅は云った。……まあ、なんて云うかな。おかえりでいいのか。
うん。ただいま。
菫子は泣きながら笑った。そのとき身体の痺れも消え去った。妹紅は飛び跳ねるように抱きついてくる菫子の体重を支えきれずに背中から地面に倒れた。
18 囲炉裏の談話と約束の話
妹紅は温かい食事を出してくれた。ご飯も煮物も汁物も筍づくしだった。そこに茸や山菜に漬物、猪の肉などが加わった。菫子は箸を動かしてひと口ひと口を丁寧に食べた。汁物には自家製の味噌が使われておりエリンギの欠片が入っていた。煮こまれた猪肉はほぐされて柔らかくなっており山椒のおかげで臭みもとれていた。脂身は煮物の汁にコクを与えていた。漬物は里の人びとからお裾分けしてもらったという茄子と胡瓜の浅漬けだった。菫子はご飯をお代わりした。そして供された献立のすべてを平らげた。欠けた茶碗の底についたご飯粒。最後のひと粒にいたるまで。
妹紅は胡座をかきながら膝に頬杖を立てた姿勢で云った。なんだ。小食かと思ってたらよく食べるじゃないか。
こんなに食べたのは久しぶりよ。本当にそうなの。緑茶をすすりながら菫子は答える。……なんか変だよね。現実よりも夢のなかでの方が食が進むなんて。
妹紅は黙ってデザートの干し柿を差し出してくれた。菫子は喜んで受け取った。渋い緑茶に甘みの増した柿の味わい。思わず背筋が丸まるような素朴な甘美。
……美味しい。
好かった。二つ目いるか。
ありがとう。でもお腹いっぱい。
妹紅は頬杖をついたまま菫子を見続けていた。
なに。ご飯粒ついてる?
いやほんと大きくなったなと思ってさ。
菫子は顔を傾げた。あまり嬉しくなさそうな顔ね。
私の見知った人間はもう誰も弾幕ごっこをしないんだ。じゃあ妖怪は? 奴らも同じさ。進んで付き合ってくれないんだな。それよりも花札だの麻雀だのやろうとか抜かしてくる奴もいる。今の里は人間に化けた妖怪であふれてる。それで何をするかって。食べ歩きに玉突き、あとは酒盛りだな。
ずいぶん仲好くなったものね。
悪いことばかりじゃない。新しいものもたくさん入ってきてるから退屈はしない。ただ前のようなのどかな活気は永遠に喪われちまったのさ。今の状態を健全じゃないという奴もいる。でも私には何が健全なのかも好く分からん。時が移れば前の世代はかならず新しい世代のことをけしからんと罵る。私はそういうのをあまりに繰り返し見過ぎたせいで感覚が鈍ってるんだ。気持ちがくさくさしてくるから最近は里にもあまり顔を出してない。道案内は変わらず続けているけどね。
妹紅は酒も吞んでいないのに饒舌に話した。菫子は姿勢を直した。湯呑みを置いてから眼鏡を外して蓬莱人の少女に向き合った。
あんたはずっとそうやって暮らしてきたの?
ずっとそんな感じだな。だからいつもならその場所を見棄てて新しい土地に棲み着く。新しい人びとと出逢いはするがやがてその人たちも老いていく。気持ちに棘が生えてくればまたひっそりと旅立つ。その繰り返しさ。でも今回ばかりはどうかな。幻想郷以外に私が暮らせる場所がこの世界にあるのか。
菫子は唾を呑みこんだ。……少しの間、うちに来る?
いや。止めとくよ。妹紅は即答した。外の世界。コンクリート・ジャングルか。あのきらめきは確かに魅力的さ。観光するだけなら悪くない。でも私はあそこでは暮らしていけそうにない。
分かった。菫子は眼を伏せた。ごめんなさい。でもまた遊びにきてよ。
ああ。もちろん。
それから二人は無言になった。妹紅は火箸を伸ばして囲炉裏の炭をかき回した。火花が散った。それを合図に菫子は呟くように云った。……好かったら腹ごなしを兼ねて、さ。久しぶりにやってみる?
妹紅は顔を上げた。お前はもう大人だろう。
大人だから何よ。私は本気よ。今なら超能力も使えるし。
――今なら?
菫子は超能力を使えなくなった経緯を簡単に説明した。
お前もだいぶ世知辛さに揉まれたみたいだな。妹紅は立ち上がった。分かった。気分転換だ。やろう。手加減してやるよ。
菫子もうなずいて席を立った。
結果は菫子の圧勝に終わった。菫子が最初のカードを切るとそれだけで周囲の竹林がなぎ倒され妹紅は地に倒れ伏していた。菫子は自分の手のひらを呆然と見つめてから慌てて地面に降りたって蓬莱人を介抱した。苦笑いを浮かべながら妹紅は云った。……避けようがない攻撃は反則だろ。私じゃなかったら死んでたぞ。
ごめん。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。
ブランクがあるどころかむしろ俄然威力が増してるじゃないか。本当に向こうじゃ使えないのか。
本当よ。
そうか。妹紅は立ち上がって続ける。眠れる獅子よろしく奥に引っこんでただけなのかな。永く生きてきた妖怪は力を蓄えるもんだ。それと同じ理屈がお前にも起こっているのかもしれないな。――とにかく制御できないなら迂闊に使わないほうがいい。今日はもう止めよう。
…………。
そんな顔するなよ。妹紅は菫子の手を握った。びっくりはしたがおかげで久々に生きてるって実感を得られたしな。
外は暗くなり始めていた。気の早い夜の虫が鳴いていた。妹紅は送っていくよと提案してくれた。二人は倒壊を免れた荒ばら屋を離れて歩き始めた。無言の時間が続いたが元いた広場が見え始めると菫子は口を開いた。
今日は本当にありがとね。妹紅。
しおらしいな。
今だから云えるけどここに辿り着くまであなたのことを忘れてたの。
おいおい酷いな。
違うの。菫子は手を振って言葉をつっかえさせながら説明した。私は夢の私と別れてしまったの。自分から引き裂いてしまって。それで大切なものを何もかも忘れてしまっていたの。この世界の想い出も。妹紅と交わした言葉も。
今ひとつピンとこないな。
それでも好いの。やっと思い出せたんだから。
広場で立ち止まると妹紅は云った。さ。ここでお別れだ。心配するな。思い出せたってことはまた来られるんだろ。
たぶん。
今度は二十年後とか勘弁してくれよ。
努力するわ。
あ。ちょっと待ってな。
妹紅は手のひらに小さな焔を浮かべて菫子の手に近づけようとした。
ちょっと何。
火傷しない。信じろ。
菫子はおそるおそる手を差し出した。妹紅と握手すると灯の温もりが直接身体に流れこんできた。身体中を熱い液体が駆け巡った。ドレミーと額をくっつけたときと同じように。二人は眼を閉じていた。虫の演奏も。風のそよぎも。音という音が遠ざかり竹の葉に遮られているはずの夕陽の温もりだけを肌に感じた。
……これが何かの足しになるかは分からんが。手を離して妹紅は囁いた。お前が戻ってくる手がかりになれば嬉しい。あるいはこれからも生きていくための力に。
菫子は目尻を拭って答える。妹紅は最高の案内人だよ。
竹林のか。
ううん。ぜんぶ。この場所も。この世界も。私の人生についても。
大げさだな。
ぜんぜん誇張じゃないの。本当に。
嬉しいのか重いのかよく分からない。変な気持ちになるな。
うん。重いよね。それは自覚してる。
でもお前の気持ちは分かった。受け取っておくよ。ありがとう。
菫子は妹紅から一歩離れた。前と同じように空間に裂け目が生まれ夢の世界と連結された。向こうでドレミーが手を振っているのが見えた。菫子は振り返した。そして妹紅と改めて向き合った。
……じゃあ、帰るね。
ああ。
さよなら。
また来いよ。
うん。かならず。
元気でな。菫子。
妹紅もね。
私のことは心配するな。
不死だもんね。
あまり待たせるなよ。
分かってるよ。
元気でな。
うん。
達者でいろよ。
そんな何回も云わないでよ。分かってるから。
……元気でな。
ねえ。帰りづらくなるよ。
どうか。元気で。
妹紅は自分から背中を向けて歩いていった。菫子は手を差しのばした。涙が頬を流れ伝うのを感じた。空間の裂け目が閉じた。ドレミーがそばに舞い降りて背中をさすってくれた。菫子は眼鏡を外して泣き続けた。菫子の気持ちに合わせて夢の世界はさまざまに表情を変えてゆきすべての風景、すべての想い出、あるいはすべての物語を乗せて過ぎ去っていった。家族と旅行に出かけた避暑地のログハウス。退屈と刺激にあふれた高校の教室。幻想郷の田園と迷いの竹林、そして彼女の背中。あるいは……。
菫子はドレミーに促されて振り返った。そこには自分がいた。高校の制服を着たもう一人の菫子だった。彼女は教室の椅子から立ち上がってゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。菫子もドレミーに背中を押されて歩を進めた。二人は両の手のひらを合わせた。遅い、と彼女は云う。ごめん、と菫子は答える。ドレミーがうなずく。見つけられましたね。
うん。菫子は答える。やっと見つけたよ。
エピローグ
19 月明かりの往く先で
幻想郷にふたたび夜が訪れた。残暑の潮も引いてゆき季節は秋に移る。暑い夏は終わりを告げた。涼風の吹き抜ける過ごしやすい夜だった。里に灯された明かりがひとつひとつ消えてゆき喧噪に成り代わって静寂が通りを支配する。
夢の世界ではドレミー・スイートが愛用の本を開いて時が来るのを待っていた。火に誘われる虫のように夢魂が獏の周りに集まっていき自らの雫をページにぽたりぽたりと落としていった。染みが形を変えて文字になり寄り集まって文章になりやがては数々のストーリィが綴られる。ドレミーは微笑みを浮かべて物語の続きを声に出して読んだ。
秦こころは時ならぬ電話の音に目を覚ました。眼をこすって起き上がり電話の音をぼんやりと聴いていた。それからはっとして布団をはね除け狐の面を頭にかけて黒電話に飛びついた。もしもしこころですが。
受話器は沈黙を貫いた。
もしもし。こころは叫ぶように云った。こちらはこころですがっ。
無言。
おい。こいしだろ。いるんだろ。そこに。
玄関の磨りガラスがガタガタと音を立てた。こころは受話器を放り出してそちらへ突進した。廊下に出たとき足が滑って転び頭をしたたかに打った。姥の面を被って患部をさすりながら玄関の引き戸を開けた。
外には誰もいなかった。静かな夜だった。地面に黒っぽいものが落ちていた。こころは拾い上げて検めた。それは帽子だった。こいし、という囁きが口から漏れた。帽子を胸に抱き寄せたままこころはしばらく佇んでいた。それからふっと息を吐いて玄関の戸締まりを済ませると寝床に戻った。
摩多羅隠岐奈は読み終えた手紙を二童子に渡して椅子に身を沈めた。舞と顔を突き合わせて手紙を読んでいた里乃がふと視線を上げる。お師匠様、返事はお書きにならないのですか。隠岐奈は笑って手を振った。明日にでも書くよ。今夜はもう遅いしね。
舞も顔を上げて云う。すぐに返信を請うと冒頭にも末尾にも書いてますけど。ご丁寧にアンダーラインまで。
だからこそ今は書かないのさ。
二童子は顔を見合わせてからまたこちらに戻した。
隠岐奈は云った。その方があいつもやきもきするだろう。紫の苛立つ顔を想像してみろ。ご飯三杯はいけるぞ。
カチコミでもかけられたらどうするんですか。
いくらスキマ妖怪でも最低限のマナーは心得ている。人の領域に許可もなく入っちゃこないさ。さあ。お前たち。もう寝なさい。
舞が欠伸まじりに答える。はぁい。お師匠様。
里乃が肘でたしなめてから後を継ぐ。本日のお勤めを仕舞いとさせていただきます。
うん。ご苦労様。
二人が自室に引き上げてしまうと隠岐奈は再び手紙を読んだ。やがていつしかうたた寝を始めてしまった。怒髪天を何とやらした紫が彼女の前に降り立つのはまもなくのことだった。
重機が玉兎の死体の山をまとめてクレーターに放りこんでしまうと気化燃料が散布され火がつけられた。肉が焼かれて濛々とした煙が火山噴火の前兆のように穴から立ち昇った。不可逆の科学変化を経て黒く染まっていく遺骸。その無言の声を穴の淵に立って綿月依姫は聴いていた。
屋敷に戻ると開口一番に豊姫が云った。
委員会は勝利宣言を発したわ。
依姫は曖昧にうなずいた。……つまり、この狂気の沙汰もようやく終わりを迎えるわけですね。
闘争はこれからが正念場だと息巻いていたけどね。
ソファの隣に座って依姫は組み合わせた指を見つめた。
私たちは決定的に誤った歴史を歩みました。
ええ。
どうすれば埋め合わせができるのか想像もつきません。
豊姫は妹の肩に手を置いた。今は休みなさい。
何か。
なに。
何か気を紛らわせる話はありませんか。
それならぴったりの物語があるわ。
千夜一夜ですか。
ええ。
好いですね。
豊姫は朗読を始めた。バグダッドの物語を。依姫も疲れには逆らえずやがて眠りに落ちた。豊姫は妹の頭をなでた。そして丸窓を通して遙か三八万キロメートルの彼方に浮かぶ青い星を眺めた。
月が綺麗だな。
停車した軽トラの車体に寄りかかりながら鬼人正邪は云った。煙草の煙を吐き出してから車の灰皿に押しつけて火を消した。そしてロープで車を引っ張っている橙に顔を向けた。
おい夜になったぞ。もう諦めたらどうだ。
あんたも手伝いなさいよ!
お前の前方不注意が原因だろ。大人しくご主人様に報告したらどうだ。
嫌よ。藍様に頼ったら意味ないもの。
なんでそんな必死なんだよ。
あんたには分かりっこない。
分かりたくもないね。それと今度からは四駆を使うこったな。
黙んなさいよ。
トラックを泥濘から救いだそうと奮闘して尻尾を緊張させている猫の姿を見ながら正邪は溜め息をついた。そして車のドアを開けてダッシュボードの奥からマタタビを取り出すと橙の鼻先に差し出した。不意打ちを喰らった化け猫はひとたまりもなくくたびれてしまった。正邪は彼女の身体が冷えないように運転席に引っ張りこむとすり切れた毛布をかけてやった。彼女はしくしくと泣き始めた。正邪は新しい煙草を吸ってから云った。
……私たちは永遠に分かり合えないな。
それからいくつかたとえ話をしたが化け猫は聞いていなかった。すでに眠っていたからだ。正邪は前に向き直った。月に吐きかけるように煙草の煙を口から出した。そしてシートにもたれると腕を組んで眼を閉じた。
旧都ではひと足先に今年初めての雪が降った。まだ秋口なのに気の早いことねと水橋パルスィが呟くと隣を歩く星熊勇儀は笑った。どいつも待ちきれないんだろ。雪も紅葉も大事な酒の肴だ。紅葉が拝めん以上は雪を降らすしかあるまいさ。
どう。久しぶりの旧都は。パルスィが訊ねる。地上かぶれには退屈?
