『シェイクスピア外典』と呼ばれる概念があります。
基本的に、『ファースト・フォリオ』という戯曲全集に収録されたものがウィリアム・シェイクスピアの真作と定められておりますが、様々な理由からシェイクスピアらしき名が記されながらもファースト・フォリオに収録されない作品があるのです。
ただの贋作と断じられたものもありますが、共同執筆のためにシェイクスピアの作品とは呼び難いもの、他作品を改変しただけのもの、といった風にシェイクスピアが確かに関わっていたという作品も外さていたケースがありました。
だからこそ、世の中に「ファースト・フォリオには無いがシェイクスピアが書い作品と信じられていたもの」が出てくるのは自然なことです。
中には真作と判明したものもありますが、多くはシェイクスピアの作品と呼んでよいものかどうかという疑惑と論争を呼び決着が着きません。
そんな作品群を人々は『シェイクスピア外典』に分類したのです。
されど時が経てば、物事は曖昧になってゆくもの。
もしかしたら、知られざる真作があるかもしれない、そんな淡い期待と薄暗い欲とあれやこれやと入り交じり「これはシェイクスピアの書いたものだ!」などと言い出す輩が増えたのだからたまりません。
ついぞそこに付け込み自分で贋作を作って売り出すものまでいる始末。
学者の皆様は目の色変えて真作だ! と大喜び。
ついぞ気持ちが逸って300ポンドも出してロンドンでも名高きドルリー・レーン劇場で上演される運びに。
けれども、学者が認めても演じる役者の皆々様はどうにもこうにも訝しむ。
そんなこんなで贋作とバレて、意地になって開演するも観客全員馬鹿にして一夜限りで千秋楽。
さぁて、有象無象の外典群。
真なる根拠はだれがみつけ、贋の証拠はどう立てるか
なかなかに難しい問題でございます
* * *
本居小鈴には友達がいない。
よく、そのように友達に言われる。
中々に破綻しているようだが、これは所謂言葉の綾と言うもので、ここでの「いない」とは「少ない」という事だ。
思い返してみれば、そうかもしれない。
妖魔本という物騒な代物を欲しがり、何か騒動が起きないかと心待ちにしている。
ある種のトラブルメーカーであるという自覚はある程度あるので、付き合いのある人間も少ない。
その分、友人との仲は良いと思っている。
だからこそ友達がいないと本当の事を突かれるのだが。
さて、どうでもよい事をつらつらと述べたが本筋はそうではない。
友達がいないと言われた事は何度かあれど、恋人もいないと言われた。
ここでいう「いない」とは比喩ではなく、そのままの意味だ。
即ち、本居小鈴には恋人というものは誰一人としていない。
尤も、小鈴の常識として恋人は一人のみで複数持つものではない為、「恋人がいない」を「恋人が少ない」と解釈する事も在りえないので、この注釈は全く意味の無い事なのだが。
「うぅーん」
小鈴は唸る。
本居小鈴の人生の中で、恋をした事など一度もない。
友人の中にもいないのでは無いだろうか。
小馬鹿にしたように「恋人もいない」等と宣ってくれた稗田阿求にだって今世においては未だ恋を知らない。
前世では知っていただろうが、それを覚えて居ないのでは知らないも同然だ。
小鈴とて年頃の娘として、興味が無いわけでは無い。
ただ、本の中で物語として知っているだけで、自分のと言うのにはそこまで思案が回らなかった。
それよりも、珍しい何かを求める好奇心が強かったのだ。
「どんな気持ちなのかなぁ」
物語には様々な恋が描かれる。
真摯な恋・間違った恋・危険な恋・破滅を誘う恋……
涙とため息で形作られ、滑らかに進む事無き、それでも人を惹きつけるその心。
そのどれも、小鈴は知らない。
思案が回れば気にもなる。
気になれば知りたくなる。
知りたくなれば抑えは利かず、むしろ抑えることを知らぬ。
トラブルメーカーとは得てしてそういう者だ。
「今日は」
「あ、いらっしゃい」
思案の闇を中断したのは、店の戸を開ける音と外から差し込む光と入って来た客だ。
片手に包まれた何冊かの本を持って入って来た同い年ぐらいの少年を小鈴は知っている。
鈴奈庵の常連で、いつも本を借りていく読書家であった。
読む本も滑稽本に読本に草双紙、果ては学術本や辞典にまで手を出している。
「それで、今度のはどうだった?」
「やっぱり面白いですよ。完結してないのが惜しまれます」
「29年もかけて未完なんて、本当に無責任よね」
小鈴は少年から返却された児雷也豪傑譚を受け取って、口を尖らせ、少年も同意するように苦笑する。
人気があるからと延々と続けてついぞ未完の尻切れトンボ。
今の外の世界でもちょくちょくある事らしく、嗚呼時が幾ら経とうとも変わらぬ出版業界の性かとため息が出そうになる。
「それで、次は何を借りていくの?」
「……八犬伝なんかいいかなって」
「前も読んで無かった?」
「面白いから、何度も読みたくなるんです」
顔なじみ、という事もあるが小鈴はこの少年と馬が合っていた。
辞典を読んで、面白いと言える人間に悪い者はいないし、読む事そのものが愉しいと思える相手にはシンパシーを感じる。
小鈴にとっては、少ない友人の更に少ない男性であった。
「えぇっと、それじゃあ、この1巻から3巻でいいのかな」
「はい、お願いします」
外の世界から流れ着いた南総里見八犬伝。
江戸の頃からのよりも分厚いが、その分巻数が少なくて管理は便利だ。
全く、外の印刷製本の技術はどうなっているのだろうか。
小鈴が八犬伝を製本しようものなら、それこそ100巻を超えてしまうだろう。
そんな、ある種の妬みを感じながら、ふと少年と視線があった時だ。
唐突に、小鈴は思いついてしまった。
そう、彼となら良いのではないか、と。
「……ねぇ」
「はい?」
「今度、一緒に遊びに行かない?」
「え!?」
少年が、素っ頓狂な声を上げる。
「そんな声出さなくってもいいじゃない」
「あ、いえ、その……お、女の人と遊びにって、その……」
「うん、そうデート」
「ちょっ」
本を光から護る為に、薄暗い店の中でも解りやすいぐらいに少年の顔に朱が差す。
たしかに、普通に考えれば逢引きなどとんでもない話であろうが、この場合は少し違う。
「デート、と言っても本当のデートじゃないの」
「えぇっと……?」
「デートの、真似事? うーん、なんて言ったら良いんだろう」
「真似事、ですか? なんでまた」
「阿求にね」
「稗田様が?」
「アンタはその調子じゃ、恋人も出来ずに行き遅れになるのがオチって言われたのよ」
「え、あの稗田様がですか?」
「あ、もしかして、阿求の事、御淑やかなお嬢様だと思ってる? とんでもない! あいつの口の悪さ相当なものよ!」
「そうだったんですか……あ、それで、稗田様のそれが何の関係が?」
「うん、恋人がいるってどんな感じなんだろうって思って」
「……疑似体験がしたい、と」
「有体に言っちゃうとね」
本当の、逢引きならば小鈴とて緊張するだろう。そのぐらいの恥じらいは持ち合わせている。
だが、真似事・偽物となればどうであろう。
何か別に気負う必要はない。
恋のなにか雰囲気がなにかが味わえればいいのだ。
彼ならばそれなりに知っているし、悪くない相手だと思う。
何もしなかったら、何も起こらないと言うでは無いか。
恋がこの身に起らぬのなら、まずやってやるのだ。
「どうかな」
「うぅーん」
「勿論、嫌なら断ってくれていいんだけど」
「いえ……」
そこで、彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
そうして、小鈴に向き直って、こういうのだ。
「僕で良ければ、お付き合いします」
「本当!? ありがとう!」
貸本屋の中で、明るい声が広がる。
かくして、小鈴は偽の逢引きの約束を取り付けたのであった。
* * *
そうして、幾日か過ぎてその約束の日が来る。
親に知られると色々と面倒だからと、落ち合う場所を龍神像の前と決めておいた。
なんでも、外の世界では犬の像を待ち合わせ場所にするらしい。
それに倣ってという訳でも無いが、解りやすさを最優先するのが良いだろうと参考にした次第だ。
「ちょっとありきたりだったかな」
独りごちるが、既に決めてしまったのだからしょうがない。
まぁ、これが本当の逢引きならば凝った趣向の一つや二つを考えるが、今回は真似事だ。
気張る事も無し。
気ままに楽しめばいい。
気楽に考え、小鈴が龍神像のある広場まで来た時である。
「本居さん」
弾んだ声が、小鈴に届く。
誰と問う必要はない、相手役を頼んだ少年の声だ。
どうも、先に着いて待っていたようで、はてこんな処も本で読んだような気がする。
いや、それよりも先に言うべきことがある。
「ごめんね、まった?」
「大丈夫ですよ」
何気なく、少年が応える。
良かった、と更に返そうとして小鈴は気がついた。
良い仕立ての着物である。
髪もさっぱりしており、おそらくは髪結いで剃って貰ったのだろう。
「おぉ、気合入ってるね」
「なにせ女の人とのデートなんて、擬きと言えど初めてなもので」
「……もしかして、緊張してる?」
「勿論ですよ」
「正直だなぁ」
あははは、と誤魔化すように笑って少年は顔を赤くする。
さて、そこまで来て小鈴は自分の格好がどうであろうかと思う。
いつも通りの余所行きの支度である。
何処誰にも恥じる装いであるとは思わぬが、さてこの度の行いの気概の差を見せられるといささか気後れをする。
「似合ってますよ」
「へ?」
「その着物、小鈴さんに似合ってます」
「そ、そうかな」
見透かされたような一言である。
