昼間の高い陽射しも届かない竹林の道。
森閑とする辺りには、緑の匂いが広がっていて。夏も終わりを迎えようという八月の半ばというのに、植物たちは青々としていた。
人間の里は嫌みなほど暑かったが、竹林の中ではそうでもない。むしろ直射日光が届かない分、行く道は日陰によりひんやりとしていた。吹く風も涼しい。
けれど竹林に切り取られた青空は少し窮屈そう。
そんなこと考えて帰路を歩く因幡てゐは、いつもよりか機嫌がよかった。
この暑い中、人間の里まで行ってお目当てのモノが手に入らなかったら目も当てられない。無事に入手できて結構、結構。これでまた少し、暇を持て余さずに済む。
小さく跳ねて帰路に仕掛けた罠を交わす。自分で仕掛けた罠に自分がかかっちゃ間抜け以外の何者でもない。まあ、他にかかってくれる間抜けがいるおかげで無駄にならずに済むのだけど。
買ってきた物が入った紙袋を指先でくるくると回してみる。遠心力で中の物が落ちないのはいいけれど、下手に止めると物が落ちてしまうのでしばらく続けてみた。この帰路は長い。退屈しないように緊張感を持つのもいいだろう。
しばらく指先を意識して歩く道が続く。――が、それはしっかりと回転の力を受け止めて、本を落とさずに終わった。てゐを呼ぶ声がしたから。
「おっ、妹紅じゃん。なんか用?」
「いや、別に用があるわけじゃ……見かけたから声かけただけ」
竹林の道――といっても舗装されているわけではないが――から少し離れたところからてゐもよく知る藤原妹紅が歩いてきた。背中にかごを背負っていたり、手にはトングを持っていたり。長い白髪も高い位置で一つにまとめられている。タケノコ掘りだろうか。
「やけに上機嫌だったし」
「まあね、アガサクリスQの新刊が手に入ったのさ」
「ああ、そんな名前聞いたな。確か人間の里で売ってる天狗の新聞に、そんな記事があったような」
「へえー。妹紅も新聞読むことあるんだ」
「慧音に会いに行ったとき、部屋にあったのを読んだの。後にも先にもそれっきり。面白い?」
「百聞は一見にしかず。今度読んでみたら」
「ふうん。それじゃ今度。……あっ、そうそう。てゐに聞きたいことあったんだ」
続けようとした妹紅の口が止まる。
どうしたことか――とは、思わなかった。その理由には察しがついた。たぶん、これから妹紅か口にすることも。
耳に届いたのは爽やかな草の音に混じる透き通るような、透明感の高い高音。風に乗って流れてきたそれは、もうすぐやってくる秋の落ち着きを想わせる。自然と肩の力が抜け、ゆっくりと流れていく時間に身を任せたくなった。
「綺麗。この口笛……最近よく聞くようになったけど、永遠亭がある方から聞こえてくるのよね。てゐは何かしらない?」
「さあねー。まあ、知らない方が純粋に音だけ楽しめるからいいじゃん」
嘘も休み休み――首を横に振るてゐを見て、妹紅は大きく身体を伸ばし、力を抜くと共に息を吐き出す。
「そうかも。聞き入ってると時間を忘れそうになる」
「口笛を聞いていられる精神的余裕。いいねー。そういうやつは長生きするよ」
「……あんまり笑えないかな、その冗談」
引きつったような笑みを浮かべる妹紅に、あっけらかんとした声色で別れを告げたてゐは再び帰路へと歩き出す。
自分の言ったことが正しいなら、口笛を吹いているであろう彼女の心中も、きっと穏やかなのだろう。
歩くにつれて、音が近づいていく。人気のない静かな竹林にはよく広がる。てゐもつられるように口笛を吹き始めた。
うん、私の方が上手い。なんていっても年季が違う。
次第に日が傾き出す午後一時と少し。今日も世界は安心して廻っていた。
◇
口笛とは面白いものだ。
練習次第で音階を表現でき、適切な息継ぎをすれば曲を奏でることもできる。
それなら楽器の方が出来が良いに決まってるだろうが、決定的に違うのは自分だけの音が出せるところ。声ともまた違う、けれど近しい感覚。
兎にも角にも。彼女にとっては特別な物に違いない。
時計の針が二を指そうとする頃。彼女、稀神サグメは縁側から足を放り投げて気持ちよく口笛を吹いていた。目の前を流れていく風は、何時にも増してゆったりしていて。竹林に口笛の音が広がっていく。
ざわめく葉音。傾き始める日。時間の流れを肌で感じる。
一応理由があって月から永遠亭に来ているのだけど、月には時間の流れを感じられる物がそうない。風は吹かないし、匂いも写り変わらない。
こういう何にもない時間が地上には流れていると思うと、消してしまうのはもったいない――とも感じたり。けれどそれは自分の意思ではどうしようもないので、こうして僅かな時間でもこの雰囲気に浸っていよう。
任期満了なるまでの自由時間。サグメはまだ余裕のある時計の針を横目に過ごしていた。いつもはそこら辺にいる兎と戯れたりもするのだが、今視界の見えうる限りにその姿はない。
そこへ近づいてくる足音が一つ。
きっと人間の里へ買い物に行った彼女だろう――廊下の床が軋む音が角を曲がり、サグメのいる縁側に現れた。
「あっ、まだ居たんだ。あんたも存外暇だね」
軽い足取りを止めた因幡てゐに、サグメは小さく手を振り返す。
サグメにとって彼女は特別な存在だった。口笛の先生であり、喋らずとも大体のことは理解してくる。筆談で会話することが多いサグメに、こんなにテンポよくコミュニケーションがとれる相手は多くない。ふと時間が空いたときには、地上の娯楽を教えてくれたりもする。彼女と居ると沢山の初めてと出会えて、時間が尊く感じられた。
「……どうだった?」
「もちろん買えたよ。ああ、何を買ってきたかって? これ」
てゐが紙袋から取り出したのは、一冊の本だった。綺麗な外装で、背表紙の所には『犯罪の研究 アガサクリスQ』と書かれている。
「月には小説とかあるんだっけ?」
「小説……?」
「月って本当に何もないね。 私だったら死んでるかも」
「――死なないわ。月でそう簡単にはね」
縁側で話す二人に襖を開けて出てきた八意永琳の声が加わる。永琳はてゐを一瞥するとサグメに「変なことを吹き込まれてない?」と。サグメは首を横に振る。
「月には創作の文化がないの。書物関連は知識や史実を記録するためだけのものだから」
「つまんなーい。月人には創作の素晴らしさが分からないの? 新世界の神になりたいような厨二スティックな願望から、誰かを救いたいと願う純粋な少年の夢まで幅広く叶えてくれる万能願望機。迷ったら楽しい方へ。それが創作のコツさ」
それからね――と、なんだか自慢げに語るてゐに、永琳は小さくため息をついて半分受け流しに聞いていた。
「私には必要ないわ。人生一度だけでも十分満足だから」
「あー。お師匠さまはそうかもね。あんたはどう?」
どう、といわれても。そもそも小説がどんなものなのか、全然知らないのに。
その答えを求めて手に持つ本を開く。するとてゐは「ああ!」と声を上げてサグメの手から本を奪い取った。
「一番先に読むのは買ってきた私だよ。その後なら読ませてあげるし、待ってる間は他の小説を貸してあげる」
そういうものなのだろうか。判断のつかないサグメだったが、ここはてゐに従って素直にその条件を呑んだ。初めて触った本を最初に読みたい――という思い入れも特にはなかった。
