夜から夢が失われて千年が経った。他方で、昼からは現が奪われつつあった。この頃の私の意識の大半は、左の翼が存在しているのではないかという幻覚に支配されていた。もちろん、これらの出来事は誰にも話していない。夢も時間も左の翼も、すべて主観的な現象にすぎないからだ。
原因はきわめて明瞭だった。あえて私的な尺度を用いるが、千年前に私は紺珠の薬を服用したのだ。八意様は遥か昔に今回の襲撃を予期していた。その対策についても同様だった。私は彼女の代替として月の都を守らなければならなかった。
紺珠の薬について私はいくらかの知識を持ってはいたけれども、実際に経験してみるとそれらはすべて伝聞にすぎないのだと分かった。彼らの用いる表現は結局のところ表面的で、間接的な、とうに使い古された定型句の追従でしかなかった。本質的な感覚はまったく異なる。あらゆる判断の中枢に、私の代わりに八意様が座している――言うなれば一種の神降ろしに等しい感覚が、須臾の内に永遠の反復をもたらしていた。
そのため、私は言葉を尽くして待たなければならなかった。地上の人間たちが自らの力で月まで辿り着くのを。そして、あの神霊たちを打倒するのを。私は何度も彼女たちを試し、彼女たちに呪いを授けた。果てしない試行の中で、私はこれをある種の信仰の実践だと捉えはじめていた。
自らの手の及ばない事象の成功を待ちつづける行為は単なる博打だ。だが、その試行が無限に近づくとき、あるいは動機が神に結び付けられるとき、それは祈祷と呼ばれうる。とはいえ、私のしたことはいわば事務的なものであって、すなわち、命令系統が内在しているという点と、非常時の出来事であるという点を除けば、平生の執務と何ら変わりない行為だったのだが。
そうして、私は二重の巫女の役割を果たした。一方は、神託に対する純粋な祈祷に身を捧げた月の巫女として。他方は、異変を終わらせる存在である地上の巫女として。
問題は、後者には解決という区切りがあるが、前者には明確な最後が未だ示されていないということだった。
つまり、紺珠の薬の効果は継続していた。日常的に過ちを犯すほど私は自身の能力について無頓着なわけではないが、ふとしたときにあの反復が訪れる日々を過ごしていた。
だが、それも何度か経験すると、他の習慣と同じようにたやすく生活の一部となった。千年の内に、私は良くも悪くも反復に慣れきってしまった。失言は後悔するよりも先に撤回されたし、実を言うと理性を薬に預けて反射的な会話のスリルを楽しんでみたことすらあった。
ゆえに、私にとって主作用そのものは重大な問題ではなかった。それよりも薬による現実の反復が、他の反復を追い出しはじめたことの方がずっと気掛かりだった。
かつて私はつねに同じ夢を見ていた。原罪の夢。つまり、初めて殺生に関わった記憶の再生だ。
一般には退屈なものであろうその反復を、私はいっさい厭わなかった。むしろ、その記憶を失ってしまうことを恐れた。自身の持つ穢れの理由を覚えていなければ、私は真に罪を贖えなくなるだろうから。もしかしたらそれも言い訳にすぎなくて、ただ八意様との最後の記憶に執着しているだけなのかもしれないのだが……。
「あなたは同じ夢ばかり見ていますね」
ドレミー・スイートは初対面の私に向けてそう言った。
それがある種の牽制なのか、それとも彼女なりの親交の挨拶なのか当時はわからなかったが、どちらにせよ私には、彼女に主導権を譲るつもりも、彼女と友宜を結ぶつもりもなかった。
「同じ夢。同じ過去。睡眠は記憶の整理だと言いますが、あなたの場合はあまりに偏執的です」
仕事を命じに来ただけだというのに、目の前の獏はよく喋った。わざわざ否定する気にもなれず、用意してきた書類を渡した。彼女は簡単に目を通しながら自分の話を続ける。
「正直に言って、飽きるんですよ。まあ、夢を食べないというわけにもいかないのですが。悪夢ならなおさらね」
あまり苦労の感じられない調子で言われたので、特に罪悪感は無かった。それどころか、勝手な話だと思った。おそらく彼女も私に対して同様の感想を持っているのだろう。どちらも割り当てられた職務に忠実である以外の生き方を持たず、ゆえにその領域の接する限りにおいて他者と関わらざるをえない。そう考えていると、私の口からふと疑問が零れた。
「ねえ、あなたは義務感で夢を食べているの? それともただの食欲?」
「それはあなたにも言えることでしょう」
ドレミーは顔を背けて短く答えた。不用意な発言だっただろうかと思ったが、その心配はすぐに解消された。紺珠の薬の許しに従って、私はもう一つ言葉を重ねた。
「どちらでもないわ。ただ、信仰によって」と私は答えた。
ドレミーは少し驚いてから、落胆したように目を伏せた。
「まあ……こちらの件は協力しますよ。ただし、都の建設だけですが」
「それ以上のことは求めていないわ」
「そうなればいいんですけどね」
彼女は何かを憂慮しているようだったが、あえて問う気にはならなかった。薬のおかげで不必要な言葉を恐れる理由は無くなっていたが、それでも平生の癖は抜けないものだ。私はそのまま尋ねる機会を逃した。代わりに、彼女が内容を把握したことを確認して書類を回収した。そうして席を立とうとしたところに、彼女が声を掛けてきた。
「そうそう、お近づきの印に持って行ってください」
彼女は私に向かって枕を放り投げた。受け止めると柔らかい生地にたやすく指が沈んだ。怪しい物ではなさそうだ。
「良い夢を」と彼女は笑って手を振った。私は何と言っていいか分からず、結局黙って彼女と別れた。
その枕に頭を預けながら、紺珠の薬のもたらす希望と絶望について私は考えていた。しかし、この思考はほとんど無駄な足掻きにすぎなかった。というのも、二者が決して釣り合わないことを私は知っていたからだ。
