『劇場』
私が劇場に入ったときには、第一幕の開演から既に三十分が過ぎていた。係員に誘導され、腰をかがめながら客席の間の狭い通路を歩いて行った。声を張り上げる女優の台詞が舞台上から降り注ぎ、なんだか遅刻して来た自分を叱りつけているような気がした。
叫んでいる女優は汚れているのに皺の無い洋服を着ていることからして、裕福な家庭の活発な娘という役らしい。「姉さんったらどうしていつもあんなに暗い顔をしているのかしら」という台詞の直後に一人で大笑いしているところは、姉と違ってむやみに明るい性格の持ち主なのか、女優の演技が過剰なのかちょっと分からない。とにかく、彼女たち姉妹が中心となる物語に違いなかった。
幸い、階段状に並んだ客席は高低差があったおかげで、暗闇の中を通って行く私は観客の注目を浴びてしまうようなことはなかった。係員はそれを右寄りの通路から注意深く回り込んで降りて行く。この様子ではメリーの用意してくれた「十列A席」とは思ったより舞台から間近に迫る位置のようだった。
そう理解して今更のように遅刻を申し訳なく感じていると、このまま座席まで誘導してくれるものと思っていた係員が非常出入り口の前で急に立ち止まった。
「第二幕まではこちらでお待ちください」
観劇に経験の少ない私はこれを途中入場者への措置としてありがちなことなのかと受け入れたが、ここまで連れて来たならもうあと少しくらい他の客の前を横切っても迷惑には大して変わりがないだろうという気もした。そこで思い出して手の中のチケットを確認してみると、指定座席の位置はやはり今いる非常出入り口からほんの四列と八席しか離れていない。
ただ、それよりも気にかかったことは、そうして目をやった私の席の左隣、「良い席が当たった」と喜んでいたはずのメリーの席に彼女の姿が無いことだった。私は疑いのうちに曜日を数えて今日が約束の日に間違いないことを再度確かめた。私がメリーの遅刻を待つのは本当に久しぶりのことだった。
メリーが居ないとなると、こんな暗い通路端で手すりにもたれて立ち見をしているのはなおさらばかばかしくなってしまう。舞台上では新たに二人の姉妹が登場して滑稽なやりとりを演じているが、それはもう私にとってもメリーにとっても書き出しを欠落させた脚本だった。
もっとも、そうした説明的な部分を省かれた状態では劇に一種の硬質さも宿るようで、謎めいた人間関係を推測しながら観る面白さはまだ残されていた。
彼女たちは仲の良い四姉妹で、舞台上の三人の他にどうやらまだ登場していない四女がいる。長女は次女の笑っていた口ぶり以上に陰気で、次女はやはり対照的な陽気さ、三女にはずる賢いところがある。三人の話題は主にお互いの性格的な長所と短所についてで、たまに自分の将来の理想を話し合うことがあるが、誰の理想も現在の生活とほとんど変わらない。よく声を合わせて英語の歌を歌っている。音楽好きの一家なのかもしれなかったが、それがあまり頻繁なので単なる舞台上の演出にも思えた。要するに波乱の少ない幸せな家族模様を描いているのだが、四女がいつまでも姿を見せないことだけは奇妙だった。
そのまま開幕から一時間が経ったあたりで、それまで椅子に座って自分からはほとんど口をきかなかった長女が唐突に立ち上がり、「父さんの決定」により一家が今居る屋敷を離れて遠くへ行かなければならないことを、陰鬱な口調で妹たちに告げた。第一幕はそこで終わった。
幕間に十分間の休憩時間が挟まれ、橙色の照明が戻った劇場で観客たちは同伴者と控えめな感想を交わしはじめる。私は端末を起動してメリーからの連絡が来ていないことを不思議に思いながら、こちらからも通話呼び出しを試みた。やはり応答はなかった。
そのとき、私の背後で非常出口の扉が開き、ここまで誘導して来たのとは別の係員が顔を出した。その係員は私に気づいても無表情のまま、しかし実に微妙な目つきと手振りによって劇場の外へと誘い出す意思を示していた。