手厳しいね。――まあ見慣れてはいても見飽きることはないさ。それがホームというもんだ。
ハイカラな言葉を遣っちゃってまぁ。
そう拗ねるなよ。路銀も尽きたし今しばらくはこっちで稼ぐさ。
目的の店に入るとヤマメとキスメが杯を掲げた。やあ星熊の大将、とヤマメは赤らんだ顔で云った。悪いね先に始めちゃってて。
いいよいいよ。こいつを連れ出すのに手間取っちまった。
お洒落する時間くらい頂戴よもう。
なんだそれ。見せる相手がいるのか。
パルスィは勇儀を睨んだ。この馬鹿力のアンポンタン。
ひどい云い草だなぁ。
ヤマメとキスメが顔を見合わせて笑った。
宴もたけなわになり久々に酒を吞んだパルスィはあっけなく酔いつぶれた。勇儀の肩にもたれかかってしまったが彼女はびくともせずに橋姫の体重を受け止める。やがて水を飲まされているうちに寝息を立て始めたパルスィの肩を勇儀はぽんぽんと叩いた。まったくこいつは、と呟きを漏らした。その続きの言葉は浮かんでこなかった。勇儀は酒の替えを注文した。不要な言葉を酒精と共に飲み下した。
お嬢様。十六夜咲夜が報告する。準備整いました。
ご苦労様。
大図書館に入るとレミリア・スカーレットは魔方陣のなかにうずたかく積まれた本の葬列を見渡した。外の世界のメトロポリスのように屹立する本のビルディング。ページの一枚一枚がビルの窓となり世界中のさまざまな物語の表情を垣間見せる。怒りも悲しみも。喜びも寂しさも含めて。
レミリアの姿を認めるとパチュリー・ノーレッジが首を動かした。レミリアもうなずきを返した。始めよう。座標に問題ないわねパチェ。少女は答える。ええ。
うちの魔女様に誤りはない。これまでもこれからもね。
レミィ。血を借りるわよ。
吸血鬼の血なんて金輪際お目にかかれんぞ。大事に使ってくれよ。
もちろん。
咲夜がナイフを差し出した。それは銀製だった。レミリアは顔を上げた。
分かってやってるだろ咲夜。
ええ。メイドは微笑んだ。おふざけをお望みのようでしたから。
上出来すぎて頭がくらくらしてくるよ。それを引っこめてくれ。
かしこまりました。
鉄のナイフで手のひらを傷つけ一滴もこぼさないようガラス管に注いだ。そして咲夜が用意した清潔なハンカチで患部を覆いガラス管を魔女に渡した。
ありがとうレミィ。
あとは頼むよ。
転送が終了し本のジャングルが消え失せてしまうとパチュリーの身体がふらついた。レミリアはすぐに歩み寄って背中を支えた。――パチェ。お疲れ様。
すこし疲れたわ。パチュリーはがらんとしてしまった自慢の図書館に眼を向けた。本当に疲れた。
夜も遅いな。咲夜も休んでちょうだい。パチェは私に任せて。
メイドは服のすそを両手でつまんで片足を下げ深々と一礼した。
ありがとうございます。お嬢様。パチュリー様。
魔女を寝台に横たえるとレミリアは傍の椅子に腰かけた。パチュリーは咳をしながらも笑みを浮かべてみせた。だがレミリアは上手く表情を繕えなかった。
パチュリーは云う。咲夜、何も語らなかったわね。
お礼を聴いただろ。充分に伝わったよ。あいつは分かってくれている。多くを語らないだけさ。私たちの間には必要ない言葉だ。
ええそうね。
今日はお疲れ様。また明日からゆっくり。元のように本を収める方法を考えよう。
レミリアは椅子から立ち上がりかけた。その手首をパチュリーがつかんだ。魔女の薬指がレミリアの手のひらの傷痕をなぞった。レミリアは座り直した。何かを云おうとして口を開いては閉じた。親友が再び微笑んだのでレミリアもようやく笑みを浮かべることができた。月明かりがパチュリーの横顔を照らしておりレミリアはその穏やかな表情を見つめ返していた。魔女が寝息を立て始めてからも永遠に幼い吸血鬼はその場を動かなかった。
藤原妹紅は眼を覚ました。囲炉裏の熾火が最初に視界へ入った。次に映ったのは月明かりに照らされた影だった。大人の女性の影。宇佐見菫子が引き戸に手をかけたまま佇んでいた。妹紅は三角座りの姿勢からいつもの胡座になった。
やあ。こんな夜更けにどうした。客として来るには非常識な時間だ。
仕方ないでしょ。菫子は笑った。社会人が真っ昼間に寝るわけにもいかないもの。
そうか。疲れてるなら弾幕もできないな。
大人の付き合いでもしましょうよ。
なんだそりゃ。
菫子は缶チューハイやつまみの入ったレジ袋を掲げた。
…………それで向こうに戻ってからね。梅酒を吞みながら菫子は饒舌に喋った。コップを動かしてみようと力を使ったのよ。そしたら見事に粉々になっちゃってさ。後片付けが大変だったわ。
お前の力は外の世界の在り方そのものを変えかねないな。気をつけて使えよ。
分かってるって。
妹紅は赤らんだ菫子の顔、その朗らかな表情を見つめた。そして不意に顔を伏せた。どうしたの、と彼女が訊ねてきたので首を振った。
些細な話さ。
何さ。云ってみてよ。
ただ、お前が元気になってくれて本当に好かったと思っただけだ。それだけだよ。
菫子はトマトのように真っ赤になった。……ああ。はは。そうね。あんたがそんな素直に云ってくれるなんて思ってなかったよ。
まあ無理はするなよ。
無茶をして怪我してばっかの妹紅には云われたくないなぁ。
妹紅は右手で頭をかいた。菫子は微笑むと四つん這いになって囲炉裏の反対側に回りこみ妹紅の肩に腕をもたせかけた。妹紅は顔だけを彼女に向けた。
おい重いんだけど。
いいじゃない。甘えさせてよ。
どっちが大人なんだか分からんなこれじゃ。
そうよ。妹紅は私にとってはお姉さんなの。同時に妹でもあるの。お母さんでもあるしもしかしたらお婆ちゃんでもあるかもね。
酔いすぎだぞお前。
仕事で疲れてるんだもん。菫子の声は徐々に小さくなった。ここは居心地がいいね。涼しくて。食事は美味しくて。何より静かで。
冬は厳しくなるけどな。
雪かきなら手伝うよ。私の力なら積もった雪なんてそれこそひと思いに……。
彼女の声は囁くように低まった。
ねえ。妹紅。
なんだ。
ずっとそのままでいてね。
見方によっては残酷だぞ。その願いは。
うん。身勝手なのは分かってる。云ってみただけ。
…………。
妹紅は肩から垂れ下がった菫子の手を握った。優しく熱を送りこむと彼女はううんと呻いてあごを肩に乗せてきた。やがて寝息を立て始めた。
おい。まだ返事してないぞ。菫子。
彼女は答えなかった。まったく、と妹紅は嘆息した。こっちでも寝てしまったらお前はどこに行くんだよ。それでも引き離すことはせずそのままの姿勢でいた。どんな体勢でも寝られるように身体を慣らしてきたのは正解だった。妹紅もまた意識の領域をひとつひとつ手放していった。格子窓から差す月明かりは刻々と角度を変えてゆき寄り添って眠る二人の身体に柔らかいグラデーションを描いていった。
新たな物語を読み終えてドレミーは本を閉じた。ごちそうさまでしたと言葉を結んでログハウスの椅子から立ち上がり外に出た。雲のない空では太陽の光が平等に降り注ぐのと同じように月光もまた幻想郷のすべての人びとに与えられた。夜は更けてゆき夢魂の数もまた増えていった。それらのひとつひとつが物語を綴ってゆきドレミーの無限であり夢幻の図書館に人生の更新を静かに謳い上げていく。ドレミーは銀色に輝く花が咲き乱れた丘陵をゆっくりと登っていった。蛍のように群れている夢魂に指先で触れてはおやすみなさいと声をかけるのだ。みなさん。おやすみなさい。今日もお疲れ様でした、と。
(引用元)
Sherwood Anderson:Winesburg, Ohio, B.W.Huebsch, 1919.
小島信夫・浜本武雄 訳(邦題『ワインズバーグ・オハイオ』),講談社文芸文庫,一九九七年。
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The Forgotten Colors, and Country Roads
今日、この四月の朝のひととき、彼はもう一度そこへ行ってみたい、もう一度その静寂のなかを歩いてみたいと思った。その思い通りに、町から二マイルはなれたところで、小川のそばで道が下り坂になっている場所まで、彼は歩いていった。そして、そこからまた黙々と、もと来た道を引き返してきた。メイン・ストリートまで来たとき、店の前を掃いている店員たちの姿が見えた。「おい、ジョージ。故郷を出て行くのは、どんな気分だい?」みんな、そういってたずねた。
――シャーウッド・アンダソン『ワインズバーグ・オハイオ』より。
※物語の一部に『秘封ナイトメアダイアリー』のネタバレを含みます。ご注意ください。
Table of Contents
かつて少女だったあなたの物語 1 (宇佐見菫子,ドレミー・スイート)
付喪神とさとり妖怪の物語 (秦こころ,古明地こいし)
幻想郷の賢者たちの物語 (八雲紫,摩多羅隠岐奈)
かつて少女だったあなたの物語 2
月の姉妹の物語 (綿月豊姫,綿月依姫)
化け猫と天邪鬼の物語 (橙,鬼人正邪)
かつて少女だったあなたの物語 3
旧都の鬼と橋姫の物語 (星熊勇儀,水橋パルスィ)
吸血鬼と魔法使いの物語 (レミリア・スカーレット,パチュリー・ノーレッジ)
かつて少女だったあなたの物語 4
あなたが紡いでゆく物語 (宇佐見菫子,藤原妹紅)
エピローグ
かつて少女だったあなたの物語 1
01 一缶の梅酒と午睡の話
快速列車から降りたあなたは切符を通して改札を抜け構内に設置されたコンビニエンス・ストアに入る。キャラメル・マキアートやハムとレタスのサンドイッチを買い求めてレジに行こうとしたときお酒のコーナーが眼に留まる。梅酒のチューハイを手に取り会計を済ませ右手にレジ袋をさげて店から出る。
その年の猛暑はあなたの部屋を天然のサウナに変えている。洗う時間がないままベッドに放り出されている寝間着から酸っぱい匂いが立ちのぼっている。あなたは窓辺に飾ってある古ぼけた水晶の髑髏に眼を留める。それから溜め息をついてレジ袋をテーブルに置きスーツを脱いで下着姿になる。エアコンがようやく効き始めたところで簡単な食事を済ませ梅酒缶のプルタブを開ける。
酒を飲みながらあなたは小説を読んでいたがそれはあなたが高校生の時分に繰り返し読んでいたJ・D・サリンジャーの『フラニーとズーイ』。ズーイが浴槽に浸かりながら兄・バディーからの手紙を読んでいる場面だ。あなたは眉間に指をあてて眼鏡を外し目薬をさしたがそれでも物語に集中することができない。やがて本に栞を挟んで部屋の照明を消すとパソコンのスイッチを入れる。そしてブックマークしたサイトの巡回を始める。暗い部屋のなかでパソコンから放たれる青白い光を見つめるあなたの瞳には絶望的なまでの倦怠感が浮かんでいる。そのような表情をあなたは十年前にも浮かべていたはずだ。覚えているだろうか?
やがて酒精がまわりあなたは人差し指で眼をこする。そしてベッドに横になる。最初は仰向けだったがすぐに寝返りをうって膝を丸め胎児のような恰好になる。そして枕を抱きしめて時間が過ぎ去るに任せる。午睡という甘美な潮の流れに意識を漂わせる。患いは消え去る。太陽の容赦ない熱線が水平線の向こうに遠ざかる。都会の喧騒さえも部屋の隅に押しやって。――そしてあなたは……。
そしてあなたは再び私の世界に足を踏み入れる。
02 夢見る朗読者の話
落ち着きましたか。
ドレミー・スイートが訊ねると宇佐見菫子はうなずいた。丸いテーブルにはカモミール・ティーが注がれたカップが置かれておりかすかな湯気が立ち昇っている。カップを両手で包みこむように持ちながら菫子は家の内装を眺め渡しほっと息をついた。ドレミーはカップを傾けてラベンダーの香りが染みた紅茶を口にした。そしてカップを置いて声をかけた。
あなたは小さいころ夏に家族旅行に出かけましたね。家族で泊まったのは吹き抜けの小綺麗なログハウス。避暑地である高原はエアコンなんて要らないくらいに涼しく乾いた風が吹いていて夜になっても蚊が姿を見せませんでした。その旅行であなたは初めてサリンジャーの物語を読み終えました。最後にフラニーが微笑みながらベッドに身を横たえる場面。覚えていますか。あなたは木椅子の背もたれに身体を預けて深い息を漏らしました。それは読後感を肺の奥深くまで味わうための吐息でした。太陽が届けてくれた優しい明かりが小川の水面を宝石のように輝かせていた。高原を吹き抜けるそよ風が本の頁をめくる音、――あなたは今でも覚えているはずです。
菫子は口を開いた。……ここは、あのときの?
そうです。細部は違っていますがね。
相変わらずだね、あなたは。
どういうことですか。
変なところで気が回る。
ドレミーは唇の端を上げた。覚えていてくださって幸いです。そして表情を元に戻して続けた。……あなたも、ずいぶん大きくなりましたね。今になって私に会いにきたのはなぜでしょう。あちらの世界で目覚めなくなってからずいぶん経ちますね。
菫子はうなずいた。私にも分からないの。最初に違和感を覚えたのは大学受験のときだった。やろうと思えばずっとあっちの世界にいられそうなくらいにどっぷり浸かっていたのに。なのに急に夢を視る時間が短くなってね。それでもしばらくはやり過ごせていた。大学生活は悪くなかったよ。でも現実が充実すればするほどに夢の密度は小さくなった。鉄のようにぎっしりしていたのにいつの間にか水蒸気みたいに指の隙間からすり抜けていってね。就職してからはもう夢を視なくなった。
ドレミーは眼を閉じて云った。――そして、あなたは不眠症になった。
菫子が再びうなずく。
病院にも行ったわ。原因は不明。心因性のものって曖昧な回答。それで薬をもらったよ。でも仕事はそれ以上は続けられなかった。あとはあんまり話したくない。話せるほどのこともないしね。しばらく身体を休めて。今は再就職のために暑いなかスーツを着て頑張ってる。それだけ。
気を悪くしないでいただきたいのですが。ドレミーは云った。私はあなたを直接あちらの世界に連れていくことはできません。あなたは幻想から締め出されたのです。平たく云えば、――あなたは普通の人間になってしまった。
普通。
あなたがあれほど毛嫌いしていた普通、です。
菫子はカップから手を離した。そして本棚に人差し指を向けて曲げ伸ばしした。本が抜き取られて部屋を横切り右手に収まった。紺色かつ無地の装丁でタイトルも記されていないその本をテーブルに置いて彼女は云った。
今だってこんなことができるのに。
それはここが夢の世界だからです。最近、現実の世界で能力を使ってみましたか。
菫子はうつむいた。……不思議だね。この家は幻なんでしょう。私の幼い記憶を基にした。なのにここにいるほうが現実のアパートで暮らしているよりもずっと生きてるって実感があるんだ。
あなたは忘れているだけです。夢は常に現実に従属するものではないのです。あなたが現実だと思っている世界こそ幻想の世界にとっての夢でもある。コインの裏表です。あなたは久々に還ってくることができた。切っ掛けは分かりませんが。とにかく事態は好い方向に進み始めたと云えるでしょう。
…………。
信じるか信じないかはお任せします。それよりも、とドレミーは云った。せっかく本を手に取られたのですから、ひとつ、物語など如何でしょうか。今のあちらの様子をお聞かせしましょう。ちょうど私も退屈していたところだったんです。
ドレミーは紺色の本を手に取り菫子の顔をじっと見つめた。眼鏡の奥の瞳は焦点が結ばれておらず砂漠の中心でさまよっているような印象を受けた。オアシスからオアシスへと旅を続ける巡礼者を思わせた。
ドレミーは本を開いた。手のひらで頁をさするような仕草をすると桜色の夢魂が浮かびあがって人の形をかたどり始めた。夢の欠片は髪を伸ばし衣服を形づくり顔のひとつひとつの器官を構成して菫子もよく知る少女たちの姿を映し出した。菫子は椅子の背もたれから身体を離して彼女たちを見つめた。ドレミーは微笑んで云った。私に、ズーイのようにあなたを癒すことができるだけの力があれば好いのですが。
夢の管理者は夢魂と共に語り始めた。
さあ、――長い航海に出かけましょう。
付喪神とさとり妖怪の物語
03 次なる幼年期の始まりの話
まだ雨季が続いていた時分のこと。こころの友人が突然ナメクジを飼おうと誘いかけてきました。こころはさとり妖怪の肩越しに虫かごのなかを覗きこんでさっと身を引きました。こいしが振り返って首を傾げてみせたのでこころは般若の面を掲げて声を荒げます。
おいなんだそれ。どこで拾ってきたんだ。
地底だよ。
地底のどこだ。
旧都ができるよりもずっと前からある遺構だよ。たぶん私しか知らないんじゃないかな。そこの地下室にあったの。
そっちには宝石で出来た虫がいるんだな。
ううん。綺麗だけど石じゃないよ。ぷよぷよしてるし。
真珠のように白く透き通った見た目をした巨大なナメクジたちは鉱石にへばりついて身をうごめかせていました。こころが虫かごに顔を近づけると一斉に触角をもたげて面(おもて)を上げてみせました。まるでこちらの視線に感づいたかのような動作でした。こころは無表情のまま舌を出しました。面は般若から猿に変わっていました。
見れば見るほど気持ち悪いし存在自体が何というか冒涜的だな。
こんなに可愛いのに。
悪いことは云わないから元の場所に戻してこいよ。こんなの白蓮に見られたらどうするんだ。
こころは寺の本堂を振り返りましたがお経は変わらない調子で続いていました。こいしは微笑みを浮かべながら周囲の様子にまったく気を払うことなく真珠ナメクジを熱心に見つめて云いました。
あのね。この子たちが云うにはこれはもしかしたら未来の私たちかもしれないの。
は?