代わりの本持ってくるから――てゐはサグメから奪還した本を片手に自室へと駆け足で戻っていく。
その背中を見送る永琳はてゐの姿が見えなくなるとサグメに向き直っていう。
「地上の文化を覚えるのはいいけど……覚えれば覚えるほどに月は退屈に思えるわよ」
「……そうかもしれません」
「でも貴女には向いてるかも。文章なら好きなことが言えるし、どんな人生も歩める。想いのままにね」
それに貴女が書いた小説なら、読んでみたいと思う。
そう言い捨てると、永琳は廊下の向こうへ歩いていった。これから初めて小説を読むというのに、どうして書くことにつながるのだろう。月の賢者の考えることは分からない。
もしかしたら私が小説を読もうとした選択で、小説を書くことを導き出したのか。
そんなまさか。サグメが小さく息を吐いて思考を放棄する頃。自室から戻ってきたてゐは脇に抱えている本の中から一冊をサグメに差し出した。――これ読んでみな。読み終わる頃にはさっきの本は読み終わってると思うから。
二人で縁側に腰を下ろすと、各々手にした本を読み始める。
サグメの瞳に映るのは知らない誰かの知らない世界。台詞は聞き覚えのない声となって耳に届き、文字を見ているハズなのに、視界には見たことない景色が広がっていた。ページをめくるごとに引き込まれていき、現実とピントがあわなくなっていく。音も風も遠くなっていって。こぼれる息でさえ、本が吸い込む。
こんな厚さ五センチにも満たない紙束に書かれた文字の羅列。何時しかそれが誰かの人生を描き、私はそれを近くで見ている。――すごい。
夢中でページを捲るサグメの隣。鬱蒼とする竹林の森閑とした空気は時間の流れを感じさせず、彼女に何も言わないまま日が沈んだ。
――――――
――――
――
サグメが小説の世界から戻ってこれたのは、最後のページに書いてあった「この物語はフィクションです。登場する――」を見たときだった。
長時間同じ体制を維持したせいもあってか、首の筋が少し痛い。本を脇に置いて立ち上がると、一人大きく伸びをする。――と、いつの間にか一人になっていて、辺りも暗くなっていたことに気づく。辺りを見てみるも、一緒に本を読んでいた彼女の姿はなかった。
思った以上に時間が経っていたらしい。
大きく息を吐き出し、本を片手に廊下を歩き始める。
それにしても、あれが作り話だなんて読み切った今でも信じられない。人ひとりの人生を一時だけでもああして描けるなんて。想像だけで書いたと言うならそれはもう賞賛しかない。
本当に生きてるみたいだった。もしかしたら世界の何処かで本に書かれた通りに誰かが生きてるのかもしれない。作者も知らない何処か遠くで。――そうだったら素敵だな。
軋む廊下の音は軽く、永遠亭は静かだった。歩みを進めていくと床の間で横になってくつろぐてゐの姿が見えた。向こうはサグメに気づくと、ひょい――っと上半身を起こす。
「読み終わった? いやね? 集中して読んでたから声かけづらくって」
手を合わせて「ごめんね」と謝るてゐに、サグメは首を横に振る。むしろありがたかった。途中で現実に引き戻されたら興が冷めてしまったかもしれない。少し身体は冷えてしまったけれども。
借りていた本をてゐに差し出す。するとてゐは受け取ると同時違う本を差し出してきた。続き物だから、買ってきたの読む前にこれ読んだ方がいいよ。――そう言われて受け取ったサグメはその場に座りこむ。
今度はどんな話だろう。期待に胸を膨らませ、ページをめくった。
「ちょ、ちょっと待ちなって」
だがそれを止めたのは本を渡したてゐだった。
「今何時かわかってる? お楽しみは明日にとっておきなって」
言われて時計を見れば午後十時。確かにこの時間から新しい本を読み始めては読み終わるのが何時になるか知れない。それにさっき読み終わった小説の余韻がまだ頭に残っていて、何処か温かく、ぼっ――っと広がっている。
それじゃ早めに寝るとしよう。
「……お休み」
「あれ? ごはん食べないの? いっか。これでまた少し面白くなりそう」
てゐに踵を返すと、サグメは永琳に借りている部屋へ早足で向かっていく。
部屋についたサグメはてゐから借りた本を机に置いて、布団を敷いた。明かりのともらない部屋は月の光で照らされ青白い。静かだが、無音とは少し違う。小さく虫が鳴き、風が木々の葉を揺らす。静寂のざわめき。
サグメは布団に横になり、少し重い頭を枕にあずけた。まるで精神が重力に引っ張られるように色々な物が抜けていく。頭の中に残った小説の余韻が枕に伝わって、自然と瞼も重くなっていった。
明日あの本を読んで……そしたらまた別の本を読もう。滞在期間はまだたくさんある。
閉じた瞼の裏で読んだ小説の世界を思い出しながら、サグメは一人、深い眠りに落ちて……微睡む。
◇◆
サグメが初めて小説を読んだ日から、しばらく経った。
サグメの読書ペースは思いの外速く、一日に二、三冊ほど消化する。元々てゐが所有する小説はそれなりの数があったのだが、それも一つまた一つと消えていき、ついにはその全てを読破してしまった。
そしてその頃にはすっかり小説の虜になっていた。
知らない考え、知らない人、知らない場所、知らない知識。ページをめくれば出会いに溢れている。新しい本を手にするのが楽しみで、読んでいる間はどんな時よりも充実していた。
けれど。滞在期間を半分残し、サグメは永遠亭にあるすべての小説を読み尽くしてしまった。急に手持ち無沙汰になって落ち着かない。そんなサグメが思い出したのが、初めて小説を手にした日に永琳に言われたこと。
『文章なら好きなことが言えるし、どんな人生も歩める。想いのままにね』
そうだ。無ければ創ればいいじゃないか。それに――。
サグメは永琳から借りている小説をパラパラと捲り、小さく微笑む。
私もこんな文章を書けようになりたい。なれたら――素敵だろうな。
サグメは永琳に頼んで小説を書くのに必要な物を揃えて貰った。といってもサグメが永琳の部屋を訪ねた時には既に用意してあったわけだけれども。全てよまれてる――と思うと少し気恥ずかしい。
自室に戻り、サグメは机に向かい始める。今朝の幻想郷は静かに雨が降り続いていた。龍神像の天気予報では明日からは晴れの日が続くらしい。まあ、永遠亭から出ないサグメにはあまり関係のない話だった。
――さて、何を書こうか。
筆を持ち始めてしばらく。サグメの手が動く様子はない。
"何か書こう"とは決めたが、その"何か"は全く決まっていない。書きたい気持ちが先行して書く物が決まらないのは、この界隈よくあることなのだが、それをサグメが知るよしもない。こんなことならもっと前から本を読んで、書きたいことを見つけておけばよかった。と、本を読まなかった今までの時間を恨めしく思うことしか出来なかった。
何か何かと部屋の外、雨の降りしきる竹林を眺めていると、向こうから廊下を歩いて近づいてくる足音が聞こえる。永琳よりも軽く、てゐよりも重い。その人物はサグメの部屋の前まで来ると、ひょいっと顔を出す。
腰の辺りまで伸びた美しい黒髪は見た人の目を掴んで離さず、整った小さな顔は一度見たら忘れられないくらいの印象を与える。この永遠亭の主、蓬莱山輝夜は物珍しそうにサグメの様子を伺う。サグメが向かっている机の上を見ると何かを察し、部屋の中へ入ってくる。