考えてみれば私は、ここまででも既に十分奇妙な対応を受けていた。ただ、このとき私は劇場内で端末を手に通話しようというところなのだった。こうした劇場では何かしらマナーに厳しいところがあってもおかしくないと気づいた私は、外へ連れ出されて簡単な注意を受けるつもりでそのまま係員に従ってしまった。
非常出口を通り、普段は従業員専用らしい簡素な通路へ出た私は、即座に三人の係員に取り囲まれて「急いでください」「あと六分です」などと妙なことを言われながら奥へと小走りさせられた。困惑を口に出して訴える間も無く一つの扉が開けられ、真っ暗なその中へと強引に押し込まれた。そこはカミテ側の舞台袖だった。
「来た!」
客席で聴いていたほど甲高くはない声で、次女役の女優が振り向きざま叫けんだ。
「なんで黒い服なのよ! 大姉さんの衣装と被ってるじゃない!」
私のすぐ右隣から三女役が現れて泣きそうに切羽詰まった声を上げた。
「時間がありません。その下のシャツは白ですね。羽織っているものは外してください。帽子もです。白の手袋がありますから着けましょう。ウィッグは……今から選んでいられない。そのままでいきましょう」
隅に座っていた長女役が聞き取りにくい早口で言うと、妹二人が瞬く間に私の衣類を引っ張ったり奪ったり取り替えたりする。
とにかく、何かとんでもない勘違いが起こっているのは確かだった。おそらくは、例の誘導役の係員が私を妙な場所に立たせていたのが悪かったのだろう。
「すみません。すみませんが私、観客です」
白粉を顔に振り付けようとしてくる三女の手を払いのけてそう伝えるときは、できるだけ落ち着いた調子で、自分がこの手違いに腹など立てていないことを示すようにした。しかし、予想に反して彼女らの反応は何も無かった。
「時間がありません」と長女は壁の時計を見ながら言った。「あなたは道理をよく分かった女性で、聞き分けない四女を説得してくれようとします。四女の性格は私たちの誰とも似ていませんが、純粋で想像力の豊かな子です。仲良しになれますよ」
彼女たちの言うこと、ほとんど全てのことがおかしかった。しかし時間が無いと言ったのは本当のことだった。あらゆる真っ当な要求の口を塞ぐように第二幕開演のブザーが鳴り、音楽が始まった。もう理解する時間も、理解させる時間も無かった。
次女の手が有無を言わせない勢いで背中を押し、私は気がつけば眩しい照明の下、舞台の上へ立たされてしまった。
頬に熱さを感じるほどの強烈な照明が左右、正面、三方から向けられ、私はすぐに思考の筋道を見失った。平日のため客席は満員ではなかったが、どう少なく概算しても五十人は下らない観客たちの目が一つ残らず私を見ていた。私は、もう何もかもめちゃくちゃで、まるで話にならないと思った。
しかし、私の思うのとは他方で、劇がそこで終わることはなかった。自分ながら驚いたことに、私の頭は混乱しながらもとっさの際に適応行動を取ろうとした。
そこから舞台が見えた。場面は四姉妹の住む屋敷の一室で、そうとかろうじて分からせるだけの最低限の家具が中央に置かれている。私は第二幕の始まりにいきなりそこを訪れた、まだ目的の明らかでない何者かなのだった。白いかもしれない顔色を隠すため、まずは俯いて一つ溜め息した。それから何か格好をつけなければと思い、とりあえず両手を曖昧に広げた。全身、手指の先々にまで観客たちの視線が集まるのを感じた。ただそれは私が動きによって視線を集めたのではなく、むしろ全く逆に、静止していることを許さないそうした視線たちこそが私の体を動かしていたのだった。
沈黙は数秒程度しかもたなかった。いよいよ必要に駆られて私が発した第一声は、「やれやれ」というものだった。
「やれやれ……」
