Coolier - 新生・東方創想話

古明地さとりは図太く生きる  一 例えば心を読む程度の能力が失われたとして

2018/08/17 00:09:01
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 一 例えば心を読む程度の能力が失われたとして


 私の平穏な時間を破るのは、いつも妹のこいしでした。
『さとり様、本日も麗しゅうございます』
『今日も焦熱地獄は順調に燃え続けております』
 私が卓上で書類など取りまとめておりますと、青白く燃え盛る怨霊が二体三体とまとわりついてまいります。ああ、やつらの声など雑音にも勝ることはありませんよ。何しろ怨霊は成仏もできない、地獄に堕ちることすらできない「止まった」魂なのですから。何をしたところで報われることもなく、消えるまで燃え続ける以外にないのです。やつらは自らの運命について、悟ることも学ぶこともありません。だからこうして、毎日懲りず媚を売りにやって来ます。皆様はどうか亡骸を火車に持ち去られぬような人生をお送りくださいますよう。
 そんなことより、こいしのことでした。私は手を動かしつつも、あの子がやってくるのを全方向に注意を張り巡らせて待ち構えておりました。こいしは、いつ、どこからでも現れます。まるで油断がなりません。
 そうこうしているうちに見慣れたベージュ色の袖が、私の首筋へとするりと巻きついていました。ああ、今日は後ろからでしたね。
「お姉ちゃん、ただいま」
「部屋に入るときはノックくらいしろといつも言っているわ、こいし」
 私が空いているほうの手でこいしの腕を抱きかかえますと、土の匂い、雨の匂い、草花の匂いが一緒くたになって私の頭の中を駆け回りました。
「それから、あとでお風呂に入って来なさいな」
「お姉ちゃんはいつも書き物ばかりなのね。少しは別の暇つぶしを覚えたらいいのに」
 こいしは私の小言をろくに聞いちゃくれません。まあ、いつものことです。この子は私がどんなに「眼」を凝らしても、心が読めません。なのでこの子のことを知るために、私は言葉を尽くさねばならないのでした。
「記録は私たちにとって、大きな助けとなるものなのよ。一文とておろそかにはできないわ」
「そんなことより、聞いてよお姉ちゃん。今日、地上に遊びに行ったときのことなんだけど」
「はいはい。今日は誰と遊んできたのかしら? 面霊気? それとも『外』の超能力者?」
 開け放した窓からそよ風が吹き込んで来て、私どもの髪を揺らしたのはそんなときでした。気がつくと一話の白鳩が、机の上に降り立っていました。脚には小さな筒が備えつけられております……すなわち彼女は、地霊殿に飼われる伝書鳩の一羽というわけです。
 私はこいしの腕を抱えたまま、筒から書簡を取り出しました。この子の手が紙に触れないように気をつけながら、内容を読み上げますと……。
 ――旅行者の一団、地獄検問を通過。総勢二十四名、引き継ぎを完了
 残念、どうやらこいしとの逢瀬は早くも時間切れのようです。私は呼び鈴を鳴らしまして、雑用ペットの一人を呼び出しました。
「お客様をお迎えにうかがいます。お空を呼びなさい」
「かしこまりました」
 ペットを送り出してから立ち上がろうといたしますと、こいしの体がより強く重くしなだれかかってきます。ふと脇を見ると、こいしの顔がせり出しました。その様子はこいしウォッチ歴ウン百年の私をして少々口を尖らせているように見えたのでした。
「今日も忙しいのね」
 私はこいしの頬に軽く接吻などしてやりました。脂っこい感触と、少しの塩味がします。
「ごめんなさいね、あまり構ってあげられなくて。湯浴みを済ませてきなさい。あと食堂にお食事を準備してあるはずだから、自分の分を温めて食べなさい」
「はーい」
 こいしを引っぺがしますと、まずはクローゼット、ではなく箪笥に向かいます。中から取り出したのは、薄紫色の和服でした。
「それから、たまにはちゃんとした時間に帰ってきなさい」
 うしろを振り返ってみますと、こいしの姿はもうどこにもありませんでした。いつもだったらもう少し注意深く探すのですが、今は忙しいので残念ながら諦めます。
 和服の前を合わせて帯を締めれば、気分的にはもはや女将です。形は大事です。履き物を下駄に替えて部屋を出ますと、エントランスに届く通路に続きます。
 いろんな連中がひしめいております。空中にはさまよう怨霊どもが。地上には私を慕って集まってきたペットたちが。そして、それらを遠巻きから眺める人間たちの姿が。
 はい、そうです、人間です。空を飛ぶこともなく、弾幕も張れず、妖怪に狙われたらなすすべもなく餌食になってしまうであろう、普通の人間がここにいます。
 彼らにとって、地霊殿の動物たちは大変物珍しいようです。犬猫くらいしか飼う習慣がないのですね。慣れれば可愛いものなのに。
 そこで私は、一人の男に目をつけました。そいつは通路の片隅で毛並みを整える一匹のシャムを、一心に見つめていました。
「彼らは、地獄の過酷な環境で生まれ育った動物たちです。地上の空気には馴染みませんわ」
 そいつは目に見えるほど肩を震わせると、石臼みたく重々しい首をこちらに向けました。
「い、いやいや。こんな場所にも大人しい生き物がいるんだなと思っただけで、決して持ち帰りたいと思ったわけでは」
「だけど己の武勇伝を言いふらすために、物証は必要とは思っていらっしゃる。代わりに私がお知り合いのところへいって、証言して差し上げましょうか?」
 そいつは信号みたいな顔で赤くなったり青くなったりしながら手を振りました。
「け、結構です」
「くれぐれも盗んでいこうなどとは考えぬように。自由を奪われたこの子たちが、あなたに何をしでかすかも知れませんわ。こう見えて、弱肉強食の地獄を生き抜く動物なのですから」
 石像になった男のことは、もはや捨て置きます。通路をつむじ風が吹き抜けました。顔を向けてみると、黒い翼を背負った私のペット、霊烏路空が私の目の前に降り立つところでした。
「さとり様、遅くなりました!」
「急いでるときでも館内は走らない、飛ばない。もう忘れたの?」
 すると息も切らさずここまで飛んできた空の顔に、汗がどっと湧いて出ました。
「はっ! そうでした、ごめんなさい!」
「これで二回め。スリーストライクの罰は何がいいかしら」
「すみませんすみません、トラウマ想起の罰だけはご勘弁を!」
 必死こいて両手を合わせ、私に頭を下げます。いや実際はこれで百二十四回目なんですけど。説教した回数までものの見事に忘れているのは困ったものです。八咫烏様もお空の小さすぎる記憶容量をもう少し増やしてくれればよかったのですが。
 今はペットいじめをしている暇がありません。平伏するお空の肩をぽんぽんします。
「まあ、いいです。間もなく今日のお客様がここに着きます。付き添いを頼みますよ」
「了解しましたぁ」
 ちょうどそこへペットの一人が、番傘を手に現れました。傘はお空に持たせて外に出ます。私はお空に傘を開かせ、その脇に立ちました。地底の頭上はどこまでも真っ暗な岩天井です。雨が降ることも、忌まわしき太陽に焼かれることもありません。が、傘はいい具合に私の顔を影に誘い込んでくれます。
 地霊殿の門を出てしばらく行くと、賑やかな旧都の大通りにさしかかります。そこには鬼を始めとする地底の妖怪たちがひしめいており、鼓や手拍子に合わせて酒を酌み交わしたり喧嘩に明け暮れたり、私の姿を見てそそくさと間合いを測ったりするのでした。
 やがて私達の前に大きな壁が立ちはだかりました。人だかり、ならぬ鬼だかりです。一様にこちらに向けて背を向けており、何かを取り囲んでいるようにも見えました。
 連中の心を読むにつれ、それは私たちにとっては具合のわるいことだとわかってまいります。しかしこういう物事は冷静さが肝心です。私はあくまで足取りを速めず、お空にもそのようにさせながら近づいていきました。
 すると聞こえてきたのは、これまた私のペットの火焔猫燐の声でした。
「困るねえ、星熊のお姐さん。この人たちは地霊殿の客人だよ。ちょっかいを出せばさとり様の面目を潰しちまうことになる」
 今、お燐にはお客様の送迎を手伝ってもらっています。鬼たちのすき間から見える彼女は、お客さまたちを後ろにかばって、不敵にもとある鬼にそう毒づいておりました。
「そんなことはわかっている。だがうちのもんの肩に人間どものが触れたというんだ。詫びの気持ちの一つも見せてもらわんと、ここを通すわけにはいかないねえ」
 その鬼というのが星熊のお姐さんこと星熊勇儀でした。今のところ、旧都ではいちばん強いやつです。要するに、旧都ではいちばん顔が利くやつでもありました。
 勇儀の脇には一人、異なものを抱えた鬼が立っておりました。どうやら、お客様の一人のようです。襟首をつまみ上げられて、青ざめた顔で足を空中に垂らしております。このお客様が鬼たちに粗相をしたということになりましょうか。
 頭ふたつほど上背のある鬼の肩に、どうやって触れたのでしょうね?
「なーに言ってんだい、肩なんて触れちゃいないくせにさ」
「おう、聞き捨てならねえな。俺たちがそんな嘘をつくとでも言うのかよ?」
 なるほど鬼は嘘はつかなくても、勘違いはすることもあるだろうという。大した論法です。勇儀も手下の言い草を咎めようとはしません。
「ほれ、こうも言っている。なに、客人どもにはちょいと地霊殿に着く前に寄り道をしてってもらうだけさ。それならさとりの体面は保つだろう?」
「分単位でおもてなしのスケジュールを組んでいるこちらとしては、大問題ですわね」
 そこへようやく、私たちの到着です。鬼たちは私の姿を見るや、勇儀一人を残して私たちの左右にざあと谷を作ります。残った鬼の頭領は、私たちにも聞こえるくらいに盛大な舌打ちの音を響かせました。
「ずいぶん遅いお越しだ。最初からあんたが迎えに出りゃあいいものを」
「各々決まったお勤めがございます。当然主人である、この私にも」
 お空はお燐の姿を目にするや、傘を閉じました。右腕にみるみる金属じみた何かが集まってきて、六角柱の棒となり彼女の右腕を包み込みます。原理はよくわからぬものですがお空はそれを、八咫烏様の膨大なお力を自在に操るためのものだと言っておりました。
「お客様を解放していただけませんか。いただけないとなれば不本意ですが、こちらとしても少々手荒い手段を使わざるを得なくなります」
「私の都を、そいつの胡乱な火で焼こうっていうのかい?」
 勇儀ときたら、左手には大きな盃を掲げております。しかもなみなみと酒が注がれたままで。そうこうしている間にお空が左手を突き上げますと、その指先に熱をもつ光の玉が現れました。
 私はお空を手で制したまま、しばし勇儀の様子を見守りました。そんな勇儀は私を見据えたまま、心の中で(こういう茶番は実に性に合わん)と毒づいたのでした。
「たかだか人間の身柄一つで、争うような話じゃあない」
「賢明な判断です」
 勇儀が鬼たちに目配せすると、ようやくお客さまは地上に降ろされるのでした。私もお空に八咫烏式人工太陽を作るのを止めさせると、お燐とお客様たちに近づいていきます。
 勇儀の脇をすり抜けるかっこうです。私は彼女にそっと小さな声でつぶやきました。
「本気で連れ去ろうとなさるのは、ご勘弁いただきたいのですが」
(多少の真剣が混ざってなけりゃ、こいつらも怖がらんだろう?)
 勇儀の心中を、私は聞き流して通り過ぎます。お燐と肩を並べると、お客さまたちに深々と頭を下げました。未だ彼らは、左右を固めた鬼たちを恐れております。
「まずは怖い思いをさせたことをお詫び申し上げます。私が地霊殿主人の古明地さとりです。ここからは私が皆様を地霊殿までご案内差し上げますわ」
 旅行者たちの、心のざわめきが聞こえて来ます。私はその中に、少々聞き捨てならぬものを聞き取ったのでした。
「こんなことに巻き込まれるなんて聞いてない、ですか? いえいえ、これはほんの序の口。ここまでご足労いただいたのならば、この『旧地獄めぐり』の心得はご一読いただいたはず」
 お客様たちがざわめき立ちます。まさか本当に読んでない者がいるとは思いませんでした。
「心が弱いかたのご参加は、最初からご遠慮をお願い申し上げております。ご覧の通り、本物の鬼に攫われて地上に帰れなくなる危険すらあります。地上の生ぬるい肝試しと一緒に考えていただいては困るのです」
 本当に「肝試し」目的で旅行に加わったかたたちが、目をそらすのが見えました。
「これ以上の恐怖体験を望まぬならば、ここでお燐の案内により引き返すことをおすすめいたします。誰も笑いませんし、責めもしません。それでも引き返さないというのなら、地上では体験することのまずかなわない刺激的な旅程を皆さまに提供させていただきますわ」