お姉ちゃんは前に云ったわ。こんなに素晴らしい能力を棄ててしまうなんてあんたは分かってないって。でもおかげで気づけたこともたくさんあるのよ。たとえば私たちが生きていくのに感情なんて本当は必要ないんだって。
それは聞き捨てならないな。こころは答えます。感情がなくなったら私はどうなる。元の道具に戻ってしまうじゃないか。
もっと云うなら意識だって邪魔なのよ。
おい云って好いことと悪いことがあるぞ。
こころは付喪神である自分の身体を見下ろしてからまた顔を上げました。こいしはすでに虫かごを手に取って歩き始めていました。花に誘われる蝶のように足取りはふらふらしていて表情は上の空でした。こころは溜め息をつきます。
前から変な奴だと思ってたけど最近は輪をかけて意図が分からないな。
友人の背中に待てよと声をかけて肩に手を置きます。こいしは笑顔で振り返ってみせました。だが眼の焦点はこころを捉えていませんでした。しょうがない奴だなと笑ってやると彼女もえへへと髪の後ろに手をやりました。その手の輪郭はかすかに透けていました。彼女の肩に置いた手に力がこもります。こころは歩きながら呟きました。
別にお前のことを否定したいんじゃない。それでも云わせてほしい。
うん。
感情がないなら生きる喜びも味わえないってことだろ。
その代わり痛みもないのよ。
だったら我々は痛みの伴うほうを選ぶぞ。
こころならそう云うと思ってた。
だいたい意識をなくした先はどうなるんだ? そいつらはなんて云ってる?
みんないっしょになるんだって。
なんだそりゃあ。
云ったとおりの意味よ。みんなひとつになるの。だからこの子たちは幸福なのよ。たとえそうは見えなくても。
こころは押し黙ります。愛おしそうに真珠色のナメクジたちを見つめる友人の瞳は見たことがないほど輝いていました。最後にこいしがバイバイと手を振って飛翔したときこころは手を差し伸ばしていっしょに飛び立とうとしました。でもできませんでした。気づいたときには彼女は姿を消していたからです。こころは両手を口の横に添えて大声で叫びました。また電話するからなこいし。ちゃんと出るんだぞ、と。
04 未来に果てしなく続くかくれんぼの話
それから年月が経ちました。こころがいつものように博麗神社に降り立つと霊夢が箒の手を止めました。かつての巫女はこころよりも頭ひとつ身長が高くなっています。彼女はすでにあなたと同じような大人になっていました。こころは姥の面を頭に引っかけたまま口を開きました。
ねえ。霊夢。
巫女は黙って首を振りました。
そっか。
霊夢は爪で頬をかいてから逆に訊ねます。さとりには相談したの。実家にも帰ってないわけ?
そうみたいだ。旧都のみんなも同じだ。誰もこの半年こいしの姿を見ていないらしい。
まぁ来るべきときが来たのかしらね。
どういうことだ。
気を悪くしたならごめんなさいね。あいつはもともと妖怪の理から外れた存在。本分を失った妖怪が存在を保ち続けるのは幻想郷でも至難の業。初めて会ったときあんたの感情が暴走してただの道具に戻りかけたときみたいにね。むしろ今までこいしが消えずに踏み止まれていたことのほうが不思議なくらいだった。
私たちがあいつのことを覚えてやっていたからだ。
かもしれないわ。
霊夢、お前までこいしを忘れてしまうのか?
巫女は箒の柄に置いた自分の指先をじっと見つめながら云いました。もちろんできる限り覚えているつもりよ。私は妖怪退治屋だもの。御阿礼の子が不在の今、退治屋が記憶せずして誰が妖怪を語り伝えるというのよ。……あんたにはうちで興行してくれた借りもあるしね。
ありがとう。
こころはそう云い残して飛び立ち山の麓に降りると黙って農道を歩き始めました。夏も終わりを迎え夕暮れもまた早し。こころはさまようように覚束ない足取りで林の奥から聴こえてくるかなかなというヒグラシの鳴き声に耳を澄ませました。晩夏にしては涼しすぎる風が農道を渡り穂を実らせた水田の稲海を波立たせては過ぎ去ってゆきました。
かくれんぼのつもりなら降参するからさっさと出てこいよ、古明地こいし。
こころはそう呟きました。その声は誰にも聴き取られることのないまま空に消えていきました。それでもこころは誰もいない道を振り返ってはそこにいるんだろと声をかけることを毎日欠かさず続けていましたし読書の際には隣にいてくれるはずの彼女のためにかならず声に出して読んでやるのでした。空っぽの道をなんども振り返ることになっても諦めることなく彼女はかくれんぼの鬼の役を来る日も来る日も務め続けるのです。
幻想郷の賢者たちの物語
05 ある夜の打ち合わせの話
八雲紫は懐中時計を取り出して時刻を確かめたのち頬杖をついてグラスから水を飲みました。氷のこすれる音が人気の少ない店の天井に吸いこまれてゆきます。店の敷地から出てゆく車のヘッドライトが紫の横顔を一瞬だけ照らします。眼を閉じるスキマ妖怪。リズムをとるようにかかとで床を叩いてはふたたび懐中時計に眼を落として溜め息をつきます。
店の入り口から来客を告げるベルが鳴りました。いらっしゃいませと声をかけた店員が立ち止まって客をじっと見つめます。ああ待ち人がいるんだ。あの窓際の女性。うん。そう。注文はあとでいい。ありがとう。女性の声に店員はかしこまりましたと返事して店の奥に引っこみましたが紫の席からは店員たちが顔を突き合わせて話しているようすが窺えました。
ああ。遅くなったな。
そう云って声をかけてきたのは摩多羅隠岐奈。腐れ縁の賢者を横目で睨みつける紫。隠岐奈は微笑みを崩さず見つめ返します。沈黙。もうひとつの新しい溜め息。そして紫は口を開きます。
何その恰好。
ジャージだ。見れば分かるだろう。
なんですって。
打ち合わせ通り。とびっきりカジュアルな服装だよ。
逆に目立つわよ。
そうかな。
あとその子たちはなに。
隠岐奈は振り返ります。ここまで車いすを押してきた舞と里乃。忠実な二童子。主人と同じように笑顔を浮かべながら揃って頭を下げます。お久しぶりです。八雲様。声もぴったり揃っていました。
こいつらの他に私の介添役なんていないだろう。隠岐奈が答えます。それともお前が車椅子を押してくれるのか。
普通に立って歩けるでしょうに。
疲れるじゃないか。
隠岐奈はテーブルに着くとさっそくメニューに手を伸ばしました。その手首を紫がつかみます。
なんだ。
あなたこの集まりの目的を分かっていらして?
ああ。会食だろう。
二人で内密なご相談をと念を押したはずだけど。
なるほど二人きりか。お熱いね。
話をはぐらかさないで。
なんだ。カリカリして。お前らしくない。
隠岐奈は店員を呼ぶと注文を書き連ねたメモを渡します。やがて運ばれてきたのはフライドポテトにソーセージの盛り合わせ。それに二童子の分のハンバーグ・ステーキとライスのセット。スープ・バーもついていたので二人は喜んで席を立ち手をつなぎながらコーン・ポタージュを拝領しに向かいました。
隠岐奈はポテトをつまんで云います。お前たしかケチャップやマスタードはつけないんだったか。
覚えていてくださって光栄ですわ。
そうか。じゃあ私がぜんぶ使うぞ。
チーズ・フォンデュのようにケチャップをたっぷり付けてポテトを口に放りこむ隠岐奈。紫はそろそろ本題に入って好いかしらと声をかけると彼女は上の空でうなずきます。テーブルを人差し指でとんとんと叩きながら紫は話します。
この前あなた妖怪化しかけた里の人間を逃がしたでしょう。
証拠でもあるのか。
天狗の情報網からは抜け出す。私でも感知できない。冥界にも痕跡がない。死んでいないとしたら隠し通せるのはあなただけよ。
あの場所は正確には里の領域ではないだろう。だったら私がお手つきしても文句あるまい。
やっぱりあなたじゃないの。
仮定の話だよ。ただの肉として提供されるにはあまりに惜しい逸材がいたとする。博麗に頭を割らせるには忍びない逸品があったとする。だからこちらで与かる。待っているのは私にとっても当人にとっても幸福な未来。誰も不幸にはならない。実に効率的だ。
二童子がポタージュを注いだカップを手にして席に戻ってきました。スプーンでかきまぜてからお互いの口に運び感想を伝えあいます。とろとろに煮こまれたその味わい。私も頼もうかなと主人が呟くと舞が店員さんを呼びましょうかと気をきかせます。紫はグラスから水を飲みましたがその視線は絶えず後戸の賢者と二童子に注がれておりそれはこの三人の間に結ばれた奇妙な絆を鋸歯のように断ち切りそうなくらいに鋭くそして荒いものでした。
あなたは残酷ね。
お前にそれを云われるとはね。
隠岐奈がポテトに大量の塩を振りかけると紫は口を挟みます。
身体に悪いわよ。
お前の煙管と似たようなものだ。
紫が諦めて今の幻想郷について簡潔に話を始めましたがそれが終わるころには隠岐奈はポテトを食べ終えてソーセージの始末に移っていました。彼女は肉を咀嚼して飲みこんでから口を開きます。
今に始まったことじゃない。結界の管理はお前の管轄。人妖の整理は私の仕事。ハード面とソフト面。互いに干渉はしない。それが取り決めだろう。天秤の均衡が崩れているならば重りを追加すべきだとお前は云う。だが重りを取り除く選択肢も考えてみるべきだよ。
それはしないって約束じゃない。
だが現にあの世界は狭すぎる。リソースは限られてくる。なら取れる手段もそれだけ狭まるということだ。まぁ昔はもっと酷い状況だってあった。月に侵略したときは結果的に大量の間引きになったがね。あの頃のお前のやり方は今よりずっと切れ味が好かったぞ。
状況が違うわ。強引なやり方ではなく緩やかに変えていかなければ。二の舞はご免だもの。
ソーセージを食べ終えると隠岐奈は皿にフォークを置いて長い吐息を漏らしました。
……なぁ。私たちが顔を合わせたらかならず泥の投げつけ合いになるのは分かっていたことだろう。以前にも私は云ったぞ。文通にしようと。書簡の形でなら不毛な云い争いにもならないと。
それで要領を得ない長ったらしい手紙を送ってきたのはどこの誰。
紫だな。
あなたに決まってんでしょ。
二童子が顔を見合わせてくすくすと笑いました。漫才のようですねと舞が無邪気に云います。隠岐奈はうなずきます。そしてデザートの注文まで始めてしまったので終いには紫も笑みを漏らしてまったくもうと嘆息しました。
車椅子の背に身体を預ける隠岐奈。店員が注文をとりにやってくると紫に視線を向けて云います。
お前は珈琲ブラックだったな。でも食後は紅茶のほうが好いんだったか。
お願いだからその記憶力を別のことに使ってちょうだい。あと私まだ何も食べてない。
そうこなくちゃね。パスタにするか。それともドリアか。
……ハンバーグ・ステーキで。
よしきた。
また乗せられてしまったと紫は独り言を漏らして後戸の賢者を見返します。隠岐奈はあくまで肩の力を抜いてこの会合を楽しんでいるように見えました。車椅子に座った少女は探偵よろしく理知的な表情を取り繕いますが口を開けば本題から脱線した世間話ばかり。紫はいつの間にか調子を崩されてしまい談笑に引きずり込まれてしまいます。それが二人の常でした。デザートを食べ終えたとき隠岐奈の口の端にクリームが付いているのに紫は気づきました。しょうがない人ねと云いながらナプキンで拭ってやったとき隠岐奈は面目ないなと笑っていましたが紫もそのとき確かに微笑みを浮かべていたのです。
かつて少女だったあなたの物語 2
06 夢と現実に託する話
翌日の朝、菫子はベッドから起き上がって水をコップ一杯飲んだ。エアコンのタイマー設定を忘れており点けっぱなしだったため肌寒ささえ感じた。顔を洗って鏡に向き合うと眼の下のくまが多少はマシになっていた。少なくとも化粧でごまかしきれないほどではない。ほっと息をついてからふと思い出して指先をコップに向けた。コップは一ミリたりとも動かなかった。安堵の息はたちまち溜め息に変わった。
スーツに着替えて真夏の日差しのなかを徒歩で移動しふたたび電車に乗って企業説明会を受けた。それが終わったときにはすでに午後四時だった。コンビニで買ったカフェ・オレを飲みながら木陰に包まれたベンチで休息する。ベンチの塗装にまだら模様のアートを描きながら落ちる木漏れ日。噴水が奏でる水音。親子連れの談笑。昨日よりもどこか優しく響いてくるように思える車のエンジン音。ようやく和らぎ始めた暑さ。菫子はストローから唇を離してカフェ・オレを口のなかで転がしその甘味を堪能した。一日の義務は果たされて穏やかな午後を過ごしているはずだった。大人になってから。特に最近はこうした改まった風景のなかで静かに過ごしていると訳もなく涙がこみ上げてくるのだった。菫子は背筋を伸ばすことも顔を上げることもできずにベンチに座り続けていた。誰にも見えないように薬指でそっと目尻を拭った。そしてカフェ・オレの空き容器をゴミ箱に捨てて家路についた。
今夜も無事に訪れていただけて安心しましたよ。
ドレミーは微笑みながらそう云った。想い出のログハウス。外の景色は夜だった。都会では考えられないような星空を体験できたあの夏。レンタルした天体望遠鏡を父といっしょに覗きこんでは星座の位置を教えてもらったものだった。菫子は窓辺に寄ってしばらく空を仰ぎ見てから振り向いた。
私もまた来れて嬉しい。
ずいぶん素直になったものですね。
もう子供じゃないから。
ドレミーは笑みを引っこめた。そうですね。もう幼子ではありません。ただあまり自分を決めつけすぎないほうがいいですよ。あなたが超能力を喪ってしまったのもあるいは自分で自分の限界を定めてしまったからなのかもしれません。
菫子は獏の帽子の先っぽをぼんやりと見ていた。
ええ。……そうかもしれない。
ドレミーは小さくうなずいた。説教がましい話は止めましょうか。よろしければ今夜は星空の下で物語を朗読しましょう。夜風が気持ち好いですよ。本当に。
菫子は獏に続いて外に出ながら訊ねた。昨日のお話のことなんだけど。
はい。なんでしょう。
幸せな結末じゃなかったりどこか不穏な空気だったり。私はもっと希望を持てるようなお話を期待してたんだけど。
現在の幻想郷についてお伝えするのも私の責務だと考えまして。
責務って……。
あなたが現実の世界で苦労していらっしゃるのと同じように幻想郷もあれから少なからず変化を続けています。そうした変遷を正直にお伝えするほうが却ってあなたのためになるのではないかと思いましてね。
なるほど。考えは分かったわ。
それでは。ドレミーは別の本を手にして語りかけた。気を取り直して次の物語に進みましょうか。
月の姉妹の物語
07 抑圧と処分、そして浄化の話
投げつけられた書類が綿月依姫の肩に当たって細雪のようにフロアに散らばりました。依姫は微動だにしませんでした。直立不動の姿勢。眉ひとつ傾けず男の顔を見つめ返していました。しかし腰に回された右手は骨が音を立てそうなほど強く左手で握りしめられていました。
それだけか。彼は口を開きました。淡々とした口調でした。報告はそれだけか。
はい。
不充分だ。
は。
あなたの捜査はまったくもって不充分だ。たったの二千羽だと。当初の割当は?