小恥ずかしさもあるが、褒められての嬉しさの方が大きい。
おぉ、これはこれで逢引きらしくなってきたではないかと良い幸先が切れた気もしてくる。
拳を握って「よぉし」と気合一喝。
「では、デート擬き出発!」
「はい、ではどちらが良いですか?」
「……どちら?」
「芝居小屋かこの先の広場で大道芸の集まりがありますので、どちらが良いかと思いまして」
「え? 大道芸やってるの?」
「はい手妻や辻放下、皿回しに猿回し、いろいろやってます」
「へぇー」
それは知らなかった。
里の辻浦浦でそれなりの催しをやっているのは知ってはいるが今日は大道芸だったのか。
正直、小鈴としては適当にぶらぶらする心算だったので予定外ではあるが、そちらの方が確かに面白い。
「えっと、じゃあ芝居は何をやってるの?」
「今月は天守物語だとか」
「泉鏡花!」
「お好きですか?」
「あぁーうぅーん、好きなんだけど……」
話としては嫌いでは無い。
嫌いではないが、妖怪が出てくる話である。
朝露で花を釣り、空舞う鷹を自由と嘯き、愛嬌茶目っ気も見せる妖怪たちの様と、妖怪の姫君と恋に堕ちる若侍。
悲劇の直前の一転昇華、あの爽やかな結末も気に入ってはいる。
しかして妖怪の出てくる話だ。
正直、幻想郷の人間として妖怪の話は少々食傷気味である。
ましてや本居小鈴は博麗神社公認の妖魔本の蒐集者ともなれば、これはもう妖怪とはいくらでも付き合いがある訳で。
いやいや、さりとて幻想郷の妖怪にあのような雅さは無いかから、芝居を観てみたい気もするのだが……
そんな風に、思案の狭間にずり落ちそうになった時である。
「今日は大道芸の方にしましょう」
ぱっと小鈴は顔を上げ、変わらぬにこやかさを讃える少年を観る。
「え、大道芸?」
「えぇ、どうにも天守物語は気が乗らないようでしたので」
「そうでもないけど……」
だが、決められずに悩んでいたのも確かだ。
「面白いですよ、大道芸。一芸のみも良いですが、あれやこれやと集まると更に楽しくなります」
「うん、じゃあ大道芸にしよう」
賑やかなのは嫌いじゃない。
むしろ楽しくて大好きだ。
本が好きだと暗いというイメージが付きまとうが、小鈴は決してそんな事は無いと主張したい。
「では」
手が差しだされる。
無論、彼の手だ。
一瞬、意図が判らずに戸惑う。
理解をするが、戸惑いは消えない。
「練習ですよ、本居さん」
「練習」
「えぇ、どうせ飯事なんです。呈の良い練習台にでもお使いください」
練習、練習か。
なるほど、確かに練習なら、この先、本当にデートする事があった時、失敗しないように練習を兼ねておくと思えば。
そう言い聞かせ、小鈴は少年の手を取る。
(わ……)
先ほどとは、違う戸惑いが小鈴の胸を掻っ攫う。
阿求の様な細い指では無い、だがさりとて(年頃の娘として記憶の昔ではあるが)父の様な太い指でも無い。
だが、確かな骨の感覚、強い血肉の感覚。
何もかもが、小鈴の知らない感覚だ。
ごく普通の男の子の手なのだろうけど、その手の熱さが小鈴の血潮にも伝わるようで。
それが物凄く、どきどきするのだ。
(こ、これは確かに練習しておいた方がいいのかも)
好いているわけでも無い、いやもちろん、言葉を交わし友達としては好いているがあくまで友達でしかないのに、男の子触れるのとはこんなにも緊張してしまう。
きっと、好きな人相手なら正気でいられないに違いない。
それを想えば、これは絶好の機会なのかもしれなかった。
「行きましょう、こっちですよ」
少年が、小鈴の手を引いて少しばかり速足で歩きだす。
里の姿も人も、ただの影として通り過ぎてゆく。
見慣れた道行なれど、元より注意を払うものでも無ければそれは無意味な記号にしか過ぎない。
だが、その時は影や記号が不思議な色を見せる。
速く歩くというそれだけだが、それがまたいつもと違う何かを急き立てるような気持にさせてくれるのだ。
ぼんやりとした心に期待と興奮が滑り込み、知らぬ事の一欠片を形作るようで気持ちが弾んでゆく。
それが春の魔力というものか。
童と女童の間に、偽りまやかしなれどそのような心が湧きたつのは。
その真偽も解らぬまま、小鈴は只駆けてゆくのであった。
* * *
聞こえてくる賑やかな声、調子のよい笛や太鼓。
流れる音は一つ一つ芸だ。
笛者も鼓の打ち手も弦の引手も、誰も彼もが己が為に演じている。
名を売る為か日銭の為か、あるいは芸を愛するが故という純情者もいるやもしれぬ……
いずれにしろ通りで芸を魅せるからには彼らとて必死で有ろう、しかして彼らの出す音が他の芸を滾らせるのもまた事実だ。
そこな皿回しなど、すっかり彼らの音に乗せて芸を魅せている。
説教・仕形能・講釈と語る演ずるもやはり芸。
芸に惹かれて里の一角に集う人々。
祭りに足らぬ日常の寄せ集め。
されど華やか隆盛には違いない。
引かれて駆けて、たどり着いたのはそのような場所であった。
「うわぁ、中々にすごいねぇ」
小鈴が感嘆の声を漏らす。
大道芸は幾等か見た事があるが、こうも集まるとは中々に見ない。
「時々やってるのは知ってたけど……」
「初めてですか?」
「うぅーん、2・3回」
「では、じっくり観て回りましょうか」
小鈴の見得を知ってか知らずか、少年は小鈴の手を引いたまま大道芸の通りを歩く。
乱雑に混みあっているいる訳でも無いが、それでも人は多い。
人の壁あるいは列を避けるため、自然と二人の距離は近くなる。
先ほどまで見ていた背が今度は横顔に代わり、小鈴の視界に少年の顔が収まっていた。
年の頃は左程に変わらない、ただこうして並んでみれば背丈が違う。
頭半分ほど、視線を合わせるにも僅かに上げればいい程度。
先の手の感覚と並び、新しい発見であった。
「どうしました?」
「なんでもないよ」
弾む声を平常で覆って……覆い切れていないのは自覚はするもそれでも隠す努力はする。
なんというか、今回のデート擬き、色々と先手と主導権を取られている感じが否めない。
発案者と誘惑者(なんていうとちょっと大人っぽい感じがすると小鈴は思う)は小鈴なのだ、ここらで主導権を取り戻すためにも隙を見せたりはできない。
見栄である。先もまた見栄を張った。
日頃もっぱら店番を務め、暇があれば妖魔本集めと騒動探しの小鈴に里の催しものを覗く事などまず無い。
遠くから、あるいは近くを通って賑わいを聞いたことはある、その程度だ。
素直にそういってもよかろうものであろうが、年頃の娘である。
知らない、見た事無いというよりは、少しは知っててけど良くは分からない、そんな風な見栄が思わず出てしまうものだ。
元より此度の事柄自体が稗田阿求に対する意地っ張りと、興味本位の自分本位である。
あぁ、だとするならばこのやり取りはじつに本居小鈴らしい。
手がつながるばかりか、いっそ腕まで組みそうな勢いで。
だがしかし、わずかな隙間と距離を保ち、小鈴は賑わいの道を行く。
そしてその道は、どこを見渡しても飽きるという事は無かった。
調子のよい声を覗いてみれば玉すだれが演じられ
歓声が上がる方に向かってみれば炎を使った鮮やかな手妻である
人が跳べば軽業で、なんとも古典なガマの油売りの居合抜き。
無論、ここは幻想郷だ、奇妙奇天烈驚天動地な事柄に事欠かず、魔術妖術がそこかしこに蔓延っている。
奇抜さや凄まじさとなれば無論、其方のほうが強大だ。
しかし、観て感動するかどうかとなればそれは話が違う。
積んだ研鑽が支える妙技の数々。
人間の身で挑戦し成しえるからこそ良いのだ。
魔法ではそれこそ「へぇキレイだね」で終わってしまう。
まぁ、幻想郷ゆえに魔術異能至上主義ともいうべき輩もいるので、そういうのからしてみれば取るに足らないものに映るであろうが。
「見て! また中てたよ!」
本居小鈴の興奮の声が上がる。
彼女の目の前にあるのは、鮮やか百発百中の手裏剣芸だ。
立て板に描かれた的に中てたるは当然として、宙に飛ぶ扇子を貫き、舞を舞いながら視線をそらしているにも関わらずに中てて見せる。
小鈴の声を飲み込んだ拍手と歓声の量がその見事さを物語っていた。
素直に驚嘆すべき芸であり、そしてまた小鈴にもそれを愉しむことができる素直さがある。
感動を共有するように隣の少年と顔を見合わせ、拍手を送る小鈴。
演者も恭しく頭を下げ、御捻りが投げ込まれる。
「さぁさぁ、皆さまここで一つお手伝いを願いましょう!」
演者の声が観客に響く。
片手には手裏剣、もう片方には紙風船である。
「今まで狙いましたるは唯の的、この紙風船も的ですが据える場所が聊か違う!」
周囲を見渡しニヤリと演者が哂った。
「そう、人の頭の上に据えさせていただきましょう! その的にどなたかご協力いただきたい!」
ざわり、と観客がざわめく。
人の頭? 人に向かって手裏剣を打つというのだろうか。
「さぁ、どなたか勇気あるお方はおられますかな?」
皆、顔を見合わせてしり込みをする。
確かに腕前を見れば外しはしないだろうが、さてそれでも万が一という事がある。
手が上がらぬのは当然の事だ。
そして、演者が挑発的な笑みを浮かべつつ周囲を見渡し、小鈴の隣に、少年と視線が合う。
「どうですかな、そこのおぼっちゃん」
「え、ぼ、僕ですか?」
「そうですとも、どうです連れのお嬢さんに男を魅せる機会ですぞ」
連れのお嬢さんという言葉に、小鈴はすこしばかりこそばゆい感覚を覚える。
擬きであっても、男女の仲に見えるのだろうか。
まぁ、擬きは擬き練習である、ちょっと嬉しくクスリと笑うだけでそれ以外それ以上はあり得ない。
この演者の誘いも、今回のがうまくいっている証拠ぐらいにしかならない……