 §

 生きてるうちに一度は行きたい!
 地霊殿ツアー+旧地獄巡りの旅

 秘境だらけの幻想郷からすぐ行ける新たな異郷として人気の旧地獄。
 この世の者とも思えない景色や、ひと味もふた味も違うスリルが皆様をお待ちしております。

※古明地観光では恵まれない動物たちのために住処と食料を提供する目的にのみ、皆様の旅費を使用させて頂いております。ご理解ご協力のほど何卒よろしくお願い致します。
 また、極端に健康が優れない方、精神力が弱すぎる方、欲望の強すぎる方の参加をお断りさせていただく場合がございます。ご了承ください。

 天狗が雑誌なるものを出すというので、酔狂でそんな広告文を出したのが半年か、一年くらい前だったでしょうか。
 そもそも地霊殿は広大ながら、お燐お空を始めとする妖化したペットたちと、怨霊どもから搾り取った希少鉱石とのおかげで、たいへん上手に維持できております。さらなる収益を得る必要はあまりないのです……万が一にも収益が出たらペットの餌代くらいにはなりますので、広告で嘘は言ってません……が、地底には恐ろしいものが潜んでいることを人間たちに時おり思い出していただきたく、お燐を介して天狗に原稿を送った次第です。
 残念なことにその雑誌は出版目前にして企画倒れとなってしまい、寄稿は闇の中へと消えるはずでした。しかしあろうことか、寄稿した原稿あるいは内容が外部へと流出したようでして(天狗が私たちに会うはずないので、真相は不明のままです)、本当に地底まで来てしまった酔狂者があったのです。そいつは奇跡的にも幻想風穴を無傷ですり抜け、先ほどのように勇儀に絡まれていたところをお助けいたしました。
 本当に客が来るとは思っていなかったものですから、準備などしていようはずがありません。でもまあ手ぶらで返すのもなんですので、適当にもてなしてからお空に地上へ送り届けさせたところ、どうも気に入られてしまったようでして。噂が噂を呼び、その後も地底を目指す者が後を絶たなくなってしまいました。
 それで、どうにも幕を引けなくなってしまったのです。
 私たちは手探りで地獄めぐりのプランを整え始めました。地霊殿まで安全にお客さまをお迎えする方法、人間が喜ぶもてなし、スリルを感じる旧地獄の史跡などなど。運良く通りすがりの外来人の協力も得られまして、地霊殿の敷地内に旅行者専用の建屋まで増設しました。地霊殿の建屋も十分広いのですが、獣臭さを嫌うかたもおられますから。
 ツアーは予想外の好評が続いています。地獄の恐ろしさを生きたまま味わえる、というのが信心深い人間たちにはヒットしたのでしょう。また中にはサトリ妖怪たるこの私をぜひとも出し抜いてみたいなどという奇特な者もおりました。今のところ全員返り討ちにしておりますが。
 あまりに好評のためペットたちだけでは彼らをさばききれなくなり、今や旧地獄の妖怪たちを一時的に雇い入れて対応しているというありさまです。
 これが来客皆無を謳われた地霊殿に、人間が出入りしているあまりに都合のいい理由でした。

 §

 地霊殿に隣接するお客様専用離れは外界の旅館の情報を参考にして、鬼に造ってもらったものです。広縁と床の間がついた六畳間の客室が三十と、母屋から引いてきた温泉を用いた露天風呂と内風呂が備わっております。それから遊技場には卓球台とかいうものも。何に使うのかは監修者の心を読んでもよくわかりませんでしたが、重要らしいです。
 また一階には食堂も兼ねた大広間がありました。広さ三十畳ほどで、舞台も設けてあります。広間の中ではお囃子が響き渡り、新たなお客様に対する歓迎の宴の真っ最中でした。
「そりゃっ!」
 黒谷ヤマメが威勢のいい掛け声を発しますと、蜘蛛の糸が八方に飛び散ります。まさに打ち上げ花火のような鮮やかさ。食堂に集まったお客様たちも食事の手を動かすのを忘れヤマメの糸芸に見入っておりました。
 しかし彼女の演目の見せ場はここからです。ヤマメは蜘蛛の糸をより集めると、一本の縄を即席でこさえました。そいつを鞭のように振るうと向かった先は舞台の片隅になぜか積まれた角材の山。糸で絡め取ると、自らの手足であるかのように角材を組み上げていきます。すると五分もしないうちに、舞台の中央へ櫓が組み上がりました。
「ほいさ!」
 ヤマメが櫓の上に飛び乗っても、びくともしません。釘の一本も使わず組み上がった様子に、お客様がたからも驚きの声が上がります。
 ヤマメは櫓から新たな糸を垂らし、するすると降り立ちました。
「さあ、こいつはお釈迦さんが地獄に落ちた罪人を救うために極楽から垂らしたという、由緒正しき蜘蛛の糸だ。見ての通りの頑丈で、鬼が引っ張ったって千切れない。誰かこの中に、こいつの強さを試してみたい剛の者はいるかい?」
 ヤマメがお客様たちに呼びかけましても、みんな尻込みいたします。そんな中、一人の男が意を決したように手を挙げました。
「じゃ、じゃあ俺が」
 舞台に上がってきた男はそれなりに腕自慢のようで、筋骨も他の人間に比べたら大したものでした。ヤマメはにんまり笑って男に蜘蛛の糸を差し出します。
「よし。では糸の片端を持って、押すなり引くなりやってみな」
 男は糸を渡されながら舞台の片隅に置かれたものに目を止めて、ぎょっとなりました。一丈四方ほどの水槽です。中には毒々しい赤い色をした水が溜まっております。男はひとまず自分に関係ないことだと思い直して、糸をしっかり握りしめました。
 ですが鬼が引いても切れないという触れ込みは、伊達ではありません。男が腕に青筋立てて引っ張ったって、糸は軋みすらも上げないのです。
「本当に切れねえ……って、あれれ」
 糸にだいぶん気を取られていたのでしょう。男の体にはいつの間にやら、糸の残りが巻きついておりました。慌てて解こうとしたものの、ヤマメが糸の片端を引くだけで糸は男の体をがんじがらめに縛りつけてしまいました。
 男が面食らっている隙に、ヤマメは再び櫓の上によじ登りました。
「男一人をぶら下げたって、これこの通り」
 ヤマメが糸をぐいっと引っ張ると、男はなすすべもなく櫓のほうへ引っ張られていきます。こう見えてなかなかの怪力なのです。
「ちょ、やめ」
 あえなく男は櫓の欄干からぶら下げられてしまいました。そこへペットたちの手によって運び込まれたのが、例のプールです。どういう理屈か、泡立っております。
 それが、男の真下に運び込まれました。簡易血の池です。
 男はもがきますが、そこは頑丈な糸ですので。
「ちょ、冗談だろ!?」
「お前が腐った罪人なら冗談ではなくなるよ。ちょいとでもほかの人間にいいとこ見せようって色気でもあったんじゃあないのかい?」
「そ、そんなわけあるか」
「ちなみにそのプールに入ってるのは、血の池地獄跡から汲んできた本物だから」
「うええ!?」
 糸ががずり下がります。毒々しい赤色と鉄の匂いが、男の鼻先にまで迫りました。
 そこでヤマメは正面を向きまして。
「さて、次の出し物行ってみようか」
「ちょっと、こっちは!?」