八千五百人です。
男はノックでもするかのように手の甲でテーブルを何度か叩きました。
部下の経歴をちゃんと確認したのか。地上の連中とのどんな些細な接点も見逃すなと指示が出ていただろうが。過去に戦闘で負傷した。妖怪どもの捕虜になった。奴らが遺棄した文物に指先一本でも触れた。地球からの信号を報告もせずに受信した。どのような経路で伝染するか特定できない以上虱潰しに処分するしかないんだ。
しかし――。
過去に追放した兎を処分するだけなら猿でもできる。あなたに与えられた責務はそんなことじゃないはずだ。いいか。スパイを殺せと云っているんだ。徹底的にやるんだよ。都のみならずこの星の隅々まで探し出して容赦なく狩り立てろ。ひとつひとつのクレーターの底まで確認しろ。毛一本も残さず焼き尽くせ。完全に浄化するためには肉体的に死滅させるだけでは足りんのだ。奴らが存在した痕跡を塵ひとつに至るまで根こそぎ洗い落とせ。スパイと戦うというのはそういうことだ。
依姫は冷静に答えました。かつて月のために戦った彼女たちに対してスパイとはあまりにも不名誉です。せめて穢れに侵されたと――。
その単語を出すな。彼は投げつけられずに生き残っていた書類を取り上げて目を走らせてから云いました。この自白調書もなんだ。これでは何も書いていないのと同じだ。奴らの持っている情報を吐き出させろ。口から心臓が飛び出るまで心の声を自白させろ。油断するな。手段を選ぶな。奴らに二度と月の大地を踏ませるな。生ぬるいやり方を続けているとあなたまで奴らの仲間入りをする羽目になるんだぞ。
依姫は眼を伏せました。……肝に銘じます。
08 クレーターの底に溜まった時間の話
依姫が屋敷に戻ったとき豊姫は桃の木に背を預けて黙々と読書を続けていました。依姫は姉の前に近づいて何をするでもなく棒切れのように立っていました。やがて豊姫が欠伸を漏らして顔を上げ妹の姿を認めます。傾げられる首。過ぎ去る時間。桃の花をさざめかせる人工の風。依姫が背骨を折られたように地面に膝をつくと豊姫はその手を取りました。
あらら。お疲れのようね。
姉さんは相変わらずですね。
また叱責を受けたの?
ええ。まあ。依姫は言葉を濁します。地上人の侵入を許して以来、私は信任を失ってしまいました。さらに都の凍結騒動から事態は悪化するばかりです。
問題が起こると上はいつもヒステリーを起こすからね。穢れに関することなら尚更。それも今回ばかりは度が過ぎているけれど。
伊豆能売神様がご健在でさえあれば……。
最初から最後までご尽力いただいたからね。二度とごめんだと云われるのも無理ないわ。それに内まで穢されてしまえば完全な浄化は不可能よ。本当に清められたか否かが重要なんじゃない。一度でも穢れたという事実そのものが今の上にとっては我慢ならないのよ。
豊姫は立ち上がって歩き始めました。依姫は後に従いながら呟きます。
神々からさえ見放されたこの都に大義はあるのですか。
豊姫は答えませんでした。
二人は屋敷を出ると豊姫の力で転移し静かの海の波打ち際に降り立ちました。そして無音のままに寄せては引いていく波を横目に流しながら散歩を続けました。近くにはいくつかのクレーターが大口を開けて横たわっています。クレーターの底では焼却されて炭と灰になった玉兎たちの骸が層を成しており生前の面影も姿形さえも定かでなく影の色合いと同化して悠久の時間の只中に忘れ去られたままになっていました。
依姫は話を続けます。監視の眼を光らせているにも関わらず穢れの流入は止まりません。まるで悪質な感染症のようです。これほど大規模な浄化作戦が遂行されれば普通は歯止めが掛かるはず。
もう見当はついているの。
残された経路は槐安通路しかありません。推測の域を出ませんが。
豊姫は歩く速度を緩めました。
つまり夢の世界を伝ってやってきているということ?
ええ。でも探女様は否定なさいました。あの獏の仕事は確か。間違っても私たち全員を敵に回すような失態は犯さないと。
そう……。
姉が浮かない顔つきで答えたのを見て依姫は話題を変えました。ところで先ほどは何を読まれていたのですか。
千夜一夜物語。
地上の書物ですか。
いけない?
見つかれば大変なことになります。しかも屋敷の庭で読むなんて。
まあ実際あの本の内容は上の云い分に従うならまさに穢れに溢れているわよ。それこそ一文字一文字から瘴気が立ち昇ってきそうだわ。逆に地上人はそれを活き活きとした描写だと讃えるのでしょうね。――バグダッドの軽子と三人の女の話。あなたは読んだ?
遠い昔。八意様に勧められて読みました。……当時は恥ずかしさと穢らわしさのあまり最後まで読み通せませんでしたが。
あら。どこまで読んだの?
軽子が三人の女に誘われて遊楽に興じる場面です。そこで限界でした。
まだ序盤も序盤じゃない。そこからが面白いのに。
具体的には。
豊姫は眼を細めて遠い想い出でも語るように話しました。運命に翻弄された王子が身の上話を語るところは特に好いものよ。予言の通りに美しい少年を誤って殺してしまったり。雲のように高い場所の屋敷で夢のような生活を送ったり。最後には開けてはいけない扉を開けてしまい、――まぁそんなところね。
雲のように高い場所……。
思い出すわね。
浦嶋子ですか。
そうね。懐かしい名前。
姉さんがまだあの人間を覚えていらっしゃったとは驚きです。
忘れたくても忘れられるものじゃないわよ。結局のところね、私たちがどれだけお高くとまっているつもりでも地球の重力からは逃げられないの。上が分かってないのもそこなのよ。たとえ身を滅ぼす結果になったとしても人間は好奇心に身を任せるわ。片目を喪うことになっても開いてはいけない扉を開いてしまうし、老人になってしまう危険を冒してでも開けてはいけない箱を開けてしまう。過去の物語は千年も前から予言してくれていた。地球の生命の力はきっと月にまで辿り着くと。現実と幻想の境界を越えうると。それはもう時間の問題だったの。
姉さんは。依姫は立ち止まって云いました。姉さんは必然だったと仰るのですか。この惨状も結局は防ぎようのないものだったと。
ええ。
豊姫はあっさりと答えてそのまま歩みを止めません。依姫は姉の背中を見つめていました。彼女は振り返らずに言葉を重ねます。
私はもう少し歩くわ。あなたはどうする?
……もう戻ります。仕事がありますから。
そう。どうか元気を出してね。
姉さん。転移をお願いします。
ああ。ごめんなさい。
豊姫は振り返って右手を胸の高さに挙げました。そして屋敷に戻されるまでのほんの一瞬の間、依姫の視線は月面のクレーターに注がれました。底で炭になって凍りついているはずの数多の死骸。蒸発した眼球。空洞になった眼窩が捉えている地球の青白い輪郭。そのあまりにも乾ききった不動の姿。依姫は彼女たちに手を差し伸べようとしましたが次の瞬間には屋敷の庭に立っており右手は空をつかみました。依姫は手のひらをじっと見つめてからその手を刀の柄に置くと足早に屋敷を後にしました。
化け猫と天邪鬼の物語
09 奇妙な肉の配達の話
ミッション式の軽トラックは土煙を上げながら郷の農道を走っていきました。その荷台は深緑の防水シートで覆われており積荷の様子は窺えません。運転しているのは鬼人正邪で助手席に座っているのは橙。二人とも眉間に皺を寄せながら無言でフロントガラスの向こうの景色を睨んでいました。
正邪が口を開きます。なぁ。
なに。
あの丁字路。どっちだ。
右。
あいよ。
正邪はハンドルを切りました。柳の運河に沿って道は続いておりやがて霧の湖に合流します。湖の島に建った紅いお屋敷。スカーレット・マンション。赤煉瓦の橋を渡って前進を続ける軽トラック。門まで辿り着くと美鈴が壁から身体を離してこちらに向けて手を振りました。橙が振り返すと彼女は頷いてから門柱に取りつけられた装置に何事か呼びかけます。
なんだあの四角いの。
正邪の質問に橙が答えます。インターフォン。
ああ。あれが。初めて見るな。
二人が話し終わる頃には門前に十六夜咲夜が姿を現していました。正邪が溜め息をついたので橙が視線を動かします。
どうしたの。
あいつとはあまり好い想い出がないんだ。
へえ。そう。橙が目線を戻します。奇遇ね。私もそうだよ。
屋敷裏の搬入口に車を止めて二人はシートを外しました。咲夜が複写式の伝票と荷台の木箱とを交互に見比べました。それから正邪に視線を移しました。蝉の音がまだ休まらない季節でしたが彼女は汗ひとつ浮かべずに両脚へ均等に体重をかけて立っていました。
その天邪鬼はどうしたの。最近姿を見かけなかったけど。バイトで軍資金でも貯めているのかしら。
正邪は無言のままなので橙が答えます。また悪さをやらかしたから紫様が懲罰を与えたの。要するに禁固刑。そして今は労役刑。私は指導係と監視役。これで満足?
何でも好いけど積荷は大丈夫なの。あなたの知らない間にそいつが猪の肉にすり替えていたなんてことはないでしょうね。
問題ないわよ。あんたみたいに時間を操りでもしない限り。
なら好いわ。
木箱の中には油紙で包まれた肉のほかにも塩や砂糖が詰まった袋が入っていました。咲夜はナイフの先で器用に油紙の封を外すと中の肉を検めました。そして匂いを嗅いでから視線だけを橙に向けました。
少し状態が悪いみたいね。量もいつもより少ないみたいだけど。
橙は帽子を脱ぐと胸の前に掲げるようにして両手で持ちました。ごめん。調達に必要な経路がひとつ使えなくなっちゃって。それで今月は精一杯なの。
あのスキマ妖怪に経路とか関係あるようには思えないのだけど。
橙の二叉に分かれた尻尾が丸まりました。こっちにも事情があるんだよ。
事情が何だろうと契約は守ってちょうだいね。お嬢様にも話しておくわ。
そのとき正邪が横槍を入れました。ここは缶詰じゃないのか。豪儀なもんだな。
余計な口をきかないの。橙が睨みます。あんたは黙ってて。
お前もしばらく見ないうちに大きくなったなぁ。咲夜の顔をじろじろと見上げながら正邪は続けます。前に私が暴れ回ったときはお前の姿を見かけなかったな。もう戦える状態じゃないのかい。
咲夜は口調を変えずに答えます。お嬢様のご命令もないのに異変騒ぎに首を突っこむわけないでしょう。それに弾幕ごっこはもう卒業したわ。
ごっこ呼ばわりか。巫女が哀しむな。
事実ごっこ遊びだったじゃない。その霊夢も今じゃ隠居中なんだから私も館のお勤めに専念してるだけよ。近頃じゃ弾幕で遊んでる妖怪もあまり見かけないしね。
そうか。正邪は言葉少なに答えました。まぁそうだな。
三人の間を沈黙が覆いました。搬入を終えて防水シートをかけ直したとき橙が咲夜に訊ねました。今日はなんだか静かね。
ええ。ちょっと問題が持ち上がっていて妖精メイドもホフゴブリンもみんなぴりぴりしてるの。
問題?
お嬢様とパチュリー様が喧嘩してるのよ。
そんな内部のこと私に話して大丈夫なの。
咲夜は微笑みを浮かべて首を振りました。
10 地の底への配送の話
今日はどこだ。
地底よ。
地底。
ええ。
どうすんだ。これだけの荷物を背負って蟻んこみたいに運べってか。
心配ないよ。いいから云った通りに運転して。
はいはい。
妖怪の山に続く林道はアスファルトで舗装されていました。トラックのタイヤが地面に食いこみ車体を軽快に前へと進ませます。正邪は前屈みになり両腕をハンドルに乗せるような格好で運転しながら云いました。
こんな僻地みたいな場所がしっかり舗装されてるってのに人里の通りには相変わらず土埃が舞ってるってのも何だか妙な感じだな。
橙は口に咥えた煙草にライターで火を点けながら答えます。舗装された道とただの砂利道。両者の境目が妖怪と人間の棲まう世界の境界線にもなってるのよ。今ではね。
なんだかな。
どうしたのさ。
別に。どう言葉にしたら好いのか分からないだけだよ。
あんたが紫様に閉じこめられてる間にこっちも色々あったの。
正邪は橙を横目で見ました。彼女は煙草を吸い続けていました。軽トラックの灰皿は煙草の吸い殻でいっぱいになっておりダッシュボードの上には口の開けられたカートンが放り出されていました。
橙が顔を上げます。あんたも吸いたいの?
別に要らん。というかお前が吸ってるってのが意外だよ。
今じゃ吸わない妖怪のほうが珍しいくらいだよ。配給に缶詰か煙草か選べるしね。
やれやれ。まるで人間の後追いだな。
山の麓の間欠泉センターに辿り着くと係の河童の誘導に従って正邪は軽トラを昇降台に乗せました。エレベーターが音を立てて起動し黄色いランプが点滅しました。軽トラの開いた窓から地下のひんやりとした空気が流れこんできました。太陽の光は遠ざかり温度のない照明が車内にあふれます。そうした光のなかでは橙の吸っている煙草の煙も表情を変えて正邪の鼻孔をくすぐりました。運転席の横を鈍色に塗装されたパイプが奇妙なアトラクションのように下から上へと流れ去っていきました。
正邪は車のサイド・ブレーキを引くと頭の後ろで手を組んでシートにもたれかかりました。そして呟くように云いました。
お前はさっき私がいない間に色々あったと云ったな。
ええ。
命名決闘は廃れる。見知った人間は引退。妖怪が軽トラを乗り回す。おまけに煙草を吸いまくる。他にはどんなサプライズがお待ちかねなんだ。
そうね。橙は煙草の先を灰皿に押しつけました。あまり多くは話せない。云っても信じないだろうし。要するに異変が立て続けに起きてあらゆる場所の境界が曖昧になってるの。地上と地底の関係もそう。現世と彼岸も然り。そして外の世界。他にも仙界。法界。地獄。山と里。地球と月。それに……。
大事なもの忘れてるだろ。
なに。
妖怪と人間の境界だよ。
ええそうね。
人間かぶれする妖怪に、妖怪に憧れる人間。まったく愉快なもんだ。あれだけ己の本分を弁えろだなんて口を酸っぱくして云い聞かされてきたのにこれだ。締めつけすぎれば停滞を招く。緩やかに統治すれば堕落。にっちもさっちもいかない。だから私は前から云ってたんだ。こんな危うい均衡なんて長続きするわけないってな。
…………。
お前のご主人様は本当にこのままで好いと思ってんのか。
私は紫様と藍様に従うだけだよ。
お前自身はどうなんだ。
何が云いたいの。
お前は疑うことを知らないなって私は云いたいんだ。ご主人様の意思は絶対。ご命令に従っていれば何もかもうまくいく。これこれこういう奴がお前にとって不倶戴天の敵。敵ならば背骨を粉砕して排除しなければならない。――それがお前の信じこまされているナラティヴだよ。
あんたの云うナラティヴって何。
耳障りのいい物語のことだよ。お前のような奴を体よく利用するためのね。
橙は鼻を鳴らすと次の煙草に火を点けました。
昇降台が停止し二人は地の底に辿り着きました。車は再び発進してコンクリートで補強されたトンネルの中を走り続けました。道が次々と合流し巨大な縦穴の真下を通過します。視界が開けるとそこは旧都の入口に通じる橋でした。橋姫のパルスィが欄干から身体を離して歩み寄ってきました。橙がトラックから降りて納品書を手渡します。パルスィは運転席の正邪をじっと見つめましたが何かを云うでもなく視線を戻しました。
橙が橋姫の尖った耳を眺めながら訊ねます。どうしたのそれ。
これ?