「あら、もしかして小説書いてるの? 懐かしいわ。私も昔書いたことあるの」
彼女がいう昔がどれだけ前のことなのか、まるで想像がつかない。
それでも今のサグメにはありがたい話だった。すぐ側に小説を書いたことのある人がいるというのはそうそうない。聞きたいことなら山とある。
「書きたいことが……」
「見つからないの? じゃあ書かなくてもいいじゃない」
いや、そう言われてしまえばそうなのだけど。
言葉を探すのが面倒になったサグメは、これまでの経緯と輝夜に聞きたいことを紙にまとめて輝夜に見せる。やっぱり筆談はテンポが悪い。輝夜はてゐのように意をくみ取ってくれそうにはないので、コミュニケーションが取りづらい。
「なになに……『小説を読んでみて自分も小説が書いてみたくなった。書きたい物の目星がどうにもつかなくて困っている。よければ貴女が小説を書いた時のことを教えて欲しい』……か。あくまで私の話でいいならいいけど」
そうそう、貴女の話でいい。そう言えばてゐも小説を書いたことがあると言っていたっけ。あとで意見を聞きに行くか。
サグメがそんなことを考えている間に、輝夜は目を閉じて「うーん」と呻りながら記憶を巡らせていた。どうやら随分と前の話のようで。
そしてしばらくするとぱっちりその瞳が見開いた。
「そうそう、思い出したわ。この世界にあってほしいモノを書いたのよ」
「この世界に、あってほしいもの?」
「そう、だって既に世界にあるモノを書いてもつまらないじゃない? 自分で創った世界でくらい、自分の好きに生きたいし、自分の欲しいモノを用意するくらいでないと面白くないもの」
「……そのとき貴女はなにを?」
「初めて書いたときのは、私が死んで、幽霊になって世界中旅する話だったかなー」
ほら、私って死なないし。
笑顔でそういう輝夜に、サグメは曖昧な表情を返す。
「わかんないか……とりあえず死んでみたかったし、幽霊には絶対になれないからなってみたかったのよ。まっ、書いたことは全部想像なんだけど」
不老不死ではないサグメには、その感覚は理解できない。もしかしたら死んでみたいのも、幽霊になりたいもの、不老不死の界隈なら共通の憧れなのかもしれない。そんな風に飲み込んだ。
「じゃあ、今は?」
「そうねー。大きくって……面白くて、退屈しない永遠かな」
「永遠」
「そっ、出来れば今のままずっと続けばいいと思うわ」
私も久々に書こうかな――そういって輝夜はサグメの部屋を飛び出していった。なんだか騒がしいというか。まるで嵐のような人だな。
外の雨は強さが増すようなことはなく、静かに規則性のあるかのように一定の雨音を刻んでいく。雨の匂いは少し落ち着く。耳にも気持ちいいし、濡れさえしなければこれから散歩に出かけれるのもいいだろう。
――そうだ。濡れない雨とか、あったら素敵だな。
◇◆◇
輝夜から話を聞いて数日。
書くことの決まったサグメは、早速執筆に勤しんでいた。頭の中ではもう物語は完成している。けれどイメージを言葉に訳して、それを出力するのは時間と労力を必要とする。創作活動は出産にも似た苦しみを味わうと本の中で読んでいたが、なるほど、私は絶対に結婚はしない。
あれから龍神像の天気予報に反して雨が降ったりしたが、その後は概ね予報通り。快晴続く幻想郷。今日も視界の届く限り雲は無い。
書いては消して、また少し直す。永琳曰く、外の世界には簡単に小説が書ける機械があるらしいことを聞いたサグメは、今その機械が心底欲しかった。原稿用紙も鉛筆も有限なのである。
一進一退の執筆作業の中、またサグメの手が止まった。
んー。この表現は少しわかりづらいか。伝わらないと意味がないし、書き直すか。
まだ誰に見せるとも決まってはいないが。サグメは鉛筆を消しゴムに持ち替え、その部分を消そうと力を込める。
「そこ、消しちゃうの?」
急に声をかけられ、サグメは肩を飛び上がらせた。
誰かと思い振り向けば、永琳がこちらを覗き込んで微笑む。――気づかなかった? ずっと居たのよ。
居るなら居ると言ってくれればいいのに。そう抗議しようと思ったが、そう言う前に永琳の方から「集中してるみたいだったから」と言われてしまう。これではなにも言えない。
「そこ、消すのね。何もおかしいところはないと思っていたんだけど」
「わからないかも……と」
「なるほど、そうかもね。でも、そのままでいいと思うわ」
なぜ? ――とサグメが首を傾げる。
永琳は嬉しそうにいう。
「確かに分かりやすいように書くのは大切なこと。でもまずは貴女の気持ちじゃない? 貴女がそう書いたと想ったのなら、それを大切にするべきよ。貴女の想ったままを」
「そういう……ものですか?」
「きっとね。それに誰一人分からないわけでもないでしょう。なぜ貴女がその表現を選んだのか、違いの分かる人はいるわ」
それじゃ邪魔しちゃ悪いから。それだけ言い残し、永琳はサグメの部屋から去って行く。
残されたサグメは一人考えた。分かってくれる人は、いるだろうか。分かってくれたら、この上なく嬉しいだろう。
困ったら楽しい方へ、嬉しい方へ。それが創作のコツだったかな。
初めて小説を読んだあの日にてゐが言っていたことを思い出して、サグメは消しゴムを置いた。そして再び鉛筆を握り書き始める。初めて小説を読んだあの日が随分と前のことのように感じるのは、きっと旅してきた数々の世界がそれだけ充実していたからだろう。
快晴広がる幻想郷。その何処から暑さのこもっていない、涼しく澄んだ風がサグメの部屋に吹き込んで、その前髪を僅かに揺らす。
そうか――秋が来るのか。言われてみればもう八月も残すところ数日。
時間の流れを感じながら、サグメは手を動かし続ける。滞在期間もそろそろ終盤。月に帰る前に完成させたい。別に本にするわけでもなく、多くの人に見せるわけでもなく、ただ小説というモノに出会った記念として、残しておきたい。
――――――
――――
――
私がこの世界に欲しいものは? 考えることから始めてみる。
思いつく。輝夜は大きくて面白い、退屈しない永遠と答えた。
なら私は短くて、あっけなくて、小さいけれど大切な有限と答えよう。
私からすれば、『永遠』なんて言葉は重くて、残酷すぎる。それだと私は一生好きに話せないじゃないか。全てのモノに有限を。私の能力も、冷蔵庫に入ってる卵のように、いつか賞味期限切れになって、ぽいっ――と。捨ててしまえるものでありたい。
それで。
昔は話づらかったな。なんて、笑い話に。
あのときは辛かったけど、今となっては悪くない経験だった。なんて、体験談に。
そんな想いを小説に。
これを読む人がいたとして。私が一日かけて考えて書いた一行も。一時間で考えて書いた一ページも。きっと読む人から見れば大差のない文字の羅列。それに私が書いたものより上出来なものが沢山ある世の中だ。なんだかやけになってしまいそう。
それでも違いを分かってくれるヒトが一人はいるだろう。
そう信じて丁寧に書き綴る。顔も知らない誰かを信じるのは、些か変な感触だ。
書いている途中で、プロットは崩壊して。