紺珠の薬は途方もなく巨大な希望を私に与えた。薬は私の抱えていた問題のすべてを解消した。反復は言葉を選ぶ労苦を軽くしてくれた。左の翼の幻覚は、私が完全なる天津神へと祓い清められている証左だった。その代償として永遠の幻を見ることすら、私は救いと呼ぶことができた。なぜならそれは、八意様に近づく上で不可欠な要素なのだから。私にとって、彼女は永遠の象徴だった。薬の作用を自覚したときから、私は彼女の代替となる決心を固めていた。月の都から失われて久しい天秤が私の頭の中に再生されたのだから、それは当然の義務だと思った。
ゆえに、現状を厭う理由は無いはずだった。絶望的な代償は過去の夢の喪失以外に何も無く、それすら数多の利点と客観的に比較してみると、きわめて矮小で私的な要因に見える。月の都と私の事情のどちらがより重大であるかなど、悩むまでもなく分かることだ。結局、私があの記憶を留めておきたい最も大きな理由は倫理などではなく、単なる子供じみた執着なのだろうから。
しかし、いくらそう言い聞かせてみても、私にはその結論を受け入れることができなかった。私は怯えていた。
反復と幻覚が私の意識の大半を占めるようになった今、現実というものはひどく曖昧な概念に感じられた。私にはもう、あらゆる現象が夢なのか現なのか判別できなかった。どれだけ固く信じていても、一度選択を誤れば現はたちまち夢に転じてしまうのだから。
そうした不安に駆られて、私は紺珠の薬の効果から逃れるべきか否か迷っていた。そして、仮に逃れるとしたらどのような方法があるのだろうかと私は考えていた。
最も必要なときに限って紺珠の薬は何も教えてはくれない。正誤の天秤は沈黙していた。結果としてどちらに傾くにせよ、秤を動かすにはまず試行しなければならないからだ。
さんざん悩んだ末に、私は自ら夢の世界へ行くことにした。現と夢の境界が曖昧な今、それは結局のところある種の逃避であったとしても、私の位置を保証してくれるという点で有効であるように思われた。そして、もしかするとそこに自己を定位するための何らかの手掛かりを得られるかもしれない、とも。
目的の場所に到着すると、以前この世界を訪れたときには無かった異常な建築物がまず視界に入った。向こう側で、巨大な螺旋の塔が天地を貫いているのが見える。
私はその異形の持つある種の無限性に惹かれて、歩を進めながらそれを観察した。すると、それは単一の物体ではないのだと分かった。無数の大図書館の塔があらゆる階層で分岐し、絡み合いながら、幾重もの螺旋を描いているのだ。歪な樹木のようだと思った。そしてその無限の収斂する天辺で、私は探していたものを発見した。夢の私がそこにいた。
私は彼女の傍まで飛んで行った。
「驚いた」と彼女は言った。当然のことだが、私と同じ声をしていた。
彼女に尋ねたいことはいくらでもあった。たとえば、薬を飲んでからあなたの夢に異常は無かったか、とか、私の見ている夢の仕組みはどうなっているのか、とか。だが、それを口にしても事態が好転するとは思えなかった。真っ先に思い浮かんだ選択肢はすべて口にするまでもなく誤っている気がした。紺珠の薬による反復の経験のおかげで、そうした直感はよく養われていた。そして、それに従って言葉を排除していくと、最後には最もありそうにない選択肢だけが残るという事態もままあった。それでも私はつねに直感に従った。まあ、従わなければそもそも先に進めないのだが。
「ドレミー・スイートについて教えてほしい」と私は言った。
彼女はしばらく考えるように黙って、「なるほど」と答えた。それから、「でも、それは私が教えることではない」
「直接尋ねてみて真意が分かる相手ではないと思うけど」
「そうではなくて、あなたは自分の目で知るべきだと言いたいの」
彼女は手を差し出した。それにどういう意味が込められているのか、私には分からなかった。
「私の視界をあなたにあげる」と彼女は言った。
私は反射的に首を振った。未知への恐怖が理性的な判断に先立った。
「別に特殊なことではないわ。普通の夢を見る方法と同じ。夢の私の視点に現の私の視点を重ねるだけで、単なる座標の移動にすぎない」
彼女は私を安心させるつもりで説明しているのだろうが、また新たな幻を背負いこむのかと思うと私は憂鬱になった。
なおも躊躇っていると、「何を迷う必要があるの」と彼女は唆した。「私はあなたの夢。初めから疑う必要など無いというのに」
そう言って、彼女は私の目蓋に手を伸ばした。触れた途端、あの忘却と酩酊を引き起こす水のように、夢の私は私の内側に溶けた。私たちの記憶は同期した。
そして、私は彼女の夢を見た。
「また同じ本を読んでいるんですね」
ドレミー・スイートが彼女に――いや、私に話しかける。
私は頷いてページをめくった。そして、そこに記憶と同じ記述が繰り返されているのを丁寧に確認していた。
「退屈ではないですか。せっかく自由な夢を見られるのに」
「でも、こうしていればあなたが心配して来てくれる」
私の口から勝手に言葉が零れた。ひどい違和感だった。二重の意味において、何か余計なことを言ってしまわないかと不安になった。
「終わらない悪夢を放っておくわけにはいかないので」
「これを悪夢だと思ったことは一度もない」
「それはこちらが決めることです」
私は首を振って、読み終わった本をドレミーに突き出した。
「少しノイズがあるから、修繕しておいて」
「いっそ書き直してみましょうか」
「それは駄目」
彼女の言が冗談だと分かりきってはいたが、それでも私は強く否定した。
「いつまで続けるつもり」と彼女は呟いた。
「たぶん、永遠に」と私は言った。今の私にとって、その表現は何ら過剰なものではなかった。
ドレミーは呆れたようにため息をついた。「ねえ、それはどちらのあなたの望みなんですか」
「夢と希望の一致が必要?」
彼女の問いを無視して私は尋ねる。
「それともそう思い込んでおかないと、あなたは他者を理解できないのかしら」
ドレミーは目を見開いた。私はその表情の中に彼女のわずかな怒りを感じた。当然だ。私の言葉はあまりに無遠慮なものに思われた。
「冗談よ」
私は笑ってみせた。それでさっきの発言が日常的な軽口以上のものではないのだとようやく分かった。おそらくドレミーもそう理解したのか、いつもの笑顔を作って本の修繕を始めた。