あんたがお洒落なんて珍しい。
パルスィは薄い微笑みを浮かべました。彼女の耳に飾られたイヤリングが瞳と同じ翡翠色の輝きを地底の天井に投げかけていました。
勇儀の奴から貰ったの。地上見物のお土産だって。見物と云っても今じゃ上にいる時間のほうがずっと長いんだけどね。ここ最近多いのよ。そういう地上かぶれ。
星熊の大将さんが贈り物なんてこれまた珍妙ね。
橙は自身の耳飾りに手を触れました。パルスィはその手つきを眼で追いながら話を続けます。ノンホールだから痛くないし是非つけてみろってうるさくてね。大方旧都にも地上にも染まれない私に対する憐れみからくれたんでしょうよ。
素直にお礼のひとつくらい云ってあげたら。
感謝はしたわよ。しないと拗ねるから。
大人ね。ちゃんと付けてあげてるんだ。
まぁね。あいつにしては珍しく品が好かったし。
正邪は二人の会話に聞き耳を立てるのを止めて荷台を振り返りました。満載された木箱に所狭しと詰めこまれているのは缶詰でした。パッケージはなく鈍色の表面に製造番号だけが刻印された缶が敷き詰められている様は必要以上に無機質に見えました。
帰りの道中。橙は眼をつむって車の振動に身を任せておりもう煙草を吸うこともありませんでした。正邪はハンドルを握りながら訊ねました。
ここの連中も今じゃすっかり餌付けされちまったわけだ。
これも取引よ。地底じゃ缶詰の肉だって貴重だしね。
代わりにお前たちは何を得ているんだ。
それってあんたに答える必要あるの。
正邪は少し考えてから云いました。少なくとも物々交換の類いじゃない。大方紅い館の連中と同じだろう。必要なもんはやるから大人しくしてろとか。もっと踏みこんで云うなら公には出せないことに協力させてるとかな。
橙は答えませんでした。
正邪は続けて云います。さっき伝えたことは頭の片隅にでも留めておいてくれよ。お前のご主人様はお前が思ってるような聖人君子じゃない。私が反逆騒ぎを起こした理由はそのうち厭でも思い知るだろうがそうなったときにはすでに手遅れなんだ。
勧誘ならお断り。今日はもう話しかけないで。私は寝るから。お疲れ様。
……どうぞご自由に。
正邪はハンドルを握り直しました。そして橙からライターを借りて煙草に火を点けました。吐き出された煙が開いた窓から逃げてゆきトンネルの中空を漂って消えていきます。軽トラックのフロント・ライトは薄暗い道を頼りなく照らしており道のりは永遠に続いていそうなほど暗く闇に閉ざされていて先が見えることはありませんでした。
かつて少女だったあなたの物語 3
11 変わりゆくものと変わらないものについての話
菫子は病院から処方された薬を飲むと部屋の照明のスイッチを切った。そしてベッドスタンドの明かりに照らされた新しい枕をしげしげと眺めた。それは獏のデフォルメされた絵柄がプリントされたドレミー印の安眠枕だった。童話に出てくる白雲のようにふかふかで材質不明の手触りは菫子の頭の重みを優しく受け止めた。その心地の好さは薬などもう必要ないのではないかと思ってしまうほど安らかにそして速やかに意識を夢の世界に連れていってくれた。菫子は何とも云えない間の抜けた表情を浮かべた獏の絵を見つめてから微笑みを浮かべた。そして明かりを消してベッドに身を横たえた。
ようこそ。よく眠れましたか。
ドレミーは夢魂の上にうつ伏せになり頬杖をついた格好で菫子を出迎えた。菫子は首を巡らせ前後左右に視線を配った。そして獏に向き直って云った。
――ここは教室?
ええ。
東深見高校?
あなたの母校です。
どうしてまた。
想い出の場所だからですよ。鏡を見てください。
菫子は渡された手鏡を覗きこんだ。次に自分の身体を見下ろした。そして目線の高さが幾分か低まっていることにようやく気づいた。ドレミーは頬杖を解いて頭を下げると手の甲に顎を乗せた。彼女は云う。どうです。懐かしい制服でしょう。そのままだと小さいのであなたの身体も当時に戻ってもらいました。
ご親切にどうも。
いろいろ思い出してきましたか、と獏は続けて語った。今のあなたは幻想の世界から遠ざかりすぎて記憶が曖昧になっている節があります。無意識に忘れようとしたのかもしれません。ご自分の可能性について正直に信じていられた時分のことを。夢がまだ夢として力を持っていた時分のことをです。
私は具体的に何を忘れちゃったのよ。
大切なものですよ。あなたはずっと前にもう一人の自分と戦いました。成り行き上、仕方なくです。そして倒してしまった。自分の影なる存在を永久に消してしまったんです。私はあの時、あなたを止めることができなかった。でもあなたは再び私の前に現れてくれた。
そのように話しているあいだドレミーは菫子から眼をそらし続けていた。菫子は何を云えば好いか分からず手近な椅子に腰かけた。それはかつて座っていた窓際の席だった。窓の外には記憶にある街並みはなくただ緑の草原が広がるばかりだった。
きのう朗読してくれた物語なんだけど。菫子は話題を変えた。ねえ。なんであんな雰囲気が暗くなってるの。幻想郷はどうなっちゃったのさ。私の記憶にあるのは牧歌的だけど刺激に満ちた世界だよ。それが不毛な虐殺だの気味の悪い缶詰だの、……気の滅入る一方よ。
ご心配なさらずとも見た目はそれほど変わっちゃいませんよ。ドレミーは顔を上げて答えた。変わったのは人びとの内側です。長寿の妖怪でさえ時の流れには逆らえずにその在り方を変えていきます。それは夢の世界で暮らす私だってそうです。
獏はそこまで云ってから再び顔を伏せた。長いまつげが憂いを秘めた瞳に差しかかった。海の色をした瞳。震えるように動いた目蓋。開いたり閉じたりを繰り返す唇。夢の支配者の疲れた表情を菫子が見つけたのは初めてのことだった。
ドレミーは語った。あなたが去ってから夢の世界にもようやく平穏が訪れると思っていましたがそれは大きな間違いでした。現実と幻想の境界が崩れ去るときその狭間で均衡を保っていた夢の世界もまた大きく揺さぶられるのです。物語にもあったでしょう。ボーダーレス化する幻想はあらゆる境界を乗り越えて浸食を始めそれは同時に現実世界の波紋がよりいっそう強く幻想の故郷に流れこむ結果にも繋がりました。賢者にすら止めようのない世界の潮流です。人格が入れ替わり。暴走し。修繕も追い付かず。夢魂は蝶のように好き勝手に行きかう。あれからずいぶんと駆けずりまわりましたよ。
菫子は呟いた。……私のせいなの?
ドレミーは首を振った。すみません。ちょっとした愚痴です。あなたが直接の原因ではありませんよ。あの世界を彗星のように駆け抜けてやがて燃え尽きてしまったあなたは、――あなたは、ただちょっと不思議なだけの女の子でした。
ドレミーは席に座っている菫子の傍まで中空を泳いでいった。そして身を乗り出すと右手を伸ばして菫子の前髪をよけると自身の額と彼女の額をくっつけた。菫子の全身から力が抜けた。おでこから頭の中に暖かい血潮のような液体が流れこんでくる感覚を覚えた。菫子は瞳を閉じた。彼女の営為を受け容れた。
今はこれが精いっぱいです。ドレミーが身体を離して云った。あれから数え切れないくらい辛い目に遭いましたね。可哀想に。でも。ドレミーは云う。でも、……強く生きてくださいね。私も手助けします。変わりゆく世界の中でいつまでも変わらないものを抱きしめ続けてください。次に語るお話があなたの静かな力になるでしょう。そして忘れてしまったものを再び思い出す手助けになるはずです。変わりゆくものとそれでも変わらないものの両方を知ったとき。――そのときあなたはきっとあなた自身の物語を見つけ出すことでしょう。
菫子は眼を開いた。ドレミーと見つめ合った。そして次なる航海を待ち受けた。
旧都の鬼と橋姫の物語
12 地底の虹鱒と携挙の話
水橋パルスィは釣り竿を引き上げて慣れた手つきで釣果を検めました。旧地獄の渓流に棲息している虹鱒でした。眼は光を取り入れるため地上のものよりひと回り大きく育ち刃物のように尖った尾をしきりにくねらせていました。橋に掲げられた提灯の明かりに照らされて鱗が複雑な模様を輝かせていました。パルスィは魅入るようにその模様を見つめていましたがやがて釣り針を取り外して暴れる魚の尾をしっかりとつかみました。そして鞭のように振り上げて橋の欄干に頭蓋を叩きつけました。虹鱒は口を大きく開けて震えていましたがまもなく動かなくなりました。包丁で顎の先から肛門まで切り開いて臓腑を取り出したのち桶に入った塩水で魚を洗うと他の釣果といっしょに筵に並べました。いずれも立派に育った鱒でした。
パルスィが鼻唄を歌いながら炭火で魚を焼いているといつの間にか隣に古明地こいしがいました。両膝を折り曲げて腰を落とし膝頭に頬杖を立てていました。彼女は小首を傾げながら焼かれた魚の白く硬化した目玉をじっと見つめていました。二人の間に横たわるのは炭火の熾きが弾けるぱちぱちという音だけでした。
久しぶりね。パルスィは口を開きました。さとりの奴が心配していたわよ。半年も屋敷に戻らないなんてさすがに不孝じゃないかしら。
こいしはわずかに微笑みを浮かべたほかは何も語りませんでした。薄暗い地の底で炭火に照らされた赤い頬。黄緑の混じった灰色の髪。翡翠のように透き通った瞳。身体の輪郭は最後に見たときよりもずっと曖昧になり肩に至っては向こうの景色が透けて見えていました。
パルスィは続けます。待ち人は他にも居るわよ。あんたが可愛がっていたペット。それに地上の友人。面霊気だったか。あいつ週に一回は訪ねてくるのよ。落ち着いて橋守もできやしない。顔くらい見せてやりなさいな。
こいしは首だけを動かしてこちらをじっと見ました。パルスィの指先に力がこもりました。咳払いして眼をそらし仕上がった虹鱒をトングで取り上げます。さとり妖怪の妹は魚だった物体に視線を移しました。
パルスィは片方の眉を上げて云いました。……なに。あんたも欲しいの。
あなたにも待ち人がいるのね。
は?
パルスィは訊ね返しましたがこいしは意に介さず続けます。あなたはどこに行きたいの。
どこにってなに。私は何百年もここでお役目を果たしているの。あんたみたいな家出娘と違ってここでやることがあるのよ。
こんなところにいるんじゃひとつになれないよ。
――なんだって?
高く昇るためには空と太陽が必要なの。進化のために入り用なのは新鮮な空気なのよ。だからここじゃだめなの。
パルスィは鱒が食べ頃の温度になっていることにも気づかずトングを手に持ったままこいしを見つめ返していました。……あんた、しばらく見ないうちにますます訳が分からないことになってるわね。
こいしは笑みを深めました。そして瞬きのうちに姿を消していました。パルスィは立ち上がりかけましたが首を振って座り直しました。どいつもこいつも、という呟きが空しく木霊しました。
13 せせらぎと泡沫、そして鱗の地図の話
それからパルスィは焼き上がった虹鱒を食べ始めました。お箸で身をほぐして残った内臓や小骨を取り除きます。地上からはるばる配送されてきた醤油を皿に垂らし身を湿らせてから口に運びます。パルスィは時どきうなずきを挟みながら一匹目の鱒をまたたく間に平らげました。口の中が片づかないうちに二本目に手を伸ばしたとき背中を平手で叩かれて椅子から転げ落ちました。
やあ失敬したね。星熊勇儀は手を挙げた姿勢のまま固まっていました。そんなに驚かなくても好いじゃないか。橋姫さん。あんたよほど夢中で食べてたんだね。
やかましいわよこの馬鹿力。パルスィは右手で後頭部を押さえながら勇儀の手を借りて身を起こしました。なんで今日に限って足音も立てずに忍び寄ってくるわけ。いつもは橋桁を踏み抜きかねないほど騒々しくやってくるくせに。
悪かったよ。あんまり美味しそうに食べてるもんだから声をかける隙を計りかねてたんだ。あと口の周りに魚の脂がついてるよ。
パルスィは服の袖で口元を隠しました。勇儀がハンカチを差し出してくれたので礼を述べて汚れを拭き取ります。洗って返すと伝えると別にいいよと答えが放られてきます。鬼の大将は吊り上げた唇の端をなかなか改めてはくれません。
久々に釣れたんだね。
ええ。本当に。
だから夢中で食べてたわけだ。
うるさいったらもう。充分からかったでしょう。
勇儀は欄干に寄りかかって云いました。そういや前より水位が下がってるね。
まあ。そうね。環境が変わったのかしら。このままだと涸れてしまうかもって黒谷は云ってたわ。このせせらぎを聴けなくなるのは正直残念ね。
お情けとはいえ三途の川の分流がそう簡単に涸れるもんじゃない。あいつら未だに財政難みたいだね。むしろ悪化したのか。こりゃ川の流域を縮小したのかもしれん。
世知辛いわね。
地上も似たようなもんさ。
そう云って勇儀は断りもなく焼いた虹鱒を食べ始めました。お箸を使わずに腹から丸かじりにします。勢いで長い金髪が翻りました。その様子は鮭のはらわたをむさぼる飢えた熊を思い起こさせました。そのくせ口を離したときによく見ると唇の周りに汚れは少しもついていませんでした。パルスィは親指の爪を噛みました。
あんた器用なのか不器用なのか分からないわね。
お前さんの箸遣いが下手くそなだけさ。
この野郎。
だからそのハンカチはお土産。返してくれる必要もないわけだ。勇儀はパルスィの顔をしげしげと眺めてから付け加えました。うん。好く似合ってる。さすが私。
あっ。パルスィはイヤリングに手を触れました。しまった。外すの忘れてた。
なんで外すんだ。
あんたが調子に乗るから。
似合うことは最初から分かってたよ。少しも驚かないね。
……憎らしく思えばいいのか呆れるべきなのか。
少しくらいは喜んでくれても好いだろう。
パルスィは欄干に右手を乗せて一歩前に踏み出しました。お情けは止めて。土産話もごめんよ。私は地上のことなんてこれっぽっちも興味ないの。とうに失せたわ。
勇儀は爪の先でこめかみをかきました。下駄を履いた足を上下させてわざとらしく音を立てました。それもまた見慣れた動作でした。その様子を見てパルスィは畳みかけました。私は嫉妬を司る妖怪。だから分かるのよ。あんた伊吹の奴に妬いてるんでしょう。新しい風を取り入れようだの見聞を広めようだのぜんぶ建前。本音のところは思ってたよりも地上を楽しんできたあいつが羨ましかったってだけなんだから。――どう、当たってるでしょう。正直に自分の気持ちを認めなさいな鬼の大将さん――。
勇儀は足を三歩前に踏み出しました。パルスィの眼には一歩で瞬間的にこちらに近づいたように見えました。気がついたときには両脇の下に手を入れられパルスィの身体は幼子のように空中に持ち上げられていました。
だったら正直になろうか。勇儀は静かに云いました。お前さんの云う通りさ。萃香が正しかった。私は間違っていた。……これで満足か。
…………。
あんたは何が不満なんだ。
パルスィは持ち上げられた状態のまま溜め息をついて語りました。……どいつもこいつも地上にかぶれて旧都を去っていくのが憎いのよ。十年前。この橋は地上と地底を隔てる大事な境界であり結界だった。それが今はどうなの。地上からの配送トラックが我が物顔で往来する。きらびやかな鍾乳洞は無機質なコンクリートで塗り固められる。地上から物見遊山でやってきた酔っ払いが橋から川に向かってゲロを吐く。その川の水は減る一方だし魚だって滅多に釣れやしない。最後にはあんたまで地上から土産物を買ってきてはへらへら笑いやがる始末。――これじゃ私の存在意義ってなんなの。――いっそここで殺しなさいよ!