やりたいことが溢れてくる。全部させるには何ページ書き足せばいいんだろうか。想像するだけで楽しくなってくる。そうだ旅行がしてみたい。せっかく幻想郷に来たのに、全然出歩かないなんてもったいないじゃないか。滅ぼすなんて言わないで、仲良くすればいいのに。やっぱり人生上手くいかないか。無くなってしまうのは勿体ない。まだアガサクリスQの次巻を読んでいないのに。月に戻ったら直談判しなくては。
ああ、こうしていられない。
やりたいことができないなら、全てお話の中で。フィクションだっていいじゃない。現実がこうも上手くいかないのだから。元々人生たった一度で世界の何割の楽しさと幸福を味わえるんだ。退屈や不運は結構味わってるのに。
だからヒトは物語を書くのかもしれない。人生一度じゃ足りないから。
こういう道もあったかも知れない。
こういう道を歩いてみたかった。
そんな想いの結晶。
どんなに救われないお姫様も、その指先一つで救える。てゐが「万能願望機」と言っていたのがよく分かった。物語でくらい、いいエンディングを用意してあげたくなる。
最近、夢で出会う友人に「近頃の夢は愉快ですね」と言われた。
私的には寝ている時間も惜しいのだ。四六時中物語りを考えること、本を読むことに費やしたいのに、それだけでは生きられないのが世の中である。
だからこそ、私は出来る限りの時間を注ぐ。
それでも力を込めすぎず、鉛筆にはいつも優しくいたい。
根を詰めすぎると途端に視野が狭くなるから、たまに縁側に出て口笛を吹く。いつも付き合ってくれる彼女は私より数段上手い。書き終えたらもう一度教えてもらうとしよう。
――終わりが見えてきた。
けれど焦らないように一呼吸。一番書きたいシーンはそれが一番輝くように順序を踏んできた。待ちに待った瞬間が訪れる。
いや、一端寝かせよう。
今日はこの辺で終わらせて、明日すっきりとした頭で臨もう。
夢の中で友人に報告しなくては。もうすぐ完成だよ――っと。
それじゃ、お休みなさい。
◇◆◇◆
――サグメの指先が止まる。
疲労感いっぱいの手から鉛筆がこぼれ落ちる。足を崩して、サグメはその場に寝そべった。
終わった。書き切った。完成だ。疲労感と達成感。そして少しの寂しさ。様々な感情の波に揺られて、サグメはしばらく部屋の天井を眺め続けた。名前も知らない虫たちが鳴き、涼しい風が秋の訪れを感じさせる正午くらいのことだった。
「おっ、書き終わったんだ」
戸の向こうから顔を出したてゐが部屋の中に転がり込んできて、机の上に上がっている原稿を手に取った。まだ誤字脱字が残っているかもしれないのに――サグメは慌てて取り返そうとするが、正座して書いていたのが仇になった。足が痺れてその場に倒れ込む。
「いいじゃん、誰かに見せる為に出力してるんだからさ」
それはそうなのかもしれないが。動けるようになるまでまだ時間がかかる。それまではてゐの好きに読ませよう。いや、恥ずかしいのは変わらない。何も目の前で読まなくたっていいじゃないか。せめて私のいない何処かで――。
「楽しかった? 始めての創作活動は」
畳に横たわるサグメにてゐが尋ねた。まだ身体を起こせないのでてゐがどんな顔をして自分の小説を読んでいるのか、サグメにはわからない。
だがその問いに答えるのは簡単だった。――一概に楽しいのと言えなかった。
言葉選びは慣れている方だと思っていたが、ここぞというときに「これだ」と思える言葉が見つからなかったり、上手い展開が思いつかなかったら、当然ストレスが溜まる。逆に良い案が見つかりはしたが、それだと前に書いた部分を大きく修正した方が良い物になると気づき、修正するかどうか大いに悩んだ。積み上げた物が0になるというのは精神的に辛かった。
けれど、まあ。
なんだかんだといっても最終的に、結果的に、全体的に。
楽しかったと引っくるめてもいい――そんな気がする。
書いている時は「辛い」と嘆き、書き終わってから「楽しかった」と気づく。
何に追われているわけでもないけれど、急ぎ足の日々だったと思う。完成を一番待っていたのは、他でもない私だった。誰かに見せるとするなら、それは自分が満足したついでで。言うなれば越卒分けで。これが客観的に面白いかどうかは、その相手に丸投げでいいだろう。
けれど、まだ。満足していない部分があった。
書き上げたことには満足しているのだが、やりたかったこと全てをやりきれていない。
なら――。足の痺れが引き始めたサグメが身体を起こすと、原稿から顔を上げたてゐと目が合う。楽しそうに笑う瞳は、サグメを見て面白がっているのか。それとも小説の感想なのか。
「まっ、初めてはこんなものでしょ。よし、印刷しに行こう」
「えっ、ちょ――」
「なんでもさ、人間の里に新しい印刷所が出来たらしいんだよ」
「そうじゃなくて」
「大丈夫、大丈夫。お金ならお師匠様が出してくれるよ」
原稿を片手に、てゐは縁側から飛び出していく。これは止まってくれそうにない。サグメも玄関で靴を履いててゐを追いかける。すぐにてゐに追いつき、その後ろをついていった。彼女の背中にくっついていかないと、落とし穴に落ちるはめになる。
迷いの竹林の道中、前を行くてゐが口を開いた。
「あんたの話、なんて言うか……優しいね。希望に溢れてる」
「そう?」
「優しすぎて読んだ後に現実に立ち向かっていけなくなるぐらい」
そんなにか。サグメは書いた内容を頭の中で思い返す。――たしかにマイナスの要素は極力排除したけれど。でもそれはフィクションだからこそ可能なわけで。現実が辛く厳しいのだから、フィクションが優しくなければ、それはもう救いようがないだろう。
「けど、嫌いじゃないよ。フィクションから変わっていくこともあるからね」
サグメは小さく頷いた。前を歩くてゐには見えないけれど。
迷いの竹林を抜け、視界が開けた。まだ夏の匂いを残す風が吹き、草木が揺られて微かに鳴く。サグメが不意に口笛を吹く。透き通るような高音が空気を震わせ、辺りに広がって消える。
地上にいると、私だけの物が増えていく。私だけの音。私だけの物語。私を表す物で溢れている。地上にいれば、いつか――私だけの声も手に入れらるだろうか。
そんな願いを胸に、サグメはてゐを追い越した。迷いの竹林を抜けた今、後ろに居続ける理由もない。大きく息を吸って、両手を挙げて背筋を伸ばした。息を吐き出して、すっ――と肺に酸素を取り込んだら、知らない味がする。
気持ちも身体も軽い。もしかしたら、フィクションで一番変わったのは、私なのかもしれない。
「うん――いいことありそう」
少なくとも、こんなことを呟く私じゃなかった。
能力なんかに奪われるものか。――私の自由。
次第に日が傾き出す午後一時と少し。世界は少しだけ優しい方向へ廻りだした。
森閑とする辺りには、緑の匂いが広がっていて。夏も終わりを迎えようという八月の半ばというのに、植物たちは青々としていた。
人間の里は嫌みなほど暑かったが、竹林の中ではそうでもない。むしろ直射日光が届かない分、行く道は日陰によりひんやりとしていた。吹く風も涼しい。
けれど竹林に切り取られた青空は少し窮屈そう。
そんなこと考えて帰路を歩く因幡てゐは、いつもよりか機嫌がよかった。
