Coolier - 新生・東方創想話

古明地さとりは図太く生きる  二 例えば地霊殿当主の面目を潰されたとして

2018/08/31 23:16:19
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あらすじ:なぜか旧地獄めぐりが大ブームとなってさとりが調子づいていたところ、不慮の事故で大怪我して心読めなくなった(その一)

 二 例えば地霊殿当主の面目を潰されたとして


 阿求は鈴奈庵のカウンター裏手に置かれたものを、目ざとくみつけてしまいました。
「私は、あんたを焚きつけたつもりはなかったんだけどねぇ」
 口の端が若干引きつっております。阿求の見つけたそれは、大きな旅行鞄でした。
 小鈴は阿求の様子を見ると、額に汗を浮かべて両手を降ります。
「べ、別にそんなんじゃないったら。ただ妖魔本を扱う者としては、こういう機会に『著者』のことをよく知ってみたいと思っただけよ」
「よくご両親が反対しなかったわね?」
 小鈴は阿求から視線を逸らしながら、両手を後ろに回しました。
「もはや諦められてるんじゃないかって、自分でも思います」
「旅費は大丈夫なの?」
「読書以外の娯楽を知らないと、わりとお小遣いって溜まるものなのよね」
 阿求はそんな小鈴の態度を見守ると、深いため息をつきました。
「……今度こそ妖怪に取り込まれないように気をつけなさいね? あんたが危ない橋を渡るのなんて、昨日今日に始まった話じゃないけれど」
「頑張る。生きて帰って、幻想郷縁起よりも詳しい地底見聞録を読ませてあげるんだから」
「そう上手くいくかしらねぇ」
 小鈴の鼻息は荒いです。地底行きを諦めさせようしたところでかえって意固地になる性分なのは、阿求なりに長い付き合いでよく知っておりました。
「大丈夫よ。幻想郷縁起に書かれた地底の情報は頭に叩き込んだし、どういう部分を補完すればいいかのイメージもちゃんとあるんだから」
「問題は、そういうことじゃないのよねえ」
 阿求は小鈴を見る目を、針のように細めます。
「どういう意味?」
「まあ、体験してわかることもあるでしょう。行って確かめてごらんなさい」
 小鈴は阿求の言葉に、顔をしかめるよりありませんでした。

 §

 パルスィの仕事場は、旧都に続く橋の上にありました。踊り場に椅子と傘など置いて簡易な休憩所を作り、またお茶や煙草を持ち込んで、日がな一日通りがかる者を待ち構えるのが普段のお仕事でした。もっとも橋を渡る者がめっきり途絶えた昨今では、誰も通りがからないときを見計らって旧都へ遊びにいくことも多かったのですが。
 パルスィは煙管を片手で玩びながら、隣に座るヤマメに緑色の目を向けました。
「あの子が? 本気かしら」
「嘘をつくほど器用な子じゃあないよ、キッシーは」
 目を伏せて煙管の煙を吸い込み、口からゆっくりと吐き出します。
「信じ難いけど、あんたもそれに協力するつもりなのかしら?」
「無謀は無謀だが、今のさとりは大怪我してる。出し抜く余地は十分にある」
 傍の竹筒を雁首で軽く叩きますと、煙草の燃えかすが筒の中に落ちていきました。
「例えあいつを出し抜けたとしても、ペット連中が黙っちゃいないわ」
「だが実際、私らにとっちゃ千載一遇だ。さとりに一泡吹かせられるね」
 パルスィはヤマメに細い目を向けながら、足を組みます。
「実際妬ましかろう? なんだかんだと言いつつ、今の騒ぎでいちばん得してるのはさとりだ。私の病もパルの妬みも勇儀姐さんの暴威も、さとりの読心には敵わない。このままじゃ、あいつにいいように使われ続けるばかりじゃないかね?」
 膝の上に立て肘をつき、頬を膨らませました。
「否定できないわね……ほかの誰かには、このことを伝えた?」
「姐さんにはもう話した。鬼衆の伝手にも手を貸してもらえないか話をしている。今地霊殿で働いてるアルバイト連中にも声をかけてある。今のところはみんな協力的さ。なんだかんだで、みんなさとりのことは気に入らないからね」
 パルスィの頬が上に釣り上がります。
「話が早いこと。でもさとりだって、いつまでも怪我人じゃないわよ。第三の眼が治ったら、お礼参りに来る覚悟もしといたほうがいいかもしれない」
「お姉ちゃんが、そんなことするはずないじゃない」
 急に、反対側から声が聞こえました。パルスィが思わずヤマメの方向に仰け反ります。こいしときたら、勝手に茶を汲んでパルスィの隣で湯呑みを傾けておりました。
「相変わらず唐突ね。私たちの話をどこから聞いてたのよ」
「キスメちゃんが面白いこと思いついたってあたりからかな?」
「最初からかよ」
 ヤマメはパルスィの背中から身を乗り出し、こいしに向けて牙をむきます。
「さとりにこのことを告げ口するつもりかい?」
「私はたぶん、しないと思うわ?」
「推測」
 ヤマメとパルスィは半身になって、いつでもこいしに飛びかかれる体です。そんな二人をよそに、こいしは悠々と茶を一飲みしました。
「伝えたところで、お姉ちゃんは何もしないよ。元々出不精だし。万が一にも出てくることがあるなら、私があなたたちの味方になってあげてもいいわ」
 がたと椅子が少し揺れる程度に、二人の腰が同時に砕けました。パルスィは一瞬だけヤマメと顔を見合わせたのちに、こいしへ傾いた顔を向けます。
「眉唾ね。天下の気まぐれ妖怪であるところのあなたが、敵だ味方だなんて。実の姉に楯突いて、なんの得があるっていうのよ」
「んー、そうしたほうがきっと面白いからかな」
 欄干の向こうに、膨大な流水がゆっくりと流れていきます。そのまた向こうは闇に霞んで、果てを見通せることはまずありませんでした。
「……そんだけかよ!」
「そんだけよ? あなたたちだって、似たようなものじゃない? 面白いから人間の観光客を受け入れたし、面白いからお姉ちゃんの求人にも乗っかったんでしょ? だったら、面白いから裏切ってもいいじゃない」
「一本取られたわね」
 ヤマメがパルスィの肩を叩きます。
「パル、そろそろ腹を決めようや。こいしがこっち側に来るってんなら、さとりからのクレームもいなせるやもしれないよ」
 パルスィは背中でヤマメの重みを支えたまま、左手の煙管をくるりと回しました。
「あんたたちの決断の早さが、妬ましいわ」

 §

 場面は変わりまして、地霊殿です。
 事務机の上には、菫子の写真が露店じみて並んでおりました。当初菫子からキスメに託されたそれらは、ヤマメ、お燐を経由して現在は私の手元にあります。
 こいしが写ったものもありました。目を離してもいなくならないというのは、いいですね。ついでに本人も早く戻ってきてくれるといいのですけれど……当然このときの私は、こいしがヤマメたちと結託してなにかをやらかそうとしているのを知りようがありませんでした。
「新聞は白黒でしか写らないから、こういう色のついた写真は新鮮ね」
「もらってっていいですかさとり様」
 お燐が体を揺すりながら、一枚の写真を掲げます。お燐とお空が肩を並べて、つぶらな目をこちらのほうへ向けているものでした。
「どうぞ持っていらっしゃい。額でも誂えましょうか」
「あると嬉しいなぁ」
 お燐はもうその場で写真を抱えて、その場で小躍りしそうな勢いです。微笑ましいですね。大事な家族、友人。こういうものを一つでも手に入れて、残したくなる外来人の気持ちがなんとなくわかるような気がしました。
 そこでようやく一つ、気がついたことがあります。私は改めて、机の上に残った写真を一通り見回しました。不足があるのに気がついたのです。
「写真はこれで全部?」
「ええ、恐らくは。あ、ヤマメとパルスィが何枚か抜いてきました」
「そう。じゃあ、恐らくはその中かしらね……菫子さんが地霊殿を撮って回った際に、一枚だけ全員で撮ったものがあったでしょう?」
 やがてお燐が、ぽんと手を打ちました。
「あー、そう言えば。あいつらもそういうことはきちんと言やいいのに」
 では、多分二人のどちらかがそれを抜いたのでしょう。と、そのときは思ったのですが。
 よくよく考えると、おかしな話です。ヤマメやパルスィはお世辞にも、私のことを好いてはおりません。それが私やこいし、みんなが写っている集合写真を抜き取るのには、どうにも違和感がありました。
 まあ、そのうち第三の眼が治るでしょうし。そうしたら誰が抜いたのかも、おのずとわかるでしょう……と、そのときはのんきに考えていたものでした。
 私は写真を抜き取る者がもう一人いたのを、完全に失念していたのです。

 §

 さて、それから数日ほど経ったある日のことでした。
 幻想風穴の前に人だかりができておりました。古明地観光のブローカーからチケットを買い、日程に沿ってこの場に集まったお客様の一団です。その中には小鈴の姿もありました。
 小鈴は周りに集まった人々の様子を見回します。顔の筋肉を強張らせて風穴の入り口を凝視する者。他愛のない世間話をしている者。なぜか念仏を唱えている者など。その様子を眺めると、小鈴も少しだけ旅行鞄を握る手が緩むのでした。集団心理というものでしょう。
 そこに、錆びた滑車を回すようなガラガラガラガラという音が近づいて参りました。風穴のほうからです。小鈴を含めたお客様たちが風穴の暗がりに視線を集め身を低くしておりますと、一個の桶が姿を見せました。鬼めいた形相の女がぬうと顔を出し、お客様をにらみつけます。
「よく来たな、人間ども。地獄の入り口へようこそ」
 キスメの姿を見たお客様が、思わず後ずさりしたり腰を抜かしたりしております。そんな中小鈴はただ一人、現れた妖怪をまじまじと眺めておりました。
「生きながらにして地獄を味わいたいだなんて、酔狂なやつらだ。ここから先、生きて地上に戻れるかはお前らの態度次第だぞ。それでも行くのか」
 キスメの口上です。今日は噛まずに言えましたね。お客様たちも固唾を飲んでおられますよ。
「返事がないのは、それでもいいってことだな。これより地獄の底までお前たちを案内する」
 キスメの隣にせり上がってきたのは、大人十人ほど楽に乗り込めそうなほど大きな桶です。これでヤマメの捕獲網をすり抜け、安全に橋の手前までお客様を運ぶという仕組みでした。
「乗り込む前にチケットを寄越せ。そいつが地獄の渡し賃代わりになる」
 お客様が順々に桶へ乗り込みます。キスメの不思議な釣瓶縄とヤマメの糸で補強されたそれはたいそう頑丈なもので、荷物を持ったお客様が乗っても軋む音すらしませんでした。
 小鈴はといえばキスメにチケットを渡しつつ、まだその姿を眺めております。
 うーん、と口の中でうなりました。小鈴の思い出しているのは、おそらく幻想郷縁起の記述でありましょう。地底の代表的な妖怪については、穴が空くほど読んで覚えたつもりでした。
 聡明な読者様は、もうおわかりとは思いますが。実は幻想郷縁起には、キスメについて取り扱ったページがなかったのです。阿求が取るに足らない妖怪と判断したのか、特別にページを設けるほど情報がなかったのかはわかりませんが。
「どうした、お前。何をじろじろ見ている」
 気がつけば、キスメのギラギラした瞳が小鈴を見上げております。桶の中には血なまぐさい匂いのする錆びた鎌が見えました。うっかりその場でたたらを踏んでしまいます。
「あ、はい、ごめんなさい」
 首筋にちりちりとしたものを感じました。足早に桶へと乗り込み、出発を待ちます。
「……それでも、幻想郷縁起に乗ってないのなら、大した妖怪ではないのかしら」
 小鈴が小さく呟いた言葉は、幸いにも誰の耳に届くこともありませんでした。