思いつきにしては悪くない、もしかすると上出来な選択だったと思う。おそらくこの一言だけが、言うべき台詞を見失った役者にとって全ての台詞に代わり得る一言であり、常に真実らしく発せられる最大公約数的な一言なのだった。
思い切って口を開いてしまえば、後の台詞は火から上る煙のようにひとつながりになって出てきた。本当に驚くべきことだったが、私はもう自分に注がれる無数の視線を恐れてはいなかった。
「全く、どうしてこんなことになったのかまるで解らない。私は軽い気持ちでお芝居を観に来ただけだったのに、気がつけばあの子たちに無理やり引っ張り出されて、ええっと、何て言ってたかしら……妹を説得しろだったっけ」
そこで私は無意味にゆっくりと一回転しながら、舞台袖の姉妹を見た。相変わらず陰気な長女が俯いてかぶりを振っていることを除けば、私の芝居は彼女らを満足させているようだった。次女などはぴょんぴょん飛び跳ねてばんざいを繰り返している。そうして、どうやら私には今から彼女らを裏切りこの役を降りることなどは、どんどん難しくなっていくようだった。
私はそのまま訳の分からない流れに乗せられて新たなでたらめを口走りそうになったが、危ないところでシモテから発せられた声がそれを遮ってくれた。
「まさか、お客さんがあなただったなんてね」
聞き覚えのある声に振り返ってみれば、不機嫌顔のメリーが舞台へと上がってくるところだった。客席に姿の無い彼女が今まで何をしていたのか、私はようやく理解することができた。彼女は私と目を合わせてもなお寄せた眉を緩めないまま台詞を続ける。
「こんなところで何してるの? と言ってもそれを聞きたいのはそっちの方でしょうけど……」
「良いのよ。その様子を見たら何となく分かったから。私の方はあの三人に強引に……。どうもあなたを説得して欲しいらしいわ」
「説得ですって? するならすぐにしてくれれば良いわ。私もすぐに説得されたふりしてあげる。その方がお互い早く済むでしょう」
「まいったなあ。そんな言い方されたんじゃあ、話にならないよ」
掛け合いは非常な円滑さで交わされていた。やや陰気に傾きつつあった会話を立て直そうとして試みた私の「まいったなあ」も成功していた。
そうして首尾良く調子を刻んでいく掛け合いの中、やがてはっきりしてくるこの第二幕の主題は、転居を受け入れないメリーと、説得しようとする私との不通感ということだった。
私は手掛かり一つさえ無い壁をどうにかよじ登って彼女を屋敷の外へと連れ出そうとする、時には実際に手を掴んで引こうともするのだが、その度に彼女は壁を新たに高く築き、身を翻して部屋の中を逃げ回る。私は説得に失敗しては大げさに失望し、たまにカーペットに躓きながら追いかけっこを演じた。
もちろん、客席から幾度かの笑いを獲得しながらも、うまく幕を引く方法を考えてはいた。
「こんなばかばかしいこと、いくら続けたってしようがないわ。あなただって、本心ではこんなところ、居たいわけじゃない……」
私は努めてゆっくりと台詞を区切りながら、しかし途中で口を挟ませない低声を保ち、舞台を端から端まで歩いていった。メリーは私と睨み合って目を離さないまま足の向きを巡らせる。ちょうどメリーが客席から顔を背け、自分の顔もその後ろに隠れたところで、私は短く囁いた。
「場面転換、すぐ逃げよ」
メリーは不意をつかれたような表情をして、かろうじて頷いて見せた。しかし、瞬間その目に浮かんだ淡い怯えの色調が、私には何か気掛かりなものとして残った。
「ええ、そうかも。でもきっと、ここを出たところで何も変わらないわ……」
第二幕、第一の場面は短かいものになりそうだった。そもそもこんな埒のあかないやり取りは、はじめのうちは受けを取れてもすぐにしつこくなってしまうのだから、埒のあかなささえ見せたらあっさり切り上げるくらいで不自然無い。