この暑い中、人間の里まで行ってお目当てのモノが手に入らなかったら目も当てられない。無事に入手できて結構、結構。これでまた少し、暇を持て余さずに済む。
小さく跳ねて帰路に仕掛けた罠を交わす。自分で仕掛けた罠に自分がかかっちゃ間抜け以外の何者でもない。まあ、他にかかってくれる間抜けがいるおかげで無駄にならずに済むのだけど。
買ってきた物が入った紙袋を指先でくるくると回してみる。遠心力で中の物が落ちないのはいいけれど、下手に止めると物が落ちてしまうのでしばらく続けてみた。この帰路は長い。退屈しないように緊張感を持つのもいいだろう。
しばらく指先を意識して歩く道が続く。――が、それはしっかりと回転の力を受け止めて、本を落とさずに終わった。てゐを呼ぶ声がしたから。
「おっ、妹紅じゃん。なんか用?」
「いや、別に用があるわけじゃ……見かけたから声かけただけ」
竹林の道――といっても舗装されているわけではないが――から少し離れたところからてゐもよく知る藤原妹紅が歩いてきた。背中にかごを背負っていたり、手にはトングを持っていたり。長い白髪も高い位置で一つにまとめられている。タケノコ掘りだろうか。
「やけに上機嫌だったし」
「まあね、アガサクリスQの新刊が手に入ったのさ」
「ああ、そんな名前聞いたな。確か人間の里で売ってる天狗の新聞に、そんな記事があったような」
「へえー。妹紅も新聞読むことあるんだ」
「慧音に会いに行ったとき、部屋にあったのを読んだの。後にも先にもそれっきり。面白い?」
「百聞は一見にしかず。今度読んでみたら」
「ふうん。それじゃ今度。……あっ、そうそう。てゐに聞きたいことあったんだ」
続けようとした妹紅の口が止まる。
どうしたことか――とは、思わなかった。その理由には察しがついた。たぶん、これから妹紅か口にすることも。
耳に届いたのは爽やかな草の音に混じる透き通るような、透明感の高い高音。風に乗って流れてきたそれは、もうすぐやってくる秋の落ち着きを想わせる。自然と肩の力が抜け、ゆっくりと流れていく時間に身を任せたくなった。
「綺麗。この口笛……最近よく聞くようになったけど、永遠亭がある方から聞こえてくるのよね。てゐは何かしらない?」
「さあねー。まあ、知らない方が純粋に音だけ楽しめるからいいじゃん」
嘘も休み休み――首を横に振るてゐを見て、妹紅は大きく身体を伸ばし、力を抜くと共に息を吐き出す。
「そうかも。聞き入ってると時間を忘れそうになる」
「口笛を聞いていられる精神的余裕。いいねー。そういうやつは長生きするよ」
「……あんまり笑えないかな、その冗談」
引きつったような笑みを浮かべる妹紅に、あっけらかんとした声色で別れを告げたてゐは再び帰路へと歩き出す。
自分の言ったことが正しいなら、口笛を吹いているであろう彼女の心中も、きっと穏やかなのだろう。
歩くにつれて、音が近づいていく。人気のない静かな竹林にはよく広がる。てゐもつられるように口笛を吹き始めた。
うん、私の方が上手い。なんていっても年季が違う。
次第に日が傾き出す午後一時と少し。今日も世界は安心して廻っていた。
◇
口笛とは面白いものだ。
練習次第で音階を表現でき、適切な息継ぎをすれば曲を奏でることもできる。
それなら楽器の方が出来が良いに決まってるだろうが、決定的に違うのは自分だけの音が出せるところ。声ともまた違う、けれど近しい感覚。
兎にも角にも。彼女にとっては特別な物に違いない。
時計の針が二を指そうとする頃。彼女、稀神サグメは縁側から足を放り投げて気持ちよく口笛を吹いていた。目の前を流れていく風は、何時にも増してゆったりしていて。竹林に口笛の音が広がっていく。
ざわめく葉音。傾き始める日。時間の流れを肌で感じる。
一応理由があって月から永遠亭に来ているのだけど、月には時間の流れを感じられる物がそうない。風は吹かないし、匂いも写り変わらない。
こういう何にもない時間が地上には流れていると思うと、消してしまうのはもったいない――とも感じたり。けれどそれは自分の意思ではどうしようもないので、こうして僅かな時間でもこの雰囲気に浸っていよう。
任期満了なるまでの自由時間。サグメはまだ余裕のある時計の針を横目に過ごしていた。いつもはそこら辺にいる兎と戯れたりもするのだが、今視界の見えうる限りにその姿はない。
そこへ近づいてくる足音が一つ。
きっと人間の里へ買い物に行った彼女だろう――廊下の床が軋む音が角を曲がり、サグメのいる縁側に現れた。
「あっ、まだ居たんだ。あんたも存外暇だね」
軽い足取りを止めた因幡てゐに、サグメは小さく手を振り返す。
サグメにとって彼女は特別な存在だった。口笛の先生であり、喋らずとも大体のことは理解してくる。筆談で会話することが多いサグメに、こんなにテンポよくコミュニケーションがとれる相手は多くない。ふと時間が空いたときには、地上の娯楽を教えてくれたりもする。彼女と居ると沢山の初めてと出会えて、時間が尊く感じられた。
「……どうだった?」
「もちろん買えたよ。ああ、何を買ってきたかって? これ」
てゐが紙袋から取り出したのは、一冊の本だった。綺麗な外装で、背表紙の所には『犯罪の研究 アガサクリスQ』と書かれている。
「月には小説とかあるんだっけ?」
「小説……?」
「月って本当に何もないね。 私だったら死んでるかも」
「――死なないわ。月でそう簡単にはね」
縁側で話す二人に襖を開けて出てきた八意永琳の声が加わる。永琳はてゐを一瞥するとサグメに「変なことを吹き込まれてない?」と。サグメは首を横に振る。
「月には創作の文化がないの。書物関連は知識や史実を記録するためだけのものだから」
「つまんなーい。月人には創作の素晴らしさが分からないの? 新世界の神になりたいような厨二スティックな願望から、誰かを救いたいと願う純粋な少年の夢まで幅広く叶えてくれる万能願望機。迷ったら楽しい方へ。それが創作のコツさ」
それからね――と、なんだか自慢げに語るてゐに、永琳は小さくため息をついて半分受け流しに聞いていた。
「私には必要ないわ。人生一度だけでも十分満足だから」
「あー。お師匠さまはそうかもね。あんたはどう?」
どう、といわれても。そもそも小説がどんなものなのか、全然知らないのに。
その答えを求めて手に持つ本を開く。するとてゐは「ああ!」と声を上げてサグメの手から本を奪い取った。
「一番先に読むのは買ってきた私だよ。その後なら読ませてあげるし、待ってる間は他の小説を貸してあげる」
そういうものなのだろうか。判断のつかないサグメだったが、ここはてゐに従って素直にその条件を呑んだ。初めて触った本を最初に読みたい――という思い入れも特にはなかった。
代わりの本持ってくるから――てゐはサグメから奪還した本を片手に自室へと駆け足で戻っていく。
その背中を見送る永琳はてゐの姿が見えなくなるとサグメに向き直っていう。
「地上の文化を覚えるのはいいけど……覚えれば覚えるほどに月は退屈に思えるわよ」
「……そうかもしれません」
「でも貴女には向いてるかも。文章なら好きなことが言えるし、どんな人生も歩める。想いのままにね」
それに貴女が書いた小説なら、読んでみたいと思う。