 §

 さて、少しだけ時間を巻き戻してみましょうか。
 お客様と、それに対して見得を切るキスメとの様子を、少し離れた木立の中から見守るものがおりました。そいつはキスメを恐れるお客様を見て、口角を持ち上げます。
「初々しいわね。あんな雑魚妖怪を怖がるなんて。虚勢を張ってるのが見え見えじゃない」
 女苑はそこで、お客様の中で一人だけリアクションの薄い小鈴の姿を目に止めました。お下げ髪を結うのに使う大きな鈴には、女苑も見覚えがあったようです。
「あれはいつぞやの貸本屋。あの子もツアーに参加しているのね」
 小鈴の後ろ姿を見守りながら、女苑はコートのポケットをまさぐります。
「前のやり取りで、刺激しちゃったかな? いずれにせよ雑魚とはいえ、妖怪を前に物怖じしないあの態度。ほかの有象無象に比べたら、なかなかの逸材だわ。妖魔本を扱うというのは、伊達ではないということかしら? ……よーし、あの子にしよう」
 ポケットから取り出したのは、布でできたなにかでした。あり合わせのもので作ったらしく継ぎ接ぎだらけで、糸を幾重かに縫いこんだ目と口のようなものが見えます。縫い目のそこかしこから綿が見えていますしだいぶん歪んでもいますが、縫い付けられた長さの異なる四本の円柱は腕と脚に見えないこともありません。万が一にも人の形を模したものだとするのなら、背中にあたる部分には赤く歪んだ鳥居の記号が描かれておりました。
 どこからどう見ても、呪術のたぐいでした。
 女苑はその人形みたいな何かを、小鈴に向けて投げつけました。それは意外なほど大きく宙を舞って、小鈴にも、ほかのお客様にも、キスメにも気づかれることなく小鈴の鞄の上に落ちます。するといかなる理屈かそいつはもぞもぞ動き出し、中に深く潜り込んだのでした。
「準備よし。無事に『私』を送り届けてちょうだいね、肝の太い貸本屋さん」
 それだけ言い残すと、女苑は木陰にまぎれて風穴から離れていったのでした。

 §

 そのころの私はといえば、例によって自分の部屋で書類の整理に勤しみつつこいしの気配を探して意識を研ぎ澄ませていたところでした。
 こいし探しは私にとって、たいへん重要なライフワークの一種でもあります。椅子の後ろ、ベッドの影、意表をついて正面の扉からと……あらゆる方向に気を配っていないと、あの子はすぐに見失ってしまいます。ですから残念ながら、私は顧客台帳のチェックに恐ろしいほどの時間を費やしてしまったことに気がつきませんでした。
 台帳の束を机の平で揃えて、両肩を軽くもみほぐします。そこで私は、開け放しになった窓に目をやりました。そろそろお燐から伝書鳩が届いてしかるべき時間であると、私はようやく思い出したのです。あの子は旧都の入り口で、パルスィからお客様を引き継ぐ予定でした。
 ドアを叩く音がして、ペットが入ってきます。
「さとり様、ちょっと困ったことが」
「どうしたの?」
「仲居のアルバイトが出勤してこないんです。あとヤマメも」
 胸騒ぎがしました。もちろん悪い意味での。
「欠勤の連絡は?」
「ありません」
 机の上が慌ただしくなりました。すぐさま書類の並びを漁ります。
「今のお客様についてはペットだけで回せるよう、シフトを調整します。しばらく辛抱してね。あと誰かお燐に遣いを。橋の向こうの様子を見にいくようにと。あくまで見るだけですよ? 何が起こっていても絶対にこちらから手を出さないようにと伝えておきなさい」
 やれやれ。鬼に続いては、あの子たちってことですか。
 私ってば、そんなに人望ないんですかね?

 §

 一方、その頃の小鈴の話ですが。
 桶に乗って暗く寂しい幻想風穴を降りていきますと、行く手にヤマメの網が待ち構えます。お客様は網に引っかかった白骨に肝を冷やしながら、網の隙間をすり抜けていきました。
 それからもうしばらく暗くて岩しか見えないような場所を降りていき、ようやく地の底にたどり着きました。桶から降りてもキスメの起こした鬼火くらいしか、灯りがありません。
「ここから先は歩きだ。はぐれたら探せなくなるぞ。命が惜しくばちゃんと着いてこい」
 観光客はキスメに続きます。風穴ほど険しくはありませんが、ジメジメとした岩の道です。うっかり窪みや炉端の石に足を取られれば、転倒しかねません。
 さらに半刻ほど歩きますと、薄ら寒い風がびゅうと吹き抜けて同時に視界が開けて参ります。砂利の多くなった道程の先に、ほの暖かいオレンジ色の灯りが見えました。
「さあ、さっさと歩け。向こうに見えるのが、お前たちの泊まる宿だ」
 汗を余分に流し、また顔を強張らせていたお客様たちから大きなため息が漏れ聴こえました。そんな中でただ一人、小鈴だけは眉をハの字にして灯りを眺めていたのです。
「あれが地霊殿……? 旧都の、もっと奥のほうにあるお屋敷って話じゃ?」
 はい、よく予習していらっしゃいますね。それではキスメが宿と呼んだものは何かという話になります。近づくにつれて明らかになってきたのは、灯りの出元が二階建ての立派な旅籠であったということです。もしかすると地霊殿に造った建屋よりも大きいかもしれません。
 おお、とどよめきをあげながらお客様たちが旅館へ飲み込まれていきます。暗がりに取り残されるわけには参りませんので、小鈴もそれに続くしかありませんでした。
 中に入っていくとほの明るい行灯に照らされた、石畳の綺麗なな土間に通されました。一段上がった先には、翡翠色の和服を着た金髪の女が静かに正座してお客様を待ち構えております。
 女は、パルスィはゆるゆると頭を下げて言いました。
「ようこそ、橋姫宿場へ」
「橋姫宿場だってぇ?」
 小鈴は声を裏返してしまいました。パルスィがそれを耳ざとく聞きつけます。
「あら、何かご不満?」
「いやその……地霊殿ツアーと聞いたからてっきりそこまで行くものかと」
 小鈴が口を震わせて弁明します。パルスィはそれを見てにっこり笑いました。
「地霊殿は少々鬼との小競り合いがあって、今は危険な状態よ。従業員判断で代理の宿を用意させていただいたわ」
「は、はあ」
「旧地獄めぐりはこの橋姫宿場を拠点として、予定通り進行します。部屋数は予定数を確保してあるから、安心してご逗留くださいな」
 なるほど、そういうことなら。と小鈴を除くお客様がたは口々に言いました。小鈴は一度外を見ますが、もうキスメの姿はどこにも見えません。案内はここまでということですね。
「地霊殿には、行かないのかぁ」
 小鈴は小さく呟いて、荷物を抱えなおしました。

 §

 そのとき、小鈴の鞄からあの歪んだ人形が這い出して、土間に落ちたことに気がついた者は小鈴も含めて誰もおりませんでした。
 それはもぞもぞと土間を這っていき、下駄箱の陰に身を隠します。
「ふ、ふ、ふふふ」
 含み笑いとともに下駄箱から這い出してきたそれは、もう人形ではありません。大きさこそ人形と同じでしたが、螺旋じみたお下げ髪に紫色のコート、身につけたさまざまな装飾品は、依神女苑の姿そのものではありませんか。
「分神作戦は今のところ大成功だわ。それで? ここは地霊殿じゃないってのね?」
 女苑の視点からは、荷物を抱えて座敷に移動するお客様の姿が見えました。女苑もひょいと板の間に飛び乗り、廊下の梁へとよじ登ります。
「人形に自分自身を分祀するとか、我ながら上手いこと考えたもんだわぁ。憑依異変のときにこれを思いついてたら、私たちもう少しうまくやれてたかしらね……」
 梁から梁へと飛び移りながら、女苑は独りごちました。
「過ぎたことを嘆いても仕方ないわね。まずは偵察よ……事情はよくわからないけれど、行き場所がサトリ妖怪の住処じゃないのなら、いろいろやりやすくなるわね。まずはここを根城として、地底の財を奪い取ってやるんだ」

 §

 地霊殿からの知らせを受けて橋を渡ったお燐が橋姫宿場を見つけたのは、それから少しあとになってからのことでした。
「こいつぁいったい、どういうことだい」
 つい昨日までは、なにもない河原だった場所でした。そこに現れた立派な御殿を見上げて、お燐はぽかんと口を開ける以外にありません。
 御殿が張りぼてじみた一夜城でないことも、一目でわかります。そんな怪力乱神じみた真似ができるようなやつといえば、旧都でもさすがに限られております。
「おう、お燐。なかなかのもんだろう、新しい宿場は」
 お燐の横に歩み寄ってきたのは、勇儀でした。お燐は歯ぎしりして一角の鬼を見上げます。
「建てたのは、やっぱり姐さんかい。新しい宿場だって?」
「おう。地霊殿に建てたやつを手本に、あれより多い部屋数と設備とをあつらえた。旧都から温水管を敷いて、源泉掛け流しの温泉も実現したよ」
「まんまパクリじゃねーか! そしたらなにかね、このお宿は先日の仕返しかなにかかい?」
「仕返し? この前の、さとりと鬼との果たし合いのことかね?」
 勇儀はお燐を見下ろしたまま、目を丸くします。
「そんな瑣末なことで、我々が仕返しなぞするものか。ただ頼まれたから、建てただけさね」
「頼まれたからってねえ」
「詳しいことは私より、施主に聞いたほうが話は早かろうさ。たぶん中にいるよ」
「あんた相手じゃ、らちが開かんってことかね。では、そうさせてもらう」
 お燐は荒々しい鼻息を吹き出して、改めて御殿を見上げました。梁の上にかかった看板には「橋姫宿場」の文字が見えています。
「まったく、どういうつもりなんだか」
 乱雑に足音を踏みならして玄関に近づこうとしますと、上から何かがするすると降りてきて、お燐の前に立ちはだかりました。
「おおっと。ここじゃ客に迷惑がかかる。話なら別の場所で聞こうじゃないか」
 ヤマメがお燐を前に、糸を巻き取って身構えます。
「やっぱり主犯はあんたらか。パルスィも共犯だね?」
「まあ、橋姫宿場って言うくらいだからねぇ? あの子が女将さ」
 御殿の前で、お燐とヤマメがにらみ合います。勇儀はといえば酒の注がれた盃を左手に携えたまま、事の成り行きを見守っておりました。
「こんな宿作って、来るはずだったお客までかっさらって。どういうつもりだい?」
「どうもこうも。私らはね、そもそも疑問だったんだ。せっかくの地底観光ブーム、そのなんもかもを、さとりに独占させていいものかってね」
「そもそもツアーを組んで宿を始めたのはうちらだよ?」
「真似しちゃいけないって道理はないねえ」
「悪びれる気もなしときやがった」
 ガラガラと音がして、お客様が立て続けに二階の雨戸から顔を出しました。宿の前で妖怪二人が向き合っているのを見つけて、声を上げ始めています。
「さて、文句があるならここでおっぱじめるかい? 客にとっては大した余興になるだろうさ」
「んの野郎……」
 勇儀は相変わらずニヤニヤしながら、お燐とヤマメの様子を眺めるばかりでした。
 ですが、お燐は賢しい子です。いっときの怒りに任せて私の言いつけを破りはしません。
「仕方ない、今日のところは引いてやる。だけどこのことはさとり様に包み隠さず報告さしてもらうからね。せいぜい首を洗って待ってるこった」
「いつでも来いさ。今のあいつに何ができるか知らんけどねぇ」
 と、お燐は無念の撤退とあいなったのでした。その様子を勇儀のさらにうしろ、御殿の物陰から、キスメがじいっとにらんでおりました。

 §

 同じころ、小鈴はほかのお客様と同様、二階の廊下から入り口のやりとりを見下ろし血色を失っていろところでした。
「私たち……さらわれちゃったのかしら?」
「別に危害を加える目的じゃないから、安心なさいな」
 振り返りますと、パルスィが小鈴のうしろにたたずんでおりました。髪をかんざしでまとめ、和服で着飾った彼女の姿には同性でも振り返るものがあります。
「地霊殿に行ったところで家主は油断のならないし怨霊はごまんといるし、道中は鬼がちょっかいかけてくるしで、ただの人間にとっては危険極まりないわ。ここを拠点にしても、地獄は十分に味わえるでしょうよ。あなたたちに損をさせるつもりはないから、安心なさい」
「はあ……昨日今日いきなり宿を始めた体ですけど、そこんとこは大丈夫なんです?」
「従業員は地霊殿で研修済みよ。それに『橋姫宿場』なんて銘打ってるのは私自身にそういう経験があったから。ま、どっちかといやアッチ方面のお宿に近いけどー」
 パルスィが肩に手をやって、襟元をわずかに外へとずらします。小鈴は頬に熱を感じると同時に、二三歩引き下がって両手を振りました。
「そういうサービスはちょっと……」
「冗談よ、冗談。ま、あんたたちは大船に乗ったつもりで居りなさいな。地霊殿に引けをとるつもりはないんだから」
 パルスィはクスクス笑いながら、小鈴の前を通り過ぎました。廊下にいたほかのお客様とも軽く会釈を交わしております。その姿を見送って、小鈴はうつむくのでした。
「地霊殿には、どれだけの妖怪がいたかしら……?」
 葬儀場に現れ、死体を持ち去る恐怖の妖怪、火焔猫燐。
 危険な核融合の炎を操るため、直視すら難しいという危険な妖怪、霊烏路空。
 無意識を操るとされるけれども、実態はよくわからない謎の妖怪、古明地こいし。
 そして私、心を読むというだけでみなから避けられる妖怪、古明地さとり。
 幻想郷に記された地底妖怪の中でも、実に過半数が地霊殿に住む妖怪でもありました。
 これでは地底の妖怪を調べるという、小鈴の目的も片手落ちです。さぞかし不満でしょう。不満でしょうとも。実際彼女は腕を組み、人差し指をこめかみに当てて部屋へ戻るのでした。
「相談したほうがいいのかしら?」