「やります!」
「えっ!?」
「おぉ! それでこそですぞ!!」
少年の勢いと、小鈴の驚きと、演者の歓喜である。
「ちょ、ちょっと待って危ないよ」
「わかってます」
何を判ってるのだろうか、というか本当に解っているのだろうか。
小鈴がおろおろとする間に、少年はずんずんと一歩一歩をいささか大げさに歩いていく。
傍から見て分かる程に緊張している。
演者はそんな少年を慣れた様子で立て板の前に立たせると、紙風船を少年の頭に載せた。
紙風船の底がくしゃりと歪み、頭上という不安定な場所にあって以外にも安定している。
「では皆さま、ここからは瞬き厳禁でございます」
演者が取り出したる棒手裏剣が陽の光によって鈍く輝く。
瞬き厳禁と言いながら、もったいぶった動きで、観客を見渡し緊張感と焦燥感を煽るのだ。
一人一人の顔を確かめるような仕草、そしてニヤリと笑う。
その刹那、まさに目にもとまらぬ瞬きしては見逃してしまう程の速さで手の中の手裏剣が撃たれた。
同時に小鈴は息をのむ。尤も、あまりにも咄嗟の事でそれを理解したのは一瞬遅れてからだ。
パンッと乾いた小気味の良い音が響く。
続いて飛び込む影三つ、宙に浮いた紙風船をしっかと捉え、食らいつき駆けてゆく。
そして、コンと軽い音を立てて、棒手裏剣と紙風船は立て板にあたって落ちた。
少年が、事を確かめるように後ろを振り向き、そして演者の方に振り替えると演者は仰々しくお辞儀をする。
湧き上がるというよりも爆発するような拍手と喝采。
演者は少年の手を取り、高く掲げる。
「恐れることなく挑んでくれた勇敢な少年に、今一度拍手を!」
賞賛の真っ只中で、緊張が切れたのだろう、得意げには程遠い乾いたと安心したが混在した笑顔で少年は振り回されるように手を振る。
小鈴もまた、おなじような感情を混ぜ合わせほっと胸を撫でおろすのであった。
* * *
騒がしきの中を歩き、自分たちもその一部となれば当然の事ながら咽が乾き腹も減る。
体にも聊か疲労があり、なればそれを癒そうとちょいと洒落た甘味処の暖簾を潜った。
里の雰囲気が賑やかならば、甘味処の雰囲気は姦しい。
なにせ女しかいない。
勿論、幻想郷にも甘味を好む男はいる、いるがやはり大勢としては女子供の入るところである。
日の昼間から甘いものを……という男はまずおらず、店は華やかな空気になる。
それはそれ小鈴と少年ではものの見事に女子供、かまわず適当な席につき適当に注文するのにいささかも問題は無い。
二人して注文したのは、葛餅である。
ぷるぷるとした触感に、どっしりとさりとてくどくは無い黒蜜がかかった逸品であった。
甘いもので舌を愉しみ、茶で唇を潤せば会話も弾む。
弾んだ先で、ちょっと何かにぶつかるのも、やむを得ない。
「本当にびっくりしたんだから」
少し膨れた頬と気持ちを葛餅の揺れる食感で緩和しつつ、小鈴は嘆息する。
対する少年は、いささかにバツが悪い。
先の手裏剣芸の事を持ち出されたのである、さもありなんと言ったところであろう。
後に分かった事だが、最後に用いられたのは木製の棒を鉄に見えるように加工したものであった。
紙風船ならばそれでも十分貫けるし、木ならば仮に人に当たっても痛いで済む。
まぁ、後で分かった事なので、あの時としてはハラハラドキドキしっぱなしだったのは事実な訳で……
「なんで挑戦しちゃったの」
「えぇっと、いやまぁ」
終わって合流した時の、周囲からの拍手がまだちょっと恥ずかしい。
「もしかして……」
頭をよぎった予測に呆れと意地悪を混ぜて、真正面からぶつけてみる。
「男を魅せる機会って言われて、張り切っちゃった?」
少年の葛餅を含んだ直後の顔が朱に染まり視線が下がる。
嗚呼、どうやら図星であったようだ。
手をつなぎ、並んで歩いた時には自分より大きく見えた子が、今は羞恥に縮こまって小さく幼く見える。
そうすると、心に湧き上がってくるのは喜であった。
先ほどまで自分をリードしていた相手が、なんだ子供っぽい可愛い所があるじゃないかと、途端にお姉さんぶりたくなってくる。
周りに素早く視線を配り、誰もこちらを見ていない事を確認すると、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「はい!」
「へ?」
小鈴の黒文字(菓子に使う楊枝)の先に突き刺さっているのは葛餅である。
ただし、向けられているのは小鈴ではなく少年の方だ。
一瞬呆けたような様子を見せるが、小鈴の表情と状況を見れば、何を意図したのかなど誰にでも察せるわけで。
顏の朱が、ますます深くそして広がる様がなんとも面白いし、可愛らしい。
そんなものを見せられたら、ますます意地悪がしたくなる。
「ん」
葛餅をさらに突き付けて、言外に「ほらほら、遠慮しないで」とできうる限り優しく告げる。
これが酒の類であるなら、古典として「私の酒が呑めないのか」だろうか。
なんて色気のない、菓子で良かった。
それはそれとして、少年は困ったようなちょっとむくれたような目をするが、調子に乗った小鈴は無敵なのでその程度ではひるまない。
悦楽と羞恥である、どちらが優位かなんて言うまでもない。
僅かばかりの視線の鍔迫り合いの後、降参したのは少年の方であった。
「むぐ」
葛餅が黒文字の先から消える。
少年は素早く周囲に目を走らせて、今のを見られてやしないかと恥ずかしがっているようだ。
先には良い恰好を魅せようとしてたのに、こういうところが勇気がない。
それで、つい笑ってしまうのだ。
でも、馬鹿にするような笑い方じゃない。
あぁ、いや、なんといえば良いのだろう。
女の子の……勿論、小鈴は自分が女の子だっていうのは理解してる。
だけど、こんな風に女の子らしく笑うなんて実はあんまり無かったように思う。
前は退屈ばっかりしてて、今は妖魔本集めに夢中で。
知り合いは増えたけど、こう、女の子な感じな付き合いができたのはやっぱり……
「阿求ぐらいかな」
「稗田様が、どうかしましたか?」
「あ、うん、ちょっとね」
ちょっとね、で区切った言葉が、そこで終わってもよかったけれど一拍子おいて続いていく。
「考えたら、こういう女の子みたいな事って阿求以外とはなかったなって」
「そうなんですか?」
「うん、ほら私の他の知り合いって、霊夢さんとか魔理沙さんとか、そういう人たちだし」
「博麗の巫女と、森の魔法使い?」
「そうそう、あの人たちっていい人なんだけど、こうなんていうか太々しいっていうか……」
本当は、あの人たちだって女の子な面もあるのかもしれない。
けど、小鈴が知るのはのんびりと茶をすするか、酒を呑むとかの場面ばかりだ。
こんな風に甘いものを食べて談笑して、なんてのはやっぱり阿求としか知らない。
「あー……やっぱ、考えれば考えるほど阿求以外とは友達居ないなぁ私」
「じゃあ、僕が第一号ってことですね」
「え? 一号?」
「男で、小鈴さんとこういう事をしたの」
男、という一言で小鈴はある種現実に引き戻される。
そうだ、阿求とは違う、男性が相手なのだ。
つい調子に乗ってしまったけど、これはその大分恥ずかしい事をやらかしてるわけで。
少年の赤らめたままはにかんだ顔が余計にそれを思い知らせてくれる。
こうも一瞬で気持ちが乱高下してしまうものか。
これが阿求や、霊夢や魔理沙だったら、何か言われてむっとしたり喜んだりはするけど、こんなにも大げさに心動かないだろう。
先の意地悪も、今の居たたまれない心持も、きっと目の前にいるのが女の子だったらこんな風にはならない。
彼はすっかり落ち着きを(見た目では)取り戻してる様子で、葛餅に舌鼓を打っている。
小鈴の視線に気づいて、黒蜜の甘い香りみたいに幸せそうな笑顔をむけた。
さっきとはまるで真逆、一言と一仕草で乱された小鈴とは大違いである。
「……男の子って、ずるっこ」
そんな、少しばかり拗ねたような言葉を吐いて、小鈴も葛餅を頬張るのであった。
* * *
甘味とは偉大である。
拗ねようが恥じようが、甘いものが舌に触れ咽を通り過ぎてゆけば機嫌は治ってゆくものだ。
然らば、デート擬きの恙なき再開である。
里の通りを二人して練り歩き、小間物屋の店先を覗いてみたりして。
捻りも何にもない、練習を兼ねた疑似体験。
「これなんかどう?」
「派手過ぎません?」
「もう、こういう時は似合ってますっていうのが定番じゃない?」
手にした櫛の評価の違いに思わず口を尖らせる。
確かに、その櫛は聊かに装飾が華やかに過ぎており、小鈴ではなくもう幾ばくか年上向けのそれであろう。
解って手に取ったのは小鈴の茶目っ気だ。
「かもしれませんが」
「しれませんが?」
「本居さんには、本当に似合ってるもの身に着けててほしいなって」
見栄っ張り、純情者、正直者、お人よし。
一つの事を経る度、彼の姿が少し見える。
本好きなお客さんとしてしか知らなかった時よりも、たった一日だけでずっと沢山の事が分かるようになっていて。
彼も、本居小鈴の事を知るのだろう。
それが、とてもこそばゆい。
「じゃあ、どんなのが似合うと思う?」
「んー……これとか」
「……………無いなぁ」
「えぇっ!?」
センスはちょっとダサいけど。
それはそれだ。
「いけないなぁ、今後、女の子とデートするときにそんなのじゃ」
彼は、しゅんと肩を落とす。
だから、小鈴は店に並ぶ櫛から、本当に自分好みの逸品を手に取り、髪に挿す。
似合っている。
絶対の自信がある。
そして、ほら、こうして笑えば。
「どう?」
解ってる、予想がつく、読めてしまう。
彼の顔が綻んで、そして次にいうセリフはこれだ。
「似合ってますよ」