 §

 離れがどんちゃん騒ぎに湧いているのと同じころ、私はといえば地霊殿の中庭で、とある妖怪と顔を合わせているところでした。
「はい、これが今回の通行記録よ」
 水橋パルスィがそう言って差し出したのは、一冊の帳簿でした。風穴と旧地獄を隔てる橋、その通行記録です。三途の支流ともされる川は広くて流れも急で、普通の人間ならばパルスィが番人を務める橋を渡ってくる以外にありません。
 私はその帳簿と、地霊殿の来客リストを軽く読み合わせました。
「今回も欠員なしのようでなによりです……偽装なんかしてないって? こちらでも人数確認はしておりますから、余計な猜疑など抱く必要もありませんわ」
 しかしながらパルスィは、不機嫌を隠すそぶりすらありませんでした。
「実際、何人か『食べて』も問題はないと思うけどねぇ。生きてる喜びを実感できるわ」
「彼らが生きて恐怖を地上に持ち帰ってこそ、この観光業を続ける意味があります」
 私はすげなく返して、書類を畳みました。テーブルの上には、ティーセットが三つ。一人は私の、もう一人は当然こいしのぶんでした。パルスィは立ったままです。
「故に特別給金を配り、お客様に危害を加えないよう申し含めてあるのです。あなたといいほかの連中といい、隙あらば自分の巣に引っ張り込んでしまおうという魂胆が見え見えですが」
「まあね、稼ぎに見合う仕事はするわよ。気に食わない客がいたら連れ去っても良いって条件も加味した上でね」
 と、そこで離れの中からヤマメが現れました。頬を最大限に緩めた顔をしております。
「いやー、今日もたんまりと脅かした」
「感染者は出てませんか?」
「いないと思うよ、多分。自殺志願とかでもなきゃ、そうそうかかるもんでもなし」
 今のところお客様がたは、それなりに精神力は強めのかたばかりのようです。あんまり弱いとヤマメがばらまく瘴気で病に伏せってしまいますので。
「では公演が終わって早々で恐縮なのですが、キスメから搬送名簿を受け取ってきていただけますか? 直接行ったら引きこもられましたので」
「ん? ああ、その心配なら今日は無用のようだ」
 ヤマメが岩天井を見上げ、手をかざしております。
「あら、自分から来たんですね」
 私も顔を上げますと、旧都の向こう側から小さな影が飛んでくるところでした。それは長い長い縄にぶら下がった、古ぼけた木桶でした。縄の先がどうなっているかは、誰も知りません。
 そいつは振り子みたく速さを増して近づいてくると、私たちの上をビュンと通り過ぎました。
 それからしばらくして、一枚の紙切れがひらひら舞い落ちてくるのが見えました。私はそれを地面に着く前に行って取り上げます。
「……別にとって食ったりはしませんよ?」
 桶は地霊殿の屋根に降り立ちました。そこからゆっくりと、お下げ髪の娘が顔を出します。あれがキスメ……釣瓶落としのキスメです。地底への案内役を委託しております。
「たまにはお茶でも飲んでいってはどうですか? お菓子もありますわ」
 遠くからでもよく見える程度に体を震わせました。桶ごと。
「……いらない!」
 それだけ言うと、再び飛び去ってしまいました。遠回りに帰るつもりなのでしょうか。
「清々しいほどの嫌いっぷりですね」
 キスメの軌跡を見守る私の肩に、ヤマメの手が乗りました。
「あんたにゃ近づきたがらない妖怪のほうが、ずっと多いんだ。あの子を責めてくれるな」
「ま、いいですけどね。慣れてますし」
 私はキスメの行方を追います。ああもう、こいしったらなにをしているのかしら。
「……あとで包みますから、あの子に持っていってあげてくれませんか」
「よかろう」

 §

 ところ変わりまして、地上です。頃合いは宵の口といったところでしょうか。忌まわしき太陽が沈み、地底と同じ闇が空を支配する時間帯です。
「……というわけで、お姉ちゃんは目下うちを訪れる人間どもの対応でてんやわんやになってて、私に全然構ってくれないの」
「それを私に愚痴って、何になる」
 どこぞの民家の屋根上に、お行儀悪く座り込む二人の妖怪がおります。一人はこいしでした。性懲りも無く、地上に出ていたのですね。もう一人があの子の友だち……というよりこいしが一方的に絡んでるだけの面霊気、秦こころさんでありました。まだるっこしいので以後敬称は省かせていただきます。
 頭に鬼の面を被って、無表情のままでした。
「地獄旅行がブームになるなんて、世の中何があるかわかんないものよねえ。地獄観光なんて死んだあとに思う存分楽しめばいいのに」
「しょーもない愚痴に付き合わされてる私は、現在進行形で地獄を味わっているわけだが」
 しかしこいしも、まるでこころの話を聞いておりません。
「お姉ちゃんには、全力で私を楽しませる義務があるわ。いつも家の中に引きこもっているんだもの。それくらいするのは当然だと思わない?」
 こころは大飛出の面を頭にかぶって、こいしを見つめます。
「お前は、姉を奪った人間たちに嫉妬でもしているのか」
「あら、パルスィに悪さでもされたのかしら」
 珍しく反応がありましたね。こころは身を乗り出して言葉を続けます。
「姉の興味を引きたいのであれば、地上をふらつくのを早々に切り上げて家族のところへ戻ることだな。明確な血縁というものを持たん私から言わせれば、血の繋がりとは相当に特別なものに見える。大事にできるものならば」
「ねえ、あの子いったい何をしてるのかしらね」
「ちったぁ人の話を聞きやがれ……」
 一瞬だけ、こころの面が鬼に切り替わりました。つられてこいしが指差す方向を見てみます。すると、提灯がこちらに向けて歩いてくるのが見えました。二人連れです。提灯を持っているのは若い男ですね。着流しに巻いた帯や羽織などに、さり気なくいい生地を使っております。それに腕を巻き付かせて歩いているのは、人参色の髪の毛を持つ娘でした。
 こころの面が猿に代わります。
「何の変哲も無い人間の番いではないか。あれが……」
 と、振り返ってみるとこいしの姿はもはやどこにもありません。あの子ったら、地上の妖怪相手でも似たような感じなのですね。
 こころの面が女に切り替わりまして、肩をすくめて夜空を見上げました。
「行ったか。いつも身勝手なやつだ」
 こころはしばしそうしておりましたが、やがて改めて眼下を通り過ぎる二人連れに目をやりました。彼女が注意を向けたのは、なれなれしくしている女のほうです。
「どっかで見覚えがあるね。あれは……人間に扮してはいるが、いつぞや騒動を起こした疫病神ではなかったか。あたらしいカモを見つけたということだな。あの男も災難よ」
 ひとりごちながら、通り過ぎるのをただ眺めていました。疫病神の「仕事」に邪魔を入れようなど、野暮もいいところ。隙があった男にも自業自得なところがあるかもしれませんね。
 ……ただ、つい先程まで話していたやつのほうは、そうじゃないようです。
「あいつも新しい玩具を見つけたか。楽しそうでなによりなことだ」