 §

 それからしばらくして、私はお燐から橋姫宿場のことを聞くことになりました。お燐は顔を赤らめて宿場で受けた仕打ちをまくし立てておりましたが、平静を保つのは大事なことです。
「事情は把握しました。離反したのはヤマメとパルスィを主体とした、アルバイト連中ということでよろしいかしら?」
「恐らくは。星熊の姐さんはまあ、ああいう性分ですから本当に頼まれただけかと」
 私はお燐の返事を聞きながら、書類を束ねまとめていきます。
「いや、そこに誘導する者も必要だわ……キスメも絡んでるのかしらね。ちなみに、こいしはその場にいたかしら?」
「いたとしたって、気づきませんよ。さとり様じゃないんですから」
「あら、残念。まあ、どちらにしても大変ね」
「言いつつ、全然大変そうに見えないんですがね」
 お燐が、私を三日月みたいな目で見ております。
「大変ですとも。今日はペットたちの賄いが、たいそうなことになりそうだわ」
「内々の処理もアレですけど、今は連中の処置をですね」
「まあ、そっちもなんとかしましょう」
 私はまとめた書類を封筒に詰め込むと、かたわらの松葉杖に手を伸ばしました。お燐がすぐさま回り込んで、私の体を支えてくれます。
「様子を見に行きましょう。川の向こう側かしら、こっち側かしら」
「行きますか、やりますか。兵隊はなんぼ連れてきますか。今なら手ぇだいぶ空いてますよ。とりあえずお空は連れてくとして」
「落ち着きなさい、お燐。戦争しにいくわけじゃないのよ? そうね、あなた一人付き添ってくれれば十分。私の代わりに、これを運んでくれるかしら?」
 お燐は私のまとめた封筒を、両手で抱え持ちます。
「宿帳なんか持って行って、なにに使うおつもりなんです」
 私は秘密めかして人差し指を立てました。
「じきに、わかりますよ」

 §

「地霊殿に住む妖怪のことが知りたいの?」
 宴席の場で、パルスィは小鈴の申し出を繰り返しました。
「はい、地獄めぐりとどちらかといえば、そちらのほうが目的でして」
「ふーん、奇特な人間もいたものねぇ。さっきも言ったけれど、あまり安全な場所ではないわ。旧地獄めぐりでも、さらっと外覧して終わるつもりだったし」
「そうなんですか……」
 小鈴にとっては都合の悪いことに、ほかのお客様は突然のツアー予定変更でも文句は無いようでした。小鈴一人がわがままを言えるような状況とは思えません。
「だいたいあそこの妖怪ったって、ろくなもんじゃないわよ。特に主人の古明地さとり。あいつに暴かれたくもない本心を暴かれて恥ずかしい目を見たやつは多いわ。かく言う私も……」
 と、パルスィは私に対する悪口をペラペラペラペラと並べ立てました。小鈴は黙って聞いています。元が饒舌な子なので、あまりつまらないというほどでもありません。
 と、そこへ客席の隙間を縫って、ヤマメがそそくさと近づいてきました。
「パル」
 ヤマメの耳打ちに、パルスィの眉根が寄ります。
「わかった、行くわ……ごめんなさいね、急な来客が入ってしまって」
「いえ、わざわざどうも」
 パルスィが、ヤマメと連れ立って宴会場を出て行きます。小鈴はメモ帳を取り出し、パルスィの話を書き取りました。
「伝聞でも情報を集めておかないと、阿求に合わせる顔がないわね」

 §

 梁の下を歩くパルスィとヤマメの姿を、女苑が見咎めました。
「どうやらあれが、ここの女将のようね。どーれ、まずは手始めにあいつをそそのかして……」
 真下を歩く二人のひそひそ声が、女苑の耳に届きます。
「まさか早速さとりが直々にやってくるとはね」
「堂々としてりゃいい。あっちが先に手を出してくりゃ、しめたもんだよ」
 女苑の動きが、ぴたと止まりました。
「さとりだって。近づいたらやばいじゃないのよ」
 女苑はパルスィたちと逆方向に、梁を伝いました。
「ここはいったん人の多い場所に紛れないとね。ついでに、ほかの従業員にもカモにできそうなやつがいないか調べてみるか」
 とまあ、このときは距離を取ってくれましたので……私が女苑の存在を知ることはありませんでしたし、女苑が私の怪我を知ることもありませんでした。
 パルスィたちにとっては、災難だったかもしれません。

 §

 橋姫宿場の事務室は、来客用のソファと簡素な事務机が四畳半にも満たない部屋に押し込められた、息苦しい場所でした。ソファの上座に私とお燐、下座にヤマメとパルスィが座って、テーブルを挟んで向かい合います。
 二人はまんじりともせず私の動きを見守っておりました。
「まずは開業おめでとうございますと、言っておけばよろしいでしょうか。あまりに急なことだったので、花輪など用意はできませんでしたが」
 ふ、とパルスィが鼻息を吹き出します。
「ずいぶんと余裕ね。ほかになにか、言いたいことがあるのではなくて?」
「さいですねぇ。めでたく『暖簾分け』したことですし、こんな餞別はいかがでしょうか」
 私はお燐に目配せしました。彼女は私のほうをジロジロ見ながら、封筒の中身をテーブルに置きます。例の書類の束を、ヤマメとパルスィが見下ろしました。
「なに、これ」
「ここ最近の、地霊殿を訪問したお客の台帳です。この情報は共有が必要と思いまして」
 遠くのほうから、宴席の歓声が聞こえて参りました。
「は?」
 ヤマメもパルスィも、おまけにお燐まで見事な合唱でした。
「観光客が増えたといっても、人間の数には限りがあります。となると今後増えてくるのは、二度三度と地底を訪れる者、すなわちリピーターです」
「はあ」
「この顧客台帳には基本情報に加えて外見の特徴、宿泊中に読み取った嗜好や性格などを可能な限り記載してあります。特に攻撃性の強い、厄介系の客についてはドッグタグをつけてありますので、ご参考までに」
 二人が、いや三人が、卓上のなんの変哲も無い紙の束をオーパーツのように見下ろします。
 最初に動いたのは、パルスィです。台帳を両手で持ち上げて、適当なところを開きました。額にしわを寄せたまま、二ページ、三ページとめくっていきます。
「……確かに言葉に偽りはないみたいね。内容に偽りがあるかどうかはともかくとして」
「ずいぶん手の込んだ間違い探しですわ」
 パルスィが台帳を閉じます。テーブルの上で、ボンと音が立ちました。
「だって、勘繰りたくもなるじゃないのよ。あんたが私たちにここまでするメリットが、いったいどこにあるっていうの」
「そも、私たちには温泉宿を副業にするほど生活に困ってはございません。ちょっとの恐怖をいただければ、それでよかったから始めたことですし」
 第三の眼を持ち上げます。未だ包帯が巻かれたままでした。拾う心の声も雑音だらけです。
「加えて女将がこの有様では、大量のお客を捌ききる余裕もありません。私にとっては、望まれたクーデターであったのですよ」
 パルスィは親指の爪を、音が聞こえるくらいに噛みました。
「妬ましいわね、その余裕。余計に鼻っ柱を叩き潰してやりたくなったわ」
 ヤマメもまた前のめりになって、私を見上げます。
「私らが奪ったのは客だけじゃない。本来あんたらに向けられていた恐怖もだ。忌み嫌われた妖怪の本領を発揮し損ねたことを悔しがることだね」
「あら、大変。では、こちらは持って帰ろうかしら」
 私は顧客台帳に手を伸ばしました。ヤマメがかるた取りじみた動きで上から押さえます。
「ちょっと待て。なぜ、そうなる」
「肝心の言葉をまだ聞いておりませんが?」
「言葉だって?」
 テーブルの上で、顧客台帳がミシミシと音を立て始めました。そこに三本目の手が伸びて、ヤマメの手を軽く上に押し上げます。
 パルスィはほんの一瞬だけ、顔におびただしい数のしわを刻んで私をにらみました。続いてすぐに真顔に戻ると、両手を膝の上で合わせて私に深々と頭を下げます。
「どーもありがとうございます。今後の勉強のため大いに活用させていただきますわ」
「結構」
 私もまた顧客台帳から手を離しました。
「用件は以上ですわ。戻りましょう、お燐」
「え、本当にそんだけなんです?」
 お燐は未だ腰を重そうにしておりました。立ち上がりながら、パルスィに尋ねます。
「ああ、一つ思い出したことが。こいしはここに来ておりませんです?」
 二人が一度、目線を合わせる様子が見えました。
「来てないわね。あんたのこいし好きも相当よね、相変わらず」
「こいし好き? いえいえこれはむしろ、こいし狂いと言うべきでしょう。それからもう一つ」
 二人の目をまっすぐに見て、さらに問いかけます。
「この件を思いついたのは、あなたたち二人だけですか?」
 パルスィが私を見返しました。
「そうよ。あんた一人がおいしい目を見るのが、気に入らなかったから」
「そうですか。承りました」
 二人との会話は、それでおしまいでした。私はお燐の背を触って、退室を促しました。

 §

 橋姫宿場を出た私たちは、元来た橋を引き返し始めました。未だ足は治っておりませんので、これを引きずりながら渡河するのはなかなか辛いものがありますね。
 するとお燐が無言で私から杖を取り上げ、肩を担ぎます。
「今後も遠出するんなら、車椅子でもあつらえましょうや」
「それも、いいかもしれないわね」
 しばらくは無機質な橋の直線と、眼下の水流が続きます。私たちはそこを無言で歩きました。
「いくらなんでも塩送りすぎじゃないです?」
 お燐がそんなことを言ってきたのは、無人の関所を通り過ぎたあたりでした。
「いいのよ。困ってないのは事実なのだから」
 思わず、鼻から笑いがこぼれて参りました。
「あの子たち、これから大変よ。なにしろこれからは、いちアルバイトからホストとしての振る舞いが求められるんだから。どれだけのことができるのか、お手並み拝見と行こうじゃない」
 お燐に肩を担がれた状態では、彼女の顔を見ることは難しいものでした。
「じゃあ、温泉宿ごっこもこれでおしまいですかい? せっかく旅館も建てたのに」
「そうねえ……減築は避けられそうにないけれど」
 思い返すに、来客でごった返す地霊殿というのは、あとにも先にもあの時間くらいしか無いでしょう。恐怖がろくに得られなくなれば、怪我の治りもますます遅くなります。
 パルスィとヤマメの思惑通りになっているのは、少々癪ではあります。
 ……パルスィとヤマメ?
「ねえ、お燐。一つ教えてくれないかしら。今の私ではわかりづらくて。数多くの怨霊を相手にしてきたあなたには、あの二人が嘘を言っているように見えた?」
「嘘、とは。あいつらの何についてです?」
「私がした二つの質問について。特に今回の首謀者が、あの二人だけなのかってところ」
 テンポのまるで合わない私とお燐の足音が、しばし聞こえました。
「本当でしょうね、普通に考えたら。でもあの態度、なんか隠してるようにも見えました」
「ふーむ」
 上を見ます。ロマンチックな星空なぞありません。動かない岩天井がどこまでも続きます。
「黒幕がいるってことですかい?」
「そこまでは、わからないわね。身勝手な邪推は我が身を滅ぼすわ」
 疑心暗鬼の末に誰かを破滅したりさせたりするのが、心の読めない者の不可解なところであり、面白いところでもあります。
「まあ、しばらくは様子を見ましょう。私たちもうかうかしてはいられません」
「宿、続けるんです?」
 もちろん、そのつもりです。私はお燐に言いました。
「まずはあの宿との住み分けを考えないといけないわ。あいつらが私たちのお客様を根こそぎ奪っていったのなら、私たちはそれを逆手に取るしかないわね」

