『きゅうり・マヨネーズ・麦茶・光』
その年の夏は予定外の出費が続いた。帰るつもりのなかった東京へ訳有って帰った。秘封倶楽部の方は相変わらずメリーの霊感に引きずられて四日間も旅行へ出ることになった。既に生活費を限度いっぱいまで切り詰めようとしていたところへ、乗っていた自転車の前後輪が二日立て続けにパンクする不運さえ重なり、少ない手持ちから修理代を支払うと私はほとんど身動きが取れなくなってしまった。
もっとも、その時点では財布の中にはまだ三千円が残っていたので、次の収入が得られるまで残り一週間を乗りきるのに楽観する余地は残っていたのだが、タイヤ交換のついでにぐらついているサドルの再固定を頼んだのが良くなかった。店員の若い男はサドルのねじをほんの一二周ほど締め込むと、カウンターの向こうへ回って「工賃六百円いただきます」と言うのだった。さすがにこれには抗議したい気がしたが、その店員の待ち構えるような目と向き合うと、私の試みようとする抗議などはこの店では何年も前から検討され、退ける準備を持たれているに違いないことが思われて、ついに何も言うことができなかった。これで手持ちは二千円余りとなる。
結局、そうして修理された自転車が私に用い得る唯一の移動手段として取り戻された。しかし連日して二回ものパンク事故に見舞われた直後では、これはいかにも頼りない乗り物に思える。これに乗って何らかの日雇いアルバイトへ足を伸ばそうにも、仮に路上でチェーンでも切れてしまえばそれこそ身動きが取れなくなるという気がするのだった。
以後二日のうちは、自宅と図書館を自転車で往復しながら時計ばかり見て過ごしていた。できるだけ余計な事件に会わないよう自身の習慣を単純化して時間を稼ぎたいというのがこの間の私の考えだったが、そんな守勢的な生活も三日目の昼に食料の備蓄が尽きてしまうといよいよ維持できなくなった。
迫られている決断は、何を食べて何円を残すかという、なんとも取り返しのつけられないものだった。いざとなれば一日か一日半、断食に趣味の幅を拡げる奥の手もあるが、暑気の厳しい日々のことなので、体調を悪くして結局医療費までかかるような危険は避けたかった。
私が下宿で扇風機に向かって頭を悩ませていると、まるで呼んだかのようにメリーが訪ねてきた。この訪問は事前に連絡も無い突然のことだったので少々驚かされたが、訳を訊くと貧窮している私を心配して来てくれたと言う。このときはメリーの唐突さがいつになくありがたく感じられた。
しかし、「これあげる」とメリーから差し出された紙袋の中身を見た私は、もう一度訳を訊ねなければならなくなった。
メリーの持って来てくれたものは、大きな広口瓶に入った半キロもありそうなマヨネーズだった。メリーはどことなく得意げで「自家製なのよ」と付け加えたが、反対に「なんでマヨネーズなの」と訊く私の顔には失望した様子が隠しきれず表れていただろう。家にはマヨネーズを付けるための食材が既に無かった。
蒸し暑い玄関でずっしりと指に食い込む紙袋を私に持たせたまま、メリーは涼しい顔をして、無人販売所のことを話しはじめた。
それはここから最寄りの阪急駅前に設置されてあるもので、普段から野菜や果物をさして安いわけでもない値段で陳列しているらしい。その中で一点奇妙なことは、大量のきゅうりが全くの無料で置かれているという点だった。メリーによれば、きゅうりは傷も変形も無い完全な状態で、持ち帰るのに何の資格も対価も要らない。持ち帰るきゅうりの本数や重量にさえ制限は無い。メリー自身、一度好奇心に動かされて一本持ち帰ってサラダにしてみたが、それはやはり見た目通りの平凡なきゅうりだったという。
私は今度こそメリーに感謝するべきだった。実を言うとその話を聞きながら私の空腹は何度か切ない音を鳴らしていたのだった。