 §

 場所は代わりまして、幻想風穴です。ここは地上と旧地獄をつなぐ、今のところ唯一の通り道でした。キスメやヤマメはこの暗い竪穴の途中に居を構えておりました。不用意に地上から落ちてくる者を仕留める役回りもございます。
 ヤマメはその風穴を、巧みに糸を操ってするりするりと登っていきました。途中にある自分の家を通り過ぎて、さらにもう少し上にあるキスメの自宅へと向かいます。岩場の一つに少々粗末な木戸が取り付けられておりまして、たどたどしい字で「キスメ」と表札がありました。
 ヤマメは糸を手繰って岩場に降り立ちます。片手に袋を抱えて、木戸をコツコツやりました。
「キッシー、いるかい? 入っていいかな」
 ほどなくして、何かをゴロゴロ転がす音が木戸の奥から聞こえて参りました。閂が動く音がして、わずかに開いた扉からじっとりとした目が外の様子をうかがってきます。
「どうぞ」
 ようやくしっかり扉が開きました。ヤマメは手にした包み紙を、キスメに見せびらかします。
「さとりから日当と菓子をせしめてやったんだ。一緒に食べよう」
「準備するから、少し待ってて」
 キスメは桶の中に引っ込みますと、そのまま勢いをつけて桶を横に倒しました。そうして転がりながら家の奥へと向かいます。桶の外に出られないわけではないのですが、こうしていたほうがとても落ち着くのだとか。
 ヤマメは中に上がり込みますと、茶の間にこしかけて家の様子を見回しました。風穴の途中にできた横穴をそのまま住処とした、狭い狭い茶の間です。むき出しの岩肌をどうにか整え、そこに畳を敷いて暮らしています。しかし畳はだいぶんささくれ立っており、畳床がむき出しになっているところまであります。桶に入ったままの行き来を繰り返してるせいでしょうか。
 ふっと息を吐き出しまして、今度は茶の間の奥に目をやりました。小さな文机が一つ置いてある程度の、簡単な書斎です。机にはさらにぼろぼろの板が立てかけてあり、そこには一枚の紙が画鋲で留めてありました。
 色はかなりあせておりますが、傍らにあるいちばん大きな見出しは辛うじて「文々。新聞」と読めました。その隣に、写真が載っているのもなんとかわかります。
 写真の中心にいるのは、キスメでした。井戸の中から身を乗り出し、歯をむき出したいびつな笑みを浮かべて、しゃれこうべをカメラに向けて投げつけているように見えます。
「記念写真もだいぶぼろくなってきたねぇ」
「やめて。恥ずかしいから」
 そこへ、キスメが一飛びに戻って参りました。手には鉄瓶と茶葉缶が乗った盆を一つ抱えております。ヤマメは身を乗り出し盆を支えました。鉄瓶が傾きそうになるところを、どうにかバランスをとって押さえます。
「天狗にさ。もっかいネガを探せないか、頼んでみようか? 写真だけでも焼き増ししてもらえりゃ、もう何年かは鑑賞できるんじゃないか」
「いいって。また新しいの撮ってもらえるように頑張るから」
「そいつもまた、いつになるやら……」
 ヤマメはそこで言葉を切ると、茶の湯を入れるキスメを見守ります。桶からいっぱいに身を乗り出して、時おり手を滑らせそうになっておりました。
「まあ、今こそ大チャンスじゃないか。どうだい、観光客の出迎えにはもう慣れた?」
 茶の湯をチョロチョロと注ぎ込む音が、狭い岩穴の中に響きました。
「舌噛みそう。人間の目もいっぱいあるから、まだ怖い」
「だが、みんなお前さんを見て怖がってくれるだろう?」
 キスメはしばらくの間、湯飲みに注いだ水面の高さを交互に眺めます。
「ちょっと、楽しい」
「だろ? いい機会だし、思う存分に顔を売っておきな。そしたら天狗もまた、新しい写真を撮ってくれるかもしれないよ。さとりから給金も出るし、こんな稼ぎ時はそうそうないさ」
 キスメはヤマメに湯飲みを差し出し、頷きました。
「そうだね。頑張る」

 §

 そんな妖怪たちの頑張りにも関わらず、私は珍しくも多忙を極めておりました。ペットたちには普段の仕事に加えて、お客様の世話もお願いしております。みんなは家事作業の延長と笑っておりますが、私も自室の書類作業ばかりというわけには参りませんでした。
 こういうときにこそこいしにも手伝ってもらいたいのですが、いつごろ戻って来ますやら。
「ずいぶん楽しそうですね?」
 歩く私の隣に、お燐が肩を並べます。私は胸元の第三の眼で、彼女を眺めました。死体の代わりに毛布やシーツを満載した猫車を押しております。
「さとり様のことだから忙しくなるのをすごい面倒臭がると思った、ですか?」
「いや、実際腰は重いじゃないですか。なのに今回に関してはえらいアクティブですよ?」
 そりゃあ普段の仕事が、取るに足らない怨霊のわがままを聞くことですから。今回のとは、わけが違います。
「地霊殿にこれほど来客があることなんて、後にも先にも今しかないだろうし。これは大いに張り切るべき機会だと思うわ。人間の恐怖を直食いできる機会なんて、滅多に訪れないもの」
「まあ、確かに。こいし様を探しに行く以外でも外出りゃいいんですよ」
 お燐の要求はさらっとスルーすることにいたしました。
「接待のリソースは存分にあるし、多少の不満は読めてしまうし、接客業って自分でも思った以上に天職なのかもしれないわ。この際綺麗な女将として来客に接して、存分に人間たちの心をのぞかせていただこうかしらね」
 お燐が私の顔を目を細めてにらみます。なんですか「大丈夫かなあ」って。
「まあ、ほどほどにお願いしますよ? 調子乗ってるときほど悪いことは起きやすいですから」
「そうそう悪いことなど、起こってたまるものですか」
 と、そこでリネン室にたどり着いたので、お燐とはお別れです。私は手に抱えた書類を書庫まで運びませんと。
 さて地霊殿といえば、広大な敷地に建てられた巨大な屋敷で有名です。書庫もそれに応じた広さがございます。私個人の蔵書に加えて、ペット初等教育用の児童書、動物飼育の指南書、ペット個人が持ち寄った私物の本などなど。しかし中身の大半は、日々のジャーナルで占められております。飼育記録、怨霊の状態の記録、庭園の育成記録……そうしたものの蓄積が地霊殿の運営を支えていると言っても過言ではありません。
 しかしその書庫はエントランスを挟んで自室の反対側となります。少し歩く羽目になるのは不便ですね。改装しようにも膨大な蔵書がありますので、その対応で二の足を踏んでおります。
 思えばもう少し、早めの決断をしていればよかったのです。
 エントランスから、何匹かの小ペットが逃げてくるのが見えました。私の第三の眼は、いやが応にも厄介ごとが巻き起こったことをわかってしまいます。
 歩調を早めてエントランスに向かいますと、そこは多くのペットがくつろぐ空間でした。今は違います。獣の輪ができていて、その中心に一人の人間、一人の獣がおります。
 人間のほうは、先日ペットを眺めていたお客様の一人ですね。それを血走った眼で威嚇しているのは、ここで飼ってる地獄タイガーの一頭。機嫌を悪くすると厄介なやつです。
「あなた、この子に何をしたのですか」
「な、何もしてない!」
 はい、何かした人の常套句ですね。肝試しに軽く触れましたか。彼は繊細だというのに。事前に説明もしているはずなのですが。
 そうとう、やばい状態です。言いつけを守らなかったならたとえお客様でも自業自得ですが。血を流してるのが、少々厄介です。人間の血を覚えたタイガーが、彼を食い殺したあとも理性を保っていられますかどうか。
 そして困ったことが、もう一つ。助けを呼んでいる暇が、まるでありません。
 タイガーが、咆哮一つあげました。私はもう、書類を放り出して走り出していました。
 お客様に向けて飛びかかったタイガーの前に、私は飛び出しました。

 §

 場面は再び、宵の人里です。
 人通りのなくなった路地に、誰かが駆け込んで参りました。こいしとこころが屋根の上から見ていた、あの娘ですね。
「くそっ、あの女め……どこ行きやがった。この俺の懐を狙おうなんて」
 ひどい剣幕の男の声が表通りから聞こえて、そして通り過ぎていきました。女は手で口を押さえて、剃刀みたいな目をして声が遠ざかるのを待ち構えます。
 女は息と一緒に大きな舌打ちを吐き出しました。リボンを取り出し髪を左右にまとめますと、髪の毛がひとりでに螺旋を描きます。
「ったく、どういうつもりよ」
「どうもこうも」
 すぐさま女の指に、ギラギラ光る指輪が現れました。その指で拳を作ると、隣に現れた影に向けて打ち放ちます。パチンと風音が鳴りました。
 当たれば痛いであろう指輪つきの拳が、こいしの髪をかすめました。
「危ないなあ」
「私から言わせれば、あんたのほうがよっぽどだわ」
 こいしが千鳥のような足運びで、女から離れます。その隙に女こと依神女苑は、どこからともなく取り出したケバケバしい紫色のコートを両肩に羽織るのでした。
 拳をもう一方の手のひらに押し付け、こいしをにらみます。
「あんた、なんてことしてくれんの。せっかく見つけたあのどら息子、近づくまでが大変だったのよ? それを一瞬でふいにしてくれちゃって」
「んー、あなたを見ていたら、一つ思い出したことがあってねえ。ほら、この前の異変。私、あなたたちにこっぴどくやられたじゃない?」
 仔細は省きますが、女苑はとある異変の首謀者でした。伝聞の伝聞によると博麗の巫女にやられるまでは、まるで負けなしだったそうです。
「結局退治されたし、騒ぎを起こした精算も終わってる。仕返しをされるいわれはないわ」
「それはあなたたち内輪にとっては、終わったというだけの話。だけど巻き添えを食らったほうにとっては、そうじゃないんじゃないかしら?」
 女苑の頭に、シルクハットとサングラスが飛び乗りました。
「どうあっても、やろうというのね? 返り討ちにしてやるわ」
 言うや身をかがめて、電光を追い越す速さでこいしの眼前に詰め寄りました。一発二発と殴りつけますが、こいしは風に流される花のような動きでそれらをあしらってしまいます。
「ふふふ、慌てないほうがいいわ。あなた一人だと全然弱そうだし」
「言ったな、テメエ!」
 青筋立てて女苑が投げつけたのは、いずこかから現れたハンドバックでした。こいしはそれをも、難なくかわします。
「それに、こんな人里の中で騒ぎを起こすのは、あなたにとってもまずいんじゃない? ほら」
 と、こいしは女苑に人差し指を向けました。びくりと震えて、後ろを見ます。
 女苑の背後には、人気のない路地が続くばかりでした。
「ちょっと、びっくりさすんじゃないわよ」
 前を向き直ります。しかしそこにはもう、こいしの姿がありませんでした。目を見開き上下左右をこいしを探しますが、気配すら見つけることもかないません。
「忍者か、あの女……ふざけたやつだわ」
 女苑は歩き出しました。じっとしていたら、どら息子に見つからないとも限りませんしね。小さな声で、こいしに対する呪いの言葉を並べ立てます。
「あいつどう仕返ししてくれようかしら。無視する……いやいや、これからもちょっかい出され続けたら疫病神の商売上がったりだわ。なんとしても黙らせなくちゃ。あいつなんと言ったかしら。憑依異変のときは白黒魔法使いとコンビを組んでた……古明地こいし、だっけ? 古明地……どっかで聞いたことがあるわね」
 ドリルみたいなお下げ髪を、指でもてあそびます。
「思い出したわ……古明地観光。あのふざけたツアーの関係者か。地底といや厄介な妖怪ばかりで有名なとこよね。私一応神だし妖怪同士の取り決めとかどうでもいいけどー」
 はた、と女苑の足取りが一瞬だけ止まります。
「そうだ、地底だよ……金持ちで有名な場所じゃないよ。あいつら金稼ぎなんかする必要ないくせに、なんで観光業なんかに手を出したんだよ……」
 まあ、こちらにも止むに止まれぬ事情ってものがございまして。
「連中からなら、いくらむしってやっても誰も困らなさそうね。よーし、次の標的は地底妖怪だ! まずは連中にどこまでつけ入る隙があるか、きちんと調べないと」
 足を早めた女苑が、路地の暗闇に消えて行きました。