「もう結構よ。そこまで言い張るのなら仕方無い……」
私はカミテを向いて深く溜め息しながら、そっと上目に舞台袖を見た。姉妹たちはせわしなく互いの髪を触りながら出番を準備していた。私は今こそ好機と見定めてメリーへ向き直り、諦めと別れの台詞を言うことにする。
「今度こそ本当に力づくで屋敷から引っ張り出すことにしましょう」
しかし言ったのは私ではなかった。カミテから登場した三女が腕組みしながら前へ出た。
続いて次女が背後から私の肩を叩いて「あなたは妹のためにとても頑張ってくれたわ」と優しい声を出した。
長女だけは舞台そででちょっと顔を見せるか見せないかという具合に離れて立って「でも相手も頑張った。困ったことによ」相変わらずかぶりを振っている。
それから舞台上で展開された混乱の過程を順序立てようとすることは難しい。五人の間には目まぐるしい視線の交錯があり、明らかではない各自の動機があった。そして観客たちの存在があった。変化はあまりに複雑で急激だったため、そのときの私は自分の行動の理由さえ十分に自覚的ではなかったのだった。おそらく、舞台表現には不向きな演出が起こっていた。
長女の無言の合図を受けて、二人の妹たちは猫のようにメリーに飛びかかった。三女にスカートのすそを引っ張られながらも危うく身をかわしたメリーはテーブルをひっくり返しながら二人から距離を取った。ティーセットが砕ける音は思いがけないやかましさで劇場内に鳴り渡り、一瞬の硬直にかかった五人は、その最中に凄まじく目を使った。
動き出したのはメリーだった。メリーは私へ向かって駆け寄ってきた。役割から見れば、私は姉妹たちと一緒になって彼女を捕まえるべきはずで、実際、ことによればそうしていたかもしれない。
しかし、そのときのメリーの目には例の怯えの色調が映っていた。それに気づいた私はとっさにメリーの手を取り、そのまま二人一緒に舞台から飛び降りてしまった。客席までの高さと舞台下の照明の位置は、場面の途中で確認済みだった。
「捕まえて!」と三女の声が言っていたかもしれない。私は来たときとは全く反対に、観客たちの視線を集めながら客席の中央を突っ切り、メリーの手を引いて走った。何も考えていなかった。ただ、劇場内のどの目よりも、メリーの目に強く見られていることを感じていた。気がついてみれば、最初からずっとそうだったのだ。
私は魔術にかけられたように最後の台詞を叫んで劇場を飛び出した。
「ごめんなさい!」
この台詞もおそらく上出来だった
後日に情報を集めた限りでは、あの日の舞台はどうやら第三幕のお終いまで無事に演じ通され、観客の評判も大変良かったということだった。再びメリーとともに劇場の受付を訪れてみると、私の帽子とケープは忘れ物として保管されていた。
呑気なメリーはすっかり安心した様子で「面白かったね」と言った。私はしかし、あの日の舞台についてはもう何も言えなかった。あの日に比べてこの場では、自分に向けられる目の数が少なすぎていた。「やれやれ」と言うことならできたかもしれないが、またメリーを怖がらせたくなかった。
沈黙のまま劇場を去る私たちの背後で、あの日と同じ開演のブザーが鳴っていた。
私が劇場に入ったときには、第一幕の開演から既に三十分が過ぎていた。係員に誘導され、腰をかがめながら客席の間の狭い通路を歩いて行った。声を張り上げる女優の台詞が舞台上から降り注ぎ、なんだか遅刻して来た自分を叱りつけているような気がした。
叫んでいる女優は汚れているのに皺の無い洋服を着ていることからして、裕福な家庭の活発な娘という役らしい。「姉さんったらどうしていつもあんなに暗い顔をしているのかしら」という台詞の直後に一人で大笑いしているところは、姉と違ってむやみに明るい性格の持ち主なのか、女優の演技が過剰なのかちょっと分からない。とにかく、彼女たち姉妹が中心となる物語に違いなかった。