その様子を見守りながら、私はたびたび無難な話題を振った。冗談といえども先の言がドレミーの気分を害したのではないかと恐れている風でもあった。やがて彼女の口調が普段通りのものであると気付いて私は安堵した。もちろん、それは向こうの私の感情であって、こちらの私は特に彼女に対して思うところなど無いはずなのだけれども。
そう思っていると、ちょうどドレミーが口を開いた。
「今日は向こうのあなたに会ったんですよ」
「そう」
「興味ありませんか」
「向こうの私は私であって私でないから」
私は端的に切り捨てた。だが、ドレミーはその言葉から何かを読み取ったらしく目を伏せた。
「やっぱりあなたの言う通りかもしれません、私は――」
彼女の言葉を理解する前に、記憶の再生はそこで遮られた。私は夢から覚めた。塔の麓で私は横たわっていた。
「おはようございます」と声がして、顔を上げてみるとドレミー・スイートがそこにいた。
「慣れないでしょう」
彼女は私の手を引いて起こした。私の身に起きた事態を把握しているのだろうか。
「少し歩きましょうか」と彼女は言った。
私は頷いた。冷静になるための時間が欲しかったので、その提案はちょうど良かった。私は混乱していた。膨大な記憶が流れ込んできた衝撃もその理由の一つだったが、それよりもその内容の方が私にとっては問題だった。夢の私はドレミーと旧知のようだった。異物であるはずの彼女たちの過ごした日々の記憶が、次第に私の一部として違和感なく収まりつつあるのを私は感じた。そのようにして混在する記憶のために、私の感情と彼女の感情の境界すら曖昧になってしまいそうだった。私は隣を歩くドレミーに対して、どのような距離で接すればよいのか迷って、結局そのまま沈黙していた。
私たちは川を見つけてその傍に腰を下ろした。永遠の中にある今、水の流れがやけに恋しく思われた。
川に映る月はつねに流れに攪拌されていて、もとの真円に留まることは一度としてなかった。それが無性に興味を引いてじっと眺めていると、ドレミーが口を開いた。「あなたが見ているものもそんなものですよ」
「あなたは現に月に存在しているというのに」
「知ったふうな口をきかないで」
ほとんど反射的に私は彼女に抗った。
「知っていますよ。少なくとも半分は、あなたよりもずっと」
私は、さらに反論すべきか迷った。あるいは、こう言い返してやることもできると思った。私もあなたのことを知っている、少なくともあなたが想像しているよりはずっと、と。
だが、それが有効だとはとても思えなかった。今の私には、彼女に対して理性的な反駁を組み立てることは困難だった。だから、彼女が私の何を諭そうとしているのかを考えることにした。水面の月にふたたび目をやる。不均一な流れによって、やはり月は左の弧を欠いていた。あるいは、右の弧が過剰なのか……。いくら観察してみても、月の形は掴めず、彼女の真意も推測できなかった。私は投げやりになって、ただ頭に浮かんだことを口にした。
「ねえ、あなたは何?」
「質問が抽象的すぎます」
彼女の指摘はもっともだったが、こうして言葉にしてみると、自分が彼女に対して抱いている疑問が徐々に判別しやすくなってきた。要するに違和感の多くは互いの持つ情報量の差に起因していた。そして、それに基づく関係性の認識の差異が私たちを隔てていた。より正確に言えば、私だけがその壁を感じていたのだが。彼女は夢の私と現の私に何らかの連続性を認めているように見えたが、その考えは承服しがたいものだった。
しかし同時に、そうした認識を否定したところで彼女に対する根本的な疑問は解決しないだろうと私は思っていた。それは問題の周縁にすぎない。本質は、彼女にとっての私の位置、あるいは、私にとっての彼女の位置の不明にあった。そうして、私の口から結論が零れた。
「もしかすると、あなたは私の夢にすぎないのかもしれないと考えていたから」
「それはまた、どうして」
珍しく本当に困惑しているような声で彼女は尋ねた。
「そうでなければ、あなたが私を気に掛ける理由が分からない」
彼女は私に対してあまりに親切に見えた。夢の私との関係がその理由でないならば、私を憐れんでいるのかもしれないと疑ってしまうほどに。
だが、それを直接確かめる気にはなれなかった。その言葉が彼女の態度を変えてしまうのではないかときっと私は恐れていた。
だから、卑怯にも私はそれ以外の疑問を率直に告白した。それによって彼女の内心を苦労せずに暴こうと思った。仮に彼女が私に同情しているのならば、ほとんど確実に成功するはずだから。
しかし、彼女は答えなかった。代わりに、「では、証明してみましょうか」とだけ彼女は言った。
そうして、その提案の意味を尋ねる間も置かず、ドレミーは私の手を取って川に飛び込んだ。当然、私もそうなった。
水面の月をくぐると、銀色の円環を成す魚の群れが私たちを迎えた。月明かりを受けてわずかに輝く彼らの灯が、ふたたび私の意識に記憶を投影しはじめた。
私たちはあの無限の図書館の中を巡っていた。無数にある棚から本を取り出しては、その内容がすべて同一のものであることに落胆するという、果てしない徒労を行っていた。
「ねえ、ドレミー。やめてもいいのよ」
次の階層へ向かう足を止めて、私は提案した。
「そういうわけにはいきません」
「あなたはあの本を読みつづけるのに反対していたじゃない」
「それは、異常な執着は悪夢と変わりないからで、つまり、現状と同じです」と答えながら、彼女は次々と書物の山を崩して進んだ。
無限の図書館は紺珠の薬のもたらす幻覚の集積だった。そうして生み出された無数の書物が、あの原罪の夢を覆い隠してしまっていた。私は、塔の天辺に佇む彼女のことを思い出した。あれは、探索に飽いて絶望していたのだろうか。
「二人揃って悪夢を見る理由も無いでしょう。諦めましょう」と私は提案した。
だが、ドレミーは頑なだった。
「理由ならありますよ。したいからしているんです」