一文字も違えることなく、解っていたことを。
嗚呼、でもその一言とこの眼差しは、本居小鈴の心を芯をすっごく暖かくしてくれるのだ。
「じゃあ、買っちゃいますか?」
「うぅーん、でも持ち合わせが」
「いいんですよ、僕が出します」
「へ?」
「こういう時には、こうするものでしょう?」
小鈴の返事を待たず、彼は品物を手に店の奥に向かう。
本日何度目かの主導権簒奪だ。
甘味処の時と同じく、読み切ったと思っていたのに。
本居小鈴はどんな書物でも読める。
でも人の心は読めない。
読める時もある。
目の前のこの人の心はどうだろう。
なにをどこまで気にして、どれを気楽に扱えばいいのか判らない。
疑似体験だから、こんな風に思えるのだろうか。
本当の恋なら、どんな話になるのかまるで読めなくて――
「あら、小鈴じゃない」
同時に、この展開もまた読めなかった。
声の主を確かめる。
一目で良家のお嬢様と判る装い聞きなれた声の、稗田阿求。
「珍しい、こんな所で」
「え、あーうーん……そのぅ……」
目を丸くする阿求と、目を泳がせる小鈴。
確かに、いつも店にいるか店の用事で出かける事の多い小鈴が小間物屋にいるというのは珍しいかもしれない。
珍しいが、不思議ではないはずだ、小鈴とて年頃である小間物に興味があるのは当然なのに。
いつもの調子で「たまにはこういうのだって観る」と言えば良かったのに。
完璧に初手を失敗していた。
「どうしました、本居さん」
様子がおかしいことに気が付いたのか、彼が店からひょっこりと顔を出す。
そして、稗田阿求の姿を認めると、慌てて頭を下げた。
「これは、稗田様」
稗田の家は里の重鎮である。
求聞史紀の編纂を担う、という事は里にとってひいては幻想郷全体のバランスに関わること故に里の人々にとってみれば稗田の血、特に頭首となれば殿上人に等しい。
彼が驚くのも無理らしからぬ事であるが、阿求もまた彼の存在に驚いたようだ。
小鈴と彼を交互に見比べ、少しばかり思案し、そしてむんずと小鈴をつかんで「ちょっと」と引っ張り込む。
彼に背を向け、声を潜め阿求は訝しい声を突き付けてきた。
「だれ、あの人」
「わ、私のとも、友達?」
「なんで疑問形なの」
「なんでだろう」
阿求の視線が少しばかりきつくなる。
「この前の事でしょ」
「こ、この前のって?」
「声、震えてるわよ」
視線を逸らすが、追及からは逃れられない。
「そんなんだから恋人もいないって話」
「そーゆーのあったね、たしかに」
「……もしかして、言われて気にして恋人ごっことかしてみたいって思ったんじゃない」
流石は親友、図星である。
そしてまた、親友なればこそ小鈴の無言の動揺を余すことなくキャッチすることも可能だ。
この場合の小鈴にとっては、実に忌々しい事であるが。
「あっきれた、それであの人付き合わせてるの?」
「そ、そういうわけじゃないし……」
語尾が小さく弱弱しい。
それは阿求にバレて気まずいからなのか。
さっき迄の、浮かれていた空気が一転して気まずいものになる。
「だからね、そういう言われたからって……」
「あの、もしもし?」
阿求の小言を、彼が遮る。
二人して振り返ると、そこにはいささか困ったような彼の顔。
「えぇっと、もしかして本居さん、今日は稗田様と何か約束が?」
「へ?」
唐突に、意味の分からない事を彼が言い始める。
「そういえば、お誘いした時も渋っているようなご様子でしたし」
いや、誘ったのは間違いなく小鈴の方だ。
真逆の言葉に、小鈴はさらに混乱する。
同時に、阿求も鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をして彼に問う。
「誘ったって、貴方が?」
「えぇっと、はい今日、大道芸の集まりがあるので一緒に見にいきませんか……と」
「……そういえばやってたわね」
「でも、稗田様とのお約束があったのなら、悪いことを」
「そんな事ないよ!」
思わず、小鈴は声を張り上げる。
悪い事、なんて言ってほしくないし聞きたくない。
疑似体験で、自分から誘って、でもなぜか彼の方から誘ってって話になって。
そこらへんの事はもう今はどうでもいいから、せっかくの今日この日を彼の口から否定されたくなんか無かった。
「今日は、一緒に遊べて嬉しい」
まともに目を見れなくて、思わず下を向いてしまう。
だから、声だけが聞こえる。
「よかった」
それだけで、もうただそれだけで、小鈴は嬉しいのだ。
口元が緩んで、嗚呼これは照れ笑いという奴だ。
恥ずかしさと喜びが、自信と手を取って交じり合う。
彼にはこの気持ちが判るのだろうか。
判ってくれたら、良いなとそう思いつつ
横で目を丸くして、狼狽えたままに固まり「え? マジで?」みたいな状態になっている阿求の事などすっかり忘れているのであった。
* * *
事はどうあれ時は流れる。
朝に日が昇り昼に照らし、夕には沈む。
沈む日を背にあるいは浴びて帰路に就くのは当然の事だろう。
今日一日の疑似デートもそろそろ仕舞いであった。
あの後、阿求とは有耶無耶の内に分かれてしまった。
なにやら「まさかありえるなんて」とぶつくさ言っていたが、改めて小鈴の顔をみると「ま、良いわ」とこれまたなにか勝手に納得した様子で去っていったのだ。
何だったのだろうか、あの反応は。
もしや、小鈴と彼が本当に恋人同士だと勘違いしたのではないだろうか。
いや、まぁ、あの時は思い返すに相当にそんな雰囲気だったかもしれないけれど。
「あ、ねぇ」
同時に、思い出した疑問を口にする。
「はい、なんでしょう」
「阿求の前でさ、どうしてああいうこと言ったの?」
「僕の方から誘ったって事ですか」
「うん」
「……こういうのって、知り合いに知られると気まずかったりしません?」
「あーうん、そうかも」
特に阿求の事だ後々にも話の端に持ち出すのが目に見えている。
「本居さんが言うには、稗田様も相当に愉快な性格をしていらっしゃるようなので」
悪戯っぽく言う彼に、小鈴は思わず吹き出してしまう。
今まさに、小鈴も同じことを思ったのだ、笑わずにいられようか。
そんな風に、和やかに話しながら二人は帰り道を行く。
たった一日だけど話すことは色々あった。
けど話題を一つ二つと消費していくごとに、今日の終わりが近づいてゆく。
そしてとうとうこの話題にたどり着いた。
「今日は、どうでした?」
この疑似デートの総括である。
「愉しかったよ」
「本当に?」
「疑うの?」
「僕も女性とデートなんて、初めてだから色々と失敗したんじゃないかなって」
「大丈夫、大丈夫」
少なくとも、愉しかったのは本当だ。
だから自信を持ってほしい。
むしろ、自信が無いのは小鈴の方であった。
「うーんと、けど……」
「けど?」
「恋ってなんなのかますますわからなくなっちゃった」
今日の疑似デートで、小鈴はいろんな気持ちを体験した。
凡そ、女の子同士では得られなかった経験だろう。
だからこそ、小鈴には恋とはなんなのかが分からない。
「そもそも、恋をしたことなんてないから判るわけないのにね」
本居小鈴は本物を知らない。
本物を知らなければ、偽物だって判るはずがない。
今日の事を「男友達と遊ぶ感覚」なのか「恋をまねた疑似デート」なのかだって判断する材料を小鈴は持ち合わせてはいなかった。
そこでふと気が付く。
彼の顔が真剣なものになっていることに。
せっかく付き合ってもらったのに、こんな事を言って怒らせてしまったのだろうか。
そう思い、小鈴が誤解を解こうとしたその時である。
「それじゃあ、こんなのはどうです」
彼は、笑顔を作る。
何度も見たようで初めての笑顔。
そして、ゆっくりと口を開くのだ。
「好きです、小鈴さん。付き合ってください」
一呼吸を置いて、頭で理解するよりも早く感覚が小鈴に奔る。
何もかもが止まってしまうような、心の内から心の臓に突き上げるような。
胸の内を満たして溢れてしまいそうな、そんな感覚だった。
「……ちょ、ちょっとまって!」
無自覚に出た一声に小鈴は何を言っているのかと自分でツッこむ。
そのぐらいに混乱していた。
「はい、待ちます」
「えっ!!?」
「今、不意を打ちましたから。待たないと不公平でしょう?」
「そ、そう、いやえぇっと、それでいいの!?」
小鈴はどうしていいかわからない。
唐突な、まさに不意打ちと言っていい告白である。
勿論、嫌な訳ではない、冗談として受け取る考えなど全くない。
でも、どうしよう。
今まで、偽物のごっこ遊びだったものに、判らないからとある種気楽だったものに、彼自身の本物が突き付けられたのだ。
故に、小鈴は確たるものをもって返事をすることができない。
「今日は返事はいいですから、帰りましょう」
「……うん」
悩んで頭がぐるぐるしてるして、二人並んで歩いている。
横目でちらちらと見ながら、悶えるような沈黙だけがあるのだ。
やがて、小鈴の家にたどり着く。
「それじゃあ、小鈴さん今日はこのあたりで」
背を向けて去ろうとする彼を見て、小鈴は声を上げた。
「待って!」
「? どうしました?」
「うん、その……」
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
「今度またどこかに出かけよう」
「…………はい!」
玉虫色ともとれる小鈴の誘いと、弾む彼の声。
また今度と、手を振って二人は分れる。
この気持ちは果たして本物なのか偽物なのか。
小鈴にはやっぱりわからない。
けれども、そう……
これが偽物だとするのなら
本物にしたいな
そんな、甘くて優しい思いだけは間違いなく本物なのだと小鈴にも理解できていたのであった。