幸い、階段状に並んだ客席は高低差があったおかげで、暗闇の中を通って行く私は観客の注目を浴びてしまうようなことはなかった。係員はそれを右寄りの通路から注意深く回り込んで降りて行く。この様子ではメリーの用意してくれた「十列A席」とは思ったより舞台から間近に迫る位置のようだった。
そう理解して今更のように遅刻を申し訳なく感じていると、このまま座席まで誘導してくれるものと思っていた係員が非常出入り口の前で急に立ち止まった。
「第二幕まではこちらでお待ちください」
観劇に経験の少ない私はこれを途中入場者への措置としてありがちなことなのかと受け入れたが、ここまで連れて来たならもうあと少しくらい他の客の前を横切っても迷惑には大して変わりがないだろうという気もした。そこで思い出して手の中のチケットを確認してみると、指定座席の位置はやはり今いる非常出入り口からほんの四列と八席しか離れていない。
ただ、それよりも気にかかったことは、そうして目をやった私の席の左隣、「良い席が当たった」と喜んでいたはずのメリーの席に彼女の姿が無いことだった。私は疑いのうちに曜日を数えて今日が約束の日に間違いないことを再度確かめた。私がメリーの遅刻を待つのは本当に久しぶりのことだった。
メリーが居ないとなると、こんな暗い通路端で手すりにもたれて立ち見をしているのはなおさらばかばかしくなってしまう。舞台上では新たに二人の姉妹が登場して滑稽なやりとりを演じているが、それはもう私にとってもメリーにとっても書き出しを欠落させた脚本だった。
もっとも、そうした説明的な部分を省かれた状態では劇に一種の硬質さも宿るようで、謎めいた人間関係を推測しながら観る面白さはまだ残されていた。
彼女たちは仲の良い四姉妹で、舞台上の三人の他にどうやらまだ登場していない四女がいる。長女は次女の笑っていた口ぶり以上に陰気で、次女はやはり対照的な陽気さ、三女にはずる賢いところがある。三人の話題は主にお互いの性格的な長所と短所についてで、たまに自分の将来の理想を話し合うことがあるが、誰の理想も現在の生活とほとんど変わらない。よく声を合わせて英語の歌を歌っている。音楽好きの一家なのかもしれなかったが、それがあまり頻繁なので単なる舞台上の演出にも思えた。要するに波乱の少ない幸せな家族模様を描いているのだが、四女がいつまでも姿を見せないことだけは奇妙だった。
そのまま開幕から一時間が経ったあたりで、それまで椅子に座って自分からはほとんど口をきかなかった長女が唐突に立ち上がり、「父さんの決定」により一家が今居る屋敷を離れて遠くへ行かなければならないことを、陰鬱な口調で妹たちに告げた。第一幕はそこで終わった。
幕間に十分間の休憩時間が挟まれ、橙色の照明が戻った劇場で観客たちは同伴者と控えめな感想を交わしはじめる。私は端末を起動してメリーからの連絡が来ていないことを不思議に思いながら、こちらからも通話呼び出しを試みた。やはり応答はなかった。
そのとき、私の背後で非常出口の扉が開き、ここまで誘導して来たのとは別の係員が顔を出した。その係員は私に気づいても無表情のまま、しかし実に微妙な目つきと手振りによって劇場の外へと誘い出す意思を示していた。
考えてみれば私は、ここまででも既に十分奇妙な対応を受けていた。ただ、このとき私は劇場内で端末を手に通話しようというところなのだった。こうした劇場では何かしらマナーに厳しいところがあってもおかしくないと気づいた私は、外へ連れ出されて簡単な注意を受けるつもりでそのまま係員に従ってしまった。
非常出口を通り、普段は従業員専用らしい簡素な通路へ出た私は、即座に三人の係員に取り囲まれて「急いでください」「あと六分です」などと妙なことを言われながら奥へと小走りさせられた。困惑を口に出して訴える間も無く一つの扉が開けられ、真っ暗なその中へと強引に押し込まれた。そこはカミテ側の舞台袖だった。