 §

 一方事務室に残った二人はといえば私が残していった顧客台帳を、なんとなしに肩を並べて眺めておりました。
「キスメのこと、ばれてなかったかしらね」
 パルスィが、台帳のページをめくりながら尋ねます。
「たぶん、ばれてないと思いたいね」
 ヤマメがそのように返します。
「さとりの第三の眼が潰れてて、本当によかったよ。キッシーに仕返しの矛先を向けられちゃかなわない。あいつには私らのやらかしだと思わせとけばいいさ」
「だから、お姉ちゃんはそんな大人気ないことしないって」
 二人が揃って顔を上げますと、こいしが正面のソファに座って、頬杖をつき笑っていました。やっぱりいたんですね。
「いたの? あいつがいるうちに出てくればよかったのに」
「お姉ちゃんのお小言、長くなるもの」
「用心棒の意味ねぇ!」
「でも実際、おおごとにはならなかったわ」
 と、こいしは切り返し笑っております。パルスィは膝の上の顧客台帳を、ポンと叩きました。
「もしかしてあなた、さとりがこうすることをわかってて私たちに肩入れしたの?」
「わからないなあ」
 事務室の襖がトントン鳴りました。さとりが戻ってきたのかと、二人は身構えましたが。
「邪魔するよ」
 と、入ってきたのは仲居を任せた妖怪の一人でした。橋姫宿場を開いたときに、地霊殿から引っ張ってきた連中ですね。
「どうしたの?」
「ものは相談なんだけどさ。今月の給料、前借りできないもんかね?」
「なんでまた、藪から棒に」
 そいつを含めて数人の仲居が、パルスィたちの正面に座ります。ちなみにこいしは目を離した隙に、またどこかへ行ってしまったようでした。
「景気もいいしさー、少し贅沢をしてみたくなってきたんだよね」
「申し訳ないけれど、こういうのは出だしが肝心なのよ。この宿自体の支払いも残ってるし、しばらくはカツカツでやらないと」
「そこをなんとか。こっちのお宿を開くのに、ずいぶん無理を聞いてやったじゃん」
 しばらく事務室は喧々囂々となりました。しかしパルスィとヤマメが上手くとりなし、その場は給金に少し色をつけるということでどうにか落ち着いたのです。
「まったく、あいつらときたら」
「しばらくは、手綱取りをしっかりしないとねえ。うっかり目を離したら、お客相手になにかしでかさないとも言い切れないわ」
 妖怪というのは、個人主義の塊みたいな生き物ですからね。結局のところ彼女らも、利害の一致でもって橋姫宿場に集まっているにすぎません。今後の暗雲に二人の目も曇ります。
 そんなパルスィたちを、女苑が梁の上から見下ろして薄い笑みを浮かべていたのでした。

 §

 翌日、ヤマメはお客様を連れて旧都へ繰り出しました。相変わらずのどんちゃん騒ぎの中を、ヤマメが先頭に立って案内しております。
「ここは鬼さんが取り仕切ってる場所だよ。はぐれたら攫われちまうから気をつけな」
 お客様たちがみっしりと集まって周囲を見回します。小鈴も手帳を抱え、その中にいました。周りは早い時間から呑んだくれる鬼でいっぱいです。
「弱肉強食っていうほど、殺伐としてませんね?」
「勤勉だね、お嬢ちゃん。そりゃ鬼さんだって、手前の仕事があるし遊びもするさ」
 酒屋が並ぶ大通りの向かいから、鬼以外のなにかが近づいてきました。ヤマメがその動きに手をかざします。一人はお燐ですが、もう一人のほうがいささか奇抜な格好でした。
 そいつは頭の上から足の先まで、白い外套みたいな服で全身をすっぽり覆っていたのです。ただ目の辺りにのぞき窓のような穴があり、そこから固くなった人間の目が見えております。
「やあ橋姫宿場の。さっそく観光か、精が出るねえ」
「かく言うあんたが連れてる、そいつはなんだい?」
 外套がゆるりと頭をヤマメに下げました。
「地霊殿に残ってるお客さんに、ちょいと新しい防護スーツの着心地を試してもらってるのさ。いわゆる、モニタリングってやつだ。耐熱、耐冷気、耐弾幕。どんな地獄に放り込まれたって傷一つつかずにいられる、獄吏御用達の逸品さ。これを仕立てた連中の言い分が本当ならね」
 鬼というのは本当に、仕事が早くて助かります。
「そんなものを客に着せて、なにしようってのさ」
「そりゃー、お客さんに『本物の』地獄を見せてやろうかとね」
 小鈴を含め、ヤマメのお客様たちが大きくざわめき立ちます。
「八熱、八寒の地獄はただの人間が足を踏み入れりゃ、命が幾つあったところで足りるまい。この服は、そうした場所も見て回れるようになるものさ。地霊殿ではよりスリリングな旧地獄めぐりを体感したいお客さんに、このスーツを貸してやるつもりさ。もちろん、レンタル代のぶん宿賃は大きく跳ね上がることになるけどね」
 ヤマメのうしろで、お客様のどよめきが大きくなります。口の端がぴくぴく震えました。
「その服で旧地獄めぐりするなら、旧都の外だろう。なんで町ん中うろちょろしてるんだい」
「野暮用で町を連れ回してたら、たまたまあんたたちがいた。そんだけだよ。さてお兄さん、そろそろ行こうか? 言うまでもなくここからが本当の地獄、本番だからね」
 お燐はお客様の背中をぽんと押しました。頭を下げて、ヤマメたちの脇を通り過ぎます。
 そこでふと、お燐がヤマメたちを見て言いました。
「あ、一応言っておくけど。こいつは鬼さんの妖力がこもった特注品さ。この服一着だけで、お宿がもう一軒建つくらいの値段をふっかけられる。まかり間違っても真似しようとは思わないほうがいいかもしれないねぇ」
 ヤマメが口の中で唸り声を上げます。仲居たちに我慢を求めた矢先でしたね。
(別に一着二着あったっていいんじゃないのー? 宿が繁盛すれば、すぐにでも取り返せるわ)
 ヤマメには、そんな誰かの声が聞こえたような気がいたしました。左右を見回してみますが、それらしき人影はどこにもおりません。
「あの、どうしました?」
 小鈴の声が、ヤマメを我に返らせました。すでにお燐たちは通り過ぎたあと。周りは浮かれ騒ぐ鬼たち、そして後ろにはヤマメを見るお客様たちがいます。
「ああ、ああ、つまらん足止めを食っちまったね。それじゃ、案内を続けようか?」
 ヤマメはお客様たちを手招きして、再び歩き出しました。
 その足元をうろつく小癪な疫病神の姿に気がつく者は、誰もおりませんでした。

 §

「旧都を通過しなくとも地底に滞在できる立地条件は、橋姫宿場の強みと言えます。これまで私たちが相手にしてきたようなお客様の大半は、あのお宿を歓迎するでしょう」
 直径四センチほどの軽い球体を真上に放り投げ、もう片方の手に持った平たい板に棒を取り付けた物体でそれを叩きます。ボールは台の上をバウンドして反対側に飛んでいきました。
「それで?」
 菫子が私のと同じ板(ラケットというそうですが)で球を打ち返します。それが私の手前にポロリと落ちました。身を乗り出しさらに打ち返すと、あらぬ方向に飛んでいってしまいます。この情けない様をこいしが見たら、なんと言うでしょう。
「……そこで私どもは、橋姫宿場と別の客層を取り込もうかと思いまして。旧地獄めぐりの中でも高額のコースだけを残し、加えてさらなる高額のコースも設定してよりスリリングな地獄めぐりを求めるお客様を私たちのターゲットとすることにしました」
 台の外に落ちた球が不自然な曲がりかたをして、菫子の手元に戻りました。
「そこら辺は、サトリッチの好きにやればいいんじゃないかしら。それを私に言って、なにをどうしようっていうのよ」
 ……ッチ?
「まあそう言わずに。監修者の一人として、宿に高級感を出すためのアイデアを提供していただけると、たいへんに助かるのです、が」
 ふいに飛び込んできた球をどうにか打ち返しました。菫子が打ち返してきたそれは卓球台の間に張られた網に引っかかり、私の側へポロリと落ちました。
「……こういう場合も、そちらの勝ちということになるんですかね」
「うん、たぶん、そう。やっぱ怪我人と初心者だとろくな勝負になんないわねー。それから、アイデアを出すのも今回はパスで」
「そりゃまたどうして」
 菫子は人差し指で球を指しました。コロコロと転がりだし、私の手元で止まります。
「アイデアを提供ったって、前回のはサトリッチが私の頭を盗み見たようなもんじゃない? それにレイムッチからも言われてんの。もうこれ以上地底に行きたがる人間を増やしたくないから、余計なことを地底の連中に吹き込むなってね」
「あら、失礼ですこと。別にそれがブームの発端というわけでもないのに」
「だからこれ以上の情報提供はなし。御免ね」
 と、ラケットを立てて拝みの構えを取っております。
 私は球を拾い上げて、手の中で弄びました。心が読めないのは、少々口惜しいですね。
「そこをなんとかなりませんかね。上には黙っときゃ済む話じゃないですか」
「うーん、それじゃあこうしよう。サトリッチと私が勝負すんの。万が一に勝てたら、ヒントくらいは出してあげてもいいわ」
「このまま卓球で勝負をつけますか? 私まだうまく歩けませんけど」
 球を打ち出しました。菫子は大きく振りかぶると威勢良くラケットを球に叩きつけます。
 球は網に引っかかって、落ちました。
「グダグダなゲームになりそうだから、それはなし。いずれにせよサトリッチに求めるものがある以上、私に勝負の方法を選ぶ権利があるわよね」
 是非もありません。鬼との決闘と、立場が逆になりましたね。
「して、その方法とは」
「これを使う」
 菫子は胸元のポケットから、カードを取り出しました。
 全部で五枚。いずれもなんらかの記号が書いてあります。