基本的に、『ファースト・フォリオ』という戯曲全集に収録されたものがウィリアム・シェイクスピアの真作と定められておりますが、様々な理由からシェイクスピアらしき名が記されながらもファースト・フォリオに収録されない作品があるのです。
ただの贋作と断じられたものもありますが、共同執筆のためにシェイクスピアの作品とは呼び難いもの、他作品を改変しただけのもの、といった風にシェイクスピアが確かに関わっていたという作品も外さていたケースがありました。
だからこそ、世の中に「ファースト・フォリオには無いがシェイクスピアが書い作品と信じられていたもの」が出てくるのは自然なことです。
中には真作と判明したものもありますが、多くはシェイクスピアの作品と呼んでよいものかどうかという疑惑と論争を呼び決着が着きません。
そんな作品群を人々は『シェイクスピア外典』に分類したのです。
されど時が経てば、物事は曖昧になってゆくもの。
もしかしたら、知られざる真作があるかもしれない、そんな淡い期待と薄暗い欲とあれやこれやと入り交じり「これはシェイクスピアの書いたものだ!」などと言い出す輩が増えたのだからたまりません。
ついぞそこに付け込み自分で贋作を作って売り出すものまでいる始末。
学者の皆様は目の色変えて真作だ! と大喜び。
ついぞ気持ちが逸って300ポンドも出してロンドンでも名高きドルリー・レーン劇場で上演される運びに。
けれども、学者が認めても演じる役者の皆々様はどうにもこうにも訝しむ。
そんなこんなで贋作とバレて、意地になって開演するも観客全員馬鹿にして一夜限りで千秋楽。
さぁて、有象無象の外典群。
真なる根拠はだれがみつけ、贋の証拠はどう立てるか
なかなかに難しい問題でございます
* * *
本居小鈴には友達がいない。
よく、そのように友達に言われる。
中々に破綻しているようだが、これは所謂言葉の綾と言うもので、ここでの「いない」とは「少ない」という事だ。
思い返してみれば、そうかもしれない。
妖魔本という物騒な代物を欲しがり、何か騒動が起きないかと心待ちにしている。
ある種のトラブルメーカーであるという自覚はある程度あるので、付き合いのある人間も少ない。
その分、友人との仲は良いと思っている。
だからこそ友達がいないと本当の事を突かれるのだが。
さて、どうでもよい事をつらつらと述べたが本筋はそうではない。
友達がいないと言われた事は何度かあれど、恋人もいないと言われた。
ここでいう「いない」とは比喩ではなく、そのままの意味だ。
即ち、本居小鈴には恋人というものは誰一人としていない。
尤も、小鈴の常識として恋人は一人のみで複数持つものではない為、「恋人がいない」を「恋人が少ない」と解釈する事も在りえないので、この注釈は全く意味の無い事なのだが。
「うぅーん」
小鈴は唸る。
本居小鈴の人生の中で、恋をした事など一度もない。
友人の中にもいないのでは無いだろうか。
小馬鹿にしたように「恋人もいない」等と宣ってくれた稗田阿求にだって今世においては未だ恋を知らない。
前世では知っていただろうが、それを覚えて居ないのでは知らないも同然だ。
小鈴とて年頃の娘として、興味が無いわけでは無い。
ただ、本の中で物語として知っているだけで、自分のと言うのにはそこまで思案が回らなかった。
それよりも、珍しい何かを求める好奇心が強かったのだ。
「どんな気持ちなのかなぁ」
物語には様々な恋が描かれる。
真摯な恋・間違った恋・危険な恋・破滅を誘う恋……
涙とため息で形作られ、滑らかに進む事無き、それでも人を惹きつけるその心。
そのどれも、小鈴は知らない。
思案が回れば気にもなる。
気になれば知りたくなる。
知りたくなれば抑えは利かず、むしろ抑えることを知らぬ。
トラブルメーカーとは得てしてそういう者だ。
「今日は」
「あ、いらっしゃい」
思案の闇を中断したのは、店の戸を開ける音と外から差し込む光と入って来た客だ。
片手に包まれた何冊かの本を持って入って来た同い年ぐらいの少年を小鈴は知っている。
鈴奈庵の常連で、いつも本を借りていく読書家であった。
読む本も滑稽本に読本に草双紙、果ては学術本や辞典にまで手を出している。
「それで、今度のはどうだった?」
「やっぱり面白いですよ。完結してないのが惜しまれます」
「29年もかけて未完なんて、本当に無責任よね」
小鈴は少年から返却された児雷也豪傑譚を受け取って、口を尖らせ、少年も同意するように苦笑する。
人気があるからと延々と続けてついぞ未完の尻切れトンボ。
今の外の世界でもちょくちょくある事らしく、嗚呼時が幾ら経とうとも変わらぬ出版業界の性かとため息が出そうになる。
「それで、次は何を借りていくの?」
「……八犬伝なんかいいかなって」
「前も読んで無かった?」
「面白いから、何度も読みたくなるんです」
顔なじみ、という事もあるが小鈴はこの少年と馬が合っていた。
辞典を読んで、面白いと言える人間に悪い者はいないし、読む事そのものが愉しいと思える相手にはシンパシーを感じる。
小鈴にとっては、少ない友人の更に少ない男性であった。
「えぇっと、それじゃあ、この1巻から3巻でいいのかな」
「はい、お願いします」
外の世界から流れ着いた南総里見八犬伝。
江戸の頃からのよりも分厚いが、その分巻数が少なくて管理は便利だ。
全く、外の印刷製本の技術はどうなっているのだろうか。
小鈴が八犬伝を製本しようものなら、それこそ100巻を超えてしまうだろう。
そんな、ある種の妬みを感じながら、ふと少年と視線があった時だ。
唐突に、小鈴は思いついてしまった。
そう、彼となら良いのではないか、と。
「……ねぇ」
「はい?」
「今度、一緒に遊びに行かない?」
「え!?」
少年が、素っ頓狂な声を上げる。
「そんな声出さなくってもいいじゃない」
「あ、いえ、その……お、女の人と遊びにって、その……」
「うん、そうデート」
「ちょっ」
本を光から護る為に、薄暗い店の中でも解りやすいぐらいに少年の顔に朱が差す。
たしかに、普通に考えれば逢引きなどとんでもない話であろうが、この場合は少し違う。
「デート、と言っても本当のデートじゃないの」
「えぇっと……?」
「デートの、真似事? うーん、なんて言ったら良いんだろう」
「真似事、ですか? なんでまた」
「阿求にね」
「稗田様が?」
「アンタはその調子じゃ、恋人も出来ずに行き遅れになるのがオチって言われたのよ」
「え、あの稗田様がですか?」
「あ、もしかして、阿求の事、御淑やかなお嬢様だと思ってる? とんでもない! あいつの口の悪さ相当なものよ!」
「そうだったんですか……あ、それで、稗田様のそれが何の関係が?」
「うん、恋人がいるってどんな感じなんだろうって思って」
「……疑似体験がしたい、と」
「有体に言っちゃうとね」
本当の、逢引きならば小鈴とて緊張するだろう。そのぐらいの恥じらいは持ち合わせている。
だが、真似事・偽物となればどうであろう。
何か別に気負う必要はない。
恋のなにか雰囲気がなにかが味わえればいいのだ。
彼ならばそれなりに知っているし、悪くない相手だと思う。
何もしなかったら、何も起こらないと言うでは無いか。
恋がこの身に起らぬのなら、まずやってやるのだ。
「どうかな」
「うぅーん」
「勿論、嫌なら断ってくれていいんだけど」
「いえ……」
そこで、彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
そうして、小鈴に向き直って、こういうのだ。
「僕で良ければ、お付き合いします」
「本当!? ありがとう!」
貸本屋の中で、明るい声が広がる。
かくして、小鈴は偽の逢引きの約束を取り付けたのであった。
* * *
そうして、幾日か過ぎてその約束の日が来る。
親に知られると色々と面倒だからと、落ち合う場所を龍神像の前と決めておいた。
なんでも、外の世界では犬の像を待ち合わせ場所にするらしい。
それに倣ってという訳でも無いが、解りやすさを最優先するのが良いだろうと参考にした次第だ。
「ちょっとありきたりだったかな」
独りごちるが、既に決めてしまったのだからしょうがない。
まぁ、これが本当の逢引きならば凝った趣向の一つや二つを考えるが、今回は真似事だ。
気張る事も無し。
気ままに楽しめばいい。
気楽に考え、小鈴が龍神像のある広場まで来た時である。
「本居さん」
弾んだ声が、小鈴に届く。
誰と問う必要はない、相手役を頼んだ少年の声だ。
どうも、先に着いて待っていたようで、はてこんな処も本で読んだような気がする。
いや、それよりも先に言うべきことがある。
「ごめんね、まった?」
「大丈夫ですよ」
何気なく、少年が応える。
良かった、と更に返そうとして小鈴は気がついた。
良い仕立ての着物である。
髪もさっぱりしており、おそらくは髪結いで剃って貰ったのだろう。
「おぉ、気合入ってるね」
「なにせ女の人とのデートなんて、擬きと言えど初めてなもので」
「……もしかして、緊張してる?」
「勿論ですよ」
「正直だなぁ」
あははは、と誤魔化すように笑って少年は顔を赤くする。
さて、そこまで来て小鈴は自分の格好がどうであろうかと思う。
いつも通りの余所行きの支度である。
何処誰にも恥じる装いであるとは思わぬが、さてこの度の行いの気概の差を見せられるといささか気後れをする。
「似合ってますよ」
「へ?」
「その着物、小鈴さんに似合ってます」
「そ、そうかな」
見透かされたような一言である。