 §

 さて、地霊殿に戻りましょう。
 薄暗い我が館の廊下に、一人の娘がおりました。くせの多い髪の毛、フレームが太い眼鏡、チェック柄のベストとスカートがどことなくこなれていない感じの娘です。その場で前後左右をしきりに見回しております。
「どこかしら、ここ。なんとなく見覚えがあるなー……地霊殿、だっけ?」
 お察しのかたは多いでしょうが、娘の名は宇佐見菫子。眠っているときだけ幻想郷にやって来てしまう、奇特な病気を持った外来人です。そして我が旅館の「監修者」でもあります。
「レイムッチには立ち寄るなって言われてんだけどなー……出てくる場所は選べないからなあ」
 菫子はそそくさと出口を目指します。とはいえ地霊殿は母屋だけでも広大ですし、ペットも数多くおりますから、誰にも見つからず抜け出すのはかなりの難易度でしょうね。
 さらに言えば、今の地霊殿には面倒な連中も巣食っておりました。怨霊じゃないですよ。
 そいつは不意に菫子の前へ、重苦しい音を立てて立ちはだかりました。
「なんだぁ、お前。人間かぁ?」
 菫子はそいつを見上げて立ち尽くします。頭三つほど抜け出た体格。頭から伸びる一対の角。どこから見ても鬼にしか見えませんし、実際その通りでした。
「ふん。お前はなんだ、旅館の客か? 今は見学の時間から外れてると聞いたぞ」
「旅館? ああ、本当に始めちゃったんだ……」
 口の片一方を吊り上げながら、鬼が菫子に詰め寄ります。思わず後ずさりです。
「命が惜しかったら今のうちに逃げ帰れよ、人間。この館はなぁ……」
「私の館ですよ」
 と、そこで私の登場です。背後に菫子をかばって、鬼の前に立ちふさがりました。
「そしてこの方は私のお客さまです。みだりな示威行動はお控えくださいませ」
 鬼はしばらく、私の姿を見下ろしておりました。ふん、と一つ鼻息を鳴らします。
 それだけでした。鬼は踵を返し、立ち去っていきました。
 ……何考えてんでしょうね、あれ。
「どうしちゃったの、その怪我」
 菫子が、私の顔を覗き見ておりました。はい、今の私は怪我をしております。顔の右半分に包帯を巻き、左足を松葉杖で支えるという体たらく。しかもサトリ妖怪いちばんの武器、第三の眼まで包帯がぐるぐる巻きになっております。
「元気な子がいて、ちょいとしくじりました。ひとまず私の部屋までどうぞ。しばらくは戻れないのでしょう?」
 私は菫子を連れて、自分の部屋へ向かいました。その間、多くの鬼とすれ違います。通路に座り込んで酒盛りをする者、館の隅々を採寸している者、場所によっては敷布を壁や床に張り巡らせて勝手に館の補修をしている者までおります。もちろん、一切依頼などしておりません。
 道すがら、菫子が私に尋ねました。
「なんなの、あれ」
「私が死にそうにしてるのを嗅ぎつけて、館を乗っ取ろうとお考えの連中ですわ」
「乗っ取り……? 穏やかじゃないわね」
「まったくです。どこから話が漏れたのやら」
 普段はろくに近づきもしないくせに、こういうときばかり敏感なやつらです。ちなみに地獄タイガーは運良く我に返り、現在は飼い主に怪我をさせたショックで自主謹慎しております。
 菫子は私の第三の眼にも視線をやりました。
「まさかそれ、使えないの」
「読めないことはないんですが、ノイズがひどくてまるで使いものにならないんですよ。ほっといてもこういう怪我はすぐ治るんですが、今回に限っては遅々としたもので」
 第三の眼はサトリ妖怪にとって、心臓なみに重要な器官です。心が読めないとなれば、サトリ妖怪としての強みは九割九分失われたようなもの。怪我の治りが遅くなるわけです。
 もっとも、こいしみたいな例外もおりますが。あの子ったら、まだ帰ってこないのかしら。
 そんな話をしているうちに、私の部屋へとたどり着きました。さすがに、ここまで鬼が踏み入って来ることはありません。
「お茶を入れますね。目が覚めるまで、ゆっくりしてお行きなさい」
「どうも」
 私が準備を進める間、菫子は所在なく部屋を見回しておりました。机の上に散らかしてあったお客さまの台帳にも目をやります。
「噂には聞いていたけど、まさか本当に旅館を始めるなんてねえ」
「あなたが最初にこちらを訪れたあと、ほどなくして。こいし、お客さまですよ。いるならきちんとあいさつなさい? スマホ泥棒の件も、きちんと謝っていないのですから」
 三人分のティーセットを、ワゴンに乗せて戻ります。菫子は私に少し引きつった顔を見せておりました。
「こいしちゃん、帰ってきてるの?」
「その反応いささか不満ですね。十回に一度くらいは本当にいますよ」
 幸い、両手は使えますので菫子に紅茶を淹れることはできました。ティーカップを三つ、テーブルに並べます。途中で帰ってくることも、たまにはありますもので。
「この前菫子さんに見せていただいたイメージをもとに、旅館の建屋を鬼に造ってもらいました。いい具合に真似できたと思うのですが。あとで案内してあげますね」
「いや、私も修学旅行で行った程度よ? うろ覚えもいいところだし……そもそも、よくお客さんがここまで来るようになったね?」
「そこら辺を読むのは、私にも難しいところでした。話せば長くなるのですが……」
 いささか急いた感じのノックが聞こえたのは、そのときでした。残念ながらこのお行儀の良さはこいしのものではないようです。
「お入りなさい」
 勢いよく、扉が開かれます。顔を出したのは、家事担当ペットが二人ほど。
「失礼いたしますさとり様、トラブルです!」
 聞くや私は、立ち上がりました。せっかく淹れたての紅茶が台無しです。
「あら、大変。仔細は? 今は心が読めないから、できる限り事細かにお願いね」
「鬼どもと掃除担当が小競り合いを。お燐さんに出てもらっていますが、かなりまずいです」
 ついに始まってしまったようです。連中の傍若無人を踏まえれば、時間の問題でした。
 足を引きずる私に、菫子が声をかけました。
「鬼と戦いになるのかしら?」
「そうならないことを期待していますが……難しいでしょうね」
 こういうときこそこいしにことを収めてもらいたいのですが、戻ってきておりません。私はペットたちの助けも借りて、喧騒の場に急ぎました。なにやら菫子も着いてきています。
 エントランスでは鬼の一人と、ペットたちが向かい合っておりました。お燐が先頭に立って、鬼の相手をしております。
「調子に乗るんじゃねえぞ、畜生どもめ!」
「聞き捨てならないねぇ、お兄さん。うちの子たちはさとり様のために、ここいらを綺麗見事に掃除して差し上げるのがお勤めなんだ。用心棒だなんだと口実をつけて勝手に居座るやつは、邪魔者扱いされても仕方がないんだよ?」
 お燐もだいぶんとばしております。先に手を上げたとなれば、追い出す口実には十分でした。
 ところが対する鬼のほうも、煽る知性くらいはおありのようです。
「だったら、ここいらの犬猫どもを追い払えばいい。獣臭いのが何匹か減りゃあ、掃除の必要なぞなくなるだろうよ」
「できるわけなかろう。さとり様の心を慰めるのも仕事のうちさ」
「さっきからさとり様さとり様と、うるせえ女だ。心を読めねえ木偶の坊のサトリ妖怪なぞに、義理立てをしてなんになる?」
「あたいらの忠誠がその程度のことで揺らぐもんかい。この……」
「そこまでです、お燐」
 そこでようやく、私は二人の間に割り込むことができました。
「無駄にことを構えてはなりません。怪我などしたらどうするのですか」
「ですが、さとり様」
「野蛮な鬼に館を蹂躙されるより、あなたを失うほうが館にとってはより大きな損失です。いいからここは矛先を収めなさい。これとは私が話をつけますから」