「来た!」
客席で聴いていたほど甲高くはない声で、次女役の女優が振り向きざま叫けんだ。
「なんで黒い服なのよ! 大姉さんの衣装と被ってるじゃない!」
私のすぐ右隣から三女役が現れて泣きそうに切羽詰まった声を上げた。
「時間がありません。その下のシャツは白ですね。羽織っているものは外してください。帽子もです。白の手袋がありますから着けましょう。ウィッグは……今から選んでいられない。そのままでいきましょう」
隅に座っていた長女役が聞き取りにくい早口で言うと、妹二人が瞬く間に私の衣類を引っ張ったり奪ったり取り替えたりする。
とにかく、何かとんでもない勘違いが起こっているのは確かだった。おそらくは、例の誘導役の係員が私を妙な場所に立たせていたのが悪かったのだろう。
「すみません。すみませんが私、観客です」
白粉を顔に振り付けようとしてくる三女の手を払いのけてそう伝えるときは、できるだけ落ち着いた調子で、自分がこの手違いに腹など立てていないことを示すようにした。しかし、予想に反して彼女らの反応は何も無かった。
「時間がありません」と長女は壁の時計を見ながら言った。「あなたは道理をよく分かった女性で、聞き分けない四女を説得してくれようとします。四女の性格は私たちの誰とも似ていませんが、純粋で想像力の豊かな子です。仲良しになれますよ」
彼女たちの言うこと、ほとんど全てのことがおかしかった。しかし時間が無いと言ったのは本当のことだった。あらゆる真っ当な要求の口を塞ぐように第二幕開演のブザーが鳴り、音楽が始まった。もう理解する時間も、理解させる時間も無かった。
次女の手が有無を言わせない勢いで背中を押し、私は気がつけば眩しい照明の下、舞台の上へ立たされてしまった。
頬に熱さを感じるほどの強烈な照明が左右、正面、三方から向けられ、私はすぐに思考の筋道を見失った。平日のため客席は満員ではなかったが、どう少なく概算しても五十人は下らない観客たちの目が一つ残らず私を見ていた。私は、もう何もかもめちゃくちゃで、まるで話にならないと思った。
しかし、私の思うのとは他方で、劇がそこで終わることはなかった。自分ながら驚いたことに、私の頭は混乱しながらもとっさの際に適応行動を取ろうとした。
そこから舞台が見えた。場面は四姉妹の住む屋敷の一室で、そうとかろうじて分からせるだけの最低限の家具が中央に置かれている。私は第二幕の始まりにいきなりそこを訪れた、まだ目的の明らかでない何者かなのだった。白いかもしれない顔色を隠すため、まずは俯いて一つ溜め息した。それから何か格好をつけなければと思い、とりあえず両手を曖昧に広げた。全身、手指の先々にまで観客たちの視線が集まるのを感じた。ただそれは私が動きによって視線を集めたのではなく、むしろ全く逆に、静止していることを許さないそうした視線たちこそが私の体を動かしていたのだった。
沈黙は数秒程度しかもたなかった。いよいよ必要に駆られて私が発した第一声は、「やれやれ」というものだった。
「やれやれ……」
思いつきにしては悪くない、もしかすると上出来な選択だったと思う。おそらくこの一言だけが、言うべき台詞を見失った役者にとって全ての台詞に代わり得る一言であり、常に真実らしく発せられる最大公約数的な一言なのだった。
思い切って口を開いてしまえば、後の台詞は火から上る煙のようにひとつながりになって出てきた。本当に驚くべきことだったが、私はもう自分に注がれる無数の視線を恐れてはいなかった。
「全く、どうしてこんなことになったのかまるで解らない。私は軽い気持ちでお芝居を観に来ただけだったのに、気がつけばあの子たちに無理やり引っ張り出されて、ええっと、何て言ってたかしら……妹を説得しろだったっけ」