 §

 さて勝負の前に、橋姫宿場の様子を見ておきましょうか。
 ごろん、ごろんとキスメが桶を転がしながら廊下を歩いて(?)おりました。ふとなにかの気配に気がつき、ものすごい勢いで梁の上に飛び乗ります。
 仲居が二人、廊下の向こうから現れたところでした。
「あー。人間を襲わずもてなすってのは、なかなか肩が凝るねえ。酒でも飲まんとやっとれん」
「まったくさ。今は酒を出す側だからねえ」
「今思えば、地霊殿は悪くない職場だったよ。家主に心を読まれなければ。とにかくペットが、私らの三倍は働くからな」
 仲居たちが愚痴を並べながら去って行くのを、キスメは待ち構えておりました。無言で梁をするする降りて、事務室に向かいます。
 するとパルスィとヤマメの話し声が、だんだん近づいてきました。
「妬ましいブルジョワね。そこまで惜しみなくジャブジャブお金を使えるなんて」
「うちでもなんか、始めないかい?」
「イベントを増やす必要はあるかもしれないけれど、少なくとも今ではないわ」
 キスメは桶を止めて、事務室の手前で聞き耳を立てました。
「パルは地霊殿が妬ましいんだろう? だったら一考の価値はあると思うけどね」
「嫉妬というのは財力、容姿、その他の能力、あらゆるものに格差があるから生まれるものよ。その差を埋めたら、妬む要素がなくなっちゃう。私はそういうところを大事にしたいの」
「パルってときどき面倒くさい性格だよね」
「なんとでもおっしゃい。とにかく、経営が安定するまでは新しいことに手は出さないから。それともあなたは、自分の糸芸に自信がないのかしら?」
「そ、そんなわけがあるか」
 キスメはそこで、木戸を軽く小突きました。
「誰?」
「私、キスメ。入ってもいい?」
 返事よりも前に木戸が横にずれて、ヤマメが顔を出しました。
「おう、悪いねキッシー。入りなよ」
 そう言って迎え入れてくれたヤマメもソファーに腰掛けたパルスィも、ずいぶん固い表情を作っております。ヤマメがキスメを桶ごとソファーに乗せ、そのまま役員会議が始まりました。
「おかげさまで、地霊殿からのお客略奪は滞りなく完了。橋姫宿場の経営はいたって順調に始まったわ。そこでちょっと、この後の展開を考えるために集まってもらったわけだけれど」
「みんな、とても忙しそうにしてる」
 キスメが開口一番に、そんなことを言いました。パルスィもヤマメも静かになります。
「……迷惑だったかな?」
 ヤマメは桶に手を突っ込み、キスメの頭をくしゃくしゃに撫でました。
「あんたが気にするこっちゃーないって。みんなさとりに一泡吹かせたかったから、こっちに着いてきたんだ。慣れりゃどうにかなる」
「でも、従業員から不満が出てるのは間違いないわね。早々に求人をうたないと」
 パルスィの言葉で、もう一度事務所が静まり返りました。
「経営不安定とか言ってる矢先にそれかい?」
「必要な投資。本格地獄めぐりより優先順位が高いってだけ」
 勢いよく木戸を開けるバタンという音が響き渡ったのは、そのときでした。
「みんな頑張ってるー?」
 珍しくもこいしが普通に現れました。パルスィが一度目頭を押さえます。
「あんたはいつも元気そうで妬ましいわ。手伝ってくれてもいいのよ?」
「そんなことより助っ人を連れてきたわー」
 パルスィとヤマメは、こいしの足元を見下ろしました。なにかをひっつかんでますね。
「助っ人って」「その、ぶら下げてるやつかい」
 こいしの手の先には、なぜか茶碗と箸をつかんだまま固まっている髪の長い女がおりました。なぜか頭には猿の面をかぶっております……正体は言わずもがなでしょうか?
 こころは左右を見回し、いったん頭を抱え、改めてパルスィに鉄仮面を向けました。
「ど、どうも」
「ご愁傷様って言うとこかしら。事態、理解できてる?」
「なんとなく」
 拉致した本人はといえば、いつも通りの様子でパルスィたちに言います。
「この子に出し物のお手伝いとか、してもらえばいいんじゃないかな?」
 ヤマメが身を乗り出しました。
「ちょいと、余興は私の担当だよ? 立場を奪われるのは気に入らないねぇ」
「まあ、待ちなさい。今は役割がどうのと、わがまま言ってる場合じゃないでしょ」
 と、パルスィがヤマメをなだめます。
「あなたのコミュレベルは妬ましいわ。この際、仲居頭として従業員の掌握に力を入れてもらえないかしら? もちろん、この子がどんな出し物をやるのかにもよるけれど」
 一瞬、ヤマメとパルスィのにらみ合いとなりました。事務室の空気も乾きます。
 ヤマメは一度、立ち上がる仕草を見せました。が、仕草だけでした。隣を見下ろして見ますと、キスメがヤマメのスカートを引っ張っております。
 キスメの頭に、今一度手を置きました。深く腰を下ろして、こころを見ます。
「事情が事情だ。ここは引き下がろう。で、出し物と言ったが何ができるんだい?」
「なんだかよくわからないまま、連れて来られてしまったのだが……」
 こころはすっくと立ち上がり、身なりを整えると頭を下げました。
「ここは地底……という理解でいいのだろうか? ええとはじめまして、秦こころです。面霊気で、地上の人間に能楽など見せています」
「能楽。舞台芸ね? どんな演目があるわけ?」
「私は地上でも演っている。目のこなれた客を退屈させないためには、工夫が必要だろう」
 首を大きく横に傾けて、人差し指をこめかみに当てます。
「そもそも地底の妖怪を私はよく知らない。知ってるのと言えば、せいぜい(こいしを指差しまして)こいつくらいだ。地底にはみだりに立ち寄ってはならないと言われてきたし、またその必要もなかったからね」
 こころは姿勢を正して、ぽんと一つ、手を打ちました。
「そう言えば。まだお名前をうかがっていなかった」
「黒谷ヤマメだよ。土蜘蛛さ」
「水橋パルスィ。橋姫よ」
「……キスメ。釣瓶落とし」
「ふーむ」
 こころは三人を順繰りに見回しました。
「土蜘蛛と橋姫を扱った演目なら、あるにはあるな。そのままずばりの『土蜘蛛』そして橋姫をシテ役とする『鉄輪』だ」
「あら、素敵ね」
「だが、いずれも人間が創ったものだ。つまりシテ役は、最後は人間に退治される役だ」
「……あー」
 地獄の恐ろしさを伝えるツアーで、人間の強さをアピールしていては格好がつきませんね。ヤマメがそこで手を挙げました。
「粗筋に手を加えることはできないかい? 地底らしく妖怪のほうが人間を倒しちまうような」
「そうだな……できないことはない。そもそも私の舞は『暗黒』能楽。後世に書かれた能楽とは趣も異なる。……それに一つ、いいことを思いついた」
 頭の面が、狐に替わりました。こころがヤマメとパルスィを見ます。
「ヤマメとパルスィ、双方にシテ役を務めてもらうというのはどうだろうか。当事者の土蜘蛛本人、橋姫本人に演じてもらえば、演目としての説得力も増すだろう」
 ヤマメもパルスィも、目を輝かせました。なんだかんだでみんな目立つのは好きなのです。
「あら、役者デビュー?」
「私ら能楽とか、ろくに見たことすらないんだけど」
「その辺はしっかり稽古をつけさせていただく。参加してもらえるなら、地上での一人舞よりも一味違ったものを客に見せられるだろう。どうだろうか」
 ヤマメとパルスィが目線を合わせます。
「面白そうじゃない。いいわ、やってみましょうか」
「さっきと言ってることが違うな。これじゃますます忙しくなっちまうんじゃないのかい?」
「事情が変わったのよ。なんなら、あなたは業務に専念しててもいいのよ?」
「は、パルばっかりにいい格好させるわけないだろう? 当然私も……」
 そこでヤマメが凍りつきます。隣の殺気に近い兆しに気がついたのでした。
 キスメが桶のへりをひっ掴み、ふくれっ面して桶ごとガタガタ震えております。
 ヤマメは取り急ぎこころに振り返りました。
「……賛成するけど、私らだけというのはちょっと」
「つ、釣瓶落としを扱う演目とかはないのかしら?」
「釣瓶落とし……」
 こころはキスメに一度目を配りました。頭の面が猿に変わります。そのまま頭を抱えて小さくうなること数秒。
「……すまない。私も記憶にない」
 キスメが桶の中に沈むかという勢いでうなだれます。ヤマメはその頭を撫でながら、さらにこころへと食い下がりました。
「じゃ、じゃあさ、この際だから新しい演目として創ってみるというのは」
「土蜘蛛と鉄輪にはベースとなる舞曲があるからいい。でも、一から作るとなるとそれなりに時間がかかる。何より、私が釣瓶落としをよく知らない……」
 次の瞬間のヤマメとパルスィの動きたるや、翼でも生えたかという勢いでした。パルスィがテーブル越しに、ヤマメが全身の体重をかけて、髪を逆立てたキスメと桶とを押さえ込みます。
 三人の取っ組み合いを前にして、こころは姥の面をかぶり両頬を両手で押さえるのでした。
「すまない。悪気はなかった」
「大丈夫よ、大丈夫。この子、ほんの少し気が短いだけだから」
「ただ、ちょーいとばかし言葉は選んで欲しかったかな?」
「むううううううう!」
 キスメは二人に取り押さえられてなお、こころに飛びかかろうとしておりました。そんな彼女を見て、こころが深々と頭を下げます。
「……本当にすまない。時間はかかるかもしれないが、書いてみることにしよう」
「な、書いてくれるって。だから機嫌を直しな」
 キスメは涙目になって、桶の側板を握りしめるのでした。

 §

 同じころ、私は自分の部屋で、小さなテーブルを挟み菫子と向き合っておりました。
 テーブルの上には、五枚のカードが裏返しで並んでおります。
 私はそれをしばらく見つめると、左端のカードを指さしました。
「順に星、波、四角、十字、丸、ですかね」
「残念、合ってたのは二枚ね。正解は波、十字、四角、星、丸」
 菫子がカードを左から表返していきますと、言葉通りの順番に記号が現れるのでした。
 これで五連敗。無様ですね。こいしったらどこかで笑って見ていたりしないかしら。
「うーん、さすがにお強い。ただの一度もとりこぼしがないとは」
「ゼナー・カードは能力者判定の初歩よ。当てられないようじゃ、サトリッチもまだまだねぇ」
「あいにく私の目は、物理的なものを見るほうにはあまり向いてないようでして」
 菫子の手がするりとテーブルを横に流れて、カードを取りまとめました。
「とにかく、この勝負は私の勝ちってことで。全敗に相応の罰ゲームを受けてもらおうかな」
「あら、何をされてしまうのかしら」
 菫子は含み笑いをして私から一度目線を逸らしました。
「うーん、地獄めぐりはこの前の訪問のときにも体感さしてもらったからなー。別のところを見せてもらおうかな」
 私は菫子の言葉を待ち構えました。若い女学生の考える罰ゲームですから、あんまり負担にならないようなものをお願いしたいものですが。
 そんなとき、扉をノックする音が聞こえてきました。現れたのは、お空です。
「さとり様、今日のお仕事終わりましたー」
「あら、お疲れ様。食事の準備はもうできているはずだから、行ってらっしゃい」
「はーい」
 手を振って、お空を送り出します。目線を戻してみますと、菫子が瞳孔を縮めて私のほうを見ていました。
「食堂? あるの、そんなの」
「大量のペットを養ってますからね、そりゃありますよ。家族も共用で使いますが」
「どんな感じのものか見に行ってもいいかしら?」
 はて、過去の来訪の際にいろいろ案内したと思いましたが。まあ、うちは広いですからね。
 菫子を連れて外に出ます。通路には相変わらず、ペットに加えて鬼たちがそこかしこにたむろしておりました。以前の決闘でしつけて以降は、ペットとの衝突もなく大人しいものです。
 食堂はエントランスのすぐ脇にありました。ひっきりなしにペットたちの出入りがあります。わりと遅い時間でしたが、長テーブルの並んだ空間には百人近いペットが談笑していました。
 菫子がいつものように、スマホを取り出します。
「本当、たくさんのペットがいるのね……」
 写真など撮っていると、お空が満面の笑みを浮かべたまま私たちの目の前を通り過ぎていきました。菫子はお空が持ったトレイに連なる、山脈に釘付けになっています。
「何、あの日本昔話盛りは」
「あの子は二人分のエネルギーが必要ですからね。正確には一人と一柱ですか……料理を受け取るのはあちらですよ」
 受け取り口は奥手にありました。カウンター越しに給仕担当ペットが並び、寸胴鍋や大皿から料理をペットたちに分け与えております。
「バイキング形式?」
「獣だったころの特性を残した子には、一部の食材が毒になることもありますもので」
 カウンターの様子を、菫子は背伸びして眺めていました。すると、お腹のあたりからぐぅといい音が聞こえてまいります。あらあら気がつきませんで。運動したからでしょうか? 菫子は咳払いしてから、私のほうにゆっくり首を向けました。
「ご相伴に預かっても?」
「罰ゲームのこともありますからね、いいですよ? ただ私たちの舌に合わせてありますので、お口に合うかどうかはわかりかねますが」
 菫子はトレイを一枚持つと、足早にカウンターへ向かっていきました。せっかくなので私も給仕ペットに、野菜スープを軽くよそってくるよう申し付けます。主人特権です。
 長テーブルの一つに席をとって菫子の動きを目で追っておりますと、彼女は両手にトレイを一枚ずつ抱えて戻ってきたのでした。
「うひょー、SNS映えするわー」
 菫子は少量多種で持ってきたようです。小分けにした皿を一つずつテーブルに置いては写真に撮っておりました。言葉の意味がよくわかりませんが。
 一頻り写真を撮り終わって会食となってからも、菫子はそりゃもうウッキウキでした。一口食べるごとに、体よじらせるわそっくり返るわ、いちいち面白いムーブを決めてくださいます。
 ……人間には毒なものでも入っていたかしら?
「味も大したものだわー。こんな食事を、毎日?」
「ペットたちは過酷な労働に従事しておりますので、体調は万全にしておいてもらわないと。食事も栄養バランスが整ったものを提供しております」
「羨ましいわね。高級ホテルのバイキングみたいな料理が、毎日食べられるなんて。学校なんてせいぜい売店くらいしかないしなあ」
 ……高級ホテル、ですか。
「外の食事って、ここが羨ましくなるくらいなのですか?」
「んー、千差万別だとは思うけどー。どこも不景気だからねぇ。安売りの店に人が群がってるような感じはするよ。幻想郷でも……」
 幻想郷でも?
 次の瞬間、私は手を叩いて給仕を呼びました。さらに調理担当ペットも呼びます。三分もしないうちに、早足でやって参りました。
「さとり様、お口に合いませんでしたか」
「そうではなく。人間の口に合いそうな和食のメニューを、何種類か発案してもらいたいの。なんならお燐を地上のリサーチに向かわせるから、参考にしてもらえる?」
 菫子が手を止めてこちらを見ていましたが、気にせず続けます。
「なるほど。献立に加えますか?」
「試食的な意味では、ありかもしれないわね。いっそ地上にアンテナショップを作るなどして、人間たちの反応を見るのもいいわね」
 そんなやり取りを見ている菫子から、こんな声が漏れ聞こえてきたのでした。
「……もしかして、ヒントあげちゃったかな?」