 シャツを威勢良く引っ張り上げられました。あっという間に地面から足が離れます。お燐が目を剥いて使い魔たちを呼び出すのが見えましたが、すぐに後ろを向かされてしまいました。鬼の赤黒い顔が私を見上げております。
「野蛮呼ばわりするわモノ呼ばわりするわ、ずいぶんとごあいさつだな古明地さんよ」
「あら、手をお出しになる? 私を殺したら何が起こるのか、北の区長様からお聞きになっていらっしゃらないのかしら」
 ひとえに鬼と申しましても、地獄獄吏あがりの荒くれ者、地上でさんざ暴虐を働いたならず者などの集団です。一枚岩というわけではありません。鬼の四天王(今は勇儀を除く全ての鬼が出払っておりますが)を頂点に置くものの、その下には旧都の東西南北の街区ごとに顔役の区長がおり、それぞれが多くの鬼を従えて絶えず派閥争いを繰り広げております。勇儀もそれらにいちいち手出しをせず、争うに任せるというありさまでした。
「聞かないでか。無論知ってるとも、大戦争よ。そして地底の覇権は俺たちがいただく」
「残念ながら、あなたは話半分にしか聞いていないようですねぇ」
「なんだと?」
 私はこの無知蒙昧なる鬼に指を立てて説明して差し上げました。
「地霊殿の主人が死ねば、後釜を巡って地底の派閥抗争が始まる。そこまでは確かに正しい。しかし、それは普段の殴り合いごときでは収まりません。起こるのは、本物の殺し合いですわ。あなたが私を殺せば、その口火を切ることになる。その覚悟はおありでして?」
 なになに、やくざの抗争? みたいな声が聞こえましたが、無視することにいたしまして。
「面白ぇじゃねえか。こちとらいい加減退屈してたんだ。毎日毎日両隣の街区とにらみ合いの繰り返しをしなくて済むとなりゃ、せいせいするぜ」
「左様でございますか。でも、その大喧嘩にあなたが加わることは恐らく永久にありません」
「なにを?」
 私は背中に確かな熱を感じ取りました。
「私を殺せば、少なくともあなただけは完膚なきまで焼き尽くすからです。私のペットたちが」
 鬼が口をひきつらせるのが見えました。彼の向きならよく見えているでしょうね? お空が人差し指を天に突き上げ、圧倒的な八咫烏さまの力、核融合の炎を生み出す様子が。
 鬼の額に浮いた汗は、熱のせいだけではありますまい。
「役立たずになった主人の仇を、やつらが討つってのかよ」
「その程度のことで恩を忘れる、薄情者を飼った覚えはございませんよ」
「なら試してやろうか、ええ?」
 肋骨が軋みを上げました。きやつときたら、私を開いた方の手で鷲掴みにしたのです。お燐のゾンビフェアリーたちが身構える音が聞こえましたが、視線をやって黙らせます……そこ、スマホで写真を撮ろうとするのを止めなさい。
「だいたい心が読めるというだけで、こんなお屋敷で踏ん反り返っていられるのが前々っから気に入らなかったんだ。それがお前、今はただの弱々しい餓鬼でしかねえときた。なんで誰もやっちまわねえんだ。簡単なことじゃねえか」
「そのあとに起こる恐ろしいことを、誰もが避けているおかげですわ。さあ、試すといったのは口だけですか? だとしたら、とんだ腰抜けですね。おまけに、嘘つきでもある」
 鬼の顔に真っ赤な筋が、次々浮かび上がりました。お燐、よく見ておきなさいね。鬼を挑発するときに一番きくのはやはりこれです。
「貴様、俺を嘘つき呼ばわりするか。ならばやってやる。てめぇを怨霊どもの列に並べてやる」
 鬼が今にも私を叩き壊さんと、片方の腕を振り上げます。動きを封じられた私は、その様子を笑顔で見上げていることしかできませんでした。骨がミシミシ言っております。怪我がひどくなったらどうしてくれましょうか。
「死ねえええええぃ!」
 怒りに膨張した拳が、私の顔にゆっくりと近づいてまいりました。ああ、どうやら私もこの世からおさらばするようです。この非常時にこいしったら、どこでなにやってるんでしょう?
 鬼の拳はいよいよ私の目の前に迫ってきて、ついにその動きは完全に止まって見えるほどのスローモーションになりました。
 いや、よく見ると実際止まっております。少し首を傾げてみると、鬼も大きく目を見開いていました。腕をどんなに震わせても、動かないのです。
 鬼の腕は、新たに現れた手が掴みとってありました。鬼が汗を流して、そちらを見ます。
「ほ、星熊の」
「よくぞ振り下ろした……と言いたいところだが、区長は少々しつけが足らんようだ」
 勇儀は軽々と鬼の腕を後ろに引き寄せます。自身よりも頭二つほど大柄な鬼の腕をです。おのずと後ろ手にさせられることになりました。私を握ったほうがゆるみ、私はようやく床へと下されたのでした。
「少し頭を冷やすがいい」
 私から見えたのは大口を開けた鬼の顔と足、そして重いものが床に落ちる轟音だけでした。ペットたちに助け起こされ見てみると、鬼はもはや勇儀によって、うつ伏せに組み伏せられているという具合になっていました。
 勇儀は鬼の腕を掴んだまま、私に笑顔を向けます。
「嘘つきの汚名を着せることだけは、感心しないねぇ」
「やりづらそうにしていたものですから」
「ともあれこいつらも、それぞれの上役の言いつけでこの場にいる。あまりいじめてやるな」
「かく言うあなたは、どうなのです」
 勇儀は笑い顔のまま、なにも語ろうとしませんでした。
「まあ、よしとしましょう。しかし」
 ペットたちの支えから、離れました。
「こちらもペットを愚弄されたままでは面目が立ちません。名誉回復の決闘を申し入れます」
 ペットたちがざわめきました。前に出ようとするお燐を、手を伸ばして遮ります。
 その様子を見て、勇儀などは鼻で笑っているのでした。
「半死半生のお前が、こいつら相手に弾幕ごっこか?」
「いいえ。決闘方法はこちらで選ばせていただきます」
 組み伏せられた鬼が、歯を食いしばりながら顔を上げました。
「ふざけんな。決闘を仕掛けた側がやり方を選ぶなんて、そんな理屈が通るか」
「その理屈を、これから通すのです。せっかくですから、東西南の代表者もここへお呼びください。各区長に代わり、まとめてしつけて差し上げましょう」
 ペットたちのどよめきが大きくなります。勇儀が私に尋ねました。
「なかなか、大きく出たねえ。いったい何をしつけるつもりなのさ?」
「この脆弱なサトリ妖怪が、何ゆえに地霊殿の主人に居座っていられるか、その理由をです」
 それから、菫子にも声をかけます。私たちが争ってる間、ずっとスマホをカシャカシャやっておりました。あれで写真機にもなるそうで、外の世界は便利になったものです。
「あなたも観戦していかれますか?」
「あー……申し訳ないけどそろそろ授業終わりそうなんで」
 見ると、菫子の後ろが透けておりました。外の菫子がもうすぐ目覚めるようです。
「あら、残念。でもサボりはいけませんね」
「そういえば一つ、思い出したことがあって……」
 半透明の霊体みたくなった菫子が、天を見上げます。
「なんです、それ」
「やー、ちょっとモノが手元にないんで。運がよかったらあとでお話ししますわー」
 とか言っているうちに、菫子の姿は完全に見えなくなってしまいました。次はいつの訪問になるのか、それは菫子自身にすらわからないそうです。
「慌ただしい来客だったわ」
「さとり様、一体なにで鬼と勝負なさるつもりなんです?」
 お燐が私に聞いてきます。私は一思案して、彼女に言いました。
「あなたにも少し手伝ってもらう対戦方式ですよ。お客様にも観戦してもらいましょう。希望者を連れておいでなさい」