前にかわされた問いについて、偶然にも彼女は答えた。もっとも、問うたのは私で、答えを聞いたのは夢の私だったが。彼女は義務でもなく、本能的な欲求でもなく、ただ私的な希望によってそうしているのだと分かった。
私は尋ねた。
「だったら単刀直入に聞くけれど、ドレミー、あなたは何を望んでいるの?」
「良い夢を」と慣れた調子で彼女は答えた。
「誰の」
「私の。それから、あなたの」
「どちらの私?」
ほとんど間を置かずに問いが零れた。私は驚いた。
ドレミーはしばらく黙っていたが、誤魔化せないと分かったのか、低い声で答えた。
「向こう側の――と答えるのがきっと正しいのだと思います。私たちにとって、それが一番良い方法ですから」
決心して打ち明けた割にはまだ予防線を張っているような言い方だったが、それ以上の追及はしなかった。回答は私を納得させるのに十分だった。私は頷いた。
「ありがとう、ドレミー。その言葉は覚えておくわ」
「ねえ、せっかく打ち明けたのだから、できればあなたの希望も聞きたいのですが」とドレミーは言った。
「それは、夢を見れば分かることなのでしょう?」
私ははぐらかすように答えた。ドレミーは溜め息をついた。
「だったらなおさら、探さないといけませんね」
速度を上げて、彼女はふたたび塔の探索に取り掛かった。
「そういうことではないのだけれど……」
彼女の姿が見えなくなってから私はそう零して、また本を一冊取って棚に戻した。徒労は終わりそうになかった。
彼女は決して嘘をついてはいなかった。私は私の夢を見て、夢の私の望みをおそらく正確に把握できていた。
私は目を開けた。水中は暗く、ほとんど夜闇と見分けが付かなかった。
それでも水面を照らす月の淡い光を眺めているうちに、この深い闇にも次第に目が慣れてきた。そうして、水が四方に果てしなく広がっているのを発見した。ここは川というよりは海に近い空間だった。水平方向に海へ注ぐのが現実の川ならば、この夢の川は垂直に海と接続していた。
海の中には数多の生物が浮かんでいた。静止したトーラスの魚群やひどく老いた鮫の瞳が月光を受けてわずかに銀色に瞬く。彼らは一様に眠っていた。生者も死者も分け隔てなく、この海の底で夢を見ていた。私たちだけが目覚めている。いや、私たちだけが、夢を見ていることを知っている。ほとんど墓場と変わらない場所だというのに、私は妙に落ち着いていた。ここには地上の死の纏う穢れの気配がいっさい無かった。
「ここから見たら、水面の月も天上の月も同じ月ですよ」
上方の光を指してドレミーは言った。私はようやく彼女の言っていることを理解できた。
真円を象る空想上の月のように、私が執着していたのは幼い日に抱いた八意様の古い理想像にすぎなかった。現実において、あの人は致命的な過ちを犯していたというのに。私は今まで、八意永琳を知らないでいた。彼女は無謬の神ではなかった。
それならば、あの人に正誤の基準を委ねる理由はもう無いはずだ。
真円の月は存在しない。それは空想上のものだった。同様に、無謬の天秤も存在しない。まして、それが特定の人の形を象ることなど。
「ねえ、ドレミー」
偽りの月に背を向けて、夜空と同じ青色をした彼女の瞳を正面から見つめた。
「はい」
「いま分かった。私は永遠にはなれない。無限の幻の一節に身を埋めることさえ、あまりに耐えがたいことに思える」
私は慎重に言葉を発した。直感は凪いでいた。依拠する天秤が否定された今、それは他の幻と等しく裁きを待つ錯覚でしかなかった。私は自身の判断で踏み出さなければならなかった。
「私はこれから、ひどく誤ったことを口にするかもしれない。とても身勝手な頼みだと分かってはいるつもり。だけど、それが少なくとも私の希望であることは信じてほしい」
こうして決心を固めたつもりで話していても、もし間違っていたらやり直せるだろうという甘い考えがつねに頭の片隅にあるような気がして、紺珠の薬と意志の弱さを疎ましく思った。それらはどんな困難も曖昧にしてしまう。前者は反復によって、後者は逃避によって。
だが、「信じます」とドレミーは誓った。私の躊躇う理由はそれですべて無くなった。依然として左の翼の幻覚は膨らみつづけていたが、もう恐れる必要は無かった。左手を後ろに伸ばして確かめる。簡単なことだった。背後にあったのは、数多の魚たちと共に漂う鯨の化石にすぎなかった。
ゆえに、私は望みを口にした。
「私を食べて」
ドレミーは驚いた。
「いいんですか」彼女は念を押すように尋ねる。「あなたは、それでいいんですか」
私はドレミーの問いに対して正確に頷いて、今度こそ躊躇わずに答えた。
「これは私の夢。だから、すべての正誤は私が決める」
「分かりました」とドレミーははじめて素直な笑顔を見せた。
彼女の左手が私の額にそっと触れる。暗い水の浮力のせいで、ドレミーの指の形がはっきりと分かった。その指先を通って、私の意識を占有していた螺旋の幻が、次々と直線の言語にほどけていくのが見える。それらは彼女の人差し指を黒く染めながら、右手の本の中へと帰っていった。その光景を見届けているうちに、眠りに就く刹那に覚えるあの心地よい意識の落下を私は感じた。私は抗わずに目を閉じた。
「良い夢を」と彼女は囁いた。
結局のところ、私を取り巻く数々の問題はいっさい解決していなかった。少なくとも、好転していないという点においてはそうだ。ドレミーは程なくして無限の夢を食らい尽くしてしまうだろう。すると私は、言葉を誤れば破滅しうる危うさをふたたび取り戻し、罪を背負いつづける不完全な天津神に回帰してしまうことだろう。さらに言えば、きっともう二度と同じ夢を見ることもできないはずだ。私たちはあの本を探すことを放棄したのだから。
私は理解していた。しかし、「良い夢を」と答えた。私たちの気持ちは一致していた。眠りつづける鯨の骨格の中で、私たちはようやく互いを知りはじめる決心をした。