 §

 食事を終えた私たちは、なんとなしに部屋には戻らず地霊殿の館内を歩いておりました。
「なるほど、ペットたちの生活のありのままを宿にも取り入れれば、自ずと高級志向になるということですか。実に参考になりました」
 独りごちる私の隣で、菫子が口を尖らせております。
「私としては軽率な反応でまたまた余計な知識を与えてしまったことが、いささか不満だわ」
「もっと軽率になっていただいても構いませんが? 私としては」
「いくらなんでもこれ以上、レイムッチに怒られそうなことは繰り返さないわよぅ。そーだ、罰ゲームの続き! こうなったら帰るまでに意地でもサトリッチの弱みを暴き出してやるわ」
 肩を怒らせ歩調を早めます。そんな勢いで歩かれると、こちら辛いんですが。
「強い弱いで言えば今の私は最弱の部類ですわね」
「そういう意味ではなく……うん?」
 菫子が、通路の片隅に目を止めました。書庫の前で、数人の鬼が話し合っております。また勝手に、屋敷を修繕する算段でも整えているのでありましょうか。
「ところであの鬼たち、まだいたのね」
「あれも中間管理職みたいなもので、帰るに帰れないのですよ」
 すると、あちらも私たちの話し声に気づいたようです。顔をいったん見合わせ、手招きしてきました。珍しい。いつもはほとんど無視してくるのですが。
「何事ですか」
「おい家主、ここの壁一度壊していいか。扉が小さすぎて手入れにならねえや」
 と、指し示したのは書庫の扉でした。
「うーん、困りましたねえ。ここは書庫として使っていますので、中の書籍をいったん外出ししないと傷んでしまいます。相応の時間をちょうだいすることになりますわ」
 そこで、菫子が横槍を入れてきました。
「書庫? サトリっち本読んだりとかするの」
「読むには読みますが、業務上の書類が大半ですよ? ペットたちの教育用に使うものも多いですし。あとは地上から取り寄せた小説とか、自分で書いたものとか」
 菫子の目が光を放ちました。それはもう、猛禽みたいな感じで。
「黒歴史! いいねえそういうの。興味があるわ」
「あ、ちょっと」
 菫子は鬼たちの間をすり抜け、書庫に入っていってしまいます。私も当然追おうとしたのですが、鬼たちは私だけ逃してはくれませんでした。
「おい家主、こっちのほうを先に片付けてくれよ」
 実に空気を読まない連中です。うっかり書庫を荒らされたら、後始末が大変だというのに。なんとか鬼をあしらおうとするのですが、書庫が気になって身が入りません。こいしったら、たまには止めに入ってくれないものかしら?
 私を煽るような菫子の独り言が、中から聞こえてきました。
「ふんふーん、こういうのは一番手の届きにくい場所に一番恥ずかしいものがあるって相場が決まっているのよねー。早速に攻めてみるとしますかー」
 一番手の届きにくい場所。書庫の最奥ですかね。あそこにあるものといえば……
 超能力者というやつは、勘も鋭いものなのでしょうかね?
「おい、家主」
「うーん、そうですねえ……たまには本も虫干しする必要がありますし」
 こっちを納得させないと、どうやら話にならないようです。一応宿やら館の運用やらあるんですがね? やれ引越しの時期だ、修繕の内容だと話し合っておりますと、菫子がひょっこり顔を出しました。手には一冊、分厚い本を持っております。
「ねえサトリッチ、ひとつ聞いてもいいかしら」
「なんです?」
「……何語で書いてあるの、これ」
 菫子が本を開きます。そこで私は、自分の心配が杞憂であったことを思い出したのでした。
 ああ、そういや、そうでしたね。妖怪寄りな感覚の持ち主とはいえ、菫子は人間です。
「それは古代の妖怪言語です。人間には伝わってすらいない類のね」
「なんだ、残念……あ」
 とか言ってたら、今度は菫子の姿が薄れ出しました。もう何度か見てますので、なにが起こってるのかはおおかた察しがつくのですが。
「やば、目覚まし鳴ってる」
「あのちょっと、本は?」
 手を伸ばしますが、本ごとすり抜けてしまいます。外の菫子が目を覚ますと、彼女がこちら側で触れていたもの全てを外まで持っていってしまうという仕組みのようで。
「ごめん。今度いつこっちに来るかわからないけれど、必ず返すから」
 その言葉を最後に、菫子は本も残さず消えてしまいました。相変わらず慌ただしい退場です。
 ……で、なんの本だったかしら、今の。あの装丁からすると、恐らく……
「話を続けていいか、家主」
「ああ、はいはい」
 私は鬼との交渉に戻りながら、前向きに考えることにしました。あれは間違いなく、菫子には読めません。また大切な文書の一つではありますが、すぐに必要というものでもありません。返すと言っていたのですから、信じるしかないでしょう。
 ……でも、万が一にも読めてしまったら間違いなく、きつい罰ゲームになるでしょうね。

 §

 さて、数日が経ちまして。
「また地獄を知りたくなったら、いつでもおいでなさいな。もっとも、そのときも命の保証がされるとは限らないけどね」
 そんなパルスィの言葉に送り出されて、小鈴は橋姫宿場をあとにしました。結局滞在の間、ツアーが地霊殿に近づくことはほとんどなかったのです。
 他のお客様は五体満足で地上に戻れるということで、みな安心した様子でした。小鈴はただ一人、ほとんど埋まらなかった取材手帳を無言で見下ろすばかりです。
「さあ、そろそろ行くよ。はぐれたら妖怪の餌になるか、橋姫宿場の下働きになるしかないよ」
 ヤマメの案内で歩き出します。このまま幻想風穴の下までいって、新しいお客様と入れ替わりにキスメの桶へ乗り、地上まで戻る手はずでした。
「まあ、これまでわかった話でなんとかまとめるしかない、か」
 手帳をポケットに戻し、小鈴は独りごちたのでした。

 §

 同じころ、幻想風穴の入り口には新たなお客様が集まっておりました。キスメがガラガラガラガラと風穴を登っていき、お客様を迎えに参ります。
「よく来たな、人間ども。地獄の入り口へようこそ」
 と、風穴から顔を出して口上を並べるまではこれまでと同じでした。
「おー、来た来た」「あれが案内人の釣瓶落としかぁ」
 返ってきたのは畏怖の感情ではなく歓声だったのが、これまでとまるで違うところでした。拍手するかたまでいらっしゃいます。
「な、なんだお前ら。なんで私を見て喜ぶ」
「いいっていいって」「私らもうわかってるんで」
 ニコニコしているお客様たちの様子が、キスメの頭の中でグルグル駆け巡りました。少なくとも彼女の記憶の中には、妖怪を見て喜ぶような輩など今までいなかったのです。
「と、とにかくこれから地獄の底に案内する。ふざけた真似をすると叩き落とすぞ」
 キスメは、どうにか立て直しを図ろうとしました。巨大桶を競り上げながら、お客様たちに凄んでみせます。その中に男女の番いらしき二人組がいて、女が男にしなだれかかりました。
「私、怖い」
 そこで相手の男が女の肩に手を回して、言ったことときたら。
「大丈夫だって、殺されやしないよ。あれはああいう風に言うことになってるだけだから」
 これを聞いた瞬間、キスメの中で暴れていたグルグルが形となり、彼女の視界を赤く染め上げました。これはもう、ナメられている。妖怪として侮られている。なんたる屈辱でしょう。
 次の瞬間には、桶の中から錆びた鎌を取り出しておりました。
「おい、聞こえてんぞ! あんまりふざけた口きくと容赦しないからな!」
「またまたぁ。それだって本当は」
 キスメは男が全てを言い切る前に、鎌を振りかざして飛びかかっておりました。お客様たちの顔から笑顔が去っていきます。 
 ドスンと鈍い音が響きました。男の首筋に鎌の柄が当たっております。キスメはすぐ目の前にある引きつった男の顔に、血走った目を向けました。
「なるべく殺すな、とは言われてる。殺しては駄目とは言われてない。わかるか、この違いが」
 男の髄に鎌の刃が食い込みます。キスメはそのまま、あたりのお客様を見回しました。
「まだハッタリかどうか試したいやつはいるか!?」
 お客様たちは言葉を飲み込みました。まだ侮っているかどうかはさておき、賢明ですね。
 キスメが鎌を引きます。男はその場にへたれ込みました。
「では、列に並べ。順番にチケットを渡せ」
 さすがにキスメの恫喝はお客様に響いたようでして、その後は粛々と桶への乗り込みが進みました。キスメを小馬鹿にしたあの男も、女に支えられて桶に乗ります。
 しかし、お客様を見据えながらキスメの心中はまるで気が気ではなかったようでした。口の中ではこんなことを小声で呟いております。
「畜生なんなんだ。こんなことで私の格は本当に上がるのか」
 全員が桶に乗り込み、間もなく出発というところになりました。そこでキスメはもう一人、風穴の脇で彼女のことを見守る影があるのに気がついたのです。
「……お前はいったい何してんの」
「むっっ。完璧な偽装だったはずなのに」
「「どこがだよ」」
 キスメはおろか、お客様まで揃って裏拳の素振りを始めます。両手に木の枝を手にしたこころは、猿の面を頭にかぶって無表情でした。
「いやな。約束した手前、釣瓶落としがいかなる妖怪か知っておかねばならんと思ったのでな。しばらく仕事ぶりを観察させていただくことにした」
「もーちょいやり方なくないか」
 お客様がたが眉を潜めて、二人のやり取りを眺めておりました。キスメはその視線を背中に感じ取ります。さっき脅した手前、あまりおかしなところを見せたくありません。
「……勝手にして。ひとまず、仕事の邪魔はしないようにして」
「心得た」
 桶を下ろす様子を、こころが抑揚のない顔で見守ります。キスメは背中にむず痒いものを感じながら、縄を下ろし続けました。
 なんとも、おかしなことになってまいりました。

 §

 地霊殿、客室の一つ。
 テーブルの上に所狭しと並べられた料理の数々に、お客様が目を見張ります。
「地霊殿流、地獄御膳にございます」
 お客様は頭に雪を降らせた、身なりの良い老紳士でした。扇子を開き、漂う熱気を払います。
「これはなんとも、見事なものです。それで、いかような地獄を見せていただけるのですか」
「はい。ただ今より仕上げに取り掛からせていただきますわ」
 私は傍に置いた笊を掲げてみせました。赤黒い固まりが血のような艶を放っております。
「地獄黒毛牛の上ヒレ肉でございます」
「なんと肉牛を飼育なすっているのですか。しかし生のままですな」
「はい。これから調理いたしますので」
 傍に控えさせた仲居ペットに笊を渡すと、テーブルの傍に置かれた黒い板の上に肉を移させます。ジュウとよい音がして、部屋に油の匂いが漂います。
「やや、火元もないのに肉が焼けていきます。これはいったい」
「焦熱地獄より採取した溶岩を平に形成したペレットでございます。見かけによらずうかつに触れば火傷するほどの熱を帯びております。好みの焼き加減をお選びいただけますわ」
「なるほど、先ほどから暑いと感じたのはそれが理由でしたか。それからもう一つ気になっておったのですが、これはなんですか」
 お客様が目を止めたのは溶岩ペレットの反対側、霧を吐くほどの氷に囲まれた白い小山です。
「そちらは寒冷地獄より切り出した氷で氷室をなし、その内部で仕立てた氷菓子でございます。一刻はもちますので最後まで安心してお召し上がりくださいませ」
「はあ、しかしこれほどの分量、一刻あっても食べきれませんな」
 そのほかにも、ペットとともに趣向を凝らした料理をたくさん並べてありました。
「ご安心くださいませ、余り物は家畜の餌として有効に使われますので。いずれにせよ、明日からの旧地獄めぐりはなかなか険しい場所を歩くことになります。今日のうちに英気を養っておくことを、お勧めいたしますわ」