がらりとした冷蔵庫の空棚にマヨネーズの瓶を寝かせて置き、代わりに軽くなった紙袋を提げて私は下宿を出た。今年は例年以上に湿気の多い夏で、特に日向を歩くときは温水の中をかき分けて進んでいるような気がする。無人販売所があるという駅はメリーがうちを訪ねてくる際の乗降駅なので、案内を頼んで日陰の多そうな道を選んでもらう。こうした注文には驚くほど勘の鋭い彼女のおかげで、駅まで五分ほどの距離をほとんど建物の壁に沿って涼しく歩き通すことができた。
件の無人販売所は見つけるのに苦労なかった。駅改札口の通りに扉を透明にしたコインロッカーのような三段四列の装置が堂々と置かれ、しかしあえて目立とうという意気も感じさせない素朴さで、往来の人々に無視されている。
扉を透かして見た箱の中身は半分が空だった。空でない半分の箱には、にんじん、大根などもあるが、ほとんどトマトばかりだった。
「近隣の家庭菜園の野菜みたいね」と私は推測した。「安全だといいけど」というメリーの心配は今更遅すぎるようだと思った。
目当てのきゅうりは中段右端の箱に入っていた。扉の向こうに二十本あまりも積み重なり、表にはあっさりした手書きの文字で「きゅうり0円」とある。きゅうりとはいえ食料品を無料で配布しているのに、やはり隠すでもなく、目立たせるでもない様子だった。
果たして、扉にロックはかかっていなかった。私が今月を生き延びるために、あとはその開けた箱の中からきゅうりを好きなだけつかみ出し、メリーの広げ持ってくれている紙袋へ落とすだけでよかった。
きゅうりはどれも冷蔵のおかげで川底の石のように冷え冷えとしていた。屋外の光で見たときそれは目が覚めるほど綺麗な緑色だった。「なんだか宝石強盗みたいね」とメリーが言った。全くそうだと思った。火のそばにいるような暑さの真昼に、こんな人通りの多い改札前で綺麗な食べ物をさらっていく私たちは後ろめたさを覚えるのが当然という気がした。
紙袋のふちまでいっぱいに詰めると、きゅうりは十六本になった。箱にはなお十本が残った。
メリーから紙袋を受け取ったとき、私はその案外な重さに何か言い難く納得できない気分を味わった。今さっきまでどう身を削っても手に入らなかったはずのものが、ここには両手でなければ提げられないほどある。しかも空中から取り出したのと同じ簡単さで獲得された。それは大きな矛盾に自分でも不審なまま身を任せている落ち着かなさだった。
とは言え、そうした感情はあくまで嬉しい戸惑いと苦笑の下でほんの一瞬通り過ぎたものであって、そのために自身の行動をわずかでもためらわせるものではなかった。要するに私はただ自分を幸運だと思いながら帰宅したのだった。メリーはなおさら呑気だった。
「私のおかげよ。感謝してね」
下宿に帰ってすぐ、大きめのボウルに氷水を溜めてテーブルの中央に出した。持ち帰ったきゅうりのうち半分を洗ってからその中に沈めると、空気より透き通った液体を介して緑色の野菜にくまなく光が反射する。私はこれを物体の鑑賞に最適な方法の発見ではないかと考えた。
広口瓶にステンレスのスプーンを突っ込んでマヨネーズを掬い取り、朝食用のパン皿に大盛りに盛った。「調味料はこれだけなの」とメリーが意外でもなさそうに訊いた。メリーの持ってきてくれたマヨネーズを除くと、私には塩と醤油と七味唐辛子しかなかった。メリーの求めによりそれらもテーブルに皿を出して少量ずつ盛ることになった。生野菜に七味唐辛子をかけるという発想にはどこか奇妙なところがあったが、十六本ものうち半本くらいは試みてみてもいい気がした。