パルスィの声は最後にはかすれていました。勇儀はパルスィの歪んだ表情を眺めながらなお動きませんでした。ですが持ち上げる指先に力がこもったのでパルスィは悲鳴を上げそうになりました。
鬼の大将は首を小さく振ってから云います。……だったら橋姫さん。あんたがそいつを身につけてくれた理由はなんなんだい。お前さんにとってはそんな装飾品、天より憎い代物だろう。
パルスィは答えないままうつむきました。勇儀の視界からは前髪に隠された橋姫の瞳の色は窺えません。翡翠の宝石と同じ潤いを帯びた緑の輝き。微かに震えている肩。尖った耳からぶら下がっているノンホールのイヤリング。それは細かい周期で揺れていました。勇儀は角が刺さらないよう注意しながら橋姫を抱き寄せました。それは高さもあって抱きしめるというよりは担ぎ上げるような格好になりましたが。
勇儀はパルスィの背中をさすりながら云いました。好むと好まざるとにかかわらず地上も地底も変化の時を迎えている。それは私たち全員が認めなくちゃならない事実だ。でも変わらないものもある。今だって旧都の居酒屋は提灯の明かりで彩られている。ヤマメの奴は相変わらず食えない性格してるし古明地だって薄気味悪い小説を出版し続けてる。そんでもって橋姫さんの陰気で仲間想いなところも変わらんね昔から。
ばかっあんた誰が仲間想いって――。
だからこそ私は安心して地上に出かけられるんだよ。私の故郷はいつでもそこにあるって信じられるからな。とにかく私が云いたいのはそう悲観しなさんなってことだ。一度でも旧都の味を気に入ってしまった奴はそう簡単に離れられやしないよ。ここは歴史の掃き溜めだ。ずっと世界から取り残され続ける。でもだからこそ愛おしくなるもんだ。
勇儀はパルスィを降ろしました。パルスィは足踏みして倒れないよう欄干にもたれかかり上目遣いで鬼の大将を睨みつけました。
……あんたは本当に人を丸めこむのがお上手ね。
勇儀は涼しい顔で笑うのでした。
彼女が旧都の方へ立ち去ってからもパルスィは川の流れを見つめ続けていました。岩にぶつかって結んでは消えていく泡沫(うたかた)。太古の世界地図を写し取ったかのように複雑な模様を持つ虹鱒の泳ぐ影。千年以上も昔から空間を満たし続けてきたせせらぎの木霊。それらのすべてにパルスィは五感を澄ませていました。まるで初めて目撃しその音を聴いたかのように。そして右手を挙げて長く伸ばした爪の先でイヤリングをちりんと弾いたのです。
吸血鬼と魔法使いの物語
14 皮なめしの白昼夢の話
まだ幻想郷を訪れる前にレミリア・スカーレットは河原のそばで暮らす一家が皮なめしの作業を行っている様子を観察したことがありました。なめされていたのは立派な角を有した牡鹿でした。父親と息子は研いだ骨を使って皮の表層部分や肉片を丁寧に剥がしていました。骨の柄にあたる部分に紐を通して輪っかにし肘のところで固定していました。それは機械のように精密ですが同時に荒々しい動作でした。灰に漬けこんで処理された皮から脂肪や肉が溜まり溜まった垢のように次々と削ぎ落とされていくさまはある種の小気味よささえ感じられるほどでした。二人が作業を続けているあいだ母親は鮮やかな赤色をした物体を鍋で煮こんでいました。蝙蝠になったレミリアは眼を凝らして鍋の中を見つめていました。それは鹿の脳でした。脳漿(のうしょう)や燻煙を用いることで驚くほど柔軟になりそして穏やかな色彩を帯びた処理済の皮が洗濯物のように木の枝で干されて乾燥されていました。楡(にれ)の木にかけられたベージュのカーテン。そよぐ風。流れる川の音。血なまぐささを感じさせないほど洗練され自然に繰り返される営み。時間は緩やかに過ぎてゆきました。レミリアは木陰に隠れて陽光を避けながらじっとその光景を見守っていたのです。
レミィ。
少女の声に肩を叩かれてレミリアは白昼夢から目覚めました。隣に座ったパチュリー・ノーレッジが横目でこちらを睨みつけていました。レミリアは組んでいた足を解いて思い切り背伸びをしました。
ねえ。レミィ。話をもちかけてきたのはあなたじゃない。読書を中断してまで応じてあげたのにその態度は如何なものかしら。
悪かったよ。レミリアは小悪魔が淹れたカモミール・ティーを口にしました。ちょっと昔のことを思い出してたんだ。
話が仕舞いなら書見に戻らせて欲しいんだけど。
だから悪かったって。
パチュリーは開きかけた魔導書を閉じました。レミリアは本の装丁に用いられている革を見つめました。そして訊ねました。
それなんの皮だっけ。
人間よ。決まってるじゃない。
タンニングには人間の脳が使われているのかな。
何の話。
珍味が勿体ないって話さ。
悪趣味ね。
魔女様がそれを云うのか。
レミィの悪食には敵わないってことよ。
レミリアは微笑みを浮かべて紅茶のカップを置くと靴を脱いで姿勢を崩しパチュリーの膝に頭を横たえました。魔女が眉間に皺を寄せます。
ねえ。重いんだけど。いつも云ってるでしょう。
吸血鬼には脳がないんだ。人間よりもよほど軽い。
重いものは重いのよ。
――それで何の話をしてたんだっけ。
呆れた。パチュリーはレミリアのおでこに本の角をぶつけて云いました。図書館の整理の話でしょう。冊数を減らせとかなんとか。正気を疑う提案ね。
そうそう。パチェが猛反対するのは分かってた。屋敷にある他のものは少しずつ手を付け始めてるんだけどね。ここはどうしたもんか。どう切り出すか迷ってたんだ。
……私に拒否権はないわけ。
あると云いたいところなんだけどね。レミリアは頭を横に向けて魔女のお腹に顔を沈めました。でもあまり時間がないんだな。
整理するとして棄てる基準はどうするの。魔導書だけを残してあとは湖の埋め立て工事にでも使うつもり? レミィのお気に入りの漫画本は? 美鈴直筆の大陸健康法大全は? まだ一度も目を通してない本だってたくさんあるのに。
そう困らせないでくれないか。パチェ。決心が鈍る。
なによ今更。必要なことなんでしょう。
ああ。レミリアはゴンドラが必要なほど高くまでそびえる本棚の森を見やりました。何だか昔の物語を思い出してしまうな。司祭と床屋が出てきて棄てるべき書物の詮議をおこなう。でもって焚書刑に処する哀れな本を手当たり次第に二階の窓から裏庭に放り落とすんだ。
ドン・キホーテじゃない。
そうだっけな。
よく憶えていたわね。
初めて読んだ本格的なロマンだったからなぁ。今でも印象に残ってるよ。ごっこ遊びもしたっけな。風車に突撃したりさ。まあドン・キホーテが風車に跳ね返されたのに対して私は突き破って倒壊させてしまったがね。
レミィの突拍子もない性格はラ・マンチャの騎士からきてるのね。
そうかも。だとしたらパチェはサンチョ・パンサになるのかな。
私がいつあなたの従者になったのよ。
でもうちの魔女様にはサンチョみたいな愛嬌がないからなぁ。
黙んなさいよ。
そう怒るなよ。
パチュリーは沈黙してから云いました。……私はこれまでずっとあなたの我が儘や無茶ぶりを叶えてきたわ。サンチョよりも役に立つわよ。
レミリアは頭を戻して魔女の顔を見上げました。彼女は本で表情を隠していました。レミリアは起き上がってカモミール・ティーを飲みほしました。そこへ十六夜咲夜が図書館の大扉を開けて入ってきたのです。
お嬢様。こちらにいらっしゃったのですか。咲夜は云いました。お夕食の時刻です。
ありゃ。もうそんな時間か。……あまり食欲がないな。
時間を遅らせますか。
いや。今夜はいいよ。紅茶だけいただこう。
かしこまりました。
咲夜が立ち去るとレミリアはパチュリーと顔を見合わせてうつむきました。まあ。繰り返すようだけど時間が惜しいのは確かだ。
あの子もすっかり人間らしくなったわね。
それだけ成長したのさ。丸くなったとも云える。霊夢の奴もそうだった。私からしてみれば今の咲夜は切れ味不足だけどね。
たまには異変解決のひとつでもさせてみたら?
あいつが乗り気じゃないんだよ。子供の遊びは卒業しましたみたいな風情でね。弾幕ごっこの流行りも今は昔。最初に命名決闘で戦った私らが今では古参扱いだ。妙な気持ちになるよ。
老人みたいな云い草ね。レミィもそろそろ引退――。
そこまで話したときパチュリーが激しく咳きこみました。
おいおい。喋りながら紅茶を飲むなってあれほど――。
パチュリーがカップを取り落としソファの肘掛けにしがみつくようにしてぜいぜいと息を荒げ始めるとレミリアは素早く立ち上がりました。そしてライティング・デスクの引き出しから薬の容器を取り出すと友人の手に握らせました。粉剤を吸引してしばらくするとパチュリーは落ち着きを取り戻しました。レミリアは魔女の背中をさすってやりながら語りかけました。
たまには外に出なよ。埃っぽい書斎にいたんじゃ治るものも治らない。
パチュリーが首を左右に振ったので真似をするようにレミリアも顎を動かします。
しょうがない魔女様だな。
パチュリーを抱え上げて寝室に運んでいこうとすると彼女は抵抗しました。真紅の瞳で睨みつけて大人しくさせます。痩せた身体を割れ物でも取り扱うように寝台に横たえたとき友人は云いました。
……レミィ。ごめんなさい。
いいよ別に。でも謝罪よりかはお礼の方が欲しいかな。
ありがとう。
うん。おやすみ。
――本の整理のことだけど。
なに。
私は居候。館の主はあなた。だから決定に従うわ。明日から始めましょう。
そういう云い方は嫌いなんだけど。分かってるだろ。
ええそうね。
身体が弱ってるからって卑屈になるなよ。ただでさえ陰気なんだから。
うるさい。
そうこなくちゃ。
……おやすみなさい。
ああ。
15 月夜で育まれる時間の話
次の日の夕食は前日を抜いていたこともあり豪勢になりました。フランベで上品に香りづけされた新鮮なステーキがメイン・ディッシュでした。レミリアの希望によりソースにはトマトをベースに甘く煮こまれた脳が隠し味に加えられておりコクが増していました。それをカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインと共にいただくのです。血や肉、内臓をケーシングしたブルート・ヴルストもまた美味でした。夜空は晴れ渡っていたのでバルコニーで食事をとることになり珍しくパチュリーも同席していました。
給仕を続けていた咲夜がレミリアに訊ねられてその日の出来事を報告しました。
例の天邪鬼が八雲の化け猫と?
はい。確かに。
天邪鬼が運んできた肉か。傑作だな。
お気に召しませんでしたか。
まさか。お前が最終的に味を確認して食卓に出してきたんだ。その時点で満足のいく出来映えなのは明らかだよ。
よく云うわねレミィ。パチュリーが本から顔を上げて云いました。しょっちゅう紅茶に怪しげな隠し味を入れられて酷い目に遭ってるくせに。
レミリアは笑いました。そういやそうだった。最近はそうした悪戯もなかったから忘れていたよ。たまにはドクダミでも混ぜたらどうだ咲夜。
……熟考しておきますわ。お嬢様。
それから食事は黙々と進みました。レミリアが話をしなければ咲夜もパチュリーも自分から口を開くことはありません。メイドは影に控えており魔女は本から顔を上げませんでした。
眼の冴えるような満月を見上げながらレミリアは云います。
咲夜。
はい。
レミリアは口を開きかけてから閉じました。
……悪い。忘れた。
そして話頭を変えました。
食べ終えたらまた呼ぶよ。それまで休んでいてくれ。
かしこまりました。
咲夜が去ったあとパチュリーが本を閉じました。
レミィ。さっきは何を云いかけたの。図書館のこと?
それも関係してる。
そう?
あとどれだけの間、屋敷の空間を維持できるのか。時を刻む能力に変調はないか。仕事のスケジューリングに無理が生じていないか。訊ねたいことなんてそれこそ砂粒みたいにたくさんある。
友人はうなずきました。咲夜の能力は唯一無二よ。空間をねじ曲げることは宇宙の法則に干渉すること。私がやっても膨大な時間をかけてようやくといったところね。――喪われる時が近づいているのなら少なくとも準備だけはしておかないと。そういうことでしょう?
ああ。でもね。レミリアはグラスを揺らしてワインを薫(くゆ)らせながらその液面をじっと見つめました。云わなくてもあいつはきちんと理解しているよ。完璧すぎるからね。私よりもずっとこの館のことを理解している。日々手入れし語らっているんだから。私たちが昨日なにを相談してたかってことまでお見通しだろう。だから野暮な質問は止めにしたんだ。時がきたら然るべきところに運命が導いてくれるとね。
パチュリーは黙って話に耳を傾けていました。レミリアは続けます。
最近考えるんだ。紅魔館が昔みたいにこじんまりとして古びた洋館に戻る日のことをね。そうなると大勢の人手もいらないから妖精メイドもホフゴブリンも今ほどの数はいらなくなる。そこには咲夜もいないわけだ。私はその時どう感じるのだろう。屋敷が狭くなったと想うのか。それとも逆に広くなったと憶えるのか。
魔女は何も語りませんでした。ただ本は栞を挟んで閉じられたままでその藤色の瞳はレミリアに向けられたままでした。レミリアが咲夜を呼んで食卓を片づけさせるまでパチュリーは読書に戻ることなく話を聴いていたのです。
夜も更けて山の端が白みはじめた頃になってレミリアは寝室に引き上げました。その隣にはレミリアに請われて付いてきたパチュリーの姿がありました。ワインの酒精で紅潮した頬の色合いは生来の白い肌も相まって化粧でもしているように鮮やかでした。レミリアが寝台に横になり魔女は枕元の椅子に座って読書を続けています。その様子を眺めていたレミリアはふと口を開きました。
……パチェ。
なに。
お前だけは変わってくれるなよ。
いきなりどうしたの。
何でもない。
そんな勿体ぶって引かれても。困るのは宙ぶらりんにされた私の方なんだけど。
辛辣だなぁ。
親愛なる魔女は話題を変えました。
こうして夜に連れ添うのもいつ以来かしら。
さあね。この世界に来てからはないかな。
多くが変わっていくわね。人間も。妖怪も。紅魔館も。
…………。
レミィ?