 §

 同じころ、地上の人里に場面は移り変わります。
 下町の片隅に、小さなお店がありました。店先の看板は鈴奈庵と読めます。庵の文字が少々右に傾いておりましたが。
 中は四方の壁が本棚で埋め尽くされております。奥まったところに小さなカウンターがあり、店番の本居小鈴がかたわらに蓄音機の音楽を鳴らしながら、本のページをめくっていました。
 そこで暖簾が揺れて、一人の女が入ってまいります。
「ごめん下さいな」
「はいはい、なんでしょう?」
 小鈴は仕事柄でしょうか、来客の姿を上から下までさっと見渡しました。枯れ草色の着物を着て、長い髪を後ろで一つに縛った、垢抜けない感じの女でした。
「あの、ここでは妖怪の本を扱ってるって聞いたんですけどー、地底の妖怪について詳しい本とかありますかー?」
「うーん、地底ですか。こと幻想郷の地底に限った話なら『幻想郷縁起』がいちばん詳しいと思います。お探ししましょうか?」
「よろしくお願いします」
 鈴奈庵は貸本屋です。本は人里の住民にとっては、まだまだ贅沢な品物であるようでした。そうした人たちに本を貸すのがこのお店の仕事でありました。
 しかし鈴奈庵は最近になって、私たちが書いた本、すなわち妖魔本を取り扱う店としても徐々に認知されるようになってきました。妖魔本の多くは私たちの言葉で書かれているため、現代の人間に読むことはできません。そんな人間の貸本屋であるところの鈴奈庵が妖魔本を扱えるのには、小鈴のとある能力が関係しておりました。
 本棚を漁るかたわら、待ち構える女に小鈴は尋ねます。
「地底の妖怪に興味がおありなんですか?」
「あ、ほら、最近噂になってるじゃないですか。生きながらにして地獄めぐりができるツアーがあるって。それで興味が出て来ちゃって」
「なるほど」
 小鈴の耳にも届く程度には、地底旅行の噂は人里に広がっておりました。人里の外れにいる怪しげな販売所で、地底行きのチケットを買うことができる、とも。
 ちなみに値段は子供の小遣いで買えるものから、高級料亭に芸者を呼んで数日豪遊してもまだ足りぬものまでございます。あんまり安いものは自殺志願でもない限り、買わないほうがよいと申し伝えることにしておりますが。
「はい、こちら幻想郷縁起になります」
「ありがとう。ここで読ませていただいてもよろしいですか」
 幻想郷縁起は人里の名士である稗田家が編纂している、幻想郷の風土記のような本でした。幻想郷の危険な地域や妖怪などを、人間の言葉で説いたものとなっております。
 店の中には借りた本をその場で読めるように、ソファがあつらえてありました。女はそちらに座り、幻想郷縁起のページをめくります。
 小鈴もまたカウンターに戻って、本の続きを読み始めました。しかし紙面の先に、女の様子をちらちらうかがいながら。初めてのお客さまでしたし、妖怪に興味を示して鈴奈庵にやってくる者などまだまだ珍しいものでしたから。
「ちっ」
 音楽に紛れて、そんな鋭い舌打ちの音が聞こえたような気がしました。小鈴は心臓の跳ね上がるような思いをしまして、ページをめくりながら女の様子を見守ります。しかし女の表情は特に変わり映えなかったように見えたので、小鈴の気のせいかとも思えました。
 それからしばらくして、女が幻想郷縁起を手にカウンターへ近寄って参りました。
「あの、これで全部ですか」
「え、ええ、恐らくは」
 所在なさげに両の拳を握ります。女のいくぶん眉尻の下がった顔が見えました。
「なんというか……物足りないものですね。地底のことはほかの妖怪に比べると、書いてあることが少ないような気がして」
「そうかしら……?」
 小鈴が瞬きします。幻想郷縁起を読んだかたはほかにもいましたが、こんな言われかたをしたのはこのお客さまが初めてでした。
「だいぶ最近になって書かれたみたいですけど、誰が書いたものなんです?」
「ええ、これは当代の御阿礼乙女が書いたものですよ。多分幻想郷について、これ以上に詳しい本はなかなかないかと」
 説明を尽くして女の表情をうかがいますが、首を傾げるなどして依然さえない様子です。
「そうなんですか。まあ、人里でわかることなんて、この程度なのかなあ」
 と、女は幻想郷縁起の上に硬貨をいくらか置いて、小鈴に差し出します。
「あの、貸本代は結構ですよ? 大した時間じゃありませんでしたし」
「いいのよ。私、なあなあで金銭授受がおろそかになるのは嫌いな性分なの。ありがとうございました。地獄めぐりの件でまたわかることがあったら、教えて下さいな」
「はいはい」
 と、女は鈴奈庵をあとにしていきました。残された小鈴は返してもらった幻想郷縁起を見下ろして、しばらくの間カウンターに立ち尽くしていたのでした。
「物足りない、かあ……」

 §

 さて、鈴奈庵から出てきた女のほうに目を向けてみましょうか。そいつは店を出てからしばらく歩くと、人気のない物陰で髪を結い直しました。両脇で結んだ髪がくるくると螺旋を描きます……と、ここまで書けば正体については察しがつきますでしょうか?
「うーん。所詮は人間の収集した情報なんてあの程度よね。となると、直接に行って見聞するしかないのかしら。しかし……知らなかったわ。古明地こいしがサトリ妖怪だったなんて」
 女こと女苑がつい舌打ちを鳴らしてしまったのが、まさしくこいしと私の記述を読んだときでした。まあ、初見であの子をサトリ妖怪だとわかるほうが珍しいでしょうね。
 ご覧の通り女苑は人間のふりをして標的に近づき、富を奪うというのがいつものやり口です。普段の私が相手となれば、まあ、相手にもならないでしょうね。
「圧倒的に分が悪いわ……しかも対策が『近づかないこと』だって? それが簡単にできれば、誰もサトリ妖怪を怖がらないっての……」
 残念ながら、幻想郷縁起に書かれていたことはろくな内容ではありませんでした。地霊殿についても広大であること、ペットが大量に飼われていること程度の話しかありません。
「旅行客にまぎれたところで、心を読まれたらジ・エンドだわ。せめて、あいつがいれば……」
 そこまで言って、天を見上げます。しばらくすると眉をしかめて、頬を両手ではたきました。
「やめやめ。この場にいないやつのことをくよくよ考えてなんになる。私一人でやってやるんだ。安全な場所から地底の、地霊殿の富を巻き上げる方法、きっと見つけ出してやるわ」
 そうして女苑は、肩を怒らせ歩き出したのです。

 §

 さて、地霊殿に戻りましょうか。
 エントランスホールは、鬼たちとの対決の場となっておりました。ペットたちを退去させ、代わりにアメーバのごとく流動する怨霊の群れがホールを埋めております。私たちはその中心に座っておりました。それがまさに、私が提案した決闘方法だったのです。
「があああっ!」
 やみくもに、鬼の一人が立ち上がりました。腕を振り回してまとわりつく怨霊を払います。
「はい、西の代表アウトな」
 勇儀は暴れる鬼の肩を掴むと、そのままホールの端へと引きずっていきました。その様子にホールの片隅から大きなどよめきが聞こえました。
「また一人脱落したぞ」
「そんなに怨霊とは恐ろしいものなのか」
 そこには地霊殿の椅子を集めた、簡単な観客席が設けてありました。お客様がたが私たちの決闘を評して、話し合っております。お燐が観客席の前で、お客さまたちに言いました。
「この観客席から足を踏み出さんように気をつけな。あんたたちも怨霊に憑かれちまうからね」
「憑かれると、どうなるんです?」
「知らんのかい? 心を病む。妖怪だろうと人間だろうと、最悪死ぬよ」
 お客様たちのどよめきが大きくなります。
「さとりさんや鬼たちは、平気なのですか」
「あそこに集まってるのは東西南北、旧都各街区でも選りすぐりの猛者どもさ。だからああして、耐えていられるんだと思ってくれればいい」
「それじゃあ、さとりさんはいったい……」
 私はただ椅子を置かせていただき、怨霊のざれ言を聞き流しながらお茶の続きを楽しんでおりました。こいしも早く戻ってこないと、お茶の風味が落ちてしまいますよ。
「そりゃあ、うちの自慢の主人さね。でもって、怨霊以上のオバケだよ、あのかたは」
 ちょいと誇らしい気分になりますね。オバケ呼ばわりは納得がいきませんが。
 そうこうしてる間に南の代表が暴れ出しまして、勇儀に引きずっていかれます。東の代表はいの一番にリタイアしましたので、残る相手は北の代表、最初にペットといざこざを起こしたあいつとの一騎打ちとなりました。
「ビッグマウスに違わずここまで耐えきったことに関しては、評価させていただきますわ」
 北代表は私の言葉に笑いもしませんでした。タイルの上にあぐらをかき、赤ら顔をより赤くして、私の姿を睨みつけるばかりです。
「まったくふざけやがって……こんな勝負になんの意味があるってんだ」
「地霊殿の主人になるということは、同時にこれら怨霊たちを御する者になるということでもあります。この程度に耐えられないような者に、主人の座を譲るわけには参りませんね」
「うぬぬぬ」
 うふふ、言い返せますまい。彼らはそのために地霊殿へと集ったようなものですから。
「手前はなんで心も読めねえのに、平気にしてやがるんだ。イカサマでもしてんじゃねえのか」
「全くの同条件です。立会人も認めております。心が読めないからこそ、こいつらはいつも以上に積極的ですわ」
 北代表、間に立つ勇儀を見上げますが、無情に頷くばかりでした。
「お、おのれ」
 怨霊たちが、再三にわたりまとわりついて参ります。北代表はそれでも歯を食いしばり、怨霊たちの攻勢にたえておりました。
「こんな連中ごときにこの俺様が」
『そんなこと言わずに、こっち側へおいでよー』
『あんただって呪いたいやつの一人や二人、いるんじゃないのかーい?』
「ぐぬぬ、そんなわけがあるか」
 うっかり相手にしてしまいましたか。そろそろ限界かもしれませんね。
『そろそろ心が折れそうかなー? 俺、あんたに憑いちゃおうかなー』
「やれるもんなら、や、やってみやがれ」
『じゃあ遠慮なく』
 怨霊は、ぬるりと鬼の頭に潜り込みました。実体がないのでやりたい放題ですね。
「…………」
『おお。いい隙間を見つけたぞ。これは好きなだけ憑いていられそうだ』
「……………………」
『おい、ほかのやつも来てみろよ。一緒にこじ開けてやろうぜ』
「…………………………………………」
『そいつは面白い』『どれどれ』『私も憑きたーい』
「……うおおおおお!」
 駄目でした。半ば目の焦点を失いながら、腕を遮二無二振り回します。
「やめろお前ら、俺に憑こうとするんじゃねえええ!」
「はい、アウト」
 がつん、とホールに金属音が響き渡りました。
 北代表の脳天に、勇儀の踵と鉄下駄が鎮座しております。彼は口をへの字に曲げ、勇儀に目をやったあと前のめりに倒れ伏しました。
 勇儀は北代表の巨体を、肩に担ぎ上げます。
「さすがだな。この手の我慢比べでは、あんたの右に出るやつはいなさそうだ」
「その我慢比べのただ中で平然と審判役をしているかたが、何をおっしゃいますやら」
 勇儀は私の言葉に何も返さず、ただ静かな微笑みを浮かべるばかりでした。
「さあ、これにて決着。決闘はさとり様の勝利だ」
 お燐が誇らしげに、お客さまへと説いております。しかしながら、ただ今の決闘をご覧になってもお客様は眉を互い違いにして腕を組んでおりました。
「……ただ我慢強いだけなのでは?」
「いやまあ、それはそうなんだけど」
 お客さまたちが三々五々、ホールから出ていきます。
 うーん、これは少々決闘としてあまりに地味すぎましたか。よくよく考えたら地上の人間も、弾幕ごっこを目にすることくらいありますよね。心が読めないと、こういう機微を捉えにくくなってどうにもよくありません。
 包帯を巻いた第三の眼を見てみます。相変わらず頭に入ってくるのは、不快なサンドストームばかりでした。まだまだ、怪我を癒すほどの恐怖には足らぬようです。
 別のやりかたを、考えなければなりませんね。