最後に扇風機の風量を調節して短い準備が済んだ。天気の良い窓辺で大量のきゅうりを挟んでメリーと座ると、貧乏か贅沢か分からなかった。時刻は午後二時半を回っていた。私もメリーもとても空腹で、可笑しいほどだった。
「いただきます」と、私から言ってきゅうりを一本取った。まず両端のへたを前歯でかじり取って捨て、上からマヨネーズを垂らしてからかじりつく。
理想的な弾力が歯に応えた。ポキンという心地よい音とともに実が割れた。清潔な感じのする冷水分が口中に浸み出した。きゅうりを咀嚼することはその繰り返しだった。新鮮なきゅうりはいくら細かく歯に砕かれても、その欠片の一つ一つが素晴らしい弾力を保ち続け、噛む楽しみを失わせなかった。ポキン、ポキンという快音も噛むたびに小さく別れ、広がりながら重なり合い、私の頭に響き続けた。
メリーのマヨネーズも出来が良かった。市販品よりも柔らかく酢の役割が強調されているようだったが、この酢はメリーが一生懸命褒めている外国産のワインビネガーで、酸味に控えめで上品なところがある。一口で直感したことだったが、私にはこのマヨネーズ以外、テーブルに並べられた調味料は他に必要なかった。
私が「美味しいよ」と言ったのを聞いて、メリーも同じようにへたをかじり取り、マヨネーズをかけ、正面の私を遅れて映す鏡のようになって食べ始めた。
おそらく、そのたてる音も姿と同じように似ていたに違いなかった。くわえ込まれたきゅうりはやはりポキンと鳴って折れた。静かな室内で、少し離れた位置からでもそれははっきりした音だった。不思議なことに私は同じようにきゅうりを片手に持っていながら、それを見て「美味しそうだな」と思っていた。
メリーと歩調を合わせるように二口目をかじり、改めてマヨネーズとの相性の良さを確認した。おそらく二本目も三本目もこれと同じ食感と味があれば十分満足できるに違いなかった。私は熱中するように最初のきゅうりを平らげ、休まず次の一本に手を伸ばした。目を上げるとメリーも同じだった。
私とメリーは手元のきゅうりと正面の相手の口元を一定の間隔で見比べ、何も話さず、淡々ときゅうりをかじった。その様子は互いの食欲を増進し続ける対の装置のようだった。
二本目の半ばでふと考えたことは、このきゅうりという野菜は食物の中でも非常に幻想的な存在だということだった。というのは、今しがた丸ごと一本を飲み込んだはずのきゅうりの存在が、自分の胃の中にほとんど感じられなかったからだった。つまりきゅうりに含まれているのはほとんど冷えた水分と、食べる行為のよろこばしさとだけだった。そのうえに、二本目を食べ切ったところでメリーが「これってたぶん、いつまでも飽きないんでしょうね」と言ったので、このひとときは私たち二人の間で半ばいつまでも継続可能な画面の一つとして完成されてしまった。
私は三本目のきゅうりに手を伸ばす前にほっと息をついて、それを想像してみた。私たちはこれからずっとこのテーブルに向かいあって座り、朝も夕もゆっくりと時間をかけてきゅうりをかじる。会話にも、窓の外の季節にも変化はないが、本能に訴えるようなきゅうりの食感があるので退屈はしない。夜になれば眠り、朝になれば駅前へ行きまたきゅうりを持ち帰る。無限であり無に近い食べ物を体に入れ続けているうち、私たち自身も水や空気や光だけの存在になり、最低限保たれてきた外身の形や色も、いつかマヨネーズが尽きたとき消えてしまう。
そうした想像上の絵は、見かけは現状と全く変わりがなかったので、私はいつまでもそこから我にかえることができなかった。あるいは、今私が見た絵は想像ではなかったのかもしれなかった。
ところへ、メリーが席を立ち上がって「今すぐ熱い麦茶が飲みたい」と言った。私もそれに頷いて台所へ茶缶を取りに行った。言われてみれば、食卓に飲み物がないまま落ち着いていられた自分が不思議だった。