そう言い捨てると、永琳は廊下の向こうへ歩いていった。これから初めて小説を読むというのに、どうして書くことにつながるのだろう。月の賢者の考えることは分からない。
もしかしたら私が小説を読もうとした選択で、小説を書くことを導き出したのか。
そんなまさか。サグメが小さく息を吐いて思考を放棄する頃。自室から戻ってきたてゐは脇に抱えている本の中から一冊をサグメに差し出した。――これ読んでみな。読み終わる頃にはさっきの本は読み終わってると思うから。
二人で縁側に腰を下ろすと、各々手にした本を読み始める。
サグメの瞳に映るのは知らない誰かの知らない世界。台詞は聞き覚えのない声となって耳に届き、文字を見ているハズなのに、視界には見たことない景色が広がっていた。ページをめくるごとに引き込まれていき、現実とピントがあわなくなっていく。音も風も遠くなっていって。こぼれる息でさえ、本が吸い込む。
こんな厚さ五センチにも満たない紙束に書かれた文字の羅列。何時しかそれが誰かの人生を描き、私はそれを近くで見ている。――すごい。
夢中でページを捲るサグメの隣。鬱蒼とする竹林の森閑とした空気は時間の流れを感じさせず、彼女に何も言わないまま日が沈んだ。
――――――
――――
――
サグメが小説の世界から戻ってこれたのは、最後のページに書いてあった「この物語はフィクションです。登場する――」を見たときだった。
長時間同じ体制を維持したせいもあってか、首の筋が少し痛い。本を脇に置いて立ち上がると、一人大きく伸びをする。――と、いつの間にか一人になっていて、辺りも暗くなっていたことに気づく。辺りを見てみるも、一緒に本を読んでいた彼女の姿はなかった。
思った以上に時間が経っていたらしい。
大きく息を吐き出し、本を片手に廊下を歩き始める。
それにしても、あれが作り話だなんて読み切った今でも信じられない。人ひとりの人生を一時だけでもああして描けるなんて。想像だけで書いたと言うならそれはもう賞賛しかない。
本当に生きてるみたいだった。もしかしたら世界の何処かで本に書かれた通りに誰かが生きてるのかもしれない。作者も知らない何処か遠くで。――そうだったら素敵だな。
軋む廊下の音は軽く、永遠亭は静かだった。歩みを進めていくと床の間で横になってくつろぐてゐの姿が見えた。向こうはサグメに気づくと、ひょい――っと上半身を起こす。
「読み終わった? いやね? 集中して読んでたから声かけづらくって」
手を合わせて「ごめんね」と謝るてゐに、サグメは首を横に振る。むしろありがたかった。途中で現実に引き戻されたら興が冷めてしまったかもしれない。少し身体は冷えてしまったけれども。
借りていた本をてゐに差し出す。するとてゐは受け取ると同時違う本を差し出してきた。続き物だから、買ってきたの読む前にこれ読んだ方がいいよ。――そう言われて受け取ったサグメはその場に座りこむ。
今度はどんな話だろう。期待に胸を膨らませ、ページをめくった。
「ちょ、ちょっと待ちなって」
だがそれを止めたのは本を渡したてゐだった。
「今何時かわかってる? お楽しみは明日にとっておきなって」
言われて時計を見れば午後十時。確かにこの時間から新しい本を読み始めては読み終わるのが何時になるか知れない。それにさっき読み終わった小説の余韻がまだ頭に残っていて、何処か温かく、ぼっ――っと広がっている。
それじゃ早めに寝るとしよう。
「……お休み」
「あれ? ごはん食べないの? いっか。これでまた少し面白くなりそう」
てゐに踵を返すと、サグメは永琳に借りている部屋へ早足で向かっていく。
部屋についたサグメはてゐから借りた本を机に置いて、布団を敷いた。明かりのともらない部屋は月の光で照らされ青白い。静かだが、無音とは少し違う。小さく虫が鳴き、風が木々の葉を揺らす。静寂のざわめき。
サグメは布団に横になり、少し重い頭を枕にあずけた。まるで精神が重力に引っ張られるように色々な物が抜けていく。頭の中に残った小説の余韻が枕に伝わって、自然と瞼も重くなっていった。
明日あの本を読んで……そしたらまた別の本を読もう。滞在期間はまだたくさんある。
閉じた瞼の裏で読んだ小説の世界を思い出しながら、サグメは一人、深い眠りに落ちて……微睡む。
◇◆
サグメが初めて小説を読んだ日から、しばらく経った。
サグメの読書ペースは思いの外速く、一日に二、三冊ほど消化する。元々てゐが所有する小説はそれなりの数があったのだが、それも一つまた一つと消えていき、ついにはその全てを読破してしまった。
そしてその頃にはすっかり小説の虜になっていた。
知らない考え、知らない人、知らない場所、知らない知識。ページをめくれば出会いに溢れている。新しい本を手にするのが楽しみで、読んでいる間はどんな時よりも充実していた。
けれど。滞在期間を半分残し、サグメは永遠亭にあるすべての小説を読み尽くしてしまった。急に手持ち無沙汰になって落ち着かない。そんなサグメが思い出したのが、初めて小説を手にした日に永琳に言われたこと。
『文章なら好きなことが言えるし、どんな人生も歩める。想いのままにね』
そうだ。無ければ創ればいいじゃないか。それに――。
サグメは永琳から借りている小説をパラパラと捲り、小さく微笑む。
私もこんな文章を書けようになりたい。なれたら――素敵だろうな。
サグメは永琳に頼んで小説を書くのに必要な物を揃えて貰った。といってもサグメが永琳の部屋を訪ねた時には既に用意してあったわけだけれども。全てよまれてる――と思うと少し気恥ずかしい。
自室に戻り、サグメは机に向かい始める。今朝の幻想郷は静かに雨が降り続いていた。龍神像の天気予報では明日からは晴れの日が続くらしい。まあ、永遠亭から出ないサグメにはあまり関係のない話だった。
――さて、何を書こうか。
筆を持ち始めてしばらく。サグメの手が動く様子はない。
"何か書こう"とは決めたが、その"何か"は全く決まっていない。書きたい気持ちが先行して書く物が決まらないのは、この界隈よくあることなのだが、それをサグメが知るよしもない。こんなことならもっと前から本を読んで、書きたいことを見つけておけばよかった。と、本を読まなかった今までの時間を恨めしく思うことしか出来なかった。
何か何かと部屋の外、雨の降りしきる竹林を眺めていると、向こうから廊下を歩いて近づいてくる足音が聞こえる。永琳よりも軽く、てゐよりも重い。その人物はサグメの部屋の前まで来ると、ひょいっと顔を出す。
腰の辺りまで伸びた美しい黒髪は見た人の目を掴んで離さず、整った小さな顔は一度見たら忘れられないくらいの印象を与える。この永遠亭の主、蓬莱山輝夜は物珍しそうにサグメの様子を伺う。サグメが向かっている机の上を見ると何かを察し、部屋の中へ入ってくる。
「あら、もしかして小説書いてるの? 懐かしいわ。私も昔書いたことあるの」
彼女がいう昔がどれだけ前のことなのか、まるで想像がつかない。
それでも今のサグメにはありがたい話だった。すぐ側に小説を書いたことのある人がいるというのはそうそうない。聞きたいことなら山とある。
「書きたいことが……」