 §

 幻想郷縁起を編纂している稗田家は、人里の中心部に位置する立派なお屋敷でした。
 小鈴も貸本屋として、幻想郷縁起の製本を行う印刷工として、稗田家と深い関係があります。
「地獄めぐりツアーの噂は私も聞いているわ。物好きが続々と地底に行ってるみたいね」
 九代目の「御阿礼乙女」稗田阿求は小鈴にそんなことを言いました。
「でも、どうして急に」
「生きてるうちに地獄を味わっておけば、いざ死んだときに地獄行きを言い渡されないように心がけられるって考えかしらね。私から言わせれば、今の地底は地獄じゃないのだけれど」
 旧地獄めぐりですので。
「それで、あなたのところに来たお客が地底の妖怪のことを知りたがっていたというわけね?」
「ほかの妖怪に比べると、幻想郷縁起の記述が物足りないとも言っていたわね」
 阿求は口をとがらせて、作業途中の筆を置きました。
「地底はねぇ、仕方がないのよ。人間が近づくには、あまりにも危険な場所だから。地上の妖怪だったら、直接聞き取りできないこともないのだけれど」
「聞き取れるんだ」
「自分から縁起に載せてくれって、やって来る妖怪もわりといるわ。でも地底の妖怪はそんなことないから、だいたい伝聞ね。記述が薄くなるのも当然だわ」
 と、阿求はため息をつきます。地底妖怪の記述の薄さは、彼女自身も自覚していたようです。その様子は阿求にとっても不満げであるように、小鈴には見て取れました。
 そこで小鈴は人差し指を立てて目を輝かせ、阿求を見ます。
「あ、でも。今回の地獄ブームに乗じて地底に行けば、幻想郷縁起を補完できるんじゃない?」
「魅力的な提案かもしれないけれど、やっぱり無理ね」
 素敵なアイデアに思えましたが、あっさり否定されてしまいました。
「あら、どうして」
「御阿礼乙女の立場があるもの。地底なんて危なっかしい場所においそれと足を踏み入れて、万が一幻想郷縁起の編纂に穴が空いたら向こう百年の歴史が失われかねないわ」
「それも、そうか。残念ね」
 縮こまる小鈴を前に、阿求は顔を歪めて笑います。
「でもまあ、ブームに乗じて地底に行ってきた観光客がいるのは事実だから。そういう人に話を聞けば、地底妖怪について詳しい情報を得るチャンスもあるかもしれないわ」
「なるほど……」
 小鈴は深く首を傾け、今後の増補を願うことにしました。
 しかし同時に、こうも考えます。今まで地底に行ってきた者の中に、妖怪たちをことつぶさに観察している者がどれだけいるのだろうかと。そうした人たちがどれだけ阿求に妖怪の仔細をきちんと説明できるのだろうかとも。

 §

 幻想風穴の入り口は、幻想郷の東の果て、博麗神社の裏手にありました。時おり風穴から吹き出す温泉は、神社の資源として有効活用されているようです。
 その入り口に現れたのは、先ほどの菫子です。手には封筒を抱えておりました。けっこうな厚さがありますね。風穴に近づきながら、しきりにあたりを見回しております。
 その場で腕を組んで立ちすくんでおりますと、風穴から一つの影が顔を出しました。
「止まれ。何の用だ。この時間にツアー客が来るなんて、聞いてないぞ」
 赤く錆びた鎌を両手に構えて、キスメが菫子を恫喝します。今にも噛みつきそうなキスメを前に菫子は目をぱちくりやって、人差し指を自分のこめかみに当てました。
「んー、あなたたしか釣瓶落としのキスメ、だっけ?」
 キスメが目を大きく見開いて、動きを止めます。
「……よく覚えてるな」
「釣瓶落としなんてトラディショナルな妖怪は、なかなか見そうで見ないからねぇ」
「と、とらで……?」
「それより、あなた地底住みよね? 地霊殿まで届け物を頼まれてほしいんだけど」
 とたんに顔をしかめます。
「この私を使いっ走りに使おうってのか」
「いやー、私が行こうにもこっちにいられる時間は限られてるし、レイムにはなるべく近寄るなって言われてるし。誰かに引き受けてもらえると嬉しいなって。大変なものじゃないから」
「まあ、あそこには報告に行かないといけないし。大したものじゃないというなら」
 菫子は安堵の微笑みを浮かべると、キスメに封筒を掲げて見せました。
「これ、この前地底に行ったときに撮りまくった写真なんだけど。プリントサービスって初めて使ったけど便利よねー……って、言ってもわかんないか」
 聞き慣れない片仮名言葉よりも前の聞き慣れた単語に、キスメの耳がぴくりとなりました。
「写真? 天狗とかが使ってるやつか」
「多分キスメちゃんが写ってるのも、どこかにあるわ。集合写真も出しといたし」
「気やすくちゃん付けするな」
 キスメの剣幕に構わず、菫子は封筒の中に入った紙束をめくり始めました。
「あった、これこれ」
 そして、封書の中から一枚を取り出します。キスメはその鮮やかなさまに、目を見張りました。天狗の新聞と比べるとずっと鮮明ですし、きちんと色までついています。
 それはかつて菫子が地霊殿に迷い込んだ際、たまたま居合わせた旧地獄の妖怪たちとともに写したものでした。一番端っこに、キスメの姿もちゃんとあります。
「……写ってる……」
「そりゃ写真ってそういうものだからねえ。見たことなかったのかしら」
「あ、あるに決まってる」
 顔を赤くするキスメの前に、封筒が差し出されます。
「じゃあ、確かに預けたから。地霊殿までよろしくお願いね」
 菫子は手を振って、いそいそと神社へ引き返していきました。相変わらず慌ただしいかたですね。そしてキスメの手元には、写真が入った封筒が残りました。
 ずっしりとくる封筒を、まじまじと眺めます。
 キスメは鎌を桶の中に収めると、封筒から改めて写真の束を取り出しました。
 一枚一枚、めくってみます。旧地獄の刑場、地霊殿の中、旧都の繁華街、私やこいし、お燐とお空、勇儀、パルスィ、ヤマメなどが個別に撮られた写真があります。
 キスメが写っているものは、最初に見た集合写真だけでした。
 それをしばらく眺めたあと、集合写真だけを写真の束から別にして懐に隠します。残りを封筒に戻して桶にしまい込み、風穴をするすると降りていきました。
 自宅の横穴を通り過ぎて、さらに下へ向かいます。やがてヤマメが張った蜘蛛の網が見えてきました。ちょうどヤマメが網の上で背を伸ばしています。キスメはそこへ降りていきました。
「おや、どうしたね? まだ客の来る時間じゃあないが」
 顔を上げるヤマメを前に、一度懐を握りしめました。
「あのね。相談したいことがあるの」

(「二 例えば地霊殿当主の面目を潰されたとして」に続く)
投稿したの、4年ぶりです。
次の投稿までは、ちったあ短くなると思います。
10日後くらいを目指して、頑張ります。

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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
とても良かったです
2.90名前が無い程度の能力削除
観光業を営む地底の皆さん面白い、ですが、さとり本人がいない所でもさとりが地の文を担当しているのは何故だろう
その場にいないから知らないことのはずなのに、さもその場にいるような謎
伝聞での回顧録か何かか?
次回以降も読めばわかるのかな
3.90サク_ウマ削除
面白かったです。続きも楽しみです。
4.90名前が無い程度の能力削除
さとり様が実にかっこよかったです。キスメも好きです。
7.100名前が無い程度の能力削除
さとりが鬼を挑発して勇義が止めに入るシーンが最高でした。