そこで私は無意味にゆっくりと一回転しながら、舞台袖の姉妹を見た。相変わらず陰気な長女が俯いてかぶりを振っていることを除けば、私の芝居は彼女らを満足させているようだった。次女などはぴょんぴょん飛び跳ねてばんざいを繰り返している。そうして、どうやら私には今から彼女らを裏切りこの役を降りることなどは、どんどん難しくなっていくようだった。
私はそのまま訳の分からない流れに乗せられて新たなでたらめを口走りそうになったが、危ないところでシモテから発せられた声がそれを遮ってくれた。
「まさか、お客さんがあなただったなんてね」
聞き覚えのある声に振り返ってみれば、不機嫌顔のメリーが舞台へと上がってくるところだった。客席に姿の無い彼女が今まで何をしていたのか、私はようやく理解することができた。彼女は私と目を合わせてもなお寄せた眉を緩めないまま台詞を続ける。
「こんなところで何してるの? と言ってもそれを聞きたいのはそっちの方でしょうけど……」
「良いのよ。その様子を見たら何となく分かったから。私の方はあの三人に強引に……。どうもあなたを説得して欲しいらしいわ」
「説得ですって? するならすぐにしてくれれば良いわ。私もすぐに説得されたふりしてあげる。その方がお互い早く済むでしょう」
「まいったなあ。そんな言い方されたんじゃあ、話にならないよ」
掛け合いは非常な円滑さで交わされていた。やや陰気に傾きつつあった会話を立て直そうとして試みた私の「まいったなあ」も成功していた。
そうして首尾良く調子を刻んでいく掛け合いの中、やがてはっきりしてくるこの第二幕の主題は、転居を受け入れないメリーと、説得しようとする私との不通感ということだった。
私は手掛かり一つさえ無い壁をどうにかよじ登って彼女を屋敷の外へと連れ出そうとする、時には実際に手を掴んで引こうともするのだが、その度に彼女は壁を新たに高く築き、身を翻して部屋の中を逃げ回る。私は説得に失敗しては大げさに失望し、たまにカーペットに躓きながら追いかけっこを演じた。
もちろん、客席から幾度かの笑いを獲得しながらも、うまく幕を引く方法を考えてはいた。
「こんなばかばかしいこと、いくら続けたってしようがないわ。あなただって、本心ではこんなところ、居たいわけじゃない……」
私は努めてゆっくりと台詞を区切りながら、しかし途中で口を挟ませない低声を保ち、舞台を端から端まで歩いていった。メリーは私と睨み合って目を離さないまま足の向きを巡らせる。ちょうどメリーが客席から顔を背け、自分の顔もその後ろに隠れたところで、私は短く囁いた。
「場面転換、すぐ逃げよ」
メリーは不意をつかれたような表情をして、かろうじて頷いて見せた。しかし、瞬間その目に浮かんだ淡い怯えの色調が、私には何か気掛かりなものとして残った。
「ええ、そうかも。でもきっと、ここを出たところで何も変わらないわ……」
第二幕、第一の場面は短かいものになりそうだった。そもそもこんな埒のあかないやり取りは、はじめのうちは受けを取れてもすぐにしつこくなってしまうのだから、埒のあかなささえ見せたらあっさり切り上げるくらいで不自然無い。
「もう結構よ。そこまで言い張るのなら仕方無い……」
私はカミテを向いて深く溜め息しながら、そっと上目に舞台袖を見た。姉妹たちはせわしなく互いの髪を触りながら出番を準備していた。私は今こそ好機と見定めてメリーへ向き直り、諦めと別れの台詞を言うことにする。
「今度こそ本当に力づくで屋敷から引っ張り出すことにしましょう」
しかし言ったのは私ではなかった。カミテから登場した三女が腕組みしながら前へ出た。
続いて次女が背後から私の肩を叩いて「あなたは妹のためにとても頑張ってくれたわ」と優しい声を出した。