「見つからないの? じゃあ書かなくてもいいじゃない」
いや、そう言われてしまえばそうなのだけど。
言葉を探すのが面倒になったサグメは、これまでの経緯と輝夜に聞きたいことを紙にまとめて輝夜に見せる。やっぱり筆談はテンポが悪い。輝夜はてゐのように意をくみ取ってくれそうにはないので、コミュニケーションが取りづらい。
「なになに……『小説を読んでみて自分も小説が書いてみたくなった。書きたい物の目星がどうにもつかなくて困っている。よければ貴女が小説を書いた時のことを教えて欲しい』……か。あくまで私の話でいいならいいけど」
そうそう、貴女の話でいい。そう言えばてゐも小説を書いたことがあると言っていたっけ。あとで意見を聞きに行くか。
サグメがそんなことを考えている間に、輝夜は目を閉じて「うーん」と呻りながら記憶を巡らせていた。どうやら随分と前の話のようで。
そしてしばらくするとぱっちりその瞳が見開いた。
「そうそう、思い出したわ。この世界にあってほしいモノを書いたのよ」
「この世界に、あってほしいもの?」
「そう、だって既に世界にあるモノを書いてもつまらないじゃない? 自分で創った世界でくらい、自分の好きに生きたいし、自分の欲しいモノを用意するくらいでないと面白くないもの」
「……そのとき貴女はなにを?」
「初めて書いたときのは、私が死んで、幽霊になって世界中旅する話だったかなー」
ほら、私って死なないし。
笑顔でそういう輝夜に、サグメは曖昧な表情を返す。
「わかんないか……とりあえず死んでみたかったし、幽霊には絶対になれないからなってみたかったのよ。まっ、書いたことは全部想像なんだけど」
不老不死ではないサグメには、その感覚は理解できない。もしかしたら死んでみたいのも、幽霊になりたいもの、不老不死の界隈なら共通の憧れなのかもしれない。そんな風に飲み込んだ。
「じゃあ、今は?」
「そうねー。大きくって……面白くて、退屈しない永遠かな」
「永遠」
「そっ、出来れば今のままずっと続けばいいと思うわ」
私も久々に書こうかな――そういって輝夜はサグメの部屋を飛び出していった。なんだか騒がしいというか。まるで嵐のような人だな。
外の雨は強さが増すようなことはなく、静かに規則性のあるかのように一定の雨音を刻んでいく。雨の匂いは少し落ち着く。耳にも気持ちいいし、濡れさえしなければこれから散歩に出かけれるのもいいだろう。
――そうだ。濡れない雨とか、あったら素敵だな。
◇◆◇
輝夜から話を聞いて数日。
書くことの決まったサグメは、早速執筆に勤しんでいた。頭の中ではもう物語は完成している。けれどイメージを言葉に訳して、それを出力するのは時間と労力を必要とする。創作活動は出産にも似た苦しみを味わうと本の中で読んでいたが、なるほど、私は絶対に結婚はしない。
あれから龍神像の天気予報に反して雨が降ったりしたが、その後は概ね予報通り。快晴続く幻想郷。今日も視界の届く限り雲は無い。
書いては消して、また少し直す。永琳曰く、外の世界には簡単に小説が書ける機械があるらしいことを聞いたサグメは、今その機械が心底欲しかった。原稿用紙も鉛筆も有限なのである。
一進一退の執筆作業の中、またサグメの手が止まった。
んー。この表現は少しわかりづらいか。伝わらないと意味がないし、書き直すか。
まだ誰に見せるとも決まってはいないが。サグメは鉛筆を消しゴムに持ち替え、その部分を消そうと力を込める。
「そこ、消しちゃうの?」
急に声をかけられ、サグメは肩を飛び上がらせた。
誰かと思い振り向けば、永琳がこちらを覗き込んで微笑む。――気づかなかった? ずっと居たのよ。
居るなら居ると言ってくれればいいのに。そう抗議しようと思ったが、そう言う前に永琳の方から「集中してるみたいだったから」と言われてしまう。これではなにも言えない。
「そこ、消すのね。何もおかしいところはないと思っていたんだけど」
「わからないかも……と」
「なるほど、そうかもね。でも、そのままでいいと思うわ」
なぜ? ――とサグメが首を傾げる。
永琳は嬉しそうにいう。
「確かに分かりやすいように書くのは大切なこと。でもまずは貴女の気持ちじゃない? 貴女がそう書いたと想ったのなら、それを大切にするべきよ。貴女の想ったままを」
「そういう……ものですか?」
「きっとね。それに誰一人分からないわけでもないでしょう。なぜ貴女がその表現を選んだのか、違いの分かる人はいるわ」
それじゃ邪魔しちゃ悪いから。それだけ言い残し、永琳はサグメの部屋から去って行く。
残されたサグメは一人考えた。分かってくれる人は、いるだろうか。分かってくれたら、この上なく嬉しいだろう。
困ったら楽しい方へ、嬉しい方へ。それが創作のコツだったかな。
初めて小説を読んだあの日にてゐが言っていたことを思い出して、サグメは消しゴムを置いた。そして再び鉛筆を握り書き始める。初めて小説を読んだあの日が随分と前のことのように感じるのは、きっと旅してきた数々の世界がそれだけ充実していたからだろう。
快晴広がる幻想郷。その何処から暑さのこもっていない、涼しく澄んだ風がサグメの部屋に吹き込んで、その前髪を僅かに揺らす。
そうか――秋が来るのか。言われてみればもう八月も残すところ数日。
時間の流れを感じながら、サグメは手を動かし続ける。滞在期間もそろそろ終盤。月に帰る前に完成させたい。別に本にするわけでもなく、多くの人に見せるわけでもなく、ただ小説というモノに出会った記念として、残しておきたい。
――――――
――――
――
私がこの世界に欲しいものは? 考えることから始めてみる。
思いつく。輝夜は大きくて面白い、退屈しない永遠と答えた。
なら私は短くて、あっけなくて、小さいけれど大切な有限と答えよう。
私からすれば、『永遠』なんて言葉は重くて、残酷すぎる。それだと私は一生好きに話せないじゃないか。全てのモノに有限を。私の能力も、冷蔵庫に入ってる卵のように、いつか賞味期限切れになって、ぽいっ――と。捨ててしまえるものでありたい。
それで。
昔は話づらかったな。なんて、笑い話に。
あのときは辛かったけど、今となっては悪くない経験だった。なんて、体験談に。
そんな想いを小説に。
これを読む人がいたとして。私が一日かけて考えて書いた一行も。一時間で考えて書いた一ページも。きっと読む人から見れば大差のない文字の羅列。それに私が書いたものより上出来なものが沢山ある世の中だ。なんだかやけになってしまいそう。
それでも違いを分かってくれるヒトが一人はいるだろう。
そう信じて丁寧に書き綴る。顔も知らない誰かを信じるのは、些か変な感触だ。
書いている途中で、プロットは崩壊して。
やりたいことが溢れてくる。全部させるには何ページ書き足せばいいんだろうか。想像するだけで楽しくなってくる。そうだ旅行がしてみたい。せっかく幻想郷に来たのに、全然出歩かないなんてもったいないじゃないか。滅ぼすなんて言わないで、仲良くすればいいのに。やっぱり人生上手くいかないか。無くなってしまうのは勿体ない。まだアガサクリスQの次巻を読んでいないのに。月に戻ったら直談判しなくては。
ああ、こうしていられない。