……今は何を読んでるんだ。
ドン・キホーテ。昨日のやり取りで懐かしくなって。
読み聞かせてくれないかな。昔みたいにさ。
途中からでいいかしら。
最初から頼むよ。
ええ……。
私が寝るまでの間だけでいいから。
しょうがないわねもう。
ありがとう。
今日のあなたは素直ね。
いいから読んでよ。
――パチュリーの痩せた繊細な指が物語の頁をたぐります……。
……それほど昔のことではない、その名は思い出せないが、ラ・マンチャ地方のある村に、…………。
レミリアが寝息を立て始めるとパチュリーは声の音量を徐々に小さくしてゆきそして唇を結びました。本を閉じて立ち上がり部屋をあとにしかけたときレミリアが何かを呟きました。それは寝言でした。パチュリーは振り返って寝台で横になっている永遠に幼い吸血鬼を見つめていました。溜めていた息を吐き出してから音を立てないように歩み寄っていき膝を折って姿勢を低めました。そして親友の額に短く口づけすると立ち上がり今度は止まることなくドアを閉めて出ていきました。窓のないはずの館の廊下にも秋の訪れを奏でる鈴虫の音が確かに漂っておりそれは旧い時代から変わることなくこの土地で育まれてきた歴史の証明であり軌跡でもあったのです。
かつて少女だったあなたの物語 4
16 神亀の始まりと幻想の再興の話
七通目の不採用通知を受け取ったときには夏も終わりを迎えていた。菫子は寝間着姿のまま合成皮革の安物ソファに寝そべってぼうっと過ごしていた。薬を切らしており病院に通うのも止めていたがドレミー印の枕のおかげか睡眠はとれていた。テレビが見たくなってリモコンで電源を入れた。ちょうど改元のニュースをやっていた。新しい元号が発表されたのだ。それは神亀といった。菫子は眼鏡の奥から神亀という二文字のテロップをぼんやりと見ていた。
語るべき物語は全て語り終えましたね。
本棚の前に立っていたドレミーは振り返ってそう云った。
最近はしっかり安眠できていらっしゃるようで何よりですよ。
その代わり現実の生活に支障が出てきたわ。面接の時間を寝過ごすなんてもうこの先生きのこれるかどうか自信がなくなってきた。
ですが思い出してください。あなたは昔も寝ぼすけでした。あの世界へと短い旅行に出かけるため授業中だろうとお構いなしに。
勉強さえできればやり過ごせる学校とは違うわよ。社会人だもの。今は無職だけど。菫子は周囲を見渡した。……それで、今夜はどこに。
あなたはこの場所を好くご存じのはずです。
ドレミーは両腕を広げた。そこは竹林だった。秋の夜風に吹かれてこすれた葉がひぐらしの鳴き声のように涼しい音を立てていた。
菫子はうなずいた。ええ。覚えてる。覚えてるはずなんだけど。
ならば踏み出すことです。私から差し上げられる夢はこれで最期になります。あなたは忘れていた想い出を取り返す。そしてもう一人の自分を取り戻すことです。
質問いいかしら。
なんでしょう。
昨日の物語のことよ。結末で得られたものは大きかったかもしれない。でもそれは過去に喪ってしまったもの、あるいはこれから喪うものの大きさに果たして釣り合うものなのかな。
それは受け取るあなた次第という答えでは拙(つたな)いですか。
ええ。
ドレミーが深呼吸して続ける。この世界で老いていくということは同時に変化を続けるということでもあります。新しいものを得るたびにあなたは何かを喪くしていきます。避けられない喪失を経てもなお変わらないものを抱きしめて回転を続けるたったひとつの世界。かけがえのない理想郷。その美しさと残酷さを知ったでしょう。あなたが忘れ去ってしまってからも確かにそこは存在を続けてきました。身体の成熟と共に心から喪われてしまった幻想の欠片。それは夢の結晶そのものです。誰でも決して喪ってしまってはならないものをひとつは持っているものです。たとえどれだけ時が移ろうとも。あなたはまさにその大切なものを忘れてしまっていました。物語の人物たちとあなたの決定的な違いはそこなのです。
菫子は顔を伏せた。……じゃあどうすればいいのよ。
今度はあなたの番ですよ。ドレミーは云った。あなた自身の物語を紡ぎなさい。
獏は菫子の背中を優しい力で押した。菫子は歩き始めた。ゼラチンで出来た薄い膜をくぐり抜けるような感触と共に竹林の湿気に満ちた匂いや肌寒い外気、鈴虫の音といった情報が頭に流れこんできた。菫子が振り返ったときには膜は閉じかけていた。ドレミーがその向こうで小さく手を挙げた。
夢の世界が閉ざされてしまうと菫子は独りぼっちになった。それでも不思議と気持ちは落ち着いていた。今ではそこが何処なのか痛いほど分かっていたからだった。菫子は両手を重ねて胸に引き寄せた。そして竹林の奥へと歩み出した。
あなたが紡いでゆく物語
17 永遠に変わることのない尺度の話
道順はまるで毎日通い詰めてきたかのように覚えていた。目線の高さが上がっただけ。こちらからは数えるほどしか訪れたことがないはずなのに足は勝手に動いてくれる。陽の光を遮るほどに成長しきった竹の群れ。その一本一本の感触を指先が覚えているような気がした。落ち葉を踏みしめる音さえも。
目的の荒ばら家に辿り着いたが彼女はいなかった。燃え尽きた囲炉裏の炭の微かな匂いが家の外に漏れていた。軒先には干し柿が連なって吊されている。数世紀の間そのまま置き去られてきたかのように景色に馴染んでおり菫子はそのうちのひとつを手に取って皺だらけの果肉を見つめていた。
竹で作られたお手製のベンチに座って待っていると藪をかき分ける音が聞こえてきた。菫子は立ち上がって胸に手を引き寄せたまま前に踏み出した。彼女は荒ばら屋の前で佇んでいる菫子に眼を留めた。他に何の反応も示さなかった。菫子とすれ違ってから手に持っていた山刀をベンチの上に放り出し筍でいっぱいになった籠を地面に降ろした。そして両手を組み合わせてぐっと伸びをした。菫子が何か云おうと口を開きかけたとき彼女は云ったのだ。
よう。今日は何しにきたんだ。藤原妹紅は振り返ることさえせずに淡々とそう述べた。けっこう久しぶりじゃないか。学校の調子はどうだ。前に会ったときは進路について悩んでたな。――お前の道は、決まったのか。
菫子の口からふっという笑い声が漏れた。だがそれは厳密には笑いではなかった。嗚咽だった。菫子は妹紅に飛びつくことも笑い飛ばすこともできずにただ立っていた。
なんだ。どうした。妹紅がようやく振り返ってくれた。泣いてるのか菫子。
……ばか。ほんとぜんぜん変わってない。
あ?
変わってなさすぎて泣けてきたのよ。
というか。大きくなったなお前。私より頭ひとつでかいじゃないか。なんか変なものでも食ったのか。魔理沙の妙な茸とか――。そこまで云ってから彼女も口をつぐんだ。……そっか。そうだよな。
蓬莱人は記憶通りの姿だった。地面まで届きそうなほどに長い白髪をリボンでまとめて。札を貼った紅い袴をサスペンダーで吊し。女の子とは思えないようなルーズなシャツの着こなしに。焔の色を宿した瞳。そのシニカルな輝きに至るまで。
妹紅は声の調子を落とした。で、何年ぶりだ。
十年だよ馬鹿。
もうそんな経ってたのか。ほんの一か月かそこらくらいかと。
あんたの時間感覚ほんとどうなってんのよ。
これがあるから怖いんだよな。妹紅は云った。……まあ、なんて云うかな。おかえりでいいのか。
うん。ただいま。
菫子は泣きながら笑った。そのとき身体の痺れも消え去った。妹紅は飛び跳ねるように抱きついてくる菫子の体重を支えきれずに背中から地面に倒れた。
18 囲炉裏の談話と約束の話
妹紅は温かい食事を出してくれた。ご飯も煮物も汁物も筍づくしだった。そこに茸や山菜に漬物、猪の肉などが加わった。菫子は箸を動かしてひと口ひと口を丁寧に食べた。汁物には自家製の味噌が使われておりエリンギの欠片が入っていた。煮こまれた猪肉はほぐされて柔らかくなっており山椒のおかげで臭みもとれていた。脂身は煮物の汁にコクを与えていた。漬物は里の人びとからお裾分けしてもらったという茄子と胡瓜の浅漬けだった。菫子はご飯をお代わりした。そして供された献立のすべてを平らげた。欠けた茶碗の底についたご飯粒。最後のひと粒にいたるまで。
妹紅は胡座をかきながら膝に頬杖を立てた姿勢で云った。なんだ。小食かと思ってたらよく食べるじゃないか。
こんなに食べたのは久しぶりよ。本当にそうなの。緑茶をすすりながら菫子は答える。……なんか変だよね。現実よりも夢のなかでの方が食が進むなんて。
妹紅は黙ってデザートの干し柿を差し出してくれた。菫子は喜んで受け取った。渋い緑茶に甘みの増した柿の味わい。思わず背筋が丸まるような素朴な甘美。
……美味しい。
好かった。二つ目いるか。
ありがとう。でもお腹いっぱい。
妹紅は頬杖をついたまま菫子を見続けていた。
なに。ご飯粒ついてる?
いやほんと大きくなったなと思ってさ。
菫子は顔を傾げた。あまり嬉しくなさそうな顔ね。
私の見知った人間はもう誰も弾幕ごっこをしないんだ。じゃあ妖怪は? 奴らも同じさ。進んで付き合ってくれないんだな。それよりも花札だの麻雀だのやろうとか抜かしてくる奴もいる。今の里は人間に化けた妖怪であふれてる。それで何をするかって。食べ歩きに玉突き、あとは酒盛りだな。
ずいぶん仲好くなったものね。
悪いことばかりじゃない。新しいものもたくさん入ってきてるから退屈はしない。ただ前のようなのどかな活気は永遠に喪われちまったのさ。今の状態を健全じゃないという奴もいる。でも私には何が健全なのかも好く分からん。時が移れば前の世代はかならず新しい世代のことをけしからんと罵る。私はそういうのをあまりに繰り返し見過ぎたせいで感覚が鈍ってるんだ。気持ちがくさくさしてくるから最近は里にもあまり顔を出してない。道案内は変わらず続けているけどね。
妹紅は酒も吞んでいないのに饒舌に話した。菫子は姿勢を直した。湯呑みを置いてから眼鏡を外して蓬莱人の少女に向き合った。
あんたはずっとそうやって暮らしてきたの?
ずっとそんな感じだな。だからいつもならその場所を見棄てて新しい土地に棲み着く。新しい人びとと出逢いはするがやがてその人たちも老いていく。気持ちに棘が生えてくればまたひっそりと旅立つ。その繰り返しさ。でも今回ばかりはどうかな。幻想郷以外に私が暮らせる場所がこの世界にあるのか。
菫子は唾を呑みこんだ。……少しの間、うちに来る?
いや。止めとくよ。妹紅は即答した。外の世界。コンクリート・ジャングルか。あのきらめきは確かに魅力的さ。観光するだけなら悪くない。でも私はあそこでは暮らしていけそうにない。
分かった。菫子は眼を伏せた。ごめんなさい。でもまた遊びにきてよ。
ああ。もちろん。
それから二人は無言になった。妹紅は火箸を伸ばして囲炉裏の炭をかき回した。火花が散った。それを合図に菫子は呟くように云った。……好かったら腹ごなしを兼ねて、さ。久しぶりにやってみる?
妹紅は顔を上げた。お前はもう大人だろう。
大人だから何よ。私は本気よ。今なら超能力も使えるし。
――今なら?