彼女の腕が私の身体を優しく抱いた。銀色のトーラスも金色の月光も、とうに私の視界から消えてしまっていた。私の意識はもう彼女の黒い影だけに覆われていて、やがてこの海の底へ朝の光が降りてくるまでの千年の間、私たちはずっとそうしていた。
原因はきわめて明瞭だった。あえて私的な尺度を用いるが、千年前に私は紺珠の薬を服用したのだ。八意様は遥か昔に今回の襲撃を予期していた。その対策についても同様だった。私は彼女の代替として月の都を守らなければならなかった。
紺珠の薬について私はいくらかの知識を持ってはいたけれども、実際に経験してみるとそれらはすべて伝聞にすぎないのだと分かった。彼らの用いる表現は結局のところ表面的で、間接的な、とうに使い古された定型句の追従でしかなかった。本質的な感覚はまったく異なる。あらゆる判断の中枢に、私の代わりに八意様が座している――言うなれば一種の神降ろしに等しい感覚が、須臾の内に永遠の反復をもたらしていた。
そのため、私は言葉を尽くして待たなければならなかった。地上の人間たちが自らの力で月まで辿り着くのを。そして、あの神霊たちを打倒するのを。私は何度も彼女たちを試し、彼女たちに呪いを授けた。果てしない試行の中で、私はこれをある種の信仰の実践だと捉えはじめていた。
自らの手の及ばない事象の成功を待ちつづける行為は単なる博打だ。だが、その試行が無限に近づくとき、あるいは動機が神に結び付けられるとき、それは祈祷と呼ばれうる。とはいえ、私のしたことはいわば事務的なものであって、すなわち、命令系統が内在しているという点と、非常時の出来事であるという点を除けば、平生の執務と何ら変わりない行為だったのだが。
そうして、私は二重の巫女の役割を果たした。一方は、神託に対する純粋な祈祷に身を捧げた月の巫女として。他方は、異変を終わらせる存在である地上の巫女として。
問題は、後者には解決という区切りがあるが、前者には明確な最後が未だ示されていないということだった。
つまり、紺珠の薬の効果は継続していた。日常的に過ちを犯すほど私は自身の能力について無頓着なわけではないが、ふとしたときにあの反復が訪れる日々を過ごしていた。
だが、それも何度か経験すると、他の習慣と同じようにたやすく生活の一部となった。千年の内に、私は良くも悪くも反復に慣れきってしまった。失言は後悔するよりも先に撤回されたし、実を言うと理性を薬に預けて反射的な会話のスリルを楽しんでみたことすらあった。
ゆえに、私にとって主作用そのものは重大な問題ではなかった。それよりも薬による現実の反復が、他の反復を追い出しはじめたことの方がずっと気掛かりだった。
かつて私はつねに同じ夢を見ていた。原罪の夢。つまり、初めて殺生に関わった記憶の再生だ。
一般には退屈なものであろうその反復を、私はいっさい厭わなかった。むしろ、その記憶を失ってしまうことを恐れた。自身の持つ穢れの理由を覚えていなければ、私は真に罪を贖えなくなるだろうから。もしかしたらそれも言い訳にすぎなくて、ただ八意様との最後の記憶に執着しているだけなのかもしれないのだが……。
「あなたは同じ夢ばかり見ていますね」
ドレミー・スイートは初対面の私に向けてそう言った。
それがある種の牽制なのか、それとも彼女なりの親交の挨拶なのか当時はわからなかったが、どちらにせよ私には、彼女に主導権を譲るつもりも、彼女と友宜を結ぶつもりもなかった。
「同じ夢。同じ過去。睡眠は記憶の整理だと言いますが、あなたの場合はあまりに偏執的です」
仕事を命じに来ただけだというのに、目の前の獏はよく喋った。わざわざ否定する気にもなれず、用意してきた書類を渡した。彼女は簡単に目を通しながら自分の話を続ける。
「正直に言って、飽きるんですよ。まあ、夢を食べないというわけにもいかないのですが。悪夢ならなおさらね」
あまり苦労の感じられない調子で言われたので、特に罪悪感は無かった。それどころか、勝手な話だと思った。おそらく彼女も私に対して同様の感想を持っているのだろう。どちらも割り当てられた職務に忠実である以外の生き方を持たず、ゆえにその領域の接する限りにおいて他者と関わらざるをえない。そう考えていると、私の口からふと疑問が零れた。
「ねえ、あなたは義務感で夢を食べているの? それともただの食欲?」
「それはあなたにも言えることでしょう」
ドレミーは顔を背けて短く答えた。不用意な発言だっただろうかと思ったが、その心配はすぐに解消された。紺珠の薬の許しに従って、私はもう一つ言葉を重ねた。
「どちらでもないわ。ただ、信仰によって」と私は答えた。
ドレミーは少し驚いてから、落胆したように目を伏せた。
「まあ……こちらの件は協力しますよ。ただし、都の建設だけですが」
「それ以上のことは求めていないわ」
「そうなればいいんですけどね」
彼女は何かを憂慮しているようだったが、あえて問う気にはならなかった。薬のおかげで不必要な言葉を恐れる理由は無くなっていたが、それでも平生の癖は抜けないものだ。私はそのまま尋ねる機会を逃した。代わりに、彼女が内容を把握したことを確認して書類を回収した。そうして席を立とうとしたところに、彼女が声を掛けてきた。
「そうそう、お近づきの印に持って行ってください」
彼女は私に向かって枕を放り投げた。受け止めると柔らかい生地にたやすく指が沈んだ。怪しい物ではなさそうだ。
「良い夢を」と彼女は笑って手を振った。私は何と言っていいか分からず、結局黙って彼女と別れた。
その枕に頭を預けながら、紺珠の薬のもたらす希望と絶望について私は考えていた。しかし、この思考はほとんど無駄な足掻きにすぎなかった。というのも、二者が決して釣り合わないことを私は知っていたからだ。
紺珠の薬は途方もなく巨大な希望を私に与えた。薬は私の抱えていた問題のすべてを解消した。反復は言葉を選ぶ労苦を軽くしてくれた。左の翼の幻覚は、私が完全なる天津神へと祓い清められている証左だった。その代償として永遠の幻を見ることすら、私は救いと呼ぶことができた。なぜならそれは、八意様に近づく上で不可欠な要素なのだから。私にとって、彼女は永遠の象徴だった。薬の作用を自覚したときから、私は彼女の代替となる決心を固めていた。月の都から失われて久しい天秤が私の頭の中に再生されたのだから、それは当然の義務だと思った。