小恥ずかしさもあるが、褒められての嬉しさの方が大きい。
おぉ、これはこれで逢引きらしくなってきたではないかと良い幸先が切れた気もしてくる。
拳を握って「よぉし」と気合一喝。
「では、デート擬き出発!」
「はい、ではどちらが良いですか?」
「……どちら?」
「芝居小屋かこの先の広場で大道芸の集まりがありますので、どちらが良いかと思いまして」
「え? 大道芸やってるの?」
「はい手妻や辻放下、皿回しに猿回し、いろいろやってます」
「へぇー」
それは知らなかった。
里の辻浦浦でそれなりの催しをやっているのは知ってはいるが今日は大道芸だったのか。
正直、小鈴としては適当にぶらぶらする心算だったので予定外ではあるが、そちらの方が確かに面白い。
「えっと、じゃあ芝居は何をやってるの?」
「今月は天守物語だとか」
「泉鏡花!」
「お好きですか?」
「あぁーうぅーん、好きなんだけど……」
話としては嫌いでは無い。
嫌いではないが、妖怪が出てくる話である。
朝露で花を釣り、空舞う鷹を自由と嘯き、愛嬌茶目っ気も見せる妖怪たちの様と、妖怪の姫君と恋に堕ちる若侍。
悲劇の直前の一転昇華、あの爽やかな結末も気に入ってはいる。
しかして妖怪の出てくる話だ。
正直、幻想郷の人間として妖怪の話は少々食傷気味である。
ましてや本居小鈴は博麗神社公認の妖魔本の蒐集者ともなれば、これはもう妖怪とはいくらでも付き合いがある訳で。
いやいや、さりとて幻想郷の妖怪にあのような雅さは無いかから、芝居を観てみたい気もするのだが……
そんな風に、思案の狭間にずり落ちそうになった時である。
「今日は大道芸の方にしましょう」
ぱっと小鈴は顔を上げ、変わらぬにこやかさを讃える少年を観る。
「え、大道芸?」
「えぇ、どうにも天守物語は気が乗らないようでしたので」
「そうでもないけど……」
だが、決められずに悩んでいたのも確かだ。
「面白いですよ、大道芸。一芸のみも良いですが、あれやこれやと集まると更に楽しくなります」
「うん、じゃあ大道芸にしよう」
賑やかなのは嫌いじゃない。
むしろ楽しくて大好きだ。
本が好きだと暗いというイメージが付きまとうが、小鈴は決してそんな事は無いと主張したい。
「では」
手が差しだされる。
無論、彼の手だ。
一瞬、意図が判らずに戸惑う。
理解をするが、戸惑いは消えない。
「練習ですよ、本居さん」
「練習」
「えぇ、どうせ飯事なんです。呈の良い練習台にでもお使いください」
練習、練習か。
なるほど、確かに練習なら、この先、本当にデートする事があった時、失敗しないように練習を兼ねておくと思えば。
そう言い聞かせ、小鈴は少年の手を取る。
(わ……)
先ほどとは、違う戸惑いが小鈴の胸を掻っ攫う。
阿求の様な細い指では無い、だがさりとて(年頃の娘として記憶の昔ではあるが)父の様な太い指でも無い。
だが、確かな骨の感覚、強い血肉の感覚。
何もかもが、小鈴の知らない感覚だ。
ごく普通の男の子の手なのだろうけど、その手の熱さが小鈴の血潮にも伝わるようで。
それが物凄く、どきどきするのだ。
(こ、これは確かに練習しておいた方がいいのかも)
好いているわけでも無い、いやもちろん、言葉を交わし友達としては好いているがあくまで友達でしかないのに、男の子触れるのとはこんなにも緊張してしまう。
きっと、好きな人相手なら正気でいられないに違いない。
それを想えば、これは絶好の機会なのかもしれなかった。
「行きましょう、こっちですよ」
少年が、小鈴の手を引いて少しばかり速足で歩きだす。
里の姿も人も、ただの影として通り過ぎてゆく。
見慣れた道行なれど、元より注意を払うものでも無ければそれは無意味な記号にしか過ぎない。
だが、その時は影や記号が不思議な色を見せる。
速く歩くというそれだけだが、それがまたいつもと違う何かを急き立てるような気持にさせてくれるのだ。
ぼんやりとした心に期待と興奮が滑り込み、知らぬ事の一欠片を形作るようで気持ちが弾んでゆく。
それが春の魔力というものか。
童と女童の間に、偽りまやかしなれどそのような心が湧きたつのは。
その真偽も解らぬまま、小鈴は只駆けてゆくのであった。
* * *
聞こえてくる賑やかな声、調子のよい笛や太鼓。
流れる音は一つ一つ芸だ。
笛者も鼓の打ち手も弦の引手も、誰も彼もが己が為に演じている。
名を売る為か日銭の為か、あるいは芸を愛するが故という純情者もいるやもしれぬ……
いずれにしろ通りで芸を魅せるからには彼らとて必死で有ろう、しかして彼らの出す音が他の芸を滾らせるのもまた事実だ。
そこな皿回しなど、すっかり彼らの音に乗せて芸を魅せている。
説教・仕形能・講釈と語る演ずるもやはり芸。
芸に惹かれて里の一角に集う人々。
祭りに足らぬ日常の寄せ集め。
されど華やか隆盛には違いない。
引かれて駆けて、たどり着いたのはそのような場所であった。
「うわぁ、中々にすごいねぇ」
小鈴が感嘆の声を漏らす。
大道芸は幾等か見た事があるが、こうも集まるとは中々に見ない。
「時々やってるのは知ってたけど……」
「初めてですか?」
「うぅーん、2・3回」
「では、じっくり観て回りましょうか」
小鈴の見得を知ってか知らずか、少年は小鈴の手を引いたまま大道芸の通りを歩く。
乱雑に混みあっているいる訳でも無いが、それでも人は多い。
人の壁あるいは列を避けるため、自然と二人の距離は近くなる。
先ほどまで見ていた背が今度は横顔に代わり、小鈴の視界に少年の顔が収まっていた。
年の頃は左程に変わらない、ただこうして並んでみれば背丈が違う。
頭半分ほど、視線を合わせるにも僅かに上げればいい程度。
先の手の感覚と並び、新しい発見であった。
「どうしました?」
「なんでもないよ」
弾む声を平常で覆って……覆い切れていないのは自覚はするもそれでも隠す努力はする。
なんというか、今回のデート擬き、色々と先手と主導権を取られている感じが否めない。
発案者と誘惑者(なんていうとちょっと大人っぽい感じがすると小鈴は思う)は小鈴なのだ、ここらで主導権を取り戻すためにも隙を見せたりはできない。
見栄である。先もまた見栄を張った。
日頃もっぱら店番を務め、暇があれば妖魔本集めと騒動探しの小鈴に里の催しものを覗く事などまず無い。
遠くから、あるいは近くを通って賑わいを聞いたことはある、その程度だ。
素直にそういってもよかろうものであろうが、年頃の娘である。
知らない、見た事無いというよりは、少しは知っててけど良くは分からない、そんな風な見栄が思わず出てしまうものだ。
元より此度の事柄自体が稗田阿求に対する意地っ張りと、興味本位の自分本位である。
あぁ、だとするならばこのやり取りはじつに本居小鈴らしい。
手がつながるばかりか、いっそ腕まで組みそうな勢いで。
だがしかし、わずかな隙間と距離を保ち、小鈴は賑わいの道を行く。
そしてその道は、どこを見渡しても飽きるという事は無かった。
調子のよい声を覗いてみれば玉すだれが演じられ
歓声が上がる方に向かってみれば炎を使った鮮やかな手妻である
人が跳べば軽業で、なんとも古典なガマの油売りの居合抜き。
無論、ここは幻想郷だ、奇妙奇天烈驚天動地な事柄に事欠かず、魔術妖術がそこかしこに蔓延っている。
奇抜さや凄まじさとなれば無論、其方のほうが強大だ。
しかし、観て感動するかどうかとなればそれは話が違う。
積んだ研鑽が支える妙技の数々。
人間の身で挑戦し成しえるからこそ良いのだ。
魔法ではそれこそ「へぇキレイだね」で終わってしまう。
まぁ、幻想郷ゆえに魔術異能至上主義ともいうべき輩もいるので、そういうのからしてみれば取るに足らないものに映るであろうが。
「見て! また中てたよ!」
本居小鈴の興奮の声が上がる。
彼女の目の前にあるのは、鮮やか百発百中の手裏剣芸だ。
立て板に描かれた的に中てたるは当然として、宙に飛ぶ扇子を貫き、舞を舞いながら視線をそらしているにも関わらずに中てて見せる。
小鈴の声を飲み込んだ拍手と歓声の量がその見事さを物語っていた。
素直に驚嘆すべき芸であり、そしてまた小鈴にもそれを愉しむことができる素直さがある。
感動を共有するように隣の少年と顔を見合わせ、拍手を送る小鈴。
演者も恭しく頭を下げ、御捻りが投げ込まれる。
「さぁさぁ、皆さまここで一つお手伝いを願いましょう!」
演者の声が観客に響く。
片手には手裏剣、もう片方には紙風船である。
「今まで狙いましたるは唯の的、この紙風船も的ですが据える場所が聊か違う!」
周囲を見渡しニヤリと演者が哂った。
「そう、人の頭の上に据えさせていただきましょう! その的にどなたかご協力いただきたい!」
ざわり、と観客がざわめく。
人の頭? 人に向かって手裏剣を打つというのだろうか。
「さぁ、どなたか勇気あるお方はおられますかな?」
皆、顔を見合わせてしり込みをする。
確かに腕前を見れば外しはしないだろうが、さてそれでも万が一という事がある。
手が上がらぬのは当然の事だ。
そして、演者が挑発的な笑みを浮かべつつ周囲を見渡し、小鈴の隣に、少年と視線が合う。
「どうですかな、そこのおぼっちゃん」
「え、ぼ、僕ですか?」
「そうですとも、どうです連れのお嬢さんに男を魅せる機会ですぞ」
連れのお嬢さんという言葉に、小鈴はすこしばかりこそばゆい感覚を覚える。
擬きであっても、男女の仲に見えるのだろうか。
まぁ、擬きは擬き練習である、ちょっと嬉しくクスリと笑うだけでそれ以外それ以上はあり得ない。
この演者の誘いも、今回のがうまくいっている証拠ぐらいにしかならない……
「やります!」
「えっ!?」