菫子は超能力を使えなくなった経緯を簡単に説明した。
お前もだいぶ世知辛さに揉まれたみたいだな。妹紅は立ち上がった。分かった。気分転換だ。やろう。手加減してやるよ。
菫子もうなずいて席を立った。
結果は菫子の圧勝に終わった。菫子が最初のカードを切るとそれだけで周囲の竹林がなぎ倒され妹紅は地に倒れ伏していた。菫子は自分の手のひらを呆然と見つめてから慌てて地面に降りたって蓬莱人を介抱した。苦笑いを浮かべながら妹紅は云った。……避けようがない攻撃は反則だろ。私じゃなかったら死んでたぞ。
ごめん。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。
ブランクがあるどころかむしろ俄然威力が増してるじゃないか。本当に向こうじゃ使えないのか。
本当よ。
そうか。妹紅は立ち上がって続ける。眠れる獅子よろしく奥に引っこんでただけなのかな。永く生きてきた妖怪は力を蓄えるもんだ。それと同じ理屈がお前にも起こっているのかもしれないな。――とにかく制御できないなら迂闊に使わないほうがいい。今日はもう止めよう。
…………。
そんな顔するなよ。妹紅は菫子の手を握った。びっくりはしたがおかげで久々に生きてるって実感を得られたしな。
外は暗くなり始めていた。気の早い夜の虫が鳴いていた。妹紅は送っていくよと提案してくれた。二人は倒壊を免れた荒ばら屋を離れて歩き始めた。無言の時間が続いたが元いた広場が見え始めると菫子は口を開いた。
今日は本当にありがとね。妹紅。
しおらしいな。
今だから云えるけどここに辿り着くまであなたのことを忘れてたの。
おいおい酷いな。
違うの。菫子は手を振って言葉をつっかえさせながら説明した。私は夢の私と別れてしまったの。自分から引き裂いてしまって。それで大切なものを何もかも忘れてしまっていたの。この世界の想い出も。妹紅と交わした言葉も。
今ひとつピンとこないな。
それでも好いの。やっと思い出せたんだから。
広場で立ち止まると妹紅は云った。さ。ここでお別れだ。心配するな。思い出せたってことはまた来られるんだろ。
たぶん。
今度は二十年後とか勘弁してくれよ。
努力するわ。
あ。ちょっと待ってな。
妹紅は手のひらに小さな焔を浮かべて菫子の手に近づけようとした。
ちょっと何。
火傷しない。信じろ。
菫子はおそるおそる手を差し出した。妹紅と握手すると灯の温もりが直接身体に流れこんできた。身体中を熱い液体が駆け巡った。ドレミーと額をくっつけたときと同じように。二人は眼を閉じていた。虫の演奏も。風のそよぎも。音という音が遠ざかり竹の葉に遮られているはずの夕陽の温もりだけを肌に感じた。
……これが何かの足しになるかは分からんが。手を離して妹紅は囁いた。お前が戻ってくる手がかりになれば嬉しい。あるいはこれからも生きていくための力に。
菫子は目尻を拭って答える。妹紅は最高の案内人だよ。
竹林のか。
ううん。ぜんぶ。この場所も。この世界も。私の人生についても。
大げさだな。
ぜんぜん誇張じゃないの。本当に。
嬉しいのか重いのかよく分からない。変な気持ちになるな。
うん。重いよね。それは自覚してる。
でもお前の気持ちは分かった。受け取っておくよ。ありがとう。
菫子は妹紅から一歩離れた。前と同じように空間に裂け目が生まれ夢の世界と連結された。向こうでドレミーが手を振っているのが見えた。菫子は振り返した。そして妹紅と改めて向き合った。
……じゃあ、帰るね。
ああ。
さよなら。
また来いよ。
うん。かならず。
元気でな。菫子。
妹紅もね。
私のことは心配するな。
不死だもんね。
あまり待たせるなよ。
分かってるよ。
元気でな。
うん。
達者でいろよ。
そんな何回も云わないでよ。分かってるから。
……元気でな。
ねえ。帰りづらくなるよ。
どうか。元気で。
妹紅は自分から背中を向けて歩いていった。菫子は手を差しのばした。涙が頬を流れ伝うのを感じた。空間の裂け目が閉じた。ドレミーがそばに舞い降りて背中をさすってくれた。菫子は眼鏡を外して泣き続けた。菫子の気持ちに合わせて夢の世界はさまざまに表情を変えてゆきすべての風景、すべての想い出、あるいはすべての物語を乗せて過ぎ去っていった。家族と旅行に出かけた避暑地のログハウス。退屈と刺激にあふれた高校の教室。幻想郷の田園と迷いの竹林、そして彼女の背中。あるいは……。
菫子はドレミーに促されて振り返った。そこには自分がいた。高校の制服を着たもう一人の菫子だった。彼女は教室の椅子から立ち上がってゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。菫子もドレミーに背中を押されて歩を進めた。二人は両の手のひらを合わせた。遅い、と彼女は云う。ごめん、と菫子は答える。ドレミーがうなずく。見つけられましたね。
うん。菫子は答える。やっと見つけたよ。
エピローグ
19 月明かりの往く先で
幻想郷にふたたび夜が訪れた。残暑の潮も引いてゆき季節は秋に移る。暑い夏は終わりを告げた。涼風の吹き抜ける過ごしやすい夜だった。里に灯された明かりがひとつひとつ消えてゆき喧噪に成り代わって静寂が通りを支配する。
夢の世界ではドレミー・スイートが愛用の本を開いて時が来るのを待っていた。火に誘われる虫のように夢魂が獏の周りに集まっていき自らの雫をページにぽたりぽたりと落としていった。染みが形を変えて文字になり寄り集まって文章になりやがては数々のストーリィが綴られる。ドレミーは微笑みを浮かべて物語の続きを声に出して読んだ。
秦こころは時ならぬ電話の音に目を覚ました。眼をこすって起き上がり電話の音をぼんやりと聴いていた。それからはっとして布団をはね除け狐の面を頭にかけて黒電話に飛びついた。もしもしこころですが。
受話器は沈黙を貫いた。
もしもし。こころは叫ぶように云った。こちらはこころですがっ。
無言。
おい。こいしだろ。いるんだろ。そこに。
玄関の磨りガラスがガタガタと音を立てた。こころは受話器を放り出してそちらへ突進した。廊下に出たとき足が滑って転び頭をしたたかに打った。姥の面を被って患部をさすりながら玄関の引き戸を開けた。
外には誰もいなかった。静かな夜だった。地面に黒っぽいものが落ちていた。こころは拾い上げて検めた。それは帽子だった。こいし、という囁きが口から漏れた。帽子を胸に抱き寄せたままこころはしばらく佇んでいた。それからふっと息を吐いて玄関の戸締まりを済ませると寝床に戻った。
摩多羅隠岐奈は読み終えた手紙を二童子に渡して椅子に身を沈めた。舞と顔を突き合わせて手紙を読んでいた里乃がふと視線を上げる。お師匠様、返事はお書きにならないのですか。隠岐奈は笑って手を振った。明日にでも書くよ。今夜はもう遅いしね。
舞も顔を上げて云う。すぐに返信を請うと冒頭にも末尾にも書いてますけど。ご丁寧にアンダーラインまで。
だからこそ今は書かないのさ。
二童子は顔を見合わせてからまたこちらに戻した。
隠岐奈は云った。その方があいつもやきもきするだろう。紫の苛立つ顔を想像してみろ。ご飯三杯はいけるぞ。
カチコミでもかけられたらどうするんですか。
いくらスキマ妖怪でも最低限のマナーは心得ている。人の領域に許可もなく入っちゃこないさ。さあ。お前たち。もう寝なさい。
舞が欠伸まじりに答える。はぁい。お師匠様。
里乃が肘でたしなめてから後を継ぐ。本日のお勤めを仕舞いとさせていただきます。
うん。ご苦労様。
二人が自室に引き上げてしまうと隠岐奈は再び手紙を読んだ。やがていつしかうたた寝を始めてしまった。怒髪天を何とやらした紫が彼女の前に降り立つのはまもなくのことだった。
重機が玉兎の死体の山をまとめてクレーターに放りこんでしまうと気化燃料が散布され火がつけられた。肉が焼かれて濛々とした煙が火山噴火の前兆のように穴から立ち昇った。不可逆の科学変化を経て黒く染まっていく遺骸。その無言の声を穴の淵に立って綿月依姫は聴いていた。
屋敷に戻ると開口一番に豊姫が云った。
委員会は勝利宣言を発したわ。
依姫は曖昧にうなずいた。……つまり、この狂気の沙汰もようやく終わりを迎えるわけですね。
闘争はこれからが正念場だと息巻いていたけどね。
ソファの隣に座って依姫は組み合わせた指を見つめた。
私たちは決定的に誤った歴史を歩みました。
ええ。
どうすれば埋め合わせができるのか想像もつきません。
豊姫は妹の肩に手を置いた。今は休みなさい。
何か。
なに。
何か気を紛らわせる話はありませんか。
それならぴったりの物語があるわ。
千夜一夜ですか。
ええ。
好いですね。
豊姫は朗読を始めた。バグダッドの物語を。依姫も疲れには逆らえずやがて眠りに落ちた。豊姫は妹の頭をなでた。そして丸窓を通して遙か三八万キロメートルの彼方に浮かぶ青い星を眺めた。
月が綺麗だな。
停車した軽トラの車体に寄りかかりながら鬼人正邪は云った。煙草の煙を吐き出してから車の灰皿に押しつけて火を消した。そしてロープで車を引っ張っている橙に顔を向けた。
おい夜になったぞ。もう諦めたらどうだ。
あんたも手伝いなさいよ!
お前の前方不注意が原因だろ。大人しくご主人様に報告したらどうだ。
嫌よ。藍様に頼ったら意味ないもの。
なんでそんな必死なんだよ。
あんたには分かりっこない。
分かりたくもないね。それと今度からは四駆を使うこったな。
黙んなさいよ。
トラックを泥濘から救いだそうと奮闘して尻尾を緊張させている猫の姿を見ながら正邪は溜め息をついた。そして車のドアを開けてダッシュボードの奥からマタタビを取り出すと橙の鼻先に差し出した。不意打ちを喰らった化け猫はひとたまりもなくくたびれてしまった。正邪は彼女の身体が冷えないように運転席に引っ張りこむとすり切れた毛布をかけてやった。彼女はしくしくと泣き始めた。正邪は新しい煙草を吸ってから云った。
……私たちは永遠に分かり合えないな。
それからいくつかたとえ話をしたが化け猫は聞いていなかった。すでに眠っていたからだ。正邪は前に向き直った。月に吐きかけるように煙草の煙を口から出した。そしてシートにもたれると腕を組んで眼を閉じた。
旧都ではひと足先に今年初めての雪が降った。まだ秋口なのに気の早いことねと水橋パルスィが呟くと隣を歩く星熊勇儀は笑った。どいつも待ちきれないんだろ。雪も紅葉も大事な酒の肴だ。紅葉が拝めん以上は雪を降らすしかあるまいさ。
どう。久しぶりの旧都は。パルスィが訊ねる。地上かぶれには退屈?
手厳しいね。――まあ見慣れてはいても見飽きることはないさ。それがホームというもんだ。
ハイカラな言葉を遣っちゃってまぁ。
そう拗ねるなよ。路銀も尽きたし今しばらくはこっちで稼ぐさ。
目的の店に入るとヤマメとキスメが杯を掲げた。やあ星熊の大将、とヤマメは赤らんだ顔で云った。悪いね先に始めちゃってて。
いいよいいよ。こいつを連れ出すのに手間取っちまった。
お洒落する時間くらい頂戴よもう。
なんだそれ。見せる相手がいるのか。
パルスィは勇儀を睨んだ。この馬鹿力のアンポンタン。
ひどい云い草だなぁ。
ヤマメとキスメが顔を見合わせて笑った。
宴もたけなわになり久々に酒を吞んだパルスィはあっけなく酔いつぶれた。勇儀の肩にもたれかかってしまったが彼女はびくともせずに橋姫の体重を受け止める。やがて水を飲まされているうちに寝息を立て始めたパルスィの肩を勇儀はぽんぽんと叩いた。まったくこいつは、と呟きを漏らした。その続きの言葉は浮かんでこなかった。勇儀は酒の替えを注文した。不要な言葉を酒精と共に飲み下した。
お嬢様。十六夜咲夜が報告する。準備整いました。
ご苦労様。
大図書館に入るとレミリア・スカーレットは魔方陣のなかにうずたかく積まれた本の葬列を見渡した。外の世界のメトロポリスのように屹立する本のビルディング。ページの一枚一枚がビルの窓となり世界中のさまざまな物語の表情を垣間見せる。怒りも悲しみも。喜びも寂しさも含めて。
レミリアの姿を認めるとパチュリー・ノーレッジが首を動かした。レミリアもうなずきを返した。始めよう。座標に問題ないわねパチェ。少女は答える。ええ。
うちの魔女様に誤りはない。これまでもこれからもね。
レミィ。血を借りるわよ。
吸血鬼の血なんて金輪際お目にかかれんぞ。大事に使ってくれよ。
もちろん。
咲夜がナイフを差し出した。それは銀製だった。レミリアは顔を上げた。
分かってやってるだろ咲夜。
ええ。メイドは微笑んだ。おふざけをお望みのようでしたから。
上出来すぎて頭がくらくらしてくるよ。それを引っこめてくれ。
かしこまりました。
鉄のナイフで手のひらを傷つけ一滴もこぼさないようガラス管に注いだ。そして咲夜が用意した清潔なハンカチで患部を覆いガラス管を魔女に渡した。
ありがとうレミィ。
あとは頼むよ。
転送が終了し本のジャングルが消え失せてしまうとパチュリーの身体がふらついた。レミリアはすぐに歩み寄って背中を支えた。――パチェ。お疲れ様。
すこし疲れたわ。パチュリーはがらんとしてしまった自慢の図書館に眼を向けた。本当に疲れた。
夜も遅いな。咲夜も休んでちょうだい。パチェは私に任せて。
メイドは服のすそを両手でつまんで片足を下げ深々と一礼した。
ありがとうございます。お嬢様。パチュリー様。
魔女を寝台に横たえるとレミリアは傍の椅子に腰かけた。パチュリーは咳をしながらも笑みを浮かべてみせた。だがレミリアは上手く表情を繕えなかった。
パチュリーは云う。咲夜、何も語らなかったわね。
お礼を聴いただろ。充分に伝わったよ。あいつは分かってくれている。多くを語らないだけさ。私たちの間には必要ない言葉だ。
ええそうね。
今日はお疲れ様。また明日からゆっくり。元のように本を収める方法を考えよう。
レミリアは椅子から立ち上がりかけた。その手首をパチュリーがつかんだ。魔女の薬指がレミリアの手のひらの傷痕をなぞった。レミリアは座り直した。何かを云おうとして口を開いては閉じた。親友が再び微笑んだのでレミリアもようやく笑みを浮かべることができた。月明かりがパチュリーの横顔を照らしておりレミリアはその穏やかな表情を見つめ返していた。魔女が寝息を立て始めてからも永遠に幼い吸血鬼はその場を動かなかった。
藤原妹紅は眼を覚ました。囲炉裏の熾火が最初に視界へ入った。次に映ったのは月明かりに照らされた影だった。大人の女性の影。宇佐見菫子が引き戸に手をかけたまま佇んでいた。妹紅は三角座りの姿勢からいつもの胡座になった。
やあ。こんな夜更けにどうした。客として来るには非常識な時間だ。
仕方ないでしょ。菫子は笑った。社会人が真っ昼間に寝るわけにもいかないもの。
そうか。疲れてるなら弾幕もできないな。
大人の付き合いでもしましょうよ。
なんだそりゃ。
菫子は缶チューハイやつまみの入ったレジ袋を掲げた。
…………それで向こうに戻ってからね。梅酒を吞みながら菫子は饒舌に喋った。コップを動かしてみようと力を使ったのよ。そしたら見事に粉々になっちゃってさ。後片付けが大変だったわ。
お前の力は外の世界の在り方そのものを変えかねないな。気をつけて使えよ。
分かってるって。
妹紅は赤らんだ菫子の顔、その朗らかな表情を見つめた。そして不意に顔を伏せた。どうしたの、と彼女が訊ねてきたので首を振った。
些細な話さ。
何さ。云ってみてよ。
ただ、お前が元気になってくれて本当に好かったと思っただけだ。それだけだよ。
菫子はトマトのように真っ赤になった。……ああ。はは。そうね。あんたがそんな素直に云ってくれるなんて思ってなかったよ。
まあ無理はするなよ。
無茶をして怪我してばっかの妹紅には云われたくないなぁ。
妹紅は右手で頭をかいた。菫子は微笑むと四つん這いになって囲炉裏の反対側に回りこみ妹紅の肩に腕をもたせかけた。妹紅は顔だけを彼女に向けた。
おい重いんだけど。
いいじゃない。甘えさせてよ。
どっちが大人なんだか分からんなこれじゃ。
そうよ。妹紅は私にとってはお姉さんなの。同時に妹でもあるの。お母さんでもあるしもしかしたらお婆ちゃんでもあるかもね。
酔いすぎだぞお前。
仕事で疲れてるんだもん。菫子の声は徐々に小さくなった。ここは居心地がいいね。涼しくて。食事は美味しくて。何より静かで。
冬は厳しくなるけどな。
雪かきなら手伝うよ。私の力なら積もった雪なんてそれこそひと思いに……。
彼女の声は囁くように低まった。
ねえ。妹紅。
なんだ。
ずっとそのままでいてね。
見方によっては残酷だぞ。その願いは。
うん。身勝手なのは分かってる。云ってみただけ。
…………。
妹紅は肩から垂れ下がった菫子の手を握った。優しく熱を送りこむと彼女はううんと呻いてあごを肩に乗せてきた。やがて寝息を立て始めた。
おい。まだ返事してないぞ。菫子。
彼女は答えなかった。まったく、と妹紅は嘆息した。こっちでも寝てしまったらお前はどこに行くんだよ。それでも引き離すことはせずそのままの姿勢でいた。どんな体勢でも寝られるように身体を慣らしてきたのは正解だった。妹紅もまた意識の領域をひとつひとつ手放していった。格子窓から差す月明かりは刻々と角度を変えてゆき寄り添って眠る二人の身体に柔らかいグラデーションを描いていった。
新たな物語を読み終えてドレミーは本を閉じた。ごちそうさまでしたと言葉を結んでログハウスの椅子から立ち上がり外に出た。雲のない空では太陽の光が平等に降り注ぐのと同じように月光もまた幻想郷のすべての人びとに与えられた。夜は更けてゆき夢魂の数もまた増えていった。それらのひとつひとつが物語を綴ってゆきドレミーの無限であり夢幻の図書館に人生の更新を静かに謳い上げていく。ドレミーは銀色に輝く花が咲き乱れた丘陵をゆっくりと登っていった。蛍のように群れている夢魂に指先で触れてはおやすみなさいと声をかけるのだ。みなさん。おやすみなさい。今日もお疲れ様でした、と。
~ おしまい ~
(引用元)
Sherwood Anderson:Winesburg, Ohio, B.W.Huebsch, 1919.
小島信夫・浜本武雄 訳(邦題『ワインズバーグ・オハイオ』),講談社文芸文庫,一九九七年。
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素晴らしかったです。ありがとうございました。
どの登場人物も、色を失いつつある世界への反発のようにとても色濃く、とても満たされた気分です。
ただ、会話の表現が私には見づらく感じてしまったので、この点数で
御上手でした
面白かったです。
こんな傑作が拝めるとは思わなかった。ありがとうございました。
書き手が凄くなりすぎると!
僕のお粗末な脳ではうまく感想言えないので
この点数が気持ちです
いやーこうゆう時、点数式助かります
いやホント…うつくしい
心からお礼を言いたい。
橙正はあるよ……ここにあるよ……
それぞれの物語がそれぞれで完結しながらも相互に少しずつ影響しあっていて面白かったです
読み応えのあるお話でした
楽しませていただきました
月並みな言い方ですが、感想を言葉にできないくらい心に響く作品でした。
とてもよかったです。
彼女が一度失くし、再び手にした物を今度はずっと手放さずにいられるよう祈るばかりです。
全てのモノには意味が在るとばかりに語句一つ一つに重みを感じる
その感性と心の強さは懦弱な私には眩しい。どうぞすくよかであれ