ゆえに、現状を厭う理由は無いはずだった。絶望的な代償は過去の夢の喪失以外に何も無く、それすら数多の利点と客観的に比較してみると、きわめて矮小で私的な要因に見える。月の都と私の事情のどちらがより重大であるかなど、悩むまでもなく分かることだ。結局、私があの記憶を留めておきたい最も大きな理由は倫理などではなく、単なる子供じみた執着なのだろうから。
しかし、いくらそう言い聞かせてみても、私にはその結論を受け入れることができなかった。私は怯えていた。
反復と幻覚が私の意識の大半を占めるようになった今、現実というものはひどく曖昧な概念に感じられた。私にはもう、あらゆる現象が夢なのか現なのか判別できなかった。どれだけ固く信じていても、一度選択を誤れば現はたちまち夢に転じてしまうのだから。
そうした不安に駆られて、私は紺珠の薬の効果から逃れるべきか否か迷っていた。そして、仮に逃れるとしたらどのような方法があるのだろうかと私は考えていた。
最も必要なときに限って紺珠の薬は何も教えてはくれない。正誤の天秤は沈黙していた。結果としてどちらに傾くにせよ、秤を動かすにはまず試行しなければならないからだ。
さんざん悩んだ末に、私は自ら夢の世界へ行くことにした。現と夢の境界が曖昧な今、それは結局のところある種の逃避であったとしても、私の位置を保証してくれるという点で有効であるように思われた。そして、もしかするとそこに自己を定位するための何らかの手掛かりを得られるかもしれない、とも。
目的の場所に到着すると、以前この世界を訪れたときには無かった異常な建築物がまず視界に入った。向こう側で、巨大な螺旋の塔が天地を貫いているのが見える。
私はその異形の持つある種の無限性に惹かれて、歩を進めながらそれを観察した。すると、それは単一の物体ではないのだと分かった。無数の大図書館の塔があらゆる階層で分岐し、絡み合いながら、幾重もの螺旋を描いているのだ。歪な樹木のようだと思った。そしてその無限の収斂する天辺で、私は探していたものを発見した。夢の私がそこにいた。
私は彼女の傍まで飛んで行った。
「驚いた」と彼女は言った。当然のことだが、私と同じ声をしていた。
彼女に尋ねたいことはいくらでもあった。たとえば、薬を飲んでからあなたの夢に異常は無かったか、とか、私の見ている夢の仕組みはどうなっているのか、とか。だが、それを口にしても事態が好転するとは思えなかった。真っ先に思い浮かんだ選択肢はすべて口にするまでもなく誤っている気がした。紺珠の薬による反復の経験のおかげで、そうした直感はよく養われていた。そして、それに従って言葉を排除していくと、最後には最もありそうにない選択肢だけが残るという事態もままあった。それでも私はつねに直感に従った。まあ、従わなければそもそも先に進めないのだが。
「ドレミー・スイートについて教えてほしい」と私は言った。
彼女はしばらく考えるように黙って、「なるほど」と答えた。それから、「でも、それは私が教えることではない」
「直接尋ねてみて真意が分かる相手ではないと思うけど」
「そうではなくて、あなたは自分の目で知るべきだと言いたいの」
彼女は手を差し出した。それにどういう意味が込められているのか、私には分からなかった。
「私の視界をあなたにあげる」と彼女は言った。
私は反射的に首を振った。未知への恐怖が理性的な判断に先立った。
「別に特殊なことではないわ。普通の夢を見る方法と同じ。夢の私の視点に現の私の視点を重ねるだけで、単なる座標の移動にすぎない」
彼女は私を安心させるつもりで説明しているのだろうが、また新たな幻を背負いこむのかと思うと私は憂鬱になった。
なおも躊躇っていると、「何を迷う必要があるの」と彼女は唆した。「私はあなたの夢。初めから疑う必要など無いというのに」
そう言って、彼女は私の目蓋に手を伸ばした。触れた途端、あの忘却と酩酊を引き起こす水のように、夢の私は私の内側に溶けた。私たちの記憶は同期した。
そして、私は彼女の夢を見た。
「また同じ本を読んでいるんですね」
ドレミー・スイートが彼女に――いや、私に話しかける。
私は頷いてページをめくった。そして、そこに記憶と同じ記述が繰り返されているのを丁寧に確認していた。
「退屈ではないですか。せっかく自由な夢を見られるのに」
「でも、こうしていればあなたが心配して来てくれる」
私の口から勝手に言葉が零れた。ひどい違和感だった。二重の意味において、何か余計なことを言ってしまわないかと不安になった。
「終わらない悪夢を放っておくわけにはいかないので」
「これを悪夢だと思ったことは一度もない」
「それはこちらが決めることです」
私は首を振って、読み終わった本をドレミーに突き出した。
「少しノイズがあるから、修繕しておいて」
「いっそ書き直してみましょうか」
「それは駄目」
彼女の言が冗談だと分かりきってはいたが、それでも私は強く否定した。
「いつまで続けるつもり」と彼女は呟いた。
「たぶん、永遠に」と私は言った。今の私にとって、その表現は何ら過剰なものではなかった。
ドレミーは呆れたようにため息をついた。「ねえ、それはどちらのあなたの望みなんですか」
「夢と希望の一致が必要?」
彼女の問いを無視して私は尋ねる。
「それともそう思い込んでおかないと、あなたは他者を理解できないのかしら」
ドレミーは目を見開いた。私はその表情の中に彼女のわずかな怒りを感じた。当然だ。私の言葉はあまりに無遠慮なものに思われた。
「冗談よ」
私は笑ってみせた。それでさっきの発言が日常的な軽口以上のものではないのだとようやく分かった。おそらくドレミーもそう理解したのか、いつもの笑顔を作って本の修繕を始めた。