熱い麦茶とは、きゅうりを楽しむために必要な最後のものだった。きゅうりは食べ続けるうちにだんだんと体を冷やしてしまう。また、きゅうりには無数の維管束があるため、何度も咀嚼しているうちに口内にそれが吸い付くような感触を覚えるようになる。こうした不都合を埋め合わせる意味で熱い麦茶を淹れなければならない。
缶の蓋を取ってみると、茶葉は豊富に残っていた。私がそれを急須に準備する間にメリーは湯沸かし器を作動させた。まもなく白い湯気が湯沸かし器の注ぎ口から立ち上る。
「それにしても」とメリーが言った。「どうしてこんな風になっちゃったのよ」
私は「自転車が」と言い、しかしその先を続けなかった。ふと目をやった窓の外に白い入道雲がぴたりと静止してそびえ立っているのが見えて、もうあの自転車が自分に必要なくなったことを感じたのだった。
私は空気中を浮遊してあの入道雲まで泳いでいくことを思った。それは残りのきゅうりを取り込んで身体を幻想と置換することで可能となるのかもしれない。私の体はすでに平生より大分軽くなりつつあった。
「驚いた」と私はメリーより自分に向けて言った。「これじゃあ、人間ときゅうりと、どちらが食べられてるんだか分からない」
私は窓の光に半透明の左手をかざして見ながら、メリーの淹れてくれる熱い麦茶に口をつけた。
その年の夏は予定外の出費が続いた。帰るつもりのなかった東京へ訳有って帰った。秘封倶楽部の方は相変わらずメリーの霊感に引きずられて四日間も旅行へ出ることになった。既に生活費を限度いっぱいまで切り詰めようとしていたところへ、乗っていた自転車の前後輪が二日立て続けにパンクする不運さえ重なり、少ない手持ちから修理代を支払うと私はほとんど身動きが取れなくなってしまった。
もっとも、その時点では財布の中にはまだ三千円が残っていたので、次の収入が得られるまで残り一週間を乗りきるのに楽観する余地は残っていたのだが、タイヤ交換のついでにぐらついているサドルの再固定を頼んだのが良くなかった。店員の若い男はサドルのねじをほんの一二周ほど締め込むと、カウンターの向こうへ回って「工賃六百円いただきます」と言うのだった。さすがにこれには抗議したい気がしたが、その店員の待ち構えるような目と向き合うと、私の試みようとする抗議などはこの店では何年も前から検討され、退ける準備を持たれているに違いないことが思われて、ついに何も言うことができなかった。これで手持ちは二千円余りとなる。
結局、そうして修理された自転車が私に用い得る唯一の移動手段として取り戻された。しかし連日して二回ものパンク事故に見舞われた直後では、これはいかにも頼りない乗り物に思える。これに乗って何らかの日雇いアルバイトへ足を伸ばそうにも、仮に路上でチェーンでも切れてしまえばそれこそ身動きが取れなくなるという気がするのだった。
以後二日のうちは、自宅と図書館を自転車で往復しながら時計ばかり見て過ごしていた。できるだけ余計な事件に会わないよう自身の習慣を単純化して時間を稼ぎたいというのがこの間の私の考えだったが、そんな守勢的な生活も三日目の昼に食料の備蓄が尽きてしまうといよいよ維持できなくなった。
迫られている決断は、何を食べて何円を残すかという、なんとも取り返しのつけられないものだった。いざとなれば一日か一日半、断食に趣味の幅を拡げる奥の手もあるが、暑気の厳しい日々のことなので、体調を悪くして結局医療費までかかるような危険は避けたかった。
私が下宿で扇風機に向かって頭を悩ませていると、まるで呼んだかのようにメリーが訪ねてきた。この訪問は事前に連絡も無い突然のことだったので少々驚かされたが、訳を訊くと貧窮している私を心配して来てくれたと言う。このときはメリーの唐突さがいつになくありがたく感じられた。