 §

 同じ頃、橋姫宿場の一角。
「その話は一応納得してもらえたと思ったんだけど……」
 パルスィは集まって来た従業員たちを見回して、大げさなため息をつきました。それでも、さらなるペースアップを求める従業員たちはへこたれません。
「そう言わずなんとか頼むよー。こんな仕事きつくなるとは思わなかったしさー」
「あのね、あなたたちに逃げられるのもまずいけど、これ以上支出を増やすのもまずいわけ。繁忙期もいつまで続くわけじゃないし、もうちょっと辛抱してくれないかしら?」
 従業員たちが顔を見合わせます。
「それならいっそ、宿賃を値上げするってのはどうだい」
「ん……」
「繁忙期なんだろう? ちょいとやそいと値上げするくらいで、来る人間が減りはすまい」
 パルスィは口を当ててそっぽを向きます。ちょっと名案かも、と思ってしまったようでして。
 キスメからの報告はすでに受けておりました。私の予測通り、リピーターのお客様が増えていたのです。しかも、繰り返し旧地獄を目指すことに間違った楽しみかたを見出してしまった厄介系が。そうした連中を締め出すためにも多少の賃上げはやむなしかもしれない、と。
 ふと、外した目線の先に人影が見えたのはそのときでした。
「あなたたち」
 それだけ言って、パルスィは従業員たちに目線で合図を送ります。お客様です。頼むぜ、とか小声で伝えながらしずしずとその場をあとにします。
 残ったのはパルスィと、通りすがりらしいお客様だけでした。パルスィはすぐに愛想笑いを作って、その女に会釈します。
「ごめんなさいね、お見苦しいとこを見せちゃって。あの、どこから聞いていたかは知らないけれど、あまり口外なさらないでくださいね」
「い、いえ」
 パルスィもすり足でその場を立ち去ろうとしました。するとそこに、女の声が追ってきます。
「あのう、値上げしても別にいいと思いますよ?」
 足を止めて、女を見ます。人参色の髪をした、地味っぽい枯れ草色の和服を着たやつです。華美に着飾らないのを、逆に妬ましいと思えました。
「そんなところまで聞いていたの。あなたたちにも跳ね返る話よ?」
「いえあの、それ相応のもてなしはいただけてると思ったものですから……個人的な感想です。差し出がましいこと言って、ごめんなさい」
 頭を下げる女を見下ろし、鼻で笑います。
「ま、たしかに出しゃばりだわね。そんなもん人間が決める話じゃなし」
 パルスィはそう吐き捨てて、背を向けました。
「でもまあ、参考にはさせていただくわ」
 そうしてパルスィはその場を離れていきました。後ろに置き去りにした女が、それまでとは別人かと思えるような笑顔を浮かべていたのにまるで気づかずに……。

 §

 続いて、鈴奈庵の様子を見てみましょう。
 蓄音機が置かれた小さなカウンターには小鈴の姿がありました。五体無事で地底から戻ってこられたことについては、両親からたいそう安堵されたようです。
 ただ、本を眺める小鈴は一刻経過した今も、一ページも読み進んでおりませんでした。
 彼女の中で思い起こされているのはつい前日、渾身の地底レポートを阿求のところへ持っていったときのことでありましょうか――

 小鈴の目の前で、阿求ははらりはらりとレポートをめくり続けておりました。その動きは、ところどころを読み飛ばすような流し読みにも見えました。しかし阿求にとってはそれで十分なことを、小鈴はよく知っています。
 全てのページを読み終えると、阿求はレポートを閉じた体制のまましばらく目を伏せました。
「なるほど。初めてにしては、わりと上手く書けているわ」
 小鈴が胸を撫で下ろします。
「伊達に貸本屋の店番などやってませんから」
「でも」
 が、早々に鼻っ柱をへし折られるのでした。阿求は小鈴にレポートを差し出します。
「残念ながらこれらの内容は、私の記憶の域を出るほどのものではないわね」
「ええ……そうなの?」
 そうなの、と阿求が無情に頷きました。
「黒谷ヤマメ、水橋パルスィといった妖怪は、地底の中でも比較的浅い場所に住んでる妖怪で、地上でも目撃例があるわ。そういった妖怪についての情報は集まりやすいから、詳しく調べるまでもないのよ。星熊勇儀に至っては、普通に人里の酒屋で飲んでることも多いわね」
 あんな流し読みでも阿求の頭の中には、レポートの内容が全て取り込まれているようでした。御阿礼乙女の力……一度見聞きしたものを忘れない程度の能力というのは、大したものですね。
「そ、それじゃああまり調査が進んでない妖怪って?」
「当然、もっと深い場所に住んでて出てこないような妖怪ね。例えばサトリ妖怪の古明地さとりなどがそれにあたるかしら」
 小鈴はがっくりと肩を落とします。
「地霊殿には……行くこともできなかったのよ。あちらの都合に振り回されて……」
「会わなくて正解だったかもよ。彼女に関しては幻想郷縁起に書いてはならないことがたくさんあるの。取材をしたところで、かえって役に立たないかもしれないわ」
 どうにか首を、持ち上げます。
「書いてはならないことって、例えばどんな……?」
「主に人里の人間などに知れ渡っては、大変にまずい情報よ。そしてあなたも、人里の住人」
「……教えられない、ってことね」
 そういうことよ、と阿求は取りつく島もありませんでした。
「ま、気にしないでいいわ。私もあまり期待してなかったし。妖怪のことを知るのは一筋縄ではいかないってこと、よくわかったでしょう?」

 そんなわけで小鈴の最初のレビューは、惨憺たる結果に終わったのでした。悔しいことですが、自分の認識の甘さを思い知らされたことは間違いありません。
「もっと奥に……地霊殿まで踏み込まなければ、地底の妖怪のことはわからないってことよね」
 それとなく地霊殿ツアーの価格を調べてみましたが、もはや小鈴のへそくり程度ではどうにもなりません。このまま諦めなければいけないのでしょうか。やはり普通の人間には、妖怪を深く知ることは難しいのでしょうか……?
 カウンターの向こうに、暖簾が揺れるのが見えました。すぐさま心を切り替え、顔を引き締めます。個人的な問題を、お客様に見せるわけには参りません。
「貸本屋の鈴奈庵って、ここでいいのかな」
「いらっしゃいませ。本のご用命ですか?」
 入ってきたのは、黒帽子をかぶって眼鏡をかけた娘でした。お得意様ではありません。手には分厚い本を手にしております……誰かはお察しがつきますでしょうか。
「いや、どちらかというと持ち込みの類いかな。ちょっと見てもらいたい本があってね」
 娘こと菫子が差し出したのは、我が書庫から持ち出したあの本でした。装丁と、背表紙に見える奇異な紋様とで、小鈴は本の正体におおかた察しがついたのでした。
「これは……妖魔本ですか? いったいどこから」
「妖魔本って、妖怪が書いた本ってことね。まあこれはちょっと話せば長くなるんだけど」
 地底を目指した小鈴、予期せず地底にお呼ばれした菫子の運命的な邂逅です。偶然としてはいささかできすぎておりますが。菫子の特異な病気のことについては、小鈴にはよくわかりませんでした。実際、本が地霊殿から持ち出されたことのほうがずっと重要でしたからね。
「なるほど、地霊殿の書庫からこれを……」
「レイムッチに預けておけば、そのうち地底の遣いに渡してくれるみたいなんだけど。その前にどうしても、中身を知っておきたくてねえ。ネットで調べても全然解読できないのよ」
「ネット……?」
「そしたら、マリサッチからここのことを教えてもらってね。あなた、こういうのを読めるんだって? ためしに触りだけでも訳してほしいんだけど」
「うーん、全体となると難しいですね……相当な量ですから」
 しかし心拍数が上がるのは、どうにも抑えようがありません。地底の行き損ねた地霊殿、その一端がわかるかもしれない書物が、まさに目の前にあるのですから。
 しかもそれは、小鈴にとってうってつけの形でもありました。彼女に妖魔本を扱わせ得る唯一にして最大の能力、いかなる文字も瞬時に読み取る判読眼の力を存分に活かせるのですから。
「試しに一ページだけ……読んでみますね?」
 重い装丁を持ち上げ、適当なところを開きます。不可解な文字のような記号のようなものが、みっしりと羊皮紙の上に並んでおりました。小鈴はそれを、失われた妖怪言語を難なく読み取っていきます。
「……七月十三日。こいしは今日も帰らず。私室に使用の様子なし。前回の帰宅からはや二日経過。そろそろ汗の匂いが気になる日数になったので庭師に頼んでハーブ二束を調達。今日から乾燥させて間に合うかどうか。お燐に聞いたところ、地上の人里でそれらしき影を見たかもとのこと。すぐ帰っても半日はかかるだろう。でもまあうろ覚えであろうから、あの子の好きなビーフシチューに人参をたんまり入れさせた……」
 一行一文字を読み取るごとに、小鈴の顔に汗が浮き上がりました。そこへ菫子が手を伸ばし、小鈴の朗読を遮ります。
「……途中のところたいへん申し訳ないですが。もしかして、この本って」
「……もしかしなくても、日記みたいですね」
 暖簾越しに、誰かの影が店の前を通り過ぎていくのが見えました。
 まあ、そういうことです。そりゃプライベートなんて、誰にも知られたくないこともいろいろありますからね。書庫の奥に隠したくもなります。
 小鈴は本を持ち上げ、背表紙に書かれた文字も読みました。
「……第一三二七冊」
「は?」
「ナンバリングですね。これと同じものが、少なくとも一三二六冊あるということになります」
「そんな分厚いのが、あと千三百冊以上はあるってこと?」
 頷いて、無言で本を閉じます。菫子は帽子を脱ぎ、汗をぬぐい取りました。
「えらいもの持ち帰っちゃったなあ。とりあえず内容はわかったから、折を見て返すわ」
 菫子が手を差し出すのが見えました。瞬間、小鈴の中に思いもよらぬ感情が芽生えたのです。
「あの、この本預からせていただいてよろしいでしょうか?」
 鈴奈庵の店内に、ささやかなクラシック音楽が鳴り響きます。
 菫子は、目を白黒させて小鈴を見ていました。小鈴が急いで次の言葉を探します。
「いやあのここは貸本屋ですし、妖魔本も多く取り扱ってますから一時預かりには向いてると思いますし。霊夢さんはよく知っていますから、こちらから博麗神社に持っていけますし」
 小鈴のそんな言い訳を聞くにつれて、菫子の口元が緩んで参りました。
「そんなこと言っちゃって、本当はあなたも日記の中身に興味あるんじゃないのぉー?」
 玉のような汗が、小鈴の顔いっぱいに浮かびます。
「貸本屋として、妖魔本収集家としての興味ならあります」
「まあいいや。私としても早めに手放しておきたいものだったし。あなたがそこまで言うなら預けるけど……あとでどんなことが書かれてたか教えてちょうだいよ。こっそりでいいから」
「本格的に訳すとなると、翻訳料いただくことになりますね」
「公私混同はよくないぞー?」
 菫子に肘でつつかれながら、小鈴は笑顔を作ります。まあ、なんだかんだと言いましても、私につながる重要な情報です。興味がないはずがないのでした。