やりたいことができないなら、全てお話の中で。フィクションだっていいじゃない。現実がこうも上手くいかないのだから。元々人生たった一度で世界の何割の楽しさと幸福を味わえるんだ。退屈や不運は結構味わってるのに。
だからヒトは物語を書くのかもしれない。人生一度じゃ足りないから。
こういう道もあったかも知れない。
こういう道を歩いてみたかった。
そんな想いの結晶。
どんなに救われないお姫様も、その指先一つで救える。てゐが「万能願望機」と言っていたのがよく分かった。物語でくらい、いいエンディングを用意してあげたくなる。
最近、夢で出会う友人に「近頃の夢は愉快ですね」と言われた。
私的には寝ている時間も惜しいのだ。四六時中物語りを考えること、本を読むことに費やしたいのに、それだけでは生きられないのが世の中である。
だからこそ、私は出来る限りの時間を注ぐ。
それでも力を込めすぎず、鉛筆にはいつも優しくいたい。
根を詰めすぎると途端に視野が狭くなるから、たまに縁側に出て口笛を吹く。いつも付き合ってくれる彼女は私より数段上手い。書き終えたらもう一度教えてもらうとしよう。
――終わりが見えてきた。
けれど焦らないように一呼吸。一番書きたいシーンはそれが一番輝くように順序を踏んできた。待ちに待った瞬間が訪れる。
いや、一端寝かせよう。
今日はこの辺で終わらせて、明日すっきりとした頭で臨もう。
夢の中で友人に報告しなくては。もうすぐ完成だよ――っと。
それじゃ、お休みなさい。
◇◆◇◆
――サグメの指先が止まる。
疲労感いっぱいの手から鉛筆がこぼれ落ちる。足を崩して、サグメはその場に寝そべった。
終わった。書き切った。完成だ。疲労感と達成感。そして少しの寂しさ。様々な感情の波に揺られて、サグメはしばらく部屋の天井を眺め続けた。名前も知らない虫たちが鳴き、涼しい風が秋の訪れを感じさせる正午くらいのことだった。
「おっ、書き終わったんだ」
戸の向こうから顔を出したてゐが部屋の中に転がり込んできて、机の上に上がっている原稿を手に取った。まだ誤字脱字が残っているかもしれないのに――サグメは慌てて取り返そうとするが、正座して書いていたのが仇になった。足が痺れてその場に倒れ込む。
「いいじゃん、誰かに見せる為に出力してるんだからさ」
それはそうなのかもしれないが。動けるようになるまでまだ時間がかかる。それまではてゐの好きに読ませよう。いや、恥ずかしいのは変わらない。何も目の前で読まなくたっていいじゃないか。せめて私のいない何処かで――。
「楽しかった? 始めての創作活動は」
畳に横たわるサグメにてゐが尋ねた。まだ身体を起こせないのでてゐがどんな顔をして自分の小説を読んでいるのか、サグメにはわからない。
だがその問いに答えるのは簡単だった。――一概に楽しいのと言えなかった。
言葉選びは慣れている方だと思っていたが、ここぞというときに「これだ」と思える言葉が見つからなかったり、上手い展開が思いつかなかったら、当然ストレスが溜まる。逆に良い案が見つかりはしたが、それだと前に書いた部分を大きく修正した方が良い物になると気づき、修正するかどうか大いに悩んだ。積み上げた物が0になるというのは精神的に辛かった。
けれど、まあ。
なんだかんだといっても最終的に、結果的に、全体的に。
楽しかったと引っくるめてもいい――そんな気がする。
書いている時は「辛い」と嘆き、書き終わってから「楽しかった」と気づく。
何に追われているわけでもないけれど、急ぎ足の日々だったと思う。完成を一番待っていたのは、他でもない私だった。誰かに見せるとするなら、それは自分が満足したついでで。言うなれば越卒分けで。これが客観的に面白いかどうかは、その相手に丸投げでいいだろう。
けれど、まだ。満足していない部分があった。
書き上げたことには満足しているのだが、やりたかったこと全てをやりきれていない。
なら――。足の痺れが引き始めたサグメが身体を起こすと、原稿から顔を上げたてゐと目が合う。楽しそうに笑う瞳は、サグメを見て面白がっているのか。それとも小説の感想なのか。
「まっ、初めてはこんなものでしょ。よし、印刷しに行こう」
「えっ、ちょ――」
「なんでもさ、人間の里に新しい印刷所が出来たらしいんだよ」
「そうじゃなくて」
「大丈夫、大丈夫。お金ならお師匠様が出してくれるよ」
原稿を片手に、てゐは縁側から飛び出していく。これは止まってくれそうにない。サグメも玄関で靴を履いててゐを追いかける。すぐにてゐに追いつき、その後ろをついていった。彼女の背中にくっついていかないと、落とし穴に落ちるはめになる。
迷いの竹林の道中、前を行くてゐが口を開いた。
「あんたの話、なんて言うか……優しいね。希望に溢れてる」
「そう?」
「優しすぎて読んだ後に現実に立ち向かっていけなくなるぐらい」
そんなにか。サグメは書いた内容を頭の中で思い返す。――たしかにマイナスの要素は極力排除したけれど。でもそれはフィクションだからこそ可能なわけで。現実が辛く厳しいのだから、フィクションが優しくなければ、それはもう救いようがないだろう。
「けど、嫌いじゃないよ。フィクションから変わっていくこともあるからね」
サグメは小さく頷いた。前を歩くてゐには見えないけれど。
迷いの竹林を抜け、視界が開けた。まだ夏の匂いを残す風が吹き、草木が揺られて微かに鳴く。サグメが不意に口笛を吹く。透き通るような高音が空気を震わせ、辺りに広がって消える。
地上にいると、私だけの物が増えていく。私だけの音。私だけの物語。私を表す物で溢れている。地上にいれば、いつか――私だけの声も手に入れらるだろうか。
そんな願いを胸に、サグメはてゐを追い越した。迷いの竹林を抜けた今、後ろに居続ける理由もない。大きく息を吸って、両手を挙げて背筋を伸ばした。息を吐き出して、すっ――と肺に酸素を取り込んだら、知らない味がする。
気持ちも身体も軽い。もしかしたら、フィクションで一番変わったのは、私なのかもしれない。
「うん――いいことありそう」
少なくとも、こんなことを呟く私じゃなかった。
能力なんかに奪われるものか。――私の自由。
次第に日が傾き出す午後一時と少し。世界は少しだけ優しい方向へ廻りだした。
サグメとてゐの関係もなんだかすごくしっくり来ました。
創作の大変さとかそれでも溢れ出る創作欲とかが丁寧に描かれていてすごく感情移入しちゃいましたね。
それとサグメ様とてゐの組み合わせも珍しく大変美味しい作品でした、ごちそうさまです。
文学なんて手に取ったことも無いのに自分の書きたいものだけが溢れてきて、序盤に綴られたサグメの精神とは全く逆の状態でした。
でも執筆中に考える事が嘘みたいに似通っていて、書き直しを前にした葛藤や、組み合わさって増えていくアイデア達が全て素晴らしく見えたりしたのを、思い返しては何度も何度も反芻しまいました。
抱えていた悩みにも一つの答えを教えて下さった気がします。恥ずかしながら大きなものを書き上げられた経験が無いので最後にサグメが思っていた事は明瞭でないままですが、いつか出来た時また読みに戻ってこようと思います。
とても素敵な作品です、ありがとうございました。