長女だけは舞台そででちょっと顔を見せるか見せないかという具合に離れて立って「でも相手も頑張った。困ったことによ」相変わらずかぶりを振っている。
それから舞台上で展開された混乱の過程を順序立てようとすることは難しい。五人の間には目まぐるしい視線の交錯があり、明らかではない各自の動機があった。そして観客たちの存在があった。変化はあまりに複雑で急激だったため、そのときの私は自分の行動の理由さえ十分に自覚的ではなかったのだった。おそらく、舞台表現には不向きな演出が起こっていた。
長女の無言の合図を受けて、二人の妹たちは猫のようにメリーに飛びかかった。三女にスカートのすそを引っ張られながらも危うく身をかわしたメリーはテーブルをひっくり返しながら二人から距離を取った。ティーセットが砕ける音は思いがけないやかましさで劇場内に鳴り渡り、一瞬の硬直にかかった五人は、その最中に凄まじく目を使った。
動き出したのはメリーだった。メリーは私へ向かって駆け寄ってきた。役割から見れば、私は姉妹たちと一緒になって彼女を捕まえるべきはずで、実際、ことによればそうしていたかもしれない。
しかし、そのときのメリーの目には例の怯えの色調が映っていた。それに気づいた私はとっさにメリーの手を取り、そのまま二人一緒に舞台から飛び降りてしまった。客席までの高さと舞台下の照明の位置は、場面の途中で確認済みだった。
「捕まえて!」と三女の声が言っていたかもしれない。私は来たときとは全く反対に、観客たちの視線を集めながら客席の中央を突っ切り、メリーの手を引いて走った。何も考えていなかった。ただ、劇場内のどの目よりも、メリーの目に強く見られていることを感じていた。気がついてみれば、最初からずっとそうだったのだ。
私は魔術にかけられたように最後の台詞を叫んで劇場を飛び出した。
「ごめんなさい!」
この台詞もおそらく上出来だった
後日に情報を集めた限りでは、あの日の舞台はどうやら第三幕のお終いまで無事に演じ通され、観客の評判も大変良かったということだった。再びメリーとともに劇場の受付を訪れてみると、私の帽子とケープは忘れ物として保管されていた。
呑気なメリーはすっかり安心した様子で「面白かったね」と言った。私はしかし、あの日の舞台についてはもう何も言えなかった。あの日に比べてこの場では、自分に向けられる目の数が少なすぎていた。「やれやれ」と言うことならできたかもしれないが、またメリーを怖がらせたくなかった。
沈黙のまま劇場を去る私たちの背後で、あの日と同じ開演のブザーが鳴っていた。
謎に視線が交錯するシーンと、蓮子がメリーを連れ出して逃げるシーンがすき。
結局この劇場はなんだったのだろう。
あれよあれよと巻き込まれていく蓮子の混乱が伝わって来るようでした
怪奇現象というわけでもないのにあり得ないことが起こっているという不気味さがよかったです
おそらく上出来な感想が書けないのが悲しい。
本人達のみが知る即興劇、不思議ながらもテンポ良く展開が進んでいってとにかく凄いなと。
アドリブでどんどん喋っていくけど、そんなポテンシャルを秘めていても全く違和感無い二人だなと自然に思わせられる雰囲気も含めて素晴らしいです。
個人的にメリーがレイラ役というのもなにか色々と想像が掻き立てられて良いです。
プリズムリバー側の思惑が全然分からないのに観客にとっては劇が正常に進行していることに、誰もが互いの正体を告げてはならない不条理なゲームに参加しているみたいで、言いようのない緊張感を感じました
メリーの目を見て劇場から抜け出すところが実に秘封の二人という感じで良かったです
ここが印象に残りすぎて狂いそうです。
とてもいい小説でした。
客として来た蓮子の演技を舞台と同期する時の奇妙な感じが楽しめたわ
メリーは何に怯えていたのかしら
わからないところが多いのは釈然としないわね