しかし、「これあげる」とメリーから差し出された紙袋の中身を見た私は、もう一度訳を訊ねなければならなくなった。
メリーの持って来てくれたものは、大きな広口瓶に入った半キロもありそうなマヨネーズだった。メリーはどことなく得意げで「自家製なのよ」と付け加えたが、反対に「なんでマヨネーズなの」と訊く私の顔には失望した様子が隠しきれず表れていただろう。家にはマヨネーズを付けるための食材が既に無かった。
蒸し暑い玄関でずっしりと指に食い込む紙袋を私に持たせたまま、メリーは涼しい顔をして、無人販売所のことを話しはじめた。
それはここから最寄りの阪急駅前に設置されてあるもので、普段から野菜や果物をさして安いわけでもない値段で陳列しているらしい。その中で一点奇妙なことは、大量のきゅうりが全くの無料で置かれているという点だった。メリーによれば、きゅうりは傷も変形も無い完全な状態で、持ち帰るのに何の資格も対価も要らない。持ち帰るきゅうりの本数や重量にさえ制限は無い。メリー自身、一度好奇心に動かされて一本持ち帰ってサラダにしてみたが、それはやはり見た目通りの平凡なきゅうりだったという。
私は今度こそメリーに感謝するべきだった。実を言うとその話を聞きながら私の空腹は何度か切ない音を鳴らしていたのだった。
がらりとした冷蔵庫の空棚にマヨネーズの瓶を寝かせて置き、代わりに軽くなった紙袋を提げて私は下宿を出た。今年は例年以上に湿気の多い夏で、特に日向を歩くときは温水の中をかき分けて進んでいるような気がする。無人販売所があるという駅はメリーがうちを訪ねてくる際の乗降駅なので、案内を頼んで日陰の多そうな道を選んでもらう。こうした注文には驚くほど勘の鋭い彼女のおかげで、駅まで五分ほどの距離をほとんど建物の壁に沿って涼しく歩き通すことができた。
件の無人販売所は見つけるのに苦労なかった。駅改札口の通りに扉を透明にしたコインロッカーのような三段四列の装置が堂々と置かれ、しかしあえて目立とうという意気も感じさせない素朴さで、往来の人々に無視されている。
扉を透かして見た箱の中身は半分が空だった。空でない半分の箱には、にんじん、大根などもあるが、ほとんどトマトばかりだった。
「近隣の家庭菜園の野菜みたいね」と私は推測した。「安全だといいけど」というメリーの心配は今更遅すぎるようだと思った。
目当てのきゅうりは中段右端の箱に入っていた。扉の向こうに二十本あまりも積み重なり、表にはあっさりした手書きの文字で「きゅうり0円」とある。きゅうりとはいえ食料品を無料で配布しているのに、やはり隠すでもなく、目立たせるでもない様子だった。
果たして、扉にロックはかかっていなかった。私が今月を生き延びるために、あとはその開けた箱の中からきゅうりを好きなだけつかみ出し、メリーの広げ持ってくれている紙袋へ落とすだけでよかった。
きゅうりはどれも冷蔵のおかげで川底の石のように冷え冷えとしていた。屋外の光で見たときそれは目が覚めるほど綺麗な緑色だった。「なんだか宝石強盗みたいね」とメリーが言った。全くそうだと思った。火のそばにいるような暑さの真昼に、こんな人通りの多い改札前で綺麗な食べ物をさらっていく私たちは後ろめたさを覚えるのが当然という気がした。
紙袋のふちまでいっぱいに詰めると、きゅうりは十六本になった。箱にはなお十本が残った。
メリーから紙袋を受け取ったとき、私はその案外な重さに何か言い難く納得できない気分を味わった。今さっきまでどう身を削っても手に入らなかったはずのものが、ここには両手でなければ提げられないほどある。しかも空中から取り出したのと同じ簡単さで獲得された。それは大きな矛盾に自分でも不審なまま身を任せている落ち着かなさだった。