「おぉ! それでこそですぞ!!」
少年の勢いと、小鈴の驚きと、演者の歓喜である。
「ちょ、ちょっと待って危ないよ」
「わかってます」
何を判ってるのだろうか、というか本当に解っているのだろうか。
小鈴がおろおろとする間に、少年はずんずんと一歩一歩をいささか大げさに歩いていく。
傍から見て分かる程に緊張している。
演者はそんな少年を慣れた様子で立て板の前に立たせると、紙風船を少年の頭に載せた。
紙風船の底がくしゃりと歪み、頭上という不安定な場所にあって以外にも安定している。
「では皆さま、ここからは瞬き厳禁でございます」
演者が取り出したる棒手裏剣が陽の光によって鈍く輝く。
瞬き厳禁と言いながら、もったいぶった動きで、観客を見渡し緊張感と焦燥感を煽るのだ。
一人一人の顔を確かめるような仕草、そしてニヤリと笑う。
その刹那、まさに目にもとまらぬ瞬きしては見逃してしまう程の速さで手の中の手裏剣が撃たれた。
同時に小鈴は息をのむ。尤も、あまりにも咄嗟の事でそれを理解したのは一瞬遅れてからだ。
パンッと乾いた小気味の良い音が響く。
続いて飛び込む影三つ、宙に浮いた紙風船をしっかと捉え、食らいつき駆けてゆく。
そして、コンと軽い音を立てて、棒手裏剣と紙風船は立て板にあたって落ちた。
少年が、事を確かめるように後ろを振り向き、そして演者の方に振り替えると演者は仰々しくお辞儀をする。
湧き上がるというよりも爆発するような拍手と喝采。
演者は少年の手を取り、高く掲げる。
「恐れることなく挑んでくれた勇敢な少年に、今一度拍手を!」
賞賛の真っ只中で、緊張が切れたのだろう、得意げには程遠い乾いたと安心したが混在した笑顔で少年は振り回されるように手を振る。
小鈴もまた、おなじような感情を混ぜ合わせほっと胸を撫でおろすのであった。
* * *
騒がしきの中を歩き、自分たちもその一部となれば当然の事ながら咽が乾き腹も減る。
体にも聊か疲労があり、なればそれを癒そうとちょいと洒落た甘味処の暖簾を潜った。
里の雰囲気が賑やかならば、甘味処の雰囲気は姦しい。
なにせ女しかいない。
勿論、幻想郷にも甘味を好む男はいる、いるがやはり大勢としては女子供の入るところである。
日の昼間から甘いものを……という男はまずおらず、店は華やかな空気になる。
それはそれ小鈴と少年ではものの見事に女子供、かまわず適当な席につき適当に注文するのにいささかも問題は無い。
二人して注文したのは、葛餅である。
ぷるぷるとした触感に、どっしりとさりとてくどくは無い黒蜜がかかった逸品であった。
甘いもので舌を愉しみ、茶で唇を潤せば会話も弾む。
弾んだ先で、ちょっと何かにぶつかるのも、やむを得ない。
「本当にびっくりしたんだから」
少し膨れた頬と気持ちを葛餅の揺れる食感で緩和しつつ、小鈴は嘆息する。
対する少年は、いささかにバツが悪い。
先の手裏剣芸の事を持ち出されたのである、さもありなんと言ったところであろう。
後に分かった事だが、最後に用いられたのは木製の棒を鉄に見えるように加工したものであった。
紙風船ならばそれでも十分貫けるし、木ならば仮に人に当たっても痛いで済む。
まぁ、後で分かった事なので、あの時としてはハラハラドキドキしっぱなしだったのは事実な訳で……
「なんで挑戦しちゃったの」
「えぇっと、いやまぁ」
終わって合流した時の、周囲からの拍手がまだちょっと恥ずかしい。
「もしかして……」
頭をよぎった予測に呆れと意地悪を混ぜて、真正面からぶつけてみる。
「男を魅せる機会って言われて、張り切っちゃった?」
少年の葛餅を含んだ直後の顔が朱に染まり視線が下がる。
嗚呼、どうやら図星であったようだ。
手をつなぎ、並んで歩いた時には自分より大きく見えた子が、今は羞恥に縮こまって小さく幼く見える。
そうすると、心に湧き上がってくるのは喜であった。
先ほどまで自分をリードしていた相手が、なんだ子供っぽい可愛い所があるじゃないかと、途端にお姉さんぶりたくなってくる。
周りに素早く視線を配り、誰もこちらを見ていない事を確認すると、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「はい!」
「へ?」
小鈴の黒文字(菓子に使う楊枝)の先に突き刺さっているのは葛餅である。
ただし、向けられているのは小鈴ではなく少年の方だ。
一瞬呆けたような様子を見せるが、小鈴の表情と状況を見れば、何を意図したのかなど誰にでも察せるわけで。
顏の朱が、ますます深くそして広がる様がなんとも面白いし、可愛らしい。
そんなものを見せられたら、ますます意地悪がしたくなる。
「ん」
葛餅をさらに突き付けて、言外に「ほらほら、遠慮しないで」とできうる限り優しく告げる。
これが酒の類であるなら、古典として「私の酒が呑めないのか」だろうか。
なんて色気のない、菓子で良かった。
それはそれとして、少年は困ったようなちょっとむくれたような目をするが、調子に乗った小鈴は無敵なのでその程度ではひるまない。
悦楽と羞恥である、どちらが優位かなんて言うまでもない。
僅かばかりの視線の鍔迫り合いの後、降参したのは少年の方であった。
「むぐ」
葛餅が黒文字の先から消える。
少年は素早く周囲に目を走らせて、今のを見られてやしないかと恥ずかしがっているようだ。
先には良い恰好を魅せようとしてたのに、こういうところが勇気がない。
それで、つい笑ってしまうのだ。
でも、馬鹿にするような笑い方じゃない。
あぁ、いや、なんといえば良いのだろう。
女の子の……勿論、小鈴は自分が女の子だっていうのは理解してる。
だけど、こんな風に女の子らしく笑うなんて実はあんまり無かったように思う。
前は退屈ばっかりしてて、今は妖魔本集めに夢中で。
知り合いは増えたけど、こう、女の子な感じな付き合いができたのはやっぱり……
「阿求ぐらいかな」
「稗田様が、どうかしましたか?」
「あ、うん、ちょっとね」
ちょっとね、で区切った言葉が、そこで終わってもよかったけれど一拍子おいて続いていく。
「考えたら、こういう女の子みたいな事って阿求以外とはなかったなって」
「そうなんですか?」
「うん、ほら私の他の知り合いって、霊夢さんとか魔理沙さんとか、そういう人たちだし」
「博麗の巫女と、森の魔法使い?」
「そうそう、あの人たちっていい人なんだけど、こうなんていうか太々しいっていうか……」
本当は、あの人たちだって女の子な面もあるのかもしれない。
けど、小鈴が知るのはのんびりと茶をすするか、酒を呑むとかの場面ばかりだ。
こんな風に甘いものを食べて談笑して、なんてのはやっぱり阿求としか知らない。
「あー……やっぱ、考えれば考えるほど阿求以外とは友達居ないなぁ私」
「じゃあ、僕が第一号ってことですね」
「え? 一号?」
「男で、小鈴さんとこういう事をしたの」
男、という一言で小鈴はある種現実に引き戻される。
そうだ、阿求とは違う、男性が相手なのだ。
つい調子に乗ってしまったけど、これはその大分恥ずかしい事をやらかしてるわけで。
少年の赤らめたままはにかんだ顔が余計にそれを思い知らせてくれる。
こうも一瞬で気持ちが乱高下してしまうものか。
これが阿求や、霊夢や魔理沙だったら、何か言われてむっとしたり喜んだりはするけど、こんなにも大げさに心動かないだろう。
先の意地悪も、今の居たたまれない心持も、きっと目の前にいるのが女の子だったらこんな風にはならない。
彼はすっかり落ち着きを(見た目では)取り戻してる様子で、葛餅に舌鼓を打っている。
小鈴の視線に気づいて、黒蜜の甘い香りみたいに幸せそうな笑顔をむけた。
さっきとはまるで真逆、一言と一仕草で乱された小鈴とは大違いである。
「……男の子って、ずるっこ」
そんな、少しばかり拗ねたような言葉を吐いて、小鈴も葛餅を頬張るのであった。
* * *
甘味とは偉大である。
拗ねようが恥じようが、甘いものが舌に触れ咽を通り過ぎてゆけば機嫌は治ってゆくものだ。
然らば、デート擬きの恙なき再開である。
里の通りを二人して練り歩き、小間物屋の店先を覗いてみたりして。
捻りも何にもない、練習を兼ねた疑似体験。
「これなんかどう?」
「派手過ぎません?」
「もう、こういう時は似合ってますっていうのが定番じゃない?」
手にした櫛の評価の違いに思わず口を尖らせる。
確かに、その櫛は聊かに装飾が華やかに過ぎており、小鈴ではなくもう幾ばくか年上向けのそれであろう。
解って手に取ったのは小鈴の茶目っ気だ。
「かもしれませんが」
「しれませんが?」
「本居さんには、本当に似合ってるもの身に着けててほしいなって」
見栄っ張り、純情者、正直者、お人よし。
一つの事を経る度、彼の姿が少し見える。
本好きなお客さんとしてしか知らなかった時よりも、たった一日だけでずっと沢山の事が分かるようになっていて。
彼も、本居小鈴の事を知るのだろう。
それが、とてもこそばゆい。
「じゃあ、どんなのが似合うと思う?」
「んー……これとか」
「……………無いなぁ」
「えぇっ!?」
センスはちょっとダサいけど。
それはそれだ。
「いけないなぁ、今後、女の子とデートするときにそんなのじゃ」
彼は、しゅんと肩を落とす。
だから、小鈴は店に並ぶ櫛から、本当に自分好みの逸品を手に取り、髪に挿す。
似合っている。
絶対の自信がある。
そして、ほら、こうして笑えば。
「どう?」
解ってる、予想がつく、読めてしまう。
彼の顔が綻んで、そして次にいうセリフはこれだ。
「似合ってますよ」
一文字も違えることなく、解っていたことを。