その様子を見守りながら、私はたびたび無難な話題を振った。冗談といえども先の言がドレミーの気分を害したのではないかと恐れている風でもあった。やがて彼女の口調が普段通りのものであると気付いて私は安堵した。もちろん、それは向こうの私の感情であって、こちらの私は特に彼女に対して思うところなど無いはずなのだけれども。
そう思っていると、ちょうどドレミーが口を開いた。
「今日は向こうのあなたに会ったんですよ」
「そう」
「興味ありませんか」
「向こうの私は私であって私でないから」
私は端的に切り捨てた。だが、ドレミーはその言葉から何かを読み取ったらしく目を伏せた。
「やっぱりあなたの言う通りかもしれません、私は――」
彼女の言葉を理解する前に、記憶の再生はそこで遮られた。私は夢から覚めた。塔の麓で私は横たわっていた。
「おはようございます」と声がして、顔を上げてみるとドレミー・スイートがそこにいた。
「慣れないでしょう」
彼女は私の手を引いて起こした。私の身に起きた事態を把握しているのだろうか。
「少し歩きましょうか」と彼女は言った。
私は頷いた。冷静になるための時間が欲しかったので、その提案はちょうど良かった。私は混乱していた。膨大な記憶が流れ込んできた衝撃もその理由の一つだったが、それよりもその内容の方が私にとっては問題だった。夢の私はドレミーと旧知のようだった。異物であるはずの彼女たちの過ごした日々の記憶が、次第に私の一部として違和感なく収まりつつあるのを私は感じた。そのようにして混在する記憶のために、私の感情と彼女の感情の境界すら曖昧になってしまいそうだった。私は隣を歩くドレミーに対して、どのような距離で接すればよいのか迷って、結局そのまま沈黙していた。
私たちは川を見つけてその傍に腰を下ろした。永遠の中にある今、水の流れがやけに恋しく思われた。
川に映る月はつねに流れに攪拌されていて、もとの真円に留まることは一度としてなかった。それが無性に興味を引いてじっと眺めていると、ドレミーが口を開いた。「あなたが見ているものもそんなものですよ」
「あなたは現に月に存在しているというのに」
「知ったふうな口をきかないで」
ほとんど反射的に私は彼女に抗った。
「知っていますよ。少なくとも半分は、あなたよりもずっと」
私は、さらに反論すべきか迷った。あるいは、こう言い返してやることもできると思った。私もあなたのことを知っている、少なくともあなたが想像しているよりはずっと、と。
だが、それが有効だとはとても思えなかった。今の私には、彼女に対して理性的な反駁を組み立てることは困難だった。だから、彼女が私の何を諭そうとしているのかを考えることにした。水面の月にふたたび目をやる。不均一な流れによって、やはり月は左の弧を欠いていた。あるいは、右の弧が過剰なのか……。いくら観察してみても、月の形は掴めず、彼女の真意も推測できなかった。私は投げやりになって、ただ頭に浮かんだことを口にした。
「ねえ、あなたは何?」
「質問が抽象的すぎます」
彼女の指摘はもっともだったが、こうして言葉にしてみると、自分が彼女に対して抱いている疑問が徐々に判別しやすくなってきた。要するに違和感の多くは互いの持つ情報量の差に起因していた。そして、それに基づく関係性の認識の差異が私たちを隔てていた。より正確に言えば、私だけがその壁を感じていたのだが。彼女は夢の私と現の私に何らかの連続性を認めているように見えたが、その考えは承服しがたいものだった。
しかし同時に、そうした認識を否定したところで彼女に対する根本的な疑問は解決しないだろうと私は思っていた。それは問題の周縁にすぎない。本質は、彼女にとっての私の位置、あるいは、私にとっての彼女の位置の不明にあった。そうして、私の口から結論が零れた。
「もしかすると、あなたは私の夢にすぎないのかもしれないと考えていたから」
「それはまた、どうして」
珍しく本当に困惑しているような声で彼女は尋ねた。
「そうでなければ、あなたが私を気に掛ける理由が分からない」
彼女は私に対してあまりに親切に見えた。夢の私との関係がその理由でないならば、私を憐れんでいるのかもしれないと疑ってしまうほどに。
だが、それを直接確かめる気にはなれなかった。その言葉が彼女の態度を変えてしまうのではないかときっと私は恐れていた。
だから、卑怯にも私はそれ以外の疑問を率直に告白した。それによって彼女の内心を苦労せずに暴こうと思った。仮に彼女が私に同情しているのならば、ほとんど確実に成功するはずだから。
しかし、彼女は答えなかった。代わりに、「では、証明してみましょうか」とだけ彼女は言った。
そうして、その提案の意味を尋ねる間も置かず、ドレミーは私の手を取って川に飛び込んだ。当然、私もそうなった。
水面の月をくぐると、銀色の円環を成す魚の群れが私たちを迎えた。月明かりを受けてわずかに輝く彼らの灯が、ふたたび私の意識に記憶を投影しはじめた。
私たちはあの無限の図書館の中を巡っていた。無数にある棚から本を取り出しては、その内容がすべて同一のものであることに落胆するという、果てしない徒労を行っていた。
「ねえ、ドレミー。やめてもいいのよ」
次の階層へ向かう足を止めて、私は提案した。
「そういうわけにはいきません」
「あなたはあの本を読みつづけるのに反対していたじゃない」
「それは、異常な執着は悪夢と変わりないからで、つまり、現状と同じです」と答えながら、彼女は次々と書物の山を崩して進んだ。
無限の図書館は紺珠の薬のもたらす幻覚の集積だった。そうして生み出された無数の書物が、あの原罪の夢を覆い隠してしまっていた。私は、塔の天辺に佇む彼女のことを思い出した。あれは、探索に飽いて絶望していたのだろうか。
「二人揃って悪夢を見る理由も無いでしょう。諦めましょう」と私は提案した。
だが、ドレミーは頑なだった。
「理由ならありますよ。したいからしているんです」
前にかわされた問いについて、偶然にも彼女は答えた。もっとも、問うたのは私で、答えを聞いたのは夢の私だったが。彼女は義務でもなく、本能的な欲求でもなく、ただ私的な希望によってそうしているのだと分かった。