とは言え、そうした感情はあくまで嬉しい戸惑いと苦笑の下でほんの一瞬通り過ぎたものであって、そのために自身の行動をわずかでもためらわせるものではなかった。要するに私はただ自分を幸運だと思いながら帰宅したのだった。メリーはなおさら呑気だった。
「私のおかげよ。感謝してね」
下宿に帰ってすぐ、大きめのボウルに氷水を溜めてテーブルの中央に出した。持ち帰ったきゅうりのうち半分を洗ってからその中に沈めると、空気より透き通った液体を介して緑色の野菜にくまなく光が反射する。私はこれを物体の鑑賞に最適な方法の発見ではないかと考えた。
広口瓶にステンレスのスプーンを突っ込んでマヨネーズを掬い取り、朝食用のパン皿に大盛りに盛った。「調味料はこれだけなの」とメリーが意外でもなさそうに訊いた。メリーの持ってきてくれたマヨネーズを除くと、私には塩と醤油と七味唐辛子しかなかった。メリーの求めによりそれらもテーブルに皿を出して少量ずつ盛ることになった。生野菜に七味唐辛子をかけるという発想にはどこか奇妙なところがあったが、十六本ものうち半本くらいは試みてみてもいい気がした。
最後に扇風機の風量を調節して短い準備が済んだ。天気の良い窓辺で大量のきゅうりを挟んでメリーと座ると、貧乏か贅沢か分からなかった。時刻は午後二時半を回っていた。私もメリーもとても空腹で、可笑しいほどだった。
「いただきます」と、私から言ってきゅうりを一本取った。まず両端のへたを前歯でかじり取って捨て、上からマヨネーズを垂らしてからかじりつく。
理想的な弾力が歯に応えた。ポキンという心地よい音とともに実が割れた。清潔な感じのする冷水分が口中に浸み出した。きゅうりを咀嚼することはその繰り返しだった。新鮮なきゅうりはいくら細かく歯に砕かれても、その欠片の一つ一つが素晴らしい弾力を保ち続け、噛む楽しみを失わせなかった。ポキン、ポキンという快音も噛むたびに小さく別れ、広がりながら重なり合い、私の頭に響き続けた。
メリーのマヨネーズも出来が良かった。市販品よりも柔らかく酢の役割が強調されているようだったが、この酢はメリーが一生懸命褒めている外国産のワインビネガーで、酸味に控えめで上品なところがある。一口で直感したことだったが、私にはこのマヨネーズ以外、テーブルに並べられた調味料は他に必要なかった。
私が「美味しいよ」と言ったのを聞いて、メリーも同じようにへたをかじり取り、マヨネーズをかけ、正面の私を遅れて映す鏡のようになって食べ始めた。
おそらく、そのたてる音も姿と同じように似ていたに違いなかった。くわえ込まれたきゅうりはやはりポキンと鳴って折れた。静かな室内で、少し離れた位置からでもそれははっきりした音だった。不思議なことに私は同じようにきゅうりを片手に持っていながら、それを見て「美味しそうだな」と思っていた。
メリーと歩調を合わせるように二口目をかじり、改めてマヨネーズとの相性の良さを確認した。おそらく二本目も三本目もこれと同じ食感と味があれば十分満足できるに違いなかった。私は熱中するように最初のきゅうりを平らげ、休まず次の一本に手を伸ばした。目を上げるとメリーも同じだった。
私とメリーは手元のきゅうりと正面の相手の口元を一定の間隔で見比べ、何も話さず、淡々ときゅうりをかじった。その様子は互いの食欲を増進し続ける対の装置のようだった。
二本目の半ばでふと考えたことは、このきゅうりという野菜は食物の中でも非常に幻想的な存在だということだった。というのは、今しがた丸ごと一本を飲み込んだはずのきゅうりの存在が、自分の胃の中にほとんど感じられなかったからだった。つまりきゅうりに含まれているのはほとんど冷えた水分と、食べる行為のよろこばしさとだけだった。そのうえに、二本目を食べ切ったところでメリーが「これってたぶん、いつまでも飽きないんでしょうね」と言ったので、このひとときは私たち二人の間で半ばいつまでも継続可能な画面の一つとして完成されてしまった。