嗚呼、でもその一言とこの眼差しは、本居小鈴の心を芯をすっごく暖かくしてくれるのだ。
「じゃあ、買っちゃいますか?」
「うぅーん、でも持ち合わせが」
「いいんですよ、僕が出します」
「へ?」
「こういう時には、こうするものでしょう?」
小鈴の返事を待たず、彼は品物を手に店の奥に向かう。
本日何度目かの主導権簒奪だ。
甘味処の時と同じく、読み切ったと思っていたのに。
本居小鈴はどんな書物でも読める。
でも人の心は読めない。
読める時もある。
目の前のこの人の心はどうだろう。
なにをどこまで気にして、どれを気楽に扱えばいいのか判らない。
疑似体験だから、こんな風に思えるのだろうか。
本当の恋なら、どんな話になるのかまるで読めなくて――
「あら、小鈴じゃない」
同時に、この展開もまた読めなかった。
声の主を確かめる。
一目で良家のお嬢様と判る装い聞きなれた声の、稗田阿求。
「珍しい、こんな所で」
「え、あーうーん……そのぅ……」
目を丸くする阿求と、目を泳がせる小鈴。
確かに、いつも店にいるか店の用事で出かける事の多い小鈴が小間物屋にいるというのは珍しいかもしれない。
珍しいが、不思議ではないはずだ、小鈴とて年頃である小間物に興味があるのは当然なのに。
いつもの調子で「たまにはこういうのだって観る」と言えば良かったのに。
完璧に初手を失敗していた。
「どうしました、本居さん」
様子がおかしいことに気が付いたのか、彼が店からひょっこりと顔を出す。
そして、稗田阿求の姿を認めると、慌てて頭を下げた。
「これは、稗田様」
稗田の家は里の重鎮である。
求聞史紀の編纂を担う、という事は里にとってひいては幻想郷全体のバランスに関わること故に里の人々にとってみれば稗田の血、特に頭首となれば殿上人に等しい。
彼が驚くのも無理らしからぬ事であるが、阿求もまた彼の存在に驚いたようだ。
小鈴と彼を交互に見比べ、少しばかり思案し、そしてむんずと小鈴をつかんで「ちょっと」と引っ張り込む。
彼に背を向け、声を潜め阿求は訝しい声を突き付けてきた。
「だれ、あの人」
「わ、私のとも、友達?」
「なんで疑問形なの」
「なんでだろう」
阿求の視線が少しばかりきつくなる。
「この前の事でしょ」
「こ、この前のって?」
「声、震えてるわよ」
視線を逸らすが、追及からは逃れられない。
「そんなんだから恋人もいないって話」
「そーゆーのあったね、たしかに」
「……もしかして、言われて気にして恋人ごっことかしてみたいって思ったんじゃない」
流石は親友、図星である。
そしてまた、親友なればこそ小鈴の無言の動揺を余すことなくキャッチすることも可能だ。
この場合の小鈴にとっては、実に忌々しい事であるが。
「あっきれた、それであの人付き合わせてるの?」
「そ、そういうわけじゃないし……」
語尾が小さく弱弱しい。
それは阿求にバレて気まずいからなのか。
さっき迄の、浮かれていた空気が一転して気まずいものになる。
「だからね、そういう言われたからって……」
「あの、もしもし?」
阿求の小言を、彼が遮る。
二人して振り返ると、そこにはいささか困ったような彼の顔。
「えぇっと、もしかして本居さん、今日は稗田様と何か約束が?」
「へ?」
唐突に、意味の分からない事を彼が言い始める。
「そういえば、お誘いした時も渋っているようなご様子でしたし」
いや、誘ったのは間違いなく小鈴の方だ。
真逆の言葉に、小鈴はさらに混乱する。
同時に、阿求も鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をして彼に問う。
「誘ったって、貴方が?」
「えぇっと、はい今日、大道芸の集まりがあるので一緒に見にいきませんか……と」
「……そういえばやってたわね」
「でも、稗田様とのお約束があったのなら、悪いことを」
「そんな事ないよ!」
思わず、小鈴は声を張り上げる。
悪い事、なんて言ってほしくないし聞きたくない。
疑似体験で、自分から誘って、でもなぜか彼の方から誘ってって話になって。
そこらへんの事はもう今はどうでもいいから、せっかくの今日この日を彼の口から否定されたくなんか無かった。
「今日は、一緒に遊べて嬉しい」
まともに目を見れなくて、思わず下を向いてしまう。
だから、声だけが聞こえる。
「よかった」
それだけで、もうただそれだけで、小鈴は嬉しいのだ。
口元が緩んで、嗚呼これは照れ笑いという奴だ。
恥ずかしさと喜びが、自信と手を取って交じり合う。
彼にはこの気持ちが判るのだろうか。
判ってくれたら、良いなとそう思いつつ
横で目を丸くして、狼狽えたままに固まり「え? マジで?」みたいな状態になっている阿求の事などすっかり忘れているのであった。
* * *
事はどうあれ時は流れる。
朝に日が昇り昼に照らし、夕には沈む。
沈む日を背にあるいは浴びて帰路に就くのは当然の事だろう。
今日一日の疑似デートもそろそろ仕舞いであった。
あの後、阿求とは有耶無耶の内に分かれてしまった。
なにやら「まさかありえるなんて」とぶつくさ言っていたが、改めて小鈴の顔をみると「ま、良いわ」とこれまたなにか勝手に納得した様子で去っていったのだ。
何だったのだろうか、あの反応は。
もしや、小鈴と彼が本当に恋人同士だと勘違いしたのではないだろうか。
いや、まぁ、あの時は思い返すに相当にそんな雰囲気だったかもしれないけれど。
「あ、ねぇ」
同時に、思い出した疑問を口にする。
「はい、なんでしょう」
「阿求の前でさ、どうしてああいうこと言ったの?」
「僕の方から誘ったって事ですか」
「うん」
「……こういうのって、知り合いに知られると気まずかったりしません?」
「あーうん、そうかも」
特に阿求の事だ後々にも話の端に持ち出すのが目に見えている。
「本居さんが言うには、稗田様も相当に愉快な性格をしていらっしゃるようなので」
悪戯っぽく言う彼に、小鈴は思わず吹き出してしまう。
今まさに、小鈴も同じことを思ったのだ、笑わずにいられようか。
そんな風に、和やかに話しながら二人は帰り道を行く。
たった一日だけど話すことは色々あった。
けど話題を一つ二つと消費していくごとに、今日の終わりが近づいてゆく。
そしてとうとうこの話題にたどり着いた。
「今日は、どうでした?」
この疑似デートの総括である。
「愉しかったよ」
「本当に?」
「疑うの?」
「僕も女性とデートなんて、初めてだから色々と失敗したんじゃないかなって」
「大丈夫、大丈夫」
少なくとも、愉しかったのは本当だ。
だから自信を持ってほしい。
むしろ、自信が無いのは小鈴の方であった。
「うーんと、けど……」
「けど?」
「恋ってなんなのかますますわからなくなっちゃった」
今日の疑似デートで、小鈴はいろんな気持ちを体験した。
凡そ、女の子同士では得られなかった経験だろう。
だからこそ、小鈴には恋とはなんなのかが分からない。
「そもそも、恋をしたことなんてないから判るわけないのにね」
本居小鈴は本物を知らない。
本物を知らなければ、偽物だって判るはずがない。
今日の事を「男友達と遊ぶ感覚」なのか「恋をまねた疑似デート」なのかだって判断する材料を小鈴は持ち合わせてはいなかった。
そこでふと気が付く。
彼の顔が真剣なものになっていることに。
せっかく付き合ってもらったのに、こんな事を言って怒らせてしまったのだろうか。
そう思い、小鈴が誤解を解こうとしたその時である。
「それじゃあ、こんなのはどうです」
彼は、笑顔を作る。
何度も見たようで初めての笑顔。
そして、ゆっくりと口を開くのだ。
「好きです、小鈴さん。付き合ってください」
一呼吸を置いて、頭で理解するよりも早く感覚が小鈴に奔る。
何もかもが止まってしまうような、心の内から心の臓に突き上げるような。
胸の内を満たして溢れてしまいそうな、そんな感覚だった。
「……ちょ、ちょっとまって!」
無自覚に出た一声に小鈴は何を言っているのかと自分でツッこむ。
そのぐらいに混乱していた。
「はい、待ちます」
「えっ!!?」
「今、不意を打ちましたから。待たないと不公平でしょう?」
「そ、そう、いやえぇっと、それでいいの!?」
小鈴はどうしていいかわからない。
唐突な、まさに不意打ちと言っていい告白である。
勿論、嫌な訳ではない、冗談として受け取る考えなど全くない。
でも、どうしよう。
今まで、偽物のごっこ遊びだったものに、判らないからとある種気楽だったものに、彼自身の本物が突き付けられたのだ。
故に、小鈴は確たるものをもって返事をすることができない。
「今日は返事はいいですから、帰りましょう」
「……うん」
悩んで頭がぐるぐるしてるして、二人並んで歩いている。
横目でちらちらと見ながら、悶えるような沈黙だけがあるのだ。
やがて、小鈴の家にたどり着く。
「それじゃあ、小鈴さん今日はこのあたりで」
背を向けて去ろうとする彼を見て、小鈴は声を上げた。
「待って!」
「? どうしました?」
「うん、その……」
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
「今度またどこかに出かけよう」
「…………はい!」
玉虫色ともとれる小鈴の誘いと、弾む彼の声。
また今度と、手を振って二人は分れる。
この気持ちは果たして本物なのか偽物なのか。
小鈴にはやっぱりわからない。
けれども、そう……
これが偽物だとするのなら
本物にしたいな
そんな、甘くて優しい思いだけは間違いなく本物なのだと小鈴にも理解できていたのであった。