 §

 体に妙な違和感を覚えながら、私は目を覚ましました。自室の寝室です。
 包帯を巻いた半面に触れます。痛いことは痛いですが、昨日までほどひどくはありません。
 ギプスで固めた左足に力を入れます。痛いことは痛いですが、昨日ほどではありません。
 せっかくですし、リハビリがてら食堂に向かいました。怨霊は相変わらず。通りすがりに挨拶をしてくるペットたちにも声の張りがあるように思えます。
 気持ちの問題でしょうか?
 食堂に入って空席とこいしを探しておりますと、向かい合って朝食をとるお燐とお空が見えました。お燐がいち早く私に気がついて、手を振ります。
「おはようございます、さとり様」
「おはよう、お燐。それかお空もおはよう。そんなしか食べなくて、大丈夫かしら?」
「うにゅ?」
 お空の皿に盛られたソーセージとスクランブルエッグは、菫子が「日本昔話盛り」と称したあの山脈よりも緩やかな丘陵に見えました。
「いつもこんなもんですよ? いくら私でも限度がありますって」
 いやいやそんなことは、と言いかけましたが止めました。まあいつものことです。席について給仕にサンドイッチを頼みます。
「……おかしいわね」
「何がですか。お空の鳥頭はいつも通りですけど」「失敬な」
「いえね。今日はみんな活気があるような気がするの。なにかいいことでもあったのかしら」
 お燐がスプーンを置きました。
「あれじゃないですか? 宿の仕事がだいぶ軽くなったからでしょ。地底の者の手を借りても、だいぶんハードでしたもんね」
 それは、確かに。ペットたちには酔狂でずいぶん負担を強いてしまいました。
 そこで改めて、フォークを口にくわえたお空に注意を向けます。
「あなた、宿のときはどんな仕事についてたかしら?」
「焦熱地獄の管理ですが?」
「それに加えて、宿のボイラーの温度調整な? 二十四時間適正管理が必要だから、ときどき寝ずの番も必要だった。あとはさとり様の付き添い役だろ」
 さすがはお燐です。親友のタスク管理にもそつがありませんね。
「そうだっけ?」「そうなの!」
 しかしこれでお空の食事量が減ったのも、納得がいきますね。無自覚に食べる量が増えたり減ったりしているのは、八咫烏様がうまいこと調節してくれているからなのかも知れません。
 それではたと気がついたことがあります。
「……それだけの仕事をこなすだけのエネルギー、今は誰が引き受けてるのかしらね」
 お燐お空が私のほうを見ています。しかしもはや気が気がなりません。給仕からサンドイッチを受け取ると、席を立ちました。
「あれ、どちらへ?」
「ちょっと、橋姫宿場に顔を出してくるわ」
「え、まだお辛いでしょう? 付き添いますって!」
 私はケンケンに近い歩きで食堂を出ます。
「大丈夫よ。だいぶん元気も戻ってきたところだし」

 §

 そのころ橋姫宿場の事務室では、幹部三人がソファーで沈痛な顔をつき合わせておりました。キスメにはパルスィとヤマメの二人がいくぶん細く見えたものです。
「稼働率九五パーセント超えが続いてるわ。宿代を上げたのに、予約もひっきりなし」
「好景気結構なことさ。閑古鳥が鳴くよかずっといい」
「それにしては、二人とも元気なさそう」
 パルスィとヤマメが口元をひくつかせます。
「なんて言うか、客がタチ悪くなったような気がするわ」
「そりゃ、たしかにあるね。ちょいと優しくあたったら物怖じしなくなったっつーか」
「まさしくさとりの予言通りになったってわけよ。あいつ心を読まない代わりに予知能力でも身につけたのかしら」
「仲居連中のフラストレーションも溜まってるしねぇ……そろそろ、シメとく?」
 あらあら、余裕など捨て去って妖怪らしさを取り戻しつつありますね。
「そうよね、私たち宿の主人である前に妖怪なわけだし。妬ましいほど図太い連中には、軽くお灸を据えてやってもいいかもしれないわ」
「客が減らん程度にねぇ」
 事務室に禍々しい空気が漂い始めたところで、私の登場です。外から軽く引き戸を叩きます。
「失礼します。古明地です」
 三人は一度顔を見合わせ、私を迎え入れました。
「なんの用件だい?」
「いえね。ちょいとこいしを探しに」
「来ねーよ。て言うかあいつ引っかき回すだけ引っかき回して肝心なときに姿現さねえ。姉のあんたからもなんか言ってやってくれよ!」
「あいにく私でもあの子の行動を予測するのは、なかなかルナティックでして。まあ、その用事はあくまでもついでです。折り入って橋姫宿場に相談がありまして」
「どんな相談?」
「宿場の稼働率、わりと大変なことになっておりませんか」
 三人の目つきの、中央に寄りようったらすごいものでした。奇しくも、橋姫宿場の課題を言い当ててしまったのですから。
「そりゃもう、大盛況よ。妬ましいかしら?」
「大変よろしゅうございます。その大変な折に新たな提案を聞いていただきたく……地霊殿を、橋姫宿場の離れとして使うつもりはございませんか」
「離れ」
 パルスィの言葉に首肯を返しました。
「我が宿はターゲット客層を絞り込んだ結果、空き部屋と従業員の負担にかなりの余裕がございます。多少のレンタル料はちょうだいすることになりましょうが、橋姫宿場は予約のやり繰りを軽くしつつ、収益も確保できます。どうでしょう、悪くはない提案だと思うのですが」
「鬼に増築を頼めば、稼働率の問題は解決するわ。余計な気遣いは不要よ」
「その対処はあまり得策とは思えませんね。お客様のピークに合わせて増改築を繰り返せば、閑散期の空き部屋が増えることになるでしょう。それらの維持に余分なコストが割かれることになるのは、長期的に見てあまり良いこととは思えません」
 パルスィは口ごもります。ついでを言えば大元の建造費も、支払いきっておりませんしね。
「お客さまの案内はお燐とお空に任せれば、鬼がちょっかいを出してくる心配もそれほどありません。どうです、乗ってみませんか?」
 パルスィが親指の爪を噛み締めます。そんなパルスィの肩を、ヤマメが叩きました。
「作戦タイムもらっていいかい?」
「どうぞ、存分にご検討くださいな」
 三人はいったん私を残して、事務室の外に出ていきました。円陣を作って、声を潜めます。
「今のあいつは、心が読めてないはずよね」
「ああ。だからここで内緒話しても、さとりには届かんさ」
「それにしたって、どうしてあいつがタイムリーな提案を持って来れるのよ。まるでこっちの動きを見透かしてるみたいで、気味が悪いわ」
 多少の偶然は重なっておりますけれども。
「どうする。乗るかい? このままだと予約を断らにゃならんが」
「渡りに舟なのは間違いないわね。予約客に事前に断りを入れて、希望者を募ればこちらの面目は立つ……ただ、さとりの言いなりなのは少々気に入らないわ」
「何か仕掛けるかね」
 パルスィの顔の周りに、真っ黒い影が差しました。
「こちらを舐めてかかってる厄介系リピーターを、あちらに押し付けてやりましょう。面倒なやつが地霊殿に乗り込めば、きっと大上段に振舞ってさとりを困らせるわ」
「相変わらず陰険なことを思いつくねぇ。ま、乗ろうじゃないか、その算段」
 と、そんなことを話し終えてから事務室に戻ります。ちなみにそのときの私には、三人の悪巧みが聞こえておりませんでしたからね?
「先ほどの申し出を飲むことにしたわ」
「それは何より。予約が混んでいるとき、満室になりそうなときは遠慮なくお呼びつけくださいな。迎えをよこしますので」
 それから私たちは橋姫宿場の緊急離れについて、細かい段取りを定めました。そうして私の二度目の訪問は、お開きとなったのです。

 §

 気前よすぎないか、ですって? お燐と同じことをお言いになる。
 まあ、私が怪我をしている現在、宿の経営にまで手が回りきらないのは事実でありまして。
 だったら、あの子たちをフォローする立場に回ったほうが地底全体に資すると、そう考えたまでのことです。恐怖を得られるか、得られないかなんてのはわりとどうでもよかったりして。それで怪我の治りが遅くなるのは、まあ仕方がないことです。
 ……我ながら損な性分ですね。
 これでもかなり余裕がなかったのですよ。少し前までは。こいしのことを探し続けるだけで、それはもう精一杯で……
「おい、待て!」
 我に返りました。足を止めて振り向いたのは、橋姫宿場の玄関前です。そこではキスメが、私を憤怒の形相で見上げておりました。
 いい面構えです。少し前までは私に近づくことすらしなかったやつとは思えません。
「なんで、なんでお前は平気でいられるんだ。そんな怪我して、客も取られて」
「怪我は単に治りが遅いだけですし、そも宿商売は地霊殿の本業ではないですし」
「聞きたいのは、そんなことじゃない」
 ガツンとキスメが桶を踏み鳴らします。庭石に亀裂が走ったように見えました。宿の窓から、お客様が次々と顔を出します。
「今のお前はサトリ妖怪のくせに心を読めない、ただのでくの坊じゃないか。それがどうして、そんなに図々しくいられるんだ。もっと恐れろよ、おかしいだろう!」
 お客様がざわめきたちます。ずぶの人間にも私の現状を知られたこと、そんなことはどうでもよろしい。吹っ飛んでしまいました。
 キスメのいら立ちを間近で受けて、なんとなく気がついてしまったのです。
 ああ、この子なのだな、と。集合写真泥棒にして、クーデターの主犯。
「よく聞きなさい、キスメ」
 私はキスメに歩み寄りました。少し桶がうしろにずり下がりましたが、それ以上引きません。しゃがみ込み、目線を合わせます。
「怪我してるとか、心が読めないとか、私にとっちゃ瑣末なことなのです。多少不便ではありますけどね。大事なのは私を私たらしめる、もっと大切なものですよ」
「大切なもの……?」
 松葉杖が、がらんと倒れます。私はお構い無しでキスメの頬に手を触れました。
「思い出しなさい。あなたが『反乱』を思い立ったとき、あなたに何が起こったのか。今の私はあなたの心を読めませんが、そこには何かがあったはずです」
「私に起こった、何か」
「私に言えることは、それだけ。精進なさい。みんなから恐れられる妖怪となりたいのならば」
 右足だけで、どうにか立ち上がりました。松葉杖を再び抱えると、私は元来た道を引き返していったのでした。キスメは私を追おうとも罵ろうともしませんでした。
 そのさらにうしろでは、今日も能楽を披露しにきたのでありましょう、こころがことの成り行きを見守っていたのでした。

 §

 さてそのときの観客は、人間ばかりというわけでもありませんでした。仲居たちもおりましたが、それよりたちの悪いやつです。
(心が読めない、ですって?)
 そいつは、ただのお客様に扮した女苑(本体)は私の背中に向けてとっさに罵詈雑言を投げかけました。心の中で。
(……ばーかばーかのサトリ妖怪、私の心を読んでみろー)
 はい聞こえません。全然。気づかず去っていく私を眺め、拳を握りしめました。
(マジなの。本っ当に読めてないの。これってもしかして、チャンスなのでは……?)
 もともと分神のささやきだけではいまいちガードが固かったパルスィを陥落せしめるために乗り込んだ橋姫宿場でした。飽くなき女苑の後ろ向きな執念が、身を結んだと申しましょうか。
(これは大チャンスだわ。地霊殿はこんな宿場なんて、ものともしないくらいに蓄えがあるみたいだし。そしてあのクソ無意識オバケの実家でもある……!)
 懐に隠した回収済みの分神人形を握りしめます。
(さっそく、憑いてやるんだから。まずはどうにかして分神を潜り込ませてやらないと……)

 §

 釣瓶を巻き上げ、キスメが幻想風穴を登っております。
 自分の家にたどり着くなり、キスメは桶を転がしてほら穴の奥の奥まで行きました。あの小さな書斎の小さなコルクボードには、二枚の写真が留めてありました。
 一枚は、文々。新聞のスクラップ。
 そしてもう一枚は、あの日菫子から預かりくすねた、唯一彼女が写ったもの。
 キスメはしばらくの間、家事も忘れて二枚の写真を見上げ続けました。
「大切なもの……」
 思い出します。新聞の一面に収まったときの、かつてない高揚感を。
 そしてあの集合写真を目にしたときの、なんとも言えない嬉しさを。
「もっと集めれば……私はもっと強くいられるのだろうか……?」

(「三 例えば凶悪な敵が彼女の財産を脅かしたとして」に続く)
10日と言いつつ2週間かかりました。
次は3週間以内には……なんとか……
なお、次回完結予定です。

https://twitter.com/false76/
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コメント



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1.100サク_ウマ削除
どう転んでいくのか、楽しみです
2.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
気長に次を待ちます。
4.90名前が無い程度の能力削除
騒動の規模が膨らんできたけど、キスメの望みは大層な物じゃなくてささやかなもんなんだよねぇ
協力者とか競合店舗が勝手に盛り上がってるだけみたいな
風が吹けばと言うか何というか

無意識オバケって呼称はちょっと斬新だなと思った
6.100名前が無い程度の能力削除
さとりをさとりたらしめているものって何だろう。
こいしの姉であることとかですかね?