私は尋ねた。
「だったら単刀直入に聞くけれど、ドレミー、あなたは何を望んでいるの?」
「良い夢を」と慣れた調子で彼女は答えた。
「誰の」
「私の。それから、あなたの」
「どちらの私?」
ほとんど間を置かずに問いが零れた。私は驚いた。
ドレミーはしばらく黙っていたが、誤魔化せないと分かったのか、低い声で答えた。
「向こう側の――と答えるのがきっと正しいのだと思います。私たちにとって、それが一番良い方法ですから」
決心して打ち明けた割にはまだ予防線を張っているような言い方だったが、それ以上の追及はしなかった。回答は私を納得させるのに十分だった。私は頷いた。
「ありがとう、ドレミー。その言葉は覚えておくわ」
「ねえ、せっかく打ち明けたのだから、できればあなたの希望も聞きたいのですが」とドレミーは言った。
「それは、夢を見れば分かることなのでしょう?」
私ははぐらかすように答えた。ドレミーは溜め息をついた。
「だったらなおさら、探さないといけませんね」
速度を上げて、彼女はふたたび塔の探索に取り掛かった。
「そういうことではないのだけれど……」
彼女の姿が見えなくなってから私はそう零して、また本を一冊取って棚に戻した。徒労は終わりそうになかった。
彼女は決して嘘をついてはいなかった。私は私の夢を見て、夢の私の望みをおそらく正確に把握できていた。
私は目を開けた。水中は暗く、ほとんど夜闇と見分けが付かなかった。
それでも水面を照らす月の淡い光を眺めているうちに、この深い闇にも次第に目が慣れてきた。そうして、水が四方に果てしなく広がっているのを発見した。ここは川というよりは海に近い空間だった。水平方向に海へ注ぐのが現実の川ならば、この夢の川は垂直に海と接続していた。
海の中には数多の生物が浮かんでいた。静止したトーラスの魚群やひどく老いた鮫の瞳が月光を受けてわずかに銀色に瞬く。彼らは一様に眠っていた。生者も死者も分け隔てなく、この海の底で夢を見ていた。私たちだけが目覚めている。いや、私たちだけが、夢を見ていることを知っている。ほとんど墓場と変わらない場所だというのに、私は妙に落ち着いていた。ここには地上の死の纏う穢れの気配がいっさい無かった。
「ここから見たら、水面の月も天上の月も同じ月ですよ」
上方の光を指してドレミーは言った。私はようやく彼女の言っていることを理解できた。
真円を象る空想上の月のように、私が執着していたのは幼い日に抱いた八意様の古い理想像にすぎなかった。現実において、あの人は致命的な過ちを犯していたというのに。私は今まで、八意永琳を知らないでいた。彼女は無謬の神ではなかった。
それならば、あの人に正誤の基準を委ねる理由はもう無いはずだ。
真円の月は存在しない。それは空想上のものだった。同様に、無謬の天秤も存在しない。まして、それが特定の人の形を象ることなど。
「ねえ、ドレミー」
偽りの月に背を向けて、夜空と同じ青色をした彼女の瞳を正面から見つめた。
「はい」
「いま分かった。私は永遠にはなれない。無限の幻の一節に身を埋めることさえ、あまりに耐えがたいことに思える」
私は慎重に言葉を発した。直感は凪いでいた。依拠する天秤が否定された今、それは他の幻と等しく裁きを待つ錯覚でしかなかった。私は自身の判断で踏み出さなければならなかった。
「私はこれから、ひどく誤ったことを口にするかもしれない。とても身勝手な頼みだと分かってはいるつもり。だけど、それが少なくとも私の希望であることは信じてほしい」
こうして決心を固めたつもりで話していても、もし間違っていたらやり直せるだろうという甘い考えがつねに頭の片隅にあるような気がして、紺珠の薬と意志の弱さを疎ましく思った。それらはどんな困難も曖昧にしてしまう。前者は反復によって、後者は逃避によって。
だが、「信じます」とドレミーは誓った。私の躊躇う理由はそれですべて無くなった。依然として左の翼の幻覚は膨らみつづけていたが、もう恐れる必要は無かった。左手を後ろに伸ばして確かめる。簡単なことだった。背後にあったのは、数多の魚たちと共に漂う鯨の化石にすぎなかった。
ゆえに、私は望みを口にした。
「私を食べて」
ドレミーは驚いた。
「いいんですか」彼女は念を押すように尋ねる。「あなたは、それでいいんですか」
私はドレミーの問いに対して正確に頷いて、今度こそ躊躇わずに答えた。
「これは私の夢。だから、すべての正誤は私が決める」
「分かりました」とドレミーははじめて素直な笑顔を見せた。
彼女の左手が私の額にそっと触れる。暗い水の浮力のせいで、ドレミーの指の形がはっきりと分かった。その指先を通って、私の意識を占有していた螺旋の幻が、次々と直線の言語にほどけていくのが見える。それらは彼女の人差し指を黒く染めながら、右手の本の中へと帰っていった。その光景を見届けているうちに、眠りに就く刹那に覚えるあの心地よい意識の落下を私は感じた。私は抗わずに目を閉じた。
「良い夢を」と彼女は囁いた。
結局のところ、私を取り巻く数々の問題はいっさい解決していなかった。少なくとも、好転していないという点においてはそうだ。ドレミーは程なくして無限の夢を食らい尽くしてしまうだろう。すると私は、言葉を誤れば破滅しうる危うさをふたたび取り戻し、罪を背負いつづける不完全な天津神に回帰してしまうことだろう。さらに言えば、きっともう二度と同じ夢を見ることもできないはずだ。私たちはあの本を探すことを放棄したのだから。
私は理解していた。しかし、「良い夢を」と答えた。私たちの気持ちは一致していた。眠りつづける鯨の骨格の中で、私たちはようやく互いを知りはじめる決心をした。
彼女の腕が私の身体を優しく抱いた。銀色のトーラスも金色の月光も、とうに私の視界から消えてしまっていた。私の意識はもう彼女の黒い影だけに覆われていて、やがてこの海の底へ朝の光が降りてくるまでの千年の間、私たちはずっとそうしていた。