私は三本目のきゅうりに手を伸ばす前にほっと息をついて、それを想像してみた。私たちはこれからずっとこのテーブルに向かいあって座り、朝も夕もゆっくりと時間をかけてきゅうりをかじる。会話にも、窓の外の季節にも変化はないが、本能に訴えるようなきゅうりの食感があるので退屈はしない。夜になれば眠り、朝になれば駅前へ行きまたきゅうりを持ち帰る。無限であり無に近い食べ物を体に入れ続けているうち、私たち自身も水や空気や光だけの存在になり、最低限保たれてきた外身の形や色も、いつかマヨネーズが尽きたとき消えてしまう。
そうした想像上の絵は、見かけは現状と全く変わりがなかったので、私はいつまでもそこから我にかえることができなかった。あるいは、今私が見た絵は想像ではなかったのかもしれなかった。
ところへ、メリーが席を立ち上がって「今すぐ熱い麦茶が飲みたい」と言った。私もそれに頷いて台所へ茶缶を取りに行った。言われてみれば、食卓に飲み物がないまま落ち着いていられた自分が不思議だった。
熱い麦茶とは、きゅうりを楽しむために必要な最後のものだった。きゅうりは食べ続けるうちにだんだんと体を冷やしてしまう。また、きゅうりには無数の維管束があるため、何度も咀嚼しているうちに口内にそれが吸い付くような感触を覚えるようになる。こうした不都合を埋め合わせる意味で熱い麦茶を淹れなければならない。
缶の蓋を取ってみると、茶葉は豊富に残っていた。私がそれを急須に準備する間にメリーは湯沸かし器を作動させた。まもなく白い湯気が湯沸かし器の注ぎ口から立ち上る。
「それにしても」とメリーが言った。「どうしてこんな風になっちゃったのよ」
私は「自転車が」と言い、しかしその先を続けなかった。ふと目をやった窓の外に白い入道雲がぴたりと静止してそびえ立っているのが見えて、もうあの自転車が自分に必要なくなったことを感じたのだった。
私は空気中を浮遊してあの入道雲まで泳いでいくことを思った。それは残りのきゅうりを取り込んで身体を幻想と置換することで可能となるのかもしれない。私の体はすでに平生より大分軽くなりつつあった。
「驚いた」と私はメリーより自分に向けて言った。「これじゃあ、人間ときゅうりと、どちらが食べられてるんだか分からない」
私は窓の光に半透明の左手をかざして見ながら、メリーの淹れてくれる熱い麦茶に口をつけた。
まずモチーフの発見がすごいです。大げさに用意したものでなく、日常のどこか片隅にあるものが取り上げられている。しかし、それに対する観察と鑑賞の仕方、その粒度の細かさに驚かされます。ここまで見ることができるのかと
なによりも日々の生活から少し足を伸ばした先に見つけたものが、その温度感のままで少しづつ、奇妙な状況へのきっかけになる。気心の知れた居心地の良さと先の知れないスリリングさが、ひとつの違和感のもとに同居しています。
また、装飾の少ない、簡素ながら平明達意な文体がこのような題材にはとてもふさわしいように感じられました。
読者も彼女らの共犯になったようです…
向き合ってきゅうりポリポリしてる二人をずっと眺めてたい
凄まじいリアルさと生活感、そしてそんな世界観の中でもしっかり不思議へと誘ってくれる文章がもう本当にすごいです
きゅうりが『安い』ではなく『無料』というところが素晴らしく不気味でよかったです
きゅうりを食べているだけで非日常感があるのがすごいです
魅力的な文章でした、素晴らしかったです